目次
- はじめに:なぜドル覇権を支えるのか?
- 復興援助の記憶 ー「善なるアメリカ」
- 金=ドル本位制崩壊 ー 共犯関係の成立
- G5ー共犯関係の成立
- ユーロダラー:イギリスの役割
- 日本ープラザ合意からバブル崩壊まで
- ヨーロッパ・日本の立ち位置
はじめに:なぜドル覇権を支えるのか?
前回述べたように、ドル覇権は、実質的に、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係を基礎とするシステムである。
ヨーロッパと日本は、最近、以前にも増して従順にアメリカに付き従うようになっているが、その根底にあるのも、ドル覇権に対するある種の連帯責任なのである。
*ウクライナ戦争での態度を見ても、ガザ危機での態度を見ても明らかだろう。
いったいなぜそんなことになったのか。今回は、「最近」に至る一歩手前、20世紀末までの経緯を確認しよう。
*最近の話は最終回(④)で扱います。
復興援助の記憶 ー「善なるアメリカ」
ヨーロッパと日本が、1971-3年以後の「ドル覇権」を容認した背景に「第二次世界大戦直後から復興までの恩義」があったことは疑いない。
終戦時、戦場となったヨーロッパと日本は(勝ち負けに関わらず)ボロボロで、おかねもなければ生産設備もなかったが、アメリカだけは無傷だった。
*戦争特需(軍需品受注額は1830億ドルと言われる)もあり、終戦時には世界中の(貨幣用)金の3分の2がアメリカに集まっていた。
そのため、ヨーロッパと日本は、復興資金のほぼ全てを、アメリカから受け取ることになったのだ。
アメリカは、1947年の緊急援助、48年から52年のマーシャル・プラン(116億ドルの贈与・18億ドルの借款)を含む総額330億ドル相当の援助をヨーロッパに提供した。日本にも、ガリオア・エロア基金として15億ドルの贈与・5億ドルの借款を与えた。
さらに、アメリカは(WW1後とは異なり)、製品の輸入も積極的に行い、ヨーロッパの復興に貢献した。1947年、アメリカは101億ドルの貿易黒字を計上していたが(ヨーロッパの貿易赤字がほぼ同額(90億ドル))、1952年には26億ドルに減少している。アメリカは貿易を通じて、ヨーロッパにドルを供給していたのである。
もちろん、アメリカは、単なる善意で支援を行ったわけではない。アメリカは、イギリス帝国に残された特権を最後の一片まで剥ぎ取るべく手を尽くしたし、敗戦国(ドイツと日本)をとくに手厚く支援したのは、彼らを衛星国に仕立てて、アメリカの繁栄に尽くさせるためだったと考えられる。
それでも、アメリカの支えがあってはじめて、飢えから救われ、復興を成し遂げた人々にとって、アメリカは「善きもの」以外のなにものでもなかった。その印象は、戦後の西側世界の人々のアメリカ観を深く規定したはずである。
金=ドル本位制崩壊 ー 共犯関係の成立
(1)ドル過剰ー支出が止まらないアメリカ
ヨーロッパ・日本の復興が軌道に乗った後も、アメリカの「赤字」を通じたドル供給は続いた。
*アメリカの主な赤字の源は、軍事支出と企業買収(ヨーロッパの優良企業の乗っ取り・買収)だったとされる。文献には「アメリカの国際収支は1950年から赤字に転じた」、額については「58年が29億ドル、59年で22億ドルの赤字」(上川孝夫・矢後和彦編『国際金融史』(有斐閣、2007年)117頁[牧野裕執筆部分])とあり(同様にこの時期のアメリカの「国際収支」が赤字だったとするものに、石見徹『国際通貨・金融システムの歴史』(有斐閣、1995年))、ここでの記載はそれらに依拠している。
しかし、国際収支は「経常収支+資本移転等収支+誤差脱漏=金融収支」という等式で示されるものなので(こちらも)「「国際収支全体で黒字や赤字がある」という言い方は不適切である」ということであり( 奥田宏・代田純・櫻井公人『深く学べる国際金融』(法律文化社、2020年)2頁[星野智樹執筆部分]等)、私はそのように理解した。そこで「じゃあ「国際収支の赤字」は「経常収支の赤字」のことかな」と思って調べると、その時期のアメリカの経常収支は赤字ではないようなのである(谷口明丈・須藤功編『現代アメリカ経済史』(有斐閣、2017年)500頁掲載の表を参照)。専門家が揃って「赤字だった」と言っているのだから赤字だったのだと思うのだが、何が赤字だったのか分からなくて困っており(貿易赤字ではない)、もし知っている方がいたら教えてほしい。
その背景には、大量の金を独占していたアメリカに「支出過剰」などあり得ないという当時の「常識」があったのだが、実感として、アメリカの支出は明らかに過剰だった。
そのため、ヨーロッパや日本では、戦後の「ドル不足」を脱した途端、「ドル過剰」が問題視されるようになったのである。
(2)金=ドル本位制の崩壊
「過剰ドル」を蓄積した国々はドルに不信感を抱き、保有するドルの金兌換を進めた。その結果、アメリカの金保有量は1958年から減少局面に入る。
最初のゴールド・ラッシュ(金価格の上昇を予想した金投機→ドル不信の現れ)が1960年に起こり、ヨーロッパを中心に金=ドル本位制を支えるための努力が始まったが(金プールの設立(1961年)や各種国際通貨協力、国際決済専用通貨の創出(IMFの特別引出権(SDR))など)、その間も、アメリカの収支は一向に改善しなかった。
ベトナム戦争の戦況悪化(テト攻勢)(1968年)が最後の一撃となり、ドルへの信認は極端に悪化。金の流出に拍車がかかり、いろいろとあった末、1971年8月15日、アメリカは、金=ドル交換の停止を宣言(ニクソン・ショックといわれる)。金=ドル本位制は崩壊したのである。
G5ー共犯関係の成立
金=ドル本位制崩壊で、ドルの信用は失墜したが、基軸通貨の地位は維持された。他に代わりになりうるものがなかったからである。
復興を終えようやく豊かさを楽しもうかという段階に入ったヨーロッパ・日本にとって、今、ここで、世界経済の基盤が崩れるなどということは、決してあってはならないことだった。
今、やるべきことは、ドルを支え、世界経済を安定させることである。ということで、金=ドル本位制・固定相場制の崩壊で乱高下するドルを、西側諸国は協調して買い支えた。
*やや詳しい説明はこちら。
主要国首脳会議(サミット)の第1回が開催され、G5(主要5カ国財務大臣・中央銀行総裁会議)が組織されたのは1975年にことである。
ヨーロッパ・日本は、国際通貨システムの安定を求め、率先して、ドル覇権を支える立場に立った。こうして、アメリカとヨーロッパ・日本の間に共犯関係が成立し、ヨーロッパ(イギリス以外↓)と日本は、やがて思いもかけない深みに引きずり込まれていくことになるのである。
◉復興から成長軌道に乗ってまもない1970年代、世界経済の安定を望んだヨーロッパ・日本は率先して不安定なドル覇権を支える立場に立ち、アメリカとの共犯関係が確立された。
ユーロダラー:イギリスの役割
1980年代、アメリカはレーガノミクスの下で金融肥大化への道をひた走る(詳しくはこちら)。しかし、経済の「金融化」(+金融のバクチ化)の責任は、アメリカだけにあるわけではない。
ここまで「ドル金融市場」という言葉を使ってきたが、この世界最大の金融投資市場の生みの親は、実はアメリカではない。イギリスなのだ。
WW2の後、イギリス政府の為替管理によってポンド取引を規制されたイギリスのマーチャント・バンカーは、アメリカの金融界が広範な国際金融ネットワークを構築する前に、ドルを用いた国際金融業務を開始した。
*直接のきっかけは1957年のポンド危機だったという(第三国間の貿易決済へのポンド利用が禁止された)。
1950年代末のロンドンに成立したドル金融市場は「ユーロダラー市場」と呼ばれ、1960年代にはニューヨークを凌ぐ主要な国際金融市場となった。
ユーロダラー市場には、アメリカの金融当局による規制が及ばず、イギリス政府もこれを規制しようとしなかった。
イギリス当局は・・ユーロダラーの発達を抑止しようと思えばそれができたはずである。しかし当局がそのような挙に出なかったのは、疑いもなくロンドンをユーロダラーの中心市場に発展させることの利益を理解していたからであった。
著名な金融評論家Einzigの言葉(上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』(有斐閣、2007年)303頁[鈴木俊夫執筆部分]
1960年代にアメリカが(ドル防衛策として)国内の金融規制を強化すると、アメリカの金融機関もこぞってユーロダラー市場に出店した(もちろんヨーロッパ、日本の金融機関も)。シティは再び国際金融の表舞台に立つとともに、シティのユーロダラー市場こそが、アメリカの金融機関による国際金融業務の核を構築することになったのだ。
アメリカ金融界は規制に縛られた内部ドル市場の国際化の道を放棄し、外部ドル市場であるユーロ・ダラー市場を核にした「統合ドル市場」としての国際的信用制度を構築する道を選んだのである。
山本栄治『国際通貨システム』(岩波書店、1997年)97頁
*正式の統計は存在しないが、取引規模は、1985年には1668兆ドル、2016年には13833兆ドルに達したと推計されている(wiki英語版)。
以後、アメリカとイギリスは、競って金融自由化を推し進め、世界をグローバリゼーションと格差の渦に巻き込んでいく(↓)。
増え続けるドルを「カジノ・チップ」に見立てた経済の金融化・カジノ化について、イギリスの果たした役割は大きい。そして、おそらく、イギリスが仲介者となることで、アメリカ発の動きは、ヨーロッパ、次いで世界に、容易に拡大していくことになったのである。
*アメリカの金融自由化についてはこちら。これに倣ったイギリスの「金融ビッグバン」は1986年。
銀行革命はアメリカでスタートしたが、それだけで終わらなかった。証券会社が国内で行なって利益のあがった業務は、すぐにまずロンドンで、次いで海外の別の場所でも行われた。また証券会社が〔アメリカ〕国内で行うことを許されなかった業務もロンドンのシティで自由に行われ、その後他国でも行われることになった。利益を求めてやまない米銀が、国内の金融サービス市場における米銀間ならびに新規参入者との間の競争圧力を容易に回避できるルートとして、シティが果たした役割は物語の重要な部分である。‥‥ もしロンドンが玄関先に「ようこそ」という看板を掲げてドアを開放していなかったら、国際ビジネスを拡張するために、米銀はいったいどこに行っただろう。
スーザン・ストレンジ『マッド・マネー』(岩波現代文庫、2009年)80-81頁
日本ープラザ合意からバブル崩壊まで
(1)1980-90年:抵抗のラストチャンス
その後、ヨーロッパや日本に「ドル覇権」に異を唱えるチャンスはなかったのであろうか。
あったとすれば、1980-90年代がそのときだったかもしれない。次の引用をお読みいただきたい。
仮定だが、1980年代から1990年代に日本と大陸ヨーロッパがアメリカに対して何千億ドルもの債権を築き上げたとき、1920年代に債権者アメリカがイギリス等のWW1同盟国に対して取ったのと同じ態度をとっていたらどうなったであろうか。日本とヨーロッパは、アメリカに、主要企業から美術館の所蔵品まで、すべてを不当に安い価格で投げ売りするよう迫っていただろう。それこそは、アメリカがイギリスに求めたことだった。
Michael Hudson, Super Imperialism, 30-31頁
‥‥しかし、日本も(フランスを除く)ヨーロッパも、この債権者カードを使わなかった。日本はまるで債務国であるかのように振る舞い、1984年と1986年にはアメリカの要求に応じて金利引下げを行なった。アメリカの大統領選挙と議会選挙に貢献するためだ。その結果、日本経済は過剰債務に陥り、金融バブルが弾けて、ついには経済の重要部門をアメリカ人に売り渡す羽目になった。アメリカ自身、日本にとって債務者であったのに。
*金利引下げの意味についてはこちら(9段落目)。
*「ドル過剰」時代、他のヨーロッパ諸国がドル防衛策に協力したのに対し、フランス・ドゴール大統領は「金こそが本位通貨」という立場を譲らず、アメリカに対し繰り返し(フランスが持つ)ドルの金兌換を求めた。時期は違うが多分このことを言っているのだと思う。
*バブル期に日本企業はアメリカ企業をバンバン買収したように思われているが、よく見ると大した買い物はしていない。ゴールドマンサックスなどの主要銀行を買ったわけでもないし、ウォルト・ディズニー、IBM、ボーイング、GMやフォードを買ったわけでもないのだ。
(2)80年代の開幕:巨大赤字とドル高・高金利
1980年代に起きたことを概観しよう。
レーガノミクスの下、アメリカは巨大な経常赤字を継続させ、世界最大の債務国に転落(1985年)。前回書いたように、巨額の赤字はヨーロッパと日本の対米投資によって補填された。
*なお、この時期の対米投資がもっとも多かったのは、大幅な対米黒字を記録していた日本やドイツではなく、わずかな黒字しか持たないイギリス(5年間で1745億ドル)である。イギリスはユーロダラー市場として浮上したシティに流れ込む資金に支えられて巨額の対米投資を行っていたのだ。経済の金融化をもたらしたのは「低成長の経済に注ぎ込まれた構造的過剰資金(おかねの増えすぎ)」であるが、具体的には、ユーロダラー市場を中心とするドル金融市場がアメリカの巨額赤字を補填(ファイナンス)する過程で、先進国の証券市場が統合され、金融・資本規制が(米英の主導で)緩和され、金融のグローバリゼーションが進行していったようだ。
1970年代末からの(スタグフレーション対策としての)強力な通貨引締め政策(高金利政策)の影響で、非常な高金利・ドル高となったが、レーガン政権はこれを放置した。
*「ビナイン・ネグレクト(優雅なる黙認)」方針は、新自由主義的思想(小さな政府・規制緩和・民営化・・)の表現でもあったが、高金利・ドル高による海外からの資金流入が好都合だったという一面もあったと思われる。
しかし、ドル高で自動車産業などの競争力は非常に低下したので、アメリカ国民の不満は高まり、黒字国(日本やドイツ)に対する制裁や保護主義を求める動きが活発化した。
アメリカ政府は、国民の不満を逸らすため、アメリカの貿易赤字の責任を日本になすりつけ(これはほぼ言いがかり↓)、日本は通商上の各種要請事項の大半を受け容れた。
*自動車輸出の自主規制、アメリカ産の部品・完成車の輸入の拡大(数値目標)など(外務省の整理が一覧性があって便利)。
*当時の対日貿易赤字拡大の主な原因は、レーガノミクスによる消費刺激策にあり、「日本のせい」というのが言いがかりであることは一般に認められている。国内産業の競争力低下を放置して消費のみを刺激したため、そのほとんどが輸入品に向かったのだ(佐々木隆雄『アメリカの通商政策』(岩波新書、1997年)128頁等)。実際、アメリカの貿易赤字は、対日赤字が減少した後も、相手国を(中国に)変えて延々と続いた。
一方、世界を見回すと、ヨーロッパも不況でドル高・高金利はその原因の一つと考えられていた(本当かどうか私にはわからない)。アメリカから融資を受けていた途上国は金利負担が大きくなりすぎて困っていたし(→次回③)、日本は対米貿易黒字が大きくなりすぎて困っていた。
1980年代の中頃、世界中で、アメリカのドル高・高金利に対し「何とかしろ」というムードが高まっていた。
◉アメリカのドル高・高金利は世界経済の問題となったがアメリカ政府は意に介さず
(3)プラザ合意:後始末に奔走するG5
金融政策担当者が変わった二期目のレーガン政権は(1985年-)「ドル高是正やむなし」の姿勢に変わり、ヨーロッパ(とくにドイツ)とのドル売り協調介入などを始めていた。
この動きを捉え、「私とも一緒にやりましょう」とアメリカに持ちかけたのが日本だ。
*日本は「対米輸出減・輸入拡大」というアメリカの要求に基本的に応じていたが、ドル高が収まり貿易摩擦が和らげばそれに越したことはない。持ちかけたのは当時大蔵大臣だった竹下登。
日米間の交渉は独・英・仏を巻き込むG5の国際協調に拡大。G5は会議を開催し、共同声明で「ドルはもう少し安い方がよいと思うので、ドル買い協調介入を行います」と宣言した。これがプラザ合意である(1985年9月)。
*実際の声明はもっと婉曲的で「ある程度のドル安(+その他の通貨高)に向けてG5各国が密接に協調する用意がある」。
裏で交わされていた詳細な合意の内容は以下の通り。
- 目標は10%から12%のドル下方修正(1ドル240円→218-214円)
- 6週間程度・180億ドル目途の協調介入
- 介入資金の負担は米・日がそれぞれ30%、独25%、仏10%、英5%
*なお、日本は同時に、国内市場の一層の開放、規制緩和、金融緩和(低金利)、金融・資本市場の自由化、消費者金融・住宅金融拡大による民間消費・投資の増大を通じた内需拡大の努力なども約束させられた(ドイツも似たような約束をさせられた)。
G5全体にある程度言えることだが、ここでは日本の資金負担の大きさに注目しよう。
日本は、1970年代と同様、アメリカの失敗の後始末のために力を尽くした。それも、日本が自ら申し出て、気の進まないアメリカを宥めすかして、実現に漕ぎつけたのである。
◉日本(とG5)は率先して後始末に奔走。ドル覇権の一部となっていく
(4)利下げ要求に屈し、バブルに向かう日本
これを機にドルは暴落した。そこまで下がるとは誰も思っていなかったようなのだが、実際には大暴落し、みんな(とくにアメリカ)に衝撃を与えた。70年代末からのドル高が「ドルの強さ(=信認)」とは無関係の投機的バブルに過ぎなかったことがあからさまになったからだ。
*ドルは協調介入を待たずに下落を始め、予定より少ない102億程度の介入で目標値に達した。下落は続き、日独のドル買い介入にもかかわらず、86年7月には1ドル150円まで下がった。87年2月にはG7が再び協調介入する用意があることを宣言して市場のドル売りを牽制したが(ルーブル合意)、5週間後には再び下落が始まった。
実は、1980年代前半のドル高を支えていたのは、海外民間資本の対米投資とりわけ「ジャパン・マネー」と呼ばれた日本の機関投資家(とくに生保、証券会社の投資信託など)だったという。そして、彼らは、ドルの暴落で大損をして、急速にアメリカへの投資意欲を失った。
*生命保険7社は86年6月の決算で1兆7000億円の為替差損を計上したという。
そうなると、困るのはアメリカである。日本からの投資は、アメリカの赤字ファイナンスに欠かせないものでもあるからだ。
ドル安の状況下で日本の投資マネーを呼び込むには、アメリカの金利を為替差損を補うにあまりあるレベルにまで上げるしかない。しかしアメリカは金利を上げたくなかった。利上げ(=通貨供給量減)は回復基調にあった景気に水を差す可能性が高かったからだ。
そこでアメリカが何をしたかというと、日本(とドイツ)に圧力をかけ、利下げを要求したのである。
*アメリカが金利を上げなくても(あるいは下げても)日独が十分に(アメリカ以上に)金利を下げれば金利差により日独の投資マネーはアメリカに誘導される。
*利下げは日独にとってはいわゆる「金融緩和」(市場に流通するおかねを増やす)政策なので、アメリカとしては、投資マネーの誘導と、両国での内需拡大による対米貿易黒字の減少の両方を狙った形である。
日本(とくに日銀)は(少しは)抵抗した。しかし、結局、1986年1月から87年2月にかけて、5回の利下げ(公定歩合引下げ)を行ったのだ。
5回のうち最初の2回については、日本の景気対策として意味があったと解釈することが不可能ではない。プラザ合意後の急激なドル高の影響で、日本経済は景気後退局面に入っていたからだ。
しかし、86年11月以降の3回に関しては、日本にとっては有害無益であったことが明らかである。日本経済は1986年中頃からは「内需主導型の景気拡大」局面に入ったとされており、そこでさらに利下げ(金融緩和)を行えば、景気の過熱を招くおそれが強かったからである。
それでも日銀が3回の利下げに応じたのは、「国際協調」。つまり、その時々の事情(選挙など)に応じたアメリカの強い要請か、アメリカの機嫌を取りたい日本政府の要請に押されてのことである。
一連の利下げが日本国内でどう受け止められていたのか。3回目の利下げ直後の日本経済新聞、朝日新聞の記事から引用しよう。
日銀が利下げをためらってきた理由の1つとしては、カネ余りの中でそれが経済の一部をさらに投機化させるという心配があげられていた。だが、その原因は「余ったカネ」に見合うだけの国内の投資先が不足しているところにある。金融政策内部だけでの解決はもともと無理だったとみるべきだろう
日本経済新聞(1986年11月1日)
日銀が利下げをためらってきたのは、このため〔貯蓄で生活する人への配慮〕ばかりではない。通貨供給量の伸びが大きく、だぶついたカネが有利な運用先を求め、動いている。地価の高騰は東京の都心や高級住宅地から周辺部や地方の主要都市に広がり出した。日銀は、土地転がしのための融資を抑えるよう呼び掛けているが、金融機関の側も社会的責任を自覚してもらいたい。また住宅づくりを促す税制上の優遇措置が投機をあおっている面もあるので、土地譲渡の利益への課税強化なども必要だろう
朝日新聞(1986年11月1日)
(5)バブルが弾けて
1980年代、巨額の対米黒字を抱えた日本は、アメリカの顔色を窺いつつ、「国際協調」の枠内で、国際社会における地位を高めようと努力した。プラザ合意を積極的に主導したのもそのためだったといえる。
1980年代末になると、経済成長によって自信を付けた日本は、アメリカに「物申す」姿勢を見せはじめる(↓)。この時期の景気拡大は、高度成長期以来の高い設備投資の伸びに牽引された、実体のあるものだった。当時、日本人が感じた自負心には、相応の根拠があったのだ。
*盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』の出版は1989年。
しかし、度重なる利下げと(アメリカの要請による)金融・資本自由化の進展は、実体経済の成長をバブルに変えてしまった。
バブルがはじけ、低成長が10年も続いた後には、「物申す」気概も実力もなくなり、日本は「ドル覇権」を支える末端の役人のようなポジションに追いやられていたのである。
*ただし、私の理解では、アメリカは覇権を取るためにWW2を戦ったわけなので、もし仮に日本が順調に力を付けてアメリカに対抗する姿勢を示していたとしたら、適当な理由を付けて軍事的または経済的に攻撃され、結局は屈服を強いられていたに違いないと思う。
◉アメリカの利下げ要求に屈して経済はバブル化。崩壊後はドル覇権を支える末端の役人ポジションに
ヨーロッパ・日本の立ち位置
「ドル覇権」における(当時から現在に至る)旧G5の立ち位置は、以下のようにまとめることができる。
- イギリス:首謀者の一味
- フランス:抵抗する気概(or習慣)はあるが実力不足
- ドイツと日本:長いものに巻かれて忠実な下僕に
イギリスは首謀者だから仕方がない。しかし、残りの3国は悲しい。
フランス、ドイツ、日本は、以後、ドル覇権を支える役人として、アメリカの側に立って行動していく。それによって、次第に、発展途上国や新興国に対する「加害者」としての性格を強めていくのである。
(続く)