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ルーラとBRICSと世界の未来(翻訳記事付)

ブラジル大統領選で勝利したルーラ(愛称を正式の名前に入れ込んだものらしい。だから「ルーラ」でいいと思う)はBRICSの創設メンバーの一人である。

彼の勝利はいわゆる「グローバル・サウス」の人たちに大いなる希望として映っている。ウクライナ危機のおかげで「米国(ドル)のヘゲモニー崩壊→多元的秩序の形成」という道筋が具体的に見えてきて勢い付いているところに、信頼できるリーダーが一人加わるということだから。

BRICSは、当初は成長著しい4ヵ国(ブラジル、ロシア、インド、中国)をまとめて呼ぶための(投資家目線の)名称にすぎなかったが、2009年に本人たちが4ヵ国の首脳会議を開催し、以後「加盟」という概念が成立する公式の国際組織に成長している。

*当初4ヵ国のときは「BRICs」と書いていたが南アフリカが加わって「BRICS」になった。

そのときブラジルの大統領だったのがルーラだ。

これははっきりウクライナ危機の影響だと思うが、今年の7月頃から多くの国が関心を見せはじめ、アルゼンチン、アルジェリア、イランがすでに正式に加盟申請、ほかにサウジアラビア、トルコ、エジプト、アフガニスタン、インドネシアの申請が見込まれ、カザフスタン、ニカラグア、セネガル、タイ、UAEが関心を示しているとされている。

https://www.silkroadbriefing.com/news/2022/11/09/the-new-candidate-countries-for-brics-expansion/

地図にするとこんな感じ。

https://www.silkroadbriefing.com/news/2022/11/09/the-new-candidate-countries-for-brics-expansion/

イムラン・カーンがパキスタンの首相になったら間違いなくパキスタンもこの動きに乗るだろう。ユーラシア大陸の重心が移動していくのがはっきり感じられるではないか。

迂闊に立てた予測が眼前に近づいているようで興奮してしまう..)

ーーー

ルーラについての手頃な記事があったので、翻訳を付けておきます(各項目に要旨も付けました)。

これはラテン・アメリカの話が中心だが、パレスチナ問題などでもその指導力に期待する声が上がっているらしい(https://www.mintpressnews.com/how-lula-da-silva-victory-opportunity-palestine/282720/)。

いろいろ楽しみですね。

 

ルーラの勝利が米国主導の世界を変える4つのルート(Ted Snider)

https://original.antiwar.com/ted_snider/2022/11/01/four-ways-lulas-victory-will-reshape-the-us-led-world/

10月30日、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバ前大統領が再びブラジルの大統領に就任することが決まった。

第一回投票では48%対43%で現職ボルソナロに対して優勢に立ったが、勝利に必要な50%には届かず、二人の候補者の決選投票が行われた。ルーラは50.9%対49.1%でボルソナロを破り、決選投票を制した。

ルーラの勝利はブラジルをはるかに超えた影響を世界に与えるだろう。それは衝撃波となって様々な形でアメリカ主導の世界秩序を揺り動かす可能性がある。

1 ラテンアメリカの統合

ルーラは、メキシコのロペス・オブラドール大統領とともにラテンアメリカを統合に寄与し、ラテンアメリカのアメリカの覇権と干渉からの解放を導いていくだろう。

米国は長い間ラテンアメリカを裏庭と見なしてきた。今年1月のバイデンの演説で裏庭から「アメリカの前庭」に格上げされたが、前庭であれ裏庭であれ、アメリカはほぼ2世紀に渡り、自国の外交政策上の望みを達成するため、あらゆる干渉や暴力を駆使してその庭で遊び続けてきた。地球の西半球における覇権は決して秘密裏のものではなく、つねに公式の政策だった。それは、モンロー・ドクトリンに明記され、セオドア・ルーズベルトによって強化された。

*訳者注:セオドア・ルーズベルトは1940年の年次教書でアメリカはカリブ海地域の安定のために内政干渉(「国際警察力の発動」)を行う責務を負うというモンロー・ドクトリンの新解釈(ローズヴェルト系論と呼ばれる)を提示した。

ラテンアメリカでは現在、メキシコのアンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール大統領のリーダーシップの下、ますます多くの国がモンロー・ドクトリン(すなわちこの地域でのアメリカの覇権と干渉)に対し反旗を翻している。ルーラ・ダ・シルバの当選により、ロペス・オブラドールとラテンアメリカ第二の経済大国であるメキシコは、ラテンアメリカ第一の経済大国で最大の政治的影響力を持つブラジルと手を組み、手強いパートナーシップを構築しようとしている。

大統領としての一期目の任期中、ルーラはベネズエラのウゴ・チャベスとともに、ラテンアメリカ統合と地域でのアメリカの覇権に対する抵抗の最初の波を率いた。今回の任期で、ルーラは第二の波を導く力となるだろう。

選挙戦の間、ルーラは、ブラジルは独立した外交政策を確保すると約束した。ラテンアメリカの専門家であるマーク・ワイズブロ(Co-Director of the Center for Economic Policy and Research)は「ルーラは一期目の任期のときと同様に、西半球の経済的統合を積極的に推進するだろう」と筆者に語った。

5月の選挙戦でルーラは西半球統合の重要性を強調し、「ラテンアメリカとの関係を回復する」と約束した後、ラテンアメリカ通貨の創設に言及した。これは無意味な選挙公約ではなかった。SURと呼ばれるルーラのラテンアメリカ通貨のアイデアにはすでにフェルナンド・ハダト前サンパウロ市長やガブリエル・ガリポロ前ファートル銀行頭取が賛意を示している。ルーラはさらにメルコスール・ブロック(ブラジル、アルゼンチン、ベネズエラ、パラグアイ、ウルグアイで構成されていた経済的・政治的ブロック)を再編成するとも述べている。

2 ベネズエラの孤立化政策

ルーラは、ラテンアメリカで進行するベネズエラの再統合の動きを後押しすることでアメリカのベネズエラ孤立化政策を破綻させ、ラテンアメリカの統合を強化していくだろう。

ベネズエラの孤立は、ラテンアメリカにおける米国の外交政策の礎であったが、近時その礎に亀裂が現れつつある。

アルゼンチンはすでにベネズエラとの関係を再構築すると発表しているし、メキシコ、ペルー、ホンジュラス、チリなど、他のラテンアメリカ諸国もベネズエラとの交流を再開している。エクアドルもベネズエラとの国交回復を検討中であり、アルゼンチンのアルベルト・フェルナンデス大統領はすべてのラテンアメリカ諸国に対しベネズエラ政府との関係を見直すよう呼びかけている。

ベネズエラと敵対し孤立させる政策において主要な役割を果たしてきたアメリカの同盟国コロンビアは、つい最近グスタボ・ペトロを大統領に選出したところである。8月9日、コロンビアはベネズエラとの国交を完全に回復させるというペトロの公約を実行し、ベネズエラへの大使の駐在を再開させた。

ブラジルの経済的・政治的な重みが加わることは、一期の任期でルーラがチャベスを支持したときと同様に、ベネズエラの再統合に強い影響を与えるだろう。5月、ルーラはTime誌のインタビューで「米国とEUがグアイドを大統領として承認したときには非常に気を揉んだ。民主主義を弄んではいけない」と述べている。

*訳者注:2019年1月、当時国民議会議長であったグアイドはマドゥロを再選した前年の選挙を無効と主張し、暫定大統領に就任した。

旧ルーラ政権の外務大臣でルーラの外交政策に関する最高顧問であるセルソ・アモリンは、ルーラの当選は「ブラジルが隣国ベネズエラと再度外交関係を築くための扉を開くことになるだろう」と述べている。彼は「ボルソナロとドナルド・トランプ米大統領はベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領との関係を絶つことで何も達成しなかった」と付け加えた。

3 一極体制の世界

ルーラは、世界におけるBRICSの存在感を高め、ブラジルおよびラテンアメリカ地域と中国・ロシアとの関係を強化することで、アメリカの一極支配の対抗軸となっていくだろう。

ロシア、中国、インド、ブラジル、南アフリカをメンバーとするBRICSは、米国の覇権に均衡することを目指す重要な国際組織である。ルーラは一期目の任期中にその創設メンバーとなった。

第二期の政権でもルーラはその仕事の続きを担うと考えられる。ワイズブロットはルーラは「アメリカと中国の双方と良好な関係を保とうとするだろう。以前もそうだった」と私に語った。ルーラは中国との間に経済関係だけでなくより友好な関係を発展させていくつもりだと明言している。

ボルソナロがルーラに変わったことは、世界のBRICSに対する見方に重要なインパクトを与えるかもしれない。

世界を民主主義国家と権威主義国家に二分するバイデンのマニ教的な世界観の中では、BRICSは権威主義のレッテルを貼られるおそれがあった。しかし、ルーラの加入で、それほど単純に片付けることはできなくなるだろう。

ルーラは民主主義の支持者である。公正な選挙で選ばれたリーダーであり、国際的な尊敬も受けている。

一期目のルーラはBRICSに国際情勢の中で重要な役割を担わせることに貢献したが、彼のBRICSへの復帰は再度同じ効果を発揮する可能性がある。

ルーラの選出はBRICSの絆とブラジルの対中国・ロシア関係の両方を強めることになるだろう。

4 ウクライナ

ルーラは、ウクライナ紛争における戦争終結のための交渉を促進する役割を果たせるかもしれない。

ボルソナロ政権下でさえ、ブラジルはアメリカ主導のロシア制裁に加わり国連でアメリカとともにロシアに反対票を投じることに消極的だった。ルーラの下でもアメリカにとって状況が容易になることはないだろう。ルーラは制裁を政治的過ちと見なしている。

アメリカにとってより重要なのは、5月4日のTime誌のインタビューで、ルーラが次のように語っていることである。

「プーチンはウクライナを侵攻するべきではなかったと思う。だがプーチンだけに罪があるわけではない。アメリカとEUにも罪がある。ウクライナ侵攻の理由は何だったのか。NATO?それならアメリカとEUが「ウクライナはNATOに加盟しない」と言えばよかった。それで問題は解決できたはずだ」

続けてルーラはバイデンと彼の外交的解決への努力不足を批判した。

「私はロシアとウクライナの戦争について彼が正しい判断をしたとは思わない。アメリカは強い政治的影響力を持っている。バイデンは煽るかわりに戦争を回避することができたはずだ。彼はもっと対話をし、積極的に関与することができたはずだ。モスクワに飛行機を飛ばしてプーチンと話をすることができたはずだ。それこそがリーダーに期待される態度である。物事が軌道を外れないように介入すること。彼はそれをしなかったと思う。」

ルーラはウクライナ紛争における外交の欠如という状況を変える役割を果たしうるかもしれない。元外交官のセルソ・アモリンは、ルーラは再び世界的な和平交渉における主導的な役割を担うことができると言う。彼は、ルーラの下でブラジルは中立と紛争の平和的解決という政策に復帰するだろうと述べている。

アモリンは、一般論としてBRICSは戦争終結のための交渉の場になりうるし、特にルーラは重要な役割を果たしうると述べる。ルーラはロシアと良好な関係にありロシアに尊敬もされている。アモリンによれば「彼は和平交渉向きの気質と実績を併せ持っている。」「ルーラは交渉に参加することができる諸条件を持っている。EUとアメリカが主導し、もちろん中国も参加する必要がある。新興国と共鳴する国としてプラジルも重要な役割を果たしうるだろう」と彼は言う。「BRICSはその力になる。」

ルーラがブラジルと国際舞台に戻ってきたことは、地域的にも国際的にもアメリカの一極支配へのチャレンジとなるだろう。地域的には、ルーラは地域統合を推進しアメリカの庭(表であれ裏であれ)として扱われることに抵抗する力となりうる。国際的には、ルーラは、BRICSの強化とそのイメージの向上、ラテンアメリカと中国・ロシアとの経済的・政治的関係の継続的改善、そしてウクライナでの戦争終結のための交渉のすべてを推進する力となり得るだろう。

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パキスタンは燃えている
-民主化過程見学ガイド-

11月3日にイムラン・カーンが銃撃された後も、パキスタン議会の解散と総選挙の実施を求める抗議デモは続いている。イムラン・カーン自身も早期の復帰を約束しデモの継続を呼びかけている。パキスタンでいったい何が起きているのだろうか。

推奨BGM
Clash “London’s Burning

イムラン・カーンの人気は何を意味するのか

イムラン・カーンは2018年に首相に就任した。しかし今年(2022年)4月に議会の不信任決議により首相職を追われ、8月には反テロ法容疑で逮捕、10月には議員資格を停止され5年間の公職追放処分を受けた(詳しい経緯は後ほど)。デモはこうした一連の措置に反対し、総選挙の実施を求める趣旨のものである。

イムラン・カーンの首相就任については、クリケットのスーパースターという経歴から「世界を席巻するポピュリズムの波がパキスタンにも訪れた」と評されることが多かったようだが、それはちょっと違うと思う。

トッドに学んだ人口学の知見を応用してみれば分かる。下に「参考」として示す各種データを見ていただきたい。はっきり読み取れるのは、パキスタンは今まさに近代化の過程をくぐり抜けている最中の、若者ひしめく活気に満ちた国家だということである(→近代化モデルについてはこちらをご参照ください)。

イムラン・カーンは、裕福な家庭に育ちパキスタンのエリート校を出てオックスフォード大学で哲学、政治学、経済学の学士号を取得した、パキスタン社会のエリートである。

イムラン・カーン首相の誕生は、識字化し政治に目覚めた人々が自分たちに相応しいエリートの人気者を選んだ結果である。考えられる限りもっとも健全な民主的選択ではないだろうか。

民主主義が終わろうとしている国の「ポピュリズム」などと一緒にするのは失礼だし、的外れだと思われる。

(参考)パキスタンの人口学・人類学データ

家族システム 内婚制共同体家族
宗教     イスラム教
近代化指数  男性識字化 1972  女性識字化 2002  出生率低下 1990
       *比較対象となる数字はこちら
年齢中央値 22.78歳(2020)
       (→日本の1940-50相当 2020の日本は48.36)
人口      約2億1322万人(2017)

By Abbasi786786 – Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=120269592

↑ 年齢はとにかく若い。日本だと1940-50年頃がこんな感じだった。

↑ 人口もこんな感じで増えている。

↑ トッド的に重要な乳児死亡率も順調に低下を続けている。

パキスタン政治のこれまで

パキスタンではまだ(いわゆる)民主化革命は起きていない。しかし今起きていることは間違いなくその前兆(あるいは一部)である。

彼らがいったいどんな未来を作ってくれるのか、私は楽しみで仕方がないので、これをしかと味わうために必要と思われる情報をざっくりまとめてみたい(随時更新するかもしれません)。

独立〜クーデター政治

パキスタンがイギリスから独立したのは1947年。しかし、しばらくの間はよくある新興国の政治が続く。 

建国の父(ムハンマド・アリ・ジンナー)がいて、選挙で選ばれた初代大統領が誕生するがクーデターが起きて軍事独裁となり、その評判が落ちるとまた選挙で指導者が選ばれたりするがすぐにクーデターで軍事政権に戻る、という感じのやつである(なおパキスタンには大統領と首相がいる。両者の関係は(今のところ私には)不明だが2010年の憲法改正で議院内閣制に移行して以後、大統領は名誉職的なものになったという(wiki))。

なぜそうなってしまうのか。我々にはもう分かっている。パキスタンで男性識字率(20-24歳)が50%を超え、近代化の始まりを告げたのはようやく1972年のことである。国民の選択に基づく民主主義がそれより前に機能するはずはないのだ。

民主化の第一歩

真の民主化に向けた歩みの第一歩目が踏み出されたのは、2008年の総選挙であったと思われる。

そのときの大統領は、陸軍参謀総長であった1999年にクーデターを起こして政権についたムシャラフ。比較的自由主義的で進歩的だったとされる彼は「自由で透明性のある方法」で選挙をすると公約し(wiki)、行われたのがこのときの総選挙だった。

ムシャラフは国民の人気も高い指導者だったのだが、ベナジル・ブット元首相暗殺事件などの結果、議会は反ムシャラフ派で占められ、パキスタン人民党のギラーニが首相に選ばれた。詳細は省くがムシャラフ大統領は辞任に追い込まれ、新たに行われた大統領選挙でパキスタン人民党総裁のザルダーリー(ブットの夫でもある)が大統領に選出された。

ただ、このとき選ばれたギラーニ政権も任期を全うすることはできず、司法の介入により解任されている(後述)。司法の背後には軍がいたとされており、まだまだ軍の実力がものを言う世界であることは間違いない。

アメリカとの関係

アフガニスタン紛争の蜜月から
「テロとの戦い」へ

パキスタンはインドへの対抗上つねに大国の助力を必要としていたため、状況が許す限り中国ともアメリカとも緊密な関係を結んできた。

アメリカから見るとパキスタンはソ連およびイラン封じ込めのために重要で、戦略的重要性は1979年のソ連のアフガニスタン侵攻以後増大した。

アメリカはソ連が支援する当時の共産主義政権(アフガニスタン人民民主党)に対抗するため、アフガニスタンにおける対抗勢力であるイスラム主義者を支援し、同時にその後援者であるパキスタンの軍事政権への支援も強化した。

なお、アフガニスタンのタリバンはこのときアメリカが支援したイスラム主義勢力の中から生まれてきたものである。同じくイスラム主義を標榜するパキスタンは、アフガニスタンのタリバンに基本的には親近感を持っているはずである。

そのため、2001年の同時多発テロの後、アメリカがオサマ・ビン・ラディンを匿ったと難癖をつけてアフガニスタンのタリバンと戦争を始めると、パキスタンは難しい立場に置かれることになった。

無人機攻撃への反感

親米で知られる当時の大統領はアメリカの「テロとの戦い」を支援する現実的立場に立った。2008年に首相となったギラーニもその立場を継承し、この間アメリカはパキスタン西部のシャムシー空軍基地を無人機(ドローン)攻撃の拠点として使うことを許された。

無人機攻撃作戦の対象は当初はアルカイダ高官のみであり、アメリカにテロを仕掛けた者たちの討伐という理由はパキスタン国民にもどうにか受け入れ可能だった。

しかし、アフガニスタン戦争でタリバンに苦戦していたアメリカは、2008年、彼らと関係があると見られるパキスタン国内のイスラム主義勢力(北部ワジリスタン周辺を拠点とするパキスタン・タリバン運動)にまで対象を拡大することを決める。

オバマ政権(2009-)の下、パキスタン国内での無人機作戦の実行回数は大幅に増加した。2009年から2012年までの3年間の無人機攻撃作戦は約260回、民間人の犠牲者は282-535人(60人以上は子供)と報告されている(the Bureau of Investigative Journalism)。

パキスタン・タリバン運動(TTP)は50以上のイスラム主義グループの連合体で、その中には政府にテロ攻撃を仕掛ける過激派勢力がいる一方でそれを抑えようとする穏健派もいる。

過激派勢力にしても、彼らの存在はパキスタンの国内問題であって、アメリカの「テロとの戦い」とは何の関係もない。パキスタン側から見れば、パキスタンのイスラム主義勢力への攻撃が内政干渉であることは明らかだった。

パキスタンの人々にとっては、パキスタンのイスラム主義勢力もアフガニスタンのタリバンも本質的には敵ではない。アメリカが勝手に敵視するそれらの攻撃のために自国領土を荒らされ、民間人までが犠牲になるという事態に、パキスタン国民の反米感情は高まった。

ビン・ラディン急襲の余波

アメリカは、2011年5月、パキスタン政府への事前通告なしに国内に潜伏していたウサマ・ビン・ラディンを急襲し、殺害した上、ビン・ラディンの潜伏に協力していたと決めつけてパキスタン政府を非難した。

さらに、同年11月には、アフガニスタンに駐留するNATO軍がパキスタンの国境警備隊基地を越境爆撃し、兵士24名を死亡させる事件が起きた。

パキスタンはこうした事態を主権侵害であるとして非難し、政府はNATO軍のための物資の補給路を遮断した上、シャムシー空軍基地からの立退をアメリカに要求した(のちに交渉の末復旧)。

なお、このときの首相は先ほど述べた2008年の選挙の後に首相に選ばれたギラーニで、彼はこの直後の2012年2月にパキスタン最高裁により法廷侮辱罪(ザルダーリー大統領の汚職疑惑を追及しなかったという理由)で有罪とされ退任させられている。合憲性に疑問のあるこの司法の行動の背後には軍がいたというのが一般的な見方のようである。

2013年の総選挙では1990年代から2期に渡って首相を務めたナワーズ・シャリーフが選ばれ、2017年に汚職疑惑で亡命するまで政権を維持した(ちなみにイムラン・カーンの首相解任後に首相に選ばれた現職のシャバズ・シャリーフはナワーズの弟)。

イムラン・カーンの首相就任と排除

イムラン・カーンの躍進

こうした状況の中、アメリカの無人機攻撃や北部ワジリスタンでの軍事作戦に対し断固反対の姿勢を示し、国民の支持を集めていったのがイムラン・カーンなのである。

1996年に下院議員となったイムラン・カーンの政党「パキスタン正義運動」は2013年の選挙で第3党に躍進、2018年にはついに第1党となる。こうして、同年8月に、イムラン・カーンが首相に就任することになる。

イムラン・カーン排斥の手続きは正当か?

そのイムラン・カーンは、2022年4月10日に内閣不信任決議により首相の座を追われた。

必ずしも「クーデター」という報道はされていないようだが、以下に見るように、その経緯は通常とはいえない。

野党が不信任決議案を提出したとき、イムラン・カーン首相は議会を解散して総選挙に打って出ようとした。パキスタンの法制度がどういうものなのか私は知らないが、首相や内閣の決定による解散総選挙の実施は議会制民主主義の国では普通のことである。

不信任決議案は内閣を辞めさせるために出すのだから、内閣が解散し総選挙をするといえば文句はないはずであろう。日本の場合、不信任決議が可決された場合も、内閣は解散総選挙か内閣総辞職のどちらかを選ぶことになる。選挙の実施が許されないということはあり得ない。

ところがパキスタン最高裁はイムラン・カーン首相による議会解散を違憲と判示する。そして復旧した議会は提出された不信任決議を可決してカーンを辞めさせ、野党から首相(イムラン・カーンの前の首相ナワーズ・シャリーフの弟シャバズ・シャリーフ)を選ぶのである。

これではまるでイムラン・カーンを排斥し選挙によらずに次の首相を決めるための策謀のようではないか?

いつものパキスタンのやり方といえばそれまでではあるが、カーン首相を支持したのはこうした政治にうんざりした人々なのだ。

イムラン・カーンは「アメリカが背後にいる」と主張しているが、それが不合理な主張ではないことも確認しておく必要があるだろう。

イムラン・カーンは、ロシアがウクライナに侵攻する前日の2月23日に、プーチン大統領の招聘に応じてロシアを訪問していた

ウクライナ侵攻開始後、カーンは、ロシアの行為を非難するよう要求する西側諸国の圧力に不快感を示していた

おそらくその関係だと思うが、イムラン・カーンは「ある国」からの文書の存在を公表し(のちに「アメリカ」と明言)、3月31日に開催した国家安全保障委員会(NSC)の席でそれを内政干渉であると確認する決定を行った上で、アメリカ大使館に公式の抗議文を届けていた(4月1日)。

内閣不信任案の提出は、この直後というタイミングだったのである。

排斥の動きは続くが人気も続く

首相解任という事件の後も、イムラン・カーンの人気は衰えず、7月に行われたパンジャブ州の補欠選挙で、イムラン・カーンのパキスタン正義運動は20議席中15議席を獲得する大勝利を収めた。この結果は新政権への不信任と同時に、4月の政権交代の不当性を訴えるカーンへの国民の支持を示すものと捉えられた。

その直後(8月)、イムラン・カーンは反テロ法違反の容疑で逮捕され(パキスタンの反テロ法の問題性については「おまけ」の記事②に詳しい)、10月21日には選挙管理委員会により議員資格の剥奪と5年間の公職追放が決定される。

11月3日の暗殺未遂事件は、こうした一連の動きに反対し、早期の解散総選挙を求めるデモ行進の最中に発生したものである。

おわりに

イムラン・カーンはパキスタンの現政権にとって最大の政敵であり、アメリカの敵でもあるので、主流のメディアから中立的な(あるいは好意的な)情報を得るのは難しい。おまけとして独立系ジャーナリズムの記事(翻訳)を付けておくので、お読みいただくと大体の感じがお分かりいただけると思う。

パキスタンの民主化は大変だ。彼らが倒したい古い勢力の背後にはアメリカが付いていて、自らの覇権維持のためになりふり構わず介入してくるのだから。

彼らの今後は国際情勢に大きく左右されるだろうが、だからこそ、彼らの動きは間違いなく現今の激動に大きな影響を与えていくだろう。

ああ、楽しみ。

まとめ

  • パキスタンは近代化=民主化局面にある
  • パキスタンはアメリカの対ロシア・イラン政策上重要な支援対象だった
  • アメリカがアフガニスタンのタリバンと戦争を始めたことで、パキスタンとの関係が難しくなった
  • 「テロとの戦い」の中で展開されたパキスタン国内での無人機攻撃作戦が国民の反米感情を高揚させた
  • イムラン・カーンはアメリカの作戦に一貫して反対の姿勢を示したことで国民の信頼を勝ち取った
  • イムラン・カーン首相はロシアのウクライナ侵攻に関し西側に追従しない立場を明確にした直後、クーデターまがいのやり方で解任された
  • 首相解任後もイムラン・カーンに対する国民の支持は衰えていない

おまけ

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よくわかるウクライナ危機

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John Pilger アメリカは私たちをロシアとの戦争に引きずりこもうとしている(The Gurdian, Tue 13 May 2014 20.30)

以下は、John Pilger, In Ukraine, the US is dragging us towards war with Russia(The Guardian, Tue 13 May 2014 20:30)の翻訳です。(小見出しを付け、改行を増やしました。)

私たちは西側の犯罪を何も知らない

なぜ私たちは私たちの名の下での第三次世界大戦の脅威を許容するのか。そのリスクを正当化するための嘘の数々をなぜ許すのか。Harold Pinter は書いている。我々が受けている洗脳のスケールは「目覚ましく、洒脱とすらいえる」、その「催眠行為」は「いままさに起きている現実を起きていないものと」と信じさせることに「見事に成功している」。

米国の歴史家 William Blumが毎年公刊している「米国の外交政策に関する記録の要旨・最新版」によれば、1945年以降、米国は50以上の政府(その多くは民主的に選出されたものである)の転覆を企図し、30カ国の選挙に大規模に介入し、30以上の国で民間人を爆撃し、化学兵器や生物学兵器を用い、外国の指導者の暗殺を試みている。

イギリスはその多くのケースで協力者として関わっている。犯罪性はもちろん人的被害の程度も西側ではほとんど知られていない。世界でもっとも進んだ情報通信手段と名目上はもっとも自由なジャーナリズムを誇っているにもかかわらず。

西側によるテロ

最大のテロの被害者―言っておくが「私たちによる」テロである―はいうまでもなくイスラム教徒である。9/11をもたらした極端なジハード主義が、英米の政策遂行のための武器として育成されたものだった(アフガニスタンにおける”Operation Cyclone”)という事実は隠蔽されている。4月、米国政府は、2011年のNATOによる軍事介入の結果「リビアはテロリストの隠れ家となってしまった」と認めた。

「私たちの」敵として指名される者の名前は時を経て変化した。共産主義からイスラム主義へ。しかし総じてその対象は、西側勢力から距離を置く国で、戦略的要衝または天然資源豊富な領土を持つか、あるいは、数は少ないが、米国の覇権にかわる選択肢を提示する国である。

こうした〔米国の覇権にとって〕邪魔な国々の指導者たちは、イランにおける民主派のムハンマド・モサデク、グアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン、チリのサルバドール・アレンデのように暴力的に排除されるか、コンゴ民主共和国のパトリス・ルムンバのように殺害されるのが通常である。

そして、彼らはみな、西側メディアによる中傷キャンペーンの被害者となる。フィデル・カストロ、ヒューゴ・チャベスのように。今その真っ只中にあるのはウラジミール・プーチンである。

プーチンを挑発するアメリカ

ウクライナにおけるワシントン〔米国政府〕の役割は、すべての私たちにとって格別な意味を持っている。レーガン以降では初めて、米国が世界を戦争に連れ込もうとしている兆しがあるからだ。

東ヨーロッパとバルカン諸国はいまやNATOの軍事的前衛地であるが、ロシアと国境を接する最後の「緩衝国家」であるウクライナが、米国とEUが解き放ったファシスト勢力によって分断されようとしている。西側の私たちは今、過去にナチスシンパがヒトラーを支援したその国でネオナチを支援しているのである。

2月に民主的に選出されたウクライナ政府を巧みに転覆させた後、米国政府はロシアがクリミアに合法的に建設した不凍港の海軍基地を占拠(seizure)しようとして失敗した。ロシア人たちは100年余りに渡って西側からのあらゆる脅威や侵略に対してしてきたのと同様に自分たちの基地を守り切った。

しかし、米国がウクライナにおけるロシア系住民に対する攻撃を指揮するのに合わせ、NATOの軍事的包囲は加速している。プーチンが挑発に乗ってロシア系住民の救援に乗り出そうものなら、彼に予め与えられた「除け者」(pariah)の役目がNATOによるゲリラ戦争を正当化し、ロシアそのものを巻き込んでいく可能性が高い。

プーチンは挑発には乗るかわりに米国政府およびEUとの和解を探る姿勢を見せ、ウクライナ国境からロシア兵を撤退させ、東ウクライナのロシア系住民に週末に予定されていた問題含みの住民投票の実施を断念させて、戦争を望んでいた連中を混乱させた。

ウクライナの人口の三分の一を占めるロシア語話者(またはロシア語・ウクライナ語のバイリンガル)たちは長い間、ウクライナの民族的多様性を反映し、キエフ(ウクライナ政府)に対する自律性とモスクワ(ロシア政府)からの独立性の両方を担保した民主的な連邦政府の実現を模索してきた。

そのほとんどは西側メディアが言うような「分離派」でもなければ「反乱分子」でもない。ただ祖国で安全に暮らしたいだけの市民たちである。

CIAのテーマパークとなったウクライナ

廃墟となったイラクやアフガニスタンと同様に、ウクライナはCIAのテーマパーク―CIA長官のJohn Brennanが個人的に運営し、CIAとFBIからの何十もの「特別ユニット」が2月のクーデターに反対する人々に対する残忍な攻撃を差配するための「安全保障体制」を構築する―になりつつある。

今月起きたオデッサでの虐殺について、ビデオを見て、目撃者の報告を読んでほしい。バスに乗ってやってきたファシストの殺し屋たちが労働組合本部に火をつけ中にいる41人を殺害する場面、そして警察がただ立ってみている様子を。

現場にいたある医師はこう述べた。「〔人々を助けようとしたが〕ウクライナ政府を支持するナチ過激派に止められました。そのうちの一人に乱暴に突き飛ばされ、私やオデッサのユダヤ人たちもすぐに同じ目に遭う運命だと脅されました。昨日ここで起きたようなことは、私の町では、第二次大戦中のファシスト占領下でも起きたことはありません。私は不思議に思います。なぜ世界中の人々が何も言わずに放置しているのかと」。

プーチンに罪をなすり付ける西側のプロパガンダ

ロシア語話者のウクライナ人たちは生存のために戦っている。プーチンが国境からのロシア兵の撤退を告知したとき、キエフ暫定政府の防衛大臣Andriy Parubiy(ファシスト自由党(the fascist Svoda party)の創立メンバ)は、それでも「暴徒たち」への攻撃は続くと豪語した。西側のプロパガンダは、オーウェル風に、彼らの戦いを、モスクワが「対立と挑発を煽っている」と言い換える(これはWilliam Hague(イギリスの政治家)の発言)。

彼のシニシズムはオデッサの虐殺後のクーデター暫定政府の「すばらしい抑制」を称賛したオバマのグロテスクな祝辞に匹敵する。オバマによれば、暫定政府は「正当に選ばれた」のだ。

ヘンリー・キッシンジャーがかつて述べたように「重要なのは何が真実かではなく、何が真実とみなされるかである」。

米国のメディアではオデッサの惨劇は「混乱」とみなされ、「ナショナリスト」(ネオナチ)が「分離派」(ウクライナの連邦化に関する住民投票を求める署名を集めていた人々)を攻撃した「悲劇」という程度に扱われている。

ルパート・マードックのウォールストリートジャーナルは「多くの死者を出したウクライナの劫火、犯人は反乱分子か(政府)」と決めつけた。

ドイツのプロパガンダは冷戦そのもので、フランクフルターアルゲマイネは読者にロシアの「宣戦布告なしの戦争」への警戒を呼びかけた。

21世紀のヨーロッパにおけるファシズムの復興を非難した唯一の指導者がプーチンであるという事実は、ドイツ人には痛烈な皮肉である。

なぜ許すのか?

9/11の後「世界は変わった」とよく言われる。しかし何が変わったのだろうか。〔ベトナム戦争に関する機密文書を漏洩した〕偉大な内部通報者であるDaniel Ellsbergによれば、ワシントンで静かな政変が起き凶暴な軍事主義が現在の米国政府を支配しているという。ペンタゴン〔国防総省〕は現在「特別作戦」ー要するに秘密の戦争であるーを124ヵ国で展開している。足元では、永続的な戦争状態の歴史的な帰結として貧困が増大し自由が失われようとしている。これに核戦争のリスクが加わった今、問うべきは「なぜ私たちはこれを許すのか」である。

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彼らは友人だったー9/11に寄せて(翻訳)

 

 

以下は “Ted Snider, Remembering Our Friends on 9/11″の翻訳です。ウクライナ戦争勃発以後、この人の記事が琴線に触れることが多く、今回もそうだったので訳しました。

https://original.antiwar.com/ted_snider/2022/09/08/remembering-our-friends-on-9-11/

世界の首脳の中で、9/11同時多発テロ(2001年)の後ブッシュ大統領に一番に電話をかけてきたのはウラジミール・プーチンだった。実は彼は2日前の9月9日にもブッシュに電話をかけ、長期に渡って準備されてきた何かがまもなく実行される兆しがあることを知らせ、警告していたのだ。

ツインタワービルが破壊される様子をテレビで見たプーチンはただちにブッシュに連絡し、弔意と同情を示した。エアフォース・ワンに搭乗中だったブッシュにはつながらなかったが、プーチンは迷わずコンドリーザ・ライスに伝言を託した。翌朝、ブッシュと直接話をしたプーチンは「この困難を乗り切るため、団結し協力しよう」と約束した。

プーチンは同情と団結の意思を示しただけではなかった。彼はブッシュが何を決断しようとそれを全面的にサポートすると約束したのだ。プーチンとブッシュはその後40分間語り合った。次の月曜、プーチンは、機密情報の共有、人道支援のための(米の)ロシア上空の通行許可、捜索救難活動への参加、アフガニスタンの北部同盟への軍事的支援の増強を申し出た。そればかりか、彼は、少しの躊躇の後、ロシア軍の上級司令官の反対にもかかわらず、米軍の中央アジアへの派兵を認めると申し出て、アメリカを唖然とさせた。アメリカはキルギスタンとウズベキスタンへの軍事基地の建設を許されたのである。

ロシアは自身の戦争を通じてアフガニスタンについて詳細な知見を得ていたため、その機密情報の共有には非常に大きな価値があった。ロシアの諜報機関は確かな地図をアメリカに提供し、カブールと数多くの山や洞窟を案内した。ロシアの諜報機関は、9/11以前の2000年6月頃までにも、アフガニスタンからのテロリストの脅威に関する情報をアメリカに提供していた。

このとき、プーチンはまだアメリカおよび西側との関係改善に望みを抱いていた。彼はアメリカへの援助と協力がそれを促進することを期待した。プーチンは9/11の悲劇を、アメリカに対し、ロシアをパートナーとする形での国際秩序が可能であることを知らしめる契機と捉えていた。2011年11月のワシントンでのスピーチでプーチンは次のように述べている。「テロとの戦いにおける我々の相互協力を露米関係の単なる一エピソードとして終わらせてはなりません。これを長期のパートナーシップと協力関係のスタートとすることこそが重要なのです。」

しかし、その10年前にアメリカがソ連を罠にはめて敗戦に追い込んだアフガニスタンの地で、アメリカの勝利を助けてくれたロシアは、その返礼として何一つ得ることはなく、NATOは東方拡大を続けた。2004年までに、NATO拡大の「ビックバン」はロシア国境沿いのバルト諸国に達していた。

Philip Shortの著書『プーチン』によると、イギリス版NSA(国家安全保障局)にあたるGCHQの当時の長であったFrancis Richardsは次のように述べていた。「われわれは9/11後のプーチンからの援助に非常に感謝していたが、その感謝をあまり示していなかった。私は受け取るだけでなく与えることもしなければならないと人々を説得することに努めたのだが‥おそらくロシアの人々はNATOの問題を通じて彼らは騙されて利用されたと感じていたと思う。そして、それは事実だったのだ。」

9月11日、中国主席の江沢民は、テレビでテロ攻撃を見つめていた。2時間と経たないうちに、彼はブッシュに電話をし、哀憐と援助の意思を示した。

9/11への中国の反応は、アフガニスタン戦争が混迷を極めていくにつれ、複雑さを増していった。中国はタリバンのテロの脅威が国際社会および中国国内に及ぼす影響を懸念していたが、それと同程度に、長引く駐留で近隣でのアメリカの軍事的存在感が高まることを恐れていた。

中国は国境地域で(中国の)同盟国パキスタンが米軍基地の受け入れと移動ルートの提供を強要されていること、パキスタンに完全なアメリカ寄りの傀儡政権が建設される可能性を懸念していた。

戦争が長引くと、中国はタリバンとアメリカのどちらも全面的に支持しない姿勢を取るようになり、タリバンと外交関係を維持した上、武器を提供することすらあった。

しかし2011年9月のあの最初の数時間、中国のリーダーは直ちにアメリカ大統領に電話をかけて援助を申し出ていた。Andrew Smallの著書『The China-Pakistan Axis』によれば、中国は機密情報の共有と地雷除去装置の提供を申し出た上、北京にFBIのオフィスを設置することまで提案した。アメリカは中国からの援助の申し出のほとんどを拒絶したが、しかし、中国は援助を申し出たのだ。

イランもまた、9/11の後、アメリカの支援者となった一人である。アメリカでのテロ攻撃の後、イランは直ちにアメリカ側に付き、タリバンおよびアルカイダに反対する立場を明らかにした。ロシアや中国と同様にアメリカとの関係改善を望んでいた改革派の大統領セイイェド・モハマド・ハータミーは、この悲劇を彼らのパートナーシップと友情を証明する不幸であるがよい機会と捉えた。

イランは国境地域に逃げ込んできた何百人ものアルカイダおよびタリバンの戦士たちを逮捕した。イランは200人以上のアルカイダおよびタリバンの逃亡者たちの身元を特定して国連に文書を提供し、その多くを彼らの出身国に送り返した。送還させられない者たちの多くに対しては、イラン国内での受け入れを提案した。イランはまたアメリカの捜索要請に応えてアメリカが特定したアルカイダ工作員たちの相当数を逮捕し移送した。

アメリカと同盟国がアフガニスタンを侵攻した際に反タリバン戦闘員の多くを提供した北部同盟を取りまとめ、アメリカとの協力関係に置いたのは概ねイランである。イランはその空軍基地をアメリカに提供し、アメリカが撃ち落とされた米軍機の捜索救助活動を行うことを許した。イランの人々はタリバンとアルカイダの容疑者に関する機密情報も提供した。

イランの外交官たちは2001年10月までにアメリカ政府高官と秘密会合を持ち、タリバンを排除しアフガニスタンに新たな政府を作る計画を練った。2001年11月のボン会議で、イランはイラン専門家や『Losing an Enemy』の著者Trita Parsi によれば、アフガニスタンのポストタリバン政権の樹立に「決定的に重要な役割」を 果たしたという。

ロシアと同じく、イランもその返礼は何一つ得ていない。アメリカが彼らに与えたものは「悪の枢軸」のメンバーの地位だけである。 

ロシア、中国、イランというアメリカにとっての大悪魔(arch enemies)たち3人は皆そろって、9/11の後、友情からの支援の手を差し伸べていた。言葉だけではない。彼らの両手は本物の支援策でいっぱいだった。アメリカが差し伸べられた手を取って、Francis Richards がいうように感謝を表し、受け取るだけでなく与えることもしていたら、今日の世界はもう少しましなところになっていたかもしれない。

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なぜロシアはいま戦争を始めたのか (翻訳・紹介)

以下は、Ted Snider, Why Russia Went to War Now, April 26. 2022, Antiwar.com の雑な翻訳です。

取材と信頼に足る情報に依拠してコンパクトにまとめられた労作です。

ロシアとウクライナの戦争については、この記事この記事で背景事情に関する調査結果を書きましたが、戦争に至る過程におけるウクライナの動きなどをもうちょっと具体的に知りたいと思っていたところ、この記事に行き当たりました。

ウクライナ、アメリカ、ロシアがどう動いたかがよく分かります。

ご関心の方はぜひご一読ください。

* * *

2019年4月、ウォロディミル・ゼレンスキーは、決選投票で73%の票を獲得して大統領に選出された。選挙公約はロシアとの平和的関係の構築とミンスク合意への署名だった。ミンスク合意は、アメリカが支援した2014年の政変〔ユーロマイダン革命〕の後、住民投票で独立派が勝利したドネツク州とルガンスク州(ドンバス)の2州に自治権を約束するものだった。

しかし、平和構築のための重大な責務を引き受けたにもかかわらず、ゼレンスキーはロシアとの外交交渉路線を放棄せざるを得なかった。「もしプーチンとの交渉路線を続けるなら‥‥〔殺す〕」と極右勢力から脅迫を受けたためである(以上は、Stephen Cohen教授(Professor Emeritus of Politics and director of Russian Studies at Princeton)の2019年の発言による)。極右勢力は僅かな支持にかかわらず多大な権力を振るっていた。こうした圧力の下、ゼレンスキーは、「ナショナリストに挫折を強いられた」のだと、Richard Sakwa教授(Professor of Russian and European Politics at Kent)は筆者に語った。選挙公約に反し、ゼレンスキーは、ドンバスの州知事たちとの交渉およびミンスク合意の履行を拒否した。

ゼレンスキーが〔極右の脅迫にもかかわらず〕選挙公約の路線を維持するためにはアメリカからの支持が不可欠であったが、アメリカは彼を公約路線に押し戻すための助力を一切提供せず、平和路線からの離反を決定づけた。Sakwa教授によれば、「ミンスク合意に関して言えば、アメリカもEUも、キエフ〔ウクライナ政府〕に対して合意の履行を真剣に働きかけることはなかった」。Anatol Lieven(senior research fellow on Russia and Europe at the Quency Institute for Responsible Statecraft)も「彼らは、ウクライナに合意を履行させる努力を一切行わなかった」と述べている。

ミンスク合意に描かれた外交的道筋からの離反を余儀なくされ、復帰のための助力も圧力も得られなかったゼレンスキーは、極右勢力に屈し、選挙公約と正反対に、クリミアの奪還・再統合を目指し、そのためには武力行使も辞さないとするクリミア・プラットフォームCrimea Platform)を樹立する法令を制定した。第一回のクリミア・プラットフォームサミット会合には、全てのNATO加盟国が参加した

ゼレンスキーはロシアとの戦争の用意があると威嚇し、Sakwa教授によれば、ウクライナは10万の兵力とドローンミサイルをドンバスに接する東の国境沿いに集めた。これは、2022年にロシアがドンバスに接する西側国境沿いの兵力増強を行う前のことである。モスクワはこれを、ウクライナが7年来の内戦をエスカレートさせ、ロシア系住民が多数を占めるドンバス地域を大規模に侵略することを知らせる「真の警鐘」と受け取った。

ちょうどこの頃、2022年2月、ウクライナによるドンバス地域への砲撃回数が劇的に増加し、警鐘はさらに高まった(砲撃の増加はOSCE(欧州安全保障協力機構)の国境監視ミッションによって確認されている)。Sakwa教授は、停戦合意違反のほとんどはウクライナのドンバス側での爆撃によるものだと筆者に語った。国連のデータによると、民間人を犠牲者とする被害の81.4%は、「自称「共和国」」(”self-proclaimed ’republics’” 〔ドネツクとルガンスクのこと〕)で起きていた。ロシアはウクライナが予告していた軍事作戦が開始されたと考えた。

ゼレンスキーはドンバスの州知事たちとの協議に応じず、ミンスク合意は死に体となった。ロシアはドンバス地域のロシア系住民に対する軍事行動を恐れた。同じ頃、ワシントンはウクライナを武器で溢れさせることを約束する武器供給網となり、かつ、NATOへの扉を開いた。どちらもプーチンが超えてはならない一線であることを明確にしていた行為である。

この戦争の1年前、アメリカはウクライナに4億円の防衛援助を行なっていた。バイデンは「新たな戦略的防衛フレームワーク」に言及、「防衛援助」に、新たに初のleathal weapons(核兵器?)を含む6000万円分のパッケージを追加することを約束した。

ウクライナをleathal weaponsを含む武器で溢れさせる一方、アメリカとNATOは、ウクライナのNATO不加盟を約束することを拒んだ。バイデンとの会合の席で、ゼレンスキーはまたしても「バイデン大統領と、この席で、ウクライナのNATO加盟のチャンスとそのスケジュールに関する大統領及び合衆国政府のヴィジョンについて議論したい」と述べた。バイデンはあからさまな間接表現で「ウクライナのヨーロッパ―北大西洋願望への支持」を表明し、アメリカのウクライナへの支持は「完全にヨーロッパと一体の動きとなる」と述べた。2021年10月、アメリカ合衆国国防長官ロイド・オースティンは再びウクライナに対する「NATOの扉は開いていると強調」した。

11月、アメリカは、ウクライナのNATO加盟に必要な〔防衛力〕刷新の援助のためのUS-ウクライナ戦略的パートナーシップ憲章に署名した。当該文書には、アメリカとウクライナは2008年のブカレストサミット宣言を指針とする旨の記載がある。2008年のブカレストにおいて、アメリカとNATOはウクライナがいずれNATOのメンバーになることを保証した。「NATOはウクライナおよびグルジアのNATO加盟に向けたヨーロッパ-北大西洋願望を歓迎する。われわれは今日、この両国が将来NATOのメンバーとなることに合意する。」

10年を優に超える期間を通じて、プーチンはNATOのウクライナへの拡大を超えてはならない一線として警告し続けてきた。今、ウクライナがドアを叩き、アメリカとNATOは勧誘の手を伸ばし続け、扉を閉めて施錠することを拒絶し続ける中、外交上の譲歩を余儀なくされたプーチンは、アメリカに相互防衛保証(mutual security guarantees)の提案を持ちかけ、直ちに交渉に応じるよう依頼した。

ワシントンは武器のコントロールに一定の柔軟性を示す一方で、「アメリカ合衆国は、ウクライナ領内における攻撃的地上発射ミサイルシステムおよび常設軍の配備の差し控えに関し、アメリカ合衆国とロシアの双方による条件ベースの互恵的で透明性のある手段および互恵的関与に関し、喜んで話し合う準備がある」と答えた。要するに、ウクライナのNATO加盟の可能性が開かれていることについては、議論の余地をキッパリと否定したのである。アメリカの反応は非妥協的で、「アメリカ合衆国はNATOの開放政策を固く支持する」という強固な立場を繰り返した。

ロシアは協議を持ちかけ、アメリカは応じようとしない。実際、アメリカに交渉に応じる意思は全くなかった。合衆国国務長官アントニー・ブリンケンの顧問であるDerek Cholletは最近NATOのウクライナへの拡大方針に関する交渉は一度も検討課題とならなかったことを認めた。

NATOのウクライナさらにはロシア国境への拡大という目の前の脅威に関するアメリカとの協議が実現する見込みはない。ウクライナは扉を叩き続け、アメリカは開放方針を堅持する。アメリカにとっては、ロシアとの交渉は検討課題ですらない。こうなれば協議は終了である。ウクライナはクリミアとドンバスを取り戻すと公言している。彼らは交渉を拒否しており、いまや国境に大量の兵力が集められた上、砲撃回数は恐ろしいほどに増加していた。ロシアはドンバス侵攻とロシア系住民に対する作戦が今すぐにも開始されることを恐れた。

ロシアがウクライナ侵略を決めた瞬間である。これらの事情は侵略を法的に正当化するものでも、倫理的に正当化するものでもない。しかし10年以上にわたる警告ののち、ロシアがなぜいま戦争を選んだのかの説明にはなるだろう。

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これだけ知っておくといいかも
ウクライナ戦争

日本はアメリカの同盟国で、「西側」の一角です。

なので、「ロシアのプロパガンダ」には警戒するけど、「西側」のプロパガンダには弱い。「西側」に都合のよい情報以外はほとんど入ってきません。

でも、ロシアは日本のお隣の国で、これからも世界に存在し続けます。その人たちを排除して、仲間外れにして、言い分も聞かずに「制裁」して、平和なんて成り立つわけがないじゃん、と私は思います。

そう思って勉強し、私が理解した事実の中から、せめてこれだけ知っていれば、この戦争を公平に見ることができるのではないか。そう思える情報を、3点にまとめて、共有させていただきます。

①ウクライナ戦争は、ロシアとウクライナの戦争ではなく、ロシアとNATO(西側)の戦争です。

〔解説〕

・戦争に至るまでの交渉で、ロシアが要求していたのは、「NATOはウクライナを加盟させるな」の1点でした。交渉の相手がウクライナでなく、西側諸国の首脳であったのはそのためで、彼らが「ウクライナを加盟させない」といえば、戦争は防ぐことができました。しかし、西側は一切の譲歩を拒否し、ロシアの侵攻を招きました。

・西側は、この戦争を「ロシアのいわれのないウクライナ侵略」と位置付け、「被害者であるウクライナ側を支援する正義の味方」としてふるまっていますが、それは事実と違うと思います。この戦争の真の当事者は西側で、ちょっととげとげしい言い方をしますが、ウクライナはNATOの代わりにロシアと戦わされているのです。

・こうした事情を、ウクライナ国民の多くは理解していません。しかし、西側諸国はもちろん理解しているし、ゼレンスキーも(少なくともある程度は)理解していると思います。

②引き金を引いたのはロシアですが、ロシアに銃口を向け続けたのはNATO(西側)です。

〔解説〕

・共産圏封じ込めのために結成された軍事同盟であるNATOは、ソ連崩壊後も解散せず、「東方拡大」と呼ばれる拡大政策を続けました。東欧地域やバルト三国など、ロシアの周辺国をどんどん仲間に引き入れるNATOの動きは、ロシアから見れば、ソ連崩壊後も西側諸国(とくにアメリカ)がロシアを一方的に「敵」と位置付け、軍事的圧力を加えようとしていることの現れに他ならないと思います。

・とりわけ、隣国であり兄弟であるウクライナへのNATOの積極的な働きかけは、ロシアには非常識なほど攻撃的に見えると思います。(架空の例に例えていうと、日本の中央政府に不満を持った東北地方が、中国・北朝鮮との軍事同盟に誘い込まれる、みたいな感じでしょうか。)

・とくにコソヴォ紛争の例を念頭に置くと、ウクライナへのNATO軍の展開は、ロシアへの宣戦布告くらいの意味を持ちうるのですが、ご関心のある方はこの部分をご覧ください。

③独立ウクライナの国家経営は順調ではなく、その政情不安はロシアの懸念材料でした。NATO(西側)はその懸念を理解せず、不満分子の暴発を「民主化運動」と捉えて支援し、政情のいっそうの不安定化を促しました。

・ソ連崩壊によって独立したものの、困難な状況から抜け出せなかったウクライナでは、とくに貧しい西部地域で不満が高まり、ナショナリズム(≒ 反ロシア)が高揚しました(ロシアが「ネオナチ」「ファシスト」に言及することにはそれなりの理由があります)。

・ウクライナはロシアの隣国である上、ロシア系住民が多数住んでいます。ウクライナの不安定化はロシアにとっては深刻な脅威です。

・西側諸国は、こうしたロシアの懸念を理解せず、「反ロシア勢力=民主化勢力」と短絡的に理解して、台頭する西部勢力を支援し、NATOに誘い、彼らのナショナリズム(≒ 反ロシア感情)を煽りました。

・西側の行動は、ロシアには、隣国の政情不安に付け込んで、自らの軍事的勢力圏を拡大しようとする無責任で攻撃的な行動に見えると思います。

・ ・ ・

ロシアがついにウクライナに軍事侵攻をしてしまう背景には、このような事情がありました。こうした構図は、「西側」の私たちにはほぼ知らされていませんが、ロシアの人々が見ている絵であり、ロシア以外の「非西側」諸国の人々も、同じような絵柄を見ているはずです。

私は戦争一般を好みませんが、ウクライナ戦争が、平和を望む西側に対し、好戦的なロシアが一方的に仕掛けた戦争であるとは見ていません。平和を望んでいたのはロシアも同じです。なので、ロシアだけに全責任を負わせようとする「西側」の態度は、公正ではないと感じています。

だからどうということはありません。どちらがいいとかよくないとか言いたいわけでもありません。ただ、読んでくださった方の気持ちがほんの少しでもニュートラルな方に傾けば、その分だけでも世界は平和に近づくのではないかと思って、このようなものを書いている次第です。