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基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ④ ドル覇権の現在

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はじめに

ドル覇権は今、崩壊の道を歩んでいる。毎分、毎秒、崩壊に近づいている。多分そうだと私は思っている。

過去にも、ポンド覇権の崩壊、覇権国の交代、バブルがはじけたとか、大不況とか、そういった事象が発生したことはある。しかし、ドル覇権の崩壊は、少なくともある程度の長いスパンで測定する限り、そうした事象とは比較にならない、重大な事件になると思う。

まず、類例のないほど巨大化した金融システムがクラッシュすることで、経済が大混乱することが予想されるが、それだけではない。

ドル覇権の崩壊は、短く見積もって200年、長く見積もれば400年近く続いた西洋中心の秩序が崩れ、おそらくは多極化した、別種の世界の誕生を祝う事件となる。

それは、自然現象にたとえれば、超新星爆発とか(?)、そのくらいには、珍しい事象といえる。

せっかく、この稀有な現場に居合わせるのなら、よく見て、感じて、存分に味わいたい。・・そう思いませんか?

この連載は(①-④)、何より自分自身が事情を知りたくて書いたのだが、同時代を生きる人たちが、変化をおそれず、これからの激動を「ワクワク」気味に迎えるためのガイドにもなっていると思う。

ぜひ、知っておいていただきたいことは、2つ。

まず第一に、「不正な秩序」に堕してしまったこのシステムの崩壊は、世界中のほぼ全ての人々にとって、ある種の隷属状態からの解放であること。

一方で、第二に、このシステムの誕生から崩壊に至る一連の過程を駆動したのは、決して「巨悪の策謀」などではなく、結構つまらない・・経済力を通じて世界の中心に立った一群の人々が、ひたすら目先の自己利益だけを考え、おかねをその道具として利用した。周囲は周囲で、ちょっとおかしいと思いつつ、なすすべもなく巻き込まれていった。そんなふうにしてもたらされたものらしい、ということ。

難儀なことはいろいろ起きると思う。でも、覚えておいていただきたい。新しい何かが生まれ出るためには、古い何かが壊れ、滅びてゆかなければならない。それだけのことなのだ。

今回が最終回。ここまでの流れを整理した上で、現在起きていることについて若干の分析と感想を述べ、まとめとさせていただきたい。

ここまでの流れ

【ドル覇権の成立】

  • アメリカはWW2に参戦し念願の通貨覇権を手に入れた。
  • 基軸通貨特権(通貨発行特権)を得て調子に乗ったアメリカはドルをバラまきすぎて通貨システム(金=ドル本位制・固定相場制)を崩壊させた。
  • ところがなんと、金兌換義務を放棄したことで、通貨発行特権は量的制限のない「スーパー通貨発行特権」にバージョンアップしていた。
  • アメリカの支出は増加の一途をたどり、巨額の経常赤字が常態化、ドルの信用は低下した。

【ドル覇権に組み込まれる西側諸国】

  • 世界経済が混乱に陥るのをおそれた西側諸国(ヨーロッパ主要国と日本。以下同じ)は、アメリカの経常赤字のファイナンス(補填)に協力するとともに、率先してドル安定化のための協調体制を築き、「ドル覇権」の一角を担うようになった。

【おかねの増えすぎと金融化】

  • アメリカの「バラまき」や後始末のための為替介入によって世界に流通するおかねの総量は増えに増え、低成長期に入った西側諸国にスタグフレーション(物価高+不況)をもたらしたが、西側諸国は「おかねをぐるぐる回す」(金融)ことでこれに対処した。
  • 経済における金融部門の極大化でおかねの総量はさらに増え、①国内における著しい経済格差(格差社会)、②気まぐれな投資を通じた途上国の搾取(成長阻害)と環境破壊をもたらした。
  • ②によりグローバル・サウス+BRICSのドル覇権(+IMF)への反感は高まり、信頼は低下した。

【グローバル・サウス+BRICSの反感】

  • 気まぐれな投資による債務危機IMFの構造調整プログラムによって緊縮を強いられ、社会・経済を混乱させられたグローバル・サウス+BRICS諸国の間では、ドル覇権への反感が高まった。
  • アメリカによる恣意的な経済制裁の多用も、ドル覇権への反感を増幅した。

【ドル覇権を守るための戦争】

  • アメリカ経済が金融に活路を見出したことで、アメリカにとってドル覇権の確保が死活的に重要になった。
  • 以後、アメリカは、ドル覇権を「利用して」ではなく、ドル覇権を「守るため」戦争を行うようになった。

【グローバル・サウス VS ドル覇権】

  • 2008年の金融危機後、西側諸国の結束は強化され、ウクライナ戦争を通じて「グローバル・サウス VS ドル覇権(西側諸国)」の対立が顕在化した。

ガザ危機ー深まる対立

ウクライナ戦争について、西側が「反ロシア」で直ちに結束したのに対し、グローバル・サウスが比較的冷めた見方をしていたことはご存じだろう。「なんで?」と思った人もいるかもしれない。

NHKなんかでは最近急に発生した現象のように扱われているが、この対立の根は深い。「冷めていた」のは、彼らが根本的に、アメリカと西側諸国をそれほど信用していないことの表れなのだから。

西側に属するわれわれは、習慣的に、アメリカは原則として善の側に立っていると考える。われわれは、アメリカと対立している国ならばいとも簡単に「悪」と決めつけ、アメリカが行なっていると見れば、明らかに不当な行為でも目を瞑る。それが習い性になっている。

しかし、グローバル・サウスの国々はそうではない。西側の眼鏡をつけていない彼らにとって、ロシアは善でも悪でもない普通の国だ。他方、アメリカについては、われわれが見ないふりをしてきた数々の行為ーNATOによるユーゴスラビア空爆、イラク戦争、シリアへの不当な介入、CIAによる「民主化革命」の扇動など多数ーを、彼らはしっかりと見て、記憶に留めている。

ウクライナ戦争が勃発したとき、われわれの多くは西側メディアのいうことを鵜呑みにしたが、彼らは違っていただろう。

それでも、ウクライナ戦争では、西側が一方的にロシアを非難する態度を取ったことが、グローバル・サウスのはっきりとした反感を呼び起こすことはなかった。それは、単純に、近年のウクライナで何が起きていたのかを知っている国が少なかったからだ。

しかし、パレスチナとイスラエルの問題は違う。イスラム教国を筆頭に、グローバル・サウスの国々は、近年のイスラエルがパレスチナの人々に何をしてきたかを知っている。パレスチナ自治区にイスラエル人を入植させてパレスチナ人を迫害したり、自治区に対して爆撃や軍事侵攻を繰り返してきたことを知っている。

▷特定非営利法人 パレスチナ 子どものキャンペーン さんのサイト。とてもよくまとまっていて勉強になります。
https://ccp-ngo.jp/palestine/palestine-information/

西側諸国以外の国々はハマスをテロ組織と見てはいないようです。

彼らは、いま、イスラエルがガザや西岸の自治区で行っていることを、9・11や東日本大震災のときにわれわれがそうしたように、息を呑み、涙を流して見つめているのだ。

今回のガザ危機で、ハマスの非難なんてどうでもいいことにこだわり、戦闘の一時停止・休戦要求でお茶を濁し、一致して即時停戦を求めることすらできない西側諸国を見て、彼らは心底幻滅しているだろう。

同時に、彼らの中に「疑念」としてあったもののいくつかは、確信に変わっているかもしれない。アメリカが、自由と民主主義のためではなく、覇権の維持のために行動していること。それを支持する西側諸国が、覇権に連なる優越的な立場の維持のために汲々としていること。

そして、その目的に資する限り、非西側諸国の人間が何人死のうが、プロパガンダとレトリックの限りを尽くして正当化されること。

彼らの目に、G7の席上で微笑む首脳たちは「新・悪の枢軸」に見えているに違いない。

「最後のG7」(2021)https://www.reddit.com/r/ModernPropaganda/comments/nysner/the_last_g7weibo_artist_lao_ah_tang/?rdt=34701

2003年と2023年の間

(1)2つの変化

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。いや、この連載を通じて、すでに「グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは当然」という地点に達してはいた。しかし、それにしても、このところの展開はあまりに急なのだ。

‥‥アメリカは世界なしではやって行けなくなっている。その貿易収支の赤字は、本書の刊行以来さらに増大した。外国から流入する資金フローへの依存もさらに深刻化している。アメリカがじたばたと足掻き、ユーラシアの真ん中で象徴的戦争活動を演出しているのは、世界の資金の流れの中心としての地位を維持するためなのである。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 訳)『帝国以後』(藤原書店、2003年)2頁

トッドが『帝国以後』の日本語版序文でこう書いたのは2003年、イラク戦争の最中のことだった(原著は2002年発行)。

2003年と2023年。この両時点で、変わらないのは、アメリカが「世界の資金の流れの中心としての地位を維持するため」に、「じたばたと足掻いている」という点である。

しかし、大きく変わった点が2つある。

1つは、アメリカの戦争活動が、トッドのいう「演劇的小規模軍事行動主義」に止まらなくなっている点である。2000年代初頭のアメリカは、イラクに侵攻し、イランや北朝鮮を挑発して満足していた。

最近のアメリカは大胆だ。ウクライナ戦争(仕込みは遅くとも2014年に始まっている)、中国に対する執拗な挑発、ガザ危機への対応。どれを取っても、世界を大戦争に巻き込みかねないものばかりである。

そして、もう一つの変化は、これに対する西側諸国の態度である。2003年、ドイツとフランスは米英の提案によるイラクへの武力行使(開戦)に明確に反対の意思を示していた

しかし、2022-23年の西側諸国は、アメリカを諌めるどころか、ほとんど躊躇する様子も見せず、がっちり一枚岩の対応をとっているのである。

いったい、何が起きたのだろうか。

(2)金融危機とシェール革命ー凶暴化するアメリカ

おそらく、アメリカを軍事的冒険主義に駆り立て、ドル覇権に対するヨーロッパや日本の忠誠を強化させた理由の一つは、2008年の金融危機である。ドル覇権の終わりを眼前にしたアメリカは、直ちに取り繕ったけれども、覇権を少しでも長持ちさせるためのさらなる行動を誓い、西側諸国は忠誠を尽くすべく腹を決めた。ありうる話だと思う。

もう一つの副次的な理由は、2008-10年ごろのシェール革命ではないか、と私はにらんでいる。

ちょうど金融危機の直後、シェール層(岩石の一種)からのガス・石油抽出技術の実用化によって、アメリカは、突如石油とガスの一大産出国となっている。

原油の輸入量
原油の生産量
天然ガスの生産量

イラク戦争の頃のアメリカは、イラクを含む西アジアの石油をめぐりEUとライバル関係にあった。EUには、自分たちのエネルギー資源の確保のためにアメリカと対立する理由があったし、アメリカの方にも、各地の情勢に介入する際に、一定の抑制を要する理由があったのだ。

しかし、石油産出国の「ビッグスリー」(アメリカ、ロシア、サウジアラビア)の一角となったアメリカに、もはや、怖いものは何もない。

アメリカにとって、エネルギーはつねに「友好国や同盟国」の忠誠をつなぎ止める手段だった。

「ビッグスリー」となったアメリカは、「しめしめ」とばかりに、危機に瀕するドル覇権の維持に絶対不可欠な西側諸国の忠誠を、アメリカのエネルギー(への依存)によって勝ち取ることを企図した、というのが私の推理である。

ウクライナ、ガザでの粗暴で大胆なふるまいは、エネルギー網の切断によってヨーロッパとロシアの絆を断ち切り、ユーラシア大陸のエネルギーをできる限り支配下に置くことで、西側諸国の忠誠心を永続させようと狙ったもの、と考えると、「なるほど・・」(ため息)と思えるのである。

(3)ドル覇権の終焉が早まった

しかし、実際には、アメリカのあまりに粗暴で理不尽なふるまい、そして、それでもなお西側諸国が忠誠を尽くす様子は、ドル覇権に対する世界の信用を決定的に損ねる結果となるだろう。

以前、どこかに「ドル覇権はもうすぐ終わる(5年後か数十年後かはわからない)」という趣旨のことを書いた記憶があるが、アメリカの凶暴化によって、その時期はずいぶん早まった、と感じる。

しかし、この連載をお読みいただいた方には、それが起こるべくして起こることであり、世界にとって決してわるいことではない、と感じていただけるのではないだろうか。

おわりに

この記事(①-④)と、同タイトルの連載は、これで完結である。「そうだったのか・・」と思ってくれた方がいたらとても嬉しいし、そうでない方にも、何らかの刺激を楽しんでもらえたら、とても嬉しい。

「あの・・」

あ、はい。

「事情は大体分かりました。でも、それで、私たちはどうしたらいいんでしょうか?」

・・ご質問、感謝します。

いま、例えば、アメリカの凶暴化を止めるために、ドル覇権の崩壊を遅らせるために、グローバル・サウス+BRICSと西側世界との和解のために、何か具体的にできることがあるかというと、ない、と私は思う。

アメリカはアメリカで事情があって凶暴化しているのだし、1980年に戻って縮小均衡からやり直すということもできないし、グローバル・サウス+BRICSの西側世界に対する当然の不信感に対して取り繕う言葉も、私には見あたらない。

でも、これだけのことを知れば、自分自身の生き方は変わるのではないだろうか。

おかねについて、仕事について、世間で「普通」とか「正しい」とされている物の見方や考え方について。

「なんかちょっと、変じゃない?」と思っていたことのすべてが、もしかして、増えすぎたおかねに押し流されて、仕方なくそうなっていることだとしたら。

その上、そのおかしな世界の基礎を作ったドル覇権は、もうすぐ終わるのだとしたら。

「なーんだ」

石ころでも蹴とばしたら、いろいろな謎の重荷を置いて、足の向くまま、スタスタ歩き出したくなるのではないだろうか。

何かできること。
あるとしたら、それだと思います。

主な参考文献はこちら(写真はケインズ)
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基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ③グローバル・サウス+BRICS

 

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はじめに:なぜドル覇権と距離を置くのか

南米、東南アジア、アフリカなどを含むグローバル・サウス。そして、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカを中核とするBRICS(以下まとめて「グローバル・サウス」と呼ぶ)。 

これらの国々は、なぜドル覇権から距離を取り、独自の立場で存在感を高めようとしているのか。

それが今回のテーマである。

債務危機の構造

実際のところ、答えは非常に単純である。彼らは、アメリカに、そして、ドル覇権を擁護する西側諸国に、食い物にされ、成長を阻まれたと感じているのだ。

ラテンアメリカを筆頭に、アジア(タイ、インドネシア、韓国など)、ロシアはいずれも1980−90年代に債務危機を経験し、その後数年から十数年にわたって経済的苦境に陥った。

「危機」の構造は概ね共通している。

①発展途上の彼らは、成長率低下と「増えすぎたおかね」を持て余し金融に活路を見出した先進国に目を付けられ、民間資本から気まぐれに大量の資金を貸し付けられた後、気まぐれな「高金利」や気まぐれな資金の引き上げに遭い、債務危機に陥った。

②危機に陥った彼らに手を差し伸べるフリをして近づいたIMF(国際通貨基金)は、彼らの真の経済成長よりも、西側諸国の貸し手の利益と投資市場としての保全を重視し、デフォルト(債務不履行)を防ぐための大規模融資を行った上で、融資条件として構造調整プログラムを義務付けた。

  1. 緊縮政策(財政支出(国民・国内事業者向け補助金など)の削減と金融引締め(通貨供給量減)による収支の改善)
  2. 貿易の自由化
  3. 金融・資本の自由化
  4. 公的部門の民営化
  5. 規制緩和

③「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるこの政策パッケージは、それを受け入れたほぼ全ての国で、社会・経済の混乱に拍車をかけ、外国資本への依存度を高めた。

*その他、2000年代に通貨・金融危機を経験したアルゼンチン、トルコ、ラトビア、ウクライナといった国々もIMFの不適切な勧告によって苦難に陥り、世界銀行の支援を受けた多くの国々も、「ワシントン・コンセンサス」型の構造改革を実行するよう「助言」された結果、同様の問題を経験しているという。

驚くべきことだと思うが、上記の国々が安定的な成長軌道に乗ったのは、IMFと手を切り、当時の経験を反面教師とした独自の経済政策が取れるようになってからのことなのである。

IMF(国際通貨基金)の真実

(1)IMFの仕事

「えっ、でもIMFってちゃんとした国際機関でしょ?」と思った方のために、この機関の成り立ちを説明しよう。

IMF(International Monetary Fund 国際通貨基金)は、1944年のブレトン・ウッズ会議で締結された協定に基づいて作られた国際機関である。

あまり(一般には)知られていないことだと思うが、実は、協定そのものは、ドルを基軸通貨とする「一極」体制ではなく、すべての通貨を平等に扱う多角的な通貨システムを想定していたという(山本栄治『国際通貨システム』82-86頁)。IMFはそのシステムの下で、固定相場の安定維持および通貨政策に関する標準的なルールの設定を促すための機構として設置された。

しかし、現実は協定のシナリオから大きく外れた。そのため、IMFは当初から限定的な機能しか持ち得なかったが、(1971-73を経て) 固定相場制が放棄されたことで、IMFはいよいよやることがなくなった。

そんなIMFに新たな活躍の機会を提供したのが、1970年代末から相次いだ債務危機である。このとき、IMFは、危機に陥った新興国・途上国に融資を行った。加えて、融資条件(コンディショナリティ)として「ワシントン・コンセンサス」型の構造調整プログラムを実施させ、以後、この一連の仕事が、IMFの主要な役割となった。

*現在のIMFの概要は財務省の説明が分かりやすい。

直裁にいえば、IMFは、融資を与える債権者としての地位を利用して、新興国・途上国の経済を、先進国(とくに米英)の「金融に特化した新自由主義経済」と親和性が高いシステムに作り変えることを、主な仕事とするようになったのである。

*「金融に特化した新自由主義」と親和性が高いということは、有り体にいえば、「草刈場として利用しやすい」という意味だ。

ただし、これは私の考えだが、この一連の推移(①協定に反するドル一極体制の成立、②アメリカの都合による固定相場制の放棄、③新自由主義推進機関としてのIMF)は、決して、偶然の結果ではないと思われる。

IMFの設立の根拠であるブレトン・ウッズ協定は、WW2後の通貨システムに関するアメリカとイギリス(イギリス案はケインズが作った)の激しいバトルの末に成立したものである。当時の力関係を反映し、協定はアメリカ案をより多く取り入れたものとなったが、アメリカ案そのものではなかった。この段階では、アメリカも、一定の妥協を示していたのである。

しかし、すでに述べたように、ブレトン・ウッズ協定の想定した通貨システムは実現せず、現実は「ドル一極体制」に落ち着いた。

たぶん、アメリカは、もともと、意に沿わない協定に従うつもりなどなかったのではないかと思う。アメリカは、協定の成立には協力したが、その実現には力を入れなかった。そうして、望み通りの通貨システムを手に入れ、IMFを自らの手足として、各国経済をアメリカの利益に合致するように作り変えていったのだ。

(2)IMFの意思決定

なぜ、アメリカに、IMFを手足として利用するなどということができたのか。秘密はIMFの意思決定システムの中に隠されている。

IMFは「自由・無差別・多角主義」に基づく国際機関ということになっており、意思決定は加盟国の合議と投票による。

通常の議決は過半数、重要事項は事項によって70%ないし85%の超多数決である。

しかし、IMFの投票権は、一国一票ではない。出資金の分担額(出資割当額:クオータ)が多いほど多く割り当てられるのだ。

割当額の1位は一貫してアメリカで、概ね17%前後。ほかに15%以上のシェアを持つ国はないので、85%事項に関してはアメリカ1国だけが事実上の拒否権を持つ格好である。

現在(2018年改定後)は2位は日本で約4.6%。旧G5諸国の合計が37.9%なので、G5が揃えばもちろん、アメリカ+3カ国で70%事項は問題なくクリアできる。

通常の過半数の議決についても、西側諸国だけで優に50%を確保しているので、非西側諸国のすべてが結束しても、西側諸国の一致した意向に反する議決を行うことはできない。

そして、この割当額の変更は85%の超多数決事項なのである。

IMFの意思決定システムは、公平中立な国際組織のシステムとしては異常である。しかし「公平中立ではない」と考えれば納得できる。

IMFは、もともと、アメリカの意向に沿って行動する「国際機関」として設計されている。IMFによる支援が、支援対象国よりも、アメリカ(と西側諸国)の利益を主に考慮しているように見えるのは、単純にその結果なのである。

IMF Headquarters, Washington, DC.

「危機」の具体例

(1)ラテンアメリカの場合

具体例の代表的なものをいくつか見ていこう。

債務危機をいち早く経験したのはラテンアメリカだ。合衆国の「裏庭」として、早くから資本流入と金融・資本自由化が進んでいたからである。

〈前提としての金融・資本自由化〉

WW2の後、アメリカはラテンアメリカ諸国の共産主義化を恐れて、親米右派政権(しばしば軍事政権)を支援した。

*チリのピノチェト政権のようにCIAがクーデターを支援したケースもある。

アメリカが「親共産主義」とみなす政権が一般に、農業の振興や輸入代替工業の発展を重視し、輸入に依存しない経済の下での国民生活の向上を目指したのに対し、アメリカが支援した親米右派政権は、アメリカの意向に沿って、外国資本に依存した輸出志向の工業化を目指した。

*有り体にいうと、外資の下で安い賃金で国民を働かせて外国に売れる製品を作り、儲けたドルでアメリカ製品を買う(余剰農産物と軍需品)という仕組み。

*そしてアメリカはどこの国に援助(通常は融資)をするときにも、アメリカ製品の購入と資本自由化(海外資本の受け入れ)を条件として課した。

アメリカの支援を受けたラテンアメリカ諸国では、1970年代までに、貿易自由化に加え、金融・資本自由化が実現していたのである。

〈スタグフレーション・マネーの流入〉

変動相場制に移行し、基軸通貨国アメリカからますます大量のドルが供給された1970年代、「低成長+おかねの増えすぎ」によるスタグフレーションに苦しんでいた先進国は、増えすぎたおかねの使い道を探した。

金融に活路を見出した彼らが、有望な投資先として目をつけたのが(当時の)発展途上国だ。

スタグフレーションのために先進資本主義国の生産資本の蓄積が停滞した結果として、74-84年累計で1793億ドルにおよぶ「過剰貨幣資本」が国際金融市場に間歇的に放出されて「過剰貸付資本」が形成され、この「スタグフレーション・マネー」が「オイル・マネー」とともに発展途上国累積債務の実体を形成した

森田桐郎「ラテン・アメリカにおける「開発」と債務」石見徹・伊藤元重編『国際資本移動と累積債務』(東京大学出版会、1990年)203頁

1970年代後半、余剰ドルを手にした先進国に押し付けられる形で借入を増やしたラテンアメリカの国々を待ち受けていたのは、1980年代のアメリカのドル高・高金利政策である。借入はドル建であるから、金利も返済額も大幅に上がる。これに、世界的な不況による輸出収入の減少、石油価格の上昇が重なって、彼らは続々と債務返済不能に陥っていったのである。

〈IMF融資と融資条件〉

債務危機に陥ったラテンアメリカに、IMFは大規模な融資を提供した。融資条件としての「ワシントン・コンセンサス」はこの時期に確立されたものだというが、ラテンアメリカの場合、2-5はすでに実現していたので、もっぱら1の緊縮政策が厳しく求められることになった。

過剰貸付を受け、外部的な要因によってその支払いが困難になり、経済的に苦境に陥った国に必要なものは何か、考えてみてほしい。まずは、債務の減免か(最低でも)猶予、そして、経済を元の軌道に戻すための財政支出こそが、必要なものではないだろうか。

IMFはラテンアメリカに多額のドルを貸し付けたが、債務には一切手を付けず、コストカットによる収支の改善だけを義務付けた。これでは、融資の目的が、もっぱら債権者の利益の確保(貸付により利子の支払いを可能にし、国家財政の破綻による貸し倒れを防ぐ)にあったと言われても仕方がないだろう。

1980年代のラテンアメリカは、IMFの「救済」によってデフォルト(債務不履行)こそ免れたものの、その経済は改善せず、借金返済(利子の支払)のために新たな借金を強いられる「債務のわな」(debt trap)状態に陥った。

結果、ラテンアメリカは、この「失われた10年」ののち、再び「危機」を迎えることになる(メキシコ通貨危機アルゼンチン通貨危機、ブラジル通貨危機等)。

*後者の「危機」はアジア通貨危機と同じ構造なので、説明は事項に譲ろう。

(2)アジアの場合

先進国が「目を付けた」投資先には、もちろん、アジアの国々(タイ、インドネシア、韓国など)が含まれていた。

〈投資マネーの流入・タイの金融危機〉

アメリカやIMF(ほぼ同義だ)の影響で1990年代に資本自由化を推進したこれらの国々は、特に91年の日本におけるバブル崩壊以後、日本を含む先進国から多額の民間資本が流入した。

*日本に投資先がなくなったから。なお、資本とは「おかね」という意味です。

20世紀後半の投資マネーは短期に確実な利益を出すことを求めている。彼らは気まぐれにやってきて、「危うい」と見るや、さっさと消えていくのだ。

*19世紀との大きな違いである。ポンド覇権時代の対外投資は公共事業等に対する長期投資が中心だった(日本もイギリスの資金で鉄道を建設したりした)。

1997年、タイの経済指標の悪化(経常収支赤字など)を嫌った投機筋がバーツ(タイの通貨)を売り、バーツの価値が大幅に下落(2-3ヶ月で半分)。タイの銀行・企業の財務状況は悪化し、タイは金融危機と不況に陥った。

〈資金引上げによる危機の伝播〉

タイの金融危機は、インドネシア、マレーシア、韓国といった比較的良好な経済状況を保っていた国にも波及した。「アジアは危ない」と見た投資家が、資金を引き上げたからだ。

こうして、投機筋の売りによるタイの通貨下落が引き金となって、「アジア通貨危機」と呼ばれる経済危機に発展したのである。

〈IMF融資と構造改革〉

IMFはマレーシアを除く3カ国に融資を行い、融資条件として、「ワシントン・コンセンサス」的構造調整プログラムを実施した。

ここでも、とくに、経済運営が順調だったインドネシア、韓国の2国について、どんな対策が必要だったかを考えてみよう。

彼らの「危機」は、短期資本の引き上げによる資金繰りの悪化がもたらしたものだった。したがって、短期的には、資金不足を補うための融資に加え、一時的に悪化した経済状況を乗り切るための財政支出と金融緩和が必要であり、かつ、それで十分だったと思われる。そして、長期的には、むしろ、外部の資金に過度に依存しない経済システムの構築が必要だったはずだ。

ところが、IMFは、緊縮政策(財政支出の削減・金融引締め)に加え、金融機関の整理統合、国営企業の民営化、財閥解体、金融・資本規制の撤廃、労働市場の自由化といった広範な構造改革の実施を義務付けた。

単なる一時的な資金不足に構造改革で対応したことで、社会は混乱し、景気後退も深刻化したのである。

IMFのしたことは、一時的な資金不足に乗じて、有望な経済圏をドル運用の好適地に作り替えること以外の何物でもなかった。そう言わなければならないと思う。

ところで、タイ、インドネシア、韓国は、いずれも、2008年の金融危機を比較的うまく乗り切った国として知られている。彼らは、金融を緩和し、財政支出を拡大して、危機を乗り超えた。そう、彼らが採用したのは、IMFと正反対の経済政策だったのだ。

IMFを反面教師とした国こそが、金融危機によく耐えた。IMFの経済政策の問題性をこれほどよく示す事例もないだろう。

◾️アジア危機への日本の対応◾️

1980年代に本格化したIMFや世界銀行の新自由主義・市場原理主義的な融資条件(ワシントン・コンセンサス)に対し、日本政府がかなり明確に批判的な立場を取っていたことは特筆しておきたい。

1991年10月のIMF・世銀総会で、当時の三重野日銀総裁は、「真の経済開発のためには,・・民間部門を育成し,起業家精神の醸成や生産性の 改善に努めることが不可欠であります。同時に,政府が市場メカニズムを補完し,市場メカニ ズムが有効に機能するような環境の整備を図ることが重要」と指摘し、アジア諸国はその成功例であると述べていた。

アジア危機が起きた1997年の総会では、日本政府はアジア版IMFとなる「アジア通貨基金(AMF)」の設立を(非公式に)提案し(アメリカと中国の反対で頓挫)、1998年の総会で、宮澤喜一蔵相は、急激な資本引き上げによる外貨不足から生じた危機に対して過度の構造改革を義務付けたIMFのやり方を批判した。

少なくともこの時期まで、日本政府は、新自由主義への警戒感やIMF=アメリカに対して物を言う姿勢を持ち続けていたのだ。

*ここからはあまり根拠のない憶測だが、私の感じでは、日本政府が、これからの日本は、「ドル覇権を支える役人の地位を堅持し、金融で経済を「成長している風」に見せていくしかない」と本当に腹を括ったのは、2008年の金融危機の後、2012年に自民党が政権に復帰したとき(第二次安倍政権)だったのではないかと思う。安倍元首相が何をどのくらい理解していたのかは見当がつかないが、2013年以後10年間日銀総裁を務めた黒田東彦さんは全て承知の上だっただろうと思うし(批判しているわけではない。この時期に一役人として他にできることがあったとも思えないし)、後任で現職の植田和男さんも全て承知の上だと思う(これも批判しているわけではない。むしろ、任期中に大変な危機に見舞われる可能性が高いこの時期に日銀総裁を引き受けるなんて立派な人に違いないと思っている)。

(3)ロシア

後任のプーチンに大統領エンブレムを付けるエリツィン(1999)

ソ連崩壊後のロシアへの「支援」も悪名高い。

エリツィン大統領の下、長年の共産主義を捨て市場経済に移行しようとしていたロシアで、IMFは、短期間で一挙に市場経済化を進める「ショック療法」を強力に推進した。

価格が自由化されるとハイパー・インフレーションが発生し、その抑制のために厳しい緊縮政策が適用された。緊縮により、インフレは収まったが、生産部門は壊滅、国民総生産も半減し、外国資本への依存が進んだ。

*自由化・民営化で、元国有企業の多くが外国資本に不当な安値で買い叩かれている。

一旦は緩和された緊縮政策は、景気後退に歯止めがかかると見えた途端に再開され(1996-97)、金融引締めにより金利が上昇、IMFのプログラムに沿って大量発行した国債を内外の金融機関がこぞって購入した。

こうした一連のIMF療法の結果、この時点で、ロシアは外国資本への依存度が極めて高い経済になっていた。

ちょうどそのとき、アジア危機の余波が訪れた。新興国市場全般を「危険」とみなした投資家は、ロシアからも資本を引き上げ、ロシアの外貨準備は急速に減少した。資本流出は止まらず、ロシアは事実上のデフォルト(債務不履行)に陥った(1998年)。

*ロシア危機では(デフォルトで)アメリカ、イギリス、日本などの投資家が大損した。逃げきれば損はしないが、逃げきれずにデフォルトとなると大損害が発生する。だからIMFは「緊縮」を求めるのだ。

しかし、この危機による外国資本の引き上げとルーブル安(デフォルトと同時に通貨切下げも行った)は、長期的には、ロシア経済にプラスとなった。外国依存が絶たれ、国内の輸入代替生産が増加したからだ。

ロシアは2004年までにIMFへの返済を完了し、経済政策の自由を回復。経済はようやく安定した成長軌道に乗ったのだ。

*エリツィンは1999年末に退任、2000年からプーチン政権になっている。

世界経済のネタ帳」より

おわりに:「不正な秩序」再び

本文の中で、IMFの「ワシントン・コンセンサス」的プログラムは、「それを受け入れたほぼ全ての国で、社会・経済の混乱に拍車をかけ」た、と書いた。その実情を、専門家に証言していただこう。

IMFのプログラムでは、必ずといっていいほど財政支出削減を伴う緊縮政策が求められ、そのために公企業の民営化やリストラのみならず、公的支出を大幅に削減される。途上国・新興国に対する・・「構造改革」の規模は、当該国としては非常に大規模で、通常先進国で考えられるような穏和なものではなく、それと比較にならないほど短期間に急激な財政支出削減が求められる。このため、IMFプログラムを実施すれば、しばしば当該国政府の政権は交代する結果となる。2008年秋以降、アイスランド、ハンガリー、ラトビア、ルーマニアなどではいずれも国民の不満が高まり、政権が崩壊ないし交代した。アジア危機時にインドネシアでスハルト政権が崩壊したのもIMFプログラム実施がきっかけであった。

大田英明『IMF(国際通貨基金) 使命と誤算』(中公新書、2009年)ⅲ頁

途上国・新興国は多くの場合、ドル建てで提供された資本の気まぐれな引上げに遭うなどした結果、ドル不足で債務危機に陥る。

ここで、彼らがデフォルト(債務不履行)に陥ったとしよう。国の経済的信用は破綻する。しかし、大きな損失を被るのは彼らではない。資本を投下した先進国の側(機関投資家など)である。

だからこそ、彼らはデフォルトを許されない。IMFは、融資を提供してデフォルトを回避させ、緊縮政策を強いる。結果、国民の生活は困窮し、決して少なくない頻度で、政権の崩壊・交代にまで至るのだ。

「借りたものは返す。それが常識でしょう、奥さん?」。

そう言って、財産の最後の一片まで奪って去っていく。
あの高利貸しの声が聞こえてくるようではないか。

しかも、現在のアメリカは、工業生産力で世界の頂点に立ち、貿易黒字を誇ったあのアメリカではない。

膨大な経常赤字を出し続け、世界最大の債務国となったにもかかわらず、一切の緊縮策を拒み、他国にありとあらゆる圧力をかけて浪費を続けている、そのアメリカなのだ。

グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは、当然ではなかろうか。

「不正な秩序」について書いています(この記事の予告編にもなっていました)
現在もまったく同じ問題が。配信もあるようです。
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ②ヨーロッパと日本

 

 

目次

はじめに:なぜドル覇権を支えるのか?

前回述べたように、ドル覇権は、実質的に、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係を基礎とするシステムである。

ヨーロッパと日本は、最近、以前にも増して従順にアメリカに付き従うようになっているが、その根底にあるのも、ドル覇権に対するある種の連帯責任なのである。

いったいなぜそんなことになったのか。今回は、「最近」に至る一歩手前、20世紀末までの経緯を確認しよう。

復興援助の記憶 ー「善なるアメリカ」

ヨーロッパと日本が、1971-3年以後の「ドル覇権」を容認した背景に「第二次世界大戦直後から復興までの恩義」があったことは疑いない。

終戦時、戦場となったヨーロッパと日本は(勝ち負けに関わらず)ボロボロで、おかねもなければ生産設備もなかったが、アメリカだけは無傷だった。

*戦争特需(軍需品受注額は1830億ドルと言われる)もあり、終戦時には世界中の(貨幣用)金の3分の2がアメリカに集まっていた。

そのため、ヨーロッパと日本は、復興資金のほぼ全てを、アメリカから受け取ることになったのだ。

アメリカは、1947年の緊急援助、48年から52年のマーシャル・プラン(116億ドルの贈与・18億ドルの借款)を含む総額330億ドル相当の援助をヨーロッパに提供した。日本にも、ガリオア・エロア基金として15億ドルの贈与・5億ドルの借款を与えた。

さらに、アメリカは(WW1後とは異なり)、製品の輸入も積極的に行い、ヨーロッパの復興に貢献した。1947年、アメリカは101億ドルの貿易黒字を計上していたが(ヨーロッパの貿易赤字がほぼ同額(90億ドル))、1952年には26億ドルに減少している。アメリカは貿易を通じて、ヨーロッパにドルを供給していたのである。

もちろん、アメリカは、単なる善意で支援を行ったわけではない。アメリカは、イギリス帝国に残された特権を最後の一片まで剥ぎ取るべく手を尽くしたし、敗戦国(ドイツと日本)をとくに手厚く支援したのは、彼らを衛星国に仕立てて、アメリカの繁栄に尽くさせるためだったと考えられる。

それでも、アメリカの支えがあってはじめて、飢えから救われ、復興を成し遂げた人々にとって、アメリカは「善きもの」以外のなにものでもなかった。その印象は、戦後の西側世界の人々のアメリカ観を深く規定したはずである。

爆撃で破壊されたドイツの町(Altenkirchen)を走るアメリカ軍(1945年3月)
再建中のベルリン。ビルの壁にはマーシャルプラン援助のポスター(1948年6月)

金=ドル本位制崩壊 ー 共犯関係の成立

(1)ドル過剰ー支出が止まらないアメリカ

ヨーロッパ・日本の復興が軌道に乗った後も、アメリカの「赤字」を通じたドル供給は続いた。

*アメリカの主な赤字の源は、軍事支出と企業買収(ヨーロッパの優良企業の乗っ取り・買収)だったとされる。文献には「アメリカの国際収支は1950年から赤字に転じた」、額については「58年が29億ドル、59年で22億ドルの赤字」(上川孝夫・矢後和彦編『国際金融史』(有斐閣、2007年)117頁[牧野裕執筆部分])とあり(同様にこの時期のアメリカの「国際収支」が赤字だったとするものに、石見徹『国際通貨・金融システムの歴史』(有斐閣、1995年))、ここでの記載はそれらに依拠している。

しかし、国際収支は「経常収支+資本移転等収支+誤差脱漏=金融収支」という等式で示されるものなので(こちらも)「「国際収支全体で黒字や赤字がある」という言い方は不適切である」ということであり( 奥田宏・代田純・櫻井公人『深く学べる国際金融』(法律文化社、2020年)2頁[星野智樹執筆部分]等)、私はそのように理解した。そこで「じゃあ「国際収支の赤字」は「経常収支の赤字」のことかな」と思って調べると、その時期のアメリカの経常収支は赤字ではないようなのである(谷口明丈・須藤功編『現代アメリカ経済史』(有斐閣、2017年)500頁掲載の表を参照)。専門家が揃って「赤字だった」と言っているのだから赤字だったのだと思うのだが、何が赤字だったのか分からなくて困っており(貿易赤字ではない)、もし知っている方がいたら教えてほしい。

その背景には、大量の金を独占していたアメリカに「支出過剰」などあり得ないという当時の「常識」があったのだが、実感として、アメリカの支出は明らかに過剰だった。

そのため、ヨーロッパや日本では、戦後の「ドル不足」を脱した途端、「ドル過剰」が問題視されるようになったのである。

(2)金=ドル本位制の崩壊

「過剰ドル」を蓄積した国々はドルに不信感を抱き、保有するドルの金兌換を進めた。その結果、アメリカの金保有量は1958年から減少局面に入る。

最初のゴールド・ラッシュ(金価格の上昇を予想した金投機→ドル不信の現れ)が1960年に起こり、ヨーロッパを中心に金=ドル本位制を支えるための努力が始まったが(金プールの設立(1961年)や各種国際通貨協力、国際決済専用通貨の創出(IMFの特別引出権(SDR))など)、その間も、アメリカの収支は一向に改善しなかった。

ベトナム戦争の戦況悪化(テト攻勢)(1968年)が最後の一撃となり、ドルへの信認は極端に悪化。金の流出に拍車がかかり、いろいろとあった末、1971年8月15日、アメリカは、金=ドル交換の停止を宣言(ニクソン・ショックといわれる)。金=ドル本位制は崩壊したのである。

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FNL(南ベトナム解放民族戦線)に一時占拠されたサイゴンのアメリカ大使館(wiki)

G5ー共犯関係の成立

金=ドル本位制崩壊で、ドルの信用は失墜したが、基軸通貨の地位は維持された。他に代わりになりうるものがなかったからである。

復興を終えようやく豊かさを楽しもうかという段階に入ったヨーロッパ・日本にとって、今、ここで、世界経済の基盤が崩れるなどということは、決してあってはならないことだった。

今、やるべきことは、ドルを支え、世界経済を安定させることである。ということで、金=ドル本位制・固定相場制の崩壊で乱高下するドルを、西側諸国は協調して買い支えた。

*やや詳しい説明はこちら

主要国首脳会議(サミット)の第1回が開催され、G5(主要5カ国財務大臣・中央銀行総裁会議)が組織されたのは1975年にことである。

ヨーロッパ・日本は、国際通貨システムの安定を求め、率先して、ドル覇権を支える立場に立った。こうして、アメリカとヨーロッパ・日本の間に共犯関係が成立し、ヨーロッパ(イギリス以外↓)と日本は、やがて思いもかけない深みに引きずり込まれていくことになるのである。

初めてサミットが開催されたフランス・ランブイエ城

ユーロダラー:イギリスの役割

1980年代、アメリカはレーガノミクスの下で金融肥大化への道をひた走る(詳しくはこちら)。しかし、経済の「金融化」(+金融のバクチ化)の責任は、アメリカだけにあるわけではない。

ここまで「ドル金融市場」という言葉を使ってきたが、この世界最大の金融投資市場の生みの親は、実はアメリカではない。イギリスなのだ。

WW2の後、イギリス政府の為替管理によってポンド取引を規制されたイギリスのマーチャント・バンカーは、アメリカの金融界が広範な国際金融ネットワークを構築する前に、ドルを用いた国際金融業務を開始した。

*直接のきっかけは1957年のポンド危機だったという(第三国間の貿易決済へのポンド利用が禁止された)。

1950年代末のロンドンに成立したドル金融市場は「ユーロダラー市場」と呼ばれ、1960年代にはニューヨークを凌ぐ主要な国際金融市場となった。

ユーロダラー市場には、アメリカの金融当局による規制が及ばず、イギリス政府もこれを規制しようとしなかった。

イギリス当局は・・ユーロダラーの発達を抑止しようと思えばそれができたはずである。しかし当局がそのような挙に出なかったのは、疑いもなくロンドンをユーロダラーの中心市場に発展させることの利益を理解していたからであった。

著名な金融評論家Einzigの言葉(上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』(有斐閣、2007年)303頁[鈴木俊夫執筆部分]

1960年代にアメリカが(ドル防衛策として)国内の金融規制を強化すると、アメリカの金融機関もこぞってユーロダラー市場に出店した(もちろんヨーロッパ、日本の金融機関も)。シティは再び国際金融の表舞台に立つとともに、シティのユーロダラー市場こそが、アメリカの金融機関による国際金融業務の核を構築することになったのだ。

アメリカ金融界は規制に縛られた内部ドル市場の国際化の道を放棄し、外部ドル市場であるユーロ・ダラー市場を核にした「統合ドル市場」としての国際的信用制度を構築する道を選んだのである。

山本栄治『国際通貨システム』(岩波書店、1997年)97頁

*正式の統計は存在しないが、取引規模は、1985年には1668兆ドル、2016年には13833兆ドルに達したと推計されている(wiki英語版)。

以後、アメリカとイギリスは、競って金融自由化を推し進め、世界をグローバリゼーションと格差の渦に巻き込んでいく(↓)。

トップ1%の取り分。アメリカとイギリスの1980年から2000年の変化がとくに大きいことに注目。(Todd, Lineages of Modernity, p225)

増え続けるドルを「カジノ・チップ」に見立てた経済の金融化・カジノ化について、イギリスの果たした役割は大きい。そして、おそらく、イギリスが仲介者となることで、アメリカ発の動きは、ヨーロッパ、次いで世界に、容易に拡大していくことになったのである。

*アメリカの金融自由化についてはこちら。これに倣ったイギリスの「金融ビッグバン」は1986年。 

銀行革命はアメリカでスタートしたが、それだけで終わらなかった。証券会社が国内で行なって利益のあがった業務は、すぐにまずロンドンで、次いで海外の別の場所でも行われた。また証券会社が〔アメリカ〕国内で行うことを許されなかった業務もロンドンのシティで自由に行われ、その後他国でも行われることになった。利益を求めてやまない米銀が、国内の金融サービス市場における米銀間ならびに新規参入者との間の競争圧力を容易に回避できるルートとして、シティが果たした役割は物語の重要な部分である。‥‥ もしロンドンが玄関先に「ようこそ」という看板を掲げてドアを開放していなかったら、国際ビジネスを拡張するために、米銀はいったいどこに行っただろう。

スーザン・ストレンジ『マッド・マネー』(岩波現代文庫、2009年)80-81頁
President Reagan meeting with Prime Minister Margaret Thatcher of the United Kingdom in the Oval Office.

日本ープラザ合意からバブル崩壊まで

(1)1980-90年:抵抗のラストチャンス

その後、ヨーロッパや日本に「ドル覇権」に異を唱えるチャンスはなかったのであろうか。

あったとすれば、1980-90年代がそのときだったかもしれない。次の引用をお読みいただきたい。

仮定だが、1980年代から1990年代に日本と大陸ヨーロッパがアメリカに対して何千億ドルもの債権を築き上げたとき、1920年代に債権者アメリカがイギリス等のWW1同盟国に対して取ったのと同じ態度をとっていたらどうなったであろうか。日本とヨーロッパは、アメリカに、主要企業から美術館の所蔵品まで、すべてを不当に安い価格で投げ売りするよう迫っていただろう。それこそは、アメリカがイギリスに求めたことだった。

‥‥しかし、日本も(フランスを除く)ヨーロッパも、この債権者カードを使わなかった。日本はまるで債務国であるかのように振る舞い、1984年と1986年にはアメリカの要求に応じて金利引下げを行なった。アメリカの大統領選挙と議会選挙に貢献するためだ。その結果、日本経済は過剰債務に陥り、金融バブルが弾けて、ついには経済の重要部門をアメリカ人に売り渡す羽目になった。アメリカ自身、日本にとって債務者であったのに。

Michael Hudson, Super Imperialism, 30-31頁

*金利引下げの意味についてはこちら(9段落目)。
*「ドル過剰」時代、他のヨーロッパ諸国がドル防衛策に協力したのに対し、フランス・ドゴール大統領は「金こそが本位通貨」という立場を譲らず、アメリカに対し繰り返し(フランスが持つ)ドルの金兌換を求めた。時期は違うが多分このことを言っているのだと思う。
*バブル期に日本企業はアメリカ企業をバンバン買収したように思われているが、よく見ると大した買い物はしていない。ゴールドマンサックスなどの主要銀行を買ったわけでもないし、ウォルト・ディズニー、IBM、ボーイング、GMやフォードを買ったわけでもないのだ。

(2)80年代の開幕:巨大赤字とドル高・高金利

1980年代に起きたことを概観しよう。

レーガノミクスの下、アメリカは巨大な経常赤字を継続させ、世界最大の債務国に転落(1985年)。前回書いたように、巨額の赤字はヨーロッパと日本の対米投資によって補填された。

*なお、この時期の対米投資がもっとも多かったのは、大幅な対米黒字を記録していた日本やドイツではなく、わずかな黒字しか持たないイギリス(5年間で1745億ドル)である。イギリスはユーロダラー市場として浮上したシティに流れ込む資金に支えられて巨額の対米投資を行っていたのだ。経済の金融化をもたらしたのは「低成長の経済に注ぎ込まれた構造的過剰資金(おかねの増えすぎ)」であるが、具体的には、ユーロダラー市場を中心とするドル金融市場がアメリカの巨額赤字を補填(ファイナンス)する過程で、先進国の証券市場が統合され、金融・資本規制が(米英の主導で)緩和され、金融のグローバリゼーションが進行していったようだ。

1970年代末からの(スタグフレーション対策としての)強力な通貨引締め政策(高金利政策)の影響で、非常な高金利・ドル高となったが、レーガン政権はこれを放置した

*「ビナイン・ネグレクト(優雅なる黙認)」方針は、新自由主義的思想(小さな政府・規制緩和・民営化・・)の表現でもあったが、高金利・ドル高による海外からの資金流入が好都合だったという一面もあったと思われる。

しかし、ドル高で自動車産業などの競争力は非常に低下したので、アメリカ国民の不満は高まり、黒字国(日本やドイツ)に対する制裁や保護主義を求める動きが活発化した。

アメリカ政府は、国民の不満を逸らすため、アメリカの貿易赤字の責任を日本になすりつけ(これはほぼ言いがかり↓)、日本は通商上の各種要請事項の大半を受け容れた。

*自動車輸出の自主規制、アメリカ産の部品・完成車の輸入の拡大(数値目標)など(外務省の整理が一覧性があって便利)。

*当時の対日貿易赤字拡大の主な原因は、レーガノミクスによる消費刺激策にあり、「日本のせい」というのが言いがかりであることは一般に認められている。国内産業の競争力低下を放置して消費のみを刺激したため、そのほとんどが輸入品に向かったのだ(佐々木隆雄『アメリカの通商政策』(岩波新書、1997年)128頁等)。実際、アメリカの貿易赤字は、対日赤字が減少した後も、相手国を(中国に)変えて延々と続いた。

一方、世界を見回すと、ヨーロッパも不況でドル高・高金利はその原因の一つと考えられていた(本当かどうか私にはわからない)。アメリカから融資を受けていた途上国は金利負担が大きくなりすぎて困っていたし(→次回③)、日本は対米貿易黒字が大きくなりすぎて困っていた。

1980年代の中頃、世界中で、アメリカのドル高・高金利に対し「何とかしろ」というムードが高まっていた。

日本車を打ち壊すアメリカの人たち

(3)プラザ合意:後始末に奔走するG5

金融政策担当者が変わった二期目のレーガン政権は(1985年-)「ドル高是正やむなし」の姿勢に変わり、ヨーロッパ(とくにドイツ)とのドル売り協調介入などを始めていた。

この動きを捉え、「私とも一緒にやりましょう」とアメリカに持ちかけたのが日本だ。

*日本は「対米輸出減・輸入拡大」というアメリカの要求に基本的に応じていたが、ドル高が収まり貿易摩擦が和らげばそれに越したことはない。持ちかけたのは当時大蔵大臣だった竹下登。

日米間の交渉は独・英・仏を巻き込むG5の国際協調に拡大。G5は会議を開催し、共同声明で「ドルはもう少し安い方がよいと思うので、ドル買い協調介入を行います」と宣言した。これがプラザ合意である(1985年9月)。

*実際の声明はもっと婉曲的で「ある程度のドル安(+その他の通貨高)に向けてG5各国が密接に協調する用意がある」。

裏で交わされていた詳細な合意の内容は以下の通り。

  • 目標は10%から12%のドル下方修正(1ドル240円→218-214円)
  • 6週間程度・180億ドル目途の協調介入
  • 介入資金の負担は米・日がそれぞれ30%、独25%、仏10%、英5%

*なお、日本は同時に、国内市場の一層の開放規制緩和金融緩和(低金利)金融・資本市場の自由化消費者金融・住宅金融拡大による民間消費・投資の増大を通じた内需拡大の努力なども約束させられた(ドイツも似たような約束をさせられた)。

G5全体にある程度言えることだが、ここでは日本の資金負担の大きさに注目しよう。

日本は、1970年代と同様、アメリカの失敗の後始末のために力を尽くした。それも、日本が自ら申し出て、気の進まないアメリカを宥めすかして、実現に漕ぎつけたのである。

https://marketbusinessnews.com/plaza-accord-definition-meaning/

(4)利下げ要求に屈し、バブルに向かう日本

これを機にドルは暴落した。そこまで下がるとは誰も思っていなかったようなのだが、実際には大暴落し、みんな(とくにアメリカ)に衝撃を与えた。70年代末からのドル高が「ドルの強さ(=信認)」とは無関係の投機的バブルに過ぎなかったことがあからさまになったからだ。

*ドルは協調介入を待たずに下落を始め、予定より少ない102億程度の介入で目標値に達した。下落は続き、日独のドル買い介入にもかかわらず、86年7月には1ドル150円まで下がった。87年2月にはG7が再び協調介入する用意があることを宣言して市場のドル売りを牽制したが(ルーブル合意)、5週間後には再び下落が始まった。

実は、1980年代前半のドル高を支えていたのは、海外民間資本の対米投資とりわけ「ジャパン・マネー」と呼ばれた日本の機関投資家(とくに生保、証券会社の投資信託など)だったという。そして、彼らは、ドルの暴落で大損をして、急速にアメリカへの投資意欲を失った。

*生命保険7社は86年6月の決算で1兆7000億円の為替差損を計上したという。

そうなると、困るのはアメリカである。日本からの投資は、アメリカの赤字ファイナンスに欠かせないものでもあるからだ。

ドル安の状況下で日本の投資マネーを呼び込むには、アメリカの金利を為替差損を補うにあまりあるレベルにまで上げるしかない。しかしアメリカは金利を上げたくなかった。利上げ(=通貨供給量減)は回復基調にあった景気に水を差す可能性が高かったからだ。

そこでアメリカが何をしたかというと、日本(とドイツ)に圧力をかけ、利下げを要求したのである。

*アメリカが金利を上げなくても(あるいは下げても)日独が十分に(アメリカ以上に)金利を下げれば金利差により日独の投資マネーはアメリカに誘導される。

*利下げは日独にとってはいわゆる「金融緩和」(市場に流通するおかねを増やす)政策なので、アメリカとしては、投資マネーの誘導と、両国での内需拡大による対米貿易黒字の減少の両方を狙った形である。

日本(とくに日銀)は(少しは)抵抗した。しかし、結局、1986年1月から87年2月にかけて、5回の利下げ(公定歩合引下げ)を行ったのだ。

5回のうち最初の2回については、日本の景気対策として意味があったと解釈することが不可能ではない。プラザ合意後の急激なドル高の影響で、日本経済は景気後退局面に入っていたからだ。

しかし、86年11月以降の3回に関しては、日本にとっては有害無益であったことが明らかである。日本経済は1986年中頃からは「内需主導型の景気拡大」局面に入ったとされており、そこでさらに利下げ(金融緩和)を行えば、景気の過熱を招くおそれが強かったからである。

それでも日銀が3回の利下げに応じたのは、「国際協調」。つまり、その時々の事情(選挙など)に応じたアメリカの強い要請か、アメリカの機嫌を取りたい日本政府の要請に押されてのことである。

一連の利下げが日本国内でどう受け止められていたのか。3回目の利下げ直後の日本経済新聞、朝日新聞の記事から引用しよう。

日銀が利下げをためらってきた理由の1つとしては、カネ余りの中でそれが経済の一部をさらに投機化させるという心配があげられていた。だが、その原因は「余ったカネ」に見合うだけの国内の投資先が不足しているところにある。金融政策内部だけでの解決はもともと無理だったとみるべきだろう

日本経済新聞(1986年11月1日)

日銀が利下げをためらってきたのは、このため〔貯蓄で生活する人への配慮〕ばかりではない。通貨供給量の伸びが大きく、だぶついたカネが有利な運用先を求め、動いている。地価の高騰は東京の都心や高級住宅地から周辺部や地方の主要都市に広がり出した。日銀は、土地転がしのための融資を抑えるよう呼び掛けているが、金融機関の側も社会的責任を自覚してもらいたい。また住宅づくりを促す税制上の優遇措置が投機をあおっている面もあるので、土地譲渡の利益への課税強化なども必要だろう

朝日新聞(1986年11月1日)

(5)バブルが弾けて

1980年代、巨額の対米黒字を抱えた日本は、アメリカの顔色を窺いつつ、「国際協調」の枠内で、国際社会における地位を高めようと努力した。プラザ合意を積極的に主導したのもそのためだったといえる。

1980年代末になると、経済成長によって自信を付けた日本は、アメリカに「物申す」姿勢を見せはじめる(↓)。この時期の景気拡大は、高度成長期以来の高い設備投資の伸びに牽引された、実体のあるものだった。当時、日本人が感じた自負心には、相応の根拠があったのだ。 

*盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』の出版は1989年。

しかし、度重なる利下げと(アメリカの要請による)金融・資本自由化の進展は、実体経済の成長をバブルに変えてしまった。

バブルがはじけ、低成長が10年も続いた後には、「物申す」気概も実力もなくなり、日本は「ドル覇権」を支える末端の役人のようなポジションに追いやられていたのである。

*ただし、私の理解では、アメリカは覇権を取るためにWW2を戦ったわけなので、もし仮に日本が順調に力を付けてアメリカに対抗する姿勢を示していたとしたら、適当な理由を付けて軍事的または経済的に攻撃され、結局は屈服を強いられていたに違いないと思う。

ヨーロッパ・日本の立ち位置

「ドル覇権」における(当時から現在に至る)旧G5の立ち位置は、以下のようにまとめることができる。

イギリスは首謀者だから仕方がない。しかし、残りの3国は悲しい。

フランス、ドイツ、日本は、以後、ドル覇権を支える役人として、アメリカの側に立って行動していく。それによって、次第に、発展途上国や新興国に対する「加害者」としての性格を強めていくのである。

(続く)

(2)変動相場制下の為替介入 ー 後始末をするG5」の部分が、本記事と深く関わります。
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ①ドル覇権とは何か

はじめに

この記事は「基軸通貨ドルー私たちはどんな世界に暮らしてきたのかー」というタイトルで始めた連載の最終回である。

数年前から「どうも西側世界の鏡は歪んでいるようだ」と感じて探究を続け、「かなり分かった」と思ったところでウクライナ戦争が起きた。

ウクライナ戦争をめぐる西側世界の動きは「なぜ?」の連続で、これを理解して、同じように「知りたい」と思っている人たちと共有するには、まだ何かが欠けていると感じた。

*ウクライナ戦争ではピンと来なかった人たちも、ガザ危機で同じ疑問を持ったのではないでしょうか。

その最後のピースがこれ。
「基軸通貨ドル」である。

私と同じように「なぜ?」と思うような方は、おかねの話に詳しくない方が多いと思う。でも、素直に現実を見てみれば、現代では、おかねは、事実上、食物であり、資源であり、武器である。生物としての人類の争いが、おかねをめぐる争いという形をとるのは、たぶん、当たり前のことなのだ。

おかねをめぐってどんどんおかしな方向に進んでいく世界の物語。
どうぞお楽しみください。

ドル覇権とは何か:途方もない特権を持つアメリカ

アメリカに覇権が移ったのは第二次世界大戦の後だが(こちらをどうぞ)、基軸通貨ドルの下での通貨システムが現在の形で定まったのは、1971-73年を経た後のことである。

ここではその体制のことを「ドル覇権」と呼ぼう。

この体制の特徴は、基軸通貨国アメリカが持つ途方もない特権にある。4点にまとめよう。

*以下の記述が誇張でないことは日本大百科全書(ニッポニカ)の「通貨発行特権」の項(中條誠一)をお読みいただければ分かると思う(最後の一文が虚しくて好きです→「本来はこうした特権をもつ基軸通貨国は、節度ある経済運営を行い通貨価値の安定を確保するという義務を負っている」)。

①基軸通貨であるドルを作りたいだけ作ることができる

基軸通貨を作ることができるというのは、基軸通貨国の基本的な特権である。

*国際取引のほとんどは基軸通貨で行われるため、他国は輸出で基軸通貨を稼ぐか(通常は基軸通貨国の金融機関から)借りるかしなければ取引に参加できないが、基軸通貨国だけは、自国で通貨を作り、それを使って取引を行うことができる。

しかし、アメリカが持っている特権は、ただ「作ることができる」というだけではない。アメリカは、基軸通貨ドルを「作りたいだけ」作ることができるのだ。

かつてのポンドは金本位制の下にあった。そして、1971年8月15日以前のドルも、金=ドル本位制の下にあった。

*金=ドル本位制とは、ドルは金を裏付けとし(ドルと金を固定相場で結び、アメリカはドルの金兌換を保証する)、ドル以外の通貨はドルまたは金に対して相場を固定する通貨システム。実際には金を基準に選んだ国は一つもなく皆ドルを基準としたので、各国通貨の対外的価値はドル(を媒介として金)が支える格好になった。

金本位制の下では、基軸通貨国は、他国の中央銀行が「金に変えてくれ」と求めてきた場合、それに応じる義務を負う(基軸通貨の金兌換義務)。

つまり、かつてのイギリスおよび(1971年以前の)アメリカが持っていた「通貨発行特権」には、「金兌換義務を果たすことができる限度で」という制限が付いていたのである。

*金の保有量に合わせるのがもっとも安全だが、基軸通貨の信用が保たれていれば無闇に金兌換を求められることはないので「他国から信頼される経済運営」が条件ともいえる。

ところが、1971年8月、ドルを作り(そして使い)すぎて、金のストックがなくなりかけたとき、アメリカは、金兌換義務を放棄した(経緯はこちら)。

金兌換義務の放棄で、ドルの信用はもちろん低下した。しかし、ドルが基軸通貨の地位を追われることにはならなかった。

その結果、アメリカは、歴史上初めて、無制限の基軸通貨発行特権というものを手に入れたのである。

②赤字を出せば出した分だけ、他国から好条件の融資を受けることができる

アメリカの経常赤字が大変なことになっているのはご存じであろう。

世界経済のネタ帳 より

アメリカの経常収支は1970年代末から赤字になり始め、赤字は拡大の一途をたどった。にもかかわらず、決して国家財政が破綻することはなかった。

なぜかというと、アメリカが金兌換義務を放棄した結果として、ドル覇権システムの中に、「アメリカの出す赤字は(ほぼ)自動的にアメリカに対する融資となって戻ってくる」という仕組みが組み込まれたからである。

どういうことか。

アメリカの赤字とは他国の黒字である。1970-80年代であれば日本やドイツ、それ以降であれば産油国や中国が対米黒字でドルを蓄積した。

この国々が稼いだドルを資産として保有したいと考えたとき、かつてであれば、金に交換して安全資産として保有するという方法があった。しかし、ドルが金と切り離されたとき、タンス預金(紙幣を手元に置いておく)以外の方法は(実質的に)一つしかなかった。

ドル金融市場における投資(国債、株式、預金など)である。

ドル金融市場における投資は、投資国から見れば資産だが、アメリカから見れば債務すなわち「借金」である。

つまり、アメリカは、赤字を出せば出すほど、その分のおかねを他国が貸してくれるという、不思議な構造の中にいるのである。

もちろん、債権国は、建前上は、債務を引き上げることもできるし、厳しく取り立てることもできる。しかし、それをやって、アメリカの財政が本当に破綻したらどうなる?

彼らが持っている資産は、すべてパーになってしまうのではないか?

というわけで、日本を含む西側先進国はいつのまにやら一蓮托生。アメリカに倒れられては困るので、積極的かつ必死に支えざるを得ない、という状況が、1970年代にはでき上がっていたのである。

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③借りたおかねを信用の源として他国に融資をし、支配的な影響力を及ぼすことができる

基軸通貨の金融機関にはおかねが集まる(「世界の銀行」)。アメリカの場合、経常赤字の多くが自国の金融機関に戻ってくるのだから、その金額は膨大だ。

金融機関にとって、預金は信用の源である。預金が多ければ多いほど信用は高まり、その分だけ多くの貸付ができるようになる。

そういうわけで、アメリカは、金兌換義務を放棄することによって、多額の経常赤字を出し、多額の債務を抱えつつ、同時に、多額の対外貸付を行い、債権者として強い影響力を及ぼすことができるという不思議な地位を手に入れたのである。

アメリカの(とくに民間の)対外融資はしばしば相手国に債務危機を生じさせたが、アメリカはIMF(国際通貨基金)を手足として利用して、債権を確実に回収させた。詳しくは後述するが、アメリカにとって、通貨覇権を、債権確保の手段でもあったのだ。

④経済制裁を通じて「世界の警察」としてふるまうことができる

基軸通貨国でなくても経済制裁を実施することはできる。しかし、基軸通貨国が行う場合の効果は圧倒的だ。

アメリカから金融制裁(資産凍結、金融システムからの締め出し等)を受けるということは、事実上、一切の国際取引(貿易や資本取引)からの排除を意味していた。ドルが基軸通貨である以上、国際決済のほとんどはドル建てで行われるのだから。

この地位を利用して、アメリカは、キューバ、イラン、北朝鮮、シリアなど、恣意的に選んだ国々を国際取引のネットワークから排除し、「悪」のイメージを押し付けるとともに、その経済発展を妨げてきた。

この点は、後述の(投資による)「途上国の搾取」の問題と並んで、いわゆるグローバル・サウスがドル覇権に反感を抱く理由の一つとなっている。

*ちなみに下はアメリカの対キューバ制裁の解除を求める国連決議(2023年11月3日)の結果。アメリカとイスラエルだけが反対。31回連続で採択されているという。

ドル覇権の社会・経済的帰結:格差、搾取、終わらない戦争 

(1)根本は「おかねの増えすぎ」

基軸通貨国が上記のような特権を持っている以上、世界に流通するおかねの量が劇的に増えるのは当然だ(↓)。

どうにもバカバカしいことだが、以後、この「おかねの増えすぎ」こそが、世界の顕著な特徴を形づくっていくことになるのである。

ドル覇権下のおかねの量(https://www.bullionvault.com/gold-news/all_the_money_in_the_world_102720093
2008年以降はGDPを超えているという(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO23437180U7A111C1MM8000/

(2)増えすぎたおかねの活用ー金融部門の極大化

おかねは、市場を作り出し、産業(財やサービスの生産)を活性化し、社会のすみずみに物資を送り届ける機能を持つが、それ自体は富ではない。

1970年代、出生率の低下とともに経済成長が頭打ちとなった先進国に送り込まれた大量のおかねは、スタグフレーション(不況+物価の持続的上昇)と呼ばれる現象をもたらした。

有効活用されなかったおかねは、ただ市場にあふれて自らの価値を下げ、物価のみを押し上げたのだ。

*おかねの価値が下がると、同じものを買うのにより多くのお金が必要になり、物価が上がります。

苦境を経た先進国は、1980年代、増えすぎたおかねの新たな活用先を見出す。それが、金融である。

先進国は競って金融自由化を推し進め、ありとあらゆる金融手法を実用化した。「おかねがおかねを生む」錬金術に目を眩ませた人々は、増えたものが(富ではなく)ただのおかねであることを忘れ、「永遠の経済発展」が可能になったと信じた。

そして、この「金融部門の極大化」は、世界の通貨供給量の増加にさらに拍車をかけたのである。

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(3)格差社会に「付加価値」経済

増えすぎたおかねは、先進国では、金融にアクセスできる一部の者とそれ以外の者の間の極端な経済的格差を生み出した(とくに極端なのは米英)。

実体経済(収益・賃金・消費)は拡大せず、一般の人々の可処分所得は増えないが、どこかに大量のおかねがあり、それを手にする人間がいる。

そのような社会では、一般の人々の富はむしろ減っていく。大量のおかねが流通しているせいで、土地や住宅をはじめとする生活必需品の価格は下がらない(むしろ上がる)からだ。

それをよく示しているのが下のグラフである(↓)。アメリカにおける賃料と世帯収入(いずれも平均)の上昇率の推移を表している。

1985年以降、収入は大して上がっていないのに賃料はどんどん上がっている。株価が上がろうが、平均的な世帯の暮らしは苦しくなる一方なのだ。 

アメリカにおける賃料と世帯収入
https://x.com/WinfieldSmart/status/1701227710100484477?s=20

もう一つ、重要なことがある。

おかねが増え、増えたおかねが一部の者の手に握られると、その一部の者の水準に引き寄せられて、普通の人がごく普通に暮らしていくためのコストが上がる。

この変化は、普通の人のなりわい(日々の仕事)にも跳ね返るのだ。

人々は、普通の人の普通の需要を満たすだけでは食べていけなくなって、超富裕層のインバウンド需要を呼びこんだり、やたらと高級な米とかシャインマスカットとかを作るよう強いられる。

人間界では若者や社会人が日々心をすり減らし、自然界では環境や天然資源への負荷が高まり続ける(↓)。それは、この「付加価値経済」が、あらゆる人に、あらゆる領域で、「無意味なフロンティア開拓」を迫っているせいなのである。 

おかねの量と比例している気が・・

(4)途上国の搾取、環境破壊

ドルは基軸通貨であるから、増やしたドルを手にした人々は、世界中の富を買い漁ることが可能であったと思われる。

例えば土地。 

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4678b772cd0d698ff49b83e4ad53b13b3fe4cdaa六辻彰二さんの記事(2018年3月10日)より)

しかし、土地以外の財は、継続的に富をもたらすことがない。そこで、より好まれたのが、投資である。

低成長時代に入った先進国は、途上国が持つ「伸びしろ」を、有望な投資先とみなした。そこまではポンド覇権下のイギリスと同じだが、この時代(現代)の投資家の目的はあくまで自己利益(それも短期的な)なので、強引に貸し付けては気まぐれに引き上げるようなまねをして、途上国経済に深刻なダメージを与えた。

途上国においてもっとも手っ取り早くおかねを稼ぐ方法は天然資源の開発である。先進国からの資金の多くは資源開発=環境破壊のために用いられ、途上国は膨れ上がる債務の返済のために天然資源を売った。

例えば、南米アマゾンの破壊ではブラジルの歴代政府が批判されることが多いが、開発を促したのは先進国のおかねなのである。

先進国から途上国への投資の問題は、「ドル覇権 VS グローバル・サウス」の対立の核心なので、後で(③)詳しく扱うことにしよう。

世界全体の森林破壊は1980-90年代にピークを迎えている(https://ourworldindata.org/deforestation

(5)戦争

アメリカの対外赤字の源泉の一つは軍事支出である。WW2後のアメリカは共産主義封じ込めのためにあらゆる国に軍事支援を行い、自らも戦闘を行った。アメリカを金=ドル本位制の放棄に追い込んだ直接的な要因は、ベトナム戦争における多額の軍事支出である。

朝鮮戦争やベトナム戦争以外にも、アメリカは、CIAなどの諜報機関を通じたきわめて多数の秘密作戦や、単独ないし多国籍軍を主導する形での多数の戦争を実行している。

アメリカがこれだけの軍事費(表に出ている分だけでこの額↓)を支出できるのは、もちろん、上述の「特権」のゆえである。

しかし、話はこれで終わらない。ここからがより重要なのだ。

アメリカはかつて、ドル覇権に基づく経済的な「特権」を利用して戦争を戦っていた。冷戦の終結で戦争が必要なくなったとき、アメリカは、自国経済が「ドル覇権」なしに成り立たなくなっていることに気づいた。そこで、アメリカは、今度はドル覇権に基づく経済的な「特権」を守るために、再度軍備を増強し、終わりなき戦争を戦いはじめた、というのである。

もちろん、これは一つの仮説にすぎない。しかし、2000年以降の軍事支出の増大(↓)、冷戦終結後もなぜか終わらない戦争、金融危機(2008)の後の再度の軍事的活性化(ウクライナでの各種工作を含む)という事実は、「基軸通貨特権を守るための戦争」という仮説に、非常によく合致している。

https://data.worldbank.org/indicator/MS.MIL.XPND.CD?end=2022&locations=US&start=1960&view=chart

次回に向けて

第二次世界大戦直後、基軸通貨ドルを誕生させ、その信用を支えたのは、アメリカの経済的実力だった。しかし、ドル覇権(1971-3以後)は違う。

ドル覇権は、アメリカの経済力・経済的信用の低下によって生み出されたシステムである。現在、ドルの信用を支えているのは、アメリカというより、実質的には、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係なのである。

西側諸国は、ドル覇権の一部を構成している。何がどうしてこうなったのか。それが次回のテーマである。