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独自研究のすすめ

 

目次

自然界に善悪はない

写真は夾竹桃(キョウチクトウ)。

私は広島に来るまで見たことも聞いたこともなかったが、広島ではどこにでも生えている。

「広島市の花」なのだ。

東京で見かけなかったのは、毒性が強いせいかもしれない。枝を串焼きの串に使っただけで死亡した事例があるほどで、wikipediaによると

花、葉、枝、根、果実すべての部分と、周辺の土壌にも毒性がある。生木を燃やした煙も有毒であり、毒成分は強心配糖体のオレアンドリンなど(#薬用も参照)。腐葉土にしても1年間は毒性が残るため、腐葉土にする際にも注意を要する。‥‥

なぜそれほど毒性の強いものが「広島市の花」なのか。
市のウェブサイトにはこうある。

原爆により75年間草木も生えないといわれた焦土にいち早く咲いた花で、当時復興に懸命の努力をしていた市民に希望と力を与えてくれました。

放射能汚染にも負けずに咲き誇るその強さと、毒性の高さは関係があるのだろう。自然界には善も悪もないということを思い出させてくれるよい話だと思う。

人間が作った「正しさ」

そう、自然界には善も悪もない。人間社会も自然界の一部なのであるから、やはり、善も悪もないはずである。それなのに、善と悪があり、正義と不正義があるような気がする理由は簡単で、人間がそれを作っているからである。

「正しさ」は、約7万年前に生まれた(多分)。人間が「社会」の中で生きるようになったとき、その社会を統制するために「正しさ」を作ったのだ。

「正しさ」を作ったといえばいかにも不遜な感じだが、カタツムリは殻がなければ生きられないのと同じで1本当にそうかと思って調べてみた。wikipediaにはこうある。「殻と体は別物ではなく、殻は体の器官の一つであり、中に内臓がある。よって、カタツムリが殻から出たらナメクジになるということはなく、殻が大きく破損したり、無理に取ったりした場合には死んでしまう。他の巻貝も同じである。」人間は社会を作らなければ生きられない。人間がそのような生物として存在している以上、社会に奉仕する「正しさ」にも存在意義はあり、それをほどほどに使って社会を整えることは、自然界の法則を侵すことではないだろう。

とはいえ「正しさ」が人間が(脳内で)作り出した便宜であることは、よくよく認識する必要がある。

もし宇宙に「正しさ」というものがあるとすれば、それを司るものは神である。

人間が、架空の「正しさ」を信じ、自ら神であるようにふるまえば、人間は宇宙(自然界)にとって有害な存在となり、やがて淘汰されていくだろう。

学問と「正しさ」

近代以前の世界で「正しさ」を作る最大の権威は宗教であり伝統であったが、近代以降は「学問」がそれを担うようになった。

学問が用いる手法は、近代以前の宗教と比べると、科学的であったり、(議論を重視するという意味で)民主的であったりする。しかし、「正しさを作る」という機能においては、宗教と一ミリも違わない。一ミリもだ。

「いや、少なくとも自然科学は、真実を探究しているのであって、「正しさを作る」などということはしていない」という方がいるだろう(いてほしい)。

半分賛成、半分反対である。

真実というものはある。生物のこれこれの形質がゲノムによって決まっているとか、ゲノム配列がこれこれだとかいうことは真実に属することであろうし、その他自然科学が扱っているほとんどの物事は、真実か真実でないかを問うているといえる。

しかし、自然科学は、それで満足するだろうか。

自然に関する真実の解明は、ほとんどの場合、技術開発につながっており、社会を「よく」したり、疾患や自然災害に「よりよく」対処するために用いられる。

もっとも顕著な例の一つは医学である。

医学は病気を治したり防いだり苦痛を緩和したりするための学問で、医学研究で得られた知見はすべてその目的のために役立てられることになっている。

そこにある「正しさ」は強烈である。「病は治るべきである」「病は防ぐべきである」、もっというと、「人は死ぬべきではない」。このような「正しさ」に仕える立場にあって、純粋に真実を探究するのは、ほぼ不可能だと私は思う。

自然科学は、科学的手法による真実の探究を手段として用いることで、真実とは別種の「正しさ」を作っている。「正しさ」への関与は人文科学に決して劣らないし、影響力の大きさ、そしてしばしばその自覚が皆無である点で、「正しさ構築度」はいっそう高いといえる。

・・・

私が研究者になったのは、自分がどんな世界に暮らしているのかを知りたかったからだと思う。そういう漠然とした気持ちだけがあって、何学部に入ったらいいのかとか、何を研究したらいいのかとかは全然分からなかったが、とりあえず大学に入り、研究者になった。

「世界とは何か(どんなところか)」というのは、真実を問う問いである。いろいろな切り口がありそうだし、みんなが納得する一義的な答えは決してでないであろうが、観察と吟味の積み重ねで、真実に近づくことはできる。そういう問いである。

私は学問とは「世界とは何か」という問いに取り組むことだと信じており、どの学問分野も最終的にはその問いに取り組んでいるのだと思っていた。

実際はそうじゃない、ということは入ってみて分かった。

学問の基本的な仕事は、それぞれの領域に関する「正しさ」を作り、それを責任を持って社会に提供することである。

より質の高い「正しさ」、より(人間の)役に立つ「正しさ」を目指す過程では、真実に触れ、目を瞬かせる瞬間があると思う。しかし、それは、大学に所属する研究者の本業ではない。職務に忠実な彼はすぐに我に返り、何事もなかったように、世間が求める仕事に戻るはずである。

一流の研究者とは

研究者がそのような仕事に従事する場合、人間界の「正しさ」がごく限られた意味しか持たないことを自然に理解していることが理想といえる。

社会内存在である前に宇宙内存在として生き、抑制的に「正しさ」に関わることができる人なら、その行動の全体で、「正しさ」を透過した向こう側の真実を表現できるに違いない。

自然科学の研究者であれば、この点は、一流の学者と二流以下の学者を分ける分水嶺として何となく認められているのではないかと思う。

その人柄を透かしてみたときに、学界しか見えてこない人は三流、人間の社会までしか見えてこない人もせいぜい二流、宇宙が透けて見える人が一流だ。

人間社会に対して真に透徹した目線を向ける人が、社会科学ではなく、自然科学の中からときどき出てくるように思えるのは、きちんと宇宙の中に立っている人が自然科学者には一定数いるからなのだろう。

アカデミアには難しい

人間が、架空の「正しさ」を信じ、自ら神であるようにふるまえば、人間は宇宙(自然界)にとって有害な存在となり、やがて淘汰されていくだろう。

「やがて」と書いたが、人間はもう長い間、その架空の世界で生きており、「正しさ」と真実の乖離は甚だしくなっているように思える。

宇宙(自然界)の観点から見たとき、学問に開かれている大いなる可能性は、宇宙の側に軸足を移し、人間が長年かけて作ってきた「正しさ」を解きほぐす作業に正面から取り組むことだろう。

その学問は、宗教とも旧学問とも異なり、人間を人間が思う災厄から救い出すことを約束するものではなく、人間社会における成功を約束するものでもない。人間に、人間自身を含むこの宇宙と折り合いをつけて、品よく生きる方法を教えるものとなるだろう。

しかし、そのような学問を、現在の学問制度の中で営むことができるかといえば、それは多分難しい。

近代以降の学問は、「より多くを知り(=より多くの「正しさ」を作出し)、自由で民主的で豊かな社会を構築する」という、識字化した人類が抱いた大いなる夢を体現する存在であり、この夢があってこそ、現在のアカデミアの隆盛(肥大ともいう)がある。

アカデミアが自ら率先して宇宙の側に立ち、自らが構築してきた「正しさ」を解体すること、それは例えていえば、18世紀、科学革命の衝撃に見まわれた宗教界が、自ら率先して神の不在を証明する作業に乗り出すようなものといえる。

アカデミアという権威がなくなること、そしてアカデミアが担ってきた「正しさ」の不在が露になることは、「大いなる夢」を内面化するアカデミアにとってだけでなく、虚構の「正しさ」に拠って立つ社会にとっても大変不都合なことである。

「社会の負託を受けて」学問をするアカデミアに、「自ら率先して正しさの不在を証明する」仕事を期待するのは現実的ではないだろう。

幸い(?)、アカデミアは真実を追究する存在であるという誤解が容易に解けることもないだろうし。

独自研究とは何か

そういうわけで、お勧めするのが、独自研究である。

独自研究とは何か。wikipediaに定義がある(一部抜粋)。

独自研究 (original research) とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。

なお、wikiによる「信頼できる媒体」の説明は、つぎのようなものである(一部抜粋)。

一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌です。常識的な判断として、事実の確認、法的問題の確認、文章の推敲などに多くの人が関わっていればいるほど、公表された内容は信頼できます。

Wikipediaが独自研究を排除するのは合理的である。現在の学術制度において信頼性を担保されている情報を提供するのが百科事典の役割だから。

しかし、もし、研究者が、現在の学術制度において評価されることを目指して研究を行い、査読者が歓迎し、主流の新聞や著名な出版社が喜んで出版しそうな研究を行うことを自らの使命としたらどうだろう。

学問は、既存の「正しさ」をなぞり、架空の城をいっそう煌びやかに飾り立てるだけの存在となるだろう。

「もし」と書いてはみたが、これは現実である。研究は行う前から評価が入り、査読論文の本数は研究者としての評価に大きな影響を与える。ほとんどの大学は、現在の学術制度で評価されることが確実な研究を行い、着実に成果を上げ続ける研究者を、理想と考えているだろう。

これを、学問が堕落した結果だと思う人がいるだろうが、そうではないと私は思う。制度としての学問は、最初から、「正しさ」を要求する人間社会に向けて「正しさ」を提供する仕組みとして存在し、その役割を果たし続けているだけなのだ。

大量に生産された「正しさ」のせいで、いっそう真実に近づき難くなっているということはあるにせよ。

再びそういうわけで、独自研究である。

変な言葉だ。

発表前の段階ではすべての研究はoriginalであるはずなのだから(wikiの定義でもそうなる)。

しかし、学問という制度の中では、通常行われる研究はoriginalではない。そのことを示すために、この言葉を選んでいる。

研究としてモノになりそうか、学術コミュニティが認めてくれそうか、先生が評価してくれそうか。世の中に受けそうか、これで食べていけそうか。

そういった社会内計算と無関係のところで、自分の興味だけを頼りに謎に取り組む。

制度としての学問が大いに発達した現代だからこそ、このようなやり方でなければ、真実に近づくことができなくなっている。

「逆説」といいたくなるけど、おそらくそうではない。
単純に、学問とは本来そういうものなのだ。

これは「学問のすすめ」ではありません

念のために言っておくと、人間界の「正しさ」を透過し、真実に近づくために、学問が必要だというわけでは決してない。

「正しさ」に真っ先に(進んで?)騙されるものは知性であり、中途半端な学問は、大抵の場合は「逆効果」となるはずである。

しかし、研究者マインドをもって生まれてきた人間にとって、今ほど面白い状況はなかなかないし、これほどやりがいのある研究課題はないだろう。

何しろ、学問が長年かけて積み重ねてきた「正しさ」が作り物であったことが半ば露わになり、真実がうっすら透けて見えてきているのだから。

架空の世界に住み続けて「正しさ」を練り上げ、世を嘆いて(そうなりますよね?)生きていくのか、それとも、敢然と「正しさ」を解きほぐし、宇宙(自然界)の側に主軸を置いて、真実を見据えて生きていくのか。

どちらが楽しいかははっきりしていると思う。

以上、世間で言われていることや、学問が教えることに違和感を持ち、「本当のことを知る方法はないのかなー」と思っている人に届いたらいいと思って、書きました。

  • 1
    本当にそうかと思って調べてみた。wikipediaにはこうある。「殻と体は別物ではなく、殻は体の器官の一つであり、中に内臓がある。よって、カタツムリが殻から出たらナメクジになるということはなく、殻が大きく破損したり、無理に取ったりした場合には死んでしまう。他の巻貝も同じである。」
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世界を学ぶ

なぜロシアはいま戦争を始めたのか (翻訳・紹介)

以下は、Ted Snider, Why Russia Went to War Now, April 26. 2022, Antiwar.com の雑な翻訳です。

取材と信頼に足る情報に依拠してコンパクトにまとめられた労作です。

ロシアとウクライナの戦争については、この記事この記事で背景事情に関する調査結果を書きましたが、戦争に至る過程におけるウクライナの動きなどをもうちょっと具体的に知りたいと思っていたところ、この記事に行き当たりました。

ウクライナ、アメリカ、ロシアがどう動いたかがよく分かります。

ご関心の方はぜひご一読ください。

* * *

2019年4月、ウォロディミル・ゼレンスキーは、決選投票で73%の票を獲得して大統領に選出された。選挙公約はロシアとの平和的関係の構築とミンスク合意への署名だった。ミンスク合意は、アメリカが支援した2014年の政変〔ユーロマイダン革命〕の後、住民投票で独立派が勝利したドネツク州とルガンスク州(ドンバス)の2州に自治権を約束するものだった。

しかし、平和構築のための重大な責務を引き受けたにもかかわらず、ゼレンスキーはロシアとの外交交渉路線を放棄せざるを得なかった。「もしプーチンとの交渉路線を続けるなら‥‥〔殺す〕」と極右勢力から脅迫を受けたためである(以上は、Stephen Cohen教授(Professor Emeritus of Politics and director of Russian Studies at Princeton)の2019年の発言による)。極右勢力は僅かな支持にかかわらず多大な権力を振るっていた。こうした圧力の下、ゼレンスキーは、「ナショナリストに挫折を強いられた」のだと、Richard Sakwa教授(Professor of Russian and European Politics at Kent)は筆者に語った。選挙公約に反し、ゼレンスキーは、ドンバスの州知事たちとの交渉およびミンスク合意の履行を拒否した。

ゼレンスキーが〔極右の脅迫にもかかわらず〕選挙公約の路線を維持するためにはアメリカからの支持が不可欠であったが、アメリカは彼を公約路線に押し戻すための助力を一切提供せず、平和路線からの離反を決定づけた。Sakwa教授によれば、「ミンスク合意に関して言えば、アメリカもEUも、キエフ〔ウクライナ政府〕に対して合意の履行を真剣に働きかけることはなかった」。Anatol Lieven(senior research fellow on Russia and Europe at the Quency Institute for Responsible Statecraft)も「彼らは、ウクライナに合意を履行させる努力を一切行わなかった」と述べている。

ミンスク合意に描かれた外交的道筋からの離反を余儀なくされ、復帰のための助力も圧力も得られなかったゼレンスキーは、極右勢力に屈し、選挙公約と正反対に、クリミアの奪還・再統合を目指し、そのためには武力行使も辞さないとするクリミア・プラットフォームCrimea Platform)を樹立する法令を制定した。第一回のクリミア・プラットフォームサミット会合には、全てのNATO加盟国が参加した

ゼレンスキーはロシアとの戦争の用意があると威嚇し、Sakwa教授によれば、ウクライナは10万の兵力とドローンミサイルをドンバスに接する東の国境沿いに集めた。これは、2022年にロシアがドンバスに接する西側国境沿いの兵力増強を行う前のことである。モスクワはこれを、ウクライナが7年来の内戦をエスカレートさせ、ロシア系住民が多数を占めるドンバス地域を大規模に侵略することを知らせる「真の警鐘」と受け取った。

ちょうどこの頃、2022年2月、ウクライナによるドンバス地域への砲撃回数が劇的に増加し、警鐘はさらに高まった(砲撃の増加はOSCE(欧州安全保障協力機構)の国境監視ミッションによって確認されている)。Sakwa教授は、停戦合意違反のほとんどはウクライナのドンバス側での爆撃によるものだと筆者に語った。国連のデータによると、民間人を犠牲者とする被害の81.4%は、「自称「共和国」」(”self-proclaimed ’republics’” 〔ドネツクとルガンスクのこと〕)で起きていた。ロシアはウクライナが予告していた軍事作戦が開始されたと考えた。

ゼレンスキーはドンバスの州知事たちとの協議に応じず、ミンスク合意は死に体となった。ロシアはドンバス地域のロシア系住民に対する軍事行動を恐れた。同じ頃、ワシントンはウクライナを武器で溢れさせることを約束する武器供給網となり、かつ、NATOへの扉を開いた。どちらもプーチンが超えてはならない一線であることを明確にしていた行為である。

この戦争の1年前、アメリカはウクライナに4億円の防衛援助を行なっていた。バイデンは「新たな戦略的防衛フレームワーク」に言及、「防衛援助」に、新たに初のleathal weapons(核兵器?)を含む6000万円分のパッケージを追加することを約束した。

ウクライナをleathal weaponsを含む武器で溢れさせる一方、アメリカとNATOは、ウクライナのNATO不加盟を約束することを拒んだ。バイデンとの会合の席で、ゼレンスキーはまたしても「バイデン大統領と、この席で、ウクライナのNATO加盟のチャンスとそのスケジュールに関する大統領及び合衆国政府のヴィジョンについて議論したい」と述べた。バイデンはあからさまな間接表現で「ウクライナのヨーロッパ―北大西洋願望への支持」を表明し、アメリカのウクライナへの支持は「完全にヨーロッパと一体の動きとなる」と述べた。2021年10月、アメリカ合衆国国防長官ロイド・オースティンは再びウクライナに対する「NATOの扉は開いていると強調」した。

11月、アメリカは、ウクライナのNATO加盟に必要な〔防衛力〕刷新の援助のためのUS-ウクライナ戦略的パートナーシップ憲章に署名した。当該文書には、アメリカとウクライナは2008年のブカレストサミット宣言を指針とする旨の記載がある。2008年のブカレストにおいて、アメリカとNATOはウクライナがいずれNATOのメンバーになることを保証した。「NATOはウクライナおよびグルジアのNATO加盟に向けたヨーロッパ-北大西洋願望を歓迎する。われわれは今日、この両国が将来NATOのメンバーとなることに合意する。」

10年を優に超える期間を通じて、プーチンはNATOのウクライナへの拡大を超えてはならない一線として警告し続けてきた。今、ウクライナがドアを叩き、アメリカとNATOは勧誘の手を伸ばし続け、扉を閉めて施錠することを拒絶し続ける中、外交上の譲歩を余儀なくされたプーチンは、アメリカに相互防衛保証(mutual security guarantees)の提案を持ちかけ、直ちに交渉に応じるよう依頼した。

ワシントンは武器のコントロールに一定の柔軟性を示す一方で、「アメリカ合衆国は、ウクライナ領内における攻撃的地上発射ミサイルシステムおよび常設軍の配備の差し控えに関し、アメリカ合衆国とロシアの双方による条件ベースの互恵的で透明性のある手段および互恵的関与に関し、喜んで話し合う準備がある」と答えた。要するに、ウクライナのNATO加盟の可能性が開かれていることについては、議論の余地をキッパリと否定したのである。アメリカの反応は非妥協的で、「アメリカ合衆国はNATOの開放政策を固く支持する」という強固な立場を繰り返した。

ロシアは協議を持ちかけ、アメリカは応じようとしない。実際、アメリカに交渉に応じる意思は全くなかった。合衆国国務長官アントニー・ブリンケンの顧問であるDerek Cholletは最近NATOのウクライナへの拡大方針に関する交渉は一度も検討課題とならなかったことを認めた。

NATOのウクライナさらにはロシア国境への拡大という目の前の脅威に関するアメリカとの協議が実現する見込みはない。ウクライナは扉を叩き続け、アメリカは開放方針を堅持する。アメリカにとっては、ロシアとの交渉は検討課題ですらない。こうなれば協議は終了である。ウクライナはクリミアとドンバスを取り戻すと公言している。彼らは交渉を拒否しており、いまや国境に大量の兵力が集められた上、砲撃回数は恐ろしいほどに増加していた。ロシアはドンバス侵攻とロシア系住民に対する作戦が今すぐにも開始されることを恐れた。

ロシアがウクライナ侵略を決めた瞬間である。これらの事情は侵略を法的に正当化するものでも、倫理的に正当化するものでもない。しかし10年以上にわたる警告ののち、ロシアがなぜいま戦争を選んだのかの説明にはなるだろう。

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これだけ知っておくといいかも
ウクライナ戦争

日本はアメリカの同盟国で、「西側」の一角です。

なので、「ロシアのプロパガンダ」には警戒するけど、「西側」のプロパガンダには弱い。「西側」に都合のよい情報以外はほとんど入ってきません。

でも、ロシアは日本のお隣の国で、これからも世界に存在し続けます。その人たちを排除して、仲間外れにして、言い分も聞かずに「制裁」して、平和なんて成り立つわけがないじゃん、と私は思います。

そう思って勉強し、私が理解した事実の中から、せめてこれだけ知っていれば、この戦争を公平に見ることができるのではないか。そう思える情報を、3点にまとめて、共有させていただきます。

①ウクライナ戦争は、ロシアとウクライナの戦争ではなく、ロシアとNATO(西側)の戦争です。

〔解説〕

・戦争に至るまでの交渉で、ロシアが要求していたのは、「NATOはウクライナを加盟させるな」の1点でした。交渉の相手がウクライナでなく、西側諸国の首脳であったのはそのためで、彼らが「ウクライナを加盟させない」といえば、戦争は防ぐことができました。しかし、西側は一切の譲歩を拒否し、ロシアの侵攻を招きました。

・西側は、この戦争を「ロシアのいわれのないウクライナ侵略」と位置付け、「被害者であるウクライナ側を支援する正義の味方」としてふるまっていますが、それは事実と違うと思います。この戦争の真の当事者は西側で、ちょっととげとげしい言い方をしますが、ウクライナはNATOの代わりにロシアと戦わされているのです。

・こうした事情を、ウクライナ国民の多くは理解していません。しかし、西側諸国はもちろん理解しているし、ゼレンスキーも(少なくともある程度は)理解していると思います。

②引き金を引いたのはロシアですが、ロシアに銃口を向け続けたのはNATO(西側)です。

〔解説〕

・共産圏封じ込めのために結成された軍事同盟であるNATOは、ソ連崩壊後も解散せず、「東方拡大」と呼ばれる拡大政策を続けました。東欧地域やバルト三国など、ロシアの周辺国をどんどん仲間に引き入れるNATOの動きは、ロシアから見れば、ソ連崩壊後も西側諸国(とくにアメリカ)がロシアを一方的に「敵」と位置付け、軍事的圧力を加えようとしていることの現れに他ならないと思います。

・とりわけ、隣国であり兄弟であるウクライナへのNATOの積極的な働きかけは、ロシアには非常識なほど攻撃的に見えると思います。(架空の例に例えていうと、日本の中央政府に不満を持った東北地方が、中国・北朝鮮との軍事同盟に誘い込まれる、みたいな感じでしょうか。)

・とくにコソヴォ紛争の例を念頭に置くと、ウクライナへのNATO軍の展開は、ロシアへの宣戦布告くらいの意味を持ちうるのですが、ご関心のある方はこの部分をご覧ください。

③独立ウクライナの国家経営は順調ではなく、その政情不安はロシアの懸念材料でした。NATO(西側)はその懸念を理解せず、不満分子の暴発を「民主化運動」と捉えて支援し、政情のいっそうの不安定化を促しました。

・ソ連崩壊によって独立したものの、困難な状況から抜け出せなかったウクライナでは、とくに貧しい西部地域で不満が高まり、ナショナリズム(≒ 反ロシア)が高揚しました(ロシアが「ネオナチ」「ファシスト」に言及することにはそれなりの理由があります)。

・ウクライナはロシアの隣国である上、ロシア系住民が多数住んでいます。ウクライナの不安定化はロシアにとっては深刻な脅威です。

・西側諸国は、こうしたロシアの懸念を理解せず、「反ロシア勢力=民主化勢力」と短絡的に理解して、台頭する西部勢力を支援し、NATOに誘い、彼らのナショナリズム(≒ 反ロシア感情)を煽りました。

・西側の行動は、ロシアには、隣国の政情不安に付け込んで、自らの軍事的勢力圏を拡大しようとする無責任で攻撃的な行動に見えると思います。

・ ・ ・

ロシアがついにウクライナに軍事侵攻をしてしまう背景には、このような事情がありました。こうした構図は、「西側」の私たちにはほぼ知らされていませんが、ロシアの人々が見ている絵であり、ロシア以外の「非西側」諸国の人々も、同じような絵柄を見ているはずです。

私は戦争一般を好みませんが、ウクライナ戦争が、平和を望む西側に対し、好戦的なロシアが一方的に仕掛けた戦争であるとは見ていません。平和を望んでいたのはロシアも同じです。なので、ロシアだけに全責任を負わせようとする「西側」の態度は、公正ではないと感じています。

だからどうということはありません。どちらがいいとかよくないとか言いたいわけでもありません。ただ、読んでくださった方の気持ちがほんの少しでもニュートラルな方に傾けば、その分だけでも世界は平和に近づくのではないかと思って、このようなものを書いている次第です。

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私に講師資格はあるのでしょうか?(エマニュエル・トッド入門講座 講師自己紹介)

 

日本における法学

私のもともとの専門は法学(刑法学)です。2018年度まで法科大学院で刑法を教えていました。

つまり、人類学者でも人口学者でも歴史学者でもないのですが、ある日ふと、「(日本では)法学者って意外とこの任務に向いてるんじゃないか?」と思いました。考えて、確信が持てたので、「エマニュエル・トッド入門講座」を始めることにしたのです。

「法律、それも刑法なんていう狭そうな領域の研究者がトッドの理論の解説に向いてるなんて、あるわけないだろう」と思った方のために、ちょっとご説明させていただきます。

明治時代、日本に初めて大学ができたとき、どんな学部があったかご存じですか。

明治10年に発足した東京大学が持っていたのは、法学部、文学部、理学部、医学部の4つでした。政治学部もないし、経済学部もない。社会科学にあたるものは、法学しかありません。

ちなみに現在も日本に「政治学部」というのは存在せず(過去にはあったそうですが)、法学部の中にあるケースが多いです。現代のヨーロッパやアメリカでは、政治学は独立していたり人文社会科学や歴史と結びついているケースが多いようなので、法学との結合がスタンダードである日本は特殊なケースだと思います。

なぜか。いくつかの理由を思いつきますが、一番本質的な理由は、日本を西欧に伍する近代国家にするためには、何よりもまず、西欧と同じような(=近代的意味の)法制度そのものの構築が必要であったということだろうと思います。

なお、「近代的意味の法」とか「近代法」とかいう言葉は、専門用語の一種です。近代に法律を作れば何でも「近代法」になるというわけではなく、「近代法」というためには、いろいろとうるさい条件があります。

こうした条件を備えた法制度を持ち、それに基づいて国家が運営されているということが、欧米列強から信頼に値する国家と認められるためにどうしても必要だった。当時の日本にとって、新しい社会を作るということは、新しい法制度(に基づく国家)を作るということとほとんどイコールであったのです。

このような事情の下で、法学という学問は、明治以降の日本に、西欧的な「新しい常識」を導入するチャネルとして機能することになりました。西欧から思想や制度を輸入して、日本で受け入れ可能な形に整えて、社会に供給する。社会の要請の下で、日本を西欧式の国家に変えるための革命の綱領を作り続けたのが法学であった、といういい方もできるでしょう。

最近は廃れてきましたが、戦前・戦後の日本には、一般社会人を目指している(=法曹資格を取るつもりがなく、公務員を目指しているわけでもない)人が進んで法学部に入って勉強するという伝統がありました。それは、法学が、西欧に学んで新たな文明国家を築き上げるための「新しい常識」を供給する学問だったことの反映です。当時はみんなが「西欧式の新しい常識を身につけなければいけない」と思っていたのですね。

「新しい常識」(ないし革命の綱領)の根幹にあるのは、もちろん、近代主義=西欧中心思想です。つまり、法学は、エマニュエル・トッドの理論によって否定される運命にあるその思想の普及について、非常に大きな責任を担っているのです。

革命は成功しなかったー法学者は知っている

もう一つ、トッドへのコミットメントという点ではより本質的かもしれない事情があります。

法学は、明治以来、西欧的な常識に基づいた法制度の構築を助け、講義し、その運用を見守ってきました。行政の審議会やら民間の様々な会議に出席し、人々が従う制度が法の基本を踏み外さないように注視し、意見を述べてきました。

しかし、それによって、西欧的な法制度は日本に定着したのか、というと、してません。何度でも言いますが、「近代法」の一番肝心な部分(「法の支配」と言われるものです)は、日本に根づいていません。そして、そのことを一番よく知っているのは、法学者なのです(よく知らない法学者もいるとは思いますが、ちょっとおめでたい人だと思います)。

「法の支配」が根付いていないとはどういうことか。一言でいいます。日本は法治国家(「法の支配する国家」の意味で使います)としては、行政の裁量権が強すぎるのです。「法の支配」の核心は統治機関(≒行政機関)を法のコントロールの下に置くことにあります。しかし、日本の場合、法は形ばかりは存在し行政の上に君臨しているようなフリをしているけれども(行政も法に従っているようなフリをしているけれども)、あらゆる領域で、重要事項の決定権を持っているのは行政です(ある行為を犯罪として処罰するかどうかを決める権限ですら、実際に行使しているのは検察官(=行政官)です)。

法律があろうがあるまいが行政が様々なことを差配し、国民がそれに従うというのは日本の人にとっては普通のことです。普通すぎて、「法の支配」とかその派生原理である「法律による行政」などを説明してもポカンとされてしまう。そのくらい普通だし、それこそが行政の責任だと思っている人も少なくない(行政官の中にもそういう人がたくさんいます)。このような社会のあり方は、しかし、もしも日本が西欧式の法治国家であるならば、明確に否定されなければならないはずのものなのです。

トッドは何度か日本を訪れていて、日本の研究者と対談や議論をしています。その記録を読んでいて、感じるのは、文学や歴史人口学の専門家の方たちが、トッドの理論の妥当性について疑念を持っている、あるいは確信を持てていないということです。この「迷い」は、おそらく、彼らに(例えば「トッド入門」を書くような)トッドの理論への全面的なコミットメントを躊躇わせる理由になっています。

彼らには、つぎのような逡巡があるようなのです。

「確かにトッドの理論にはなるほどと思うことが多い。しかし、家族システムにかかわらず、政治制度や法制度は、国家が法律を定め、制度を打ち立てることで、変えることができるはずである。そう考えなければ、明治以降(あるいは少なくとも第二次対戦後)の日本で、「近代的な」(西欧風の)政治制度、法制度が確立されたという事実を否定することになってしまうのではないか。」

例えば、速水融(歴史人口学)は、トッドとの対談で、次のような問いを発しています。

速水 ‥‥ 政治とか国家とか法制、これをどうお考えでしょうか。つまり、政治や国家や法制によって、家族構造あるいは農地制度というのは変わるものなのかどうか。というのは、日本を考えたときに‥‥明治になって日本が統一されてはじめて、明治政府が日本全体に適用される法律をつくろうとします。‥‥明治政府がまずやったことは、特に民法ですけれども、フランスからボワソナードという民法学者を呼んで、日本の民法を作ろうとしました。ところが民法典の案ができた時に、ドイツ法を学んだ穂積八束という日本の法学者が猛反対しました。つまりこれは日本の慣行に合わないと。そこで民法典論争という猛烈な論争が起こって、結局、ボワソナード派は負けてしまいます。そして日本的な民法、つまり長子単独相続を基本とする民法ができ、それが戦後までずっとつづきます。ところが戦後になって、今度は日本はアメリカに占領されて、そこでまた民法の改正があって、分割均分相続になります。

そのように法律がどんどん変わっていきます。こういうことは、たぶんフランスでは考えられないと思いますけれども、現実にわれわれ日本に生きている者としては、そういう中で変わっていくものだと考えざるをえない。民法だけでなくて、憲法からしていろいろ問題を含んでいますけれども、一体全体、政府や国、とくに法律はそういう社会の慣行を変える力を十分もっているとお考えかどうか伺いたいのです。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 編)『世界像革命』(藤原書店、2001年)157-158頁)

ふふふ。
ご安心ください。

今から約20年前(2001年)、内閣に設置された司法制度改革審議会は、司法制度の改革に向けた意見書をまとめました。

この意見書は、なんと(?)、つぎのような文章で始まっています。

民法典等の編さんから約100年、日本国憲法の制定から50余年が経った。当審議会は、‥‥近代の幕開け以来の苦闘に充ちた我が国の歴史を省察しつつ、司法制度改革の根本的な課題を、「法の精神、法の支配がこの国の血肉と化し、『この国のかたち』となるために、一体何をなさなければならないのか」、「日本国憲法のよって立つ個人の尊重(憲法第13条)と国民主権(同前文、第1条)が真の意味において実現されるために何が必要とされているのか」を明らかにすることにあると設定した。

これを読んで、驚く方もいるのではないでしょうか。何しろ、2001年の日本における根本的な課題が、「法の精神、法の支配を「この国のかたち」とすることであり、個人の尊重と国民主権を実現すること」なのです。「日本国憲法って何なんですか」と言いたくなりますね。

しかも、この「意見書」の中に、日本がいかに法の支配を欠き、個人の尊重、国民主義を実現できていないかを論証する文章はありません。つまり、この文章を読む関係者にとって、「法の精神、法の支配が日本に根づいていない」という認識は、争うまでもない、当然の前提として共有されているのです。

私の経験

私自身の経験もちょっとお話ししようと思います。

私は、中高生のころから、ただ社会に興味がありました。どの専門科目を選べばよいのかわからなかったので(今もわかりません)、何となく法学部に入りました。講義に出て直ちに「間違えた!」と悟り、あまり授業に出ない学生として4年間を過ごしました。

でも、学者にはなりたかった。なりたかったので、手近にあった刑法学の道に進みました。

真面目に取り組んでみたらこれが意外に面白く、資質としては向いていました。

よく覚えているのは、好き放題に本を読んで物を考えていた大学時代を終えて、大学院で法学の研究を始めたとき、「なんかラク」と感じたこと。

何ていうのでしょう。法学の中の概念って、みんなカッコがついているのです。まったく手ぶらで、ただ一人の思索がちの人間として、例えば自由という言葉を使うとすると、そんなものは本当にありうるのか、あるとしたら何なのか、そんなものを論じることに意味があるのか、‥‥と無限に疑問がついてまわってくるものですが、法学の中だと、ある程度専門用語として、「ここでいう自由はその自由ではなくて、あくまで「法学的な意味の」自由ですから~」という感じで、さくさくと議論を先に進めていける。しかも、その議論は、現に存在し機能している法制度をよりよく機能させるための議論なのですから、大前提として「意味はある」。

しかも、法学、なかでもとくに刑法学という学問は、根っこにある価値観が、リベラリズム、それも(詳しくは知りませんが)古典的リベラリズムといわれる、イギリス庶民(あるいはパンクロック)のような素朴な自由主義思想です。

自分の知的能力を駆使して、素朴な自由主義に基づく分析をすれば、評価され、世の中の役に立つ(らしい)。何と夢のようなことでしょうか。

そういうわけで、私は、非常に消極的な理由で選んだ刑法学の道を歩み続けることになりました。ずっと後になって「カッコがついている」ということの意味を思い知ることになるのですけど。

日本社会の現実を知る

私は刑法学者であると同時に医事法学者でもあります。医療や医学研究の領域では、様々な形で現場と関わる仕事をさせてもらいました。

研究機関の倫理委員会から、研究プロジェクトの法的・倫理的・社会的課題を検討するための委員会、厚生労働省や文部科学省の審議会にも多数参加しました。医療や医学研究に関連する学会などのシンポジウムなどに呼んでいただいて講演をしたり討議をすることもありました。

私に声をかけてくれる方というのは、基本的に、現在の法制度(というより、多くの場合は、インフォーマルな行政指導的規制)に満足しておらず、「なんかおかしいと思うんだけど本当のところどうなの?」「本当に自分たちが妥当だと思うことを正当に実施していくためにはどうしたらいいの?」と思っている方たちです。

そういう方達と一緒に、あるべき姿を考えていく仕事は本当に楽しかった。法学者から見ると、行政の規制のあり方や現場の常識などはツッコミどころ満載なので、「法学的にはここはすごくおかしくて、ほとんど憲法違反」「こうやれば問題ないはず」「ここについては公的な規制がない状況だから、自主的にガイドライン的なものをつくってやっていくのがよい」等々と指摘し、実際にルール案を一緒に考えたりもしました。

「おかしい」という法学者からの指摘は、医学系の研究者の方々にとっては、目から鱗というか「え、ほんと?」という驚きであったようでした。私たちの指摘や提案は、彼らには喜んで受け入れられ、とてもやりがいを持って仕事をすることができました。

しかし、10年以上もそんな仕事を続けると、頭でっかちな法学徒にも、日本の現実が見えてきます。

私たちがどれほど法理論上の誤りを指摘し、みんなを感心させても、現場の状況がまったく変化しないのはなぜなのか。

この間には私自身も少し偉くなり、行政の審議会などで、法案の内容に正面から意見を言える立場になっていました。しかし、ごく標準的な法学的立場に立って意見を述べて、その場にいるほとんどの人を納得させても、はたまた行政官と裏で何度も議論をし、憲法違反の疑いを払拭するために必要な措置を伝え、何度「わかりました」と言わせても、肝心なポイントが修正されることは決してない。いったいなぜなのか。

答えは一つしかありません。

日本の法制度は、日本の社会で通用していないということです。

日本社会は、法学の教科書(=社会科の教科書)に書いてあるのとは異なる、固有のシステムで成り立ち、動いている社会である

もし、これが「近代化の遅れ」であるなら、改善の努力を続ければよいのですが、私一人の経験からも、そんな生やさしいものでないことは、明らかであるように思えました。その上、「民法典等の編さんから約120年、日本国憲法の制定から70余年」が経った2021年に、このシステムはビクともせず、見ようによっては、ますます強まっているように見えるのです。

さて、どうしたものか。

法学を離れる

法学者の中には「法が大好き」という人がいます。近代法の思想に強く惹かれ、それを法制度として機能させることに情熱を抱く人たちです。この人たちは、日本社会に、近代法が定着していないことを知っていると思いますが、「少しでもそれに近づけることが日本社会をよくする道だ」と信じて、活動を続けているのだと思います。

また、東大を出て、とくに優秀な東大教授として名を馳せるような人たちは、日本社会と法理論との齟齬をおそらく熟知していますが(意識化の程度は人によります)、その中でなんとか折り合いをつけることを自らの使命としている人たちといえます。

近代主義の理想との相違をことごとしく非難したりせず、職人的なバランス感覚で落とし所を探るのが彼らの職責です。

私は、法に関心があったわけでも、エリート官僚的なメンタリティで日本社会を導くことに関心があったわけでもなく、単に「社会に興味がある」というだけで法学者になりました。近代法の理想(リベラリズムですね)は、自由を求める若い者には何しろ魅力的なものなので、私もしばらくの間は幻惑され、「法が大好き」という人たちと同じように、「日本社会を少しでもそれに近づけること」に対して、情熱をもって取り組むことができました。

しかし、「教科書に書いてあることって、全部フィクションだったのか」と、おなかの底からしみじみと理解してしまったとき、それでも同じ活動を続けるのは、私には無理でした。

私は不可能なことのために活動することができない人間なのです。ご存知のように、なかには道徳的な感情、価値あるいは善なるものを提唱するだけで満足し、それが実現できるかどうかについては関心をもたない人々がいますが、私はそうではありません。絶望の歌が最も美しい歌であるとは思わないのです。虚空に向かって叫ぶこと、自己満足のためにいくつかの価値を提唱することには、関心がありません。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 編)「世界像革命」(藤原書店、2001年)120頁

この状況で、社会科学者である自分のやるべきことは、現実をフィクションに近づけようとすることではなく、現実をよりよく知り、伝えていくことであるように思えました。何より、高校生の自分は、まさに「それ」を知りたかったのですから。

しかし、それはもう刑法学の仕事ではありません。法学とも言えないでしょう。仕方なく、私は仕事を辞めて、現在に至ります。

奇跡に見舞われる

では、法学部に入り、刑法学者になったことを後悔しているかというと、それは全くしていません。

大学を辞めて、歴史とか、経済とか、いくつかの気になる分野を勉強し、同時に、改めて、トッドの理論に取り組みました。そのとき感じた気持ちを、どう表現したらよいのか。

昔、福田恒存が小林秀雄の文章について、「(この文章を)これほど味わうことができるのは自分だけではないかと、これは自惚れとはまったく異なる、深い幸福感のようなものを堪能した」という趣旨のことを書いているのを読んだことがあります。池田晶子さんも小林秀雄について同じようなことを書いていたかもしれない(福田恒存のその文章も引用していたかもしれない)。

「こんなことを言えるなんて、すごいな~」と思っていましたが、いま、私がトッドの理論について感じるのはまさにこれです。

社会に関心を持ちつつ、なりゆきで実定法学者になり、西欧近代の物差しを現代日本にきっちり当てはめてみた。ああすればいい、こうすればいいと言ってやってみても、その目盛り一つがどうしても動かない。その過程で得た認識、経験した感情のすべてが、現在、私がトッドの理論に全幅の信頼を置き、理解し、味わい尽くす下地になっているのです。

おかげで、現在の私は、高校生のときに知りたかったことをすべて知り、その先を考えることができるようになっています。なんてありがたいことでしょうか。奇跡です、奇跡。いや、本当に。大して興味もないのによく法学を選び、研究者にまでなったと、自分を褒めたい気持ちでいっぱいです。

他の領域で研究をしていたとしたら、おそらく、文理を問わず、社会に一定の関心がある真面目で良心的な人々のほとんど全てが抱いているリベラリズムの夢ないし幻想を完全に捨て切ることはできなかったでしょう。

ちょっとおかしいと思いつつ、「合理的な」提案をし、変える努力をして、変わらないと嘆くことを繰り返す。そんな知識人であり続けたと思います。

いま、そこら辺から外に出て、次に進むことがとても大事だと思うので、準備ができている人たちと一緒に、それをしようと思います。

その第一弾が、エマニュエル・トッド入門講座です。

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行政の立ち位置

 

普通に頭がよさそうで、普通にいい人そうな人が、日本の総理大臣になるのはすごく久しぶりだ。それだけで私はとても嬉しい。

それ以上に政治家に多くを期待する習慣はないが、岸田氏にはほかにもずいぶん期待できるところがある。新自由主義的政策の転換もそうだし「政治主導」とか言わないところもいい。行政官に対して敬意を示し、協力を仰いでやっていく姿勢を示しているのは、日本における自民党の立ち位置をよく理解していることの表れだと思う。本当によかった。

書斎の窓の連載で「第4回 日本の近代ーー国家篇」を書いたとき、原稿段階では「行政の立ち位置」という項目を設けていた。字数の関係で削除せざるを得なかったので、この機会に、貼り付けておきます。

・・・

行政の立ち位置

行政が占めているのは「優秀な次男坊」の地位であると私は見ている。家督は継げないので、試験を受けて活躍する道を選んだ人たちである(システムの説明である)。

政治を弱点とする日本で、その代わりを務めてきたのは行政であり、この人たちのがんばりなしに、現在の日本はない。にもかかわらず、長男(この文脈では政治であろう)は優秀な彼らをやっかみ、親族一同(国民一同である)は「次男のくせに」と軽んじる。一言でいえば、私たちは彼らに甘えてきたのである。

新たに政治を目指そうという人たちには、行政の経験に学び、行政と信頼関係を築くことを第一に考えてほしいと思う。エリート行政官たちは、理想としてのリベラル・デモクラシーと日本の現実との間で悩みながらも社会を動かし続けてきたのであり、そこには、日本人にフィットしたやり方で民主的な意思決定を行うための知恵が受け継がれている。理想化するつもりはないが、新しく作られる政治に役立つ知恵と経験を持つ「先輩」は、日本には彼らしかいないのである。末期自民党政権が行政の自律性を軽んじ、居丈高にバカ殿の尻拭いをさせるような真似をしてきた後であればこそ、清新でしたたかな政治勢力が最大限の敬意をもって臨めば、彼らは応じてくれるのではないだろうか。

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「権威主義」を使いこなそう(3・マスコミ 日常生活編)

目次

大本営発表的マスコミ報道ーーNHK国営化案

今回、私が結構ショックを受けているのは、マスコミがワクチン摂取後の死亡例に関する報道をひどく抑制していることです。日本の人々は安全性に対して非常に敏感ですから、「こんなにがむしゃらにワクチン接種を推進して、死亡事例が出たりしたら大変なんじゃ…」と思っていたのですが、1000件以上も疑い例が出ているのに大きな騒ぎにならない。騒ぎにならないようにマスコミが報道を抑えている。「無責任に不安を煽るのがマスコミだ」とお思いの方も多いと思いますが、どの不安をどう煽るかについて、マスコミはしっかり空気を読んでいます。権威による統制は、効きすぎるほど効いているのです。

もちろん、報道に携わっているのはごく普通の日本の人たちですから、こうなるのは自然なことです。この社会の一員として、彼らだって、キョロキョロと周りを見て、みんなと「正しさ」を擦り合わせたい。日本の人たちは、長らくそうやって生き延びてきたのですから。

しかし、やはりそれでは困ります。困りますよね?

「少数派」にとってはもちろんですが、基本的には権威に合わせることを好む人たちにとっても、さまざまな情報が提示された上で「合わせる」を選ぶのか、まったく知らないで「合わせる」のかでは、意味が異なります。

選挙で政権が変わることがほとんどない社会でも、日本は「民主的」であると胸を張って言えるのは、人々が、政権に有利な情報にも不利な情報にもアクセス可能な状態で、自らの行動を選択し、選挙に臨んでいる(はず)だからです。政府による締め付けがあろうがなかろうが、権威にとって不都合な情報が出回らない社会を「民主的」ということはできません。

「公共放送」NHKは国営ではありません。政府の資金によって運営すると公平中立な報道ができない、という考え方によるもののようですが、果たしてそうでしょうか。

政治権力からの自由、権力に対する批判性を旗印とする欧米のジャーナリズムは、明らかに「親子関係の自由」を基礎とする核家族システムの産物です。彼らは、力による強制さえなければ、勝手に権力を批判し、そのために必要な情報を探し出してきます。だから、政府との「紐」を外しさえすれば、中立が実現できるのです。

一方、日本のような社会では、権威に配慮するというのは、市井の人々の心に深く根付いた伝統の行動様式であって、強権的な力やら「金」なんかの問題ではありません。紐があろうがなからろうが、勝手に配慮してしまうのです。民営にすればよい、議会の意向を反映させればよい、などという思想には「日本の権威主義なめんな」と言いたくなります。

それでも、民主主義国家の運営のために、(少なくとも「ある程度」)批判的な(=権威から自由な)ジャーナリズムを欠くことができないとしたら、どうしたらいいか。

・ ・ ・

ここまで考えて、私の心に浮かぶものがあります。司法制度です。あれの真似をしたらいいんじゃないか。

「法の支配」の思想に基づく近代的な司法制度は、国民だけでなく、政府にも「法」の制約の下で行動することを求めます。したがって、国民は、政府のやることに文句がある場合には、司法に訴えて、政府をその判断に従わせることができる。

このようなシステムは、核家族システムの人々にとっては「当たり前」です。もともと人間は自由なのだから、政府が便宜的にそれを規制する機能を担うとしても、その範囲が無制限でないのは当然だ、と彼らは考え、このような「自由主義的な」仕組みを作った。

日本の人にとっては全然当たり前ではないこの制度ですが、西欧に学んで制度を作り、真面目に運用することによって、それなりに機能させています。夫婦別姓を求める人が国の立場の不当性を訴えることができるのも、彫師が医師法違反による処罰の適正を争って無罪を勝ち取ることができたのも、日本が近代的な司法制度を導入し、国の機能として、独立の司法機関(裁判所)を営んでいるおかげなのです。

日本の裁判官は、平均的には、保守的な人たちだと思います。しかし、その人たちが、(あえていえば)官僚的な職業意識をもって、真面目に「法」を守ってくれているおかげで、この権威主義的な社会の中に、近代的司法制度という「異界」を維持することができているのです。

・ ・ ・

権威から自由な報道は、民主主義国家にとって絶対に不可欠なものです。これほど重要な社会的機能が、「規制しない」という消極的な方法では実現できないのなら、国は自ら積極的にその機能を作り出す必要があるのではないでしょうか。

NHK(の報道部門?)を国営化するのはどうでしょう。報道規範を法制化し、裁判所と同様の、独立の機関として運営するのです。そうなれば、NHKの人々は、公正中立な報道を保護する者としての責任感と、官僚的生真面目さによって、その機能を日本社会に提供し続けてくれると私は思います。そのときには、NHKの報道が模範となり、民間の報道機関も、過度に空気を読むことを止めるでしょう。

私は冗談を言っていません。本気です。

各社会にそれぞれ固有のシステムがあるということを理解し、真面目に受け止めると、このくらいドラスティックに考える必要が出てくるのです。

「すごくいい案だ!」と私は思うのですが、いかがでしょうか。

同調圧力と忖度

最後に取り上げるのは、同調圧力と忖度です。

責任の不在、過ちの修正が困難、といった「問題」は、主に、権威関係の上位の側に関わるものでした。しかし、社会を作っているのは「上」の人たちだけではない。われわれ全員です。意識するとしないとにかかわらず、ほとんどの人は、この社会のあり方を維持するために、一定の機能を果たしています。

普通の人々が、権威によって統制された社会を守ろうとする、自分もその一部であろうとするとき、よく用いられるのが「同調を求める」という態度です。そして、「正しさ」がどこらへんにあるのかを探ることで、自分もその一部であろうとするときには、上の人の意向を伺う「忖度」になると考えられます。「空気を読む」のも同じです。

このような意思疎通の仕方を生んでいるのは、この地域に定住した人類が、より生存の可能性を高めるために培ってきた「心の習慣」なので、そう簡単には変わりません。そして、今もそうかもしれませんが、社会が「危機」を感じたときに、より強く現れる傾向があります。

「なんで日本だけ」と不快に思う方もいると思うのですが…(本当に日本だけなのかどうかについては、いつか詳しく書きます)でも、これが、イワシがマグロに食べられないように大群で動くとか、犬が人間と仲良くすることで生存可能性を高めているとかいうのと同じように、人類がこの世界に適応して生き抜いていくために獲得した習慣(の一つ)なんだと思うと、まあ、仕方ない、という感じがしませんか。

・ ・ ・

それでも、一つ、はっきり言えることがあります。それは、こうした「心の習慣」に従うかどうかは、倫理の問題ではないということです。

「誰も「空気を読む」ことが倫理的に正しいなんて思ってないよ」と思った方もいると思いますが、本当にそうでしょうか。

「他人に迷惑をかけない」ことを、人として最低限の倫理だと思っている方って少なくないと思います。というか、むしろ、ほとんどの人が、そう思っているような気がします。

たしかに、「迷惑」が、他人を殴るとか、物を盗むとか、そういうことだけを指しているなら、「最低限の倫理」かもしれないと思うのですが、普通、窃盗犯人を指して「あの人、ちょっと迷惑だよね」とか、言いませんよね。

私たちが普段、(自他に対して)「迷惑だなあ」とか「迷惑かも?」と感じる対象は、もっと些細なことです。滔々と意見を述べて会議を長引かせるとか、みんなが単品のパスタなのに自分だけコースメニューを頼むとか、忙しい日に風邪で休むとか、お葬式に普段着で来るとか。

「他人に迷惑をかけない」というときの「迷惑」は、こんな感じで、「空気を読まない言動による和の乱れ」に対して使われることがほとんどです。ということは‥‥そう、そうなのです。「他人に迷惑をかけない」ことを倫理規範として受け入れるということは、世間の空気に従うことを、自らの「倫理的な」行動規範として受け入れることにほかならないのです。

実際、同調圧力や忖度の行き交う社会を「息苦しい」と感じるとしたら、それは、自分自身の中に、「この件については従いたくない気がする。でも‥」「やっぱり、従う方が(倫理的に)「正しい」のかなあ。」「いやあ、でも‥」という葛藤があるからではないか、という気がします。そりゃそうです。日常生活の中で、しょっちゅう倫理的葛藤に苛まれていたら、呼吸が浅くなるに決まっています。

ですので、まずは、はっきり言わせていただきます。「空気を読んでそれに従うことを自他に求める心の習慣」は、生存可能性を高めるという実利的な観点から人類が編み出した適応方法(生存戦略)の一つに過ぎず、倫理(形而上的な善悪)に関わるものではありません。

それは、「倫理的に正しいからルール化された」のではなく、「私たちが(実利的な生存戦略として)ルールを身につけたから「正しい」と感じようになった」(倫理とはそういうものだと言ってしまえばそれまでですが)。順番が逆なのです。

直系家族システムの生存戦略は、実利面から、つまり、現代の世界を生きる知恵として見た場合、「長所もあれば短所もある」という以上のものではありません(他のシステムも同じです)。

ですから、結論としては、「どっちでもいい」。

「是非とも守るべき」という理由はないですし、目くじらを立てて否定することもない。従う方も、従わない方も、好きにすればよいと思います。罪悪感を抱くべき合理的理由は、まったく、これっぽっちもないのですから。

・ ・ ・

社会に刷り込まれた「心の習慣」「心のくせ」は、簡単には変わりません(何度も繰り返してすみません)。なので、差し当たっては、社会の側の変化を期待せず、しかし、自分はそれにとらわれずに行動するというのが、お勧めです。

ただ、その「心の習慣」が、誰かよその人が作ってしまったもので、私たちにはどうしようもないのかといえば、決してそうではありません。

集合的心性(心の習慣)は、社会に暮らす人々の心の成分が集まってできています(共通の要素がくっついて層になって底に溜まっている、というイメージです。別稿で詳しく書く予定ですが、さしあたりこちらをご覧ください)。なので、一人が「いち抜け」して、それにとらわれなくなると、その分、集合的心性の濃度は薄まります。空気に加担する(=巻き込まれる)側から、客観的に眺めて笑ってしまう側に移動すると、きっちり一人分、確実に、社会の「権威主義」濃度が下がるのです。

自分自身が自由になる(=倫理的葛藤がなくなって楽になる)ことで、社会全体が「自由」の方向に変わるなんて、すごくラクで、楽しそうで、希望の持てることだと思いませんか。(終わり)

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「権威主義」を使いこなそう(2・政治編)

責任の所在が曖昧ーー政治主導より行政主導で

直系家族システムの権威主義が面白いのは、正しさは「決まっている」。しかし「何が正しいかは誰にもわからない」という点です。

人類学システムの中には、直系家族以外にも、権威主義的な親子関係を特徴とするものがあります。中国やロシアの外婚性共同体家族、中東や中央アジアに多い内婚性共同体家族です。直系家族では、結婚後も家に残るのは一人の子どもだけですが、共同体家族ではすべての子どもたちが妻子ごと一つ屋根の下にとどまります。家長である父親は、いくつもの家族を束ね、その頂点に君臨する。リーダーの権威はこのシステムが最大です。

このようなシステムでは「正しさ」の所在は明白です。中国やロシアでは、絶大な権力をもって君臨する父親が「正しさ」の源であり、現在の政治体制の中では共産党のトップ(ロシアではプーチン個人?)がそれに当たります。内婚性共同体家族では、システム全体を統率しているのは「慣習」である、という面があり、父親の権威はやや形式的ですが、慣習はイスラム法という形で明確になっています。指導者は、共産党の綱領、イスラム法の解釈を通じて「正しさ」を判断(決定)し、人々をこれに従わせるわけです。

直系家族では「親にも子にも「正しさ」をめぐって論争する自由はない」と先ほど書きました。

親の権威は、祖父から受け継ぎ、いずれ自動的に長男に移る、一時的なものにすぎない。現在は家長であるといっても、「何が正しいか」を、自分一人の権限で決める立場にはないのです。

それでも、この「縦型の」システムの下では、下位の者は上位の者に従うのが習いですから、上位の者は「何が正しいか」を示さなければなりません。権限もないしよくわからないけど、示さなければならないのです。

さあ、どうしましょう。あなただったらどうしますか?

そうそう、そうです。「周りを見回す」のです。

今、日本の「上の方」で、コロナ対策を決めている人たちも、多分同じだと思います。さりげなく周りを見回し、顔を見合わせ、「こんな感じかな?」「この辺りが無難じゃないか」という感じで、空気を作る。で、それに沿うような形で、それぞれ(まるで自分の意見のように)「人流」とか「ワクチン」とか言っているわけです。

だからもちろん、責任の所在は曖昧です。

でも、これは仕方ないと思います。

この社会で出世するということは、そのような行動様式を誰よりもよく身につけているということですから、その人たちに「責任あるリーダー」のふるまいを期待するのは現実的ではありません。一方、「我こそはリーダーである」という顔で登場してくる人たちは、大抵、こうした日本社会のシステムの意味もよく理解しておらず、他のシステムのリーダーのような資質を身につけているわけでもなく、ただ闇雲に「決断」すればいいと思っているだけですから、そんな人たちに権力を振るわせるのは危なっかしいことこの上ない。

ロックダウンのような強い措置を実施する習慣がないのは、この社会には、そのような措置を責任を持って判断できるリーダーシップが存在しないからです。「歴史的な知恵」といってもいい。私はそれでいいと思います。

強いリーダーシップに期待すべきでないならどうしたらいいか、ですが、日本の人たちが一番力を発揮するのは「組織(≒家)のためにみんなで頑張る」ときですから、基本的には、統治の責任をいろいろな組織が分け持つというのが一番うまくいくのではないでしょうか。「政治主導」よりは「行政主導」で、政治は調整役・監査役に徹する。民間の組織に預けられるものは預ける(「官」の領域にあるものを民間に受け持たせるということです。新自由主義的なことを言っているのではありません)。ワクチン接種だって、職域接種を始めたら急激に進んだではないですか。

いろいろな組織が分け持つというやり方は、もちろん、必ず「縦割りの弊害」を生みます。「弊害」を減らすために、政治が調整の努力をすることは必要ですが、そのために、行政の権限を政治に移譲するというのは、よいやり方ではない。というか、はっきりいえば「最悪」だと思います(この後に及んでまだ「行政改革」などと言っている政治家を決して信用してはいけません)。

それは、日本において、統治の経験がもっとも豊富で、実績があり、効率的に機能しうることが歴史的に見て明らかな集団から権限を奪い、「選挙によって選ばれた政治的リーダー」などという、日本ではかつて一度も有効に機能したことがないものにそれを与える、ということにほかならないわけですから。

統治を担う本体がなくなってしまう、その有効性が損なわれてしまうということに比べたら、「縦割りの弊害」なんて些細なことではないでしょうか。「縦割りの弊害」をなくすための「政治主導」などというのは、正しく「throw the baby out with the bathwater (お風呂の水と一緒に赤ちゃんを流してしまう)」だと私は思います。

「縦割りの弊害」は、別に、行政官たちが無能だから(あるいは「悪いやつだから」)起きているわけではありません。人類学的に定められた宿痾、というのはやや大げさで、単なる「くせ」なのです。そのことを自覚し、気づいたら「あ、またやっちゃった」「またやってるよ」と、みんなで笑い合って修正する、ということをしていけば、それでよいのではないでしょうか。

過ちを認められないーー「カイゼン」しよう!

日本は第二次世界大戦に負け、大変深い心の傷を負いました。戦争に負けたことがない国というのは滅多にありませんが、これほど痛手を負った国民も少ないのではないか、と私は見ています。

権威主義とは、国家(≒親)が正しいことを前提とするシステムです。そうでなければ権威は成り立ちません。だから「誤り」や「失敗」はあってはならない。ただ、ここまでは、共同体家族の場合も同じです。

直系家族の痛手が共同体家族よりも大きいのは、おそらく、直系家族の権威は先祖代々から受け継がれた「万世一系」のものであり、代えが効かないからです。

中国やロシアのシステムは、リーダーが絶大な権力を持ちますが、その権力は自動的に誰かに継承されるものではありません。死没などによりリーダーがいなくなると組織は途端にバラバラになり、権力争いが始まる。非常に不安定な構造です(だからリーダーたちは可能な限り長く権力者であり続けようとするのです)。しかし、だからこそ、「敗戦」というような国家的危機を迎えた時は、体制を変えてしまうことができます。負けたのは国そのものではなく、前の政権だ、ということにして、片付けてしまえるのです。

直系家族ではそうはいきません。この点、ドイツ(直系家族です)は「ナチスドイツ」に責任を押し付けることで何とか乗り切りましたが、日本はそれはできなかった。天皇家は直系家族システムの頂点、日本社会の永続性の象徴ですから、責任を押し付けて切り捨てるなどということは考えられませんし、東条や近衛では役不足です。それが「国民総懺悔」、原爆の被害すら「過ちは繰り返しません」と言って自分たちの咎とする、そのような態度を生んだのだと思います。

ちょっと話が脱線したかもしれませんが、そういうわけで、このシステムの社会では、「リーダーの過ちを認める」ということは非常に難しい。リーダー自身にとってそうだというだけではありません。リーダーの背後に「権威」を認める全ての人々にとって、その過ちを指摘し糺すということは、不穏で、不快なことなのです。

これも「くせ」なので、分かったからには「気をつける」ということは必要です。アメリカ人やイギリス人の真似をして(彼らも「すぐに」は認めないことがありますが、時間が立てば、かなり深刻なことでも、割合フランクに認めているように見えます)、過去の過ちを認め、修正していくということを、あまり深刻にならずに、みんなで励まし合ってやっていくのはよいと思います。

一方で、違うやり方もあるかもしれません。もし、この社会が、過去の間違いを認識することもできず、路線変更もできない社会だとしたら、それは、非常に大きな問題です。でも、実際にはやってますよね。やってるんじゃないでしょうか。

例えば、トヨタなどの製造業で有名な「カイゼン」。これは、今のやり方が完全ではないということを大前提とすることで、日常的に問題点を修正していく、非常に優れた方法といえます。「過ちがない」などということはあり得ないのですから、現在の「不完全」を「失敗」として糾弾し、責任を問い、見せしめ的にリーダーを交代させる、なんてことをしなくたっていい。よりよいやり方が見つかったら、現場から随時「カイゼン」していけばいいのです。これは、政治でも同じことではないでしょうか。

責任を問うことよりも、現実がよくなることの方が大事です。それは、日本のような、責任の所在がはっきりしない社会において、とくに言えることだと思います。

このところ、気になるのは、政治家がリーダーを気取り、「この路線で行きます!」と強く宣言しすぎる傾向が見られることです。「無駄に強い宣言」と「過ちを認められないクセ」が組み合わさると、最初に決めた方向性の変更というのが、本当にできなくなってしまいますから。

日本に相応しい、ちゃんと機能するリーダーとはどういうものか。人々ときちんとコミュニケーションが取れて、全体の調整ができて、つねに「カイゼン」を促しながら、よりよい方向に道をつけていけるのはどういう人か。思い描いてみるときだと思います。

日本の偉大な政治家として、私の心に浮かぶのは、伊藤博文と、大平正芳の二人です。たまたま本を読んだからという話もありますが・・

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「権威主義」を使いこなそう (1)

目次

はじめに

みなさん、新型コロナウィルス対策ワクチンを打ちましたか? 私のことは秘密です。どっちにしてもいろいろめんどくさいので。

新型コロナウィルス対応をめぐって、日本の政治、専門家集団、マスコミ、職場の在り方・・要するに「日本社会」そのものについて、疑問や不満をもっておられる方は多いと思います。

ただ、ずっと日本社会のことを研究してきた立場からすると、これって「いつものこと」です。室町時代の途中からこんな感じになり始めて、ずっと続いているらしいのです。なので、多くの方が「なぜ日本はこうなのか」と思っている、その部分については、少なくとも向こうしばらくは、変わることはないと思います。

一個人としては、その「変わらない部分」については、この社会の「くせ」あるいは弱点として受け止めてしまった方が、心穏やかでいられると思います。

ただ、社会全体としてどうするべきかは、問題です。疑問や不満の対象となるのは、主に、欧米と違っていて、(その部分だけを見ると)欧米の方が優れていると感じられる部分なので、明治以来の日本はずっと、それを「変えよう」「直そう」としてきたと思います。今もそうでしょう。

「変えよう」といって変わるならいい。でも、変わらないとしたら、どうでしょう。「変えよう」「直そう」と言い続けることで、私たちは、自分たち自身に、「まだまだだめだ」「遅れてる」という劣等感を植えつけてきました。しかも、いくら言い続けても、実際には「変わらない」。ということは、その部分に起因する現実の問題は、一つも解決されないわけです。

「変えよう」という前向きな言葉も、こうなるとほとんど「呪い」です。こんな馬鹿げたことは、早くやめた方がいい。むしろ、「変わらない部分」については、「そういうもの」という理解を社会全体で共有し、問題を軽くするための具体的な対策を工夫する方が、ずっと建設的だと思います。背が低いなら台に乗ればいいし、目が悪いなら眼鏡をかければいい。背が低いことも目が悪いことも、恥じることではないのですから。

日本の「くせ」は、農村の家族から

新型コロナウィルス対応に関連して感じられるいろいろな問題点、「誰が決めているのかよくわからない」「対策の効果を検証しているように見えない」「同じやり方に拘泥している」「マスコミの報道が偏っている」「同調圧力が強い」といったことは、すべて、日本社会の権威主義的な性格から来ています。

「ああやっぱり。日本は権威主義的で、嫌な社会だよね!」と思った方がいるかもしれませんが、「権威主義的である」=「よくない」というのは単なる思い込みです。直ちに「嫌だ!」という反応をされた方は、「近代的な(=西欧流の)自由主義=正義」という刷り込みが強すぎる可能性があります。つい先ごろまで私もそうでしたので、気持ちは非常によく分かりますが、今はとりあえず、その考えはどっかの棚にしまって、続きをお読みください。

*エマニュエル・トッドの「人類学システム」*

以下でお伝えする私の考えは、エマニュエル・トッドという人の研究成果をもとにしています。彼は、近代化以降の各社会のイデオロギー体系(政治・経済・行動様式のすべてに関わる基本的な価値体系)は、それぞれの社会の近代化以前の家族システムをほぼそのままに反映していることを明らかにしました。まず、共産主義圏の地図が「外婚性共同体家族」というシステムの地図と一致することに気づき、そこから各地域のイデオロギーシステムと家族システムの重なり合いを検証したのです。結果は驚くべきものでした。

近代化以前の社会とは農村中心の社会で、家族のつながりが中心にある社会です。近代化によって、農業中心の社会は、商工業を中心とした社会に変化しますから、中心となる生活圏も農村から都市に移ります。かつては農村で親族と近接して住んでいた人々も多くは都市に移り住み、狭いアパートなんかで核家族を営むようになるわけです。このとき、一見すると、古い家族システムは崩壊したように見えます。しかし、トッドの研究によれば、家族を司っていたシステムは、近代国家の統合原理として生き続ける。近代化によって、システムが機能する場所は家族から国家に変わるけれども、社会全体の統合のシステムには変化がないのだというのです。

家族のシステムだと思われていたものは、実際には、人類の社会的統合の原理であった。ということから、このシステムのことを、トッドは「人類学システム」と呼ぶようになりました。

権威主義って何?

日本の人類学システムは、直系家族システムです。トッドは最初、この家族を「権威主義家族」と呼んでいましたが、「権威主義」だと「悪!」と決めつけてしまう人が出てくるので、より中立的な名称に変更したのでしょう。

人類学システムの定義において、トッドは「自由」と「権威」を対立概念として用いています。

何についての「自由」、何についての「権威」なのか?

トッドは、常識の延長線上にある自然な言葉遣いを好み、用語の定義を嫌います。そのため、自由や権威についても明確な説明はないのですが、私の理解では、ここで問題となっているのは「正しさ」です。

核家族システムでは、子どもは成長したら直ちに独立し、親子は別世帯となります。直系家族のように「子どもが家を継ぐ」ということはないわけです。大人になるまで面倒を見ることは親の責任ですが、「○○家の後継ぎに相応しい価値観を身に付けさせること」は不要です。このシステムでは、親子の関係は対等な友人の関係に近く、親子(とくに子ども)はそれぞれ価値判断において「自由」です。

一方、直系家族の場合、親は祖先から受け継いだ「家」を子どもの世代に伝えるという重い責任を負っています。親は子どもにきちんとしたしつけ、よい教育を与えようとします。そうすることで、「何が正しいか」「どうふるまうべきか」を子どもに教え込む。

では、親に「正しさ」を決める権限があるのか、というと、そうもいえません。このシステムでは、何が正しいかを決めているのは、親というよりは祖先であり、歴史であるからです。

子どもとの関係では親に決定権がありますが、親の背後により大きな権威が控えている。このシステムでは、親にも子にも、「正しさ」をめぐって論争する自由は与えられていないのです。

権威主義は何のため?

この文章では、権威主義システムに由来する問題点を中心に見ていくわけですが、その前に、このシステムには良い面もたくさんあることを確認しておきたいと思います。

しっかり子どもをしつけ、よい教育を与える。これは日本国民の全体的な民度の高さにつながっていますし、受け継がれた価値観に従うという態度は、安定した社会秩序の基盤です。伝統文化の継承、例えば日本には個性的な日本酒を醸す小さな酒蔵がたくさんありますが、これなどは明らかに、「細々と長く伝統を受け継ぐ」直系家族システムの産物です。フランスにも小さなワイナリーがたくさんあるけど、とお思いの方がいるかもしれませんが、フランスという国は、核家族の地域と直系家族の地域に分かれていて、有名なワインの産地はどこも直系家族なのです。

どういう事情で、このようなシステムが発達してきたのでしょうか?大きな要因は、土地が希少になり、耕作地を子孫に受け継ぐ必要が生じたこと、加えて、家族を中心とする社会的絆を安定させ、縦型の規律を整えることが、軍事力の強化にもつながったことにあると考えられています。

日本では縄文時代の終わり頃から農耕が始まったとされていますが、農耕が始まっても、人口が少なく、土地があり余っているうちは、親から子への継承のメカニズムはとくに必要ではありません。子どもは自活できるようになったらさっさと親の家を出て、他の土地を開拓すればいいわけですから。

しかし、やがて、人口が増え、開拓するべきよい土地がなくなるときがやって来ます。親が持っている土地が「守るべきもの」となる瞬間です。親の土地がよほどたくさんあるなら、分割して子どもに分け与えることもできますが、そうやって分けていくと、一人の持ち分はどんどん小さくなり、効率的な生産ができなくなります。それよりは、誰か一人をリーダーと決めて土地を継承させ、そのリーダーの下で、協力して農業を営んでいくことが合理的です。

では、そのリーダー、どうやって決めましょうか?

「子どもたちの中で一番優れた者」に受け継ぐのがよいかもしれませんが、それが「争いの元」であることはお分かりだと思います。成人した子どもたちのそれぞれに、それぞれの思惑を持った親世代が味方して戦い、殺し合いになったりしたら、元も子もありません1実際、直系家族システムが生成する直前、鎌倉時代の終わり頃には、相続争いがたくさん起きるようになっていたそうです。 近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207–208頁参照

それを防ぐために「相続するのは長男」と決めてしまったわけです。直系家族システムにもバリエーションがあって、男女を問わずに長子に相続させるところや、末の娘に相続させるところなどもあるそうですが、日本で長男の相続が主流になったのは、システムが生成した当時の時代背景(武士の時代ですね)において、高い軍事力の保持が家族システムに期待される機能の一つであったためと考えられます。

直系家族システムの権威主義は、親族内部での争いを防ぎ、土地を安定的に子孫に受け継いでいくために生まれました。そうすることで、システムに属する人々は、安定的に食物を生産することができ、(統率力を高めて)外敵から身を守ることもできる。要するに、生き延びていく可能性を高めるものだったのです。

この仕組みは、今の時代に同じように必要とはいえません。なので、無理して、頑張って、維持することはないと思います。しかし、この社会は何百年にも渡ってこのやり方で生き延びてきたので、いくら変えたくても、一朝一夕には変わらない。その点は覚悟しなければなりません。

「ま、仕方ないな」と私は思うので、以下では、どうやって「問題点」に対処していくかを考えたいと思います。

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    実際、直系家族システムが生成する直前、鎌倉時代の終わり頃には、相続争いがたくさん起きるようになっていたそうです。 近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207–208頁参照
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日本近代史年表(?)

基本的には「昭和の戦争について」を書く準備として、こんな表を作りました。人物のセレクションは恣意的ですし、数字などの典拠も書いていないので、資料的価値はありません(嘘ではないつもりです)。ご参考までに。

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昭和の戦争について

1 はじめに

昭和の日本が、勝ち目のない戦争を始めた(そしてなかなかやめなかった)のはなぜか、というのは、分野を問わず、社会科学者にとっては重たい問いである。私自身はエマニュエル・トッドの移行期危機の理論1トッドの本のあちこちに出てくる。エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳・解説)『文明の接近 イスラーム VS 西洋 の虚構』(藤原書店、2008年)58頁以下等(ざっくりいうと「近代化に伴う心性の混乱のせいである」)で、ある程度納得していたが、幕末から明治にかけての動乱がトッドのいう「ストーンの法則」(「男性識字率が50%を超える頃に近代化革命が起きる。後でもう一度触れるので典拠はそちらで)によってしみじみと納得できるのと比べると(今年の大河ドラマ「青天を衝け」の描き方は見事だった!)、どうしてあの時代に、ああいうかたちで暴発したのかを説明できないのはちょっと弱いな、とも思っていた。

日本社会の心の傷であるような現象について理由がピンとこないのはよいことではない。「将来また同じようなことをしてしまうのではないか」と不安だし、実際、いわゆるリベラルの知識人の人たちは始終「あの戦争のときと同じ空気」のようなことを言って市民を脅かしている(私もやったことがある)。

それとこれとは多分違うので、違うとはっきり言えた方がいいんだけどなあ、と漠然と思っていたところ、この夏の読書(ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(上・下)」中公文庫、1991)をきっかけに「あ、それか!」というところまで分かり、私としてはすっかり納得できてしまったので、書きます。

2 吉田茂と戦争

上の本を読んで「へー」と思ったことが二つあった。一つは、敗戦時点で吉田茂は67歳のおじいさんだったこと、もう一つは、吉田は全然開戦に賛成しておらず、始まってからも早く終わらせたいとヤキモキしていたのだが(ここまでは別に「へー」ではない)、このときに吉田の周辺にいたじいさん仲間たち一同が、戦争を主導していた陸軍の軍人たちをまったく信用しておらず、「過激派」「赤の巣窟」くらいに思っていたということである2吉田が日本の再軍備に一貫して消極的だったのは、おそらく「いま再軍備をしたら、またあいつらがロクでもないことを仕出かすに決まってる」ということでもあったのだ。ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(下)」(中公文庫、1991年)150頁以下参照(上のカギカッコは引用ではありません)

東京裁判でA級戦犯に指定された人たちの生年は1867年から1895年(敗戦時点で78歳から50歳)で、一番多いのが80年代生(65-56歳)である。要するに中高年ばっかりだったので3日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008)107頁。これは、戦犯の指定が「知名度」重視で、「大物」責任者を選ぶという方針で行われたためだという(同101頁)、私も何となくそういう年代の人たちが日本を戦争に引き摺り込んで大勢の若者を犠牲にした、と思っていたような気がするが、「ちょっと違うな」と感じた。

昔、やはり夏休みに、川田稔「昭和陸軍全史(全3巻)」(講談社現代新書、2014年)を読んで、陸軍の人たちとしてはもう突っ走るしかなくなっていた感じをひしひしと感じ、「近衛、なんとかしてやれよ!」などと思ったものだが、近衛文麿のような年寄り(とはいえ1891年生(敗戦時54歳)だから吉田よりはだいぶ若い)に止められるようなものではなかったのかもしれない。この辺の「感じ」から、調査を開始した。

3 世代の差

満州事変から二・二六事件、盧溝橋事件後の日中戦争突入、太平洋戦争に至る時期の中心人物について、吉田茂との世代の差を確認しておこう。

吉田茂は1978年生、吉野作造と同じ歳で、美濃部達吉(1873年生)よりちょっと若い。マルクス主義が流行する以前に大学を卒業し、英国流のリベラリズムにシンパシーを持つ「オールドリベラル」の世代だ。

満州事変(1931年)の首謀者である陸軍軍人たちは、これより7-10歳くらい若い。板垣征四郎が1885年生、石原莞爾は1889年生である。盧溝橋事件後の対応を巡り、石原との抗争に勝利して実権を握るようになったのは、石原より少し若い武藤章(1892年生)、田中新一(1893年生)らで、彼らは太平洋戦争に至るまで陸軍の中心であり続ける4この辺の情報は、川田『昭和陸軍全史』2巻と3巻を参照

二・二六事件(1936年)に参加した人たちはもう一段若く、中心は1900年代生。対米開戦の時期には、この世代も幹部クラスの一翼を担っている。開戦を決めた時の陸軍の中心人物としては、武藤、田中の他に、服部卓四郎(1901年生)の名が挙がる。ちなみに、服部は昭和天皇と同じ年である(天皇も若かった!)。

吉田から見て、この人たちが「信用できない過激派」に見えた理由はおそらく二つあって、一つは、彼らがマルクス主義などの(当時でいう)革新思想の洗礼を受けた世代であるため5「マルクス全集」の一冊として資本論の翻訳が出版されたのは1920年で、1920~30年代に「膨大な量のマルクス主義文献の翻訳がなされた」(丸山眞男「「戦前日本のマルクス主義」英文草稿」(丸山文庫所蔵未発表資料翻訳)106頁(1963年の講演草稿。https://twcu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=20182&file_id=22&file_no=1)らしいので、この時期にマルクス主義が大流行になったと見ていいだろう。1900年前後から一般に知られはじめ、1910年に幸徳秋水の事件があって下火になったりしつつもじわじわ普及し、大正デモクラシーの波にも乗って、1920年頃にはごく普通に学術的な研究の対象となるくらいに流行してきたという感じか、もう一つは、後で述べるように、彼らが戦後でいえば「団塊の世代」的に人数が多く、かつ、大学の大衆化が始まりかけた時代の若者たちだったためである。

4 近代化と人口

人口学の二つの理論が、今回の探究の鍵になった。歴史人口学などの学問は、過去の統計的数値を復元することで、歴史上の出来事を(疾患の原因を探るときの)疫学研究のようなやり方で研究することを可能にしている。こういう手法は、戦争や虐殺のような「非常識な」事象の解明にはとくに有益であるように思われる。

(1) 人口転換(demographic transition)

人口転換の理論とは、近代化は「多産多死」から「少産少死」への転換を伴うというもので、人口学における最重要理論の一つとされる6河野稠実『人口学への招待 少子・高齢化はどこまで解明されたか』(中公新書、2007年)107頁は「人口学では数少ないグランド・セオリー(大理論)である」とし、Sarah Harper, Demography, A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2018, p55は「one of the centrepieces of demography」としている。 

この理論によると、近代化の過程で、社会は必ず「死亡率の低下」と「出生率の低下」を経験する。ただし、両者の間にはタイムラグがあって、死亡率が先に低下し、出生率はその後しばらくしてから低下する。日本の場合も、死亡率は19世紀末から低下しているが、出生率が下がるのは1950年頃からである。

人口転換の過程(タイムラグの期間)にある「低い死亡率+高い出生率」の期間には、当然、人口が増える(「人口爆発」といわれる)。死亡率が下がっているところに(死亡率低下の局面では乳幼児死亡率の低下がとくに大きいとされているようである)、高い出生率が維持される、ということは、変わらずたくさんの子どもが生まれてくるわけなので、人口の中で若年者の割合が高くなる。人口爆発とはさしあたり「若年人口爆発」なのである。

近代化の過程における「若年人口爆発」的な時期を、日本は、戦前と戦後の2度に分けて経験している。1度目は1870年以降から戦争終結直前までの時期である。近代日本の人口は、1800年に3030万人だったのが1850年は3220万人と19世紀前半は「微増」であったが、後半以降加速的に増え、1870年から1936年の間に2倍になった(3470万→6925万)7主にStatistica.com調べ。1936年のデータは 内閣府「平成16年版少子化社会白書」4頁

戦後の増加は、いわゆる「ベビーブーム」に始まる。まず1947年-49年のベビーブームがあり、死亡率がさらに低下し、ベビーブーム世代が成長して大規模な出生集団を構成したことで勢いが増し、1945年から1976年までの間に7700万人から1億1400万人に増加している8河野・前掲113頁以下など参照

(2) ユースバルジ

若年層の人口が急激に増えると何が起きるか。それを教えるのが、人口学や政治学などの論者が提示している「ユースバルジ(youth bulge)」の理論である。

直訳は「若年層の膨らみ」だが、「bulge」は人口ピラミッドから来ている言葉だと思われるので、「団塊の世代」というときの「団塊」とおそらく同じ語源である9自身の小説の中でこの世代を「団塊の世代」と名付けた堺屋太一は「通常ごく安定的な動きをする人口増においては、これほどの膨みはきわめて異常なものであり、経済と社会とに大きな影響を与える」と書いているそうである(日本大百科全書(ニッポニカ)[三浦 展]による)。話は単純で「若者が増えると暴力的な騒動が起きる」。それもしばしば想像を絶するほどに激しい、残虐な事件が発生するというのである。

1983年から2009年のスリランカ内戦では、シンハラ人とタミル人の相互で虐殺事件が発生し、内戦全体では数万から十数万の人が死亡したとされている。各事件の調査を行ったアメリカの政治学者ゲイリー・フラー(Gary Fuller)が出した結論は、残虐行為に大きく寄与したと見られるのは、飢えや医療の不足といった要因ではなく、若者人口の急増である、というものだった10グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち 人口学が警告する驚愕の未来』(新潮社、2008年)63-64頁

「ユースバルジ」という概念を紹介している英文記事などによると、18世紀のフランス(→フランス革命)、1914年頃のバルカン諸国(→第一次世界大戦)、1930年頃の日本(→中国侵略 この件は後で詳しく検討します)、1970年代と80年代のラテンアメリカ(→マルクス主義革命)などにその例が見られるとされているという11Lionel Beehner, The Effects of ‘Youth Bulge’ on Civil Conflicts(April 13, 2007 3:23 pm (EST))https://on.cfr.org/2Fe2bKb @CFR_org(典拠とされているのは Jack A. Goldstoneの仕事(私は読んでいません))。翻訳が出ているハインゾーンによれば、16世紀から17世紀(1550年~1650年)のイギリス(→ピューリタン革命)1700年から1800年の間のアメリカ(→独立革命)、1897–1913年のロシア、ワイマール共和国時代のドイツなどがその例であり近年は中東、中央アジア、アフリカが、若年人口の爆発期を迎えている。

ただ、若者が大勢いれば常に暴力が生まれるというわけではない。例えば、日本では、1980年代後半から1990年頃の間にも、団塊ジュニアが15歳から25歳くらいを構成するユースバルジ的状況があった(私もその一員)。もしかするとこの状況がバブル期の空騒ぎの要因であったかもしれないが、騒動はあくまで平和的なものにとどまっていた。

そう考えると、「ユースバルジ」(若年者人口の急増)という数量だけの説明では「惜しい」感じが否めない。その過程で人口爆発をもたらす「人口転換」とは要するに「人口の近代化」だというのだから、ここは「近代化とは何か」という問いと結びついたより深い解釈を聞きたい気がする。

(3)トッドの議論との接合

そう、それを行ったのが、エマニュエル・トッドなのである。歴史学者でありかつ人口学者であるという背景がそのような仕事を可能にしたのだと思われる。

人口学の主流は、近代化そのものの発生因については通りいっぺんの関心しか示さない。主流の「なぜ」は、産業革命を契機に経済的に豊かになるとなぜ死亡率が低下するのか、なぜ出生率の低下がその後に起こるのか、という狭い問題に向けられ、近代化とは経済の向上がもたらすものだという常識が問われることは少ない12人口転換は経済的諸条件とは無関係に発生し、経済が人口に与える影響よりも人口が経済に与える影響の方が大きいという見方を取るものとして、Tim Dyson, Population and Development, 2010, Zed Books Ltd, London, NY.(序文の一部しか読んでいません) (ようである)。

しかし、エマニュエル・トッドの研究成果を手にしている私たちは、この説明では満足できない。冒頭でも触れたが、トッドは、ストーンの発見(イギリス革命、フランス革命、ロシア革命のすべてが成人男子の識字率が50%前後の時期に起きたことを指摘した)に着想を得て13ストーン自身は「3分の1から3分の2の間」と幅を持たせている。Lawrence Stone, Literacy and Education in England, 1650-1900, Past and Present, 1969, p138、識字率上昇こそがもっとも重要な近代化の動因であることを明らかにした(エマニュエル・トッド「世界の幼少期ーー家族構造と成長」『世界の多様性』(藤原書店、2008年)所収)。産業革命が起こるのはその後なのだ。

トッドは、識字率上昇に伴うメンタリティの変化こそが近代化を導いたという仮説を立て、近代化のシークエンスを概ね次のように定式化した14エマニュエル・トッド『アラブ革命はなぜ起きたかーーデモグラフィーとデモクラシー』(藤原書店、2011年)29頁以下等参照

男性識字率50%越え→政治的危機(民主化革命)→産業革命

女性識字率50%越え→出生率低下

その上で、近代化の過程で、虐殺や内戦による大量の人間の死が発生する理由については、以下のように説明している。

「文化的進歩は、住民を不安定化する。識字率が50%を越えた社会とはどんな社会か、具体的に思い描いてみる必要がある。それは、息子たちは読み書きができるが、父親はできない、そうした世界なのだ。全般化された教育は、やがて家庭内での権威関係を不安定化することになる。教育水準の上昇に続いて起こる出生調節の普及の方は、これはこれで、男女間の伝統的関係、夫の妻に対する権威を揺るがすことになる。この二つの権威失墜は、二つ組み合わさるか否かにかかわらず、社会の全般的な当惑を引き起こし、大抵の場合、政治的権威の過渡的崩壊を引き起こす。そしてそれは多くの人間の死をもたらすことにもなり得るのである。」

エマニュエル・トッド ユセフ・クルパージュ『文明の接近 「イスラームVS西洋」の虚構』(石崎晴己 訳・解説)(藤原書店、2008年)59頁

トッドのこの説明は、人口転換の理論(死亡率低下→人口爆発→出生率低下)と完全に整合的であり、死亡率低下に遅れて起こる出生率低下を、女性識字率の上昇から説明できる点も魅力的である。さらに、識字率上昇という、時間的に政治的危機より産業革命よりもちろん死亡率低下より早く発生する現象によって、その先の顛末が予測できるのも好ましい。

トッドの理論には、若年人口の急増という要素は組み込まれていないのだが、「ユースバルジ」の項目で挙げた例のように、トッドのいう「移行期危機」の中で発生する個々の具体的な事件の発生時期はこれで説明できるのかもしれない。日本の戦争は、どうだろうか。

5 学園紛争、70年安保

わかりやすい方から行こう。1968年頃から日本中の国立・私立大学に吹き荒れた嵐の主体は、ベビーブーマーたちだった。明治維新からちょうど100年、出生率が安定的に低下傾向を示し、人口転換がほぼ完了したと見られるこの時期に、「団塊」の若者たちの暴発が大学紛争という形を取ったのは、高等教育の拡大(大学進学率の急上昇)が関係していると思われる。

1955-60年の間15%前後で推移した大学進学率は、60年代に20%を、71年に30%を超え、74年には40%超えとなる。大学+短大進学者の人数は、1955年の13.2万、1960年の15.5万人が1971年には約2倍の30.6万人になった15広島大学高等教育研究開発センター・高等教育統計データ集(サイトよりデータをダウンロード)https://rihe.hiroshima-u.ac.jp/publications/statistical_data/

ベトナム反戦運動から学園紛争、70年安保に至る一連の騒動は、近代化の最終局面において、大学という場に大量の若者が供給され、エリート主義を体現する大学(や政府)と「大衆」である若者たちの間に軋轢不和葛藤が噴出したことで発火したユースバルジ現象と見ることが可能であり、説得力もあると思われる。

なお、学生運動としては、60年安保との関係も視野に入れておきたい。1960年の18-20代前半の若者たちは、68年には及ばないが、それなりの「バルジ」を構成していた(下の人口ピラミッドは1960年のデータ。10年後の若者のバルジもわかります(英語版Wikipediaの項目「Demographics of Japan」より))。

大学進学率もそれ以前から増加傾向であり、パーセンテージはなお「エリート」的といわれる段階にとどまっているものの、「親は大卒ではないが子どもは大学に行っている」層が確実に増えていた時代である。この時期には、まだ(比較的には)エリートであった学生を主体に、安保闘争が闘われた。それが10年後には、より多くの若者、より多くの大学生による、大規模で大衆的な学園紛争に発展する。

6 昭和の戦争

いよいよ昭和の戦争である。4(1)で述べたように、日本の人口は1870年以降から戦争終結直前までの間に大幅に増加し、1930年の人口ピラミッドはこんな感じになっていた(これも英語版Wikipediaより)。 

実は1920-40年も高等教育の拡大期で、吉田茂の頃には1%未満だった就学率が1920年1.6%、1940年には3.7%に上昇している16伊藤彰浩「高等教育機関拡充と新中間層形成」『シリーズ 日本近現代史 構造と変動 3 現代社会への転形』147頁(数字の典拠は、文部省『日本の教育統計 明治ー大正』(1971年)19頁(私は確認していません))。これは支配階級のじいさんたちに「最近の若い奴らはバカで粗暴で…」と嘆かせるには十分であったかもしれないが、社会全体からみるとまだまだ少ない。

この時期に、若い人間が大挙して押し寄せ(あるいは連れ込まれ)ていたのは、軍隊である。

軍人の数は、日露戦争後や満州事変後にはそれほど増えていない(1910-18年の平均が299,600人、19-30年が306100人、31-36年が324,100人)。しかし、日中戦争が始まる頃から急激に増加を始め、1937年には陸軍だけで95万人(全体では100万人超)、軍全体で1943年358万人、44年540万人、45年には734万人にまで膨れ上がっていた17渡邊 勉「誰が兵士になったのか(1) : 兵役におけるコーホート間の不平等」関西大学社会学部紀要119号8頁参照(数字の典拠は『日本長期統計総覧』(私は確認してません))軍人の数についてはこちらの記事(竹田かずきさんの「日本の軍人の数〜軍人の数から戦争を見る〜」)もぜひご覧ください(サイトはこちら。45年の人口で単純に割ると、軍人の数は全人口の10%を超えている計算になる。もちろん、増やしたから増えたのだ。増やした結果、ともかくこの時期には、大勢の若者が軍(とくに陸軍)に集結するという状況が生じていた。

日中戦争が始まって間もない1937年12月に起きた南京事件は、昭和の戦争が、「大物」が若者を巻き込んだというより、若者たちに引きずられるようにして泥沼化していったことを例証している事例のように思う。略奪や強姦、虐殺を含む乱暴狼藉の全ては陸軍の首脳部や現場の上級将校が指示してやらせたものではない。勝手に起きたのだ。現場の上層部はむしろ規律を命じていたし、陸軍首脳部は外務省から事件の詳細を聞いて嘆き慌てていたのだから18秦郁彦『南京事件 「虐殺」の構造(増補版)』(中公新書、2007年)14頁、100頁、171-2頁等。同書では「陸軍は体質的に国際感覚が乏し」く、陸軍中央部が慌て始めたのは、兵士たちが外国公館への侵入・略奪を始めたために国際問題化したり、作戦に影響が出るようになってからであったことも指摘されている

満州事変(1931年)を主導したのは革新的思想を持つエリート軍人たち(石原莞爾など)だった。1937年に盧溝橋事件が起き、対中強行姿勢を取る者たちに軍の主導権が移ったとき、彼らの下には100万人近い若者たちがおり、その数はその後短期間の間に加速度的に増えていった。

近代化と移行期危機に関するトッドの定式化、その一部に組み込むことができる「ユースバルジ」の理論を手にしてこの状況をみると、日本が無謀な戦争に突入「せざるをえなかった」理由はほぼ明らかであるように思われる。

近代化という大きな変化の渦中、「団塊」の若者たちのエネルギーが充満する社会で大量の青年たちが軍に集められ、そこに「戦うか、戦わないか」という選択肢があったら、開戦は止められない。彼らがそこにいて、数を増やしている限り、止めることも容易ではないだろう。たぶん、地下に溜まったマグマが上昇を始めると噴火のメカニズムが始動し、プレートの歪みが限界に達すると地震が起きる、というのと同じようなことなのだ。

7 おわりに 

そういうわけで、昭和の戦争は、学生運動と同じようなメカニズムで発生したものであり、思想信条や社会の仕組みとは直接的な関係はない、というのが、現在の私の考えである。

もちろん、背景には、教科書や各種歴史書に書かれているような事実があり、思想や風潮があった。しかし、それらの事実と「無謀な」戦争や残忍な虐殺・強姦事件との間には埋めがたい距離がある。大抵の場合、私たちはその距離を、当時の人たちの倫理的または知的な愚かさを仮定することで埋めているのだが(だからこそ「過ちを繰り返さない」などと言えるのだ)、それは倫理的にも知的にも不当なことだと思う。

男子として当時の日本に生まれ、20歳で南京に送られていたら、私は、非常に高い確率で、虐殺や強姦に加担していただろう。28歳で上官に意見を聞かれたら「戦うしかない」と言い、50歳で責任ある立場にあったら、なすすべもなくオロオロしていたはずである。そして(生きて帰ったならば)後に自分のしたことを振り返り、親を敬い妻子を愛し仲間に親しむ自分がいったいなぜあのようなことをしたのか、理解できずに呆然としたに違いない。

私たちがいま戦争や虐殺や暴動に参加せずに済んでいるのは、倫理的・知的に進歩しているからでも、民主主義や平和憲法を維持しているからでもなく、(諸条件により)社会の深部にそれだけの量のマグマが溜まっていないからにすぎない。人間はいつどこに生を受けるかを選べない(多分そうだと思う)。ということは、それはほとんど偶然のようなものなのだ。

人類学や人口学によって得られるこのような視点は、大袈裟にいえば「救い」である、と私は思う。「裁く」ことなく、過去の非行に向き合うことを可能にしてくれるのだから。

このように歴史(現在を含む)を見ることは、世界平和の基礎にもなるはず、と私は信じているが、詳しくはまた別の機会に。

あと「マグマが暴れ出したら呑み込まれる以外にない、というのでは、理想や倫理などというものは成りたたない。人間が生きる意味すらなくなってしまうのでは?」と感じる人もいると思うが、この点も別の機会に書きます。

(おまけ) アメリカ側の事情

日本側に理由があったのは間違いないとして、戦争をするには相手が必要である。当時の戦争は、最近の中東や中央アジアでの戦争のような、地上では現地の傭兵を使い米兵はドローンや航空機の操作のみ(なのか?)、といったものとは違うはずである。

大変に規模の大きい戦争を4年近くも戦ったということは、アメリカの方にもそれなりの素地があったのではないか、と思って調べてみた。アメリカの人口は、最初が少ないので(1610年で350人)そこからずっと増え続けており(面白いのでwikiなどでグラフをご覧になって下さい。、本文で触れたように、18世紀の増加は独立戦争に寄与したことが指摘されているが、人数的には1850年頃からの伸びが著しい。1850年の2320万人が1880年には2倍以上(5020万)、1920年にはさらにその倍(10600万)になり、1940年には13220万人に達している。年齢の中央値は1940年時点で29歳なので、当時の日本(22歳)ほどではないが、まだまだ若かった。

ちなみに、アメリカは今でも、老化が進む先進国(ヨーロッパは軒並み(中央値が)40歳代を超え、日本なんか48.36歳!)の中では比較的若さを保っており、38.31歳、ということは、タイ(37.7歳)や中国(37.4歳)と変わらない。人口もまだまだ増えていて、2020年には3億3145万人に達している。

それがあのいつまでも好戦的な感じにつながっているのかはよくわからない。アメリカのことはとにかくよくわからないので、いつか何か書くと思う。

  • 1
    トッドの本のあちこちに出てくる。エマニュエル・トッド ユセフ・クルバージュ(石崎晴己 訳・解説)『文明の接近 イスラーム VS 西洋 の虚構』(藤原書店、2008年)58頁以下等
  • 2
    吉田が日本の再軍備に一貫して消極的だったのは、おそらく「いま再軍備をしたら、またあいつらがロクでもないことを仕出かすに決まってる」ということでもあったのだ。ジョン・ダワー「吉田茂とその時代(下)」(中公文庫、1991年)150頁以下参照(上のカギカッコは引用ではありません)
  • 3
    日暮吉延『東京裁判』(講談社現代新書、2008)107頁。これは、戦犯の指定が「知名度」重視で、「大物」責任者を選ぶという方針で行われたためだという(同101頁)
  • 4
    この辺の情報は、川田『昭和陸軍全史』2巻と3巻を参照
  • 5
    「マルクス全集」の一冊として資本論の翻訳が出版されたのは1920年で、1920~30年代に「膨大な量のマルクス主義文献の翻訳がなされた」(丸山眞男「「戦前日本のマルクス主義」英文草稿」(丸山文庫所蔵未発表資料翻訳)106頁(1963年の講演草稿。https://twcu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=20182&file_id=22&file_no=1)らしいので、この時期にマルクス主義が大流行になったと見ていいだろう。1900年前後から一般に知られはじめ、1910年に幸徳秋水の事件があって下火になったりしつつもじわじわ普及し、大正デモクラシーの波にも乗って、1920年頃にはごく普通に学術的な研究の対象となるくらいに流行してきたという感じか
  • 6
    河野稠実『人口学への招待 少子・高齢化はどこまで解明されたか』(中公新書、2007年)107頁は「人口学では数少ないグランド・セオリー(大理論)である」とし、Sarah Harper, Demography, A Very Short Introduction, Oxford University Press, 2018, p55は「one of the centrepieces of demography」としている
  • 7
    主にStatistica.com調べ。1936年のデータは 内閣府「平成16年版少子化社会白書」4頁
  • 8
    河野・前掲113頁以下など参照
  • 9
    自身の小説の中でこの世代を「団塊の世代」と名付けた堺屋太一は「通常ごく安定的な動きをする人口増においては、これほどの膨みはきわめて異常なものであり、経済と社会とに大きな影響を与える」と書いているそうである(日本大百科全書(ニッポニカ)[三浦 展]による)
  • 10
    グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち 人口学が警告する驚愕の未来』(新潮社、2008年)63-64頁
  • 11
    Lionel Beehner, The Effects of ‘Youth Bulge’ on Civil Conflicts(April 13, 2007 3:23 pm (EST))https://on.cfr.org/2Fe2bKb @CFR_org(典拠とされているのは Jack A. Goldstoneの仕事(私は読んでいません))
  • 12
    人口転換は経済的諸条件とは無関係に発生し、経済が人口に与える影響よりも人口が経済に与える影響の方が大きいという見方を取るものとして、Tim Dyson, Population and Development, 2010, Zed Books Ltd, London, NY.(序文の一部しか読んでいません)
  • 13
    ストーン自身は「3分の1から3分の2の間」と幅を持たせている。Lawrence Stone, Literacy and Education in England, 1650-1900, Past and Present, 1969, p138
  • 14
    エマニュエル・トッド『アラブ革命はなぜ起きたかーーデモグラフィーとデモクラシー』(藤原書店、2011年)29頁以下等参照
  • 15
    広島大学高等教育研究開発センター・高等教育統計データ集(サイトよりデータをダウンロード)https://rihe.hiroshima-u.ac.jp/publications/statistical_data/
  • 16
    伊藤彰浩「高等教育機関拡充と新中間層形成」『シリーズ 日本近現代史 構造と変動 3 現代社会への転形』147頁(数字の典拠は、文部省『日本の教育統計 明治ー大正』(1971年)19頁(私は確認していません))
  • 17
    渡邊 勉「誰が兵士になったのか(1) : 兵役におけるコーホート間の不平等」関西大学社会学部紀要119号8頁参照(数字の典拠は『日本長期統計総覧』(私は確認してません))軍人の数についてはこちらの記事(竹田かずきさんの「日本の軍人の数〜軍人の数から戦争を見る〜」)もぜひご覧ください(サイトはこちら
  • 18
    秦郁彦『南京事件 「虐殺」の構造(増補版)』(中公新書、2007年)14頁、100頁、171-2頁等。同書では「陸軍は体質的に国際感覚が乏し」く、陸軍中央部が慌て始めたのは、兵士たちが外国公館への侵入・略奪を始めたために国際問題化したり、作戦に影響が出るようになってからであったことも指摘されている