目次
- はじめに
- 1 古代からイスラム化まで
- 2 ザイド派王朝の成立(859年)
- 3 ポルトガルのアデン支配
- 4 オスマン帝国の支配ー南北対立の原点
- 5 イギリスの支配下に入る南イエメン
- 6 北イエメンの独立:イエメン王国(1918年)
- 7 イエメン革命:イエメン・アラブ共和国の誕生(1962)
- 8 強権的な指導者の下での近代化:サーレハ政権の成立(1978-2012)
- おわりに
はじめに
イエメン情勢について学んでいると、南北の対立とか、そのときどきの為政者と部族勢力の対立といった要素が繰り返し出てきて「なんか複雑でよくわからない」という印象を持ちやすい。
しかし、背景を知ればそれほど複雑な話でもないので、大まかな流れを追いつつ、要点を説明していきたい。
下の図表のうち、1990年頃から後(革命期)は次回に回し、この記事ではそれ以前の部分を扱う。
○ イエメン国の歴史(図表)
1 古代からイスラム化まで
サバア王国、ヒムヤル王朝などの古代王朝が栄えた後、7世紀(ムハンマド存命中)にイスラム化。紅海沿岸の平野部がスンナ派、北部の高地一帯がザイド派の地盤として確立していく。
前回書いたように、ザイド派という「非主流」は、ウマイヤ朝、アッバース朝などの中央のイスラム王朝に対抗して生まれたものである。
したがって、イスラム化の後、「平野部がスンナ派、北部がザイド派」で固まったという記述の要点は、ウマイヤ朝やアッバース朝の成立でスンナ派が普及していくアラビア半島の中に、それとは異質の「ザイド派地域」が誕生したという点にある。
*つまり、平野部と北部の宗教的相違は、イエメン内部の対立の存在を示唆するものではない(そもそも「イエメン内部」などという概念はないし)。
ザイド派地域が生まれたことのイエメン史における重要性はいくら強調しても足りない気がする。
何がそんなに重要かというと、ザイド派地域の成立は、ここにイエメンという独立国家の形成を可能にする核が誕生したことを意味するからである。
この後の歴史を通じて、ザイド派の地域は、アラブ地域を席巻するウマイヤ朝、アッバース朝、そしてオスマン朝という正統イスラム王朝に馴染まない、独自のアイデンティティを持つ共同体であり続ける。
だからこそ、イエメンは、1918年という比較的早い時期に独立国家を再建することができたのだし(イエメン王国(1918-))、サウジに呑み込まれることもなかった。
そういうわけで、イエメン史においては、つねにこの北部ザイド派地域が強い存在感を発揮していく。
*勢い、この記事でも北イエメンを中心に歴史を追うことになる。
そして、イエメンの場合、南北対立の根っこにあるのも、北部の存在感の強さに他ならない(→それ以上に複雑なものではない)ように思える。より大きな枠組み(オスマン帝国とか)の中にいる分にはよいのだが、イエメンとして統一国家を形成しようとすると、どうしても、態度がデカく圧の強い北部が支配的となり、それに対して南が反発するという構図が生まれてしまうのだ。
2 ザイド派王朝の成立(859年)
ムハンマドの死後、ウマイヤ朝、アッバース朝の領域に入るが、9世紀、北部にザイド派の王朝が誕生。
ザイド派のイマーム、ヤヒヤ・アリ・ハーディ(Al-Hadi ila’l-Hagg Yahya)(859―911)が王朝を創設。これが1970年まで継続するザイド派イマーム王朝である。
一般的な地図を見るとこの地域はウマイヤ朝、アッバース朝の版図内であるが、おそらく、その間も、地域勢力として維持されていたということなのだろう。
*859-1281年頃の王朝を「ラシード王朝(Rassid Dynasty)」と呼ぶ例がある(「ラッシー朝」とも)。初代国王のヤフヤ・アリ・ハーディが、ザイド派創設者の一人 Al-Qāsim ibn Ibrāhīm al-Rassī (785-860)の孫で、この期間はラッシー家の出身者がイマームとなることが多かったためで、9世紀のイブン・ハルドゥーンの文献に由来するという(一方で、アラブ地域での他の資料に「Rassid」とか「Rassi」とするものはないらしい)。
しかし全体として見ると、イエメンのイマームは必ずしも世襲ではなく、血統として(一応)重視されていたのはムハンマドの血統であるということのようである。1918-1968年のイエメン王国は「Hashemite Mutawakkilite Kingdom」と称していたようなのだが、このHashemiteは「ハーシム家」、つまりムハンマドの血統の王朝であることを自称する趣旨と思われる。
○ イエメンの権力構造 ー 部族勢力とは何か?
ここで、イエメン史の理解に欠かせないキーワード「部族勢力」について説明しておこう。
ザイド派イマーム王国が誕生し、一応イマームが王として君臨することにはなったが、これによって、ザイド派イマームを中心とする安定した中央集権体制が確立したというわけでは全くない。
むしろ、一定の自律性を保った部族単位の地域共同体があって、イマーム=国王はそのリーダーたちをどうにか手懐けて国をまとめる、という感じであったようだ。「部族勢力」とか「部族長」という言葉は、この人たち(およびその共同体)のことを指している。
この「部族勢力」「部族長」は、日本史でいう大名(↓)に近いものと考えると分かりやすい(と思う)。血縁・地縁に基づく共同体の長であり、長い歴史を通じて形を変えながら、そのときどきの為政者の下で、つねに影響力を発揮してきた勢力、という感じだ。
大名とは、本来私田の一種である名田の所有者をいい、名田の大小によって大名・小名に区別された。すでに平安末期からその名がみえ、鎌倉時代には、大きな所領をもち多数の家子・郎党を従えた有力な武士を大名と称した。南北朝から室町時代にかけて、守護が領国を拡大して大名領を形成したところから守護大名と呼ばれたが、守護にかわって新しく台頭し、在地土豪の掌握を通じて一円地行化しを推進した戦国時代の大名は戦国大名とよばれた。こうして形成された大名は、江戸時代に入って近世大名となり、大名領を完成、幕府を頂点とする幕藩体制を完成した。‥‥
日本大百科全書(ニッポニカ)[藤野保]
この部族勢力の政治力・軍事力はなかなかのもので、彼らはつねにイエメン史の動きに大きな影響を与えている。
イエメン内戦でエジプトのナセル大統領を「ベトナム」の泥沼に引きずり込んだのも彼らなら、国王支持から共和制に鞍替えして連立政権に参画し、内戦を終わらせたのも彼らである。そして、いま現在、革命を率いている「フーシ派」も、部族勢力の若者たちなのだ。
*次回詳しく扱うが、「フーシ派」(アンサール・アッラー)の立ち位置は、幕末の若い藩士・浪士たちとそっくりである。
3 ポルトガルのアデン支配
1538年にオスマン帝国がポルトガルを攻撃する拠点としてアデン(↓)を一時占領したが、アデンの人々はオスマン人を撃退。敵方のポルトガルを招き入れ、アデンはこの後しばらくの間ポルトガルの海洋貿易ネットワークの拠点として大いに栄えた。
*この時期のイエメンの繁栄ぶりは1500年代から1600年代にこの地に到達した西洋人の探検家の記録に残されているという(Lodovico de Varthemaの探検記(Travels through Arabia and Other Countries in the East, 1892年)やCarsten Niebuhrの調査記録)。
4 オスマン帝国の支配ー南北対立の原点
1551年、オスマン帝国が再びやってきてアデンを占領。イエメン全土の支配を狙うが、ザイド派の地盤である北イエメンの人々は抵抗を継続。オスマン帝国に抵抗する北イエメンと帰順した南イエメンの間に亀裂が生じ、緊張関係が顕在化する。
オスマン帝国が侵入し、北部ザイド派地域(北イエメン)以外の人々はオスマン帝国に帰順したが、スンナ派のオスマン帝国を侮蔑し自らの王朝を維持していた北イエメンの人々は決して抵抗を止めなかった。
*とはいえ、支配を免れたというわけではない。オスマン帝国の最大版図の地図を見ると(↓)サナアは含まれているしサーダ、マーリブなどの都市も含まれているように見える。(→二段落下に追記があります)
その結果、国は二分され、発展も阻害され、1880年代後半に大英帝国がやってきた頃には、「寂れた伝説の港湾都市の周囲にある弱体で分裂した国家」に成り下がっていたという。
しかし、自立した国家としてのアイデンティティが保たれたことで、北イエメンは早期に独立国家を形成していくのである。
【追記】オスマン帝国とイエメン:やや詳しいことがわかったので追記します。北イエメンの人々の抵抗(反乱)によって、オスマン帝国は1635年に一旦北イエメンから撤退(ザイド派最高指導者カシム・イブン・ムハンマド率いる1595年の反乱が知られる。他にもあるのかどうかは不明)。北イエメンでは再びザイド派イマームの支配体制が確立したもようです。しかし、オスマン帝国の北イエメン支配は、19世紀に復活します。オスマン帝国は、西欧を模範とした「近代国家」に生まれ変わるべく、分権化が進んでいた地域に対して中央の統制を回復する再集権化を図ったためです(「タンジマート改革」の一環)。具体的な年月はわかりませんが、おそらく19世紀中盤から後半と思われます。要するに、北イエメンのザイド派イマーム王国は、16世紀のオスマン帝国の侵入を数十年かけて退け、19世紀の再支配にも抵抗して1918年に独立を回復した、とそういうことであったようです。(加藤博「オスマン帝国支配下のアラブ」鈴木董編『パクス・イスラミカの世紀』(講談社現代新書、1993)179頁、鈴木董「「西洋化」するオスマン帝国」坂本勉・鈴木董編『イスラーム復興はなるか』(講談社現代新書、1993)35頁参照)(カシム・イブン・ムハンマドの反乱のくだりはこちら)
5 イギリスの支配下に入る南イエメン
◉1839年、イギリスがインド貿易の中継地としてアデン湾を占領。南イエメンは保護領としてイギリスの支配下に入った。
◉1869年のスエズ運河開通やペルシャ湾岸の原油発見でアデンの経済的・軍事的重要性が高まり、1937年にはアデンがイギリスの直轄植民地に格上げ。第二次大戦後にはアデン植民地と保護領を併合して南アラビア連邦を結成させた。事実上のイギリス支配は1967年まで継続。
◉独立した南イエメンはマルクス・レーニン主義の国家(南イエメン人民共和国)となり、1970年にはイエメン人民民主共和国に改称した。
6 北イエメンの独立:イエメン王国(1918年)
北イエメンでは、オスマン帝国のWW1敗戦が決まった1918年10月30日にザイド派王朝のムタワッキライト王国(通称イエメン王国)が独立を宣言。
ザイド派のイマームで国王のアル=ムワッタキル=ヤヒヤ=ムハンマド=ハミードゥッディーンがムタワッキライト王国(Hashemite Mutawakkilite Kingdom)の独立を宣言。西アジア初の独立アラブ国家の成立となった。
この国王ヤヒヤは、外国からの干渉を怖れ、極端に孤立主義的な国家運営を行ったことで知られている。ヤヒヤ自身イエメンを出たことはなく、サナア高地を出て紅海を見たことすらないと言われる。
もし、豊かだが従属的な国家と、貧しいが自立した国家のどちらかを選ばなければならないなら、私は後者を選ぶ
ヤヒヤ・ムハンマド・ハミードゥッディーン
その結果、第一次世界大戦後、世界中が近代化を進めていく中で、イエメンだけは発展から取り残され、「前近代」状態が維持された。
*とはいえ、北イエメンは「前近代」で満足する限りは、孤立が可能な程度に豊かな土地だったということもあるのではないかと思う。このことは、もしかすると、現代イエメンの意外なしぶとさとも関係があるかもしれない。
そんなヤヒヤだが、1940年代後半には、統治技術や軍事戦略の勉強のために士官学校の学生を海外留学に送り出している(名誉ある40人(the Famous Forty))。行き先はイラク、アメリカ、エジプト。
タイムマシーンで運ばれたかのように前近代から現代に送り込まれた彼らは、世界の現実を見て大きな衝撃を受ける。彼らは、当時の西アジアを席巻していた(エジプト・ナセル大統領が主導した)アラブ民族主義の洗礼を受け、のちのイエメン革命を率いることになるのだ。
○サウジ・イエメン戦争(1933-1934)
アラビア半島南部では、1918年にイエメン王国が独立した頃(1918年)からサウード家が勢力を拡大、いくつかの領域を統合してサウジアラビア王国を成立させた(1932)。こうした動きに伴い、サウジとイエメンの間でも国境画定をめぐる紛争が起き、ごく短期間の戦闘を経て、サウジが勝利。イエメンはサウジにジーザーン(Jizan)、ナジュラーン(Najran)、アスィール(Asir)等(↓地図の黄色部分)の正式領有を許すことになった。
この戦争は、国王ヤヒヤ、そして国民(とくに北部部族勢力)の双方に大きな影響を与えた。
まず、国王ヤヒヤは、部族勢力があっけなくサウジ軍との戦闘に敗れたのを見て強い危機感を覚え、正式な軍隊の創設、そして国家体制や軍の近代化に動いた(「名誉ある40人」もその一環であろう)。
他方、国民とりわけ北部の部族勢力は、国境エリアの山岳地帯(ヤヒヤや部族勢力の先祖の地であるようだ)をサウジに譲り渡してしまったヤヒヤに不信感を抱いた。
自分たちこそがイエメンの伝統の担い手であると自負する彼らは、数十年ののちに国王を見限る。一部の者(エリートの青年たちだ)は革命を率い、その他の者は、しばらく逡巡した後、共和国政府を支持・参画していくのである。
7 イエメン革命:イエメン・アラブ共和国の誕生(1962)
・青年将校の連合軍が蜂起。王宮を襲撃し、王制(イマーム制)の終焉とイエメン・アラブ共和国の誕生を宣言。アブドッラー・アッ・サラール(Abdullah al-Sallal)が大統領に就任。
・国王ムハンマド・アル=バドルは生き残り、彼の下に結集した国王派と共和国派(新政府)との内戦が始まる。
・エジプトは新政府を支援しエジプト軍を派遣。これを脅威と見たサウジアラビアは王党派を支援した。
・イエメン内戦は、エジプトのナセルに「私のベトナム」と言わせる長く困難な闘いとなり、第3次中東戦争後にエジプトが撤退した直後の1968年には国王派のクーデターが成功。アッ・サラールの革命政府は倒れ、一時的に王政復古が実現。
・しかし、クーデター後、共和国の第2代大統領に就任したイリアーニは(経緯は不明)、国王側を支持していた部族勢力と共和派の融和を基礎とする新たな連立政権の構築に成功。内戦を終結させ、共和国の基盤を固める。
・国王アル=バドルは敗北を認め「イエメンを救うため」と演説して亡命(1970年)。869年以来のザイド派イマーム王朝が終了した。
北イエメンは、1962年9月26日の革命で、王制が倒れ、共和国に生まれ変わる。民主化革命には違いないが、男性識字率50%超え(1980年)よりもだいぶ前なので、エリートの革命と考えた方がよいだろう。
*実際、この後も、イエメンを率いるのは概ね「開発独裁」的な、近代化志向の強い強権的リーダーである。
革命時の国王はヤヒヤを初代と数えると3代目。父でありヤヒヤの息子である2代目が亡くなり3代目のアル=バドルが国王・イマームに就任した直後の出来事だった。
革命を率いて新政府を樹立した将校たちの多くは「名誉ある40人」などの海外帰国組で、ナセルのアラブ民族主義の影響を強く受けていた。ナセル側も、新生イエメンを重要なパートナーと見て、共和国軍(新政府)を大いに支援した。しかし、この時期はまだ国王に付いていた北部の部族勢力は不屈で、ナセルは、北部の部族勢力の軍事力と、それを支持するサウジのオイルマネーによって「ベトナム」的泥沼に引きずり込まれることになる。
しかし、1967年、第3次中東戦争であっけなくイスラエルに敗北したエジプトは(6日戦争といわれる)、イエメンからの撤退を余儀なくされる。
エジプトの撤退で共和国軍(革命軍)は弱体となり、短期間の王政復古を招いたが、その間に、イリアーニは、ナセル流のアラブ民族主義や社会主義を捨てイスラムに立脚した政府を作ると約束し、1️⃣サウジアラビアにアル=バドルへの資金援助を停止させ、2️⃣北部の部族勢力の支持を取り付けることに成功。
こうして、6年間続いた内戦はついに終了し、イエメンは近代化への道を歩み始めたのである。
なお、ナセル大統領は南イエメンの反英闘争も支援している。南イエメンは反植民地武装組織「イエメンの赤い狼(the Red Wolves in Yemen)が率いた闘争の結果、1967年に独立を勝ち取った(南イエメン人民共和国。1970年にイエメン民主人民共和国に名称変更)。
*本題から逸れるが、この第3次中東戦争は現在のイスラエルーパレスチナ情勢を理解するのに重要なので少し書く。この戦争でのイスラエルの勝利=アラブ連合軍の敗北は、西アジアの盟主たるエジプトの地位を低下させ、イスラエルの軍事大国としての存在感を決定づけた。イスラエルが、それまでヨルダンが支配していた東エルサレム(聖地である神殿の丘を含む旧市街がある)を占領し、エルサレム全市を支配下に収めたのもこのときである。この戦争はパレスチナーイスラエル問題をめぐる政治力学がほぼ現在の形に定まったという点で「世界史的転機」であったと指摘されている(臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』講談社現代新書 2013)。
8 強権的な指導者の下での近代化:サーレハ政権の成立(1978-2012)
その後、北イエメンは、イリアーニ政権(1968-1974)、無血クーデターで政権を掌握したハムディ政権(1974-1977)の下で一定の近代化を果たす。
*イリアーニは1970年に新憲法を公布して総選挙を実施。国会にあたる「諮問議会」を創設した。ハムディは、北部の部族勢力と組んで「軍事評議会(the Command Council)」を立ち上げ、サウジアラビアの支持を受けてイリアーニを追放した後(クーデターは暫定憲法の制定→1970年憲法と諮問会議の機能停止という手法で行われた)、同評議会を解散して自身に権力を集約させ、改革的な独裁者として近代化を推進した。
しかし、ハムディは1977年に暗殺され、その後継者も1年後にブリーフケース爆弾で暗殺。その3日後には南イエメンの大統領も暗殺された。
その混乱の中から、1978年にイエメン・アラブ共和国大統領に就任したのが、「のちにイエメン史上もっとも悪名高い政治家となる」アリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh)である。
サーレハについては、まだあまり詳しいことは書けない。私がイエメンについて調べるときの情報ソースの一人はJoziah Thayerというフリーランスの研究者で、歴史についてもこの人の「History of Yemen Part1」という記事を大いに参考にした(サーレハについての「もっとも悪名高い」の下りもこの記事からです)。
ところが、「Part1」の彼の記述はサーレハ就任のところで終わっていて、続きの「Part2」はまだ出ていないのである。
サーレハは、次回扱う現代史の主要登場人物の一人でもあるので、その部分に関しては信頼できる情報がある(次回書く)。しかし初期のことは何を信じていいか分からないので、「Part2」が出たら補充することを前提に、その他の文献から得た情報で骨格だけを埋めておく(サーレハについてはwikiがかなり詳しい)。
・サーレハ政権は事実上の一党独裁
・南イエメンが(崩壊の過程に入ったソ連からの支援が途絶えて)困難に陥ったことから協議が進み、1990年に南北イエメン統合が実現。国号はイエメン共和国。サーレハはその初代大統領に就任。副大統領は南イエメンのアル=ベイド。
・1993年に総選挙が行われ(投票率95%!)連立内閣が成立したが、政策の不一致から内戦に突入(1994年5月-7月)。
・事実上、北イエメン VS 南イエメンの戦いであった内戦は、スカッドミサイルの飛び交う激しい戦闘の末、北側が勝利。
・その後も国民直接投票による大統領選挙や憲法改正国民投票、第一回地方議員選挙など、いろいろありつつサーレハ政権が継続するが、「内戦終結後も都市部では政治家の暗殺やデモ隊と警察の衝突、地方においても部族間抗争や外国人の誘拐が頻発しており、内政はいまだ不安定」(日本大百科全書 ニッポニカ)という状態が続いた。
おわりに
しかし、こうやってまとめてみると、サーレハ政権の時代は、まったくもって、「幕末から明治ー昭和初期の日本」という雰囲気である。
それもそのはず、この時期のイエメンは、識字率の上昇を基礎とする近代化の真っ最中なのだ。
*識字率50%は男性1980年、女性2006年。出生率低下は1995年。イエメンの人口動態についてはこちら。
その意味で、近代化の正常な過程をたどっていたといえなくもないイエメン。彼らは引き続き正常な軌道の上を進み、正真正銘の民主化革命を実現していく。ところが現在、イエメンは「史上最悪の人道危機」の渦中にあるという。いったい、何がどうして、どうなってしまったのだろうか。
(次回に続きます)