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知性と自由意思の使い方
:「夢見る人類方式」から「宇宙人方式」へ

目次

 

人類は「なぜ?」を問う

「平和が大事と分かっているのに、なぜ戦争を止められないのか。」

「なぜあの人がこんな風に死ななければならなかったのか。」

「なぜ私はこんな酷い目に遭わなければならないのか。」

「政治はなぜ何もしてくれないのか。」・・

「なぜ」で始まるこんな疑問を、皆さんは持ったことがありますか。

私はあります。

というか、社会に関心があって、大学の先生になったくらいなので、以前はいつも「なぜこうなのか」「どうしたらよくなるのか」と考えていました。

でも、いまは、世の中で起きるどんなことについても、「なぜ」と考えることはなくなりました。

なぜかって?(笑)

「なぜ」と考えて、答えを見つけても、社会の「問題」が解消されることはない。「なぜ」と考えても、とりたてて世の中がよくなることはないと気づいたからです。

「なぜA」と「なぜB」

皆さんは、自然現象について「なぜ」と考えることがあると思います。

ゲリラ豪雨にあって驚いたら「なぜ?」と考え、インターネットで検索して、仕組みを調べるかもしれません。地震とか火山について調べたことがある人もいるでしょう。

同じ「なぜ?」でも、世の中に関する「なぜ?」と、自然現象に関する「なぜ?」は、意味が違うことが多いと思います。

世の中に関して「なぜ?」を問うとき、私たちが知りたいのは「誰が悪いのか」「どこに間違いがあったのか」です。目的は、「誰か」を断罪し「何か」を改善することで、その現象をなくすこと。「二度と起こしてはならない」とよく言われます。

こちらの「なぜ?」を「なぜA」と呼びましょう。

一方、自然現象について「なぜ?」と問うとき、私たちが知りたいと思っているのは、事実です。どのような仕組みで何が起こっているのか知った上で、被害を小さくする方法を考えたり、予知の方法を考えたりする人もいるでしょう。しかし、「火山が二度と噴火しないように」と考え、「地震をなくす方法」を問うているわけではない。

こちらの「なぜ?」は「なぜB」と呼びます。

私たちはなぜ、自然現象に対しては「なぜA」ではなく「なぜB」を問うのでしょうか(この文の「なぜ」はAとBのどちらでしょう)。

それは、私たち人間には自然を思い通りに操作する力がないということを分かっているからだと思います。

「私たちにできることは、事実を知って、対処方法を工夫することだけである。」

その認識が、私たちを「なぜA」ではなく「B」に向かわせるのです。

* * *

なので、神様だったら違うかもしれません。

この世界を創造した神様が、自然界が設計通りに動いていないことに気づいたとします。

「キーッ」と怒った神様は、「なぜこうなの?」(「A」です)と考えて、解決策を試してみるでしょう。

私だったら、そうですね。

鍋でおでんを煮ているときに、味見をして、おいしくなかったら、こうします。

「おいしくない!」と怒った私は、「なぜ?」(「A」です)と考え、しょうゆを足したり、みりんを足したり、火から下ろして、味がしみるのを待ったりするでしょう。

宇宙船の窓から眺める

今度は、適当な移住先を探して地球にやってきた宇宙人のつもりで、人間社会を観察してみて下さい。

過去から現在に至る人間社会の情報を収集し、人類のふるまいを興味深く眺めます。

人間にはいろいろな面があることが見えます。

人々の多くが、近隣の人に礼儀正しくふるまい、友人や家族と仲良く暮らす一方で、どの地域でも、たえず、殺人、事故、窃盗などが起こっている。努力してたくさんの富を生産する一方で、貧しくて住むところや食べるものにも事欠く人がいて、環境破壊も深刻になっている。

大きな災害が起これば、助け合って窮状を凌ぐ人たちがいる。

一方で、いつも、世界の何箇所かで、戦争や集団同士の殺し合いが発生しているのも目につくでしょう。

殺人、戦争、貧困、差別、環境破壊。そういうものが、宇宙人である彼らにとってマイナスの価値を持つものであったとしても、おそらく、彼らは「なぜA」を問うことはないと思います。

私たちが歴史として認識している約6000年の人類の歴史の中に、殺人や窃盗、死亡事故が起こらない日は1日もなく、戦争や大規模な虐殺が発生しなかった世紀もありません。

そのデータを見れば、それらの事象が「なぜA」の対象でないことは明らかです。

彼らは「なるほど、人間とはそのような生物なのだな」と理解し、「なぜB」とともに人間社会の調査研究を続け、共存の可能性を探るでしょう。

宇宙人は人類を軽蔑するか

一つ、考えていただきたいことがあります。

宇宙人の人たちは、人間がしばしば殺し合う生き物であることを、「地球における人類の生態に関する報告書」に明記するでしょう。

皆さんの中には、それを「恥ずかしい」と思う人がいるかもしれません。しかし「しばしば殺し合う」という事実を知ったことで、彼らは人類を軽蔑するでしょうか。

そうはならないんじゃないか、と私は思います。

人類が自然に対して敬意を抱き、動植物の営みに関心を抱くのと同様に、彼らも自然の一部である人類の営みに対して、大いなる関心と敬意を同時に抱くはずです。

戦争や殺戮は痛ましい。しかし、だからこそ、そのような仕組みを組み込んだ人類のシステムに、いっそう関心を抱くでしょう。

彼らは「なぜA」を問うて人間を断罪する代わりに、「なぜB」によってその仕組みを知ろうとします。彼らは、すべての人間の存在を認め、そのあり方を肯定し、その上で、共存の方法を探るのです。

なぜそんなことが分かるかって?

それは、あるときから、私の脳は、この宇宙人の脳になってしまったからです。

乗っ取られた?

人類は夢を見ている

私たちは、世の中の「問題」に接すると、つい「なぜA」を問うてしまいます。

「なぜ?」と言いながら、非難する相手を探し、修正するべき過ちを探そうとする。

それは、私たちが、自然をコントロールすることはできなくても、社会は思い通りに変えられると信じているからだと思います。

人間には知性があり、自由意思がある。

よく学び、正しい心で努力をすれば、この世を天国(争いがなく、飢餓がなく、病がなく、不慮の事故で人が死なない世界)に近づけることができるはずである。

文明誕生以来の人類の夢だと思いますが、近代になって拍車がかかりました。

もちろん、それは事実ではありません。世の中はおでんの鍋ではなく、私たちは神ではない。人間も、人間の社会もまた自然界の一部、神の被造物であり、人間が「こうしよう」と思えばこうなり、「ああするべきだ」といえばああなる。そのようなものではないからです。

それでも、多くの人は「なぜA」を問うことをやめない。

それは、「なぜA」をやめることは「あきらめる」ことだと考えられているからではないかと思います。

せっかく人間として、知性と自由意思をもって生まれたのだから、この世界をよりよい場所にするという夢をあきらめたくない。

あきらめたらそれで終わりではないか。

その気持ちは分かります。

でも、現実と地続きではない夢と心中するなんて、さすがにバカらしくはないですか。

知性と自由意思の使い方

ということで、「あきらめる」のとは違う、知性と自由意思の新しい(?)使い方を提案させていただきます。

宇宙人方式。

そうです、さっき出てきた宇宙人と同じやり方で、知性と自由意思を使うのです。

なぜA」を問うて「悪」を指弾する代わりに、ひたすら観察をする。すべての人間や集団や価値観の存在を認め、その在り方を否定せず、共存の方法を探る。そういう構えを取るのです。

*なんか抽象的だなと思う方は、「悪」の箇所に、何でもよいので、文句がある対象物を入れてみて下さい。「ロシア」「アメリカ」「日本」「自民党」「立憲民主党」「統一教会」「テロリスト」「バカ」「差別主義者」
「感染症専門家」「反ワクチン」「マスコミ」「政治家」「資本主義」「職場」「学校」「家族」「自分の生育環境」‥‥ もちろん「○○」(特定の人名)でも「自分」でもOKです。

それでは世の中はよくならない。そうお思いですか?

私は、争い、事故、病、差別、そういったものがなくなることはないと思いますが、なるべく多くの人が冷静に対処することで、被害を軽減することはできると思います。

「夢見る人類方式」と宇宙人方式。どちらが「冷静な対処」に役立つかは、いうまでもありません。

「夢見る人類方式」の主な道具である「なぜA」は、ぶっちゃけ、「誰かが悪い」「何かのせいだ」、裏を返すと「それを排除すれば正義に近づける」という魔法の処方箋を引き出すための問いです。

戦争が起き、犯罪が起き、病が流行り、差別が発生したときに、「なぜA」を問うことは、憎悪と不安を増幅させ、社会の混乱を深めることにしかならない。責任を転嫁させ、対策を取り逃がすことにしかならない。実際、そうやって、社会は混迷を深めているのではないでしょうか。

* * *

もう一つ、宇宙人方式をお勧めする理由があります。

しょっちゅう「なぜA」が浮かんできてしまうようなことを、地道に「なぜB」に置き換えながら、観察と探究を続けてみて下さい。

そうすると、時間はかかっても、いつか必ず、「あ、そうなのか」という時が来ます。「なるほど、そういう仕組みなのか‥」と。

そこまで来たら、あなたの勝ち(?)なのです。

他人を変えようとしても変えられないし、社会を変えようとしても変えられない。自分だって、そうそう思い通りにはなりません。

しかし、「それ」が何なのかが分かり、自分なりに納得できれば、自分の行動に迷いはなくなります。

夢の中で理想を語り続ける代わりに、文句を言って手綱を「世の中」に預けてしまう代わりに、「分かった。じゃあ、自分はこうしよう」と、行動することができるのです。

何度も繰り返しますが、人類の社会から、戦争がなくなることも、殺人がなくなることも、病がなくなることも、同調圧力がなくなることも、あなたにとって理不尽に思える様々な事象がなくなることもありません。

しかし、「宇宙人の目」で生きてさえいれば、どんな状況も、私たちが自分の人生を生きる妨げにはならない。

怒りに震えることも、恐怖や憎しみ、漠然とした不安に囚われることもなく、驚きと知的興味に開かれた科学者の目で真っ直ぐに世界を捉え、自分がやるべきことを、自分で決めていくことができる。

社会に対して「宇宙人の目」を持つと、人生は圧倒的に自由になります。

そうやって生きる人の数が増えていけば、世の中はそれに合わせて、勝手に変化していくことでしょう。

その先には、もしかしたら、世界を漂う恐怖や憎悪、不安の総量が減って、争いが最小限に抑えられた世界がくるかもしれない。そうも思います。

* * *

いかがでしょうか。

私が大望を抱いていることは認めます。でも「人間が神のように賢くなってこの世を天国に変える」という夢よりは、ずっと現実的だと思うんですけど‥

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独自研究のすすめ

 

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自然界に善悪はない

写真は夾竹桃(キョウチクトウ)。

私は広島に来るまで見たことも聞いたこともなかったが、広島ではどこにでも生えている。

「広島市の花」なのだ。

東京で見かけなかったのは、毒性が強いせいかもしれない。枝を串焼きの串に使っただけで死亡した事例があるほどで、wikipediaによると

花、葉、枝、根、果実すべての部分と、周辺の土壌にも毒性がある。生木を燃やした煙も有毒であり、毒成分は強心配糖体のオレアンドリンなど(#薬用も参照)。腐葉土にしても1年間は毒性が残るため、腐葉土にする際にも注意を要する。‥‥

なぜそれほど毒性の強いものが「広島市の花」なのか。
市のウェブサイトにはこうある。

原爆により75年間草木も生えないといわれた焦土にいち早く咲いた花で、当時復興に懸命の努力をしていた市民に希望と力を与えてくれました。

放射能汚染にも負けずに咲き誇るその強さと、毒性の高さは関係があるのだろう。自然界には善も悪もないということを思い出させてくれるよい話だと思う。

人間が作った「正しさ」

そう、自然界には善も悪もない。人間社会も自然界の一部なのであるから、やはり、善も悪もないはずである。それなのに、善と悪があり、正義と不正義があるような気がする理由は簡単で、人間がそれを作っているからである。

「正しさ」は、約7万年前に生まれた(多分)。人間が「社会」の中で生きるようになったとき、その社会を統制するために「正しさ」を作ったのだ。

「正しさ」を作ったといえばいかにも不遜な感じだが、カタツムリは殻がなければ生きられないのと同じで1本当にそうかと思って調べてみた。wikipediaにはこうある。「殻と体は別物ではなく、殻は体の器官の一つであり、中に内臓がある。よって、カタツムリが殻から出たらナメクジになるということはなく、殻が大きく破損したり、無理に取ったりした場合には死んでしまう。他の巻貝も同じである。」人間は社会を作らなければ生きられない。人間がそのような生物として存在している以上、社会に奉仕する「正しさ」にも存在意義はあり、それをほどほどに使って社会を整えることは、自然界の法則を侵すことではないだろう。

とはいえ「正しさ」が人間が(脳内で)作り出した便宜であることは、よくよく認識する必要がある。

もし宇宙に「正しさ」というものがあるとすれば、それを司るものは神である。

人間が、架空の「正しさ」を信じ、自ら神であるようにふるまえば、人間は宇宙(自然界)にとって有害な存在となり、やがて淘汰されていくだろう。

学問と「正しさ」

近代以前の世界で「正しさ」を作る最大の権威は宗教であり伝統であったが、近代以降は「学問」がそれを担うようになった。

学問が用いる手法は、近代以前の宗教と比べると、科学的であったり、(議論を重視するという意味で)民主的であったりする。しかし、「正しさを作る」という機能においては、宗教と一ミリも違わない。一ミリもだ。

「いや、少なくとも自然科学は、真実を探究しているのであって、「正しさを作る」などということはしていない」という方がいるだろう(いてほしい)。

半分賛成、半分反対である。

真実というものはある。生物のこれこれの形質がゲノムによって決まっているとか、ゲノム配列がこれこれだとかいうことは真実に属することであろうし、その他自然科学が扱っているほとんどの物事は、真実か真実でないかを問うているといえる。

しかし、自然科学は、それで満足するだろうか。

自然に関する真実の解明は、ほとんどの場合、技術開発につながっており、社会を「よく」したり、疾患や自然災害に「よりよく」対処するために用いられる。

もっとも顕著な例の一つは医学である。

医学は病気を治したり防いだり苦痛を緩和したりするための学問で、医学研究で得られた知見はすべてその目的のために役立てられることになっている。

そこにある「正しさ」は強烈である。「病は治るべきである」「病は防ぐべきである」、もっというと、「人は死ぬべきではない」。このような「正しさ」に仕える立場にあって、純粋に真実を探究するのは、ほぼ不可能だと私は思う。

自然科学は、科学的手法による真実の探究を手段として用いることで、真実とは別種の「正しさ」を作っている。「正しさ」への関与は人文科学に決して劣らないし、影響力の大きさ、そしてしばしばその自覚が皆無である点で、「正しさ構築度」はいっそう高いといえる。

・・・

私が研究者になったのは、自分がどんな世界に暮らしているのかを知りたかったからだと思う。そういう漠然とした気持ちだけがあって、何学部に入ったらいいのかとか、何を研究したらいいのかとかは全然分からなかったが、とりあえず大学に入り、研究者になった。

「世界とは何か(どんなところか)」というのは、真実を問う問いである。いろいろな切り口がありそうだし、みんなが納得する一義的な答えは決してでないであろうが、観察と吟味の積み重ねで、真実に近づくことはできる。そういう問いである。

私は学問とは「世界とは何か」という問いに取り組むことだと信じており、どの学問分野も最終的にはその問いに取り組んでいるのだと思っていた。

実際はそうじゃない、ということは入ってみて分かった。

学問の基本的な仕事は、それぞれの領域に関する「正しさ」を作り、それを責任を持って社会に提供することである。

より質の高い「正しさ」、より(人間の)役に立つ「正しさ」を目指す過程では、真実に触れ、目を瞬かせる瞬間があると思う。しかし、それは、大学に所属する研究者の本業ではない。職務に忠実な彼はすぐに我に返り、何事もなかったように、世間が求める仕事に戻るはずである。

一流の研究者とは

研究者がそのような仕事に従事する場合、人間界の「正しさ」がごく限られた意味しか持たないことを自然に理解していることが理想といえる。

社会内存在である前に宇宙内存在として生き、抑制的に「正しさ」に関わることができる人なら、その行動の全体で、「正しさ」を透過した向こう側の真実を表現できるに違いない。

自然科学の研究者であれば、この点は、一流の学者と二流以下の学者を分ける分水嶺として何となく認められているのではないかと思う。

その人柄を透かしてみたときに、学界しか見えてこない人は三流、人間の社会までしか見えてこない人もせいぜい二流、宇宙が透けて見える人が一流だ。

人間社会に対して真に透徹した目線を向ける人が、社会科学ではなく、自然科学の中からときどき出てくるように思えるのは、きちんと宇宙の中に立っている人が自然科学者には一定数いるからなのだろう。

アカデミアには難しい

人間が、架空の「正しさ」を信じ、自ら神であるようにふるまえば、人間は宇宙(自然界)にとって有害な存在となり、やがて淘汰されていくだろう。

「やがて」と書いたが、人間はもう長い間、その架空の世界で生きており、「正しさ」と真実の乖離は甚だしくなっているように思える。

宇宙(自然界)の観点から見たとき、学問に開かれている大いなる可能性は、宇宙の側に軸足を移し、人間が長年かけて作ってきた「正しさ」を解きほぐす作業に正面から取り組むことだろう。

その学問は、宗教とも旧学問とも異なり、人間を人間が思う災厄から救い出すことを約束するものではなく、人間社会における成功を約束するものでもない。人間に、人間自身を含むこの宇宙と折り合いをつけて、品よく生きる方法を教えるものとなるだろう。

しかし、そのような学問を、現在の学問制度の中で営むことができるかといえば、それは多分難しい。

近代以降の学問は、「より多くを知り(=より多くの「正しさ」を作出し)、自由で民主的で豊かな社会を構築する」という、識字化した人類が抱いた大いなる夢を体現する存在であり、この夢があってこそ、現在のアカデミアの隆盛(肥大ともいう)がある。

アカデミアが自ら率先して宇宙の側に立ち、自らが構築してきた「正しさ」を解体すること、それは例えていえば、18世紀、科学革命の衝撃に見まわれた宗教界が、自ら率先して神の不在を証明する作業に乗り出すようなものといえる。

アカデミアという権威がなくなること、そしてアカデミアが担ってきた「正しさ」の不在が露になることは、「大いなる夢」を内面化するアカデミアにとってだけでなく、虚構の「正しさ」に拠って立つ社会にとっても大変不都合なことである。

「社会の負託を受けて」学問をするアカデミアに、「自ら率先して正しさの不在を証明する」仕事を期待するのは現実的ではないだろう。

幸い(?)、アカデミアは真実を追究する存在であるという誤解が容易に解けることもないだろうし。

独自研究とは何か

そういうわけで、お勧めするのが、独自研究である。

独自研究とは何か。wikipediaに定義がある(一部抜粋)。

独自研究 (original research) とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。

なお、wikiによる「信頼できる媒体」の説明は、つぎのようなものである(一部抜粋)。

一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌です。常識的な判断として、事実の確認、法的問題の確認、文章の推敲などに多くの人が関わっていればいるほど、公表された内容は信頼できます。

Wikipediaが独自研究を排除するのは合理的である。現在の学術制度において信頼性を担保されている情報を提供するのが百科事典の役割だから。

しかし、もし、研究者が、現在の学術制度において評価されることを目指して研究を行い、査読者が歓迎し、主流の新聞や著名な出版社が喜んで出版しそうな研究を行うことを自らの使命としたらどうだろう。

学問は、既存の「正しさ」をなぞり、架空の城をいっそう煌びやかに飾り立てるだけの存在となるだろう。

「もし」と書いてはみたが、これは現実である。研究は行う前から評価が入り、査読論文の本数は研究者としての評価に大きな影響を与える。ほとんどの大学は、現在の学術制度で評価されることが確実な研究を行い、着実に成果を上げ続ける研究者を、理想と考えているだろう。

これを、学問が堕落した結果だと思う人がいるだろうが、そうではないと私は思う。制度としての学問は、最初から、「正しさ」を要求する人間社会に向けて「正しさ」を提供する仕組みとして存在し、その役割を果たし続けているだけなのだ。

大量に生産された「正しさ」のせいで、いっそう真実に近づき難くなっているということはあるにせよ。

再びそういうわけで、独自研究である。

変な言葉だ。

発表前の段階ではすべての研究はoriginalであるはずなのだから(wikiの定義でもそうなる)。

しかし、学問という制度の中では、通常行われる研究はoriginalではない。そのことを示すために、この言葉を選んでいる。

研究としてモノになりそうか、学術コミュニティが認めてくれそうか、先生が評価してくれそうか。世の中に受けそうか、これで食べていけそうか。

そういった社会内計算と無関係のところで、自分の興味だけを頼りに謎に取り組む。

制度としての学問が大いに発達した現代だからこそ、このようなやり方でなければ、真実に近づくことができなくなっている。

「逆説」といいたくなるけど、おそらくそうではない。
単純に、学問とは本来そういうものなのだ。

これは「学問のすすめ」ではありません

念のために言っておくと、人間界の「正しさ」を透過し、真実に近づくために、学問が必要だというわけでは決してない。

「正しさ」に真っ先に(進んで?)騙されるものは知性であり、中途半端な学問は、大抵の場合は「逆効果」となるはずである。

しかし、研究者マインドをもって生まれてきた人間にとって、今ほど面白い状況はなかなかないし、これほどやりがいのある研究課題はないだろう。

何しろ、学問が長年かけて積み重ねてきた「正しさ」が作り物であったことが半ば露わになり、真実がうっすら透けて見えてきているのだから。

架空の世界に住み続けて「正しさ」を練り上げ、世を嘆いて(そうなりますよね?)生きていくのか、それとも、敢然と「正しさ」を解きほぐし、宇宙(自然界)の側に主軸を置いて、真実を見据えて生きていくのか。

どちらが楽しいかははっきりしていると思う。

以上、世間で言われていることや、学問が教えることに違和感を持ち、「本当のことを知る方法はないのかなー」と思っている人に届いたらいいと思って、書きました。

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    本当にそうかと思って調べてみた。wikipediaにはこうある。「殻と体は別物ではなく、殻は体の器官の一つであり、中に内臓がある。よって、カタツムリが殻から出たらナメクジになるということはなく、殻が大きく破損したり、無理に取ったりした場合には死んでしまう。他の巻貝も同じである。」