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ドイツ(3)
-ドイツ的メンタリティの誕生-

直系家族の成立

トッドの研究によると、ドイツで直系家族の浸透が始まるのは11世紀から13世紀である。西フランク王国(フランス)のカペー朝の下で10世紀末に直系家族が生まれ、ドイツでは農民層の間に遺産の不分割(単独相続)が広がる。そのせいで、貴族階級の間で一時的に遺産の分割が活発化するという現象が起こり、所領の細分化をもたらすが、13世紀には不分割原則が広く受け入れられていく(『家族システムの起源 I ユーラシア』(下 597頁以下)。

その過程で起きたことを具体的に見ていこう。

(1)人口増加

直系家族は「満員の時代」に生成する。そこで、まず人口について見ると、ドイツでは11世紀以降に人口の急増が起きたことが確認されている。

1000年頃にドイツとスカンディナヴィア半島には約400万人しか住んでいなかったといわれている。しかし11世紀以後人口は急速に増加し、14世紀には1150万人にのぼっている。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』21-22頁

人口の増加は、農業生産の増大と連動するのが通常であるが、この点については次のようにある。

これほどの増加は穀物生産の飛躍的な増大がなければ考えられない。実際、11・12世紀には各地で未耕地が開墾され、湿地帯も耕地となり、耕作面積は増大していた。初期中世には小集落でしかなかったところもこの頃には村としての体裁を整え始めていた。‥‥この頃にニ圃制の耕地のほとんどが三圃制に転換され、収量は飛躍的に増加した。鍬の改造や馬の引き具の改造もそれを促進していた。

阿部・22頁

人口が増え、開墾が進み、土地が不足する「満員の時代」。それこそが、直系家族誕生のタイミングである。果たして、ドイツでは、それを裏付けるかのように、植民そして十字軍遠征が始まるのだ。

(2)「ドイツ人の東方植民」

なぜ植民が直系家族の指標になるかというと、植民の活発化は、土地の不足とともに、家から排除された次男坊、三男坊の存在を推測させるためである。

直系家族が成立すると、土地を与えられない兄弟は、新たな活躍の場所を求めて、植民にでたり、傭兵になったり、十字軍に参加したりするものなのだ。

一般に「ドイツ人の東方植民」と呼ばれる動きは、12世紀から14世紀に起きている。開拓・開墾の活発化自体は全ヨーロッパ的な動きであったというが(坂井栄八郎『ドイツ史10講』52頁、阿部 22頁)、植民という点でドイツの動きが目立つのは、ドイツに直系家族が浸透したことの現れといえるだろう。

ドイツ人はエルベ川を越えて東方に活発な植民活動を行ない、エルベ川からその東のオーダー川へ、そしてさらに東のスラヴ人居住地域に進出して、この北東ヨーロッパを大きく「ドイツ化」してしまったのである。

坂井・52頁

(3)十字軍

十字軍が直系家族浸透の指標であることについては、トッドが次のように書いている。

数次にわたる十字軍という、弟たちが各地に四散していく動きは、〔土地のー筆者注〕不分割というものが大陸の西から東へと伝播普及していくさまを示すかなり確実な指標である。

第1回十字軍(1096-99)の主要な出発点ーということはつまり、参加者が募られた地点ーはフランスであった。三つの軍隊がそれぞれフランスの北部、中部および南部から出発した。四つめの軍隊はノルマン人の指揮の下、イタリア南部で移動を開始した。

しかし半世紀後の第2回十字軍(1147-48)では、フランス人と並んでドイツ人が登場する。この騎士たちの参加に見られるずれは、ドイツ人の帝国と比較してみれば、フランス王国とノルマンディ公国において、貴族の直系家族がきわめて早期に形成されたことの結果であると考えるべきではないか。

『家族システムの起源 I ユーラシア』(下 602-603頁)

そういうわけで、フランス・ノルマンディの貴族には一歩遅れたものの、直系家族はどこよりもドイツにおいて順調に根を下ろし、第2回(1147-48)、第3回十字軍(1189)に主力として参加する。

そして、大変興味深いことには、この十字軍とともに、大規模なユダヤ人迫害が起きているのである。

(4)ユダヤ人迫害

大変微妙な話題であることは承知しているが、科学者として、ズケズケと話を進めることをお許しいただきたい。

ドイツにおけるユダヤ人迫害は、第1次十字軍のときに始まり、ユダヤ人の村の襲撃、虐殺は「やがて‥‥日常的に行われるように」なっていったという。

ライン河岸の都市では激しいユダヤ人迫害が起こり、多くのユダヤ人が東ヨーロッパに逃亡した。1096年にはシュバイエル郊外で十字軍兵士がユダヤ人のシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝場)を襲撃し、ヴォルムスでもユダヤ人が襲撃された。‥‥

こうして1215年のラテラノ公会議ではユダヤ人に印を付けさせるという差別的な規則が制定されたのである。

阿部・33-34頁

ちなみに、ドイツではペストが大流行した14世紀(1348-52)にも、大量殺戮を含む激しい迫害が起きている。

ユダヤ人迫害はドイツだけの現象ではない。イギリスでも、フランスでも、他のヨーロッパ諸国でも起きている。しかし、簡単に手に入る情報をざっと見る限り、大陸では、ドイツ、フランス南部、ライン川沿いのスイス、オーストリアなどの直系家族地域がその中心であるように見える。

20世紀まで視野に入れれば、これをドイツおよび大陸の直系家族地域にとくに顕著な現象と考えることには合理性があると思えるので、そのような前提で話を進めさせていただくとすると、11世紀以降になって初めてユダヤ人迫害という現象が起きているという事実は、「直系家族の権威+キリスト教の権威=ドイツ的メンタリティ」という仮説の例証の一つになりうると思う。

直系家族は、親子の権威的関係に加え、兄弟間の不平等が規範であることから、人間同士の間に差異を見出しがちである。要するに、差別という現象を引き起こしやすいということだ。

トッドは差別という現象に関して親子関係の「権威」を重視していないが、私は関係があると見ている。親子関係が自由な社会でも差別は起こる。しかし権威的な社会では差別は「規範」になってしまうのだ。

日本ももちろん例外ではなく‥‥これは説明の必要はないと思うが、部落差別とか、朝鮮・韓国系差別とか、技能実習生の不当な扱いとか、昔も今もいろいろとある。

そういうわけで、11世紀以降のドイツにユダヤ人差別が生じたことは、同時期の直系家族の浸透によって説明できる。

しかし、社会・経済的な諸条件を考え合わせても、単に直系家族が浸透したというだけでは、同地におけるユダヤ人迫害の激しさは説明できないと思われる。

ドイツにおいてユダヤ人差別がとりわけ激しい形態で発現し、しかも、その激しい迫害現象が歴史上たびたび繰り返されたのはなぜか。

その鍵を提供すると思われるのが、第1回で述べた仮説である。

直系家族システムの権威+キリスト教の権威=ドイツのメンタリティ

ドイツでは、直系家族の権威は、すでに存在していた一神教の神の権威の上に付加される形で成立した。

この「権威の過剰」が、差別を「神の規範」「どうしてもしなければならない行為」にまで高め、集団的な熱狂を生じさせてしまう‥‥というような感じの仕組みで、ドイツ史に「激しさ」を添加しているのではないだろうか。

個人の誕生?:「罪の告白」義務について

この時期におけるドイツのメンタリティの変化に大いに注目している日本人の研究者が私以外にもいる。すでにたびたび教えを乞うてきた阿部謹也さんである。

急に個人的なことを言わせてもらうと、阿部謹也さんは、私が10代の終わり頃から20代にかけて一番熱心に読み、その後も折々に接してきた数少ない著者の一人であった。

たぶん、日本社会に対する「?」という違和感の持ち方が共通していたのだと思う。社会を知れば知るほどその感が深まり、日本と西欧の違いをほとんど一生かけて探究する羽目になっている点も(思えば‥)まったく同じだ。

なので、今ここで阿部謹也さんと対話をしながら、阿部説と異なる私自身の解釈を提示できることが嬉しい。もうご本人に読んではもらえないけど(故人なので)、この解釈を阿部謹也さんの魂に捧げます。

(1)フーコー = 阿部 説

さて、その阿部謹也さんは、ドイツにおける心性の変化の時期を「12世紀」に特定し、この時期を「個人の誕生」の時期と位置付けている。

そして、その「個人」の原点を、キリスト教における「罪の告白」(告解)の義務に求めているのである。

信者が司祭に自ら犯した罪を告白する「罪の告白」は、神から許しを得るための秘蹟の一つとして古くからなされてきた行為だそうだが、12世紀になって広く関心を集め、1215年の第4回ラテラノ公会議(ちなみにユダヤ人に印をつけることを定めたのと同じもの)で、年に一度の告白が全信者の義務とされるに至った。

 いつから「秘蹟」と言われているのかは知りません

阿部謹也さんは、フーコーを引用して、次のように書いている。

この問題の重要性をM・フーコーは次のように説明している。

「個人としての人間は長いこと他の人間達に基準を求め、また他者との絆を顕示することで(家族、忠誠、庇護などの関係がそれだが)自己の存在を確認してきた。ところが、彼が自分自体について語りうるかあるいは語ることを余儀なくされている真実の言説によって、他人が彼を認証することになった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきたのである」(『知への意志』渡辺守章訳)

 ここにヨーロッパにおける個人のあり方の原点があり、この原点からヨーロッパにおける近代的個人が形成されてゆくのである。ここに日本とヨーロッパの個人のあり方の根本的な違いがある。

阿部・48頁

なるほど。

「罪の告白」の義務化によって、人々は、自分一人で司祭に向き合い、自分自身の罪について語ることを余儀なくされる。それまでは「○○の息子」「○○の従者」で済んでいたものが、他者、それも神の代理人である司祭に、自分が語る言葉の中身によって、自分という人間が認証される。

これが、フーコーによれば「権力による個人の形成」、阿部によれば「ヨーロッパにおける個人のあり方」の核心であり原点であるというのだが、果たしてそうか。

私の解釈は違う。

そもそも、12世紀になって「罪の告白」が関心を集め、義務化にまで至ったのはなぜだろう。

答えは明らかだと思う。直系家族がそれを求めたのだ。

(2)「直系家族の誕生」説

○教会刷新運動と直系家族

「罪の告白」の義務化は、(前回触れた教会刷新運動(11世紀-)の流れと関係があると思われる。

運動の中心であったクリュニー修道院やシトー派修道会があるブルゴーニュは、ドイツ語では「ブルグンド」。つまり、かつてのブルグンド王国であり、1032年以降、13世紀頃までは神聖ローマ帝国の支配下にあった場所である。 

https://sekaishi-gendaishi.com/archives/722

シトー派修道会はまた「ドイツの東方植民とも結びつき、大開墾時代をもたらした」ことでも知られている(*当時修道院は文化の中心で、農業技術改良の主要な舞台でもあった)。

すなわち、純粋な信仰の回復を目指す教会刷新運動は、人口増加、東方植民、十字軍、ユダヤ人迫害といった現象群と同じ土壌の上で起こったものであり、直系家族の生成と連動する運動であったことが強く推認されるのである。

○苦悩する直系家族ー十字架に架けられたキリスト

キリスト教がその教えの中心に「罪」の概念を据えたのは、「ルールなし」の原初的核家族の人々に「権威」を教えるのに有効だったからだと思われる。

自分たちの思う通りに行動するのが当然であった彼らは、全人類の罪を背負って十字架にかけられたキリストを見て、自分たちよりも「偉い」ものの存在、従うべき「権威」の存在を知る。

まっすぐに手を伸ばし、威厳のある姿で描かれたキリスト像を(↓)見て「何と立派な‥‥」と思う彼らは、キリストとその向こうにいる神に素朴に敬意を抱いたに違いない。

メッスの典礼書(870年頃) https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b53019391x/f22.image

しかし、「全人類の罪を背負って十字架に架けられたキリスト」などという脅迫的な存在が、直系家族の前に現れたらどうなるか。

直系家族システムに立脚する人々は「権威に従う」という態度を基本姿勢として身につけている。彼らは本来「権威」の存在を教わる必要のない人々なのだ。

12世紀、直系家族が浸透したドイツで、彼らは、自分たちの罪を償うために十字架に架けられたキリストを再発見する。

その背後に強大な一神教の神の存在を見て、彼らは悩むのだ。

「どうすれば正しく生きられるのか」
「どうすれば神に従ったことになるのか」

彼らが狂おしく希求した「正解」、それが「罪の告白」の義務化ではなかったか。

これも阿部謹也さんが指摘していることだが、この頃からキリストの姿は変化を見せる。

時代はだいぶ後だが、阿部謹也さんが「苦悩のイエスのイメージ」の「頂点」とするグリューネヴァルトの十字架像
https://www.researchgate.net/figure/Matthias-Gruenewald-The-Crucifixion-from-the-Isenheim-Altarpiece-1512-15-oil-on-panel_fig3_347976069

苦悩に顔を歪めるイエス。

これは、強大な一神教の神の権威に押し潰されそうになりながら、正しい行いを求めて苦悩する直系家族の内面の現れなのだ。

というのが私の仮説である。
いかがでしょうか。

・ ・ ・

たしかに「罪の告白」の義務というのは非常に過酷なものだ。とくに「権威に従わなければならない」と考える生真面目で自責的な人々にとっては。

阿部謹也さんは、おそらく、直系家族のメンタリティを共有するからこそ、「個人の内面を他人の前で語る」という行為の厳しさが「個人」を誕生させたと考え、そこに「日本とヨーロッパの個人の在り方の根本的な違い」を見た。

しかし、順序はおそらく逆であり、さらに、このとき誕生したのは「個人」ではない。原初的核家族仕様の神を持っていた地域に、権威主義の直系家族が誕生した。そのことによって「告白」の義務化などという、自虐的な事態が現出したのである。

地殻変動の開始ー直系家族率50%仮説

日本の場合、13世紀頃から直系家族が生成を始め、14-15世紀に「動乱」(南北朝の動乱、応仁の乱)の時期を迎えた。

ドイツの場合も、11-13世紀頃から直系家族の浸透が始まるが、宗教改革から三十年戦争に至る「動乱」期は16-17世紀に起こる。

とくにドイツについて私が手に入れられる情報が少ないので、あまり立ち入った検討をすることはできないのだが、ドイツの場合、14世紀にペストの大流行で人口がかなり減少しているので、これが地殻変動期の遅れにつながったことは考えられる。

もう一つ、考えられる仮説は、直系家族化の進行が遅かったということだろう(人口とも関連する)。

トッドは、日本で最近翻訳が出た『我々はどこから来て、今どこにいるのか?』の中で、家族システムの浸透過程を捉えるために「直系家族率」の考え方を導入することを提案している。

もしデータ上可能ならば、われわれは直系家族をほかのさまざまな量的連続変数ー識字化、出生率、プロテスタントの比率、宗教実践、キリスト教民主党への、社会民主党への、はたまた国家社会主義党への投票などーと同じように扱うべきなのだ。つまり、個々の国と、その国を構成する各地域に、年代ごとの直系家族率を付与すべきなのである。

『我々はどこからきて、今どこにいるのか?』上 247-8頁

ここで、トッドは「試しに、厳密には正当化できない数値を想定してみよう」と言って、ドイツについて数字を挙げている。

もちろん「試し」であって「厳密には正当化できない」ものだが、ヨーロッパについて研究し尽くしてきたトッドの「試し」であるから、参考にするくらいは許されよう。

それによると、ドイツの直系家族率は「1500年頃に‥40%、1800年頃には60%‥1870年頃には80%」である。

トッドはこの数値について、例えば「直系家族が40%ないし50%であれば、社会はダイナミックに機能するが、それが75%に達したり、それ以上になったりすると硬直する、というようなことが言える」のではないか、としているのだが、私はちょっと別のことを考える。

ヨーロッパや日本のように、その土地に根ざした家族システムが生まれる前に、借り物の権威によって建国した国の場合、「「地物」の家族システムが50%に達する頃に、システム改変のための動乱が起きる」、というようなことが言えるのではないか。

ちょうど、近代化革命に関する「ストーンの法則」と同様に、中世の動乱に関する法則が立てられるかもしれない、などと夢見るのである。

・ ・ ・

ともかく、ドイツでは、「これがシステム改変のための動乱だな」と私が思うものは、16世紀に始まる。そしてドイツの場合、それは宗教改革、三十年戦争という形を取るのである。

今日のまとめ

  • 人口増加、植民の活発化、十字軍はいずれも直系家族浸透の指標である。
  • キリスト教の権威を持つ人々が直系家族化したことで、ドイツ的メンタリティが生まれたと考えられる。
  • ユダヤ人迫害現象の開始およびその激しさは「直系家族+キリスト教=ドイツ的メンタリティ」仮説の例証かもしれない。
  • 「罪の告白」義務がドイツ的メンタリティを生んだという順番ではなく、直系家族化したキリスト教徒(=ドイツ的メンタリティ)が「罪の告白」の義務化を求めたと考えるのが合理的である。
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ドイツ(2)
-ドイツ史概観-

   

目次

建国:クローヴィスの洗礼 (496)

今回は、ドイツがキリスト教の権威を借りて建国するところから、皇帝の権威が低下し諸侯が優位を確立するところまで一気に行く。

ドイツは建国時にはフランク王国の一部であったので、建国の事情はフランスと同じである。

ゲルマンの民、フランク族の王クローヴィス(在位481-511)が496年にカトリックの洗礼を受け、カトリック王としての権威とローマ帝国貴族の支持(と行政能力)を獲得し、「異端からの解放」の大義の下に全フランクを統一した。

というくらいを思い出していただければOKである。

カール大帝:(皇帝+教会)の蜜月

まだフランスとドイツは一体の「フランク王国」であるが、そのフランク王国とローマ教会の関係はカール大帝(在位768-814)の時代にいっそう強まった。 

カールは、フランス、ドイツ、中部イタリアを支配下に収める帝国を築き上げ、領域内のゲルマン諸部族をローマ=カトリックに改宗させる。

名実ともに「西方キリスト教世界の王」となったカールに、教皇レオ3世(ハドリアヌス1世の次)は、ローマ皇帝の帝冠を与え、西ローマ帝国の復活を宣言するのである(800年)。

教皇がカールに戴冠した背景にあったのは、ローマ教会が、ビザンツ帝国下のコンスタンティノープル教会との対抗上、強力な政治勢力による保護を必要としていたという事情である。

カールの方としても、広大な帝国を維持し、その勢力を安定させるためには、キリスト教の権威と教会の組織力が不可欠であったので、教会と皇帝の利害は完全に一致し、両者は二人三脚で「教会国家」カロリング帝国を支えることになったのだった。

青がカール即位時、赤がカールが征服した領土、黄色がカールの勢力圏
(紫はビザンツ帝国領)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Empire_carolingien_768-811.jpg

 

神聖ローマ帝国(10世紀~)

(1)オットー1世:蜜月は続く

フランク王国は(まだ原初的核家族だったので)カールの死後に3つに分裂する。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vertrag-von-verdun_1-660x500_japref.png

そのうち、ドイツにつながる東フランクでは、10世紀初頭にカロリング家の血統が途絶え、諸侯の選挙で王が選ばれる選挙王制となる。

936年に選挙で選ばれて即位したオットー1世(在位936-973)が、962年にローマ皇帝の戴冠を受けたのが、いわゆる「神聖ローマ帝国」の始まりである。

ローマ皇帝の名の通り、オットーもまた、「西方キリスト教世界の王」というに相応しい存在だった。

彼は「当時東方から侵入を繰り返していたアジア系マジャール人を‥‥決定的に破ってキリスト教世界の防衛に大きな成果をあげ」「東方辺境のエルベ川中・上流に軍事植民地「辺境区」を設定してこれを辺境伯に託し、スラヴ系異教徒に対する防衛体制を固め」、そして「北方や東方、デンマークやスラヴ諸民族へのキリスト教布教にも努めた」。

そしてイタリア遠征を行ってイタリアの支配権を確立したオットーが、962年にローマで皇帝に戴冠した時、彼はまさに名実ともに「西方キリスト教会の指導者」だったのである。

坂井栄八郎『ドイツ史10講』(岩波新書、2003年)30−31頁

(2)諸侯との綱引きが始まり、教会との火種が生まれる(王国教会政策)

国内統治に教会組織を活用した点もカールと同じだが、オットーの場合には、「カールの時代のようにそれ以外に方法がなかったからというよりも、世俗の大貴族勢力〔「諸侯」ー筆者注〕に対する対抗勢力として、教会を意図的かつ積極的に利用した」(坂井・31頁)、ということらしい。

オットーは、分国の支配者(公)は自身で直接任命し、それより下のレベルの地方勢力については事実上世襲を認めていた。

しかし地方の支配者が世襲的にその地方権力を固めれば、それがとかく王権から離反する傾向をもつこともまた避けがたい。

坂井・31頁

そこで、オットーは、教会組織を「王国教会」と位置付けて手厚く保護し、国の統治機構の一部とすることで、地方権力(諸侯)の離反を防ぐための重しとしたのである。

もちろん、皇帝が教会の保護を続けると、教会そのものが大きな権力を持つようになるのだが、

世俗諸侯と違って結婚しない聖職者に世襲はない

坂井・31頁

「だから任免権さえ握っていれば大丈夫」と、オットーをはじめとする歴代皇帝は(多分)思っていたのだが、長い目で見ると、そうは問屋が卸さなかったのである。

 これが聖職叙任権ですね!

「世襲はない」といってもローマ教会の聖職者はみな広い意味では親族のようなものだから、「保護」(具体的には土地の寄進や特権の付与など)を続ければ、教会組織全体の権力が肥大していくことは避けられない。

教会が皇帝の庇護を必要としなくなったときが、皇帝と教会の「蜜月」が終わるときである。教会と皇帝の間には紛争が発生し「地物」諸侯に付けいる隙を与えていくだろう。

叙任権闘争

(1)教皇 VS 皇帝

11世紀、ローマ教会周辺では、教会の腐敗や世俗化傾向を正そうとする教会刷新運動(「修道院運動」という)が活発になっていた。

  *なぜこの時期に教会組織や信仰のあり方を見直す運動が
   起きたのかは次回取り上げます。

「西方キリスト教世界の王」である神聖ローマ皇帝にとっても、教会の混乱は望ましいことではなかったので、歴代の皇帝は、この運動の精神に則って教皇庁や教会の改革を支援した。

ところが、改革が成果を上げて、教会が体制を立て直すと、教皇側は、なんと、「刷新」のロジックをそのまま用いて、皇帝を攻撃しはじめるのである。

その教皇とは、グレゴリウス7世(在位1073-85)。改革派として大教会改革を指導し、教皇権の最盛期を開くことになる人物である(日本大百科全書(ニッポニカ)[野口洋二])。

グレゴリウス7世

聖職売買や聖職者の妻帯を禁じる方針を取っていたグレゴリウス7世は、即位後まもなく、俗人による聖職叙任を禁じる勅書を発布する。俗人による聖職叙任は「聖職売買」に当たるというのがその理由である。

前項で述べたように、聖職者の任免権の掌握は、ドイツにおける「王国教会政策」の肝だった。ところが、教皇は、皇帝による聖職者の任免は「聖職売買」であるとして、これを糾弾してきたのである。

聖職叙任権をめぐる教皇との争いは、ドイツ以外(フランスやイギリス)でも起こったが、ドイツにおける闘争がとくに激しいものとなったことには理由がある。

教皇側では司教の叙任権は国王や俗人のものではないという主張を繰り返した。しかしドイツでは伝統的に国王は俗人とは見なされていなかったのである。国王はChristus Domini 〔*神の子としてイエス・キリストと同様の存在であることを意味していると思います(辰井)〕であり、いかなる人間よりも高められて聖なる職位についていると見なされていた。したがって、国王も俗人であり、司教叙任権を持たないという教皇側の主張は単に司教叙任権のみならず、国王の存在そのものに対する侵害を意味していた。

阿部謹也『物語 ドイツの歴史』(中公新書、1998年)19−20頁(太字は筆者)

そういうわけで、皇帝と教皇の叙任権闘争は大荒れに荒れ、ついに教皇は皇帝を破門するに至る。ショックを受けたドイツ諸侯は皇帝の廃位を決議(鎌倉幕府の御家人が上皇との和平を求めて執権を解任するような感じでしょうか)。

やむなく皇帝は北イタリアのカノッサ城に教皇を訪ね、雪中3日間門前に立って謝罪する。いわゆるカノッサの屈辱(1077年)である。

カノッサの屈辱(中央にひざまづくのが皇帝(ハインリッヒ4世)
左がクリュニー修道院長、右は仲介者マティルダ伯妃)

謝罪は功を奏し、皇帝は破門を解かれたが、叙任権をめぐる争い自体はまだしばらく続き、ヴォルムスの協約(1122年)によってようやく決着が付く。

(2)ヴォルムスの協約:「神の子」から俗人へ

当時の聖職者には、聖職者としての側面と行政官ないし領主としての側面があった。そこで、教皇と皇帝は、「聖職叙任権」を二つに分け、聖職者の「聖的」側面の任免権を教皇が、「世俗的」側面の任免権を皇帝が持つという形で妥協した。これがヴォルムスの協約である。

いろいろあって単純に「教皇の勝ち」とは言えないのであるが、諸侯との綱引きという観点からは、皇帝が被った打撃は決定的だった。

ドイツの文脈では、皇帝が聖職叙任権の「聖」の部分を放棄するということは、皇帝が自らその「聖性」を否定し、俗人であると認めることを意味したからである。

カールやオットーの時代には「神の子」であった皇帝は、いまやどこにでもいる世俗勢力の一人である。この時点で、もともと脆弱な国内基盤しか持っていなかった皇帝に、国内における支配的な地位を維持できる見込みはほとんどなくなっていたのである。

(3)大空位時代:「皇帝の時代」から「諸侯の時代」へ

以後、歴代の皇帝は、残された唯一の資産である「ヨーロッパの王」としての権威を保つべく、支配領域の拡大に努め、ブルグンド王国(フランス語でブルゴーニュ)からシチリア王国に至る地域に君臨したフリードリヒ2世(在位1215-50)の下で、「神聖ローマ帝国の帝権はまさに絶頂に達した」(10講37頁)と言われるまでになるのだが、それによって国内における勢力の低下に歯止めがかかることはなかった。

ここに至る前の段階で、皇帝は、すでにイタリアに遠征するにも諸侯の協力が不可欠だという状況に陥っており、領域拡大に成功したからといって国内での状況が改善する余地はなかったのである。

フリードリヒ2世

そういうわけで、フリードリヒ2世が亡くなり、その血統が途絶えると、「大空位時代」(1256-73)がやってくる。名目上の国王は選ばれたものの、誰一人、実質的な支配権を得て、正規の皇帝に認定される者はなかったという時代である。

1272年にローマ教皇に促されてハプスブルク家のルードルフを国王=皇帝に選ぶまで、ドイツ諸侯は自分たちの国王を自分たちの中から選ぶことができなかった。反面、諸侯の独立性だけはこの間に決定的に固められたのである。以後ドイツ史は「皇帝の時代」から「諸侯の時代」に入ってゆくのである

『ドイツ史10講』42頁

次回予告

今回は教科書的にドイツにおける「舶来の権威」から「地物の権威」への移行の過程を見てきたが、その背景、というか「深層」にはもちろん家族システムの進化があって、家族システムそして識字率の上昇に伴うメンタリティの変化こそが次の展開(地殻変動)をもたらすのである。

というわけで次回予定は「ドイツ的メンタリティの誕生」。
お楽しみに!

今日のまとめ

・フランク王国時代にキリスト教の権威と行政能力を借りて建国
・皇帝と教会の利害が一致し、カール大帝の時代に(皇帝+教会)統合体による支配が確立
・神聖ローマ帝国でも蜜月は続くが、皇帝の庇護(王国教会政策)が教会の成長と離反を招く
叙任権闘争で「神の子」の地位を奪われ、皇帝の権威が大きく低下。「皇帝の時代」から「諸侯の時代」へ

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社会のしくみ

ドイツ(1)
-日本とドイツ-

目次

はじめに

トッドの人類学理論を学び、紹介・展開していく中で、いつも引っ掛かりを感じていたのがドイツのことだった。ドイツは直系家族だ。地域によって多少のバリエーションはあるにせよ国土全体を直系家族が占めている。日本と同じである。

ドイツと日本が同じシステムであることは、他のヨーロッパ諸国との比較ではそれなりに納得できる。地道で真面目な感じ、家族的価値観の強さ、遵法意識の強さとか。

しかし、両者がそっくりかと言われると、首を傾げてしまう。私は法学が専門だった関係でドイツとは比較的接点が多かったが、日本とドイツの間に、日本と韓国以上の違いがあることは否定できないと思う。

秩序志向であるという一致した傾向の中でも、ドイツの体系的でひたすら固く真面目なあの感じは何だ。分厚いコンメンタール(法律の注釈書です)、荘厳な音楽、カントにヘーゲルにマルクス‥‥

どれをとっても、とても生身の人間の仕事とは思えない体系性と壮大さが感じられるではないか。くらべると日本はどこか散漫でいい加減で、「本当に同じ家族システムなのか?」と言いたくなるほどの異質感がある。

それには人類学的な理由があるはずだが・・と思いつつ、ドイツの話にはあまり手を出さないようにしていたが、国家と「権威」の関係、ヨーロッパにおいてキリスト教が果たした役割を探究する過程で、ようやく「あっ!」という瞬間が訪れ、一つの仮説が誕生したので、ご紹介したい。

トッドによる「日本とドイツ」

最初に、トッドが日本とドイツの違いをどう見ているかを紹介しておこう。私の知る限り、彼は日本とドイツの違いをそれほど重く見てはいない。

日本社会とドイツ社会は、元来の家族構造も似ており、経済面でも非常に類似しています。産業力が逞しく、貿易収支が黒字だということですね。差異もあります。

日本の文化が他人を傷つけないようにする、遠慮するという願望に取り憑かれているのに対し、ドイツ文化はむき出しの率直さを価値づけます。

エマニュエル・トッド『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』(文春新書、2015年)157頁 (太字は筆者)(以下「ドイツ帝国」) 

太字の部分は基本的に感情表現に関する事柄であり、内婚と外婚の相違に対応させて日本と韓国の相違を説明した私の分析の範囲内である。

しかし、トッドも、ドイツが歴史上時折見せる激しさやパワーに特別なものを感じてはいるのだ。

以下の引用をお読みいただきたい。

人類は皆同じと決めてかかる態度は、われわれの不安を鎮めてくれるかもしれないが、ドイツの過去の、現在の、そして未来の歴史的発展についての理解を禁じてしまう。ドイツも他の国同様の一国にすぎないと独断的に宣言するのは、人類全体の識字化や、1550年から1650年にかけてのメンタリティの大変容において、ドイツが演じた決定的な役割を見ようとしないことである。1880年から1930年にかけて発揮された、経済と科学におけるドイツの伸張のパワーを忘れることである。二つの世界大戦の戦時中にドイツが示した軍事的な有能さーほとんど超人的な有能さーを見ようとしないことである。‥‥1943年~44年頃、イギリスとソ連と米国の連結したパワーに対する抵抗において示した新たなステージの超人的有能さに到っては、ひとつの社会的・精神的構造が生み出した病理と認定するに充分であろう。‥‥ドイツは武力によって鎮圧され、1945年に分割された。するとわれわれは、あのネイションとその文化の凄まじいまでのパワーを忘れようとした。そして今、そのツケを払わされる時が来ている。‥‥

『我々はどこから来て、今どこにいるのか?下』(文藝春秋、2022年)159-160頁
(太字は筆者)

と、ドイツについてここまで言っておきながら、トッドは、日本との相違という点については、次の程度でお茶を濁してしまうのである。

考えてみれば、日本もまた、歴史上のパフォーマンスにおいて並外れていたし、今日なお並外れている国である。非ヨーロッパ諸国のうちで先頭を切って、日本は19世紀に経済的に離陸し、今なお世界の最先進国の一つにとどまっている。特許取得数は、先述のように、世界全体の三分の一にも近い。‥‥しかも、この驚くべきネイションが擡頭したのは、地震に絶え間なく晒されている列島の上でなのだ。 

同上 160−161頁

おそらく、フランス人であるトッドには、ドイツと核家族地域の違いを説明できればそこそこ満足なのだと思う。それで、すべてを「直系家族のパワー」で片付けてしまうのだ。

しかし、「はじめに」で述べたように、日本とドイツはメンタリティにも違いがあるし、歴史的経験も大きく異なっている。

並外れたパフォーマンス? 日本は確かに識字化・人口増の時代には人並みに活躍し、暴れもしたが、その後は教育の頭打ち・人口減少という基層に従って順調に停滞している。

一方、ドイツは、本来なら停滞してもよさそうなそのときに、EUを主導し、トッドが「一人勝ち」(トッド・ドイツ帝国56-57頁)というほどの経済システムを構築したりしているのだ。

そういうわけで、日本人である私はこの違いに目を瞑ることができず、勝手に新たな仮説を立てたのである。

ドイツのメンタリティ:権威の過剰?

まずは、ドイツのメンタリティについて。単に直系家族であるというだけでは説明できない何かをドイツにもたらしているものは何なのか。

今となっては答えは簡単だ。
キリスト教である。

直系家族システムの権威+キリスト教の権威=ドイツのメンタリティ

この等式が私の仮説の全てである。

同じ直系家族でありながら、日本にはない体系性や生真面目さをドイツが持っているのは、ドイツが直系家族の権威に加えて、キリスト教の権威も合わせ持っているからなのだ。

キリスト教は一神教である。

一神教とはどのようなものであったか、思い出してみよう(参照:国家と宗教ー一神教と多神教)。

一神教は、もともと、家族システムが未発達で、メンタリティの中に「権威」を受け入れる素地を持たない原初的核家族の生み出した宗教である。

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。

それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

国家と宗教ー一神教と多神教

一神教の神の権威は、原初的核家族をどうにかして国家にまとめるという目的のためにちょうどよい強度に作られている。

家族システムの中にすでに権威の軸を持っている人々が、それに加えて、さらに強大な一神教の権威を胸に抱いていたらどうなるか。

それがドイツの場合なのである。

日本史との共通点

これより、上記仮説の検証がてらドイツの歴史を概観していくが、もしお読みでない方は、「日本史概観」を先にお読みいただいた方が分かりがよいと思う。

なぜかというと、ドイツと日本は、同じく原初的核家族の時代に「舶来の」権威を借りて建国した国家として、そして同じく直系家族システムを育んだ国家として、よく似た構造の歴史を持っているからである。

①原初的核家族である間に「舶来の」権威によって建国

②直系家族が生成し、舶来の権威と地物の権威が綱引きを始める

③地殻変動期の内戦を経て「地物」直系家族の国家体制が確立する

④直系家族と「権威」の好相性ゆえに「舶来の権威」の方も保持され

ドイツと日本は、①-④のシークエンスを完全に共有している。

ドイツも日本も、遅くとも③の段階では、①で用いた「舶来の権威」は「なくても何とかなる」という状態になっているのだが、「権威」との好相性を誇る直系家族として(平等核家族のケースはこちら)、①で用いた権威を大切に持ち続けた点も同様である(④)。

両者の違いは、日本の「舶来」品が、中華帝国にインスパイアされて自己流で作った「天皇」であったのに対し、ドイツのそれが「キリスト教」であったという、その一点だけなのだ。

ドイツ史の激しさと複雑さ

しかし、パッと見たところ、ドイツ史と日本史は、だいぶ雰囲気が違う。ドイツ史はなんか複雑だし、激しいし‥‥

違いをもたらしているのは、「キリスト教」、というか、舶来の権威の性格である。

まず、「激しさ」は、「直系家族+キリスト教」のドイツのメンタリティの産物ということでよいだろう。

では複雑さをもたらすものは何か。二点にまとめよう。

(1)「舶来の権威」の主体は(皇帝+教会)の複合体

キリスト教は、単に権威ある宗教であったというだけでなく、ローマ帝国以来のガッチリした教会組織を持っていたので、建国以来、ドイツはその組織力の方も借り受けて、行政組織として活用した。

ドイツにおける「舶来の権威」の主体は、実質的には、「皇帝+教会」の複合体であり、そのせいで、綱引きの構図がやや複雑になるのである

日本では「天皇 VS 武士」であったものが、
ドイツでは「(皇帝+教会) VS 諸侯」となる。

したがって、直系家族のドイツは、自らの家族システムに即した国家を打ち立てるために、皇帝と教会の双方を打倒しなければならなかった。

その過程で皇帝と教会の間に勢力争いが起こることも構図の複雑化に一役買うが、それほどややこしくはないので、ここで押さえておこう。

皇帝と教会はその時々の都合で協力しあったり争ったりする。両者の協力関係は諸侯にとって脅威だが(宗教改革のときがそうだった)、いがみ合ってくれるとどちらかの勢力が落ちるので、諸侯にとってはありがたい。

ドイツ史で一番重要なのは、世界史でも習う「叙任権闘争」(詳しくは次回)で、これによって(譲歩した)皇帝側の権威が低下したことが、諸侯の優位に大きく貢献したのである。

(2)「皇帝」は「西方キリスト教世界の王」の称号だった

フランク(のちドイツ)の王がローマ教皇から授かった「皇帝」の称号は、ドイツの王というより、「西方キリスト教世界の王」としての称号であったので、皇帝がその権威を保つためには、西ヨーロッパ世界での支配権を保持している必要があった。

「ローマ皇帝」であった皇帝は、実際のところ、あまりドイツ国内にはいなくて、海外に遠征してばかりいるのである(ドイツ語を話せなかった人すらいる)。

頭に入れておいていただくとよいのは、ここでも諸侯勢力にとって「棚ぼた」的状況が発生するということである。皇帝は、領土を広げたり守ったりするのに忙しく、あまり国内にはいない。その間、国内では、留守番をしている諸侯たちの勢力が必然的に強まるのである。

・ ・ ・

こうした要素があるために、ドイツにおける「(皇帝+教会) VS 諸侯」の綱引きは、承久の乱のように両者が直接戦うという構図にはなかなかならず、概ね以下のような経過をたどる。

皇帝は、教会との争いや海外遠征によってその勢力をすり減らし、諸侯がじわじわと国内での勢力を拡大する。

「プレ近代化」状況で各階層の国民が(皇帝+教会)に対して反乱を起こし(宗教改革)、これを収める過程で諸侯の優位が確定する。

最終的に、宗教改革の終盤(およびその延長戦である三十年戦争)で両者の直接対決があり、勝利した諸侯が、直系家族システムに依拠した国家体制を確立するのである。

ドイツ国家史のシークエンス(予告編)

①ー④のシークエンスにこれらの要素を書き加えて、次回の予告編とさせていただこう。次回以降、だいたいこんな感じで話が進む、というだけなので「へー」と眺めていただければと思う。

①原初的核家族である間に「舶来の」権威(皇帝+教会)によって建国

②直系家族が生成し、舶来の権威(皇帝+教会)と地物の権威(諸侯)が綱引きを始める

②-1 皇帝は諸侯の勢力を抑えるために教会を保護する

②-2 力をつけた教会は皇帝と対立(叙任権闘争)。皇帝が権威を低下させ、相対的に諸侯の勢力が高まる

②-3 皇帝は海外に支配権を広げ「帝権の絶頂期」を迎えるが、国内では諸侯が勢力を固める

③地殻変動期の内戦(宗教改革・三十年戦争)を経て、「地物」直系家族の国家体制が確立する

③-1 識字率を高めた「地物」直系家族の国民が教会に反旗を翻す(宗教改革)

③-2 反乱を収めた諸侯が支配権を確立

③-3 「(皇帝+教会)VS 諸侯」の最終決戦となり、諸侯を中心とした領邦国家体制が確立する

④直系家族と「権威」の好相性ゆえに「舶来の権威」の方も保持される

④-1 皇帝の宗教的権威、教会の権威はともに失われるが、国民は宗教改革を通じて「自分たちの信仰」を練り上げる

④-2 領邦毎に選択された信仰(カトリック or ルター派 or カルヴァン派)が領邦君主の支配下で公式に生き残る

今日のまとめ

  • ドイツのメンタリティは、直系家族とキリスト教(一神教)が重なる権威の過剰によって生み出された。
  • 直系家族である日本とドイツは、①舶来の権威による建国、②舶来の権威と地物の権威の綱引き、③地物の権威の勝利、④舶来の権威を保持、というシークエンスを共有する。
  • ドイツ史の複雑さは、①当初の権力主体が「皇帝+教会」であったこと、②皇帝がドイツ王というより「西方キリスト教世界の王」であったことによる。
  • 「天皇 VS 武士」に相当する対立軸は「(皇帝+教会) VS 諸侯」
  • 直系家族の国家体制の確立のためには、皇帝と教会の両方から支配力を奪う必要があった。
カテゴリー
社会のしくみ

日本史概観(4・完)
-天皇の位置-

 

目次

はじめに

「日本史概観」最終回のテーマは「天皇」である。なぜか。
ご説明しよう。

前回も書いたように、戦国時代から後の日本の歴史は、ごく標準的な直系家族国家の歴史である。

まずは小国が並び立ち、覇権争いをする。

信長、秀吉を経て、最終的に勝利を収めた家康の徳川家が統一日本の覇権を確立する。

この間、騎馬民族が侵入してきて相互に影響を与え合うといった事情もなかったので、共同体家族への進化は起こらず、直系家族のまま近代化して現在に至る。

ただし、典型的な直系家族国家の日本には、一つ、非典型的なものが存在している。それこそが、何あろう、「天皇」なのだ。

直系家族がすっかり完成したのに、なぜ、どのような形で、「舶来の」権威である「天皇」が生き続けることになったのか。家族システムと国家の関係を探究しているこのシリーズとしては、最後にぜひとも解明しておきたい課題なのである。

まずはその準備として、前回からの積み残し、戦国時代に入る直前、応仁の乱を経て室町幕府が倒れたときに、同じ京都に存在していた天皇や貴族はどうなったのか、というところから話をはじめよう。

応仁の乱と「舶来の」権威

(1)室町幕府ー京都の武家政権

真面目に日本史の勉強をしたことがない人間(私だ)にとって、室町幕府はちょっと分かりにくい。

幕府なんだから武家の政権のはずだ。しかし、場所は京都だし、花の御所に住んでみたり、煌びやかな離宮を建ててみたり、貴族みたいな雰囲気も濃厚ではないか。

金閣寺(鹿苑寺) PennyによるPixabayからの画像

鎌倉幕府から戦国時代になって徳川幕府、というなら分かりやすいのだが、その間に室町幕府があるせいで、全体の流れが一気に掴みにくくなってしまうのだ。

しかし、今なら分かる。「ローマは一日にして成らず」というとおり、鎌倉幕府が武家政権を打ち立てたといっても、鎌倉が一夜にして京都になれるわけではない。

「京都の武家政権」室町幕府の存在は、人口や教育といった人的な成長のスピードと、蓄積が物をいう「場所」の成長スピードの違いがもたらしたものなのだ。

(2)室町幕府はなぜ京都に本拠を置いたのか?

室町幕府は鎌倉ではなく京都に本拠地を置いたのか。

それには、南北朝の動乱で敵対した後醍醐天皇の動きを封じる必要があったという当初の事情に加え、都市としての京都の力があったとされる。

‥‥〔幕府が京都に置かれた〕根本は、京都がいぜんとして政治・文化・宗教の中心であるばかりか、荘園領主が集住し、全国の富や人や情報が集まる経済・流通の中心都市で、幕府が真の意味で全国政権たらんとすれば、そこに政権を置かざるをえないという点にあった。

高橋正明『京都〈千年の都〉の歴史』(岩波新書、2014年)140頁

そう。繰り返しになるが、東国で武士が力をつけて政権を確保したとはいえ、鎌倉や関東がすぐに京都や畿内と同じ程度に発展できるというわけではない。

流通経済が発達し、農村中心の社会から都市間のネットワークが支える社会に移行しつつあったこの時期、武家政権が全国を統治するには、京都という歴史ある大都市に蓄積された各種資源を活用することが不可欠だったのだ。

(3)伝統的政治文化と一体化した室町幕府

鎌倉時代がそうであったように、室町時代もまた、直系家族の地物の権威がその基盤を強化し、朝廷の「舶来の」権威を凌駕していく(かなり一直線に近い)過程(↓下図)の一部であり、室町幕府が京都に政権を置いたからといってその点が揺らぐわけではない。

しかし、室町幕府が京都に拠点を置いたことで、幕府と朝廷という二つの権威の関係性には変化が生じた。

鎌倉時代、鎌倉の幕府と京都の朝廷は並び立ち、やがて前者が優位になったものの、朝廷は政治勢力として存在し続けた。

これに対し、京都の武家政権である室町幕府は、同地における天皇や貴族、寺社勢力の権力とその文化を吸収し、一体化していくのである。

少し具体的に見ていこう。

南北朝の動乱が収まった頃、すでに幕府の優位は明らかであり、天皇や貴族が統治に実質的に関与する世の中は終わっていた。

一方で、幕府は、朝廷や寺社に直接に影響力を行使し、その力を抑え込むために、それぞれに仕える公家衆や門徒を雇って使ったりもしている(高橋・147頁)。

つまり、京都の地で幕府が朝廷の上に立つということは、幕府の下で、天皇家や公家の政治文化と武家文化が融合し、一体となることでもあったのだ。 

室町幕府に貴族風のきらびやかな雰囲気が漂うのはそのためで、皇位簒奪疑惑もある足利義満は、公家から買い上げた「花の御所」に住み、のちに金閣寺となる絢爛豪華な建物を建てて別荘に用い、公家風の花押を用いた。京都に暮らすようになった有力武士たちもまた、貴族風の贅沢な暮らしを始め、財政を圧迫させたりしていたのである。

こっちは武家様の花押で
https://nanbokuchounikki.blog.fc2.com/blog-entry-1141.html
これが公家様の花押だそうです。https://twitter.com/toki_museum/status/1269498479216230400?lang=zh-Hant

室町幕府における貴族文化と武家文化の一体化の傾向は、北条氏の歴代得宗が官位に関心を示さず「とんでもなく低い地位に甘んじていた」のに対し、足利将軍が高い官位を求めたことにも見て取れる。

京都で権力を振るう以上、将軍は「官位の上でも他を圧する地位に立つ必要があった。」

この点で、足利氏は平氏と同じ地平に立つ。だからこそ、「清盛は従一位太政大臣に達したし、義満も従一位太政大臣に達した後に出家し、法皇と同等の礼遇を受け」たのである(以上につき、近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)253頁)。

(4)応仁の乱の効果ー「舶来の権威」の決定的凋落

応仁の乱による京都の荒廃そして室町幕府の崩壊は、幕府が京の地で伝統的権力と一体化していたことにより、幕府の滅亡以上の結果をもたらすことになった。

かつて京都で権力を振るった平清盛は、貴族の衣を纏って自爆することで、皇族・貴族政治の時代を終わらせ、武家が主役となる時代を導いた。

同様に、京都の町の荒廃と同時に起きた室町幕府の崩壊は、日本に残った皇族・貴族政治の「残像」をきれいさっぱり吹き飛ばし、正真正銘の武将の時代を現出させることになったのである。

〈図解〉日本史概観 

ここまで書いてきたことのまとめとして、日本の建国から徳川の覇権に至るまでの日本史の流れを、国家の軸である「権威」に着目して図解してみよう。

①日本の建国

家族システムは進化していなかったが(原初的核家族)、中国皇帝に並び立つ存在としての「天皇」の権威を軸に国家を形成した。 

②平安時代末期

天皇家・貴族の「舶来の権威」+原初的核家族という基本構造は変わらないが、地域で武士が力を付け始める。

③平氏政権

貴族と武士の中間的な存在である平氏が政権をとる。舶来の権威+原初的核家族という基本構造の中で、平氏が「舶来の権威」に成り代わり、天皇家を抱え込む形で権力を振るう。

そして、それゆえに、 平氏の滅亡は「舶来の権威」にも大きな打撃を与えることになった。 

④頼朝による鎌倉幕府

同じく貴族と武士の中間的な存在である源頼朝が鎌倉に幕府を開き、舶来の権威(京都・朝廷)と地物の権威(関東・武家)が並び立つ体制を作り出す。関東では直系家族の生成が近づく。

⑤北条氏による鎌倉幕府

北条氏の下で直系家族が成立。権威を安定させて勢力を強め、京都の朝廷に対する優位を確立する。

⑥京都の武家政権、室町幕府

足利尊氏は全国統治の必要から京都に幕府を開き、幕府の下で天皇・貴族文化と一体化。そのため、 室町幕府の崩壊は、天皇・貴族の権威の決定的凋落をもたらした。

なお、この間、京都は核家族が基本であった(と考えられる)一方、全国では着実に直系家族が拡大していく。

⑦徳川幕府の覇権 

もちろん濃淡はあるのだが、全国に直系家族が広がり、直系家族の権威の頂点に立つ徳川家の下で安定した国家体制が確立。

天皇の位置

(1)天皇の存在は「当然」ではない

室町幕府とともに天皇や貴族による政治の残像が吹っ飛び、戦国時代を経て、みごとな直系家族の国家体制が確立した、というのが(すぐ上の)図⑦である。

しかし、それで日本から「天皇」という権威が失われたかといえば、もちろんそんなことはない。

日本に天皇がいるのは、当たり前のことのように思えるかもしれない。だって建国のときにすでに天皇はいたのだし。しかし、家族システムの観点から見ると、全然、まったく当たり前ではないのである。

例えば、日本と同じく、原初的核家族の時代に「借り物」の権威を用いて建国を成し遂げたフランスの場合である。彼らはローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借りたのだが、平等主義核家族の国家体制を確立するや、直ちに宗教を公領域から捨て去った。

日本の場合も、直系家族が成立した時点で、国家の軸としての「権威」は自前で持つようになったのだから、舶来品である天皇の権威を排除したって、おかしくはなかったのだ。

(2)直系家族と天皇の相性

それでも日本が「天皇」を持ち続けたのはなぜかというと、直系家族と天皇の権威とは相性がよかったからである。

建国から約1300年を経てフランスが確立した「地物」の国家体制の基礎にあったのは平等主義核家族で、この家族システムは宗教的権威とは決定的に相性がわるかった

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編) https://www.satokotatsui.com/secret-founding-european-nations/

他方、直系家族(権威と不平等)の日本の民にとって、はるかな大陸の威光に照らされ、「万世一系」の物語のもと古式ゆかしい日本の伝統を体現する存在でもある天皇は、ごく自然な敬意の対象である。

共同体家族とは違い、直系家族は自ら「帝国」を統率するに足る強大な権威を生み出すことはできないのだが、よく似たものが予め存在しているとなれば、それを排除する理由はない。

そういうわけで、いってみれば、後から成立した家族システムとの「たまさかの相性」によって、日本は地物の権威が確立した後も、天皇という存在を戴き続けることになったのである。

(3)天皇の「政治的」機能

とはいえ、天皇が、共同体家族(例えば中国)の皇帝に相当する強大な権威を担う存在であったかといえば、それは違う。

日本は中国における皇帝の存在に感化されて「天皇」を戴くこととなったが、そのやり方は最初から自己流で、文物や人的交流を通じて「権威とはこんな感じかな?」と考えながらやってみた、当時核家族であった日本人による「大陸風」である。

その後、戦国時代に至る頃までには、天皇や貴族の界隈にも直系家族システムが伝播し定着していたと思われ、メンタリティにおいて本質的な相違はなくなっていたはずである。

しかし、その生い立ち(?)に由来する「別種の」権威としての立ち位置によって、「天皇」は、自ずと、直系家族システムに欠ける点を補うべく進化していったように思われる。

二つの実例を挙げたい。

①「天下統一」の夢

二つの動乱によるシステム改変を経て、直系家族国家に生まれ変わった日本は、大名の領国が並立し互いに勢力を争う戦国時代に突入した。

このとき各地に成立した独立性の高い「国」は、いずれも直系家族システムに立脚した小国であり、織田、豊臣、徳川のいずれも、共同体家族システムの「帝国」を発展させることはなかった。

この地点から、人類学の知見をもって、日本の「ありうべき将来」を展望してみると、このたくさんの領国たちが、ときには征服したりされたりして再編を繰り返しつつ、相互に独立した国家として長く存続し続ける、ということは十分に考えられる(ドイツがこれに近い状態だった)。「統一国家の形成には適しない」というのが、直系家族システムの特性なのだから。

しかし、実際には、信長は天下統一を目指して上洛し、その事業を引き継いだ秀吉は統一を成し遂げた。直系家族システムに依拠しながら、彼らはなぜ「統一」を目指すことができたのだろうか?

考えられる理由は一つしかないと私は思う。
「そこに京都があり、天皇がいたから」である。

歴史と伝統といってしまえばそれまでだが、日本に「天皇」があり、帝国に並び立つ国家のイメージを伝えていたからこそ、彼らは当然のように「統一」を目指した。

統一に際して、信長や秀吉が天皇の権威を利用したことはよく知られているが、それ以前に、彼らが「天下統一」を夢見ることができたのは、天皇の存在があったからこそなのである。

②非常用「権威」装置

他方、すでに統一された国家の中で、覇権を確立してしまった徳川幕府にとっては、天皇はどちらかといえば邪魔な存在だった。下手に尊んで政治に口出しをされても困るし、他の大名に利用されても困る。

そういうわけで、徳川政権は、最初こそ正統性の確保のために天皇の権威を利用したものの、その時期をすぎると天皇や貴族勢力の規制と監視に努め、天皇は、祭祀や儀式の再興に努め、(人によっては)学問や歌道に打ち込むだけの存在となっていった。

しかし、そのことによって、天皇の存在に(政治的に)意味がなくなったかといえば、そうではないと思われる。その何よりの証拠は、江戸末期、日本が「内憂外患」の危機におそわれたとき、各階層の人々の間から自然と天皇・朝廷の権威を求める動きが生じたことである(山川出版社『詳説日本史 改訂版』(2020年)242頁)。

この後、1868年から1945年までの77年間、天皇が果たした役割は、私の思うに、「非常用代替「権威」装置」としてのそれだ。

直系家族の安定した政治システムは、平時には、天皇のような大きな権威を必要としない。しかし、安定性が高いからこそ、時代の転換期に大きな困難を抱えるのも直系家族であり、「別種の」権威の存在は、このときに威力を発揮する。

19世紀後半から20世紀前半、日本が「移行期」を迎え、否応なしの政治的変革に導かれたとき、天皇は、若い新政権には望むべくもない「権威」を提供し、危機の日本を支えた。

この時期については、天皇が政治的権力を持ったから危機がもたらされたかのように言われることがある。しかし、順序はおそらく逆で、日本が非常事態にあったからこそ、天皇は、その「権威」を発動し、表舞台に立つことになったのである。

③〈図解〉天皇

普段は目立たないが確かに権威として存在している「天皇」。図解してみたのが下図である。

色は白ではなく透明だ。

直系家族日本の日の丸(⑦)には、つねに、天皇の権威が重ね合わさっている。

政治体制がどのような色合いのものに変わっても、政治的に無色の存在としてそこにあり、平時には目立たず国家の一体性を支え、危機に陥ったときにのみ、表に出てきて、政治的な権威として機能する。

何とありがたい存在であろうか、と私はしみじみと思ったが、いかがであろうか。

 

おわりに

日本はいま直系家族が生み出した二度目の長期安定政権のもとにある。

この政権は、第二次大戦後、アメリカと融和的な関係を切り結ぶことで安定を築いた政権なので、アメリカ中心の世界が変わるときが、政権交代のときとなると予想される。

その激動のとき、次の安定を見出すまでの一時期に、再び天皇が日本政治を支えるというようなことがあるのかもしれない。

そんなことを考えるようになるなんて自分でも驚きだが、「概観」を書き終えた今、それはかなり現実的な可能性であるように思える。

今日のまとめ

  • 京都の武家政権(室町幕府)の下で武家の文化と朝廷の文化が一体化したため、応仁の乱による幕府の崩壊+京都の荒廃は、同時に、天皇・貴族の決定的凋落をもたらした。
  • 直系家族の国家体制確立後も「天皇」が存在し続けたのは、直系家族と天皇の「権威」の相性がよかったからである。
  • 戦国時代以降、天皇の権威は、分裂しがちな直系家族の日本の統一を保つのに役立った。
  • 直系家族の安定政権の下では、天皇の権威は、政治的危機の際に発動される「非常用代替「権威」装置」として機能する。

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社会のしくみ

日本史概観(3)
-鎌倉幕府、二つの動乱、直系家族国家の誕生-

鎌倉幕府ー綱引きが始まった

(1)源頼朝ー朝廷と並び立つ武家政権の確立

平氏が朝廷を乗っ取って(最終的に)討たれたのに対し、東国に拠点を築くことで、天皇家と武家が並び立つ時代を現出させたのが源氏である。

源氏も天皇家の出身だから元々は畿内(西)の出だが、房総を舞台とした平忠常の乱(1028)の鎮圧に乗り出したのをきっかけに東国に進出したという。

以後、東国の武士団との主従関係を強め、着実に勢力を築いた源氏は、頼朝の下で平氏を討伐した後、弟義経を排斥(これをやらなければならなかったのはまだ長子相続の習慣が確立していなかったからだ)、上皇も黙らせて、武家政権としての鎌倉幕府を確立させる。

(2)北条氏ー直系家族の誕生

鎌倉幕府を本当に軌道に乗せたのは北条氏であるが、日本における直系家族誕生の瞬間に立ち会ったのも北条氏ではないかという気がする。

北条氏は現在でいえば総理大臣に当たりそうな「執権」の地位を世襲するが、やがて執権の地位は飾り物となり、権力は北条の家督を継ぐ嫡流の当主「得宗」に集中していく。天皇家の権力が家長としての上皇に集中したようなもので、父系の権威が強まったことの現れといえる。

*なお、得宗の地位は概ね長子に受け継がれているが、長子の死没以外に、側室の子を避けて次男の時宗が継いだ例がある。「側室の子は差別される」というと女性が低く扱われているような感じがするかもしれないが、そうではなく、この場合、(父親の家系ほどではないにせよ)母親の家系「も」重視されていることを示唆している。つまり、重要性において父親と母親(男性と女性)を区別しない双系性の名残りであり、どちらかというと、父系直系家族の未完成を示すものと考えられる。

北条はまた、泰時(坂口健太郎だ)の時代に御成敗式目(1232年)も作っている。

天正2年(1574年)写本
https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1551940097112/index.html

御成敗式目は律令の影響を受けない武家初の成文法典である。室町幕府には基本法典として継承され、江戸時代には武家の道理を教える子供向けの教科書として用いられたというから、武家版十七条憲法のような位置付けかもしれない(当初の条文はその3倍の51箇条である)。

メソポタミアにおいて(中国でも)直系家族の誕生は国家の誕生であり、文字と法律の誕生でもあった。北条における直系家族や武家法の成立を見ると、この時期こそ、日本における(大陸の影響を抜きにした)自律的な国家生成の時期だったのではないかと思われるのである。

(3)承久の乱ー「地物」の優位が確定

北条において直系家族の権威が生成中であったと考えると、この時期に、朝廷のトップであった後鳥羽上皇と北条義時がぶつかり、上皇側が挙兵するという事件が起きたのは「必然的だった」と言いたくなる。

1221年、今なら勝てると踏んだ後鳥羽上皇は義時追討の宣旨を出し、鎌倉に兵を差し向ける。しかし、期待に反して幕府への造反者は少なく、上皇側はあえなく敗北。幕府の圧勝に終わったのである。

もちろん、かりに朝廷と北条の対立が、深層の動きに操られた必然であったとしても、この段階で、北条率いる幕府軍の勝利が必然であったとまではいえないであろう。

しかし、ともかく、北条はこの戦いに勝ち、それによって、朝廷の権力を抑え、実質的な統治の範囲を西国にまで大きく広げることになった。統治という点で、朝廷に対する幕府の優位、すなわち「舶来」の権威に対する「地物」の権威の優位を確たるものとしたのである。

二つの動乱

(1)中世の動乱ーヨーロッパと日本

ヨーロッパの歴史と日本の歴史には、共通点、というか、共通の分かりにくさがある。それは、近世(初期近代)以降の分かりやすい発展の過程が始まる前に、何かよく訳のわからない激しい内戦の時期を経験しているということである。

英仏では百年戦争、薔薇戦争がある。フランスは宗教戦争を含めてもよいだろう。ドイツは宗教改革から三十年戦争まで。日本は南北朝の動乱と応仁の乱である。

これらはいったい何なのか。トッドの人類学を参照しながら歴史を見ると、つぎのような仮説が成り立つと思う。

ヨーロッパ日本はどちらも、家族システムの進化の前に、外部の権威を借りて建国している。

そのため、国家の内側が充実し(その基礎にはもちろん識字率の上昇がある)、自律的な家族システムの進化が起きると、新たなシステムに合わせた国家の作り替えが必要になる。

おそらくそのときに、内戦や動乱が起きるのである。

この時期に起きる動乱は、外国や国王といった分かりやすい敵がいないので、ディテールを追っても何が何だかよく分からないことが多いし、当事者の勝ち負けにも大きな意味はない。しかし、このとき、国家は、社会の地殻変動に合わせた大々的なシステム改変を行なっているのである。

(2)南北朝の動乱(1336-1392頃)

北条氏のもとで(多分)生まれた直系家族が、完成度を上げ、日本全土に拡大していく長い過程を開始した頃、南北朝の動乱は起きた。

端緒を作ったのは後醍醐天皇である。

この時期、政治の最高権力を握っていたのは北条であり、天皇ではなかった。しかし、政治に対して一貫して強いやる気を持っていた後醍醐は、鎌倉幕府の御家人であった足利尊氏の協力も得て北条の鎌倉幕府を滅し、政治的復権を狙う(1333年)。

後醍醐天皇は、幕府はもちろん、院も摂政・関白も置かずに自ら政治の舵取りをしようとするが(建武の新政)、うまくいかない。

そこで、足利尊氏は後醍醐を見限り、武家政権としての幕府再建を目指して武力で京都を制圧、光明天皇を立てて室町幕府を開始する(1336年)。

こうして、以後60年に長きに亘る南北朝の動乱が始まるのだが、この時期に、なぜこのような動乱が起こったのであろうか。 

https://ja.wikipedia.org/wiki/後醍醐天皇#/media/ファイル:Emperor_Godaigo.jpg

①後醍醐天皇 VS 直系家族システム

動乱が始まった時点で、後醍醐の南軍と尊氏の北軍の間には、二つの対立軸がある。

 (1) 武家政権 VS 天皇親政(地物の権威 VS 舶来の権威) 
 (2) 天皇家の家督争い(兄弟間の相続争い)

後醍醐天皇は、天皇政治の最盛期とされる醍醐天皇(897-930)・村上天皇(946-967)の親政を理想としていたという。後醍醐は、武家政権を倒し、自らの力で理想の政治を追及したかった。

自分の実力を試したいという後醍醐天皇のあり方には、実力の時代に差し掛かっていた時代の空気が影響しているようにも感じられるが、天皇がそれをやっても「下克上」にはならない。

後醍醐はもしかすると不本意かもしれないが、客観的に見れば、それは新興の「地物の権威」から旧来の「舶来の権威」が権力を奪い返すため戦いである(1)。

さらに、足利尊氏が光明天皇を立てた背景には、天皇家における相続争い(持明院統(北朝・後深草(兄)系統)VS 大覚寺統(南朝・弟(亀山)系統)があった。

光明天皇は北朝であり、後醍醐天皇は南朝(弟系統)である。争いは、天皇家において長子相続が未確立であったから起きたことだが、争いが激化したのは「長子相続」が確立する可能性が見えていたからだということもできるだろう(2)。

要するに、後醍醐天皇は、武家政権と争い、兄系統である光明天皇と争うことによって、日本の土地の上に生成しつつある直系家族システムと争っていた、ということができるのである。

②兄弟間の緊張は全国でーー拡大の要因

後醍醐天皇(南朝)VS 足利尊氏(北朝)の対立から始まった動乱は、やがて、南朝、北朝、足利直義(尊氏の弟)派の三者が離合集散を繰り返す長くややこしい争いに展開する。

なぜそんなことになったのか。

山川教科書にはこうある。

このように動乱が長引いて全国化した背景には、すでに鎌倉時代後期頃から始まっていた惣領制の解体があった。この頃、武家社会では本家と分家が独立し、それぞれの家の中では嫡子が全部の所領を相続して、庶子は嫡子に従属する単独相続が一般的になった。こうした変化は各地で武士団の内部に分裂と対立を引きおこし、一方が北朝に付けば反対派は南朝につくという形で、動乱を拡大させることになった。

惣領制とは何か、という話からいこう。

惣領制とは、幕府と御家人の関係が「惣領」を責任者とする血縁集団を単位として構築される仕組みのことである。

それぞれの血縁集団には「惣領」(「家督」ともいう)がいて、軍役や祭祀(葬儀とか)の責任を担う。しかし、この制度の前提はなお分割相続であり、惣領が所領のすべてを相続するということはない。惣領は「本家」として所領の多くを相続するけれども、それ以外の子供たち(庶子)も土地を持ち、「分家」として自立できたのである。

惣領制の解体は、人口が増え、開墾が進んだ結果土地が不足し、所領のすべてを惣領一人に一括して相続させなければならなくなったこと(単独相続)に起因する。制度の前提であった分割相続ができなくなったのである。

惣領制の下でも、惣領と庶子は平等ではなかったが、庶子は庶子で土地をもって自立することができた。しかし、これが崩れ、単独相続となると、兄弟のうち、家督を継ぐ者とそれ以外の者の格差が異常に大きくなる。

もしこの状態で惣領制を続けるとなると、惣領が家の主人であるのに対し、他の兄弟は全員使用人のような位置付けにならざるを得ないだろう。

そういうわけで、兄弟の間には激しい緊張が走り、惣領制は解体を始めた。しかもそれは、一軒や二軒ではなく、全国の武士(御家人)の家で起こっていたのだ。

後醍醐と尊氏の戦いは、ガスが充満する国土に火花を散らし、全国に終わらない動乱を広げることになったのだと思われる。

(3)応仁の乱へー騒ぎは続く15世紀も

14-15世紀は、直系家族拡大の第一波であったが、人口という面で見ると、日本における人口成長の第三の波が始まった時期とされる(鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000年)77頁)。

直系家族への進化を生む典型的な状況は「土地の不足」であるから、直系家族の生成と人口成長の波が同時に来ても何の不思議もないのだが、頭に置いておきたいのは、人口が急成長している社会とは、大勢の若者で溢れる社会だということである。

南北朝の動乱が、家族システムの変化、若年人口の肥大、そして識字率の上昇という要素が同時期に重なったことで起きたものだとすれば、50年や100年での収束は見込めない。

そういうわけで、南北朝の動乱が収まった後に迎えた15世紀もまた、波乱と紛争の世紀となるのである。

①幕府内部のお家騒動 

まず、15世紀前半には、家内の緊張から来る争乱が室町幕府の内部を襲った。

1416年、幕府の関東の拠点である鎌倉府で、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に反乱を起こす。詳細は省くが、背景にあったのは上杉一門の中の犬懸家と山内家の争いとされる(永原慶二『日本の歴史10 下克上の時代』(中公文庫、2005年)24頁)。

「世はすでに血縁による同族の絆が弱まり、諸家それぞれに武力をととのえ、互いに自立して力を争う時代になっていたのである。」(同上25頁)と説明されているから、基本的には、先ほどの惣領制の解体という状況に対応して生じた争いと見ることができるだろう。

1438年には、鎌倉公方足利持氏が幕府に背く行動を重ねて将軍足利義教と対立する(こちらの系図が見やすいです)。将軍義教は持氏を討伐したが(永享の乱)、1441年には、その義教が守護の赤松満祐に殺害されるという衝撃的な事件が起きる(嘉吉の変)。

騒動自体が将軍家の統率力の低下を表すものだが、立て続けに起こる事件で足利将軍の社会的権威は大いに低下することになった。

②土一揆の多発

同じ頃に土一揆が多発していたことも見逃せない。

農民たちは困窮した武士や都市の民とともに代官の免職や年貢の減免、債務の免除などを求めて蜂起した。背景には天候の異変による飢饉があったが、農民の中に自立的なアクターとなりうる層が育っていたことが大前提である。

14世紀には「国人」と呼ばれる在地の武士が団結し、自律的な地域権力を営んでいたことが知られる。農民もまた自ら惣・惣村という自治的な村を生み出していた。こうして主体性(≒識字能力)拡大の波は農民層にも及び、土一揆の15世紀を迎えたと考えられる。

数万人が京都を占拠した嘉吉の徳政一揆(1441年)で、ついに土一揆の要求を受け入れて徳政令を発布して以後、幕府は土一揆に応じて徳政令を乱発するようになる。

下克上のさきがけとなる民からの突き上げで、幕府の力はいっそう弱まった。

③応仁の乱(1467-1477)

こうした状況の下でいよいよ始まる応仁の乱。
これもきっかけは家督争いだった。

将軍の権力が弱体化したことも関係し、将軍家の周辺で家督争いが相次ぐ。畠山家、斯波家、そして将軍家本体。

これらの争いに、幕府内でその勢力を争っていた山名(西軍)と細川(東軍)が介入したことで、応仁の乱は始まった。

幕府内の二大勢力である山名と細川が争えば、幕政に関わっていた有力大名たちは必然的にこれに巻き込まれ、それぞれどちらかの陣営について戦わざるを得なくなる。そういうわけで、戦いは京都を中心に、日本の中央部分(≒ 東北、関東、九州以外)全体に広がり、中央を二分する争乱に発展したのである。

戦国時代の始まりー直系家族の日本へ

南北朝の乱、応仁の乱の二つの動乱を経て、システム改変を終えた日本は、どのような社会に生まれ変わったのだろうか(乱の詳細は全部省略します!)。

応仁の乱の後、日本は戦国時代に突入する。室町幕府の政治が崩壊し、群雄割拠の時代が始まるのである。

小規模な国家が濫立し互いに勢力を争うという状況は、まさしく直系家族システムのものであり、メソポタミア、中国では、直系家族の誕生=国家の誕生と同時に、類似の状況が訪れていた。

日本の場合、直系家族システムを素直に反映させたこの「戦国」状況を現出させるために、システムの大変革が必要であったのだが、具体的に、何がどう変わることで、「群雄割拠」が可能になったのかを見ていこう。

一般に指摘されるのは、以下の2点である。

(1)地域の独立

まず、室町幕府の崩壊によって、地域が中央の縛りから解放されたということがある。

鎌倉以後、力を付けた武士は大名として地域の支配に関わったが、その地位は幕府の守護職への任命に基づいていた。「守護大名」と呼ばれる彼らは、幕府の行政官だったのである。

応仁の乱を経て幕府による政治が崩壊すると、地域と中央を結びつけるものがなくなり、領国とか分国とか呼ばれた地方の行政区画が独立国家の様相を呈していく。これが、「群雄割拠」の一つの前提である。

(2)支配層の変化ー誰が戦国大名になったのか?

従来の社会秩序の中では低い地位にあった者が実力でのし上がり、「群雄」つまり戦国大名になっていく、というのがもう一つの変化であるが、この「下克上」には主に2つのルートがある(ようである)。

①辺境の守護大名の下克上(地域的な下克上)

第一は、辺境の守護大名による「下克上」である。

室町幕府の下で、有力だった守護大名はみな応仁の乱に巻き込まれてその勢力を大きく削がれたが、幕政に関わることの少なかった関東以北や九州の守護大名は、乱に参加せずに済んだので、力を温存することができたわけである。

のちに戦国大名として名を上げる何人かはこうした「辺境の」守護大名で、駿河の今川義元、薩摩の島津貴久、甲斐の武田信玄などがこれに当たる。

②守護代、国人の下克上(社会的地位の下克上)

では、守護大名が乱に参加した地域はどうなったかというと、彼らの留守中に領地を守り、地域版の乱を戦った守護代や国人が実権を握ることになり、そのうちの実力者が戦国大名にのし上がることになった。

有名な戦国大名のうち、上杉謙信、織田信長は守護代、長宗我部元親、徳川家康、伊達稙宗(政宗の曽祖父)、毛利元就は国人上がりである。

*以上につき、武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解で見る 日本の歴史(上)』(小学館 2012年)123頁)参照。この本はとてもおすすめです。

と、以上のようなわけで、応仁の乱は、幕府の縛りから地域を解放し、「下克上」を導くことで、群雄割拠の戦国時代を到来させたのである。・・

というのが教科書的な説明で、これはこれでこの通りなのだと思うが、「舶来の権威から地物の権威へ」の移行過程を追っているわれわれとしては、これだけではちょっと物足りない。

室町幕府が倒れたのはよいとして、同じ京都に存在していたはずの「舶来の」権威たち、つまり、天皇や貴族はいったいどうなったのだろうか。(次回に続きます)

今日のまとめ

  • 頼朝は関東に武家政権を打ち立て、天皇家(朝廷)と武家(幕府)が並び立つ時代を現出させた。
  • 直系家族の誕生に立ち会った北条氏の下で、朝廷(舶来)に対する幕府(地物)の優位が確立された。
  • 借り物の権威によって建国した国で独自の家族システムが生成するとシステム改変が必要となる。それが中世の動乱(西欧、日本)である。
  • 南北朝の動乱応仁の乱は、家族システムの進化、若年人口の肥大、識字率の上昇が重なる時期に起きた。
  • 小国が濫立する戦国時代は素直な直系家族システムの表れであり、日本が直系家族国家として生まれ変わったことを意味している。
  • 応仁の乱は、地域を中央から解き放ち、下克上の世を導くことで、群雄割拠の戦国時代を可能にした。
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社会のしくみ

日本史概観(2)
-摂関政治、院政と平氏-

目次

平安末期ー父系の強化

飛鳥時代から平安時代までは、天皇を中心とした王侯貴族が大陸文化の独占によってその権威を保った時代であり、「舶来の権威」そのものの時代といえる。

しかし、その後半になると、天皇家を中心とした政権の枠内で、天皇親政から藤原氏による摂関政治(967-1068)、院政(1086~)へという推移が起こる。

この動きが家族システムと関連していることは明らかと思われる。なにしろ「天皇親政→摂関政治→院政」の変化とは、政治の実権が「天皇本人→母方親族→父方親族」に移行したことを意味しているのだから。

何がこのような変化をもたらしたのであろうか。 

摂関政治ー「舶来の権威」がもたらした女性重視の文化

摂関政治とは、藤原氏が天皇の外戚(母方の親戚)としての地位を確保したことで国政を支配した仕組みである。 

藤原北家は9世紀初めごろから、陰謀と天皇家との婚姻で徐々に一族内の他家、他氏排斥を進めた。当時、皇子の養育は母方の家で行われたので、皇子の母方の祖父は、皇子に大きな影響力をもった。この仕組みを巧妙に利用して、11世紀には道長が、その次の頼通も、意のままに国政を左右し、この世の栄華を誇った。

武光誠・大石学・小林英夫監修『地図・年表・図解でみる 日本の歴史 上』
(小学館 2012年)71頁

なるほど。しかし、そもそもなぜ、皇子の養育を母方の家で行うという仕組み(母方居住)が取られていたのだろうか。

母方居住とは、子供の養育における母親の役割をより重視するシステムである。当時の日本はまだ強固な父系社会ではなく、父母の重要度に大きな差異はなかった(双方系)と見られるが、母方居住が制度化されていたということには何らかの説明が必要であろう。

これには、当時の国家が「舶来の権威」によって成り立っていたというその事情がまさに関係しているように思われる。

推古天皇ー聖徳太子の頃から、皇族や貴族にとってもっとも重要だったのは中国の先進的文化に関する知識だった。律令制度による政治の仕組みが整った後は、皇族・貴族がもっとも重視したのは、学問的・文学的素養であり、彼らは文字を読み、詩歌を作り、儀式に習熟することで、その権威を保っていたのである。

源氏物語絵巻第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)

いかなる家族システムの社会においても、幼い子供に読み書きを教え、教育的な雰囲気を涵養するのは母親である(トッド『世界の多様性』312頁以下等)。

当時の皇族・貴族が大陸由来の文字文化の担い手であることによって地位を保持していたことを考えれば、彼らが子供の養育を母方で行うようになるのは自然なことであろう。

母方居住の慣習により存在感を高めた藤原氏が、天皇の後宮に入れた娘たちの側近として教養の高い女性たちを登用し、『源氏物語』『枕草子』に代表される文学の興隆をもたらしたのも、故なきことではない。

* なお、この点についてトッドが立てている仮説は私のとは違う。彼は、藤原氏の覇権をもたらした母方居住を、中国の父系原則の流入に対する「補償的母方居住反応」と見ている(起源I・上239頁)。つまり、父系原則の流入による女性の地位低下(母系の価値観の衰退)を埋め合わせるために発生した習慣ではないかというのである。

人類学に関する私自身の専門性の低さからすると「ええ、そうかもしれませんね‥」としか言いようはないのだが、大宝律令(702年)が中国に学んである程度の父系原則を取り入れた後、養老律令(718年)では父系原則はむしろ後退しているし、その後も父系原則が中国から順調に伝播したという様子は見えない。

遣隋使の派遣により中国との公式の接触が再開(600年)したのと同時期に日本が女帝の時代を迎えたこと(593年の推古天皇から770年までに6名の女性天皇が誕生)については、中国の強固な父系原則に対する反作用と見るトッドの立場に説得力を感じるが、藤原氏の時代の母方居住の制度化(いつから始まったのが不明だが一応この時代に強まったと仮定する)については、その説明だけでは少し弱いと私は感じる。

トッドが指摘する女性的文学の登場も、どちらかというと「中国と日本の二元性が母方居住を生み出した」というよりは、「母方居住の習慣が女性的な文化の登場を可能にした」という順序ではないかと感じる。

院政ー「父系重視」の波

他方、院政は、院(上皇・法皇)が、天皇家の家長として天皇を後見するという体で実権を掌握する方式である。政治の実権は、後三条天皇の親政(1068-72)を介して、藤原氏の母方支配から父方支配の院政へと正反対に振れたことになる。

院政が始まったのは、地方で武士が台頭し、源氏と平氏を棟梁としてまとまりを見せていくのと同時期のことである。

したがって、院政の誕生は、かなり単純に、地方の勢力が軍事・行政上の実力を高め一大勢力として台頭してきたことへの、朝廷側の対応と理解することができる。

この時期、直系家族の中核的要素である長子相続の習慣はまだ発生していない。長子相続を促す「土地の不足」が生じるのは武士による所領の大規模開発が進む12世紀末のことである。

しかし、新興勢力が勢力を拡大するために武装し、紛争を多発させるという状況が、家の一体性の重視、そして父系(男性)の重視という傾向を生み出すことは容易に想像できよう。

要するに、この時代は、権力の基盤が「舶来もの」の文化的威信から在地勢力の実力に移行する過程の中で、直系家族の一要素を成す「父系権威の重視」の傾向が生まれた時代だった。

「実力」が問題となりつつある以上、天皇家も安穏と歌や儀式に興じてばかりはいられない。勢力の維持・拡大のためには、皇室も父系原則を取り入れ、新興勢力に伍していく必要があった。

そのような状況で開始されたのが院政の仕組みであり、院政とは在地の武士の間で高まった「父系重視」の波の天皇家バージョンなのである。

『平治物語絵巻』 三条殿焼討 ボストン美術館所蔵。平治の乱(1159年)

源氏と平氏ー貴族と武士の中間で

このように見ると、源氏や平氏と院の微妙な関係性も分かりやすくなる。いや、みんなは分かっているのかもしれないが、私はずっとよく分からなかったのだ。

まず、「天皇の時代→武士の時代」(舶来の権威→地物の権威)の移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族でありかつ武士であるという中間的な存在であったことが大きい。

源氏と平氏はどちらも天皇の血筋である。皇室は平安前期から経費節減のために皇族を臣籍に下すことをするようになり、そのときに彼らに授けた姓が源氏であり平氏であった(清和源氏とか桓武平氏とかいうのは直近の祖先である天皇の名前である)。

彼らはやがて武士として力を付けていくけれども、高貴な血筋であることに違いはなく、「軍事貴族」(山川教科書にこの表現がある)とでもいうような存在であったのだ。

彼らは地方の武士からは高貴な血を引くリーダーとして慕われ、武家の棟梁としての地位を固める。一方、皇族や貴族にとっても身内として頼りにしやすい存在であったので、摂関家や院に奉仕することで、中央での地位を高めていった。

宮廷の時代を終わらせた平清盛

そういうわけで、まず、院政とともに平氏の時代がやってくる。歴代の上皇が軍事力の要として平氏を重用し彼らがそれに答えたからだ。平氏にとっても、中央でのし上がっていくためには上皇の力が必要だった。

しかし、政治の中枢に近づくにつれ、見えてくるのは「平氏こそが実力者である」という事実だった。彼らの背後には家人として従う全国の武士団とその土地があり、行政・経済の面における実力でも劣るところはない。

実力の時代に差し掛かっていたからこそ、平清盛は「だったら自分が頂点に立てばいいじゃん」と思った。一方で、まだ「舶来の権威」は健在であったので、清盛は天皇の外戚としての地位を確保し、一族で官職を独占するなど、往時の藤原氏のようにふるまった。

「貴族のようにふるまう武士」として専制的な権力を振るった平氏は、院をはじめとする皇族・貴族(+寺社勢力)と武士の双方から反感を買い、その覇権はまもなく終わる。

しかし、平氏を倒すための戦いで活躍し、その地位を高めていったのもやはり武士勢力だったのである。

朝廷を乗っ取り、貴族の衣を纏って自爆した平氏は、そのことによって、皇族・貴族の時代を終わらせたのだといえる。

それあってこそ、鎌倉の武士たちは、実直な武士のやり方で「地物の権威」を確立していくことができたのだ。

今日のまとめ

  • 平安期の政治は「天皇親政(天皇本人)→摂関政治(母方支配)→院政(父方支配)」と推移した。
  • 「母方支配」の基礎は母親の教育力であり、皇族・貴族が大陸由来の文字文化を担うことで権威を保っていた時代の産物である。
  • 「父方支配」の院政は、武士の間で生まれた父系傾向の天皇家バージョンである。
  • 移行期における源氏・平氏の活躍は、彼らが貴族と武士の中間的存在であったことによる。
  • 平氏は、貴族の衣を纏って自爆することで皇族・貴族の時代を終わらせた。

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社会のしくみ

日本史概観 (1)
-建国の秘密-

日本にも秘密がある

10世紀末に直系家族の「権威」が誕生する以前、原初的核家族のヨーロッパが国家を作ることができたのは、ローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借り受けたためだった。

   *直系家族の「権威」と国家の関係についてはこちらこちらをご覧ください。

日本における直系家族の誕生は13世紀末から14世紀初頭(鎌倉時代後半)とされる1家族システムの起源I 240頁。日本もそれ以前は原初的核家族であったわけだが、その時期にすでに国家が成立していたことは明らかであろう。

ヤマト王権誕生の地と見られる纏向に大型の前方後円墳(箸墓古墳)が築造されたのは3世紀末、その後「5世紀後半から6世紀にかけて、大王を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部に及ぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していった」(山川出版社・詳説日本史B改訂版(2020) 32頁(以下「山川教科書」))。

箸墓古墳 © 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院

蘇我氏が実権を握り、飛鳥の地で推古天皇が即位したのは592年、中央集権化と律令国家への道を踏み出す大化の改新は646年(改新の詔)、大宝律令が完成するのは701年である。

したがって、日本の建国についても、ヨーロッパのそれと同じ問いを問うてみる必要がある。

当時、「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずの日本は、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

日本の国家形成と中国

日本にとってのローマ帝国は、いうまでもなく、中国である。

中国では紀元前1100年頃に直系家族システムが定着し、すでに紀元前200-100年頃には共同体家族の帝国が生まれていた。その後もシステムの強化は続き、900-950年頃までに女性の地位の最大限の低下を伴う共同体家族に到達した。

いうまでもないことばかり書いて申し訳ないが、
日本と中国の交流の歴史は古い。

外交的交流としては、漢(前漢)の時代(前202-後8)に倭人の国が定期的に使者を送っていたとか(漢書地理志)、後漢の時代(25-220)に光武帝から印綬を贈られたとか(後漢書東夷伝)、邪馬台国の王(卑弥呼)が魏 (220-265)の皇帝に使いを送り「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを贈られた (239年)(魏志倭人伝)といったことが記録に残されている。

金印 漢委奴國王印文(public domain)

4世紀には中国の南北分裂の影響で朝鮮半島にかけて高句麗、百済、新羅が生まれ、日本も加耶諸国(日本書紀では「任那」)を通じて朝鮮半島情勢に大きく関わる。日本はこの時期、朝鮮半島での外交上・軍事上の立場を有利にするため、宋(南朝)に朝貢していたという(5世紀・宋書倭国伝)。

6世紀から7世紀になると、中国は隋(589)、唐(618)が南北統一を果たし、朝鮮半島にも勢力を拡大する気配を見せる。ちょうどこの時期に政権を担った推古天皇(在位593-628)や聖徳太子(在位593-622)は、国の組織を整える作業を行う傍で、中国に遣隋使を派遣し(600年-)、外交関係の構築を図っていた。

3世紀末以降、とりわけ6世紀末以降の日本の国家形成の動きは、中国文明を中心に国際情勢が渦を巻き始める中で、日本列島にも外交・軍事上の主体としての政府が必要となったことによるものと思われる。

天皇ー中国から借りた権威

中国と対等な関係を構築していくためには、日本にも皇帝に対応する何かが必要である。そのとき生み出されたのが「天皇」だった。

村上重良先生の説明をお読みいただこう。

天皇という称号は、中国から取り入れたもので、スメラミコト、スベラギ、スベロギなどと訓(よ)んだ。‥‥中国で皇帝が天皇と称した例は、唐の高宗(在位650-683)があるのみで、中国ではもっぱら宗教上の用語である。日本での用例は、608年(推古天皇16)聖徳太子が隋に送った国書に「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとてんのう)」と称したとの『日本書紀』の記述が最初とされる。古代国家の大王がとくに天皇の称号を採用したのは、自己が天の神の子孫であることを強調するとともに、国の最高祭司として自ら祭祀を行い、祭りをすることによって神と一体化するという宗教的性格の強い王であることを表したものであろう。‥‥

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)[村上重良]

「天皇」の称号がその宗教的性格を表すために選択されたという解釈は、家族システムと国家の関係を探究するわれわれには意義深い。

聖徳太子が外交文書で「天皇」を採用した後、国内で「天皇」の称号が用いられるようになったのは、天武天皇の頃だという(山川教科書39頁)。

壬申の乱(672年)で大友皇子を倒して即位した天武は、乱で(豪族を追い落として)勝ち取った強大な権力をもって中央集権的な国家体制の形成を進めた(なお、このとき天武が勝利を祈願した伊勢神宮が国家的祭祀の対象となった)。日本はこの少し前に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しているから(663年)、国力の強化は課題として意識されていたはずである。

日本には天武という力のある王がいて、家族システムは発達していない。この状況で中央集権的な「強い」国家を形成していくために、万世一系の神の権威が必要だったのであろう。フランクの王クローヴィスがキリスト教に改宗し、一神教の権威を身に纏ったのと同じように。

天武天皇を支えたのが伊勢の神であったとしても、天皇の権威を裏付けていたのは伊勢神宮ではないだろう。

大陸の威光に照らされることなしに、日本という国、そして、天皇という存在が生まれることはなかった。神との一体性という物語に彩られたその権威の真の源泉は、中国帝国の皇帝と並び立つ存在であるという事実の方にあったのである。

日本史の基本的対立軸
ー舶来の権威 VS 地物の権威 

そういうわけで、国家としての日本の出発点には、中国の威光に照らされた天皇の権威があった。中国由来の「舶来」の権威は、家族システムの発達を見ていなかった日本が国家を形成するには不可欠なものだった。

しかし、農耕が発達して人口が増え、やがて土地が不足していけば、日本の国土の上でも家族システムの進化が起きる。定石通りであれば、それは直系家族となるだろう。

冒頭で述べたように、日本では13世紀末から直系家族システムが形成されていく。直系家族が生成するということは、社会に縦型の権威の軸が生まれ、自律的な国家形成が可能になるということである。すでに「舶来の権威」のもとで国家が作られている土地で新たに「地物」の権威が発生すると何が起きるか。

自然の成り行きとして、「地物の権威」は自らの権威に拠って立つ国家を作ろうとする。これも自然の成り行きとして、新たな権威は既存の古い権威とぶつかる。直系家族の生成が始まると、「地物」の権威と「舶来」の権威が衝突し、勢力争いが始まるのである。

二つの権威と家族システムに着目すると、日本の歴史は、「舶来の権威」の時代から「地物の権威」の時代、つまり、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程として描くことができる。

家族システムが未完成の間、二つの権威はしばし並存し、綱引きをする。しかし、完成した暁には、国家の仕組みは直系家族の縦型の権威構造にしたがって組み替えられるのである。

予告編

移行過程を時代区分に照らして見ると、「舶来の権威」の時代に当たるのは飛鳥・奈良・平安時代、到達点の「地物の権威」が徳川支配の江戸時代である。

その中間に、天皇と未完成の直系家族の権威が併存し、対立・綱引きする時代(平安末期・鎌倉・室町)があり、優位を確定させた直系家族が直系家族間の覇権争いに天皇の権威を利用する時代(戦国・安土桃山)がある。それを経て、ようやく、直系家族が支配権を確立し、天皇の権威なしにやっていく時代(江戸時代)が来るのだ。 

移行期に当たる平安末期から江戸時代の開始まで‥‥そう、この時代こそ、何がなんだかよく分からない時代ですよね?

藤原家の摂関政治の後が院政で、平氏の時代かと思えば院と源氏がともに平氏を倒し、すぐに頼朝は院と対立し、その後実権を握った北条も院と争い、蒙古襲来で北条の力が落ちると後醍醐天皇が出てきて足利尊氏と一緒に倒幕したのに尊氏は別の天皇を立てて幕府を開き、南北朝の動乱はいろんな勢力を巻き込んで全国に広がって60年も続き、収まったと思ったらまたいろんな家が入り乱れて応仁の乱を戦い、誰が勝ったかよく分からないうちに戦国時代になって、やがて政治の中心は京から江戸に移るのだ。

「だから何?」「これ全部覚えて何かいいことあるの?」と高校生の私は思っただろう(覚えられなかったので受験科目は世界史を選択した)。

移行期にあたる平安末期から江戸時代の開始までは、直系家族が生成していった時代であると同時に、識字率が(たぶん)上昇を続けた「プレ近代化」の時代でもある。男性識字率50%(19世紀後半)とはいかないまでも、文字を読む層が、皇族・貴族・聖職者から武士、商人、農民(+それぞれの上層から中層)へと拡大し、政治的な発言力を持つ層が広がっていく。

識字層の拡大がもたらす成長に家族システムの進化が伴う地殻変動の時代だからこそいろいろな事件が起こるのだが、事件の意味は分かりにくい。

しかし、家族システムの進化が絡んでいることを意識すれば、それだけで、面白いほどよく分かるようになるのである。

というわけで、次回以降、家族システムの進化に焦点を当てて、「舶来の権威」の国家が「地物」直系家族の国家に生まれ変わるまでの過程を追ってまいります。

今日のまとめ

・直系家族の成立以前、原初的核家族の日本は大陸の威光を借りて国家を建設した。

・直系家族の生成が始まると、直系家族の「地物の権威」と大陸由来の「舶来の権威」が衝突した。

・近代以前の日本の歴史は、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程である。

  • 1
    家族システムの起源I 240頁
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宗教と学問

脱キリスト教の開始とイデオロギーの誕生

宗教も国王も打ち捨てたフランスは、その「権威」の穴を何で埋めたのか。結論から言おう。学問である。

宗教の死によってイデオロギーの誕生が可能になる。人間は、消え失せた神のイメージの代わりに、直ちに新しい理想社会のイメージに飛びつく。1789年以降、ヨーロッパは相次いで押し寄せるイデオロギーの波に洗われることになる。フランス大革命、自由主義、社会民主主義、共産主義、ファシズム、民族社会主義……これらのイデオロギーの波は、時間と空間の中での脱キリスト教化の各段階に結びついている。

『新ヨーロッパ大全 I 』249頁

ヨーロッパにおける脱キリスト教化の開始時期とイデオロギー誕生の時期は一致している。

1789年〔フランス大革命〕以来、かくも多くの政党と共和国を育むことになった自由・平等のイデオロギーは、脱キリスト教化のわずか数十年後に発生している。脱キリスト教化は、1730年から1750年の間に、フランスの国土の三分の二で起こったのであった。

『デモクラシー以後』52頁

文字を読むようになった人々は信仰を捨て、唯一の正統教義のかわりに、好みのイデオロギーを選んで熱狂的に支持する。民主主義の始まりである。

波を生み出すのは識字化した市井の人々だが、イデオロギーそのものを生み出すのは学問の府、大学である。ロック、ルソー、カント、ヘーゲル、マルクス。彼らはみな何らかの形で大学やアカデミーに関わりその思想を世間に流布していった人々であり、学問が宗教に代わる権威となった時代を象徴する人々といえる。

Godfrey Kneller – Portrait of John Locke (1697)(public domain)

中世に神学者を輩出してキリスト教の権威を支えた大学は、脱宗教化の後には、自らが権威の源泉となって、近代国家を支えたのである。

脱キリスト教の完成とイデオロギーの崩壊

しかし、市民がイデオロギーに熱狂する時代は長くは続かなかった。

1965年から1990年までの間、ヨーロッパのイデオロギー・システムの大部分は、容赦ない解体のメカニズムに曝される。それは信条を破壊し、政党を弱体化し、政治的選択というものの本性を一変させ、全ては虚しく意味が無くなったという感情をいたるところで醸し出すのである。

『新ヨーロッパ大全 II 』265頁

フランス共産党は1978年には20.6%の票を獲得していたが1988年には11.3%に落ち込む。同様の低落傾向は明確なイデオロギーを有するすべての政党に認められ、共産党、ドゴール主義(民族主義右翼)、穏健右派、キリスト教民主主義の4政党の合計得票率は1962-1988の間に79.2%から49%へと大幅に低下するのである(なお、この間に行き場を失った票の受け皿として勢力を拡大したのが社会党である)1『新ヨーロッパ大全 II』314-318頁

1965年-1990年というこの時期、イデオロギーの崩壊という現象は、主義主張の中身を問わず、あらゆる政治的信条を平等に呑み込んでいく。この動きは、フランス、イギリス、オランダ、デンマーク、スペイン2いずれも核家族が中心であるといった国々でとりわけ大きくかつ急速だった。

何がこの変化をもたらしたのか。答えは単純である。

この変化の発端は実に平凡で、それは宗教の危機、ヨーロッパ圏の歴史上最後の宗教危機で始まった。

『新ヨーロッパ大全 II 』265頁

フランスでは、中心部の脱宗教化は1730-1800年に完了していたが、周縁部に残っていた宗教実践が1950-1970年の間に失われた。ヨーロッパ全体では、最後まで生き残っていた反動的カトリシズムが1965年から1990年にかけて消滅していく

イデオロギーの時代は、脱キリスト教化の開始とともに訪れた。ところが、脱キリスト教化が完了すると、同時にイデオロギーの方も力を失ってしまうのである。

フランスの国土の三分の一に活動的な宗教が存続したことは、フランスのイデオロギー・システムの良好な作動のために最後まで必要であり続けた、ということが分かる。共和主義、社会主義、共産主義は、実際上は、残存的カトリック教との対抗関係の中で自己定義を行なったのであり、残存的カトリック教は、いわば陰画(ネガ)の形で、それらのイデオロギーを構造化したのである。この宗教の死は、まるでそれが跳ね返ったかのようにして、近代イデオロギーを死に至らしめた。

『デモクラシー以後』52-53頁

宗教的危機のインパクトー西欧の場合

この連載の開始時に書いたように、トッドは現代の西欧世界の危機の根源には宗教的危機があるという立場を取っている。

神なき世界の出現は、幸福感につながるどころか、激しい不安、欠落感へと立ち至る。‥‥

天国、地獄、煉獄の消滅は、奇妙なことに、すべての地上の楽園の価値を失墜させてしまうのだ。‥‥ すると意味というものの必死の探求が始まる。それは通常、歴史的には、宗教が統制していた金銭、性行動、暴力という項目に括られる領域における極端な感覚の追求という形で行われるのである。

『デモクラシー以後』54頁、55頁

ここから、トッドは、人間精神の安定にとって信仰が古来から果たしてきた役割の決定的重要性という命題を引き出すのだが、私の考えは少し違う。

確かに、ヨーロッパの人間の精神の安定にとってキリスト教が果たしてきた役割は決定的に重要であったと思う。

なぜかといえば、キリスト教は、ヨーロッパの主要な家族システムである核家族に欠けている「権威」を補う役目を担っていたからである。

国家というシステムは、多数の人間が一定の領域内で共存していくためのシステムであり、安寧秩序の維持のためには、人々が共通の「正しさ」の存在を受け容れることが不可欠である。

共通の「正しさ」は、ルールの基盤となって人々の行動を制御することを可能にし、それ以上に、共通の「正しさ」の下にあるという感覚によって、人々の心を繋ぎ、安定させる。

この共通の「正しさ」を基礎付けるものが「権威」であり、だからこそ、権威の誕生(=直系家族の誕生)が国家の誕生と同期するのである。

直系家族の民や共同体家族の民が自然に持っている「みんなの正しさ」の感覚を、核家族の民は持っていない(家族システムと価値の対応関係についてはこちら)。

そこで、彼らは、彼岸にいる唯一絶対の神の存在を信じることによって、共有物としての「正しさ」を希求するという心の型を手に入れた。

核家族の国家は、神を畏れ、神への接近を希求するという心の動きが共有されたことで初めて、その統合を保つことができたのである。

西欧近代が見せた学問への情熱やイデオロギー的熱狂は、おそらく、神を希求する心の型がそのまま世俗の事物に転用されたことで可能になったものである。

だからこそ、それは信仰の喪失とともに失われ、西欧に深刻な精神的危機をひき起こすことになったのだ。

学問の時代の終わり

識字化の進展とともに、神の存在に疑念を抱くようになった人々は、その不安を癒すべく、頻りに神の存在について論じた(17世紀前半~)。デカルト(1596-1650)が神の存在証明を試み、パスカル(1623-1662)は神の実在に賭け、スピノザ(1632-1677)は汎神論を説いたように。

17世紀後半になると、核家族のヨーロッパ(イギリス、フランス)は、神の教えの代わりに人間理性を讃えるようになり、啓蒙の時代、言い換えれば、科学とイデオロギーの時代がやってくる。

アカデミアに属する知識人がヒーローとして燦然と輝いた時代。ジョン・ロック(1632-1704)を端緒、ミシェル・フーコー(1926-1984)を掉尾とするなら、こうした時代は約300年間続いたことになる。

Michel Foucault (1974) (public domain)

人文・社会科学の研究者で、この時代のヨーロッパの輝きに憧れたことがない人は少ないだろう。なぜ日本からは世界を魅了する力強い思想が生まれないのかと嘆き、強い「個」の確立を説く声はつい最近までよく聞かれた。同様に、社会における大学および学問の地位の高さにおいても、ヨーロッパは日本の大学人の憧憬の的であったように思う。

西欧における学術・イデオロギーの繚乱は、全知全能、唯一絶対の神のいました台座に渦巻く磁場が可能にしたものであり、キリスト教のドーピング作用が失われゆく過程のヨーロッパに一時的に顕現した特殊な現象であったと考えられる。

ご先祖さまに守られ「おてんとさま」3直系家族の権威の性質を一番よく表しているのは「おてんとさまが見ている」という感覚や「おまわりさん」への親しみの感覚だと思う。詳細は(もしかしたら)後日に照らされてぬくぬくと国家を営む日本にそのような磁場が渦巻く場所はない。補う必要がないから補填物が生まれなかったという事実を、「遅れている」とか「劣っている」と評価するのは端的に誤りだし、ばかげてもいるだろう。

いずれにせよ、キリスト教の残火が輝いた時代は終わった。それは20世紀末できっちり終了し、私たちはすでに西欧の特別な輝きが失われた世界を生きている。長くその輝きに幻惑され、恩恵も受けてきた私たちは、その現実の意味するところをよくよくかみしめる必要があると思う。

今日のまとめ

  • ヨーロッパでは脱宗教化の開始とともに学問・イデオロギーの時代が始まった
  • 脱宗教化が完了すると同時に学問・イデオロギーの時代も終了した
  • 西欧近代における学問・イデオロギーの特別な輝きは「唯一絶対の神を希求する」心の型が世俗の事物に転用された結果である
  • 西欧の宗教的危機が特別なインパクトを持ったのは、キリスト教が核家族に欠けている「権威」を代替していたからである

  • 1
    『新ヨーロッパ大全 II』314-318頁
  • 2
    いずれも核家族が中心である
  • 3
    直系家族の権威の性質を一番よく表しているのは「おてんとさまが見ている」という感覚や「おまわりさん」への親しみの感覚だと思う。詳細は(もしかしたら)後日
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カトリックとライシテのフランスー建国の秘密(西欧編)

ゲルマン人はなぜ国家を作れたのか?

ヨーロッパにおける直系家族の起源は10世紀末、カペー朝のフランス(フランク王国)である。ローマ帝国分裂の頃からヨーロッパに入ってきていたゲルマン人たちは基本的に「家族システム以前」の原初的核家族であり、国家形成に必要な「権威」の軸をまだ持っていなかった。

それでも、彼らは国家を作っていく。西ゴート王国、ブルグンド王国、ランゴバルド王国、アングロ=サクソン七王国とか。中でもフランク王国は栄え、のちに分裂してフランス、ドイツ、イタリアの元になる。

ゲルマン人たちは「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずなのに、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

私の考えでは、原初的核家族に国家の樹立・運営が困難なのは、彼らがその家族システム(=メンタリティの深層)の中に「権威」を持たないからである。

それでも国家を作りたかったらどうしよう。
どっかから「権威」を借りてくればよいのだ。

フランスの誕生

ヨーロッパの場合、ローマ帝国の権威、そしてローマの遺産であるキリスト教がそれに当たる。内面に深く働きかける宗教、しかも一神教であるキリスト教は、核家族の無意識に「権威」を補う最高のサプリメントであったと思われる。

今回はフランク王国(≒フランス)の場合を少し詳しめに見ていきたい。

彼らはどのようにキリスト教と関わり、国家を築いていったのか。

そして、家族システムが進化し国家が軌道に乗ったとき、国家とキリスト教の関係はどのように変化していったのか。

①クローヴィスの洗礼(メロヴィング朝)
 ー原初的核家族+外付けの権威

ガリア北部からピレネー山脈までを支配下に収めたフランクの王クローヴィス(在位481-511)は、496年に洗礼を受け、キリスト教に改宗している。

ローマ教会の司教の勧めによるものだというが(ブルグンド王国出身の妻の勧めという説もあり)、タイミングがとてもよかった。

この以前、教会内部に教義上の争いがあって、アリウス派とアタナシウス派が対立していた(内容はさしあたりどうでもよい)。

論争の決着は4世紀末に着き、アタナシウス派が正統(カトリック)となったので、5世紀に改宗したクローヴィスはアタナシウス派を受容した。

しかし、ローマの近くに位置していたためにより早期に改宗していた各国の王たちは、みなアリウス派だった。

クローヴィスは図らずも「唯一のカトリック王」となり、カトリック王としての権威と「異端からの解放」という(周辺地域征服の)大義が与えられたのである。

カトリック王としての権威によってローマ帝国時代の貴族たちも味方に付けたクローヴィスは、武力に加え、教会(キリスト教)の権威、征服の大義、貴族たちの行政能力を手に入れて、国家の統一を成し遂げた。

クローヴィスの頃のフランクは原初的核家族であったが、教会との関係および唯一のカトリック王としての地位を「外付けの権威」として用いることで、統一国家の樹立に成功したといえる。

②「聖別」の典礼(カペー朝)
 ー直系家族+権威の補強

しかし、この統一は長続きしない。原初的核家族のメロヴィング朝は相続の度に王国の分割をめぐって争いを起こし、混乱の末にカロリング朝に取って代わられる。

そのカロリング朝の王たちは順調に支配領域を拡大し、シャルルマーニュ(=カール大帝)の時代には、ドイツ、フランス、イタリアにまたがる広大な地域を支配下に収め、ローマ教皇からローマ皇帝の戴冠を受けるまでになる(800年)。

しかしまだ核家族だったのでやはり相続争いを避けられず、シャルルマーニュの死後、カロリング帝国はフランス、ドイツ、イタリア(の原型となる3つの国)に分裂してしまうのである。

「おい、そろそろ何とかしろよ」と思えるこの頃、ようやく、フランス領域内で家族システムの進化が始まる。

柴田三千雄『フランス史10講』によると、この頃のフランスでは、王の任命で行政官として配された地方の有力者たちが「分割継承をめぐる武力抗争の過程で武装銃士団をつくって自立し、領邦権力にまで成長していた」という。

ちょうど、日本で武士というか武家が生まれてくるのと同じような感じである。この領邦権力=貴族たちは、間もなく、長子相続を採用し、直系家族を確立していくだろう。

下から権力が育ってくると、国王の権威は揺らぐ。選挙王制が採用され、カロリング家以外の王が登場したのもその一つの現れである。

まず888年にロベール家のウード、987年にはやはりロベール家のユーグ・カペーが非カロリング家の王となった。

ユーグ・カペーは、相続争いを避け安定的な継承を可能にするため、貴族の間で広まりつつあった長子相続制を自ら採用し、生前に長子を後継者に指名する。こうして、ついに、家族システムの進化(直系家族)とともに、カペー朝が始まるのである。

カペー朝の登場は、現在から見ると、実質的に「フランス国誕生」と同視できる大きな事件であるが、当初、その権力基盤は脆弱だった。

シャルルマーニュが持っていたローマ皇帝の称号は、さっさと直系家族を定着させて安定を見たドイツに持っていかれてしまうし(962年オットー1世に教皇からローマ皇帝の称号が与えられ、神聖ローマ帝国が始まる)。

内外に対してその正統性を主張する必要に迫られたカペー朝が用いたのも、やはりキリスト教だった。

カペー朝は「聖別」の儀式としての塗油を即位式の典礼として確立する1カロリング帝国分裂後のフランス(西フランク)で新たに生み出されていた伝説(クローヴィスの洗礼の際、白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りたという)に依拠するものという。。塗油の儀式には、神による選択という意味が込められる。これによって、カペー朝の王は、教会の権威にも依存せず、神に選ばれ、神に超自然的な力を与えられた者、いわば「新たなキリスト」と位置づけられたのである。

③教皇のバビロン捕囚
 ー教皇を屈服させる王権

当初は群雄割拠の中の名目上の王に過ぎなかったカペー王朝は、12世紀以降次第に勢力圏を広げ、14世紀初めには王国の約4分の3を支配下に置くなどして、実質的な統一を実現していった。

12世紀以降というこの時期は、フランスの主たる家族システムである平等主義核家族が成立した時期と一致している。

10世紀に生まれた直系家族はドイツ全土に広がったが、フランスでは農地システム(大規模土地所有)に阻まれて拡大を止めた(大規模土地所有はローマの遺産である)。

しかし、直系家族を拒んだ地域では、貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営の再確立とともに、平等主義核家族が「再浮上」したのである2「再確立」とか「再浮上」とかいう言葉は、ローマ帝国時代のものが一旦失われて再度現れたことを指示する。

この時期が、フランスという国の「国柄」が確立されていった時期といってよいだろう。

基層における(直系家族+)平等主義核家族システムの確立と実質的な国家統一が同時に実現したこの時期に、世界史の教科書でも印象深い、教皇ボニファティウス8世と国王フィリップ4世の確執が起きている。

ヨーロッパ各国の王と教皇の間には従前から聖職者への課税や司教の任命権をめぐる対立があったが、フランス王は教皇と比較的良好な関係を保っていた。

しかし、カペー朝の王は13世紀後半から攻勢に出る。フィリップ4世は教皇権の絶対性を主張する教皇を側近に急襲させ監禁するという挙に出たのである(1303年 アナーニ事件)。教皇はまもなく釈放されたが屈辱のうちに死亡した(「憤死した」とも言われますね)。

フィリップ4世はその後教皇庁をアヴィニョン(南フランス)に移し、以後約70年間、教皇を支配下に置く(教皇のバビロン捕囚 1309-1377)。

王権の拡大と教皇権の衰退を示すエピソードとして知られるこれらの事件は、ヨーロッパの国家建設においてキリスト教が果たしていた役割を頭に置くと、いっそう分かりやすくなる。

原初的核家族のゲルマン人が国家を樹立するには「外付けの権威」としての宗教が不可欠だった。

家族システムの進化とともに国家が権力基盤を固めていく過程においても、宗教の力を借りて「権威」を補強する必要があった。

しかし、王権が伸張し、国家運営が軌道にのってくれば、聖なる権力はむしろジャマになる。この段階に至ると、これまでとは反対に、宗教の権威を押さえつけ、あからさまに蹂躙することこそが、王の権威を高めることになるのである。

ライシテ(政教分離)の基盤

フランス王国はその後もカトリック国家であり続けたが、革命を経た共和政フランスは、国王の権威を否定すると同時に聖職者の権威も否定し、やがて、公共領域から宗教を徹底して排除する独自の政教分離原則(ライシテ)を確立するに至る。

とりわけ厳格な宗教排除原則がフランスで確立されたのは、同国に定着したのが平等主義核家族システムであったことによると考えられる。

「自由と平等」のフランス市民にとって、宗教は「権威と不平等」そのもの、彼らの価値観に真っ向から対立する不倶戴天の敵である。

彼らの意思が政治に反映されるようになった時点で、公共領域からの宗教の排除は必然であったのだ。

経緯を整理しておこう。

①第1段階:原初的核家族のフランス
権威の欠落をキリスト教で補い、国家建設に成功。

②第2段階:直系家族のフランス
王侯貴族(と一部地域の人々)の間に直系家族が定着し「権威」が発生するが、キリスト教は引き続き脆弱な権力基盤を補強する役目を果たす。

③第3段階:直系家族+平等主義核家族のフランス
王権が伸張し中央集権国家が軌道に乗る。王は教皇を侮辱し聖職者を支配下に置くことで安定した国家運営を図る。

④第4段階:平等主義核家族のフランス
直系家族(王侯貴族)VS 平等主義核家族(一般市民)の戦いで(も)あったフランス革命で平等主義核家族が勝利。「自由と平等」の人民は「権威と不平等」の権化である宗教の公領域からの排斥を求める。

次回に向けて

原初的核家族がキリスト教の助けを借りて作った国家である点は他のヨーロッパ諸国も同じだが、宗教への態度や宗教(および脱宗教化)が社会に与えた影響は国によってかなり異なる。おそらくは定着した家族システムとの関係なので、次回に探究したい。日本との比較もできると思う。

もう一つ。国家における「権威」の重要性を知ると、宗教を排斥し、国王も排斥したフランスが、その空白を何で埋めたのかを知りたくなる。この点も次回以降に探究しよう。

今日のまとめ

  • 原初的核家族(権威なし)であるゲルマン人の国家建設にはキリスト教の権威が不可欠だった。
  • キリスト教は、直系家族+平等主義核家族のフランスが生まれた後も、権力基盤の強化・安定に役立った。
  • フランス革命は直系家族(王侯貴族) VS 平等主義核家族(一般市民)の戦いでもあった。
  • 革命に勝利したフランス人民(平等主義核家族=自由と平等)にとって、宗教(権威と不平等)は不倶戴天の敵だった。
  • ライシテは、平等主義核家族と宗教システムの極度の不適合が生み出した制度である。

<主要参考文献>
・柴田三千雄『フランス史10講』(岩波新書、2006年)
・エマニュエル・トッド(石崎晴己訳)『新ヨーロッパ大全I』(藤原書店、1992年)
・エマニュエル・トッド(石崎晴己監訳)『家族システムの起源I ユーラシア 下』(藤原書店、2016年)

  • 1
    カロリング帝国分裂後のフランス(西フランク)で新たに生み出されていた伝説(クローヴィスの洗礼の際、白い鳩が聖油の小瓶を口にくわえて天から舞い降りたという)に依拠するものという。
  • 2
    「再確立」とか「再浮上」とかいう言葉は、ローマ帝国時代のものが一旦失われて再度現れたことを指示する。
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国家と宗教
ー一神教と多神教ー

神は権威を支える

国家を統治するために不可欠の道具は「正しさ」である。武力でも一時的な秩序維持は可能だが、長きに渡って共存していくことを前提とするのが国家である以上、いずれその正統性を「正しさ」(=法)に求めなければならないときが来る。

強さとは異なり「正しさ」は自然界に存在しないので、統治に使うには裏付けが必要である。それを担うのが権威だ。

縦型の権威がないところに国家がなく、権威が生まれると同時に国家が誕生するのは、そういうわけである。

そう考えると、国家の誕生と同時に歴史(=文字)が生まれ、宗教が生まれるという事実も驚くには当たらない。

直系家族(国家誕生の第一段階である)の場合、権威の基礎は先祖代々家系が受け継がれてきたという事実にあるので、歴史を書き記し後世に伝えることは欠かせない。

そして、直系家族に限らず、権威を自他に対して納得させるには、彼岸から、神に支えてもらうのが一番なのだ。

直系家族の神

世界で初めて都市国家を生んだシュメールの宗教は多神教である。

この点は、同じ直系家族の日本人には分かりやすい。

直系家族システムを支えるのは縦のラインだが、そのラインは一本ではないし、それぞれの線が一人の先祖だけにつながっているわけでもない。

田中さんには田中さんの先祖がいて、鈴木さんには鈴木さんの先祖がいる。

それぞれの家系に、お父さん、おじいさん、ひいおじいさん、ひいおばあさん(女性が権威を担うこともある)・・と沢山の人々が連なって、権威を構成しているわけなので、神様は一人で済むわけがないのだ。

エマニュエル・トッドは直系家族と一神教のつながりを論じたことがある(『移民の運命』198頁以下)。しかし、これはちょっと無理筋だと私は思う。ルター派の強い神のイメージと浄土真宗の阿弥陀信仰に共通性を見出したりするのだが、ドイツは直系家族の成立以前にキリスト教を受容しているからその範囲内でアレンジしただけと思われるし、浄土真宗が阿弥陀を大事にするからといって日本人の信仰が一神教的であるとは到底いえないだろう。トッドは当初ユダヤ人を直系家族と見ていたので(のちに撤回している)、それに引っ張られた面もありそうだ。

勝手に断言しよう。
直系家族システムの権威を支える宗教体系は多神教だ。

間違いない。

帝国を支える神

中東では、直系家族とともに都市国家が生まれた後、都市国家間の争いが絶えない時代を経て統一国家が生まれ、やがて帝国に発展する。そのとき、社会の基層では、共同体家族システムが形成されていた。

国家統一がなされると何となく一神教が生まれそうな感じもするが、おそらくそうではない。

帝国では、王は何らかの形で神格化され、王にその身を投影する神は最高神とされるであろう。しかし、ほかにもさまざまな神、妃や母に当たる女神や、帝国に服属する地域の神などがいて、皆が揃って最高神を崇める、といった形で現実の王の権威を支えるのが典型的ではないかと思われる。

共同体家族の帝国では、頂点に君臨するのは生身の王であり、その人格こそが権威の源泉である。直系家族にも当てはまることだが、すでに確固たる権威が存在する国家において、宗教に期待されるのは補強の役割にすぎない。世俗の権威を凌駕するような強大な神にいてもらってはむしろ困るのだ。

王が君臨する国家と一神教の相性の悪さは、旧約聖書にも描かれている。

唯一神ヤハウェは、預言者サムエルを通じて、イスラエルの人々に、異教の神々への信仰を捨て、ヤハウェのみに心を定めることを要求する(一神教であるゆえんである)。しかし、ヤハウェの要求はそれにとどまらない。ヤハウェは人々に、世俗の王を求めず、ひたすらヤハウェのみに従うことを求めるのである。

聖書が王の君臨する国家をロクでもないものと考え、ほとんど憎しみすら抱いていることは、世俗の王を求める民に預言者サムエルが伝える次の言葉に現れている。

君達を支配する王の習慣(ならわし)は次のようなものだ。彼は君達の息子をとって、自分の為にその戦車に乗り組ませ、王の軍馬に乗らせ、又王の車の前を走らせる。又彼らを千人の隊長、百人の隊長とし、更にその耕地を耕させ、刈入れの労働に服させ、又武器の製造と戦車の装備にあたらせる。君達の息女(むすめ)達をとって、香料作りとし、料理女とし、又パン焼き女とする。王は君達の畑地と葡萄園と橄欖畑のよきものを取り上げ、それを彼の宦官と役人達に与える。又、君達の下僕(しもべ)、婢女(はしため)、又君達の牛のよきものと驢馬とを取って、自分の為に働かせる。彼は君達の家畜の群の十分の一を取り上げ、君達は遂に彼の奴隷となるであろう。君達はその時自ら選んだ君達の王の前に泣き叫ぶであろう。しかしヤハウェは最早その時君たちに答え給わない。 

『サムエル記』(関根正雄訳)岩波文庫、昭和32年、29頁

それでも人々は、自分たちにもよその国と同じように王が必要であると言って聞かない。そこで、ヤハウェは彼らに王(サウル)を与えるが、サウルはヤハウェの命令に背いたことで王位を奪われ、王国の樹立はつぎのダビデの治世まで持ち越されることになる。

一神教を必要とするのは誰か

直系家族システムの国家には縦に連なる権威の軸が存在し、家々の祖先達を思わせる多神教の神々がそのイメージを補強する。

共同体家族システムの帝国には生身の王が君臨し、下位の神々の上に最高神が君臨する天界のイメージが、王の権威の正統性を強化する。

現実世界に確固とした権威を備えたこれらの国家は、決して、世俗の権威を否定するような強大な神を彼岸に生み出すことはない。

ではいったい誰が一神教の神を必要とするのだろうか。

家族システムと国家の対応関係を知った後では、答えは明らかなように思われる。

原初的核家族である。

親子関係兄弟関係国家形態
原初的核家族不定(イデオロギーなし)不定(イデオロギーなし)なし
直系家族権威不平等都市国家 / 封建制 
共同体家族 権威平等帝国
(表1)家族システムの「進化」と国家

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。
それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

以上が私の仮説である。さて、これが実例で証明できるかどうか。
試してみよう。

例証① ユダヤ教

もともと遊牧民であったため、長く未分化な核家族性を保持していたユダヤの人々が、国家(イスラエル王国)を形成するに至ったのは、紀元前11世紀の終わり頃である。

世界史の教科書によると、シリア・パレスチナ地方では、紀元前13世紀頃の「海の民」の進出によりエジプト、ヒッタイトという大国が勢力を後退させ、それに乗じてアラム人・フェニキア人・ヘブライ人(ユダヤ人)が活動を開始していた。

このうち、アラム人とフェニキア人はそれぞれシリアと地中海沿岸に多くの都市国家を建設していた。アラム文字は楔形文字に代わってオリエント世界の多くの文字の源流となり、フェニキア文字はアルファベットの起源となったということでも知られる。そして、彼らの宗教は多神教である。都市国家、文字、多神教‥‥おそらく、彼らの家族システムは直系家族だ。

一方、原初的核家族のユダヤ人には国家がなかった。しかし「海の民」の一派であるペリシテ人との争い等を通じ、ユダヤの人々は王が統率する国家の成立を待望するようになっていた。

その経緯は、旧約聖書の「サムエル記」(「王国の書」の別名もある)で扱われている。

預言者サムエルの下でヤハウェに忠実であった間、ペリシテ人は撃退され、再度イスラエルを侵すことはなかった。やがてサムエルは年を取り、その息子達を後継に任じたが、彼らは父と違って行いが悪く、およそ頼りにならなかった。

人々はサムエルに訴える。

「御覧下さい。あなたは既にお年を召され、あなたの息子達はあなたの歩まれた道を守りません。さあ、どうかわれわれを審(さば)く為、総ての異国の民と同じようにわれわれに一人の王を与えて下さい。」

『サムエル記』28頁

前々項で引用した「王の習慣(ならわし)」に関するサムエルの言葉は、この訴えに対する回答の中で述べられたものである。しかし、人々はそれを聞こうともせず、こういうのである。

「いや、われわれには王が必要です。私達もそうすれば他の総ての国民と同じようになるでしょう。王は私達を審き、先頭に立って出陣し、われわれの戦いを闘ってくれるでしょう」。

『サムエル記』29頁

エジプトやヒッタイトはもちろん、アラム人にもフェニキア人にもペリシテ人にも王があり国家があるのに、ユダヤの民にはそれがない。しかし、彼らだって人並みに、先頭に立って彼らを率いてくれる王が欲しかったのだ。

家族システムの中に権威を持たない彼らは、そのままでは国家を作れない。そこで、必要に駆られた人々は、その彼岸に、強大な神ヤハウェを頂く一神教を作り上げた。

天上の権威を地上の権威に代替することで、国家の建設を可能にしたのである。

と、このように考えると、かなり辻褄が合うように思われる。

例証② キリスト教

キリスト教については、1世紀以後ローマ帝国の版図内で勢いを増し、コンスタンティヌス帝の下での公認(313年)を経て、テオドシウス帝の下で国教とされるに至った(392年)、その「時期」に着目したい。

共和政末期から帝政の初期にかけて(前1世紀~)、ローマはガリア全土(現在のフランス、ベルギー)とブリタニア(イギリス)を征服、ヒスパニア(スペイン)を吸収し、西ヨーロッパ全体を版図に収め、北アフリカとエジプトも支配下に置いた。

ローマ帝国は絶頂期を迎えたわけだが、西と南に向かう版図の拡大は、水面下で、というか社会の最基層、家族システムの層において、後の解体につながる本質的な変化をもたらしていた。

トッド入門講座の方で扱ったが、当初は父系制で共同体的であったローマの家族システムは、「共和政末期から後期ローマ帝国に至る少なくとも6世紀に渡る期間」に一種の退行を見せ、おそらくは征服した核家族地域(西ヨーロッパとエジプト)の影響で、より核家族的なシステムに変化していったのである。

キリスト教が普及し、迫害、公認を経て、ローマ帝国の国教となって定着する期間(後1世紀~5世紀)は、ちょうどローマが西ヨーロッパを版図に収め、家族システムを退行させていく期間と一致する。

未分化の核家族であるユダヤ人の間で生まれたキリスト教が、この時期に帝国版図内の人々の心を掴んでいったのは、やはり未分化の核家族であった西ヨーロッパの人々にとっては、帝国という現実に順応するのに必要な(意識下の)「権威」を、その一神教が彼らに供給してくれたためかもしれない。

帝国中央部の人々にとっては、(家族システムの退行により)薄らいでいく権威を、その一神教が補充してくれるのが感じられたためかもしれない。

もちろん、それでも帝国の分裂を回避することはできず(395年)、西ローマ帝国の方はまもなく滅亡に至る(476年)。しかし、この地に根付いたキリスト教は、おそらく、多くは未分化の核家族であったゲルマン人に権威を貸し与えることで、その国家形成を促すことになるのである(次回扱う予定です)。

例証③ イスラム教

最後はイスラム教である。

唯一神アッラーへの信仰を説いたムハンマド(570頃-632)が、軍事的・宗教的指導者としてイスラム共同体を成立させ、アラビア半島の大半を支配するに至った頃、アラブ人の家族システムは(内婚制)共同体家族システムであった。

しかし、アラブ人が生粋の共同体家族の民であったかというと、決してそうではない。

メソポタミアから見れば辺境であるアラビア半島で遊牧生活を送っていた彼らは、中央部で共同体家族が確立してからも長い間、未分化の家族システムを保っていた。

彼らの共同体家族は、2-3世紀から5-6世紀の間に受容した、比較的新しいものなのだ(システムの新しさは一般にシステムの弱さを意味します)。

後に中東を席巻した内婚制共同体家族というシステムは、アラブ人が(外婚制)共同体家族を受容したとき、叔父方イトコとの結婚を理想とする「内婚制」を付け加えたことで生み出されたものである(比較的男女平等であったアラブ人が女性の地位を確保するために編み出した工夫ではないかというのがトッドの仮説である)。

元々のシステムから来る彼らのメンタリティは、硬質の共同体家族とはミスマッチであり、修正を加えなければ受け入れることができなかったのである。

国家形成に不向きな「システム以前」の状態にあったアラブ人に、たった数世紀の間に、統一国家、さらにはイスラム帝国を建設させるだけの軍事的・政治的統率力を与えたもの、その一つはもちろん共同体家族の伝播であるが、それを補強したのが一神教の受容ではなかったかと思われる。

ムハンマド以前、アラビア半島には国家も大都市もなかったが、アラブの人々は、隣接するササン朝ペルシアとビザンツ帝国から強い影響を受けていた。各地の有力者はササン朝皇帝の「総督」という称号を受けてそれぞれの地を抑え1(後藤明「巨大文明の継承者」『都市の文明イスラーム(新書 イスラームの世界史①)』講談社現代新書、1993年)57頁)、半島の外れ(シリアなど)にはビザンツ帝国の衛星国家的な小国もあったという2(小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社学術文庫、2016年)27頁)

おそらく、彼らは、ササン朝から共同体家族を受け取り、ビザンツ帝国から一神教を受け取った(キリスト教とユダヤ教は5世紀頃から浸透していた)3(後藤・47-48頁)。一神教の神の権威は、女性の地位の確保のために弱めざるを得なかった共同体家族の父の権威を補い、イスラム帝国の大攻勢を可能にしたのである。

おまけ 韓国のキリスト教

国家を成立させるために必要な権威を代替するのが一神教であると考えると、近代朝鮮(韓国)におけるキリスト教定着の基盤も理解できるような気がする。

朝鮮半島は直系家族が中心と考えられ、もともと国家形成がまったく不得意というわけではない。しかし、共同体家族の帝国が隣接していた朝鮮半島で、直系家族が独立を維持していくことは容易ではなく、朝鮮の王朝はつねに中国の強い影響下にあった。

14世紀以来の朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、中国の弱体化により後ろ盾を失い、日本に併合されて滅亡する。その日本もすぐに敗戦し、権力の空白が生まれる。

韓国でキリスト教が広がったのはまさにこの時期(19世紀末~)、誇り高い韓国の人々が国家の中心となるべき世俗の権威を失った時期である。

異国(日本ですが)の侵略下で、世俗の王に代わる寄る辺となって韓国社会を支えたもの、それが一神教の神であった、という仮説は、それなりに説得力があるような気がするが、いかがでしょうか。

今日のまとめ

  • 国家は「正しさ」(=法)の裏付けとして権威を必要とする。
  • 直系家族の権威を支えるのは、家々かつ代々の祖先たちを思わせる多神教の神々である。
  • 共同体家族の帝国では、王は神格化され、多神教の神々が最高神に服する形で王の強大な権威を支える。
  • 確固たる権威を備えた社会は、世俗の権威を凌駕するような強大な一神教の神を生み出すことはない。
  • 権威を欠く原初的核家族が国家形成の必要に迫られたとき、地上の権威の代替として生み出すのが一神教の神である。




  • 1
    (後藤明「巨大文明の継承者」『都市の文明イスラーム(新書 イスラームの世界史①)』講談社現代新書、1993年)57頁)
  • 2
    (小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社学術文庫、2016年)27頁)
  • 3
    (後藤・47-48頁)