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コペル君の志

 

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コペル君の人生

『君たちはどう生きるか』の主人公、コペル君のプロファイリングをしたことがあります。概要はこんな感じ(↓)。

コペル君(プロフィール) 

  • 本名:本田潤一
  • 生年:1923年生
  • 出身:東京都 
  • 家庭:父親は大手銀行の重役。召使が何人もいるような裕福な家庭に育つ。11歳のときに父が病気で死去。母一人子一人となり、郊外に転居(ばあやと女中1名が同居)。叔父さん(法学部卒のインテリ)と仲良し
  • 人生:旧制中学卒業後、17歳で東京帝国大学法学部に進学(1940年)。1943年、20歳で学徒出陣。特攻等で戦死、または生還して復学し、エリートとして戦後復興を支える

 

○生年

コペル君(本名:本田潤一)は、本の中では、中学2年生です。

「15歳」と書かれていますが、当時は数え年なので、満年齢に直すと13歳だと思います。作者の吉野源三郎さんが本の執筆を始めたのは1936年(出版は1937年)なので、その時点で13歳だったと仮定すると、コペル君の誕生年は1923年になります。

生きていれば昨年でちょうど100歳ですね。日本人だと、佐藤愛子さん、三國連太郎さん(俳優。佐藤浩一のお父さん)、司馬遼太郎さんなんかが同じ年です。

○出身・家庭

出身地は東京都の東京市。かつての15区内(↓)だと思います。だから、郊外に転居といっても、世田谷とか杉並かもしれません。

お父さんは大手銀行の重役です。五大銀行のどれかでしょう。お父さんはコペル君が11歳のときに亡くなっていますが、その後も本田家の暮らし向きは比較的裕福であることが感じ取れます。 

 1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって設置された東京15区(Beagle at ja.wikipedia

○人生

コペル君と仲良しの叔父さんは、法学部卒のインテリです。こうした家庭環境や性格、本の中で、学問を修めて人類の進歩に役立つ立派な人間になろうと決意しているところなどから見て、コペル君は、旧制中学校を卒業した後、東京帝国大学法学部に進学した可能性が高いと思われます。

1940年に17歳で帝国大学に進学した若者がその後どうなったか。

1940年当時、高等教育機関(大学・高等学校・専門学校)に在籍中の学生は徴兵が猶予されていました。しかし、1943年にこれが一部解除され、いわゆる学徒動員(学徒出陣)が始まります。コペル君が文科系の学生であったなら、20歳になる頃、戦地に赴いたはずです。

帝大を含め、学徒出陣で戦地に送られた学生の多くが、特攻隊員となって命を落としています。コペル君がその一人であった可能性は決して小さくありません。

いずれにせよ、コペル君は、出征して戦死したか、生還して復学し、中央官庁・企業などでエリートとして戦後日本の復興・発展を支えたか、そのどちらかの人生を送った可能性が高いと思われます。

『君たちはどう生きるか』について

2017年に漫画版が出て以来、コペル君を主人公とするこの本が再び人気です。宮崎駿監督は同タイトルの映画を作り(本も出演していました)、そのせいもあってまた売れているようです。

確かによい本だと思います。感動する気持ちも分かる。子どもさんや若い人が読んだら、何かよいものを受け取るでしょう。

でも、この本を、これからを生きる人たちに薦めたいか、と言われると、社会系の研究者としては、微妙な気持ちを拭えません。

なぜか。

『君たちはどう生きるか』は、単なる「生き方」(倫理)の本ではありません。人間の理性を信奉し、人類の進歩を礼賛する近代主義(西欧中心的な進歩主義)の立場から、少年を社会科学の世界に誘うことをはっきり意図して書かれた本です。

シリーズ(日本少国民文庫)を企画した山本有三や著者の吉野源三郎は、軍国主義の風潮が高まり、言論・出版の自由は制限され、労働運動や社会運動が激しい弾圧を受けていた日本で、次代を担う子どもたちだけは、時代の「悪い影響」から守らなければならないと考えたといいます。山本や吉野は、西欧文化に親しんだ知識人として、自分を捨てて国家に尽くすことを求める偏狭な国粋主義とは異なる「自由で豊かな文化」が存在することを伝え、人間の自由な精神こそが進歩の原動力なのだという信念をかき立てることで、彼らの信じる進歩を、子どもたちに託そうとしたのです(岩波文庫版巻末・吉野源三郎「作品について」参照)。

だから、叔父さんは、コペル君に、立派な人になるには、世の中の規範にただ従うのではなく、自分が本当に感じたことや、心を動かされたことと深く向き合って、本当の自分自身の思想を持つ人間になることが大事なんだと熱く語ります。

そして、当時の日本においては最先端の思想であったマルクス主義の知見を紹介し、人類の過去の叡智をまとめ上げたものが学問である以上、まずは「今日の学問の頂上にのぼりきってしまう」ことが必要であり、その先にこそさらなる進歩があるのだと力説するのです。

実際、コペル君は、このシリーズの第1巻・第2巻である『人間はどれだけの事をして来たか(一)(二)』(人類の発展の歴史を描いたもの。国立国会図書館のウェブサイトで読めます)をしっかり読んで勉強したという設定になっています。『君たちはどう生きるか』は、読者である少年少女に、近代主義の流れに棹さし、自由で民主的な「よい」世の中を作るために、一人一人の人間はどう生きていくべきなのかを、自分の問題として考えることを求め、導くための書物にほかなりません。

対米戦争が始まった頃には刊行できなくなったこの本が、戦後の日本で大いに評価されたのは、この本の基本思想が、アメリカへの敗戦で義務化された「民主化」路線にピッタリとはまったからです。

しかし、そうしたこととは別に、この本に、現在も読者を感動させる力があるとすれば、それは、作者である吉野源三郎さんが、人間精神の偉大なる可能性、そして、人類の集合的叡智たる学問を基礎に置くことで、自由で豊かで平和な社会が実現できるという希望を、本気で胸に抱いていたからでしょう。心から信じることを若い世代に託す。その真率な気持ちが、読み手に伝わるのです。

2024年を生きる私たちはどうでしょう。私たちは、吉野さんの抱いた理想が、実現しなかったことを知っています。コペル君の生誕から100年、世界は、近代以降の人類の活動に起因するとされる自然災害、戦争や殺戮に溢れ、貧困や経済的不平等すら克服される気配はない。もっとも豊かな国の豊かな階層にとってすら、未来は不確実になりました。

このような時期に生まれてきた年若い人々に、100年前と同じ理想を語るこの本を薦めることができるでしょうか。

その中には、もしかして、特攻で戦死し、生まれ変わったコペル君が混じっているかもしれない。

この世に戻ってきたコペル君や仲間の子どもたちに『君たちはどう生きるか』を託す大人は、いったい、どんな言葉をかけるのでしょう。

「率直に言って、あの後、世界が良くなったとは言えないかもしれない。

でも、理想が間違っていたわけではないんだ。だって、本当に良い人間になって、良い世界を作る。そんな普遍的な理想が、間違ってるなんてこと、あるわけないだろう?

だから、君ならできる。君たちならできるよ。絶対。人間に不可能なんてないんだから。

今度こそ、がんばって勉強して、立派な人になって、持続可能な、よい世界を作ってね。期待してるよ!」

それはちょっと、無責任、というか、非道ではないか、と私は思うのですが・・

おわりに

そういうわけで、私は、ある時期から、現代・近未来版の『君たちはどう生きるか』を書いてみたい、と考えるようになりました。

2003年に出た池田晶子さんの『14歳からの哲学  考えるための教科書』は、たしか、その趣旨だったと思います(ご本人がどこかで書いていました)。池田晶子さんの書くものは好きでよく読んでいましたが、この本は、私にはピンと来なかった。形而上学に寄り過ぎていると感じたのだと思います(手元にないので勘と記憶ですが)。

僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中が来なければいけないと思います。人類は今まで進歩して来たのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

岩波文庫版(1982年)・298頁

ノートにこう書きつけたコペル君の志を、子どもっぽい理想と笑うことはできません。大体、社会の研究者などというものは、全員、コペル君なのですから。

100年経っても、全く「そういう世の中」に近づいていないことを知って、ショックを受けるコペル君(本当に私ですね)。

彼と彼らに必要なものは、夢や希望、理想や「世界観」ではなく、人間と社会に関する端的な真実であると私は思います。まあ、真実というのは分かりませんので、自分で拾いにいくしかないのですが。

だから、私なら、彼らを探検の旅に連れ出したい。方位磁石やピッケル、鍬、探検仲間が残してくれた怪しい地図なんかを手に、素朴な「なぜ」を手掛かりに、真実を掘り当てるのです。

この世界の有り様に納得できれば、彼らの生命力は、勝手に希望を見出して、楽しく生きていってくれるでしょう。

そう思って、時期が来るのを待っていました。ようやく「今ならできるな」と思えるようになりましたので、今年、この取り組みを始めたいと思います(他のこともします)。どうぞ、お楽しみに。

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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ④ ドル覇権の現在

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はじめに

ドル覇権は今、崩壊の道を歩んでいる。毎分、毎秒、崩壊に近づいている。多分そうだと私は思っている。

過去にも、ポンド覇権の崩壊、覇権国の交代、バブルがはじけたとか、大不況とか、そういった事象が発生したことはある。しかし、ドル覇権の崩壊は、少なくともある程度の長いスパンで測定する限り、そうした事象とは比較にならない、重大な事件になると思う。

まず、類例のないほど巨大化した金融システムがクラッシュすることで、経済が大混乱することが予想されるが、それだけではない。

ドル覇権の崩壊は、短く見積もって200年、長く見積もれば400年近く続いた西洋中心の秩序が崩れ、おそらくは多極化した、別種の世界の誕生を祝う事件となる。

それは、自然現象にたとえれば、超新星爆発とか(?)、そのくらいには、珍しい事象といえる。

せっかく、この稀有な現場に居合わせるのなら、よく見て、感じて、存分に味わいたい。・・そう思いませんか?

この連載は(①-④)、何より自分自身が事情を知りたくて書いたのだが、同時代を生きる人たちが、変化をおそれず、これからの激動を「ワクワク」気味に迎えるためのガイドにもなっていると思う。

ぜひ、知っておいていただきたいことは、2つ。

まず第一に、「不正な秩序」に堕してしまったこのシステムの崩壊は、世界中のほぼ全ての人々にとって、ある種の隷属状態からの解放であること。

一方で、第二に、このシステムの誕生から崩壊に至る一連の過程を駆動したのは、決して「巨悪の策謀」などではなく、結構つまらない・・経済力を通じて世界の中心に立った一群の人々が、ひたすら目先の自己利益だけを考え、おかねをその道具として利用した。周囲は周囲で、ちょっとおかしいと思いつつ、なすすべもなく巻き込まれていった。そんなふうにしてもたらされたものらしい、ということ。

難儀なことはいろいろ起きると思う。でも、覚えておいていただきたい。新しい何かが生まれ出るためには、古い何かが壊れ、滅びてゆかなければならない。それだけのことなのだ。

今回が最終回。ここまでの流れを整理した上で、現在起きていることについて若干の分析と感想を述べ、まとめとさせていただきたい。

ここまでの流れ

【ドル覇権の成立】

  • アメリカはWW2に参戦し念願の通貨覇権を手に入れた。
  • 基軸通貨特権(通貨発行特権)を得て調子に乗ったアメリカはドルをバラまきすぎて通貨システム(金=ドル本位制・固定相場制)を崩壊させた。
  • ところがなんと、金兌換義務を放棄したことで、通貨発行特権は量的制限のない「スーパー通貨発行特権」にバージョンアップしていた。
  • アメリカの支出は増加の一途をたどり、巨額の経常赤字が常態化、ドルの信用は低下した。

【ドル覇権に組み込まれる西側諸国】

  • 世界経済が混乱に陥るのをおそれた西側諸国(ヨーロッパ主要国と日本。以下同じ)は、アメリカの経常赤字のファイナンス(補填)に協力するとともに、率先してドル安定化のための協調体制を築き、「ドル覇権」の一角を担うようになった。

【おかねの増えすぎと金融化】

  • アメリカの「バラまき」や後始末のための為替介入によって世界に流通するおかねの総量は増えに増え、低成長期に入った西側諸国にスタグフレーション(物価高+不況)をもたらしたが、西側諸国は「おかねをぐるぐる回す」(金融)ことでこれに対処した。
  • 経済における金融部門の極大化でおかねの総量はさらに増え、①国内における著しい経済格差(格差社会)、②気まぐれな投資を通じた途上国の搾取(成長阻害)と環境破壊をもたらした。
  • ②によりグローバル・サウス+BRICSのドル覇権(+IMF)への反感は高まり、信頼は低下した。

【グローバル・サウス+BRICSの反感】

  • 気まぐれな投資による債務危機IMFの構造調整プログラムによって緊縮を強いられ、社会・経済を混乱させられたグローバル・サウス+BRICS諸国の間では、ドル覇権への反感が高まった。
  • アメリカによる恣意的な経済制裁の多用も、ドル覇権への反感を増幅した。

【ドル覇権を守るための戦争】

  • アメリカ経済が金融に活路を見出したことで、アメリカにとってドル覇権の確保が死活的に重要になった。
  • 以後、アメリカは、ドル覇権を「利用して」ではなく、ドル覇権を「守るため」戦争を行うようになった。

【グローバル・サウス VS ドル覇権】

  • 2008年の金融危機後、西側諸国の結束は強化され、ウクライナ戦争を通じて「グローバル・サウス VS ドル覇権(西側諸国)」の対立が顕在化した。

ガザ危機ー深まる対立

ウクライナ戦争について、西側が「反ロシア」で直ちに結束したのに対し、グローバル・サウスが比較的冷めた見方をしていたことはご存じだろう。「なんで?」と思った人もいるかもしれない。

NHKなんかでは最近急に発生した現象のように扱われているが、この対立の根は深い。「冷めていた」のは、彼らが根本的に、アメリカと西側諸国をそれほど信用していないことの表れなのだから。

西側に属するわれわれは、習慣的に、アメリカは原則として善の側に立っていると考える。われわれは、アメリカと対立している国ならばいとも簡単に「悪」と決めつけ、アメリカが行なっていると見れば、明らかに不当な行為でも目を瞑る。それが習い性になっている。

しかし、グローバル・サウスの国々はそうではない。西側の眼鏡をつけていない彼らにとって、ロシアは善でも悪でもない普通の国だ。他方、アメリカについては、われわれが見ないふりをしてきた数々の行為ーNATOによるユーゴスラビア空爆、イラク戦争、シリアへの不当な介入、CIAによる「民主化革命」の扇動など多数ーを、彼らはしっかりと見て、記憶に留めている。

ウクライナ戦争が勃発したとき、われわれの多くは西側メディアのいうことを鵜呑みにしたが、彼らは違っていただろう。

それでも、ウクライナ戦争では、西側が一方的にロシアを非難する態度を取ったことが、グローバル・サウスのはっきりとした反感を呼び起こすことはなかった。それは、単純に、近年のウクライナで何が起きていたのかを知っている国が少なかったからだ。

しかし、パレスチナとイスラエルの問題は違う。イスラム教国を筆頭に、グローバル・サウスの国々は、近年のイスラエルがパレスチナの人々に何をしてきたかを知っている。パレスチナ自治区にイスラエル人を入植させてパレスチナ人を迫害したり、自治区に対して爆撃や軍事侵攻を繰り返してきたことを知っている。

▷特定非営利法人 パレスチナ 子どものキャンペーン さんのサイト。とてもよくまとまっていて勉強になります。
https://ccp-ngo.jp/palestine/palestine-information/

西側諸国以外の国々はハマスをテロ組織と見てはいないようです。

彼らは、いま、イスラエルがガザや西岸の自治区で行っていることを、9・11や東日本大震災のときにわれわれがそうしたように、息を呑み、涙を流して見つめているのだ。

今回のガザ危機で、ハマスの非難なんてどうでもいいことにこだわり、戦闘の一時停止・休戦要求でお茶を濁し、一致して即時停戦を求めることすらできない西側諸国を見て、彼らは心底幻滅しているだろう。

同時に、彼らの中に「疑念」としてあったもののいくつかは、確信に変わっているかもしれない。アメリカが、自由と民主主義のためではなく、覇権の維持のために行動していること。それを支持する西側諸国が、覇権に連なる優越的な立場の維持のために汲々としていること。

そして、その目的に資する限り、非西側諸国の人間が何人死のうが、プロパガンダとレトリックの限りを尽くして正当化されること。

彼らの目に、G7の席上で微笑む首脳たちは「新・悪の枢軸」に見えているに違いない。

「最後のG7」(2021)https://www.reddit.com/r/ModernPropaganda/comments/nysner/the_last_g7weibo_artist_lao_ah_tang/?rdt=34701

2003年と2023年の間

(1)2つの変化

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。いや、この連載を通じて、すでに「グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは当然」という地点に達してはいた。しかし、それにしても、このところの展開はあまりに急なのだ。

‥‥アメリカは世界なしではやって行けなくなっている。その貿易収支の赤字は、本書の刊行以来さらに増大した。外国から流入する資金フローへの依存もさらに深刻化している。アメリカがじたばたと足掻き、ユーラシアの真ん中で象徴的戦争活動を演出しているのは、世界の資金の流れの中心としての地位を維持するためなのである。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 訳)『帝国以後』(藤原書店、2003年)2頁

トッドが『帝国以後』の日本語版序文でこう書いたのは2003年、イラク戦争の最中のことだった(原著は2002年発行)。

2003年と2023年。この両時点で、変わらないのは、アメリカが「世界の資金の流れの中心としての地位を維持するため」に、「じたばたと足掻いている」という点である。

しかし、大きく変わった点が2つある。

1つは、アメリカの戦争活動が、トッドのいう「演劇的小規模軍事行動主義」に止まらなくなっている点である。2000年代初頭のアメリカは、イラクに侵攻し、イランや北朝鮮を挑発して満足していた。

最近のアメリカは大胆だ。ウクライナ戦争(仕込みは遅くとも2014年に始まっている)、中国に対する執拗な挑発、ガザ危機への対応。どれを取っても、世界を大戦争に巻き込みかねないものばかりである。

そして、もう一つの変化は、これに対する西側諸国の態度である。2003年、ドイツとフランスは米英の提案によるイラクへの武力行使(開戦)に明確に反対の意思を示していた

しかし、2022-23年の西側諸国は、アメリカを諌めるどころか、ほとんど躊躇する様子も見せず、がっちり一枚岩の対応をとっているのである。

いったい、何が起きたのだろうか。

(2)金融危機とシェール革命ー凶暴化するアメリカ

おそらく、アメリカを軍事的冒険主義に駆り立て、ドル覇権に対するヨーロッパや日本の忠誠を強化させた理由の一つは、2008年の金融危機である。ドル覇権の終わりを眼前にしたアメリカは、直ちに取り繕ったけれども、覇権を少しでも長持ちさせるためのさらなる行動を誓い、西側諸国は忠誠を尽くすべく腹を決めた。ありうる話だと思う。

もう一つの副次的な理由は、2008-10年ごろのシェール革命ではないか、と私はにらんでいる。

ちょうど金融危機の直後、シェール層(岩石の一種)からのガス・石油抽出技術の実用化によって、アメリカは、突如石油とガスの一大産出国となっている。

原油の輸入量
原油の生産量
天然ガスの生産量

イラク戦争の頃のアメリカは、イラクを含む西アジアの石油をめぐりEUとライバル関係にあった。EUには、自分たちのエネルギー資源の確保のためにアメリカと対立する理由があったし、アメリカの方にも、各地の情勢に介入する際に、一定の抑制を要する理由があったのだ。

しかし、石油産出国の「ビッグスリー」(アメリカ、ロシア、サウジアラビア)の一角となったアメリカに、もはや、怖いものは何もない。

アメリカにとって、エネルギーはつねに「友好国や同盟国」の忠誠をつなぎ止める手段だった。

「ビッグスリー」となったアメリカは、「しめしめ」とばかりに、危機に瀕するドル覇権の維持に絶対不可欠な西側諸国の忠誠を、アメリカのエネルギー(への依存)によって勝ち取ることを企図した、というのが私の推理である。

ウクライナ、ガザでの粗暴で大胆なふるまいは、エネルギー網の切断によってヨーロッパとロシアの絆を断ち切り、ユーラシア大陸のエネルギーをできる限り支配下に置くことで、西側諸国の忠誠心を永続させようと狙ったもの、と考えると、「なるほど・・」(ため息)と思えるのである。

(3)ドル覇権の終焉が早まった

しかし、実際には、アメリカのあまりに粗暴で理不尽なふるまい、そして、それでもなお西側諸国が忠誠を尽くす様子は、ドル覇権に対する世界の信用を決定的に損ねる結果となるだろう。

以前、どこかに「ドル覇権はもうすぐ終わる(5年後か数十年後かはわからない)」という趣旨のことを書いた記憶があるが、アメリカの凶暴化によって、その時期はずいぶん早まった、と感じる。

しかし、この連載をお読みいただいた方には、それが起こるべくして起こることであり、世界にとって決してわるいことではない、と感じていただけるのではないだろうか。

おわりに

この記事(①-④)と、同タイトルの連載は、これで完結である。「そうだったのか・・」と思ってくれた方がいたらとても嬉しいし、そうでない方にも、何らかの刺激を楽しんでもらえたら、とても嬉しい。

「あの・・」

あ、はい。

「事情は大体分かりました。でも、それで、私たちはどうしたらいいんでしょうか?」

・・ご質問、感謝します。

いま、例えば、アメリカの凶暴化を止めるために、ドル覇権の崩壊を遅らせるために、グローバル・サウス+BRICSと西側世界との和解のために、何か具体的にできることがあるかというと、ない、と私は思う。

アメリカはアメリカで事情があって凶暴化しているのだし、1980年に戻って縮小均衡からやり直すということもできないし、グローバル・サウス+BRICSの西側世界に対する当然の不信感に対して取り繕う言葉も、私には見あたらない。

でも、これだけのことを知れば、自分自身の生き方は変わるのではないだろうか。

おかねについて、仕事について、世間で「普通」とか「正しい」とされている物の見方や考え方について。

「なんかちょっと、変じゃない?」と思っていたことのすべてが、もしかして、増えすぎたおかねに押し流されて、仕方なくそうなっていることだとしたら。

その上、そのおかしな世界の基礎を作ったドル覇権は、もうすぐ終わるのだとしたら。

「なーんだ」

石ころでも蹴とばしたら、いろいろな謎の重荷を置いて、足の向くまま、スタスタ歩き出したくなるのではないだろうか。

何かできること。
あるとしたら、それだと思います。

主な参考文献はこちら(写真はケインズ)
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ③グローバル・サウス+BRICS

 

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はじめに:なぜドル覇権と距離を置くのか

南米、東南アジア、アフリカなどを含むグローバル・サウス。そして、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカを中核とするBRICS(以下まとめて「グローバル・サウス」と呼ぶ)。 

これらの国々は、なぜドル覇権から距離を取り、独自の立場で存在感を高めようとしているのか。

それが今回のテーマである。

債務危機の構造

実際のところ、答えは非常に単純である。彼らは、アメリカに、そして、ドル覇権を擁護する西側諸国に、食い物にされ、成長を阻まれたと感じているのだ。

ラテンアメリカを筆頭に、アジア(タイ、インドネシア、韓国など)、ロシアはいずれも1980−90年代に債務危機を経験し、その後数年から十数年にわたって経済的苦境に陥った。

「危機」の構造は概ね共通している。

①発展途上の彼らは、成長率低下と「増えすぎたおかね」を持て余し金融に活路を見出した先進国に目を付けられ、民間資本から気まぐれに大量の資金を貸し付けられた後、気まぐれな「高金利」や気まぐれな資金の引き上げに遭い、債務危機に陥った。

②危機に陥った彼らに手を差し伸べるフリをして近づいたIMF(国際通貨基金)は、彼らの真の経済成長よりも、西側諸国の貸し手の利益と投資市場としての保全を重視し、デフォルト(債務不履行)を防ぐための大規模融資を行った上で、融資条件として構造調整プログラムを義務付けた。

  1. 緊縮政策(財政支出(国民・国内事業者向け補助金など)の削減と金融引締め(通貨供給量減)による収支の改善)
  2. 貿易の自由化
  3. 金融・資本の自由化
  4. 公的部門の民営化
  5. 規制緩和

③「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるこの政策パッケージは、それを受け入れたほぼ全ての国で、社会・経済の混乱に拍車をかけ、外国資本への依存度を高めた。

*その他、2000年代に通貨・金融危機を経験したアルゼンチン、トルコ、ラトビア、ウクライナといった国々もIMFの不適切な勧告によって苦難に陥り、世界銀行の支援を受けた多くの国々も、「ワシントン・コンセンサス」型の構造改革を実行するよう「助言」された結果、同様の問題を経験しているという。

驚くべきことだと思うが、上記の国々が安定的な成長軌道に乗ったのは、IMFと手を切り、当時の経験を反面教師とした独自の経済政策が取れるようになってからのことなのである。

IMF(国際通貨基金)の真実

(1)IMFの仕事

「えっ、でもIMFってちゃんとした国際機関でしょ?」と思った方のために、この機関の成り立ちを説明しよう。

IMF(International Monetary Fund 国際通貨基金)は、1944年のブレトン・ウッズ会議で締結された協定に基づいて作られた国際機関である。

あまり(一般には)知られていないことだと思うが、実は、協定そのものは、ドルを基軸通貨とする「一極」体制ではなく、すべての通貨を平等に扱う多角的な通貨システムを想定していたという(山本栄治『国際通貨システム』82-86頁)。IMFはそのシステムの下で、固定相場の安定維持および通貨政策に関する標準的なルールの設定を促すための機構として設置された。

しかし、現実は協定のシナリオから大きく外れた。そのため、IMFは当初から限定的な機能しか持ち得なかったが、(1971-73を経て) 固定相場制が放棄されたことで、IMFはいよいよやることがなくなった。

そんなIMFに新たな活躍の機会を提供したのが、1970年代末から相次いだ債務危機である。このとき、IMFは、危機に陥った新興国・途上国に融資を行った。加えて、融資条件(コンディショナリティ)として「ワシントン・コンセンサス」型の構造調整プログラムを実施させ、以後、この一連の仕事が、IMFの主要な役割となった。

*現在のIMFの概要は財務省の説明が分かりやすい。

直裁にいえば、IMFは、融資を与える債権者としての地位を利用して、新興国・途上国の経済を、先進国(とくに米英)の「金融に特化した新自由主義経済」と親和性が高いシステムに作り変えることを、主な仕事とするようになったのである。

*「金融に特化した新自由主義」と親和性が高いということは、有り体にいえば、「草刈場として利用しやすい」という意味だ。

ただし、これは私の考えだが、この一連の推移(①協定に反するドル一極体制の成立、②アメリカの都合による固定相場制の放棄、③新自由主義推進機関としてのIMF)は、決して、偶然の結果ではないと思われる。

IMFの設立の根拠であるブレトン・ウッズ協定は、WW2後の通貨システムに関するアメリカとイギリス(イギリス案はケインズが作った)の激しいバトルの末に成立したものである。当時の力関係を反映し、協定はアメリカ案をより多く取り入れたものとなったが、アメリカ案そのものではなかった。この段階では、アメリカも、一定の妥協を示していたのである。

しかし、すでに述べたように、ブレトン・ウッズ協定の想定した通貨システムは実現せず、現実は「ドル一極体制」に落ち着いた。

たぶん、アメリカは、もともと、意に沿わない協定に従うつもりなどなかったのではないかと思う。アメリカは、協定の成立には協力したが、その実現には力を入れなかった。そうして、望み通りの通貨システムを手に入れ、IMFを自らの手足として、各国経済をアメリカの利益に合致するように作り変えていったのだ。

(2)IMFの意思決定

なぜ、アメリカに、IMFを手足として利用するなどということができたのか。秘密はIMFの意思決定システムの中に隠されている。

IMFは「自由・無差別・多角主義」に基づく国際機関ということになっており、意思決定は加盟国の合議と投票による。

通常の議決は過半数、重要事項は事項によって70%ないし85%の超多数決である。

しかし、IMFの投票権は、一国一票ではない。出資金の分担額(出資割当額:クオータ)が多いほど多く割り当てられるのだ。

割当額の1位は一貫してアメリカで、概ね17%前後。ほかに15%以上のシェアを持つ国はないので、85%事項に関してはアメリカ1国だけが事実上の拒否権を持つ格好である。

現在(2018年改定後)は2位は日本で約4.6%。旧G5諸国の合計が37.9%なので、G5が揃えばもちろん、アメリカ+3カ国で70%事項は問題なくクリアできる。

通常の過半数の議決についても、西側諸国だけで優に50%を確保しているので、非西側諸国のすべてが結束しても、西側諸国の一致した意向に反する議決を行うことはできない。

そして、この割当額の変更は85%の超多数決事項なのである。

IMFの意思決定システムは、公平中立な国際組織のシステムとしては異常である。しかし「公平中立ではない」と考えれば納得できる。

IMFは、もともと、アメリカの意向に沿って行動する「国際機関」として設計されている。IMFによる支援が、支援対象国よりも、アメリカ(と西側諸国)の利益を主に考慮しているように見えるのは、単純にその結果なのである。

IMF Headquarters, Washington, DC.

「危機」の具体例

(1)ラテンアメリカの場合

具体例の代表的なものをいくつか見ていこう。

債務危機をいち早く経験したのはラテンアメリカだ。合衆国の「裏庭」として、早くから資本流入と金融・資本自由化が進んでいたからである。

〈前提としての金融・資本自由化〉

WW2の後、アメリカはラテンアメリカ諸国の共産主義化を恐れて、親米右派政権(しばしば軍事政権)を支援した。

*チリのピノチェト政権のようにCIAがクーデターを支援したケースもある。

アメリカが「親共産主義」とみなす政権が一般に、農業の振興や輸入代替工業の発展を重視し、輸入に依存しない経済の下での国民生活の向上を目指したのに対し、アメリカが支援した親米右派政権は、アメリカの意向に沿って、外国資本に依存した輸出志向の工業化を目指した。

*有り体にいうと、外資の下で安い賃金で国民を働かせて外国に売れる製品を作り、儲けたドルでアメリカ製品を買う(余剰農産物と軍需品)という仕組み。

*そしてアメリカはどこの国に援助(通常は融資)をするときにも、アメリカ製品の購入と資本自由化(海外資本の受け入れ)を条件として課した。

アメリカの支援を受けたラテンアメリカ諸国では、1970年代までに、貿易自由化に加え、金融・資本自由化が実現していたのである。

〈スタグフレーション・マネーの流入〉

変動相場制に移行し、基軸通貨国アメリカからますます大量のドルが供給された1970年代、「低成長+おかねの増えすぎ」によるスタグフレーションに苦しんでいた先進国は、増えすぎたおかねの使い道を探した。

金融に活路を見出した彼らが、有望な投資先として目をつけたのが(当時の)発展途上国だ。

スタグフレーションのために先進資本主義国の生産資本の蓄積が停滞した結果として、74-84年累計で1793億ドルにおよぶ「過剰貨幣資本」が国際金融市場に間歇的に放出されて「過剰貸付資本」が形成され、この「スタグフレーション・マネー」が「オイル・マネー」とともに発展途上国累積債務の実体を形成した

森田桐郎「ラテン・アメリカにおける「開発」と債務」石見徹・伊藤元重編『国際資本移動と累積債務』(東京大学出版会、1990年)203頁

1970年代後半、余剰ドルを手にした先進国に押し付けられる形で借入を増やしたラテンアメリカの国々を待ち受けていたのは、1980年代のアメリカのドル高・高金利政策である。借入はドル建であるから、金利も返済額も大幅に上がる。これに、世界的な不況による輸出収入の減少、石油価格の上昇が重なって、彼らは続々と債務返済不能に陥っていったのである。

〈IMF融資と融資条件〉

債務危機に陥ったラテンアメリカに、IMFは大規模な融資を提供した。融資条件としての「ワシントン・コンセンサス」はこの時期に確立されたものだというが、ラテンアメリカの場合、2-5はすでに実現していたので、もっぱら1の緊縮政策が厳しく求められることになった。

過剰貸付を受け、外部的な要因によってその支払いが困難になり、経済的に苦境に陥った国に必要なものは何か、考えてみてほしい。まずは、債務の減免か(最低でも)猶予、そして、経済を元の軌道に戻すための財政支出こそが、必要なものではないだろうか。

IMFはラテンアメリカに多額のドルを貸し付けたが、債務には一切手を付けず、コストカットによる収支の改善だけを義務付けた。これでは、融資の目的が、もっぱら債権者の利益の確保(貸付により利子の支払いを可能にし、国家財政の破綻による貸し倒れを防ぐ)にあったと言われても仕方がないだろう。

1980年代のラテンアメリカは、IMFの「救済」によってデフォルト(債務不履行)こそ免れたものの、その経済は改善せず、借金返済(利子の支払)のために新たな借金を強いられる「債務のわな」(debt trap)状態に陥った。

結果、ラテンアメリカは、この「失われた10年」ののち、再び「危機」を迎えることになる(メキシコ通貨危機アルゼンチン通貨危機、ブラジル通貨危機等)。

*後者の「危機」はアジア通貨危機と同じ構造なので、説明は事項に譲ろう。

(2)アジアの場合

先進国が「目を付けた」投資先には、もちろん、アジアの国々(タイ、インドネシア、韓国など)が含まれていた。

〈投資マネーの流入・タイの金融危機〉

アメリカやIMF(ほぼ同義だ)の影響で1990年代に資本自由化を推進したこれらの国々は、特に91年の日本におけるバブル崩壊以後、日本を含む先進国から多額の民間資本が流入した。

*日本に投資先がなくなったから。なお、資本とは「おかね」という意味です。

20世紀後半の投資マネーは短期に確実な利益を出すことを求めている。彼らは気まぐれにやってきて、「危うい」と見るや、さっさと消えていくのだ。

*19世紀との大きな違いである。ポンド覇権時代の対外投資は公共事業等に対する長期投資が中心だった(日本もイギリスの資金で鉄道を建設したりした)。

1997年、タイの経済指標の悪化(経常収支赤字など)を嫌った投機筋がバーツ(タイの通貨)を売り、バーツの価値が大幅に下落(2-3ヶ月で半分)。タイの銀行・企業の財務状況は悪化し、タイは金融危機と不況に陥った。

〈資金引上げによる危機の伝播〉

タイの金融危機は、インドネシア、マレーシア、韓国といった比較的良好な経済状況を保っていた国にも波及した。「アジアは危ない」と見た投資家が、資金を引き上げたからだ。

こうして、投機筋の売りによるタイの通貨下落が引き金となって、「アジア通貨危機」と呼ばれる経済危機に発展したのである。

〈IMF融資と構造改革〉

IMFはマレーシアを除く3カ国に融資を行い、融資条件として、「ワシントン・コンセンサス」的構造調整プログラムを実施した。

ここでも、とくに、経済運営が順調だったインドネシア、韓国の2国について、どんな対策が必要だったかを考えてみよう。

彼らの「危機」は、短期資本の引き上げによる資金繰りの悪化がもたらしたものだった。したがって、短期的には、資金不足を補うための融資に加え、一時的に悪化した経済状況を乗り切るための財政支出と金融緩和が必要であり、かつ、それで十分だったと思われる。そして、長期的には、むしろ、外部の資金に過度に依存しない経済システムの構築が必要だったはずだ。

ところが、IMFは、緊縮政策(財政支出の削減・金融引締め)に加え、金融機関の整理統合、国営企業の民営化、財閥解体、金融・資本規制の撤廃、労働市場の自由化といった広範な構造改革の実施を義務付けた。

単なる一時的な資金不足に構造改革で対応したことで、社会は混乱し、景気後退も深刻化したのである。

IMFのしたことは、一時的な資金不足に乗じて、有望な経済圏をドル運用の好適地に作り替えること以外の何物でもなかった。そう言わなければならないと思う。

ところで、タイ、インドネシア、韓国は、いずれも、2008年の金融危機を比較的うまく乗り切った国として知られている。彼らは、金融を緩和し、財政支出を拡大して、危機を乗り超えた。そう、彼らが採用したのは、IMFと正反対の経済政策だったのだ。

IMFを反面教師とした国こそが、金融危機によく耐えた。IMFの経済政策の問題性をこれほどよく示す事例もないだろう。

◾️アジア危機への日本の対応◾️

1980年代に本格化したIMFや世界銀行の新自由主義・市場原理主義的な融資条件(ワシントン・コンセンサス)に対し、日本政府がかなり明確に批判的な立場を取っていたことは特筆しておきたい。

1991年10月のIMF・世銀総会で、当時の三重野日銀総裁は、「真の経済開発のためには,・・民間部門を育成し,起業家精神の醸成や生産性の 改善に努めることが不可欠であります。同時に,政府が市場メカニズムを補完し,市場メカニ ズムが有効に機能するような環境の整備を図ることが重要」と指摘し、アジア諸国はその成功例であると述べていた。

アジア危機が起きた1997年の総会では、日本政府はアジア版IMFとなる「アジア通貨基金(AMF)」の設立を(非公式に)提案し(アメリカと中国の反対で頓挫)、1998年の総会で、宮澤喜一蔵相は、急激な資本引き上げによる外貨不足から生じた危機に対して過度の構造改革を義務付けたIMFのやり方を批判した。

少なくともこの時期まで、日本政府は、新自由主義への警戒感やIMF=アメリカに対して物を言う姿勢を持ち続けていたのだ。

*ここからはあまり根拠のない憶測だが、私の感じでは、日本政府が、これからの日本は、「ドル覇権を支える役人の地位を堅持し、金融で経済を「成長している風」に見せていくしかない」と本当に腹を括ったのは、2008年の金融危機の後、2012年に自民党が政権に復帰したとき(第二次安倍政権)だったのではないかと思う。安倍元首相が何をどのくらい理解していたのかは見当がつかないが、2013年以後10年間日銀総裁を務めた黒田東彦さんは全て承知の上だっただろうと思うし(批判しているわけではない。この時期に一役人として他にできることがあったとも思えないし)、後任で現職の植田和男さんも全て承知の上だと思う(これも批判しているわけではない。むしろ、任期中に大変な危機に見舞われる可能性が高いこの時期に日銀総裁を引き受けるなんて立派な人に違いないと思っている)。

(3)ロシア

後任のプーチンに大統領エンブレムを付けるエリツィン(1999)

ソ連崩壊後のロシアへの「支援」も悪名高い。

エリツィン大統領の下、長年の共産主義を捨て市場経済に移行しようとしていたロシアで、IMFは、短期間で一挙に市場経済化を進める「ショック療法」を強力に推進した。

価格が自由化されるとハイパー・インフレーションが発生し、その抑制のために厳しい緊縮政策が適用された。緊縮により、インフレは収まったが、生産部門は壊滅、国民総生産も半減し、外国資本への依存が進んだ。

*自由化・民営化で、元国有企業の多くが外国資本に不当な安値で買い叩かれている。

一旦は緩和された緊縮政策は、景気後退に歯止めがかかると見えた途端に再開され(1996-97)、金融引締めにより金利が上昇、IMFのプログラムに沿って大量発行した国債を内外の金融機関がこぞって購入した。

こうした一連のIMF療法の結果、この時点で、ロシアは外国資本への依存度が極めて高い経済になっていた。

ちょうどそのとき、アジア危機の余波が訪れた。新興国市場全般を「危険」とみなした投資家は、ロシアからも資本を引き上げ、ロシアの外貨準備は急速に減少した。資本流出は止まらず、ロシアは事実上のデフォルト(債務不履行)に陥った(1998年)。

*ロシア危機では(デフォルトで)アメリカ、イギリス、日本などの投資家が大損した。逃げきれば損はしないが、逃げきれずにデフォルトとなると大損害が発生する。だからIMFは「緊縮」を求めるのだ。

しかし、この危機による外国資本の引き上げとルーブル安(デフォルトと同時に通貨切下げも行った)は、長期的には、ロシア経済にプラスとなった。外国依存が絶たれ、国内の輸入代替生産が増加したからだ。

ロシアは2004年までにIMFへの返済を完了し、経済政策の自由を回復。経済はようやく安定した成長軌道に乗ったのだ。

*エリツィンは1999年末に退任、2000年からプーチン政権になっている。

世界経済のネタ帳」より

おわりに:「不正な秩序」再び

本文の中で、IMFの「ワシントン・コンセンサス」的プログラムは、「それを受け入れたほぼ全ての国で、社会・経済の混乱に拍車をかけ」た、と書いた。その実情を、専門家に証言していただこう。

IMFのプログラムでは、必ずといっていいほど財政支出削減を伴う緊縮政策が求められ、そのために公企業の民営化やリストラのみならず、公的支出を大幅に削減される。途上国・新興国に対する・・「構造改革」の規模は、当該国としては非常に大規模で、通常先進国で考えられるような穏和なものではなく、それと比較にならないほど短期間に急激な財政支出削減が求められる。このため、IMFプログラムを実施すれば、しばしば当該国政府の政権は交代する結果となる。2008年秋以降、アイスランド、ハンガリー、ラトビア、ルーマニアなどではいずれも国民の不満が高まり、政権が崩壊ないし交代した。アジア危機時にインドネシアでスハルト政権が崩壊したのもIMFプログラム実施がきっかけであった。

大田英明『IMF(国際通貨基金) 使命と誤算』(中公新書、2009年)ⅲ頁

途上国・新興国は多くの場合、ドル建てで提供された資本の気まぐれな引上げに遭うなどした結果、ドル不足で債務危機に陥る。

ここで、彼らがデフォルト(債務不履行)に陥ったとしよう。国の経済的信用は破綻する。しかし、大きな損失を被るのは彼らではない。資本を投下した先進国の側(機関投資家など)である。

だからこそ、彼らはデフォルトを許されない。IMFは、融資を提供してデフォルトを回避させ、緊縮政策を強いる。結果、国民の生活は困窮し、決して少なくない頻度で、政権の崩壊・交代にまで至るのだ。

「借りたものは返す。それが常識でしょう、奥さん?」。

そう言って、財産の最後の一片まで奪って去っていく。
あの高利貸しの声が聞こえてくるようではないか。

しかも、現在のアメリカは、工業生産力で世界の頂点に立ち、貿易黒字を誇ったあのアメリカではない。

膨大な経常赤字を出し続け、世界最大の債務国となったにもかかわらず、一切の緊縮策を拒み、他国にありとあらゆる圧力をかけて浪費を続けている、そのアメリカなのだ。

グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは、当然ではなかろうか。

「不正な秩序」について書いています(この記事の予告編にもなっていました)
現在もまったく同じ問題が。配信もあるようです。
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ②ヨーロッパと日本

 

 

目次

はじめに:なぜドル覇権を支えるのか?

前回述べたように、ドル覇権は、実質的に、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係を基礎とするシステムである。

ヨーロッパと日本は、最近、以前にも増して従順にアメリカに付き従うようになっているが、その根底にあるのも、ドル覇権に対するある種の連帯責任なのである。

いったいなぜそんなことになったのか。今回は、「最近」に至る一歩手前、20世紀末までの経緯を確認しよう。

復興援助の記憶 ー「善なるアメリカ」

ヨーロッパと日本が、1971-3年以後の「ドル覇権」を容認した背景に「第二次世界大戦直後から復興までの恩義」があったことは疑いない。

終戦時、戦場となったヨーロッパと日本は(勝ち負けに関わらず)ボロボロで、おかねもなければ生産設備もなかったが、アメリカだけは無傷だった。

*戦争特需(軍需品受注額は1830億ドルと言われる)もあり、終戦時には世界中の(貨幣用)金の3分の2がアメリカに集まっていた。

そのため、ヨーロッパと日本は、復興資金のほぼ全てを、アメリカから受け取ることになったのだ。

アメリカは、1947年の緊急援助、48年から52年のマーシャル・プラン(116億ドルの贈与・18億ドルの借款)を含む総額330億ドル相当の援助をヨーロッパに提供した。日本にも、ガリオア・エロア基金として15億ドルの贈与・5億ドルの借款を与えた。

さらに、アメリカは(WW1後とは異なり)、製品の輸入も積極的に行い、ヨーロッパの復興に貢献した。1947年、アメリカは101億ドルの貿易黒字を計上していたが(ヨーロッパの貿易赤字がほぼ同額(90億ドル))、1952年には26億ドルに減少している。アメリカは貿易を通じて、ヨーロッパにドルを供給していたのである。

もちろん、アメリカは、単なる善意で支援を行ったわけではない。アメリカは、イギリス帝国に残された特権を最後の一片まで剥ぎ取るべく手を尽くしたし、敗戦国(ドイツと日本)をとくに手厚く支援したのは、彼らを衛星国に仕立てて、アメリカの繁栄に尽くさせるためだったと考えられる。

それでも、アメリカの支えがあってはじめて、飢えから救われ、復興を成し遂げた人々にとって、アメリカは「善きもの」以外のなにものでもなかった。その印象は、戦後の西側世界の人々のアメリカ観を深く規定したはずである。

爆撃で破壊されたドイツの町(Altenkirchen)を走るアメリカ軍(1945年3月)
再建中のベルリン。ビルの壁にはマーシャルプラン援助のポスター(1948年6月)

金=ドル本位制崩壊 ー 共犯関係の成立

(1)ドル過剰ー支出が止まらないアメリカ

ヨーロッパ・日本の復興が軌道に乗った後も、アメリカの「赤字」を通じたドル供給は続いた。

*アメリカの主な赤字の源は、軍事支出と企業買収(ヨーロッパの優良企業の乗っ取り・買収)だったとされる。文献には「アメリカの国際収支は1950年から赤字に転じた」、額については「58年が29億ドル、59年で22億ドルの赤字」(上川孝夫・矢後和彦編『国際金融史』(有斐閣、2007年)117頁[牧野裕執筆部分])とあり(同様にこの時期のアメリカの「国際収支」が赤字だったとするものに、石見徹『国際通貨・金融システムの歴史』(有斐閣、1995年))、ここでの記載はそれらに依拠している。

しかし、国際収支は「経常収支+資本移転等収支+誤差脱漏=金融収支」という等式で示されるものなので(こちらも)「「国際収支全体で黒字や赤字がある」という言い方は不適切である」ということであり( 奥田宏・代田純・櫻井公人『深く学べる国際金融』(法律文化社、2020年)2頁[星野智樹執筆部分]等)、私はそのように理解した。そこで「じゃあ「国際収支の赤字」は「経常収支の赤字」のことかな」と思って調べると、その時期のアメリカの経常収支は赤字ではないようなのである(谷口明丈・須藤功編『現代アメリカ経済史』(有斐閣、2017年)500頁掲載の表を参照)。専門家が揃って「赤字だった」と言っているのだから赤字だったのだと思うのだが、何が赤字だったのか分からなくて困っており(貿易赤字ではない)、もし知っている方がいたら教えてほしい。

その背景には、大量の金を独占していたアメリカに「支出過剰」などあり得ないという当時の「常識」があったのだが、実感として、アメリカの支出は明らかに過剰だった。

そのため、ヨーロッパや日本では、戦後の「ドル不足」を脱した途端、「ドル過剰」が問題視されるようになったのである。

(2)金=ドル本位制の崩壊

「過剰ドル」を蓄積した国々はドルに不信感を抱き、保有するドルの金兌換を進めた。その結果、アメリカの金保有量は1958年から減少局面に入る。

最初のゴールド・ラッシュ(金価格の上昇を予想した金投機→ドル不信の現れ)が1960年に起こり、ヨーロッパを中心に金=ドル本位制を支えるための努力が始まったが(金プールの設立(1961年)や各種国際通貨協力、国際決済専用通貨の創出(IMFの特別引出権(SDR))など)、その間も、アメリカの収支は一向に改善しなかった。

ベトナム戦争の戦況悪化(テト攻勢)(1968年)が最後の一撃となり、ドルへの信認は極端に悪化。金の流出に拍車がかかり、いろいろとあった末、1971年8月15日、アメリカは、金=ドル交換の停止を宣言(ニクソン・ショックといわれる)。金=ドル本位制は崩壊したのである。

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FNL(南ベトナム解放民族戦線)に一時占拠されたサイゴンのアメリカ大使館(wiki)

G5ー共犯関係の成立

金=ドル本位制崩壊で、ドルの信用は失墜したが、基軸通貨の地位は維持された。他に代わりになりうるものがなかったからである。

復興を終えようやく豊かさを楽しもうかという段階に入ったヨーロッパ・日本にとって、今、ここで、世界経済の基盤が崩れるなどということは、決してあってはならないことだった。

今、やるべきことは、ドルを支え、世界経済を安定させることである。ということで、金=ドル本位制・固定相場制の崩壊で乱高下するドルを、西側諸国は協調して買い支えた。

*やや詳しい説明はこちら

主要国首脳会議(サミット)の第1回が開催され、G5(主要5カ国財務大臣・中央銀行総裁会議)が組織されたのは1975年にことである。

ヨーロッパ・日本は、国際通貨システムの安定を求め、率先して、ドル覇権を支える立場に立った。こうして、アメリカとヨーロッパ・日本の間に共犯関係が成立し、ヨーロッパ(イギリス以外↓)と日本は、やがて思いもかけない深みに引きずり込まれていくことになるのである。

初めてサミットが開催されたフランス・ランブイエ城

ユーロダラー:イギリスの役割

1980年代、アメリカはレーガノミクスの下で金融肥大化への道をひた走る(詳しくはこちら)。しかし、経済の「金融化」(+金融のバクチ化)の責任は、アメリカだけにあるわけではない。

ここまで「ドル金融市場」という言葉を使ってきたが、この世界最大の金融投資市場の生みの親は、実はアメリカではない。イギリスなのだ。

WW2の後、イギリス政府の為替管理によってポンド取引を規制されたイギリスのマーチャント・バンカーは、アメリカの金融界が広範な国際金融ネットワークを構築する前に、ドルを用いた国際金融業務を開始した。

*直接のきっかけは1957年のポンド危機だったという(第三国間の貿易決済へのポンド利用が禁止された)。

1950年代末のロンドンに成立したドル金融市場は「ユーロダラー市場」と呼ばれ、1960年代にはニューヨークを凌ぐ主要な国際金融市場となった。

ユーロダラー市場には、アメリカの金融当局による規制が及ばず、イギリス政府もこれを規制しようとしなかった。

イギリス当局は・・ユーロダラーの発達を抑止しようと思えばそれができたはずである。しかし当局がそのような挙に出なかったのは、疑いもなくロンドンをユーロダラーの中心市場に発展させることの利益を理解していたからであった。

著名な金融評論家Einzigの言葉(上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』(有斐閣、2007年)303頁[鈴木俊夫執筆部分]

1960年代にアメリカが(ドル防衛策として)国内の金融規制を強化すると、アメリカの金融機関もこぞってユーロダラー市場に出店した(もちろんヨーロッパ、日本の金融機関も)。シティは再び国際金融の表舞台に立つとともに、シティのユーロダラー市場こそが、アメリカの金融機関による国際金融業務の核を構築することになったのだ。

アメリカ金融界は規制に縛られた内部ドル市場の国際化の道を放棄し、外部ドル市場であるユーロ・ダラー市場を核にした「統合ドル市場」としての国際的信用制度を構築する道を選んだのである。

山本栄治『国際通貨システム』(岩波書店、1997年)97頁

*正式の統計は存在しないが、取引規模は、1985年には1668兆ドル、2016年には13833兆ドルに達したと推計されている(wiki英語版)。

以後、アメリカとイギリスは、競って金融自由化を推し進め、世界をグローバリゼーションと格差の渦に巻き込んでいく(↓)。

トップ1%の取り分。アメリカとイギリスの1980年から2000年の変化がとくに大きいことに注目。(Todd, Lineages of Modernity, p225)

増え続けるドルを「カジノ・チップ」に見立てた経済の金融化・カジノ化について、イギリスの果たした役割は大きい。そして、おそらく、イギリスが仲介者となることで、アメリカ発の動きは、ヨーロッパ、次いで世界に、容易に拡大していくことになったのである。

*アメリカの金融自由化についてはこちら。これに倣ったイギリスの「金融ビッグバン」は1986年。 

銀行革命はアメリカでスタートしたが、それだけで終わらなかった。証券会社が国内で行なって利益のあがった業務は、すぐにまずロンドンで、次いで海外の別の場所でも行われた。また証券会社が〔アメリカ〕国内で行うことを許されなかった業務もロンドンのシティで自由に行われ、その後他国でも行われることになった。利益を求めてやまない米銀が、国内の金融サービス市場における米銀間ならびに新規参入者との間の競争圧力を容易に回避できるルートとして、シティが果たした役割は物語の重要な部分である。‥‥ もしロンドンが玄関先に「ようこそ」という看板を掲げてドアを開放していなかったら、国際ビジネスを拡張するために、米銀はいったいどこに行っただろう。

スーザン・ストレンジ『マッド・マネー』(岩波現代文庫、2009年)80-81頁
President Reagan meeting with Prime Minister Margaret Thatcher of the United Kingdom in the Oval Office.

日本ープラザ合意からバブル崩壊まで

(1)1980-90年:抵抗のラストチャンス

その後、ヨーロッパや日本に「ドル覇権」に異を唱えるチャンスはなかったのであろうか。

あったとすれば、1980-90年代がそのときだったかもしれない。次の引用をお読みいただきたい。

仮定だが、1980年代から1990年代に日本と大陸ヨーロッパがアメリカに対して何千億ドルもの債権を築き上げたとき、1920年代に債権者アメリカがイギリス等のWW1同盟国に対して取ったのと同じ態度をとっていたらどうなったであろうか。日本とヨーロッパは、アメリカに、主要企業から美術館の所蔵品まで、すべてを不当に安い価格で投げ売りするよう迫っていただろう。それこそは、アメリカがイギリスに求めたことだった。

‥‥しかし、日本も(フランスを除く)ヨーロッパも、この債権者カードを使わなかった。日本はまるで債務国であるかのように振る舞い、1984年と1986年にはアメリカの要求に応じて金利引下げを行なった。アメリカの大統領選挙と議会選挙に貢献するためだ。その結果、日本経済は過剰債務に陥り、金融バブルが弾けて、ついには経済の重要部門をアメリカ人に売り渡す羽目になった。アメリカ自身、日本にとって債務者であったのに。

Michael Hudson, Super Imperialism, 30-31頁

*金利引下げの意味についてはこちら(9段落目)。
*「ドル過剰」時代、他のヨーロッパ諸国がドル防衛策に協力したのに対し、フランス・ドゴール大統領は「金こそが本位通貨」という立場を譲らず、アメリカに対し繰り返し(フランスが持つ)ドルの金兌換を求めた。時期は違うが多分このことを言っているのだと思う。
*バブル期に日本企業はアメリカ企業をバンバン買収したように思われているが、よく見ると大した買い物はしていない。ゴールドマンサックスなどの主要銀行を買ったわけでもないし、ウォルト・ディズニー、IBM、ボーイング、GMやフォードを買ったわけでもないのだ。

(2)80年代の開幕:巨大赤字とドル高・高金利

1980年代に起きたことを概観しよう。

レーガノミクスの下、アメリカは巨大な経常赤字を継続させ、世界最大の債務国に転落(1985年)。前回書いたように、巨額の赤字はヨーロッパと日本の対米投資によって補填された。

*なお、この時期の対米投資がもっとも多かったのは、大幅な対米黒字を記録していた日本やドイツではなく、わずかな黒字しか持たないイギリス(5年間で1745億ドル)である。イギリスはユーロダラー市場として浮上したシティに流れ込む資金に支えられて巨額の対米投資を行っていたのだ。経済の金融化をもたらしたのは「低成長の経済に注ぎ込まれた構造的過剰資金(おかねの増えすぎ)」であるが、具体的には、ユーロダラー市場を中心とするドル金融市場がアメリカの巨額赤字を補填(ファイナンス)する過程で、先進国の証券市場が統合され、金融・資本規制が(米英の主導で)緩和され、金融のグローバリゼーションが進行していったようだ。

1970年代末からの(スタグフレーション対策としての)強力な通貨引締め政策(高金利政策)の影響で、非常な高金利・ドル高となったが、レーガン政権はこれを放置した

*「ビナイン・ネグレクト(優雅なる黙認)」方針は、新自由主義的思想(小さな政府・規制緩和・民営化・・)の表現でもあったが、高金利・ドル高による海外からの資金流入が好都合だったという一面もあったと思われる。

しかし、ドル高で自動車産業などの競争力は非常に低下したので、アメリカ国民の不満は高まり、黒字国(日本やドイツ)に対する制裁や保護主義を求める動きが活発化した。

アメリカ政府は、国民の不満を逸らすため、アメリカの貿易赤字の責任を日本になすりつけ(これはほぼ言いがかり↓)、日本は通商上の各種要請事項の大半を受け容れた。

*自動車輸出の自主規制、アメリカ産の部品・完成車の輸入の拡大(数値目標)など(外務省の整理が一覧性があって便利)。

*当時の対日貿易赤字拡大の主な原因は、レーガノミクスによる消費刺激策にあり、「日本のせい」というのが言いがかりであることは一般に認められている。国内産業の競争力低下を放置して消費のみを刺激したため、そのほとんどが輸入品に向かったのだ(佐々木隆雄『アメリカの通商政策』(岩波新書、1997年)128頁等)。実際、アメリカの貿易赤字は、対日赤字が減少した後も、相手国を(中国に)変えて延々と続いた。

一方、世界を見回すと、ヨーロッパも不況でドル高・高金利はその原因の一つと考えられていた(本当かどうか私にはわからない)。アメリカから融資を受けていた途上国は金利負担が大きくなりすぎて困っていたし(→次回③)、日本は対米貿易黒字が大きくなりすぎて困っていた。

1980年代の中頃、世界中で、アメリカのドル高・高金利に対し「何とかしろ」というムードが高まっていた。

日本車を打ち壊すアメリカの人たち

(3)プラザ合意:後始末に奔走するG5

金融政策担当者が変わった二期目のレーガン政権は(1985年-)「ドル高是正やむなし」の姿勢に変わり、ヨーロッパ(とくにドイツ)とのドル売り協調介入などを始めていた。

この動きを捉え、「私とも一緒にやりましょう」とアメリカに持ちかけたのが日本だ。

*日本は「対米輸出減・輸入拡大」というアメリカの要求に基本的に応じていたが、ドル高が収まり貿易摩擦が和らげばそれに越したことはない。持ちかけたのは当時大蔵大臣だった竹下登。

日米間の交渉は独・英・仏を巻き込むG5の国際協調に拡大。G5は会議を開催し、共同声明で「ドルはもう少し安い方がよいと思うので、ドル買い協調介入を行います」と宣言した。これがプラザ合意である(1985年9月)。

*実際の声明はもっと婉曲的で「ある程度のドル安(+その他の通貨高)に向けてG5各国が密接に協調する用意がある」。

裏で交わされていた詳細な合意の内容は以下の通り。

  • 目標は10%から12%のドル下方修正(1ドル240円→218-214円)
  • 6週間程度・180億ドル目途の協調介入
  • 介入資金の負担は米・日がそれぞれ30%、独25%、仏10%、英5%

*なお、日本は同時に、国内市場の一層の開放規制緩和金融緩和(低金利)金融・資本市場の自由化消費者金融・住宅金融拡大による民間消費・投資の増大を通じた内需拡大の努力なども約束させられた(ドイツも似たような約束をさせられた)。

G5全体にある程度言えることだが、ここでは日本の資金負担の大きさに注目しよう。

日本は、1970年代と同様、アメリカの失敗の後始末のために力を尽くした。それも、日本が自ら申し出て、気の進まないアメリカを宥めすかして、実現に漕ぎつけたのである。

https://marketbusinessnews.com/plaza-accord-definition-meaning/

(4)利下げ要求に屈し、バブルに向かう日本

これを機にドルは暴落した。そこまで下がるとは誰も思っていなかったようなのだが、実際には大暴落し、みんな(とくにアメリカ)に衝撃を与えた。70年代末からのドル高が「ドルの強さ(=信認)」とは無関係の投機的バブルに過ぎなかったことがあからさまになったからだ。

*ドルは協調介入を待たずに下落を始め、予定より少ない102億程度の介入で目標値に達した。下落は続き、日独のドル買い介入にもかかわらず、86年7月には1ドル150円まで下がった。87年2月にはG7が再び協調介入する用意があることを宣言して市場のドル売りを牽制したが(ルーブル合意)、5週間後には再び下落が始まった。

実は、1980年代前半のドル高を支えていたのは、海外民間資本の対米投資とりわけ「ジャパン・マネー」と呼ばれた日本の機関投資家(とくに生保、証券会社の投資信託など)だったという。そして、彼らは、ドルの暴落で大損をして、急速にアメリカへの投資意欲を失った。

*生命保険7社は86年6月の決算で1兆7000億円の為替差損を計上したという。

そうなると、困るのはアメリカである。日本からの投資は、アメリカの赤字ファイナンスに欠かせないものでもあるからだ。

ドル安の状況下で日本の投資マネーを呼び込むには、アメリカの金利を為替差損を補うにあまりあるレベルにまで上げるしかない。しかしアメリカは金利を上げたくなかった。利上げ(=通貨供給量減)は回復基調にあった景気に水を差す可能性が高かったからだ。

そこでアメリカが何をしたかというと、日本(とドイツ)に圧力をかけ、利下げを要求したのである。

*アメリカが金利を上げなくても(あるいは下げても)日独が十分に(アメリカ以上に)金利を下げれば金利差により日独の投資マネーはアメリカに誘導される。

*利下げは日独にとってはいわゆる「金融緩和」(市場に流通するおかねを増やす)政策なので、アメリカとしては、投資マネーの誘導と、両国での内需拡大による対米貿易黒字の減少の両方を狙った形である。

日本(とくに日銀)は(少しは)抵抗した。しかし、結局、1986年1月から87年2月にかけて、5回の利下げ(公定歩合引下げ)を行ったのだ。

5回のうち最初の2回については、日本の景気対策として意味があったと解釈することが不可能ではない。プラザ合意後の急激なドル高の影響で、日本経済は景気後退局面に入っていたからだ。

しかし、86年11月以降の3回に関しては、日本にとっては有害無益であったことが明らかである。日本経済は1986年中頃からは「内需主導型の景気拡大」局面に入ったとされており、そこでさらに利下げ(金融緩和)を行えば、景気の過熱を招くおそれが強かったからである。

それでも日銀が3回の利下げに応じたのは、「国際協調」。つまり、その時々の事情(選挙など)に応じたアメリカの強い要請か、アメリカの機嫌を取りたい日本政府の要請に押されてのことである。

一連の利下げが日本国内でどう受け止められていたのか。3回目の利下げ直後の日本経済新聞、朝日新聞の記事から引用しよう。

日銀が利下げをためらってきた理由の1つとしては、カネ余りの中でそれが経済の一部をさらに投機化させるという心配があげられていた。だが、その原因は「余ったカネ」に見合うだけの国内の投資先が不足しているところにある。金融政策内部だけでの解決はもともと無理だったとみるべきだろう

日本経済新聞(1986年11月1日)

日銀が利下げをためらってきたのは、このため〔貯蓄で生活する人への配慮〕ばかりではない。通貨供給量の伸びが大きく、だぶついたカネが有利な運用先を求め、動いている。地価の高騰は東京の都心や高級住宅地から周辺部や地方の主要都市に広がり出した。日銀は、土地転がしのための融資を抑えるよう呼び掛けているが、金融機関の側も社会的責任を自覚してもらいたい。また住宅づくりを促す税制上の優遇措置が投機をあおっている面もあるので、土地譲渡の利益への課税強化なども必要だろう

朝日新聞(1986年11月1日)

(5)バブルが弾けて

1980年代、巨額の対米黒字を抱えた日本は、アメリカの顔色を窺いつつ、「国際協調」の枠内で、国際社会における地位を高めようと努力した。プラザ合意を積極的に主導したのもそのためだったといえる。

1980年代末になると、経済成長によって自信を付けた日本は、アメリカに「物申す」姿勢を見せはじめる(↓)。この時期の景気拡大は、高度成長期以来の高い設備投資の伸びに牽引された、実体のあるものだった。当時、日本人が感じた自負心には、相応の根拠があったのだ。 

*盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』の出版は1989年。

しかし、度重なる利下げと(アメリカの要請による)金融・資本自由化の進展は、実体経済の成長をバブルに変えてしまった。

バブルがはじけ、低成長が10年も続いた後には、「物申す」気概も実力もなくなり、日本は「ドル覇権」を支える末端の役人のようなポジションに追いやられていたのである。

*ただし、私の理解では、アメリカは覇権を取るためにWW2を戦ったわけなので、もし仮に日本が順調に力を付けてアメリカに対抗する姿勢を示していたとしたら、適当な理由を付けて軍事的または経済的に攻撃され、結局は屈服を強いられていたに違いないと思う。

ヨーロッパ・日本の立ち位置

「ドル覇権」における(当時から現在に至る)旧G5の立ち位置は、以下のようにまとめることができる。

イギリスは首謀者だから仕方がない。しかし、残りの3国は悲しい。

フランス、ドイツ、日本は、以後、ドル覇権を支える役人として、アメリカの側に立って行動していく。それによって、次第に、発展途上国や新興国に対する「加害者」としての性格を強めていくのである。

(続く)

(2)変動相場制下の為替介入 ー 後始末をするG5」の部分が、本記事と深く関わります。
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ①ドル覇権とは何か

はじめに

この記事は「基軸通貨ドルー私たちはどんな世界に暮らしてきたのかー」というタイトルで始めた連載の最終回である。

数年前から「どうも西側世界の鏡は歪んでいるようだ」と感じて探究を続け、「かなり分かった」と思ったところでウクライナ戦争が起きた。

ウクライナ戦争をめぐる西側世界の動きは「なぜ?」の連続で、これを理解して、同じように「知りたい」と思っている人たちと共有するには、まだ何かが欠けていると感じた。

*ウクライナ戦争ではピンと来なかった人たちも、ガザ危機で同じ疑問を持ったのではないでしょうか。

その最後のピースがこれ。
「基軸通貨ドル」である。

私と同じように「なぜ?」と思うような方は、おかねの話に詳しくない方が多いと思う。でも、素直に現実を見てみれば、現代では、おかねは、事実上、食物であり、資源であり、武器である。生物としての人類の争いが、おかねをめぐる争いという形をとるのは、たぶん、当たり前のことなのだ。

おかねをめぐってどんどんおかしな方向に進んでいく世界の物語。
どうぞお楽しみください。

ドル覇権とは何か:途方もない特権を持つアメリカ

アメリカに覇権が移ったのは第二次世界大戦の後だが(こちらをどうぞ)、基軸通貨ドルの下での通貨システムが現在の形で定まったのは、1971-73年を経た後のことである。

ここではその体制のことを「ドル覇権」と呼ぼう。

この体制の特徴は、基軸通貨国アメリカが持つ途方もない特権にある。4点にまとめよう。

*以下の記述が誇張でないことは日本大百科全書(ニッポニカ)の「通貨発行特権」の項(中條誠一)をお読みいただければ分かると思う(最後の一文が虚しくて好きです→「本来はこうした特権をもつ基軸通貨国は、節度ある経済運営を行い通貨価値の安定を確保するという義務を負っている」)。

①基軸通貨であるドルを作りたいだけ作ることができる

基軸通貨を作ることができるというのは、基軸通貨国の基本的な特権である。

*国際取引のほとんどは基軸通貨で行われるため、他国は輸出で基軸通貨を稼ぐか(通常は基軸通貨国の金融機関から)借りるかしなければ取引に参加できないが、基軸通貨国だけは、自国で通貨を作り、それを使って取引を行うことができる。

しかし、アメリカが持っている特権は、ただ「作ることができる」というだけではない。アメリカは、基軸通貨ドルを「作りたいだけ」作ることができるのだ。

かつてのポンドは金本位制の下にあった。そして、1971年8月15日以前のドルも、金=ドル本位制の下にあった。

*金=ドル本位制とは、ドルは金を裏付けとし(ドルと金を固定相場で結び、アメリカはドルの金兌換を保証する)、ドル以外の通貨はドルまたは金に対して相場を固定する通貨システム。実際には金を基準に選んだ国は一つもなく皆ドルを基準としたので、各国通貨の対外的価値はドル(を媒介として金)が支える格好になった。

金本位制の下では、基軸通貨国は、他国の中央銀行が「金に変えてくれ」と求めてきた場合、それに応じる義務を負う(基軸通貨の金兌換義務)。

つまり、かつてのイギリスおよび(1971年以前の)アメリカが持っていた「通貨発行特権」には、「金兌換義務を果たすことができる限度で」という制限が付いていたのである。

*金の保有量に合わせるのがもっとも安全だが、基軸通貨の信用が保たれていれば無闇に金兌換を求められることはないので「他国から信頼される経済運営」が条件ともいえる。

ところが、1971年8月、ドルを作り(そして使い)すぎて、金のストックがなくなりかけたとき、アメリカは、金兌換義務を放棄した(経緯はこちら)。

金兌換義務の放棄で、ドルの信用はもちろん低下した。しかし、ドルが基軸通貨の地位を追われることにはならなかった。

その結果、アメリカは、歴史上初めて、無制限の基軸通貨発行特権というものを手に入れたのである。

②赤字を出せば出した分だけ、他国から好条件の融資を受けることができる

アメリカの経常赤字が大変なことになっているのはご存じであろう。

世界経済のネタ帳 より

アメリカの経常収支は1970年代末から赤字になり始め、赤字は拡大の一途をたどった。にもかかわらず、決して国家財政が破綻することはなかった。

なぜかというと、アメリカが金兌換義務を放棄した結果として、ドル覇権システムの中に、「アメリカの出す赤字は(ほぼ)自動的にアメリカに対する融資となって戻ってくる」という仕組みが組み込まれたからである。

どういうことか。

アメリカの赤字とは他国の黒字である。1970-80年代であれば日本やドイツ、それ以降であれば産油国や中国が対米黒字でドルを蓄積した。

この国々が稼いだドルを資産として保有したいと考えたとき、かつてであれば、金に交換して安全資産として保有するという方法があった。しかし、ドルが金と切り離されたとき、タンス預金(紙幣を手元に置いておく)以外の方法は(実質的に)一つしかなかった。

ドル金融市場における投資(国債、株式、預金など)である。

ドル金融市場における投資は、投資国から見れば資産だが、アメリカから見れば債務すなわち「借金」である。

つまり、アメリカは、赤字を出せば出すほど、その分のおかねを他国が貸してくれるという、不思議な構造の中にいるのである。

もちろん、債権国は、建前上は、債務を引き上げることもできるし、厳しく取り立てることもできる。しかし、それをやって、アメリカの財政が本当に破綻したらどうなる?

彼らが持っている資産は、すべてパーになってしまうのではないか?

というわけで、日本を含む西側先進国はいつのまにやら一蓮托生。アメリカに倒れられては困るので、積極的かつ必死に支えざるを得ない、という状況が、1970年代にはでき上がっていたのである。

詳しくはこちらをご覧ください

③借りたおかねを信用の源として他国に融資をし、支配的な影響力を及ぼすことができる

基軸通貨の金融機関にはおかねが集まる(「世界の銀行」)。アメリカの場合、経常赤字の多くが自国の金融機関に戻ってくるのだから、その金額は膨大だ。

金融機関にとって、預金は信用の源である。預金が多ければ多いほど信用は高まり、その分だけ多くの貸付ができるようになる。

そういうわけで、アメリカは、金兌換義務を放棄することによって、多額の経常赤字を出し、多額の債務を抱えつつ、同時に、多額の対外貸付を行い、債権者として強い影響力を及ぼすことができるという不思議な地位を手に入れたのである。

アメリカの(とくに民間の)対外融資はしばしば相手国に債務危機を生じさせたが、アメリカはIMF(国際通貨基金)を手足として利用して、債権を確実に回収させた。詳しくは後述するが、アメリカにとって、通貨覇権を、債権確保の手段でもあったのだ。

④経済制裁を通じて「世界の警察」としてふるまうことができる

基軸通貨国でなくても経済制裁を実施することはできる。しかし、基軸通貨国が行う場合の効果は圧倒的だ。

アメリカから金融制裁(資産凍結、金融システムからの締め出し等)を受けるということは、事実上、一切の国際取引(貿易や資本取引)からの排除を意味していた。ドルが基軸通貨である以上、国際決済のほとんどはドル建てで行われるのだから。

この地位を利用して、アメリカは、キューバ、イラン、北朝鮮、シリアなど、恣意的に選んだ国々を国際取引のネットワークから排除し、「悪」のイメージを押し付けるとともに、その経済発展を妨げてきた。

この点は、後述の(投資による)「途上国の搾取」の問題と並んで、いわゆるグローバル・サウスがドル覇権に反感を抱く理由の一つとなっている。

*ちなみに下はアメリカの対キューバ制裁の解除を求める国連決議(2023年11月3日)の結果。アメリカとイスラエルだけが反対。31回連続で採択されているという。

ドル覇権の社会・経済的帰結:格差、搾取、終わらない戦争 

(1)根本は「おかねの増えすぎ」

基軸通貨国が上記のような特権を持っている以上、世界に流通するおかねの量が劇的に増えるのは当然だ(↓)。

どうにもバカバカしいことだが、以後、この「おかねの増えすぎ」こそが、世界の顕著な特徴を形づくっていくことになるのである。

ドル覇権下のおかねの量(https://www.bullionvault.com/gold-news/all_the_money_in_the_world_102720093
2008年以降はGDPを超えているという(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO23437180U7A111C1MM8000/

(2)増えすぎたおかねの活用ー金融部門の極大化

おかねは、市場を作り出し、産業(財やサービスの生産)を活性化し、社会のすみずみに物資を送り届ける機能を持つが、それ自体は富ではない。

1970年代、出生率の低下とともに経済成長が頭打ちとなった先進国に送り込まれた大量のおかねは、スタグフレーション(不況+物価の持続的上昇)と呼ばれる現象をもたらした。

有効活用されなかったおかねは、ただ市場にあふれて自らの価値を下げ、物価のみを押し上げたのだ。

*おかねの価値が下がると、同じものを買うのにより多くのお金が必要になり、物価が上がります。

苦境を経た先進国は、1980年代、増えすぎたおかねの新たな活用先を見出す。それが、金融である。

先進国は競って金融自由化を推し進め、ありとあらゆる金融手法を実用化した。「おかねがおかねを生む」錬金術に目を眩ませた人々は、増えたものが(富ではなく)ただのおかねであることを忘れ、「永遠の経済発展」が可能になったと信じた。

そして、この「金融部門の極大化」は、世界の通貨供給量の増加にさらに拍車をかけたのである。

詳しくはこちらをご覧ください。

(3)格差社会に「付加価値」経済

増えすぎたおかねは、先進国では、金融にアクセスできる一部の者とそれ以外の者の間の極端な経済的格差を生み出した(とくに極端なのは米英)。

実体経済(収益・賃金・消費)は拡大せず、一般の人々の可処分所得は増えないが、どこかに大量のおかねがあり、それを手にする人間がいる。

そのような社会では、一般の人々の富はむしろ減っていく。大量のおかねが流通しているせいで、土地や住宅をはじめとする生活必需品の価格は下がらない(むしろ上がる)からだ。

それをよく示しているのが下のグラフである(↓)。アメリカにおける賃料と世帯収入(いずれも平均)の上昇率の推移を表している。

1985年以降、収入は大して上がっていないのに賃料はどんどん上がっている。株価が上がろうが、平均的な世帯の暮らしは苦しくなる一方なのだ。 

アメリカにおける賃料と世帯収入
https://x.com/WinfieldSmart/status/1701227710100484477?s=20

もう一つ、重要なことがある。

おかねが増え、増えたおかねが一部の者の手に握られると、その一部の者の水準に引き寄せられて、普通の人がごく普通に暮らしていくためのコストが上がる。

この変化は、普通の人のなりわい(日々の仕事)にも跳ね返るのだ。

人々は、普通の人の普通の需要を満たすだけでは食べていけなくなって、超富裕層のインバウンド需要を呼びこんだり、やたらと高級な米とかシャインマスカットとかを作るよう強いられる。

人間界では若者や社会人が日々心をすり減らし、自然界では環境や天然資源への負荷が高まり続ける(↓)。それは、この「付加価値経済」が、あらゆる人に、あらゆる領域で、「無意味なフロンティア開拓」を迫っているせいなのである。 

おかねの量と比例している気が・・

(4)途上国の搾取、環境破壊

ドルは基軸通貨であるから、増やしたドルを手にした人々は、世界中の富を買い漁ることが可能であったと思われる。

例えば土地。 

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4678b772cd0d698ff49b83e4ad53b13b3fe4cdaa六辻彰二さんの記事(2018年3月10日)より)

しかし、土地以外の財は、継続的に富をもたらすことがない。そこで、より好まれたのが、投資である。

低成長時代に入った先進国は、途上国が持つ「伸びしろ」を、有望な投資先とみなした。そこまではポンド覇権下のイギリスと同じだが、この時代(現代)の投資家の目的はあくまで自己利益(それも短期的な)なので、強引に貸し付けては気まぐれに引き上げるようなまねをして、途上国経済に深刻なダメージを与えた。

途上国においてもっとも手っ取り早くおかねを稼ぐ方法は天然資源の開発である。先進国からの資金の多くは資源開発=環境破壊のために用いられ、途上国は膨れ上がる債務の返済のために天然資源を売った。

例えば、南米アマゾンの破壊ではブラジルの歴代政府が批判されることが多いが、開発を促したのは先進国のおかねなのである。

先進国から途上国への投資の問題は、「ドル覇権 VS グローバル・サウス」の対立の核心なので、後で(③)詳しく扱うことにしよう。

世界全体の森林破壊は1980-90年代にピークを迎えている(https://ourworldindata.org/deforestation

(5)戦争

アメリカの対外赤字の源泉の一つは軍事支出である。WW2後のアメリカは共産主義封じ込めのためにあらゆる国に軍事支援を行い、自らも戦闘を行った。アメリカを金=ドル本位制の放棄に追い込んだ直接的な要因は、ベトナム戦争における多額の軍事支出である。

朝鮮戦争やベトナム戦争以外にも、アメリカは、CIAなどの諜報機関を通じたきわめて多数の秘密作戦や、単独ないし多国籍軍を主導する形での多数の戦争を実行している。

アメリカがこれだけの軍事費(表に出ている分だけでこの額↓)を支出できるのは、もちろん、上述の「特権」のゆえである。

しかし、話はこれで終わらない。ここからがより重要なのだ。

アメリカはかつて、ドル覇権に基づく経済的な「特権」を利用して戦争を戦っていた。冷戦の終結で戦争が必要なくなったとき、アメリカは、自国経済が「ドル覇権」なしに成り立たなくなっていることに気づいた。そこで、アメリカは、今度はドル覇権に基づく経済的な「特権」を守るために、再度軍備を増強し、終わりなき戦争を戦いはじめた、というのである。

もちろん、これは一つの仮説にすぎない。しかし、2000年以降の軍事支出の増大(↓)、冷戦終結後もなぜか終わらない戦争、金融危機(2008)の後の再度の軍事的活性化(ウクライナでの各種工作を含む)という事実は、「基軸通貨特権を守るための戦争」という仮説に、非常によく合致している。

https://data.worldbank.org/indicator/MS.MIL.XPND.CD?end=2022&locations=US&start=1960&view=chart

次回に向けて

第二次世界大戦直後、基軸通貨ドルを誕生させ、その信用を支えたのは、アメリカの経済的実力だった。しかし、ドル覇権(1971-3以後)は違う。

ドル覇権は、アメリカの経済力・経済的信用の低下によって生み出されたシステムである。現在、ドルの信用を支えているのは、アメリカというより、実質的には、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係なのである。

西側諸国は、ドル覇権の一部を構成している。何がどうしてこうなったのか。それが次回のテーマである。

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結局あの戦争は何だったのか
ー日本から見たWW2ー

 

目次

はじめに

第二次世界大戦 -アメリカはなぜ参戦したのか-」を読んで下さった方の中には、「で、結局、あの戦争のことはどう考えたらいいの?」とモヤモヤしている方がいると思う。

私の基本的な理解は、日中戦争と第二次世界大戦はまったく別物だ、というものである。

倫理的な観点からいうなら、日本は中国に侵略した点では「悪」であり、中国に対してはいくら謝罪しても足りない。

しかし、アメリカとの関係は違う。

説明しよう。

侵略戦争、ライバル間戦争、覇権戦争

便宜的に、近代国家を主体とする国際戦争を次の三種類に分けて考えてみたい。

  1. 侵略戦争:領土や植民地、勢力圏を拡大するための戦争
  2. ライバル間戦争:国家同士がその勢力を争うために起こす戦争
  3. 覇権戦争:ある国が世界を制覇するために起こす戦争  
ロシア(ソ連)を入れるとややこしくなるので今回は除きます。すみません。
大衆識字化と工業化については、トッド「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」上253頁を参照。

①侵略戦争

上図の6カ国は、みな海外膨張の時期を経験しており、征服または反乱鎮圧のための戦争を幾度も戦っている。

名前を問わず、ある程度以上の武力の行使を伴う案件を列挙するとこんな感じになる(↓)。

*網羅的ではありません 

ここでは、以下の点を確認していただくと見通しがよくなると思う。

  • イギリスフランスの海外進出の歴史がとにかく長いこと、
  • 統一が遅れたドイツ、統一も工業化も遅れたイタリアは後から膨張を始め、西欧列強によるアフリカ分割にも遅れて参加していること、
  • アメリカ日本が同時期にそれぞれ自国周辺での勢力拡大を行っていること、
  • 中国にはすべての国が進出していること。

日本は、明治維新を経て、欧米列強と肩を並べる強い国になりたいという願望のもと、数多くの侵略戦争を戦った。日中戦争もその一つである。

この意味での侵略戦争は、近代化の過程を先行した国がその分の優位を利用して後行の国を利用・支配する行為であり、倫理的に正当化の余地はない。これは「はじめに」で述べたとおりである。

②ライバル間戦争

ライバル間戦争は、比較的対等な関係にある国同士が勢力争いの過程で行う戦争を指す。

英蘭戦争(1652、1665、1672)、英仏植民地戦争(17世紀末-19世紀初頭)、米英戦争(1812)、普仏戦争(1870)、日露戦争(1904)などが典型である。

多数の国が関わった七年戦争、第一次世界大戦も、基本的には勢力争い(競争)のための戦争であり、「ライバル間戦争」といってよいと思う。

③覇権戦争

覇権戦争は、世界を征服して大帝国を築くという壮大な企てのための戦争である。そうしょっちゅうは起こらない。

例えば、イギリス(大英帝国)は、早期の海外進出の結果、金融・通商における世界の覇権を担ったが、覇権戦争によってこれを得たわけではない。

*ただし、初期に覇権を確立したという事実のために、その後に起こる覇権戦争ではたいてい敵役を務めることになった。

近代以降の覇権戦争として思い浮かぶのは、まずはナポレオン戦争

La bataille d’Austerlitz. 2 decembre 1805 (François Gérard)

次は、世界の「新秩序」を目指したヒトラー率いるドイツの戦いである(第二次世界大戦・ヨーロッパ戦線))。

そして、「第二次世界大戦 -アメリカはなぜ参戦したのか-」での検討を経て、私は、アメリカ参戦後のWW2はアメリカを主体とする覇権戦争だったと考えるようになった。

第二次世界大戦の整理・整頓

「結局あの戦争は何だったのか?」をクリアに理解するためには、参加主体毎に区別して整理・整頓を行うのがよいと思う。

(1)ドイツにとっては覇権戦争だった

WW2(ヨーロッパ戦線)は、ドイツを主体としてみた場合には純然たる覇権戦争である。

*これをくい止めるために戦った英仏露にとっては、国家ないし国土防衛戦争である。

ちなみに、ドイツにとって、WW1は覇権戦争ではなかった。もちろんドイツは勢力拡大を目指していたが、その行動様式に他国と大きな違いがあったわけではない。

*英仏に対してドイツが少し出遅れていたために「現状維持を望む英仏 VS 攻撃的なドイツ」という構図になってしまっただけである。

WW1におけるドイツと英仏の戦いは「ライバル間戦争」に過ぎなかったのだが、あたかもドイツによる覇権戦争のように扱われ、敗北したドイツに過大な責任が押し付けられた。

*このことは戦後処理にもよく現れている。WW1のドイツは交渉により和平に応じたのであり、無条件降伏をしたわけではなかった。にもかかわらず、敗戦後の交渉のテーブルにつけず、「戦争の責任は専らドイツとその同盟国にある」(条約231条)と勝手に決められて巨額の賠償を課せられた。

このときの心の傷が、ドイツをこじらせ、今度は本物の覇権戦争に向かわせる大きな要因となったのである。

(2)日米は「ライバル間戦争」を戦えば十分だった

日本は1937年から日中戦争を戦っていた。日中戦争はすでに述べたように侵略戦争であり、同じく中国に関心を持っていた欧米諸国から見ると日本はライバルだった。

「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」などと威勢のよいことを言ってはいたが、その実態は、限定的な地域における地域覇権の構想にすぎず、アメリカによる中南米・太平洋地域の植民地化と何ら異なるものではなかったのだ。

*文化が異なるから支配の仕方はもちろん異なるが、日本のやり方が際立って悪質だったということはないと思う。

日本の構想は、アメリカの利益には反していた。アメリカは中国を開放市場としてキープしたかったし、日本には(石油などを通じた)「アメリカ依存」から脱却してほしくなかった。

なので、日本がどうしても「大東亜共栄圏」を実現するつもりなら、どこかの時点でアメリカと戦うことは避けられなかったかもしれない。

*とはいえ、日本は石油も軍需品もアメリカに依存しており、戦って勝てないことは当時の指導者も分かっていた。交渉の余地はいくらでもあったのだ。

しかし、その場合に起こる戦争は、せいぜい「ライバル間戦争」であるはずだった。

当時の両国における総合的な軍事力(経済含む)の差を考えれば「日米戦争」はごく短期間で終わったはずで、負けた日本がいろいろ譲り、「依存」脱却は将来に期する、ということになったはずである。

310万人もの死者(日本人)を出す必要なんて全くなかったのだ。

(3)最終的にWW2はアメリカの覇権戦争となった

それにもかかわらず、日本がWW2に引っぱり込まれ、ヒトラーのドイツと一緒くたにされて「総力戦」を戦う羽目に陥ったのは、アメリカがWW2への参戦を世界の覇権を取るチャンスとみなしたからである。

 *詳細はこちらをご覧ください。

日本はそのとばっちりを食った格好だ。

(4)イタリアも「とばっちり」

WW2におけるイタリアと日本の立ち位置はかなり似ている。

イタリアも、直前にアルバニアを保護国化したり、エチオピアに侵攻したりしたことを咎められ、ついでにドイツと提携関係を結んだことで「覇権戦争」の主体に祭り上げられたのだが、イタリアが戦っていたのは覇権戦争ではない。侵略戦争であり、ライバル間戦争だ。

欧米列強から見れば「ライバル」だから開戦はしても、適当なところで交渉して終わらせれば十分で、無条件降伏を要求されるいわれなど全くなかった。

このときの日本やイタリアは、せいぜいWW1のときのドイツである。勢力拡大は願っていたが、世界征服なんて想像もしなかったのだ

*ドイツと日本・イタリアの時差は大衆識字化の時期で説明できると思う。ドイツは工業化の開始こそイギリスに遅れたが、識字率上昇による地力の蓄積があったので、非常に早期にキャッチアップできたのだ。

なぜWW2が「自由と民主主義のための戦争」になったのか

そういうわけで、WW2は、全体として見ると、ドイツの覇権戦争として始まり、アメリカの覇権戦争として終わった。

それがどうして、「ファシズム陣営 VS 自由主義陣営の戦い」「自由と民主主義のための戦争」と整理されることになったのか。

答えは簡単で、アメリカが(参戦し覇権戦争として総力戦を戦うための)口実を必要としたからだ。

(1)英仏の開戦理由はイデオロギーではない

1939年9月、ドイツと英仏の間で戦争が始まったとき、その戦いはイデオロギーを守るための戦いではなかった。

ヒトラーが政権についた1933年1月以降、ドイツはジュネーヴ軍縮会議・国際連盟脱退(1933年10月)、徴兵制復活(35年)、非武装地帯とされたラインラントへの進駐と、WW1後のヴェルサイユ条約を反故にするような動きを着々と進めたが、ヨーロッパ諸国は(文句を言いながらも)許容した。

1938年3月のオーストリア併合には抗議すらなく、ドイツがチェコスロバキアにズデーテン地方の割譲を要求したときも、英・仏・伊・独の4カ国(チェコ抜き!)の話し合いで割譲を認めている(ミュンヘン会談)。

*ドイツとオーストリアの「合邦」は「民族自決」というヴェルサイユ条約の基本理念に基づく「ドイツ民族の自決」の行為として行われ、現にほとんどのオーストリア人はこれを歓迎していたというから、ドイツの勢力が大きくなりすぎることを嫌う勢力にとって要警戒であったとしても、倫理的には問題のない行動だったかもしれない。

こうした首脳たちの姿勢が、「自由と民主主義」の国民に非難を浴びたかといえばそんなこともない。

ミュンヘン会談で「宥和外交」を主導したイギリス首相チェンバレンは「ヨーロッパの平和を守った」として国民の大歓迎を受けて帰国したのだ(坂井栄八郎『ドイツ史10講』194頁)。

英仏がようやく戦争の準備を始めたのは、ドイツがミュンヘン会談のラインを踏み越えてチェコスロバキアに侵攻・保護国化した後であり(1939年3月)、宣戦布告をしたのは、ドイツがポーランドに侵攻した後である(9月)。

ドイツの拡大方針が予想以上に「本気」であり、フランス、オランダ、ヨーロッパ全土がその支配下に置かれる危険性があると見てとって、初めて英仏は戦争に踏み切ったのだ。

英仏、そして後に対独戦争の中心となったソ連にとっては、第二次世界大戦は純粋に「国土防衛のための戦争」であり、それ以上でもそれ以下でもない。

(2)「自由と民主主義のための戦争」へ

この戦争が急速に「自由と民主主義のための戦争」の様相を見せるのは、アメリカが参戦に向けた世論形成に動き始めてからである。

1941年1月、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領(以下FDR)は「4つの自由」演説(一般教書演説)を行い、来るべきアメリカの参戦は独裁者から人類の自由を守るための戦いであると位置付けた。

以後、FDRは類似の言説を繰り返し、チャーチルとも協力して、第二次世界大戦を「自由 VS 専制」の戦いに仕立て直す。

そうして国民世論をまとめ上げ、同年12月、日本の真珠湾攻撃を機に参戦するのだ。

この戦いが通商による世界帝国を完成させるための覇権戦争であることを隠すためには、天皇はヒトラーと同様の独裁者でなければならず、日本はドイツと同様の軍国主義国家でなければならなかった。

しかし、事実は違う。天皇はヒトラーとは全く異なる穏健な君主だった。満州事変以降、ナショナリズムは高揚し思想・言論の取締りも強化されたが、それは日本だけのことではない。

*WW1中のアメリカは戦時広報委員会を作って激しい戦争プロパガンダを展開するとともに、戦争批判を含む言論の取締りを行なった。大学は戦争批判を行なった教員を解雇し、国は戦時防諜法(スパイ活動法とも)・戦時騒擾法違反などの容疑で戦争批判者を逮捕・起訴した(こうした法律は廃止されずに残っていて多分現在も使われている)。人種差別的排外主義も顕著であり、1924年移民制限法は「帰化不能外国人」として事実上日本人の移民を禁止し、WW2への参戦後は苛烈な日系人収容政策をとった。

日本で軍部の権力がいよいよ強大になり、言論や報道の統制が厳しくなり、狂気じみた戦い方が見られるようになったのは、対米開戦後。つまり、絶対に勝てないと分かっている強大な敵に向かっていかなければならない状況に追い込まれた後のことなのだ。

ロシア・ウクライナは「あの時の日本」(おわりに)

改めて整理してみて思った。

WW2に引きずり込まれた日本は、ほぼ、ウクライナ戦争に引きずり込まれたロシアなんだ。

バイデン大統領はロシアの特別軍事作戦が始まったその日の演説で、ロシアの侵攻を”unprovoked and unjustified attack”と述べて非難した。

*一般的な訳語では「いわれのない不当な攻撃」だが、より直訳的には「挑発なしに行われた、正当化できない攻撃」。

準備万端整えた上でさんざん挑発し、相手が攻撃を仕掛けてくれば即座に「unprovoked」と決めつけて対抗措置に出る。

*この件について詳細は「よくわかるウクライナ危機」、「なぜロシアはいま戦争を始めたのか(翻訳・紹介)」等をご覧ください。

これはFDRがWW2で用いたのと全く同じやり方だ。

FDRは、日本が思惑通り攻撃を仕掛けてきた翌日、真珠湾攻撃を”unprovoked and dastardly attack”として議会に宣戦布告を求め、ほぼ満場一致で参戦を果たすのだ。

*dastardlyは「卑怯な」。なお決議では初の女性議員であるジャネット・ランキンのみが反対票を投じた。

そして、日本はウクライナである。

WW2(太平洋戦争)における日本は、アメリカの目論見のために、およそ対抗できるはずのない強大な敵(アメリカ)に対峙させられ、3年半もの間、愛国心だけを頼りに戦い続けた。現在のウクライナが、強国ロシアとの戦いを強いられ、愛国心を掻き立てているのと全く同様に。

もちろん、日本は真珠湾攻撃をしないことができたし、ロシアはウクライナに侵攻しないことができた。しかし、その選択は、日本の場合には、無抵抗のままアメリカの属国となるという選択だったし、ロシアの場合には、NATOの不当な威嚇に屈し、ウクライナ東部のロシア系住民を見殺しにするという選択だった。

そういうわけなので、私は当時の日本を愚かとは思わないし、現在のロシアを愚かとは思わないが、当時の日本を愚かという人たちは、現在のロシアを愚かというのだろう。

「なるほどねー」と、
私は非常に合点がいったのだ。

付・終わらない戦争ーもう一つの共通点ー

本文からはみ出てしまったが、世界平和のために重要なことだと思うので書く。

現在のロシア・ウクライナと「あの時の日本」の共通点はもう一つあって、それは、アメリカの法外な要求のせいで、戦争を終わらせることができないという点である。

確かなことは知らないが、アメリカは東部を含むウクライナ全土の返還を条件にしているとか、ロシアの政権交代(レジーム・チェンジ)を狙っているとかいう。どっちも無茶な要求だ。

しかし、その前例もWW2にある。

歴史の教科書には、イタリア、ドイツは「無条件降伏をした」、日本は「軍の無条件降伏を勧告するポツダム宣言を受諾した」等とされている。もちろんその記載は誤りではない。

*日本の降伏は厳密には無条件降伏ではないという議論があるようで(例えばこちら)、確かに手元の日本史・世界史教科書はどちらも日本については「無条件降伏をした」とは書いていない。しかし、私の議論の文脈ではこの点は重要ではないので、とりあえず一緒くたに「無条件降伏をした」という言い方をさせてもらう。

しかし、教科書には、なぜ無条件降伏をしなければならなかったのかということは書いてなくて、これはアンフェアだと思う。

イタリア、ドイツ、日本が無条件降伏をしたのは、1943年1月のカサブランカ会談(チャーチルとFDR)で、両者が(FDRの主導で)「全ての敵に無条件降伏を強いる」と決めてしまったからだ。

何をされても文句を言えないという条件の下では、早期の降伏は考えられない。「無条件降伏」の決定は、とくにイタリアと日本には明らかに不必要な過剰な要求で、そのために戦争が長引き、その分だけ(敵味方を問わず)大勢の人間が死んだ。

WW2を経験した日本が提起できる最大の教訓は、経済制裁は戦争の導火線である(または「戦争そのものである」)ということと、停戦に高い条件を課してはいけないということの2点だと思うが、どっちも全く生かされていない。

 

 

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基軸通貨ドル ARTICLE

第二次世界大戦
-アメリカはなぜ参戦したのか-

はじめに 

私はこれまでの人生の中で「アメリカはなぜWW2に参戦したのか」という問いを問うたことがなかった。

*このブログの最初の記事でも、私が問うたのは「昭和の日本が、勝ち目のない戦争を始めた(そしてなかなかやめなかった)のはなぜか」という問いだった。

しかし、この夏、ケインズの伝記(イギリス人の目線でWW1からWW2の時期を描いている。以下『ケインズ』)を読んで、アメリカにはWW2に参戦しないという選択肢があったことに気づき、同時に、アメリカは明確な意図を持って参戦を決めたのだということを知った。

私が理解したのは、次のことである(仮説です)。

アメリカが参戦を決めたのは、戦争への参加を、イギリスから覇権の最後の一片を奪い、世界の頂点に君臨するチャンスと捉えたためである。

その際、アメリカが日本を敵に選んだのは、非白人への差別意識を利用して参戦を容易にするとともに、日本の野心を取り除き、アメリカの通商上の覇権を完成するためである

「なるほど、そうだったのか‥」と理解した瞬間、私には、近代から現代(というか今ここにあるこの世界)に至る流れがとてもクリアに見えるようになった。

日本人としては「えーっ!」と思うところもあるけれど、それはそれとして、「なるほどねー」という感覚を共有していただけたらと思う。

*「基軸通貨ドル」としてこのテーマを扱うことは当初予定していなかったのですが、アメリカの参戦があってこその「ドル覇権」であることは確かだと思います。連載をお読みの方は連載の一部として、そうでない方は単独の論考としてお読みください。

アメリカはなぜイギリスをなかなか助けなかったのか?

ドイツ軍がポーランドに侵攻したのは1939年9月1日。その2日後、イギリスとフランスがドイツに宣戦を布告した(9月3日)。WW2の始まりである。

英仏の宣戦布告について、イギリスの歴史家は次のようにいう。

イギリス政府とフランス政府がドイツとの戦争に踏み切ったのは、ルーズヴェルト政権がともに民主主義を掲げる友好国の敗北を許すはずがないと信じ切っていたからである。

ロバート・スキデルスキー『ジョン・メイナード・ケインズ』下・213頁

しかし、実際には、アメリカは1941年12月になるまで参戦しなかった(2年以上後だ)。

フランスが敗れ(40年6月)、連合国が困難な状況に陥っても、アメリカはなかなか彼らの側に立とうとはしなかったのである。

アメリカが参戦した理由を知るためには、アメリカが「なかなか参戦しなかった」理由を知る必要があるだろう。

そこで、この項のタイトルはこうなった。

「アメリカはなぜイギリスをなかなか助けなかったのだろうか?」

(1)アメリカ国民はヨーロッパの戦争への関与に反対だった

当時、アメリカ国民の間には、ヨーロッパの戦争に関わることに対するかなり強い忌避感があった。

1930年代のアメリカ国民は、第一次世界大戦を、イギリスに引きずり込まれて12万もの(アメリカ人の)死者を出した「無益な戦争」と捉えていた。

ヨーロッパの情勢悪化を受けて、参戦反対の国民感情は具体的し、議会は中立法(交戦国への武器禁輸)を制定する(1935年)。

これにより、政府は、さしあたり、中立の立場を義務付けられることになった。「なかなか参戦しなかった」第一の理由といえる。

*中立法は、36年(交戦国への借款禁止)、37年(内戦にも適用)と順次厳格化されている。

(2)アメリカはイギリスが好きではなかった

(1)とも関係があるが、基本的な姿勢として、アメリカはイギリスのことがそれほど好きではなかった。

前回も書いたように、イギリスの方は「アメリカは絶対助けてくれるはず」と思い込んでいるのだが、アメリカの方はイギリスをそれほどよく思っていないのだ。

アメリカの左派〔当時の政権与党は左派の民主党ー辰井注〕からすれば、イギリスは狡猾な帝国主義国家である。アメリカはそのイギリスの軍隊と戦って独立を勝ち取ったのだ。‥‥ それにイギリスは銀行を中心とする資本主義の中枢だが、ニューディールはそうした金融主導に対抗して計画されたものである。ルーズヴェルト自身も英帝国を嫌悪し、イギリスの貴族たちは信用ならないと考え、〔イギリス〕外務省は親ファシストではないかと疑っていたし、イギリス人は全体として非常にずる賢いと感じていた。‥‥

共和党はそれほど反英ではないとしても、とにかく反ルーズヴェルトであり、参戦には断固反対だった。

『ケインズ』下・214頁

そういうわけで、アメリカはイギリスを好きではなく、仲間意識も持っていなかった。これが第二の理由といえる。

(3)アメリカは経済戦争でのイギリスのやり口に怒っていた

もう一つの背景は1930年代の経済戦争である。

いわゆる「経済戦争」の発端は、アメリカ高関税政策である(1930年関税法)。アメリカは、農産物価格の下落に対処するため、農産物と(ついでに)各種工業製品の輸入に高い関税をかけた。

このアメリカの措置が、各国による対抗・報復措置の連鎖を生じさせ、終わらない経済戦争に発展してしまうのだが、その過程で行われたイギリスによる3つの措置がアメリカを怒らせていた。

①金本位制離脱 

イギリスは1931年9月に金本位制を放棄した。

イギリスの金本位制への復帰は(主観的には)世界の基軸通貨・金融センターの地位を回復するためであったが、早すぎる復帰それも過大評価された(WW1以前の)旧平価での復帰はイギリス経済に悪影響をもたらした。

と前回書いたように、ポンドの過大評価が負担であったためだが、アメリカは「イギリスが不当にポンドを切り下げて輸出競争力を維持しようとしている」と理解して怒った。

*なお、この時期のアメリカには「イギリス経済はそんなに悪くない」「まだまだどっかにおかねを隠しているはず」と考える傾向が見て取れる。家出息子の方にも親を過大評価している部分があるのだ。このときのアメリカは、財務長官モーゲンソーが陣頭指揮を取りドル安誘導策を取って「1ドル=5ポンド」(金本位制下でのレート)を回復してのけ、イギリスをギャフンと言わせたという。

②イギリス連邦特恵関税制度

イギリスは、オタワ連邦会議を開催し、アメリカへの対抗措置として、イギリス連邦特恵関税制度を構築した。

*イギリスとカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、ニューファンドラントの間の関税を引き下げることで諸国間の貿易を活性化する貿易振興策

これにアメリカは激怒した。
不満はこうである。

アメリカの高関税政策は、すべての輸入に高関税をかけるもので、全世界に対して平等だ。

一方、イギリスのやり方は、連邦諸国のみを優遇して閉鎖的な市場を構築するもので、それ以外の国を排除するものである。連邦の構成メンバーからいって、これではまるでアメリカだけが差別されているみたいではないか。

「やりすぎだ」「許せん!」

とまあ、そういうことになってしまったのだ。

*実際、当時のアメリカの国務長官コーデル・ハルは、この英連邦特恵関税制度こそが、彼の在任期間において、アメリカの貿易に「最大の損害」を与えるものだったと述べている。

③開戦後のドル防衛策

さらにイギリスは、WW2の開戦後、貴重なドルが軍事物資以外の輸入に使われないように、ポンド・ブロック内を厳格な為替管理で囲い込んだ上(ドルを使えないようにする)、ドルを手に入れるために中南米に輸出攻勢をかけた。

イギリスとしては戦争に勝つための苦肉の策だったが、アメリカの目にはアメリカの輸出妨害にしか見えず、怒り心頭となったのである。

*ポンド地域のドル囲い込みはアメリカの輸出にとって大打撃+中南米は「アメリカの裏庭」であり大切な輸出市場

背景としての経済戦争(経済構造と戦術)

「経済戦争におけるやり口に怒っていたからイギリスを助けない」という態度にも見て取れるように、(とりわけ)アメリカにとってのWW2の主題は経済である

アメリカは、経済政策をめぐって、イギリスに、ついでにいうと日本にも「イラッ」と来ていた。

実際のところ、1930年代の経済戦争における各国の「戦い方」は、それぞれの国の事情に対応したものなので、「怒っても仕方がないじゃん」と私は思うのだが、しかしともかくアメリカは不満だったのだ。

WW2の理解にとっても、WW2後の世界の理解にとっても重要なポイントなので、整理をしておきたい。 

アメリカは、資源大国であり、エネルギーも食料も他国に依存しないでやっていくことができる国である。

当時のアメリカにとっては、国内産業の強さと輸出市場の確保のみが重要であり、輸入はどうでもよかった。だから彼らは単純な高関税政策を取った。

*実際にはうまくいかなかったが。

他方、イギリスは、土地も資源も不足しており、自給自足は考えられない。輸入と輸出の双方を活発に行うことで初めて成立する貿易立国である。

だからこそ、イギリスは、高関税で国内産業を保護するだけでは不況を脱出できず、ブロック内で関税優遇策を取ることで、貿易(輸出と輸入)を維持する必要があったのだ。

しかし、市場から排除され、輸出先を奪われたアメリカはこれに不満で、「イギリスなんか絶対助けてやらない」と誓ったのである。

日本の場合である。日本はイギリスと同じく資源不足の貿易立国であるから、大英帝国にならって、勢力圏を広げてブロック経済を構築する方向を模索した。

*日本の場合、まだまだ資源確保には全然足りなかったので、経済戦争だけでなく領土拡大のための侵略戦争も並行して実施することになった。

アメリカはもちろんこれにも不満である。全世界はアメリカの市場でなければならないのに、日本は(朝鮮、台湾を含む)日本帝国、満州、中国全土をブロック化し、東南アジアへの拡大まで狙っている。

この時期のルーズヴェルト政権が関心を持っていたのは、強い国内産業と潤沢な市場による通商帝国の確立だった。

イギリスの特恵関税制度や日本の大東亜共栄圏構想はその妨げ以外の何ものでもなかったのである。

*「通商帝国」という言い方は、植民地として支配するのではなく(植民地だとちゃんと国家として経営しなければならないので)、諸外国を本国にとって都合のよい市場に仕立てて本国経済に奉仕させる非公式な帝国主義を指して用いられている。

イギリスとアメリカの攻防

そういうわけで、アメリカは、単にイギリスを助けるための参戦には全く興味がなかった。

そのアメリカがWW2への参戦を決めるのは、戦費調達をめぐるイギリスとの攻防の末のことである。

両者の間にどんなやり取りがあったのであろうか。

*私が『ケインズ』を読んで「ほー」と思ったのはこの辺です。以下、ほぼ同書に依拠して進めます。

(1)おかねが足りないイギリス

戦争を始めてはみたものの、イギリスにはおかねがなかった。

イギリスは、戦闘力にはそれなりに自信がある。しかし、重工業でイギリスを上回っていたドイツと戦争を続けるには、武器や軍需品を(アメリカから)入手し続けなければならず、イギリスにはその資金がなかった。

イギリスは再三に渡ってアメリカに支援を求めるが、アメリカ国民は参戦反対だし、アメリカ政府は「助けてやらない」と誓っている。その上、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルト大統領(以下FDR)は、1940年11月の大統領選に向けた選挙戦を「アメリカの若者を海外の戦争に送らない」を公約に戦っていた。

しかし、イギリスにはとにかくおかねがない。おかねはないが、アメリカには武器や軍需品を送ってもらわなければ困るのだ。

(2)フィリップ・カーの説得術

この時期、ロジアン侯爵フィリップ・カーという人物が駐米イギリス大使を務めていた。 

Phillip Kerr 11th Marquess of Lothian

彼はまず、戦争を「自分たちには関係ない」と思っているアメリカ人に、この戦争にはアメリカの安全保障がかかっていると説得して回る戦術をとった。

標語にすれば、「イギリスの勝利なくしてアメリカの安全なし」。

*私が勝手に考えました。

一方、アメリカ国民は、ダンケルクの戦い(1940年5月)を経て、イギリスは負けるのではないかと考えるようになっていた。

*ドイツ軍に追い詰められた英仏軍が辛くも本国に撤退した「史上最大の撤退作戦」で有名。

敗戦を予測し「じゃあ助けなきゃ」となるかといえばそうではなく、彼らはこう考える。「負ける国に武器を売るなんてバカバカしい」。世論はますますイギリスに不利になっていた。

フィリップ・カーは、引き続き、イギリスの勝利がアメリカの安全保障の前提条件であることを訴えつつ、参戦にネガティブなアメリカ世論を考慮して、次のような論陣を張った。

アメリカが参戦しなくてすむ唯一の方法は、イギリスが負けないように支援することである。

この訴えはアメリカに響いたらしい。

1940年6月、カーは「このままではイギリスは負ける」と訴えて、FDRから旧式ライフル銃の破格での売却を引き出す。

*FDRは中立法の規定をかいくぐってこれを実現した(まずUSスティールに売って同社がそれを転売するという形をとったらしい)。

1940年11月、イギリスはバトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍を撃退。

財政はますます逼迫の度を強めたが、アメリカの国民世論は好転している。

フィリップ・カーは考える。
さて、アメリカの資金を引き出すために何をしようか。

*この時点で、「年内に金・ドル準備はほぼ底をつく計算」だったという(ケインズ・219頁)。

(3)チャーチルの手紙

この時期、アメリカ政府(具体的には財務長官モーゲンソー)の基本姿勢は次のようなものだった。

イギリスがドイツと戦うのは助けよう。しかし世界におけるイギリスの地位を守ってやるつもりはない。」

イギリスがいくら支援を訴えても、アメリカはまだ、大英帝国の「隠し財産」を疑っており、帝国資産を温存したままでの支援はあり得ないと考えていた。

一計を案じたフィリップ・カーは、11月23日、ロンドンから飛行機で戻りアメリカの空港に降り立った際、その場にいた報道陣に大声でこう言い放った。

諸君、イギリスは文なしだ。
 われわれにはあなた方の資金が必要なのだ。

この発言はイギリスでもアメリカでも騒動となったが、FDR政権がイギリスのドル不足問題に公式に取り組まざるを得ない状況を作った。

それでもなお、アメリカは「ポケットを全部ひっくり返して」、イギリスが中南米に保有する資産の明細を提示しろと迫る。

*12月初めのイギリス大使との会談における財務長官モーゲンソーの発言。

窮地に陥ったフィリップ・カーは、チャーチルを動かそうとした。
カーに急き立てられ、チャーチルはFDRに書簡を送った。

これが効いたのだ。

FDRは、この手紙を読んで、WW2への参戦を最終的に決意した

私がそう思うのは、以下(具体的には次項以下)に示す状況証拠による。

「アメリカの若者を海外の戦争に送らない」と訴えて1940年11月の大統領選挙に勝利していた彼は、手紙を読んだ直後、一転して参戦に向けた環境整備に動き始めるのである。

*チャーチル自身、この手紙を「私がこれまでに書いた中で最も重要な手紙の一つ」との認識を示しているという。

手紙の内容はこちらで紹介しています。

FDRはどんな夢を見たか

手紙は、カリブ海に浮かぶクルーザーの上で選挙戦後の休養をとっていたFDRのもとに届けられた。彼は2日間、繰り返し手紙を読んで、沈思黙考したという。

威厳ある文体を保ちながらも「イギリスを身ぐるみ剥ぐことなく」船舶や軍需品を支援してくれと懇願するチャーチルの文章を読みながら、FDRは何を考えたのだろうか。

*ここからは私の想像です。

ついに来た。この時が

彼は考えたと思う。

イギリスからすべての特権を奪い、覇権をわがものにする最高のチャンスだ。

温情にすがるイギリスを助け、晴れて勝者の側に立てば、戦後の主導権はわが国に転がり込んでくる。帝国特恵関税制度はもちろん廃止させ、ポンドの地位も奪う。いよいよアメリカが名実ともに世界の中心になるときが来たのだ。

つぎに考えたのが、おそらく、日本のことだ。

*チャーチルの手紙にも日本への言及がある。

最大の障害はアメリカ世論だが ‥‥ それには日本を使うのがいいだろう。向こうから仕掛けさせれば、満場一致で参戦できる。

日本を叩いてその野望を打ち砕けば、東アジアに東南アジア、太平洋にインド洋。世界中の海と市場が、真にわが国のものとして確保されることになるだろう。

と、こんなことを考えて、うっとりしたのではないだろうか。

「よし」と心を決めたFDRは、さっそく、いわゆるレンドリース・プログラム(Lend-lease)の構想を発表する(12月17日)。

1941年3月に議会を通過するレンドリース法(武器貸与法)は、「大統領が合衆国の安全保障上必要と認めた国に対して武器・軍事物資を売却、貸与、賃貸などを行うことができる」というもので、それまで中立を保っていたアメリカが、以後(アメリカ的表現では)「民主主義の武器庫」として連合国側に立つことを明確にするものだった。

1941年1月には、「アメリカの安全保障が今ほど深刻に脅かされたことはない」という煽りから始まる「4つの自由」演説を行う。

*イギリス、ソ連が少なくとも互角でドイツと戦っている以上、1941年1月の時点でアメリカに危険が及ぶ可能性はほぼなかったというのが一般的な評価だと思います。

1941年8月には、早くも(まだ参戦もしてないのに!)、第二次世界大戦後の世界秩序に関する構想をまとめた英米共同宣言である「大西洋憲章」を発表する。

あとは日本に先制攻撃を仕掛けさせるのみ
というのがFDRの頭の中だったと私は思う。

実際、通商帝国の確立を目指すアメリカから見ると、日本は確かに目障りな存在で、ちょうどこの時期、両者の利害の対立は深まる一方だった。

日本とアメリカ:対立する利害

(1)夢は「アメリカ依存」からの脱却

資源不足の日本はイギリス型の帝国経営を志向していたが、それはあくまで「夢」であり、現実には石油の8割以上、屑鉄、軍需部品などをアメリカに依存していた。

*屑鉄は重工業の原料。
*当時の日本の重工業は軍需物資を完全に自給できる水準に達しておらず、部品を輸入に頼っていた。

アメリカ依存の状況をどうにか脱し、国家運営における自立性を高めたいというのが日本の悲願だったが、もちろんアメリカにとっては日本が依存してくれていた方が都合がよい。

ここに第一の(そして根本的な)利害対立があった。

(2)ブロック経済を目指す日本

帝国経営による自給自足を目指す日本は、日本、満州、中国を軸とした自給的ブロック(いわゆる円ブロック)の形成を目指した(東亜新秩序)。

*当時の近衛文麿首相による「東亜新秩序声明」は1938年11月3日と12月22日の2回。

自給自足の方向性はもちろんだが、排他的ブロックの構築もまた「輸出市場の確保」というアメリカの国是に真っ向から反する。

アメリカ政府の姿勢は硬化し、1939年7月には「日本の中国侵略に抗議する」という名目で日米通商航海条約の破棄を通告(1939年7月・失効は40年1月)。

日本とアメリカの貿易環境は悪化し、日本は軍需資材の入手が困難な状況に陥った。

(3)「南進」にかける夢

ヨーロッパで戦争が始まったのはちょうどその頃だ(1939年9月)。

1940年5月以降、オランダとフランスが立て続けに降伏すると、日本の目はそれぞれの植民地に向かう。

*いわゆる仏印(ベトナム・カンボジア)、蘭印(インドネシア)

東南アジアへの進出はアメリカへの石油依存を脱却する格好の手段だ。ドイツやイタリアに獲られる前に、なんとか日本のものにしたい。

え、イギリスも負けるかも?
それならシンガポールやマレーシアもぜひぜひ獲得しなければ。

南進すればアメリカが妨害してくることはわかっていたが、それでもというか「だからこそ」、日本は東南アジアに進出したかった。だって、それだけが、アメリカ依存から脱却する唯一の手段なのだ。

日本は「何かしてきたら、こっちだって黙ってないぞ」というところを見せるため、日独伊三国同盟を結んだ(1940年9月)。 

*要するに「強そうに見せるため」だったのだが、これは無意味で逆効果だったというのが一般的な評価である。アメリカを牽制する効果はゼロだったのに、日本を敵国扱いするよい口実を与えてしまったからだ。

当時の絵葉書(wiki)

並行して、フランスのヴィシー政府(ドイツの傀儡)と交渉し、日本は北部仏印に進駐した(1940年9月)。

案の定、怒ったアメリカは、日本に対する経済制裁として、高品質の航空機燃料の禁輸(8月)、屑鉄の全面禁輸(9月)を決める。

ルーズベルト政権は中国をめぐる戦いに介入する意図はなかったが、日本がその帝国の勢力を東南アジアに拡張することは決して容認できなかった。

ジェフリー・レコード『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』45頁

FDRがチャーチルからの手紙を受け取ったのは、この直後ということになる(12月8日)

1941年の日米交渉

1940年の末に参戦を決めたFDR政権は、1941年の1年間をフル活用し、日本に先制攻撃を仕掛けさせることに見事に成功した、といえると思う。

交渉の過程を確認しよう。

*ポイントと思われる部分だけを拾います。日米交渉についてはwikiがかなり詳しくかつ公平に書かれているように見えます。

(1)日本にアメリカと戦うつもりはなかった

大前提として、独伊と三国同盟を結び、北部仏印に進駐した日本に、アメリカと戦う意思があったかといえば、ない。

 *通説だと思います。

こう言っては何だが、戦って勝てるくらいならとっくにやっていただろう。勝てるはずがないから、せめて三国同盟を結んだり、南進したりして、アメリカへの依存度を減らそうと努めているのだ。

とはいえ現状では、アメリカとの関係が本格的に悪化して石油や屑鉄の輸入が途絶えるのは悪夢でしかない。

そういうわけなので、日本は、アメリカが(レンドリースに大西洋憲章と)着々と参戦の下準備を整えている間も、必死で、アメリカとの関係改善を成し遂げようとしていたのだ。

(2)いきなり無理な要求を突きつけるアメリカ

交渉の任を負った駐米大使の野村吉三郎は、1941年3月に米国務大臣コーデル・ハル、続けてFDRと会談して交渉の意向を伝え、4月に再び野村ーハル会談が行われた。

1941年2月にホワイトハウスを訪ねる野村

  

コーデル・ハル

この席で、ハルは「日本政府が一項でも同意しなかったら、アメリカ政府は交渉に入ることを拒絶する」と念を押した上で、「ハル4原則」を手渡したとされる(田原・506頁)。

 ハル4原則
(1)すべての国家の領土と主権を尊重すること
(2)他国の内政に干渉しない原則を守ること
(3)通商の平等を含めて平等の原則を守ること
(4)平和的手段によって変更される場合を除き太平洋の現状を維持すること

現代のわれわれは、WW2については「アメリカが正しくて日本が間違っていた」という歴史観を非常に強く植え付けられているので、アメリカの日本への要求には何でも理があるような気がしてしまうが、当時の日本の立場に立って考えてみると、アメリカのこの要求はおかしい。

何といったらよいのであろうか。アメリカの要求は、基本的に、戦争に勝った国が負けた国に対してする要求なのだ

当時の日本人がこれを読むと、
(1)は「中国から撤退しろ」という意味だし、
(2)も「中国から手を引け」という意味だ。
(3)はブロック経済の否定だし、
(4)は「南進するな」という意味だ。

*日中戦争の泥沼化で、日本は大規模攻撃を中断し、中国各地に傀儡政権を樹立する方式に切り替えており、1940年には各地の傀儡政権を統合した新国民政府政権(汪兆銘政権)を南京に樹立していた。

1937年7月から日中戦争を戦ってようやっと手に入れた権益を全部手放せというのだから、当時の日本にこれは受け入れられない(とくに(1)(2))し、アメリカはそのことを先刻承知であったはずである。

なぜそんな要求を平然と突きつけることができるのかといえば、それは、アメリカが石油という日本の「弱み」を握っているからであるし、もっといえば、戦争をしても構わない(私の仮説では「攻撃を仕掛けてくるよう仕向けたい」)、すれば絶対に勝つと思っているからである。

(3)強化される経済制裁

これに黙って従えば、日本は自発的にアメリカの属国になるのと同じである。欧米列強に並ぶ一人前の国家として発展することを目指す当時の日本に、それができるはずはない。

「でも、アメリカとの関係を改善しなければ、石油が・・」

とぐずぐずしていると、1941年6月に独ソ戦が始まり(日本は全く察知していなかった)、日本が(ちょっとは)期待していたドイツからの物資供給の見込みはなくなった。

それを見越したように、アメリカは日本への石油製品の無許可輸出を禁止する(6月)。

インドネシア(蘭印)からの石油買付をめぐるオランダとの交渉も不調に終わり、追い詰められた日本は、ヴィシー政府との交渉により、南部仏印に進駐(7月)。

アメリカは直ちに対日資産凍結令を出し、イギリスとオランダもこれに追随、オランダ(蘭印)は続いて日蘭石油協定も停止する。

そして、8月、アメリカはついに、日本に対する石油の全面輸出禁止を発表するのだ。

*軍部の主導による南部仏印進駐については「対米英戦やむなしとの判断から」進駐したとする文献もあるが、少なくとも近衛首相(や主要な軍・政権幹部)にとってはそうではなかったようだ。

幣原喜重郎『外交五十年』に依拠した田原・516頁によると、「そんなことをしたら日米戦争になる」「船をただちに引き返させろ」と主張する幣原に対し、近衛は顔面蒼白となり、「御前会議で決まったことを覆すのは無理‥‥、他に何か方法はないでしょうか」とすがるように言った、という。

(4)戦争回避への努力

日本にとって、資産凍結と石油の全面輸出禁止は大変な痛手である。はっきり言って、戦争どころの騒ぎではない。

日本の石油は8割をアメリカに、2割を蘭印やボルネオに依存しており、これで一滴の石油も入って来ないことになったのである。この時点で、日本の石油貯蔵量は1年半しかもたないことがはっきりした。

田原・517頁

そして、資産凍結(ドル口座の凍結)は、アメリカ以外(南米など)からの輸入の道も閉ざされることを意味していた。

こうなると軍部を中心に強硬論が強くはなるのだが、それでも、日本の首脳部は戦争を望んではいなかった

*石油もないのにどうやって戦うのか。 

近衛文麿首相は、8月4日(米の対日石油輸出全面禁止発表直後)、ルーズヴェルト大統領との直接会談の道を探ると発表。

*和平に向けた交渉には、陸海軍も天皇も賛成していた。

野村駐米大使は、ハル国務長官に近衛とFDRの日米首脳会談の開催を正式に申し入れ(8月8日)、17日にはFDR本人と面会、28日には近衛からの親書を手渡している。

しかし、日米首脳会談は実現しなかった。

近衛は、軍を激怒させることを厭わず「中国からの全面撤退」のカードを切るつもりだった。

*内務官僚伊沢多喜男の「それをやれば殺されるに決まっている」との忠告には「自分の生命のことは考えない」。「アメリカに日本を売ったといわれる」には「それでも結構だ」と答えたという。「優柔不断の見本のようないわれ方をしている近衛も、少なくともこの時期は生命をかけていたのだった」(田原・526-527頁)。

しかし、アメリカ側は、事前協議によって「予め基本問題を承認した上でなければ首脳会談は行えない」の一本槍で、会談の申し入れを突っぱねた。

*「基本問題の承認」とはハル4原則の全面受諾のこと。

近衛は「全面受諾」に応じるつもりだった。しかし、国内の強硬派を押し切るためにはFDRとの首脳会談が必要だった(おそらくその事情をアメリカは理解している)。

アメリカはその席を設けることすら拒否したのである。

1940年秋頃の近衛文麿(wiki)

(5)進む戦争準備・諦めない近衛

こうした事態を受けて、9月6日の御前会議では、「帝国は自存自衛を全うするため、対米(英・蘭)戦争を辞せざる決意の下に、おおむね10月下旬を目処として戦争準備を完整する」という文言を含む(外交手段を尽くす旨の記載もある)「帝国国策遂行要領」が決定した。

それでも近衛は諦めず、グルー駐日大使に言葉を尽くして日米首脳会談の実現を求めた。

近衛はグルーに、ハル4原則を全面的に受け入れ、支那から速やかに撤退する用意があると伝えた。日米関係の回復のために、自分は身の犠牲や安全を顧みない、ただし事態は切迫している、とも伝えた。

グルー大使は、日米首脳会談の実現を勧める報告書を本国に送っている。

米日関係を改善できるのは彼(近衛)だけです。彼がそれをできない場合、彼の後を襲う首相にそれができる可能性はありません。少なくとも近衛が生きている間にそんなことができる者はいないでしょう。‥‥近衛公は、彼に反対する勢力があっても、いかなる努力も惜しまず関係改善を目指すと固く決意しています。

グルー駐日大使の本省宛報告書(渡辺・159頁)

この点は、イギリスの駐日大使も同じ意見だった。

アメリカの要求が、日本人の心理をまったく斟酌していないこと、そして日本国内の政治状況を理解していないことは明白です。日本の状況は、(首脳会談を)遅らせるわけにはいかないのです。アメリカがいまのような要求を続ければ、極東問題をうまく解決できる絶好のチャンスをみすみす逃すことになるでしょう。私が日本に赴任してから初めて訪れた好機なのです。

アメリカ大使館の同僚も、そして私も、近衛公は、三国同盟および枢軸国との提携がもたらす危険を心から回避しようとしている、と判断しています。もちろん彼は、日本をそのような危険に導いた彼自身の責任もわかっています。‥‥(近衛)首相は、対米関係改善に動くことに彼の政治生命をかけています。そのことは天皇の支持を得ています。もし首脳会談ができず、あるいは開催のための交渉が無闇に長引くことがあれば、近衛もその内閣も崩壊するでしょう。

アメリカ大使館の同僚も本官も、この好機を逃すのは愚かなことだという意見で一致しています。確かに近衛の動きを警戒することは大事ですが、そうかといってその動きを冷笑するようなことがあってはなりません。いまの悪い状況を改善することはできず、停滞を生むだけです。

9月29・30日 ロバート・クレイギー英駐日大使の本国宛公電(渡辺・159-160頁)
(6)戦争へ

それでも、結局、日米首脳会談は実現しなかった。
行き詰まった近衛内閣は辞職し、東條英機内閣に変わる(10月18日)。

11月5日は新たな「帝国国策要領」が決まり、11月30日中に日米交渉が成功しなければ対米戦争に突入する、ということになった。

もちろん交渉は成功せず、11月26日、事実上の最後通牒である「ハル・ノート」が駐米日本大使に手渡される。

そしてついに12月7日未明(ハワイ時間)、FDRがチャーチルからの手紙を読んだちょうど1年後に、日本は真珠湾攻撃を開始するのだ。

*アメリカは交渉中からずっと日本の暗号を解読していたので、この攻撃のことも予め知っていた。

おわりに

そうやって、アメリカは見事に国民の支持を得てWW2に参戦し、世界の覇者になった。

日本を戦争に引きずり込み、すべての敵国に無条件降伏を要求し、ヨーロッパ、ソ連、中国、東南アジア、日本を壊滅させた。

そうしてただ一人、無傷の土地と人口、豊かな資源と工業生産力を備えた国家として、戦後を迎えるのである。

主な参考文献

  • ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946 下』(日本経済新聞出版、2023年)
  • 中野耕太郎『20世紀アメリカの夢 世紀転換期から1970年代』シリーズ アメリカ合衆国史③(岩波新書、2019年)
  • 田原総一朗『日本の戦争』(小学館文庫、2005年)
  • 渡辺惣樹『誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く』(草思社文庫、2020年)
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基軸通貨ドル

ポンドの沈下/ドルの浮上
-アメリカはどうやって大英帝国の力を削いだか-

はじめに

第一次世界大戦を契機に、安定したポンド覇権(国際金本位制)は終わりを告げる。

ポンドの地位が低下する一方、アメリカ・ドルの地位は上がる。ポンドとドルのダブル基軸通貨体制になるのだが、ドルは基軸通貨国としての責務を担うことはしない。

こうした不安定な体制の結果生じた金融秩序の混乱が、かなり直接的に、第二次世界大戦の勃発につながっていくのだ。

もちろん、ポンドの沈下は、自然現象のように起きたわけではない。それをもたらしたのは、アメリカの、おそらくさほど意図的ではないものの、とても「アメリカらしい」行動である。

イギリスとアメリカ

第一次世界大戦とその戦後処理、戦間期、そして第二次世界大戦と戦後の秩序回復に至る歴史は、一面では、イギリスからアメリカへの覇権交代の歴史である。

イギリスとアメリカは実際にはライバル関係にあるのだが、それぞれの行動は、その過去に由来する微妙な関係性に支配されている、という感じがする。

イギリスを由緒正しい本家、放蕩の後に出世した家出息子をアメリカとしよう。

イギリスはアメリカに対し「そうはいっても息子」という思いを捨てられない。本家イギリスの大国としての地位を守るために、アメリカは最後には力を貸してくれるはずだと信じている。

*そして、一度や二度、裏切られても、その思いは揺らがない。

一方、アメリカにはイギリスの大国意識こそが煩わしい。あんたが大国でいられるかどうかなんて知ったことか。

どうしてもと頭を下げれば支援はしてやろう。だがやり方は俺が決める。大国になったなら大国らしくしろ? 大きなお世話だ。

こうしたそれぞれの姿勢は、第二次世界大戦とその戦後処理に至るまで継続していくのだが、今回は第一次世界大戦とその戦後の話である。

第一次世界大戦におけるアメリカの立ち位置

第一次世界大戦(1914-1918)(以下WW1とする場合がある)は、大局的に見ると、ヨーロッパの覇権をめぐって戦われたイギリスとドイツの戦争である。勢力拡大を狙うドイツをイギリス、フランスで抑え込んだ格好だ。

WW1の対立の構図は、同盟国 VS 協商国(連合国)である。

同盟国(中央同盟国 central powers)の中心はドイツとオーストリア、一方の協商国(連合国)(entente or allied powers)には、当初のイギリス、フランス、ロシアに加え、ポルトガル、日本、イタリアが名を連ねた。

*英仏露のいわゆる三国協商はtriple entente。「協商国」の語はここから来ているが、日本語で英仏の側を協商国とも連合国ともいうように、英語でもentente powersともallied powers(またはallies)ともいうようだ。

あれ、アメリカは?

私は今回調べるまで全く知らなかったが、
ここが大事なところなのである。

アメリカは1917年4月にドイツに宣戦布告し、大戦に参戦する。

アメリカ兵が本格的に前線に配備されたのは1918年になってからだが(訓練に時間がかかったとか)、それでも、戦争末期には140万人のアメリカ兵が西部戦線で戦い、同戦線での戦死者は11万6000人にのぼっている(木村靖一『第一次世界大戦』(ちくま新書 2014年)178頁)。

 *大戦全体の国別統計はこちら

フランスに運ばれるアメリカの兵士たち

連合国にとって直接的に何よりも大きな支援は、アメリカの資力と工業力にあった。イギリスの輸入量に占める合衆国の比率は、1914年では26%、17年に43%、18年になるとほぼ半分の49%にもなっている。また連合国への総額112億ドルにもなる借款がなければ、戦争の継続は難しかったと指摘されている。

木村・前出178頁

というわけで、アメリカの力、とりわけ経済力がなければ、連合国の勝利はなかったというのが一般的な評価である。ところが、アメリカはallied powersの一員ではないというのだ。

じゃあ、何なのか。

第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約では、いわゆる連合国は ”allied and associated powers” と記されている。

同盟を結んだ国々(allied powers)と、それ以外の、いわば提携関係にあった国々(associated powers)とが、概念上区別されているのである。

*この両者を日本語でどのように訳し分けるのかわからない。wiki日本語版では、「同盟国と連合国」としていて、ゼロから訳してよいなら妥当な訳だと思うが、日本語ではドイツ側を「同盟国」イギリス側を「連合国」と呼ぶのが一般的なので、その訳し分けはちょっとややこしすぎると感じる。イギリス側参加国を「連合国」と呼ぶ慣例に従った上でいうと、実態は、連合国の中に、同盟による連合国と、事実上の協力関係による連合国がある、という感じだと思う。

そして、この区別に誰よりもこだわったのがアメリカだった(両者の区別を含めてブリタニカのサイトが参考になる)。

実際のところ、アメリカは、イギリスやフランスとの同盟関係を否定することによって、第一次世界大戦の「真の勝者」になったのである。

「戦債問題」の真実

大戦中、アメリカはヨーロッパ各国に多額の物資や資金を提供した。その額は、連合国全体で71億ドルに及んでいる。資金援助は大戦後も続き、1921年には120億ドルに達していた。

*71億ドルのうち37億ドルがイギリス、20億ドルがフランスである。120億ドルの内訳は45億ドルがイギリス、42億ドルがフランスで、復興資金としてフランスに投下された金額の大きさが窺われる。

この多額の「戦債」が、WW1の戦後処理における最大の問題であったことはよく知られている。

*しかし正直にいうと私は知らなかった。賠償金のことは知っていたが戦債のことはよく知らなかった。

勝利した連合国は、アメリカに対する債務の支払いに苦しみ、敗北したドイツは戦勝国への賠償金の支払いに苦しんだ。

多額の対米戦債と賠償金こそが、WW1後のイギリスおよび大陸ヨーロッパの経済を停滞させた直接の原因であり、第二次世界大戦の遠因でもあった。

と、ここまでのことは、世界史の教科書にも書いてあるし、大抵の金融史の本にも書いてある。しかし、ほとんどどの文献にも書かれていないことがある。

同じ戦争を味方同士として戦った同盟国の間で融通された物資や資金のすべてを「債務」として扱い、その返済を(利子付きで!)義務付けるというやり方は、当時としては普通ではなかった、ということである。

アメリカがalllied powersの一員であることを拒絶した最大の理由は、これらの戦債の処理において「俺のやり方」を貫くためだったと考えられる。

戦債処理における「アメリカ流」とは、物資・資金提供が持つ政治的な意味を捨象し、民間の債務とまったく同様に、ビジネスの問題として処理することだった。

出世した放蕩息子のアメリカは、「俺は別に同盟国じゃないし」「ただ助けてやっただけだし」ということでそれまでのやり方を無視し、多額の債務をテコに、イギリスを王者の地位から追い落としたのである。

*この時点でどこまで意図的であったのかはわかりません。

新兵器:国家間債務

アメリカが示した「俺流」の新しさを、2つの側面から説明しよう。

①政治的文脈の無視

一つは、軍事支援の政治的文脈を無視して、ビジネスに徹したことである。

それ以前の戦争は、一国(大抵はイギリス)が同盟国の軍事費を賄うのが通常で、融資ではなく月々の助成金のような形で支払っていたという。

*この方式は、同盟国の忠誠を担保する目的も果たすことができた(相手がいうことを聞かなくなったら即座に支払いを停止するのだ)。

アメリカ独立戦争(1775-1783)の際にはフランスがアメリカに多額の支援を行ったが、そのほとんどはやはり純粋に助成ないし贈与として供されている。

フランスはアメリカに提供した援助(7億ドル相当の軍事援助と200万ドルの資金)の代償を要求することはなかったし、融資の形で提供された600万ドルを厳しく取り立てることもなかった。

*というか、(1789年の革命を経て)生まれたばかりのフランス共和国はおかねに困っていたので同じく生まれたばかりのアメリカ合衆国に再三返済を要請したが、まったく耳を傾けてもらえなかった。要するに返してもらえなかったのだ。

WW1でも、英仏は、連合国側での参戦を条件に、ギリシャに「返済の心配は無用」という形の軍需品の供給を約束している。

同じくWW1で、イギリスはロシア、イタリア、フランス等に約70億ドルの資金を提供しているが、もとより回収の目処はなく、回収するつもりもなかったと思われる。

戦費の返済を求めない慣習は、「戦争とは政治的目的を達成するための手段である」という常識によるものである。

ギリシャはギリシャのために戦うのではなく、連合国のために戦うのである。資金は政治的目的を同じくするものの間で融通し合うのが当然ではないか。

しかし、アメリカはこの常識に異議を唱えた。

実際には、当初は「返済の心配は無用」という姿勢を見せていたというが、戦争終結後、アメリカ政府は態度を変える。

「借りたものは返す。それが常識でしょう、奥さん?」と言いつのる高利貸しのように、アメリカは各国からの債務調整の申し入れをキッパリと断り、提供した軍需品や資金のすべてを帳簿に書き込んで、連合国とりわけイギリスに対して、債務の返済を強要した。

*実際、この時期のアメリカは(イギリス人に)「シャイロックおじさん」と呼ばれていたそうである。

「同盟国ではない」ということを論拠に、支払いの猶予すら認めず、直ちに元本と利子の支払いを始めるよう要求したのである。

戦間期を覆う不況の中で、アメリカが実際に回収することができた金額はごくわずかだった。

しかし、多額の債務を背負わせたことが、イギリス経済の回復を阻害し、ポンドの沈下/ドルの浮上に大いに役立ったことは間違いない。というか、これによって、アメリカは「WW1 の真の勝者」となったのだ。

②国家間の債権ー債務関係

WW1後の戦債処理のもう一つの新しさは、国家と国家の間に債権者ー債務者の関係性を持ち込んだことにある。

当時も政府が外国から借金をすること自体は珍しいことではなかった。しかし、債権者は民間の個人投資家であるのが通常だった。鉄道事業などを対象としたイギリスの資本輸出(証券投資)はその典型だ。

*日本政府も鉄道建設や秩禄奉還者への就業資本供与(!)など、さまざまな事業についてロンドンの金融市場で発行した外債で調達している(日本銀行「戦前における外資導入について」)。日露戦争の戦費をロンドンとニューヨークの金融市場で発行した外債によって調達したことも有名だ。詳しくはこちら(渡辺利夫「高橋是清の日露戦争」)

この写真をどこから見つけてきたのか忘れてしまいました。思い出したら加筆します。

しかし、連合国がWW1の戦費を民間投資で賄うことができたかといえば、できなかったであろう。収益性が見込めないからである。

*イギリスはある程度は民間からの借金もしている。

WW1は当時の先進国同士の戦争である。「新興国が大活躍を始める」といった大きな希望を伴わない潰し合いのための戦争で、どちらが勝つとしても、その費用は基本的にはヨーロッパの破壊に用いられるのだ。

資金は必要だが、収益性は期待できない。それが、一般に戦費が同盟国間の補助金方式で融通されていた理由であり、連合国が民間のアメリカ人ではなく、アメリカ政府の援助を仰ぐことになった理由である。

計算づくだったとは思わないが、結果から見ると、「アメリカはこの状況を見事に利用した」ということになるだろう。

民間投資家なら決して資本を投下しない案件に「政治的同盟者」の顔で資金を提供し、すべてが終わった後、「投資家」の顔に変身する。

そうすることで、アメリカは、他国に対して、返済不可能な債務についての債権者であるという政治的にきわめて優越的な地位を(史上初めて)獲得したのである。

彼らは知った。
国家間債務は武器になる」と。

とはいえ、相手が自国を草刈場として見ていることが明らかなときに、返済困難な債務を背負い込もうとする国は少ないだろう(指導者がグルである場合は別である)。

しかし、(表向き)公益的な主体から、政治的ないし人道的支援として提供されるとしたらどうだろう。経済的に苦境にある国が、その申し出を断ることは決してないだろう。

アメリカはWW1の経験を通じて、ここまでのことを「知恵」として学んだかもしれない。

次回以降の話だが、このスキームは後に、途上国に対して支配的影響力を及ぼす手段として用いられていくことになるのである。

1914-1939の金融・経済事情

そういうわけで、WW1の戦債問題がかなり直接的に作用した結果、ポンドは沈下し、ドルが浮上した。

しかし、放蕩息子のアメリカは、「別に親父の跡なんか継ぐ気はないし」「まだまだ自分のことで精一杯だし」ということで、その責任を果たそうとはしない。その結果、金融を震源地として世界経済は混乱の一途を辿り、WW2を迎えるのである。

この間の出来事は再度の戦争を招いた大きな過ちとして記憶され、WW2後の秩序形成の際、「反面教師」として参照されることになる。戦債問題を含めて、箇条書きで整理し、次回以降に備えよう。

①国際金本位制崩壊

世界大戦が勃発してパニックに陥った各国は、金保有量と通貨量を連動させる金本位制の「ゲームのルール」を無視して金の抱え込みに走り、国際金本位制は崩壊した。

ケインズの伝記に、彼が1919年に「田舎暮らしの退屈を紛らわすため」に外国為替の投機を始めた旨の記載があり、金本位制の崩壊後まもなく為替変動を利用した投機が始まっていたことがわかる。ケインズは母親宛の手紙に次のように書いている。

「現在のシステムの長期的な継続が許されるとは思えません。特殊な知識と経験が少しあるだけで、お金が造作なく(かついかなる意味においても不当に)流れ込んでくるのですから」。

ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946  経済学者、思想家、ステーツマン』(日本経済新聞出版、2023)上・350頁

②ポンドの地位が低下し、ドルが急浮上

イギリスが純債務国に転落した一方、アメリカは純債務国から巨額の純債権国となっていち早く金本位制に復帰。ドルの地位が急浮上した。

*アメリカは1914年6月末時点では(大戦前)22億ドルの純債務国だったのが1919年末には64億ドルの純債権国に。イギリスについては数字がないが大戦前は少なくとも「トントン」であったのが大幅な純債務国に転落したようである。(以上につき、上川ほか・39-44頁[平岡賢司])

③多額の戦債または賠償金によりヨーロッパ各国が困窮に陥る

・イギリス、フランスを始めとする連合国はアメリカに対して約71億ドルの債務を負った(うち約37億ドルがイギリス、20億ドルがフランス)(いずれも休戦時)。

・ドイツは1320億マルク(約66億ドル)の賠償金を課された。

・復讐心に燃えるフランスはともかくイギリスはドイツへの過大な賠償金請求がヨーロッパの安定を損なうことを理解していた。

・それでも多額の賠償金を求めざるを得なかったのは、アメリカが戦時中の資金提供を債務として回収する立場を取ったことが理由である。

*連合国の対米債務と賠償金の額が概ね一致していることに注目していただきたい。

④基軸通貨がポンドとドルの2つに分裂

・貿易その他の国際取引に関してニューヨーク金融市場が急成長を遂げ、ロンドン金融市場と肩を並べるようになった。

*ただし、第三国間の貿易金融を中心に、全体としてはまだポンドに優位性があったとされる。

・基軸通貨と国際金融市場の分裂で、ロンドン、ニューヨークに加えベルリン、パリなどの主要国の金融市場を激しく移動する「ホット・マネー」が発生。システムの不安定化が進んだ。

⑤再建金本位制の下でドルの存在感が上昇

・アメリカに続いてイギリスが金本位制に復帰(1925)。再建金本位制の時代が始まる。

・なぜイギリスの復帰=再建金本位制なのかについては、山本栄治先生にご説明いただく。

再建国際金本位制は2極通貨体制だといっても、ポンドを中心に構成された国際通貨システムであり、ドルはそれを補完する役割を果たしていた。アメリカは巨額の資本輸出を行ったので、ドルは契約通貨や投資通貨の機能を獲得したが、その国際的信用制度はまだ世界システムに発展しておらず、ドルはグローバルな基軸通貨の地位を獲得してはいなかったのである。

他方、イギリスは資本輸出能力を低下させたことによって契約通貨や投資通貨の機能をドルと分割しなければならなかったが、その国際的信用制度はまだ世界システムであり続けていた。‥‥ここにイギリスが金本位制復帰しなければ国際金本位制が再建されたとは言えなかった理由があ(る。)

山本栄治『国際通貨システム』45-46頁

・イギリスの金本位制への復帰は(主観的には)世界の基軸通貨・金融センターの地位を回復するためであったが、早すぎる復帰それも過大評価された(WW1以前の)旧平価での復帰はイギリス経済に悪影響をもたらした。

*通貨の価値が過大評価されると、国内では外国製品の価格が下がるため需要が国内製品から外国製品にシフトし、国外では自国商品の値段が上がるので買われにくくなる。国際収支は悪化し、自国の産業にも大打撃。

・1927年にはポンド危機が発生。危機はニューヨーク連邦準備銀行の主導によって打開され、国際金本位制の維持がロンドン(イングランド銀行)ではなくニューヨークの政策に依存するようになったことを印象付けた。

⑥金融恐慌で金本位制瓦解。

・1929年ニューヨーク株式市場大暴落。国際金融恐慌に発展し、イギリスの金本位制離脱(31年)により再建金本位制は崩壊。

・金融恐慌は、企業活動の停滞、大量失業、世界貿易の縮小を招き、世界的規模の大不況をもたらした。

⑥不況下で、為替戦争(通貨切り下げ競争)・貿易戦争(ブロック化、関税障壁の導入)が激化危機は解消しないまま、第二次世界大戦

・各国は為替の切り下げや保護主義的措置(貿易障壁の導入)を駆使して、自国の景気回復を図った。

*為替を切り下げる(自国通貨の価値を下げる)と、国内では外国製品の値段が上がるため需要が外国商品から国内商品にシフトし、外国では自国商品の値段が下がるので買われやすくなり、国際収支が改善する。ちなみに1933年の時点で為替相場の切下げ率が最大だったのは日本で1929年(金本位制時代)の金平価と比べて57%の下落。

・どうにかこの状況を改善する(つまり、不況から脱出し、かつ相場の安定を図る)ため、1933年にロンドン経済会議が開催されたが、アメリカ(ルーズヴェルト大統領)の非協力的な姿勢により、会議は何も達成せずに終わる。

・この時期のアメリカの姿勢については、次のような評価が一般的。

1930年代の大不況期に基軸国が国際経済の安定に寄与する可能性があったとすれば、自由主義的な通商政策や拡張的マクロ経済政策によって商品輸入を拡大するか、もしくは資本輸出を再開して、他の諸国の国際収支上の困難を緩和させること」であり、「その可能性を持っていたのはアメリカしかなかった。ところがアメリカは、‥‥国際通貨システムの安定よりも自国の景気回復を優先させる行動をとった。

石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』86頁

・その結果、世界経済は、ポンド・ブロック、ドル・ブロック、金ブロック、ドイツ広域経済圏、円ブロックに分裂。互いにブロック内の関税を下げブロック外の国に高関税を課する「保護主義=近隣窮乏化」政策を展開して恐慌を深化・長期化させ、第二次世界大戦に突入。

*金ブロックは金本位制を堅持する国々。中核はフランス、スイス、ベルギー、オランダ、イタリア、ルクセンブルク

保護主義アレルギーについて

この時期に、各国が通貨切り下げや関税障壁により自国経済のみを保護する「保護主義」的政策を取ったことが、恐慌を長引かせ、戦争の要因になったことは事実である。

欧米各国の「保護主義」アレルギーはここから来ているのだが、しかし、この時期の経験が、あらゆる状況の下で自由貿易主義を正当化し、保護主義を不当とするものでないことは明らかだと思う。 

イギリスは1651年以来の航海法によって自国の海運と貿易を保護していた(イギリスがオランダを抜いて海運と貿易の覇者となり、通貨覇権を担うに至ったのはこのためといってよい)。これが廃止されるのは、1849年である。

フランス、ドイツ、アメリカも、19世紀のいわゆる産業革命の最中には高関税によって自国の産業育成を図っていた。日本だってそうだ。これらの国が経済発展を達成できたのは、保護政策によって十分な体力を付けていたからなのだ。

1930年代の大恐慌時の「保護主義」が不毛であったのは、それが自国産業の成長や貿易拡大のためのものでなく、単に他国の足を引っ張るためのものだったからである。

「このような為替戦争や貿易戦争は、貿易相手国を犠牲にして自国の景気回復を図ろうとする近隣窮乏化政策であり、また輸出を増大させることよりも輸入を減少させることによって国際収支の改善を図ろうとするものであった。その結果、国際貿易は物価の大幅な下落の影響も加わって急減した。」(山本栄治『国際通貨システム』61頁)

自国経済の健全な発展のために、一定の保護が必要になる場面は間違いなく存在する。それを無視して、自由貿易主義を言い募ることで、世界がどんな悪影響を被ったかは、次回以降に見ていくことになると思う。

まとめ

  • ポンド低落の要因は、いわゆる戦債問題(多額の対米債務)である。
  • 戦債問題」は、アメリカが戦争のための物資・資金援助を民間債務と同様に扱ったことによって発生した新たな現象である。
  • このときアメリカが開発した「政治的・人道的支援の顔をした返済困難な国家間債務」という武器は、爾後、他国に支配的な影響力を及ぼすために利用されていく。
  • 基軸通貨が分裂する不安定な体制の下、NY発の金融恐慌が世界規模の大不況に発展する。
  • 唯一の実力者であるアメリカを含む各国が保護主義=近隣窮乏化策(経済戦争)を展開して不況を深化・長期化させ、第二次世界大戦に突入。

主な参考文献

  • 山本栄治『国際通貨システム』岩波書店 1997
  • 上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』有斐閣 2007
  • 石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』有斐閣 1995
  • 加藤栄一「賠償・戦債問題」宇野弘蔵監修『講座 帝国主義の研究 2 世界経済』青木書店 1975
  • ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ1883-1946 上』日本経済新聞出版 2023
  • Michael Hudson, Super Imperialism, Second Edition, Pluto Press 2003
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基軸通貨ドル

基軸通貨の誕生
-ポンドの場合-

はじめに

自分がこれまでどんな世界に暮らしてきたのかを知るためには、ドルが基軸通貨であるということの意味をよくよく理解する必要があるらしい、という認識に至り、覚悟を決めて勉強した。

するとあら不思議(?)、第一次世界大戦のあたりからウクライナ危機まで、何となくよくわからないと感じていた歴史の流れが全部わかっちゃったのだ。

金融秩序の変遷などという項目は、普通の世界史教科書の項目には入っていないし、社会科学各分野の専門家はもちろん、国際政治の専門家ですらみんなが知っているというわけではないだろう。しかし‥‥

国際政治経済において権力は、安全保障を管理できる人びとの手にある。また、生産による富の創造を統制している人びとによっても握られている。しかし、これまで述べてきたような安全保障構造と生産構造と並んで、そのどちらとも重要性はいささかも劣らないものとして、金融構造は重要な位置を占めている。

スーザン・ストレンジ(西川潤・佐藤元彦訳)『国家と市場』(ちくま学芸文庫、2020年)205頁(原著は1988年)

戦争や外交(安全保障)、物質的豊かさ(生産)が歴史が始まって以来の関心事であるのに対し、金融秩序における覇権という現象は、それ自体、19世紀の終わり頃になって初めて現れたものである。

ジョン・ロックもルソーもそれを論じていないし、アダム・スミスだってマルクスだって論じていない。

しかし、イギリスを中心とするヨーロッパからアメリカへ、核家族から核家族へ覇権が移行し強化されていく過程は、通貨覇権という現象とともにあった。

*英語ではmonetary hegemonyというのが一般的なようです。

今回勉強するまで私はまったく知らなかったが、19世紀末から現代、とりわけ1940年代から現代の特異な在り方は、かなりの部分、通貨覇権という現象と関わりがあるようなのだ。

基軸通貨ドルー私たちはどんな世界に暮らしてきたのか」というタイトルで始めるこの連載は、第二次世界大戦頃から現在までのドルの覇権がテーマである。

ただ、通貨覇権の基本構造を知り、ドル覇権の特性を知るために、先代の基軸通貨であるポンドのことを知る必要があるので、その限度で歴史を遡る。

というわけで、今回のテーマはポンド。
通貨覇権の誕生である。

基軸通貨とは何か

まず、基軸通貨とは何か。いろいろ調べてみたが「基軸通貨」という言葉に明確な定義はないらしい。

一般的には、国際取引の決済などに主に用いられ、国際金融や決済(為替)システムの要となっている通貨のことを基軸通貨と呼ぶようだ。

この連載でもその意味で用いる。

*「為替」という言葉はわかりにくくてなるべく使いたくないのだが、使わないのも不自然なのでカッコがきで使うことにする。また外国為替市場(外国通貨を売買する市場)については一般的な用語なのでそのまま使う。これらの言葉のわかりにくさについては、こちら(↓)をご覧ください。

ポンドが基軸通貨になるまで

(1)イギリスは世界貿易の中心地だった

近代化後の世界に初めて生まれた基軸通貨がポンドである。

*もって回った言い方をするのは、世界のグローバル化の先駆けであるモンゴル帝国の時代に銀本位制の通貨が基軸通貨として通用していたように思われるからである(そのうち書きます)。

イギリスの地に基軸通貨が誕生した理由は明快で、イギリスが世界貿易の中心地となっていたからである。

世界貿易で先行したのはオランダ。しかしイギリスは18世紀には毛織物貿易や海運でオランダをしのぎ、19世紀には産業革命による「世界の工場」化と交通・通信革命の効果として、多角的な貿易機構の中心地としての地位を確たるものとした、というのが教科書的な説明である。

*「多角的」はこれまで私の語彙にはなかったが、この領域で非常によく使われる形容詞(multilateralの訳と思われる)なのでこの先もちょいちょい使うかもしれない。この文脈では「二者間に限定されない多方面の」というような意味だが、経済のブロック化へのアンチとして使われることも多い。

インドはわがために綿花を作り、オーストラリアはわがために羊毛を剪り、ブラジルはわがために香り高き珈琲をつくる。……世界はわが農園、イギリスは世界の工場(workshop of the world)

と、こんなことを言った人がいたというが、その言葉の通り、繊維産業を主力とするイギリスの経済発展には、自国製品の輸出だけでなく、原料の輸入が不可欠だった。そして、もちろん、イギリスはお茶やコーヒー、砂糖などの輸入品を大量に購入し、物質的な豊かさを堪能した。

大事なことは、イギリス経済の豊かさは当初から輸出と輸入の両方によって成り立っていたということである。

輸出ばかりしていたわけでも輸入ばかりしていたわけでもなく、双方から成り立つ貿易システムの全体がイギリスの繁栄に不可欠だった。

だからこそ、イギリスは世界貿易の要となったのだ。

*なお、イギリスは悪名高い大西洋三角貿易(奴隷貿易)の拠点でもあったが19世紀には下火になっている。

(2)基軸通貨ポンド

世界貿易の中心地が世界金融の中心地となるのは道理といえる。

ロンドンではマーチャントバンカーと呼ばれる人々が先駆けとなり、ロンドン宛貿易手形の引受(短期の信用供与→要するに決済のための一時的なおかねの融通)サービスが普及した。

*マーチャント・バンカーとは、ロスチャイルド商会、ベアリング商会、モルガン商会などの(元は個人の)国際金融業者。世界大百科事典によると「19世紀初頭、ナポレオン戦争の終結とイギリス産業革命の進展を背景に、ロンドンが国際金融の中心となろうとするころ、有力な貿易商人であるヨーロッパ大陸(とくにドイツ)の富豪たちが来住し、その資力と名声をもとに上記の金融業務を開始したことに起源を持つ。」

*貿易手形の引受とは? これは現代の貿易手形のサンプル(↓)。貿易においては輸出業者が海外の輸入業者から支払いを受ける必要があるが、その決済業務を輸出業者・輸入業者それぞれの取引銀行が代行する。下は輸出業者(Export Handel NV)が取引銀行(Commerzbank AG)に(本来は輸入業者が支払うはずの)代金の支払いを依頼する書類(為替手形)。Commerzbank AGはこの為替手形を買い取ってDrawee(支払人)としてExport Handel NVに対する支払を引受け(=一時的に貸し付け(信用供与))、代金を輸入業者の銀行を通じて回収する。このケースでは輸入業者の信用状を発行しているのもCommerzbank AGなので、同銀行が輸入業者の取引銀行を兼ねていることが分かる(話が早いですね)。

このサービスが便利なので、世界の貿易業者は、イギリスとの貿易はもちろん、それ以外の国との貿易でも、ロンドンの銀行宛の貿易手形による決済を行うようになった。手形はもちろんポンド建てである。

世界中の人々がポンドを使って取引をする。
基軸通貨ポンドの誕生である。

第一次世界大戦よりも前のポンド紙幣ってこんな感じらしい。
https://www.bankofengland.co.uk/banknotes/withdrawn-banknotes

(3)「世界の銀行」

世界中の貿易業者が、決済をロンドン宛の貿易手形で行うようになるということは、主に次の2つのことを意味する。

一つは、すべての決済がポンドで行われるようになること(すでに書いた)。

もう一つは、貿易に従事したり、国際決済を必要とする世界中の人々がみんな、ロンドンの銀行に預金口座を持つようになるということである。

*日本国内で企業や個人事業主が手形・小切手の決済を行うときは(事業用の決済口座である)当座預金口座を用いるのが普通だが、これと同様に、国際決済が必要な企業や個人事業主は、当座預金口座に相当するものをロンドンに持つことになったのだ。

要するに、世界中からおかねが集まるのだ(この場合、支払いのための一時的な預金(短期資金))。

世界中からおかねがロンドンの金融機関に集まると、ロンドンの金融機関の信用は高まる。こうした場合、金融機関のやることは一つ。

貸付である。

おかねとは何か」で書いたが、貸付とは、信用に元手におかねを作り出すことにほかならない。

その意味するところの大きさについて、スーザン・ストレンジさんに補足していただこう(雰囲気を読んでいただければOKです)。

信用をつくり出す権力とは、他の人びとに今日消費を行い、明日その分の埋めあわせをする可能性を与えたり、否定したりする権力を意味する。この権力はまた、他の人びとに購買力を与え、それによって生産物にとっての市場を生み出す力を意味している。また、信用はそれを通じて与えられる通貨の管理を行い、他の通貨によって与えられている信用の交換レートに影響を及ぼす権力をも意味している。

ストレンジ・前出205頁

このとき、イギリスは文字通り、「世界の銀行」として、世界に通用するおかねを作り出し、人びとに消費の可能性を与えまたは否定し、市場を生み出し、通貨の管理を行い、他国通貨との交換レートに影響を及ぼす権力を手にしたのである。

通貨覇権の誕生

(1)気づいたら覇権国

ところで、ポンドが基軸通貨となり、イギリスが「世界の銀行」の地位に着いたのは、何というか、ただのなりゆきである。

イギリスとしては、狙って取りにいったわけではないし、こういうものを欲しいと漠然と思っていたということですらないだろう。

しかし、現実に世界の金融秩序がイギリスを中心に回り始めた以上、イギリスが相応の役割を果たさなければ、世界経済に支障が生じてしまう。

世界にはいつのまにか金融覇権ないし通貨覇権というべき巨大な権力が生まれていた。イギリスは気づいたときにはその地位にあり、重い責任を担っていたのである。

同時代に生き、事態の大きさに気づいたバジョットという人はつぎのように書いている。

現在ではロンドンは諸外国に対する手形交換所であるから、ロンドンは諸外国に対して新しい責任を有している。どういうところであろうとも、多数の人々がそこで支払をしなければならないならば、これらの人々はそこに資金を保有しなければならない。ロンドンにおける外国資金の大量的預金は、今や世界商業にとって欠くべからざるものになる。

W. バジョット『ロンバード街』(岩波書店、1941年)45頁(原著は1873年)(山本・14-15頁からの孫引きです)
Norman Hirst によるバジョットの肖像画

(2)通貨覇権国の責務

このとき、イギリスがいつの間にか負担していた責務とは何か。以下の3つが挙げられると思う。

  ①ポンドの供給
  ②ポンドの信用維持
  ③各国通貨との交換レート(為替レート)の安定

①ポンドの供給

まずはポンドの供給だ。ポンドが世界の基軸通貨である以上、世界経済の発展のためには、世界にポンドが潤沢に出回る必要がある。

この点は、私が勉強していて「ほほう。なるほど」と感じた点で、通貨覇権国の財政を理解するために重要なポイントだと思う。

イギリスの銀行は貸付を行うことによってポンドをつくることができるが、そのポンドが世界に流通するルートはつぎの2つしかない(無償で配ってもよいのだが彼らはそういうことはしないので)。

 ①イギリス国民が海外の製品・サービスを買う
 ②イギリス国民が海外に投資する

後で見るように、イギリスの貿易収支はつねに赤字であり、通貨覇権国となってからは海外投資(資本輸出)が生命線となっていく。「赤字なのに投資で儲けて補うなんて・・(ずるい?)」と感じる人も多いだろう(私だ)。

しかし、現に世界はポンドを必要としており、世界にポンドを供給できるのはイギリスだけなのだ。

おそらく、通貨覇権国である限り、貿易赤字を投資による収益が補うような収支構造になっていくのは(ある程度)必然的であり、そのこと自体は問題ではないのである。

また、産業競争力の低下についても同じことがいえる。

通貨覇権国は、当初はその圧倒的な競争力によって覇権を得るのだが、その力はやがて低下し、せいぜい数ある先進国の中の一つという感じになっていく。

イギリス、アメリカに共通するこの現象も、やはり(ある程度)必然的であり、それ自体は問題とはいえない。

彼らが積極的に海外との貿易や海外投資を行えば、諸外国も相応に成長を遂げていくはずであり、それはむしろ望ましいことなのだから。

②ポンドの信用維持
③為替(通貨交換)レートの安定

一方で、彼らの貿易収支や投資行動、経済的パフォーマンスがどんな状態であっても構わないというわけではもちろんない。

いまや、ポンドを支えている彼らの信用は、基軸通貨を通じて世界の金融秩序を支えている。イギリスの経済的信用が失われるような事態になれば、基軸通貨の信用や為替レートの安定性は損なわれ、直ちに世界経済に波及してしまうのだ。

したがって、問題は、おそらく、赤字の程度であり、投資の質であり、また投資による利潤と実体経済とのバランスである。

要するに、それらがポンドの信用を脅かすことがなく、世界経済の健全な発展に資するような内実を持つものかどうかが問題なのだ。

(3)通貨覇権国の特権

責務の方を先に書いたが、彼らの責任は、彼らがそれだけの特権を持っていることの裏返しでもある。

世界の銀行であるということは、世界中からおかねが集まってきて、その信用を元手におかねを作り、世界中の事業に投資することができるということである。

自分で働かなくても、投資による利子・配当によって利益を得ていくことができるというのだから、これが大変な特権であることは疑いない。

実際、資本輸出(投資)による利子・配当収入は、国内産業の競争力が低下した後のイギリス経済を長く支えていくことになったのだ。

ポンド覇権下の金融システム

私たちの主な関心事であるドル覇権についてみると、いま現在、ドルの信用はかなり危うい。そして、だいぶ前から、通貨交換レート(為替レート)が日々上がったり下がったりするのは日常茶飯事だ(だからFXで儲けたりできる)。

*FXはforeign exchangeの略で、この文脈では外国為替証拠金取引のことを指す。

ポンドが覇権にあった時代はどうだったのであろうか。

(1)通貨交換レート(為替レート)は安定していた

ポンドの時代は、国際金本位制(1880-1914)の時代と同視される。

国際金本位制といっても、国際機関で話し合って制度化したというわけではなく、基軸通貨であるポンドが金本位制を採用していたので、他の国々もそれに合わせて金本位制を採用した結果、そのような体制ができあがったというだけであるが、とにかくこの時代のことをそう呼ぶ。

*ポンドとの交換レートが安定すれば、貿易や投資を呼び込みやすいというのが主な理由で、1870年代末までにヨーロッパの主要国すべてが金本位制に移行した(日本は1897年)。

通貨交換レート(為替レート)についていうと、みんなが金本位制を取っているということは、実際上、固定相場制が採用されているのと同じである。

*例えば、イギリスが金1オンス=4ポンドを平価(交換比率)とし、アメリカが金1オンス20ドルを平価としていた場合、ポンドのドルに対する交換レートが1ポンド=5ドルに固定されているのと同じことになる。

もちろん、みんなで話し合って決めたわけではないので、各国が自分の判断で金に対する平価(交換比率)を変更することは可能であったし、金本位制の「ゲームのルール」を守らないことも可能であった。

*金本位制の「ゲームのルール」: 保有する金の量に合わせて自国通貨の供給量を調整すること。この言葉を普及させたケインズは、(通貨量に対して?)「大量の金を獲得することもなく、また喪失することもなく管理すること」という言い方をしたという。

しかし、この期間においては、イギリスはもちろん、他にもそうしたことを(少なくとも大々的に)行う国はなく、みんなが国際金本位制=固定相場制の維持に協力していたようだ。

なぜ各国が金本位制を採用し、またそのルールを遵守していたのかといえば、通貨交換レート(為替レート)の安定は各国にとっての利益であったからである。

イギリスの後を追う国々にとっては、産業の発展のために、イギリスから機械や鉄道を買い、資本を輸入する(投資してもらう)ことが必要だった。

貿易の中心地であり世界の銀行であるイギリスにとっては、多くの国にイギリスを中心とする多角的貿易機構および決済機構に参加してもらい、物とおかねの自由な移動を確保することが何より望ましかった。

現代では忘れがちな単純な真実だが、日常的に物とおかねをやりとりする間柄である以上、通貨の交換レートは安定していた方がいい。本当なら、同じおかねを使いたいくらいだ。

商品やサービスの価値と無関係の事情で損をしたり得をしたり。そんなことがしょっちゅう起こるようでは、安心して生産に取り組み、商売を行うことなんかできなくなってしまうではないか。

 *今はまさにそういう世界ですが‥‥

そういうわけで、現在の先進国が世界貿易と資本移動を通じた経済発展の只中にあった当時、ポンドの覇権の下で、通貨交換レート(為替レート)は安定していたのである。

(2)イギリス経済は堅調で、ポンドの信用はゆるがなかった

ポンドの信用を支えているのは、イギリス経済の信用である。

すでに述べたように、外国製品の輸入や投資によって世界にポンドを供給するのは通貨覇権国イギリスの責務であって、多少の赤字や、貿易赤字を投資収入で埋め合わせるような構造は問題ではない。

問題は、おそらく、赤字の程度であり、投資の質であり、また投資による利潤と実体経済とのバランスである。

ということで、1880-1914のイギリス経済について、この点を確認しておこう。

拡大する貿易赤字を投資収益が埋める

国際金本位制が確立した頃、貿易立国としてのイギリスはすでに盛りを過ぎていた。

次の表をご覧いただきたい(面倒な方は見なくても構いません)。 

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11172226&contentNo=1(富田ほか)

輸出入の双方に積極的だったイギリスの貿易収支は最初から赤字(輸入超過)なのだが、経常収支は一貫して黒字である。

当初、貿易赤字を埋めていたのは、貿易にまつわるサービス収支(海運や保険)だった。 

*このサービス収支の黒字はまさにイギリスが世界貿易の要であったことによるものだ。

貿易赤字は一貫して拡大傾向だが、とくに1870年代の後半からが顕著であり、理由としては、工業でイギリスを追い上げていたアメリカ、ドイツ、フランスが自国の産業保護のために輸入品に高い関税をかけたことでこれらの国への輸出が停滞したこと、交通・運輸と食品加工技術の発達で安い農畜産物が大量流入したことなどが挙げられている。

しかしそれ以降も経常収支は黒字で、黒字幅はむしろ大きくなっている。数字を見れば一目瞭然。サービス収支とともにこの時期の国際収支を支えたのは投資収益なのである。

イギリスの資本輸出

「投資によって収益を得る」というとそれだけで悪い人が暴利を貪るような印象をお持ちの方もいると思うが(私ですが)、この時期の投資はまだ比較的健全だった(現在も健全な投資はある)。

終わり頃になると個別企業への株式投資という形態が普及してくるが、それ以前はもっぱら鉄道などの公共事業への長期投資である(↓下の図を参照)。

株式や通貨の短期的な売買を繰り返して利益を得るようなタイプの投資とは質的に異なっていたのだ。

*具体的なやり方はこんな感じ
①イギリスの銀行が外国政府や鉄道会社からの請負で債券(国債や鉄道債)を発行する(銀行は手数料などの収入を得る)。
②イギリスの投資家がそれを買う。
③投資家は債券を長く保有し、利子や配当によって利益を得る。

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11172226&contentNo=1 
労作!ありがたい(富田ほか)

実体経済と投資のバランス

量的に見ても、当時の資本輸出(海外投資)は外国為替市場のごく一部にすぎなかった。

当時の外国為替市場で行われていた通貨の売買は、ほとんどが商品の貿易に伴うもので、資本輸出額は商品貿易額の10分の1程度に過ぎなかったという(山本・22頁)。

イギリスは貿易赤字の補填を資本輸出に頼っていたが、取引の規模においては商品の売買(貿易)が圧倒的で、海外投資のせいで為替市場が混乱するというような状況ではおよそなかったのである。

(おまけ)現在の外国為替市場

ちなみに、現在の外国為替市場がどんなことになっているかご存じであろうか。

現在の外国為替市場で行われる通貨の売買のうち、貿易やサービスの輸出入、直接投資などの実需に伴う売買は全体の約1割程度にとどまっているという(↓)。

外国為替取引には、輸出入などの実需取引から派生する取引と、国家間における金融資産の売買や投機的な売買などの資本取引から派生する取引がある。2018年末時点では、資本取引に派生する取引が全体の約9割を占める。

みずほ証券×一橋大学 ファイナンス用語集

*なお、資本取引であっても直接投資(経営への実質的関与を伴うもの)は実需側にカウントするようだが、この時期のイギリスの資本輸出は主に(上述のような)国債や鉄道債の購入という形態だったようなので、多くは「資本取引に派生する取引」の側だと思われる。

直接投資と間接投資の区別については、ブリタニカの説明がわかりやすかったので一部引用させていただく(以下「直接投資」)。

経営参加を目的として株式を購入したり、現地の既存企業を買収したり、新たに工場を建設したりする投資をさす。一方、値上がり益や利子・配当所得を目指した証券の購入が間接投資である。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版 2016

2007年の調査だが、実際の数字を入れたつぎのような説明もある。

世界の主要な外国為替市場における取引総額は2007年の調査によると1日あたり約3兆2,100億ドルに達しているが、同年の世界の貿易総額(輸出ベース)は約13兆8,208億ドルであるから、貿易にともなって必要になる外為取引だけなら4~5日分で済むということになる。

金井ほか・221頁

貿易以外の「実需」(サービスや直接投資)は2~3日分だそうなので、全部合わせても約1週間。

つまり、世界中で日々行われている外為取引の圧倒的大部分は、必ずしも実際に外貨が必要なわけではないのに行われているということなのである。

金井ほか・221頁

しかも、全体の9割にあたるとされる「資本取引に派生する取引」のほとんどは、ヘッジファンドなどによる投機的な短期投資だという。要するに、現在の為替相場(通貨交換相場)を動かしているのは、実体経済というより、投機的参加者の思惑なのである。

*こちらのサイトに引用されている池田雄之輔『円安シナリオの落とし穴』(日経プレミアシリーズ、2013)からの情報です。 

「すごい」と思ってイメージ図を作ってみた。左がポンド覇権の下での外国為替市場、右がドル覇権の現在だ(資本輸出の比率は適当です)。

スーザン・ストレンジの言葉の通り、通貨覇権国は、自国通貨(基軸通貨)を管理し、他の通貨との交換レートにも影響を及ぼす。

イギリスが管理をしていたのは紛れもなく世界の商取引のための市場であった。しかし、現在、アメリカが管理している市場は、ほとんど賭博場である。

世界貿易のための市場がカジノに変わるまでに何があり、この世界がどう変化したのか。

それを追っていくのが次回からのテーマということになるのかもしれない。

まとめ

  • 世界貿易の中心地イギリスに発達した国際決済サービス(ポンド建て)を通じ、ポンドが基軸通貨の地位を獲得した。
  • イギリスは、世界中から集まるおかねに基づく信用により「世界の銀行」の地位を得た。
  • イギリスが得た主な特権は(信用を元手とした)資本輸出による利子・配当収入だった。
  • 国際金本位制の下、外国為替相場(通貨交換相場)は安定し、世界経済の発展に役立った。
  • 当時の外国為替取引の大部分は貿易に伴うもので、資本輸出はその10分の1程度にとどまっていた。
  • その資本輸出も長期投資が中心堅実なものであり、相場を撹乱する要因となることはなかった。

主な参考文献

  • 山本栄治『国際通貨システム』岩波書店 1997
  • 上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』有斐閣 2007
  • 金井雄一・中西聡・福沢直樹『世界経済の歴史』名古屋大学出版会 2010
  • 石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』有斐閣 1995
  • 西村陽造・佐久間浩司『新・国際金融のしくみ』有斐閣 2020
  • 奥田宏司・代田純・櫻井公人『深く学べる国際金融』法律文化社 2020
  • 秋田茂『イギリス帝国の歴史』中公新書 2012
  • ミシェル・ボー『増補新版 資本主義の世界史』藤原書店 2015
  • 富田俊基・篠原照明・永戸一彦・山本美樹子「19世紀イギリスの資本輸出」大蔵省財政金融研究所「ファイナンシャル・レビュー」March-1987

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