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「弱肉強食」の真実

目次

はじめに

「アメリカ II」の中で、家族システムにおける「権威」が果たす機能の第一は秩序維持であると書いた

権威には秩序維持機能があるという想定の下、「権威が確立していないとどう困るか」についてはこう書いている。

限られた領域に大勢の人間が暮らしている場合、少なくとも最小限の秩序維持機能は絶対に必要といえる。それがなければ、弱肉強食、血で血を洗う抗争の世界となってしまうから。

このとき私が想定していた「弱肉強食」の世界とは、殺人やら喧嘩闘争が頻発する世界、要するに、無秩序が支配する世界だった。

しかし、その後、いわゆる未開社会(=原初的核家族)の事例をいろいろ読んでいて、「あれ?」と思うようになった。

そこはたしかに「弱肉強食」の世界ではあった。しかし無秩序かといえば無秩序ではない。何というか、秩序そのものが「弱肉強食」の原理に従っているのだ。

原初的核家族がもたらす「不正な秩序」

「権威の不在→無秩序」という想定は、秩序には「正しさ」が含まれることを暗黙の前提としている。

だからこそ、私は権威(「正しさ」の基盤である)が確立していない社会では、秩序の維持は困難であろうと考えたのだ。

広辞苑で「秩序」を引くと、最初の説明はこうである。

①物事の条理。物事の正しい順序・筋道。次第。

これでいくと、「秩序」とは何かしら「正しい」ものであり、権威がなければ秩序は築けないということになりそうである。

他方、Oxford Dictionary of Englishで ”order” を引くと、その大元の意味はつぎのように説明されている。

1 the arrangement or disposition of people or things in relation to each other according to a particular sequence, pattern, or method:  

こちらの説明では、人間や物事同士の関係が何らかの順序、パターン、方法にしたがって配置・整理されていれば「order」といえるのであって、それが「正しい」ことは必要ではない。

言われてみればその通り。

日本人(広辞苑や私)の思い込みとは違って、たしかに、「正しさ」(したがって権威の裏付け)がなくても、秩序の維持は可能だ。

強い者が有利な立場を得て、弱い者がいろいろと我慢を強いられる。その弱肉強食の状態をそのまま固定してしまえばよいのである。その状態は「不正」ではあるが、無秩序ではない。

実際、いろいろ見てみると、権威の確立していない社会がもたらしがちなのは、無秩序というよりは「不正な秩序」のようなのである。

「不正な秩序」が生まれるとき

農耕を始め、定住し、人口が増え、土地が不足し、利害関係の調整が必要となったような場合、共同体は、何らかの形で権威を組み入れた家族システムを発展させ、「正しい秩序」を可能にするのが普通だろう。

しかし、この世界では、原初的核家族を営む人々のもとに、ふいに外部から文明が現れ、複雑な利害調整が必要な状況に追い込まれるということもありうる。例えば、未開社会に西欧の人々が踏み込んできて、奴隷貿易を持ちかけてくるとか。

*奴隷貿易に関しては西欧の側の「不正」ぶりも興味深いが、ここでは未開社会の側に着目する。

突然巨大な権益を投げ込まれた未開社会は、一時の無秩序を経て、秩序形成に向かう。しかし、社会の基層をなすシステムの中に、複雑な事象を「正しく」処理するのに必要な「権威」は確立されていない。

そういうときに何が起こるか。デヴィッド・グレーバー『負債論―貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016年)が紹介する事例を見てみよう。

大西洋奴隷貿易と西アフリカ

大西洋奴隷貿易は15世紀に始まり19世紀まで続いた。17世紀後半までには、ヨーロッパの6つの帝国(イギリス、デンマーク、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル)による三角貿易の仕組みが確立し、現地の社会を揺るがせることになる。

wiki掲載の図に加筆(https://ja.wikipedia.org/wiki/大西洋奴隷貿易

①ヨーロッパの工業製品(布、雑貨、武器など)がアフリカへ
②アフリカの奴隷がアメリカへ
③アメリカの一次産品(銀、砂糖、綿花、タバコなど)がヨーロッパへ
 

ヨーロッパの各種製品や武器の流入が西アフリカ社会に大きな影響を与えたことは、この時期以降に諸王国が興隆した事実にみてとれる。オヨ王国やアシャンティ王国、ダホメ王国(現在のベナン共和国の場所)などである。

ダホメ王国の王と女官たち 

西アフリカでの奴隷の調達は、最初のうちは、純粋な暴力が中心だった(戦争の捕虜とか、適当に拉致して連れ去るとか)。アフリカの商人がヨーロッパの商人から信用取引で商品を購入する際に、信用の担保として人質を提供し、その人質が債務不履行によって奴隷として売られていくというパターンも多かったという(債務不履行を待たずに連れ去られてしまうケースもあった)。

しかし、奴隷貿易はやがて、アフリカの権力者や有力商人にとっても、富と権力の源として「なくてはならないもの」に成長する。すると、彼らは、組織的かつ合法的に、地域の住民を奴隷に変えて、ヨーロッパの商人に売り払う仕組みを作り上げていくのである。

奴隷調達のための「不正な秩序」

ダホメやアシャンティといった王国では、統治者は、犯罪に対する刑罰として、本人の奴隷化や「本人の死刑+家族の奴隷化」を定めたり、とてつもなく高額の罰金を課して支払えない場合に本人と家族を奴隷にする、といった方法で奴隷を調達したという。

王国といえるほど発達していない地域では、長老や有力な商人が同様の司法体系を整備し、罪を犯した者を(比較的軽微な罪であっても)奴隷として売り飛ばした。訴えた者は一定の代金を得る仕組みであったので、長老などの協力を得て、無実の罪がでっち上げられることも少なくなかったという。

後者のケースで(国の行政組織に代わって)大きな役割を果たしたのは、商人のリーダーたちが作る秘密結社であった。この秘密結社(エクペ(Ekpe)という)は、神秘的な教義を伝授したり、大掛かりな仮装パーティーを主催することで知られていたが、その裏で、極秘の任務を遂行していた。債務の取り立てである。彼らは債務を支払えない者に対して、(組織的な)取引拒否から、罰金、差し押さえ、逮捕、処刑に至る各種制裁を実行する権限を有していた。

南ナイジェリアのekpeのコスチューム(詳細は不明)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Egbo_Secret_Society,_Mgbe,_Etuam,_Egbo,_South_Nigeria_Wellcome_M0005360.jpg

秘密結社エクペの会員であることは名誉と風格の証とされ、誰もが会員になることを望んだ。果たして、エクペには、等級別に異なる入会金を支払いさえすれば、誰でも加入することができたのだ。

入会金は高額だったが、金を用意できればメンバーになれる。そこで、多くの人々が、商人に借金をして高額の入会金を払い、エクペに加入した。彼らはまた、仮装パーティーで使用する道具や衣装を作るためにも、商人から金を借りた。

こんなのを作ったのかもしれません。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:British_Museum_Room_25_Mask_Ekoi_people_17022019_5015.jpg

エクペに憧れ、借金をして入会し、やはり借金をして衣装を作った人々。彼らがこの借金を返せなかったらどうなるか。

彼らはいまやエクペの一員であるため、債務者であると同時に、自ら債務取り立ての任務も負っている。彼らは、自分の家族や従僕を人質として差し出す代わりに、エクペの一員であるという地位を利用して近隣の村を襲い、子どもや大人、財物、家畜などあらゆるものを強奪して、それを代わりに差し出すことで許しを得ようとした。

*この場合、襲われた人々は、何の正当な理由もないのに、奴隷として売られていくことになる。

責任を他人に押し付けるこの作戦は成功することもあったが、しないこともあったという。後者の場合、結局は、自分の子ども、家族、従僕、最後には自分自身まで差し出すよう強いられ、手枷足枷をはめられて、奴隷として売られていったのである。

エクペのメンバーになりたくて、商人から金を借りたばっかりに、一族郎党が殺され、あるいは奴隷として売り払われていく。そんな仕組みが確立されて、長期間保持されていたのだ。

「人肉債務」の物語

こうした奴隷調達システムが現地の人々の心性にどんな影響を与えていたかを示すものとして、ティブ族の信じる「人肉債務」の話がある。

ティブ族(Tiv)は1750年ごろ(ちょうど奴隷貿易が活発であったころだ)からナイジェリアのべヌエ川流域に居住する部族で、20世紀中頃に人類学者による調査が行われている。

あきらかに、ティブ族には権威の形成にかんして大きな問題があった。

グレーバー『負債論』227頁

ティブ族の間には、公式の政治機構は存在せず、人々は平等主義的で、あらゆる形式の主従関係について懐疑的だったという。それぞれの村落は、一人の長老(=カリスマ性のある実力者)が絶対的な権力をふるうことによって、その秩序を維持していた。典型的な原初的核家族の世界である。

ティブ族の人々の間では、人肉を食べることで特別なカリスマを得る妖術師=殺人鬼の存在が信じられていた。人々は、政治的な指導者になるような有力者はみなこの妖術師なのではないかという疑惑に取り憑かれていたという。

妖術師は結社を組織していて、結社は、つねに新しい成員を求めている。成員を獲得する方法は、だまして人肉を食べさせることである。妖術師は、候補者を食事に招き、こっそり人肉(妖術師が妖術師自身の家族を殺し、その肉を混ぜるとされている)を食べさせる。

うっかり人肉を食べてしまった者は、結社と「人肉負債」の契約を結んだことになり、自らの肉を提供するよう言われる。それを逃れる唯一の方法は、自らの家族をかわりに差し出すことである。彼は、妖術師の指図通りに、兄弟、姉妹、こどもたちを一人一人殺していかなければならないのだ。

「人肉負債」は、はてしなくつづく。債権者はいくどもやってくる。‥‥すべての係累を失い、家族が全滅するまで「人肉負債」から逃れられない。かくして、債務者は、みずからおもむいて横たわり、屠殺され、そこで負債からついに解き放たれるのである。

グレーバー・226頁

このストーリーが何を示唆しているかは明らかだろう。先ほどの秘密結社の影響力がティブ族の地域にまで及んでいたのかどうかは(本を読んだ範囲では)はっきりしない。

*グレーバーは「〔彼らが〕なぜそんな強迫観念に脅かされていたのかというと、2、300マイル離れたところの住人たちの身にそれが文字通り起こっていたからである」としか述べていない。

しかし、私は、ティブ族の有力者の中にも秘密結社のメンバーになったり、周辺地域の秘密結社と関わりがある者がいたのではないかと想像する。

ティブ族の人々は、隣人である有力者の手引きによって、いつ何時、債務不履行、あるいは押し付けられた負債によって、自分やその家族が奴隷として売り払われてもおかしくないという秩序の下で暮らしていた。

そうした事態が現実化することへの恐怖が、妖術師による「人肉負債」の物語を生んだのではないだろうか。

巨大な権益を得た原初的核家族の一般理論

奴隷貿易にまつわるこうした「不正な秩序」の発生は、西アフリカに特異な事例というわけでは決してなく、むしろ、西欧の商業文明と接した未開社会では通常のことだったという。

支配者が(でっち上げを含む)犯罪や債務を理由に臣民を従属させ、奴隷として外国人に売り払って富を築く。「弱肉強食」の自然的事実をそのまま糊で固めたような社会制度は、奴隷貿易の対象となった各地域に確立し、100〜数百年にもわたって営まれていた。

*グレーバーの本では、東南アジアの山間部やバリ島の事例が紹介されている。

権威が確立されていない社会では、強さと正しさは同義である。巨大な権益を手にした強者はそれを正当な自分の取り分であると信じ、弱者の側もそれを信じる。おそらくはそんな単純な仕組みによって、「不正な秩序」は確立され、維持されていくのだと思われる。

原初的核家族のもとに巨大な既得権が発生したとき、必ずといってよいほど「不正な秩序」が形成されるという事実は、この世界を隈なく理解したいと願うわれわれにとって、非常に示唆に富んでいる。

何しろ、現在の世界の秩序は、二度の世界大戦でヨーロッパ列強が凋落した結果、さほど強く望んだわけでもないのに、いつの間にか巨大な権益を手中にしていた原初的核家族を中心に形成されてきたものなのだから。

おわりに

私がグレーバーの本を手に取ったのは、一つには、アメリカの金融覇権とはいったい何なのかを理解するためだった。

なぜ(日本を含む)西側諸国はこれほどまでにアメリカに従属することとなり、なぜグローバルサウスはドルの支配から逃れようとしているのかを、何となくではなく、はっきりと理解するためだった。

グレーバーを読み、さらに調査を進めて分かったことは、現在の金融秩序はかなりデタラメだということである。デタラメで、めちゃくちゃで、まあ、特にアメリカ、それから(ある程度)その同盟国である西側諸国に都合のよい仕組みである。

ただ、じゃあ、アメリカは巨大な悪の帝国で、緻密な計画に基づき周到に準備してこの仕組みを作り上げてきたのか、といえば、そういうわけでもなく、どちらかというと、あまり深く考えず、短期的に見た自己利益を最大にするべく、そのつどそのつど行き当たりばったりで策を講じてきたら、壮大な「不正な秩序」が確立されていた、という感じなのだ。

そのやり方は、まさしく突然巨大な権益を手に入れた原初的核家族のものであり、もう笑うしかない。しかし、被害者の側面もありつつ、グローバルサウスと呼ばれる地域との関係では明らかに受益者側であるわれわれは、やはり、その仕組みをしっかりと理解して、世界と、それからとくに若い人たちと、認識を共有する必要があると思う。

もうすぐシリーズが始まります。
お楽しみに。

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ナチズムが生まれる場所

はじめに

現在の世界には「ネオナチ」という日本語では甘っちょろく感じられるほどの本物のナチズムが繁茂している場所が(私の知る限り)2箇所ある。一つはイスラエル、もう一つはウクライナ西部だ。

*以下「ナチズム」は民族などの属性に基づいて特定の対象を激しく差別・迫害することを指します。

両者はどちらも原初的核家族である。アメリカやイギリス(原初的核家族または絶対核家族)が黙認している点も共通。

「むむ‥何かある」とにらんで考察を進めた結果、壮大な(?)仮説を得たのでご紹介させていただく。

仮説

ナチズムがもっとも発生しやすい場所は、共同体家族地域に対峙する原初的核家族地域である。

(1)世界に残る原初的核家族地域

説明しよう。

原初的核家族とは、ざっくりいうと、国家以前の原初的人類(移動生活の狩猟採集民とか遊牧民とか)の家族のあり方である。

人間は群れで生活する生物なので、基本仕様として集団を作る能力は持っているのだが、多数の集団を束ね、国家を作る段になると、基本仕様だけでは足りなくなる。そのときに家族システムが進化するのだ。

直系家族、共同体家族が備えている「権威」。それは、世代と世代を縦の線でつなぐことで生まれるものだが、この「権威」の軸が、国家のまとまり(凝集力)、秩序(規律)を成り立たせる基礎となる。

 *権威の機能については、この記事この記事をご覧ください。

いまは、全世界のすべての土地に国境が引かれ、いずれかの国に属することになっている。しかし、歴史的には、文明の中心地で国が生まれ、帝国に発展し、周辺の国家形成を促したりした後も、国家に属しているのかいないのかよく分からない土地がそこここに広がりまたは点在していた。そういう時代が長かったのだと思う。

そういう地域は、19世紀以降(なのか?)、どこかの国に領土として編入されたり、20世紀後半になると独立国となったりしたが、家族システムは原初的核家族のままであるケースが少なくない。国の成り立ちは特殊だがイスラエルはそうだし、ウクライナ(東部以外)もそうである。東南アジアの多くの国もそうだ。

そういう国は、国でありながら、自然な国家のまとまりを生む「権威」の軸を持っていない。放っておかれれば国家など形成しなかったはずの人たちで、メンタリティは原初的人類のままなのだ。

(2)原初的人類とは?

原初的人類のままであるとはどういうことか。これはもちろん私の考えだけど、こういうことだと思う。

「家族のためには戦えるが、国家のためには戦えない」

つまり、国民としてのアイデンティティが希薄なのである。

戦争を前提にした書き方をしたけれど、このメンタリティは国家運営全般に当てはまる。言い方を変えてみよう。

「家族には尽くせるが、国家には尽くせない」

しかし、主権国家を基本単位とする現代の世界では、彼らも国家として成り立ってゆかなければならない。国民としてのアイデンティティを確立し、一つにまとまっていかなければならない。

凝集力の核を持たない人々が、一つにまとまらなければならなくなったとき、通常発生するものは差別である。

何か特定の対象(A)を排除すれば、残りの人たちは「私たちは〔Aではないという点で〕同じ」という一体感を得られるからだ。

*例えば、原初的核家族の国家、アメリカの成立には先住民・黒人差別が大きな役割を果たしていることが指摘されている

では、その原初的核家族地域の隣に、非常に強力な共同体家族の国家があったらどうだろう。

国民としてのアイデンティティが希薄な人々が、単に一つにまとまるだけでなく、強烈な国家的アイデンティティを誇る帝国と渡り合っていかなければならないとしたら、どうだろう。

その状況で発生するのがナチズムだ、というのが私の仮説である。

統合の軸を持たない彼らは、任意の対象をそれはそれはもう激しく嫌悪し排除することによって、自分たちをギューっと絞り上げ、凝集力を高めようとする。そうすることで、共同体家族に匹敵する強固なかたまりとなり、国家のために戦う力を得ようとするのである。

検証1ーイスラエルとウクライナ

イスラエルは、アラブ諸国に囲まれ、パレスチナと対峙している。アラブ諸国は文句なしの共同体家族であり、長く帝国の支配下にあったパレスチナ人もそうだろう。

原初的核家族であり、国家としての伝統も持たないイスラエルの民は、共同体家族のパレスチナやアラブ諸国と伍していくために必要な強力な国家意識を形成・保持するために、ナチズムー差別の対象はパレスチナ人・アラブ系住民ーを制度化することになっているのではないだろうか。

ウクライナが対峙しているのはもちろんロシアだ。ソ連が崩壊し、棚ぼた的に独立してはみたものの、ウクライナもまた原初的核家族であり、国家の伝統を持っていない。

東部にはロシア系住民がいてロシアとうまくやっていたけれど、西部はあまりうまくまとまれず、経済的にも苦しいままだった。

何とかしたい。ロシアの一部としてではなく、ウクライナとして、自分たちの国を立派に成り立たせ、名誉ある地位を得たい。

と、そういう状況で、ナチズムが生まれてしまったのではないだろうか。

検証2ーナチ型虐殺事例

原初的核家族と共同体家族の接点でナチズム的事態が発生した事例は他にもある。

例えば、カンボジア・ポルポト政権下でのクメールルージュによる民族浄化(被害者は150-200万人とか(wikiです))。クメールルージュは中国共産党の支援を受けた共産党政権であり、原初的核家族が共産主義国家を目指した(共同体家族と同等の凝集力を得ようとした)ことで発生した事態であったかもしれない。

 *虐殺の規模の大きさは、移行期危機と関係すると思われる。

インドネシア大虐殺では、主たる虐殺対象は共産党関係者だった(被害者は少なくとも50万-。200万以上という説もあるとか(倉沢愛子『インドネシア大虐殺』(中公新書、2020年))。

インドネシアでは共産党は合法で4大政党の一つとして大きな勢力を持っていた。インドネシアは大半が原初的核家族なのだが、一部に共同体家族の地域がある。共産党の隆盛はそのことと関係があるかもしれない。そして、彼らと対峙し、勝利するために、原初的核家族は、ナチズムに基づく虐殺を行うことになったのかもしれない。

検証3ードイツと日本

ナチズムの本場といえばドイツ。直系家族の地である。ナチズムについては、移行期危機脱キリスト教化が重なって起きた悲劇であると基本的に理解していたが、今回、共同体家族との対峙という側面もあるのかも、と考えるようになった。

ナチズムは、反ユダヤ主義として捉えられるのが一般的だが、少し調べてみると、第一次大戦の敗戦以後、ナチ運動が一貫して敵視していたのはむしろマルクス主義者だった。

1940年代初頭にドイツ支配下のヨーロッパで行われたことを考えると、ヴァイマル共和国最後の数年間、ナチの暴力の主な標的がユダヤ人ではなく共産党員と社会民主党員だったことは奇妙に思われるかもしれない。ユダヤ人はもちろんSA〔突撃隊〕に目をつけられたし、NSDAP〔国家社会主義ドイツ労働者党〕が攻撃的な人種差別を行う反ユダヤの党であることに疑いを抱く者はいなかっただろう。しかし、この時期のユダヤ人への攻撃は、ほとんどあとからの思いつきで、左翼の支持者を攻撃する際、目についたものに攻撃の矛先が向かっただけのように思われる。

リチャード・ベッセル著 大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949』(中公新書、2015年)41-42頁

これはナチスを支持したドイツ国民についても同じで、1930年代前半の段階では、NSDAPに投票した人々が明確に支持していたのは反マルクス主義の主張であって、反ユダヤについては「黙認」していたという感じだったという。

ヒトラーが闘争により勝ち取らなければならないと考えていたドイツ民族の「生存圏」は「第一にロシアとその周辺国家」だった(坂井栄八郎『ドイツ史10講』195頁)。

当時のドイツは、共産主義ロシアと対峙するために、ユダヤ人迫害を必要としたのかもしれない。

原初的核家族とは異なり、直系家族には権威の軸がある。しかし、それは本来は都市国家や領邦国家向けのものであり、国民国家を支えるにもやや弱く、帝国となれば「到底無理」という体のものなのだ。

その直系家族が大帝国建設という壮大な夢を見て共同体家族ロシアに対峙したとき、本来持ち得ないレベルの凝集力を得るために、ナチズムが発生してしまう、というのは、ありそうなことのように思われる。

同じことは日本についても言える。私は日本にナチズムが跋扈した時代があるとは考えていないが、民族浄化的な虐殺ということでは、関東大震災(1923年)のときの朝鮮人虐殺があり、日中戦争の南京事件(1937年)がある。

関東大震災のときには社会主義者も多く殺害されており、ロシア革命(1917年)の影響による共産主義拡大への警戒感が一つの要素として存在したことは間違いない。南京の虐殺は、簡単に勝てると思って仕掛けた戦争で中国側の思わぬ強靭さに接した後で起きた事件である。

おわりに

私が刑法学をやめ、今やっている方向の研究に乗り出した理由の一つに、ふと「自分が生きていて、社会科学の研究などしているときに、日本がまた大虐殺とかすることになったら嫌だなあ」と思った、ということがある。

その懸念は、高齢化と人口減少が続く以上はありそうにない、ということで一旦は収まったが、そうこうするうちに、ウクライナ危機が発生し、ウクライナ東部のロシア系住民に対してなされていたことを知り、イスラエルで起きていることを知った。

とくにイスラエルのことは全然よく知らないが、どちらも移行期危機とはいえないのではないかと思う。

いまは「○○になったら嫌だなあ」というようなことは基本的に考えない(考えても仕方ないので)。しかし、それがどういう現象なのかは理解したかった。

私の場合、理解するということは、その対象物を「憎まないで済む」ことを含む。感情的にならず、冷静に、ほどほどに暖かい目で観察できる、ということだ。

前回はアメリカについてそれができて、よかったな、と自分では思っていた。

この「ナチズムが生まれる場所」は「アメリカ II」の副産物なのだが、ナチズムすら憎まないで済むなんて、結構すごい達成ではなかろうか。

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アメリカ II (3・完)
ー帝国の繁栄と衰退ー

 

はじめに

なぜ、アメリカは巨大な格差を放置してますます状況を悪化させ、軍事介入やCIA秘密作戦に熱中し続けているのか。

「権威」の不在に着目し、その謎を解き明かすシリーズの最終回。
いよいよ、アメリカの建国から現在までを追いかけよう。

建国ー独立戦争の英雄の下で

Washington Crossing the Delaware by Emanuel Leutze, MMA-NYC, 1851

アメリカの初代大統領は独立戦争の英雄ジョージ・ワシントン(在任1789−1797)である。

総司令官として独立戦争を勝利に導いた彼は「生きながらにして神格化の途上にあった」というが、戦争終了後は最小限の兵力を残して軍を解体、自ら権力を握ろうとはせずに地元に帰る。しかし、

当時の人々にとって、大統領に相応しい人物はワシントン以外に考えようもなかったし、そもそもワシントンを想定しつつ、合衆国憲法第二条の大統領に関する規定が作られたともいわれる。

和田光弘『植民地から建国へ』アメリカ合衆国史①(岩波新書、2019年)164-165頁

ワシントンは、周囲からの強い働きかけに応じて大統領選挙に出馬、満票を得て、アメリカ合衆国初代大統領に就任するのである(1789年4月30日)。

彼は大統領を2期務めて退任する(3期目は出馬せず)が、「終身で務めてくれると考えていた者も、当時のアメリカ国内には多かった」という(和田・180頁)。

軍歴と人格により圧倒的な信頼を勝ち得て、終身の大統領就任を望まれる。まるで古代ゲルマン民族の王のようではないか。

バラバラな植民地の寄せ集めにすぎなかった13州を一つの統一国家にまとめ上げる力となったのは、1つには、イギリス本国という強大な敵との戦いとその勝利、そして英雄ジョージ・ワシントンの存在であったと考えられる。

ただ、「権威」なき原初的核家族の英雄による建国の場合、相続争いや遺産分割で国はまもなく分裂し弱体化していくのが通例である(クローヴィスとカール大帝の例についてこちら)。アメリカはどうやってこれを乗り切っていったのであろうか。

13州を一つの統一国家にまとめ上げる力となったのは、①イギリス本国という強大な敵との戦いとその勝利、②英雄ジョージ・ワシントンの存在だった

「常道」の確立ー連邦裁判所と政党対立

(1)政党対立

アメリカ建国の父たちは、当初から「国王」を持たない共和政体の脆弱さを認識していたという。

古代ローマは版図拡大に連れて共和政から帝政に移行したし、ピューリタン革命後のイギリスも結局王政に回帰した。当時は「共和政は政治的に脆弱だ」というのが常識だったのだ(和田・161頁)。

しかし、君主制のイギリスを反面教師としたアメリカに、「国王」の選択肢はなかった。

広大な領土を傘下に収める「新共和国」存続の困難さを憂慮した政治指導者たちは、これまで統合の中枢にあった国王が存在しない今、「有徳の市民」が私益ではなく公益を優先させることでシステムの暴走を防げるとの見通しを抱いていた。公共善の防衛を謳う共和主義の主張であ〔る〕。

和田・161頁

つまり、建国の時点で、彼らは「国王はいないけど一つにまとまらなければ」と強く意識しており、大統領たるワシントンの下、皆が公益実現に向け一丸となって国家の運営にあたることを想定していたのである。

ところが、日本人から見ると「さすが」としかいいようがないが、以後アメリカ政治の基本モードとなる二大政党の党派対立は、早くもワシントン大統領の任期中に発生しているのだ。

「第一次政党制」と呼ばれる連邦派(商工業中心の国づくり・強力な連邦政府を志向)と共和派(農業立国・州の権限尊重を求める)の対立の様子は、非常に原初的核家族的で面白い。

1820年代後半に形成される第二次政党制などとの違いは、極論すれば、互いに相手の党派の存在を政治的に認めていなかった点にあるといえる。つまり双方とも自分たちのみが正しい道筋を示していると確信していたのであって、意見は異なっても互いの存在を認めた上で政権を相争う政党政治のあり方とは、大いに趣を異にしていたのである。

和田・172頁

日本では、どうしても一つの勢力が政権に落ち着いてしまい、いくら頑張っても二大政党制にならないというのに、アメリカでは国が動き出した途端に意に反して政党制が生まれてしまう。家族システムの作用としかいいようがないであろう。

自分たちの考えを素朴に正しいと信じている人たち(つまり権威を持たない人たち)の間では、意見が異なれば即座に対立が生じる。おそらく、その単純な成りゆきが、二大政党制の基礎なのだ。

最初の合衆国連邦議会の様子
https://constitutioncenter.org/blog/happy-birthday-to-first-united-states-congress

(2)連邦裁判所

手元にあるはずの本(こちらです)が見つからず、うろ覚えで申し訳ないのだが、建国当初から、連邦最高裁判所は自ら積極的にその権限を強化するべく行動していった(違憲立法審査権を確立したとされる有名な判例は1803年に出ている)。

こうして、ごく初期のうちに、スコウロネクのいう「裁判所と政党からなる国家」、私の言葉では「暫定権威(連邦裁判所)+党派対立」を基礎とする国家の構造ができあがったわけである。

原初的核家族のアメリカでは建国後まもなく意図せずに二大政党制が生まれ、連邦裁判所が暫定権威を担い、「裁判所+党派対立」の基本体制が確立した

南北戦争(1861-1865) 

https://www.battlefields.org/learn/articles/north-carolina-civil-war

(1)合衆国の再統一

建国の父たちが懸念した通り、広大な領土を収める新共和国アメリカは、19世紀後半に分裂の危機を迎える。

このときに起きた内戦(南北戦争)の死者数をご覧いただきたい。

戦死者数動員者総数人口1万人当り死者数
独立戦争4435217000117.9
南北戦争4983323263363181.7
第一次世界大戦116516473499111.1
第二次世界大戦4053991611256629.6
ベトナム戦争902001533032.8
貴堂・後出108頁
(独立戦争と南北戦争についてはもっと多く数える文献もあるそうです)

南北戦争は、アメリカが戦ったすべての戦争の中で、最大の(アメリカ人の)死者を出した戦争なのだ。 

南北戦争とはいったい何だったのかと考えたとき、鍵になると思われるのは、(1)で見た領土の拡張である。

大西洋岸の13州から始まったアメリカは、1850年までにこれだけ領土を広げ、人口も相応に増加した。 

連邦裁判所と政党対立でどうにかやりくりしていた原初的核家族の「小さな政府」(と国民)に、これだけの領土をまとめていく能力はなかったはずである。

南北戦争は、おそらく、原初的核家族の集団が二つの陣営に分かれて総力戦を戦い、雌雄を決することで、新たに統一を成し遂げる、合衆国再統一のための戦争だったのだ。 

(2)新たな建国ー生まれ変わるアメリカ

南北戦争は、州の主権を尊重し「小さな政府」しか持たなかったアメリカが、より「国家らしい国家」に生まれ変わる転換点となる戦争だった。

連邦政府は、総力戦となる内戦を戦うなかで、それまで州に奪われていた通貨発行権を国家主権の名において奪い返し、連邦課税を実施し、財政政策の主導権を握った。さらに、「祖国のために死ぬ」ことを強いる連邦徴兵を、一気に実現していった。

また‥‥、再建期には、市民権法や憲法修正第13条、第14条、第15条などで、連邦市民権の概念を確立し、それまでの連邦と州の関係を大きく変質させて、国家主権の優越を確立していったのだ。リンカンがゲティスバーグ演説で、「ユニオン」に代えて「ネイション」を使ったのは、南部連合が離脱宣言で主張した、州権論的な国家観を否定するためだった。

貴堂嘉之『南北戦争の時代』アメリカ合衆国史②(岩波新書、2019年)113-114頁

とはいえ、彼らの家族システムは、原初的核家族のままである。

これ以後、アメリカの国家および政府の規模は拡大の一途をたどる。それは、連邦裁判所と二項対立から成る「国家なき国家」が限界に達し、「大きな政府」を持つ中央集権型国家へと変貌を遂げていく過程だが、大きな政府の適正な維持こそは、「原初的核家族の国家」にとって、最大のチャレンジなのだ。

アメリカは、南北戦争による「再統一」を経て、中央集権型国家に変貌を遂げていく

帝国への道

南北戦争後、先住民の迫害(というか虐殺)と同時に、大統領選や中間選挙の投票率が20年に渡って(1870-90)80%前後を記録し続けるという「デモクラシーの時代」を築いたアメリカが、次に進んだのは、海外進出、つまり「帝国」への道である。

北米大陸の征服を完了した後、アメリカは、中南米、太平洋島嶼部を自らの勢力圏として固めることに力を注ぎ始めた。

1904年、セオドア・ルーズベルト大統領は次のように述べ、アメリカが今後、(当面は)地域の「国際警察」としての責務を積極的に担っていくことを宣言する(1904年年次教書・28頁)。

我が国が望むのは隣国が安定して、秩序があり繁栄していることだ。‥‥〔しかしながら〕彼国が愚行を繰り返し、無力に打ちひしがれて、文明の紐帯を弱めてしまったときは、文明国の介入を受けざるをえない。西半球の場合はモンロー・ドクトリンを信奉するアメリカが‥‥国際警察力を発動することになる。

*前後の内容を含め、中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』アメリカ合衆国史③(岩波新書、2019年)27頁周辺参照

*いわゆる「モンロー・ドクトリンのルーズベルト系論」。オリジナルのモンロー・ドクトリンの主眼が南北アメリカ大陸へのヨーロッパの干渉を排する点にあったのに対し、ルーズベルトは南北アメリカ大陸におけるアメリカの(武力行使を含む)秩序維持の責務を根拠づけるものとする新解釈を示した。

棍棒を持ってカリブ海を歩き回るルーズベルト(当時の風刺画)

中央集権化が進行する時期、北米大陸征服を終えたアメリカは海外に進出し、「帝国」への道を歩み始める

二つの世界大戦 

(1)第一次世界大戦

セオドア・ルーズベルトの宣言は、新興国として出発したアメリカが、西欧の干渉を排して国力を充実させるという内向きの姿勢(オリジナルのモンロー主義(孤立主義)だ)から、西欧列強の一角として、積極的に世界にコミットする姿勢に転換したことを示していた。

実際、1870年から1913年の人口および経済の成長は、世界に類を見ないレベルに達していた。その基礎となった教育水準はさらに上昇を続け、さらなる国力の充実を約束していた。

アメリカは、その勢いに見合った活躍を求め、ついに「自由と民主主義」のリーダーとして名乗りを上げるのだ。

1917年4月2日、第一次世界大戦への参戦を決定したウィルソン大統領の議会演説をお聞きいただこう。

我々の〔戦争の〕目的は、世界の暮らしの中で、利己的で宣誓的な権力に反対し、平和と正義の原則を確立すること、そして、今後この原則を守り、保証するために、自治を行う真に自由な諸国民の間に、目的と行動の協調関係を樹立することです。‥‥世界は民主主義のために安全にされなければならないのです。

*中野・前出63頁

(2)「大きな政府」へ

大きな戦争を戦うということは、大勢の人間と大量の物資を組織的・計画的に動かすということであり、その実行にはどうしても大きな政府が必要になる。

南北戦争後に初めて「国家らしい」連邦政府を持つようになったアメリカは、大戦に参加する度に、社会・経済的な統制の能力を高め、より「大きな」政府に持つ国家に生まれ変わっていくのである。

1929年に始まった大恐慌は、アメリカが「大きな政府」を積極的に肯定していく契機となった。

1933年に就任したフランクリン・ルーズベルト大統領は、就任演説で、次のように述べている。

我々が恐れなくてはならないのは、恐怖そのものだけです。‥‥国民は行動を求めています。今すぐ行動せよと。‥‥議会にもう一つ危機への対処の手段を要請したい ------ 緊急事態に対する戦争を行えるように行政権力を拡大してほしいのです。

*中野・前出135頁

以後、1969年までの36年間、アイゼンハワー(共和党)2期を除いて民主党が政権を独占する「長いニューディール」の時代が続く。

アメリカが「二項対立」を封印し、大きな政府の下に一つにまとまって、国内では国民の福祉を、世界に向けては「自由と民主」(と豊かさ)を実現していこうとする理想主義の時代である。

しかし、彼らの「大きな政府」は、旧ソ連や中国共産党のような強大な権威に基づくものではない。

「二項対立」を封印したアメリカが、大きな政府の下で国民の統合を維持していくためには、憲法の理念、戦争、排外主義といったあらゆる手段を駆使していかなければならないだろう。

(3)第二次世界大戦

フランクリン・ルーズベルトが参戦の意図を語った1941年の一般教書演説について、中野先生にご紹介いただく(適宜改行します)。

冒頭ローズヴェルトは「アメリカの安全保障が今ほど外部からの大きな脅威に晒されたことはない」と危機感を煽ったうえで、「もはや我々は慈悲深い心を持つ余裕などない」と戦争が不可避であることを示した。

そして大統領は来るべきアメリカの戦争の大義を「人類の欠くことのできない四つの自由」ーーすなわち、①言論と表現の自由、②礼拝の自由、③欠乏からの自由、④(侵略の)恐怖からの自由、に求め、これを「〔日独伊三国同盟による〕専制政治の新秩序の対極に」位置づけた。

重要なのは、「四つの自由」の理念がアメリカの国家的目標であるばかりか、「世界のあらゆる場所で」実現されるべき理想として語られたことである。例えば、四つのうちで最もニューディール的な「自由」である「欠乏からの自由」は次のように敷衍されたーー「それは、世界的な観点から言えば、あらゆる国で、その住民の健全で平和な生活を保障するような経済的合意を意味」する、と。

この教書はアメリカがついに孤立主義を脱し、世界政治に本格的にコミットする決意の言葉でもあった。

中野・156頁
戦争目的の周知のために流行画家ノーマン・ロックウェルに描かせた「四つの自由」

理想主義に基づく世界政治への本格的コミットメントという方向性は、中等教育の普及が規定する下意識の健全な発露であり、「自由」の名の下に世界に打って出たアメリカの行動は完全に自然で正常である(倫理的当否について語るものではない)。

憲法的理念、排外主義、使用可能な全てのツールを総動員して第二次世界大戦を戦い終えたとき、アメリカは、世界に並ぶもののない超大国となっていた。

また、総力戦を戦った結果として、その国家には、極めて大きな政府が備わり、政府、軍、大企業、アカデミア等から成る「軍産複合体」が意思決定機構の中心を占めるようになっていた。

しかし‥‥この期に及んでも、アメリカの家族システムは共同体家族に進化したりなどしていない。原初的核家族のままなのだ。不釣り合いな「大きな政府」を持つこととなった国家の運命や、いかに。

二つの大戦を経て世界に並ぶもののない超大国となったアメリカは、同時に、巨大な政府を持つ国家となっていたが、家族システムは原初的核家族のままである

冷戦

(1)世界規模の「二項対立」

大戦以来の「大きな政府」は、民主党政権の下で、国内では「偉大な社会」の理想を追求する福祉国家(Welfare State)として開花する一方、対外関係では、軍事国家(Warfare State)として機能した。

*豊かで平等なこの時期のアメリカについてはこちらをご参照ください。

世界が荒廃する中、ただ一人無傷で、圧倒的な軍備と経済力を手に、世界の中心に立っていたアメリカ。その国は、しかし、自ら開発した核兵器の恐怖に足を掬われ、共産主義に恐れを抱き、すぐさま世界を敵と味方の二つに分けて、冷戦をスタートさせるのだ。

まるで、強力な中央政府が存在しない世界で、秩序を保つ方法は、核家族にはお馴染みの二項対立しかないというかのようである。

この「トルーマン・ドクトリン」は、世界政治の現状を「多数者の意思に基づく」自由な生活様式と「恐怖と圧制」の政治秩序との闘争と捉え、前者の擁護のためには、アメリカが他地域に介入することも避けられないと説明していた。

また‥‥こうも述べられた。「全体主義の種は悲惨と欠乏の中で育ち‥‥よりよい生活の‥‥希望が消えたとき完成する」と。ここに「欠乏からの自由」のレトリックは、共産圏膨張の「恐怖からの自由」—- つまり冷戦の戦いへと展開していく。

中野耕太郎『20世紀アメリカの夢』178頁
古矢旬『グローバル時代のアメリカ』6頁

この時期、アメリカの政府支出はさらに飛躍的な伸びを見せているのだが(↑)、この巨大な政府は、冷戦という特殊な戦争を戦う過程で、通常の政府が持ちうる「大きさ」とは質的に異なる、2つの「飛び道具」を手に入れる。

(2)金融覇権ー基軸通貨ドル

その一つは、ドルが国際金融の基軸通貨としての地位を確立したことによる金融覇権である。

‥‥ドルというのは魔法の通貨で、貿易収支の赤字が重大化した局面の間も、少なくとも2002年4月までは価値が下がることがなかった。まことに魔法のような動きを見せたわけで、経済学者の中にはそこから、アメリカ合衆国の世界経済における役割は、もはや他の国々のように財を生産することではなく、通貨を生産することなのだという結論を演繹したものもいる。

エマニュエル・トッド『帝国以後』130頁

私が理解している範囲でざっくりいうと、ブレトン・ウッズ体制下での基軸通貨としての地位、IMFや世界銀行の政策に対する事実上の支配権、マーシャル・プランを通じた欧州への多額の復興支援等を通じて、アメリカはグローバル金融を支配する地位に着いた。

政府支出の増大と産業競争力の低下で貿易赤字が常態化し、経済的覇権が危うくなった後も、金本位制を止めてドルを金(ゴールド)から切り離すなどして乗り切り(ニクソン時代の1971年)、唯一の大国としての謎の金融支配力を通じて、「どれだけ借金をしても潰れない」「ドルを刷ればいくらでも支出ができる」という謎の状態を作り上げたのだ。

*金本位制とは、「金(ゴールド)だけが本物のお金(マネー)であり、通貨は金(ゴールド)の引換券にすぎない」という考え方の制度で、この制度の下では、金(ゴールド)の裏付けなしにドルを刷ることはできない(ドルと金を引き換える(兌換)義務がある)。ブレトン・ウッズ体制は純粋な金本位制ではなく、金=ドル本位制というような感じのものだったという話だが、このことの意味は私にはまだわからない(いつか分かったら説明します)。また、金(ゴールド)とドルの交換レートが第二次大戦当時のアメリカの経済力を前提としたレートで固定していたため、1971年のアメリカにとっては「過大評価」となっていた(円は1973年に変動相場制となった瞬間に固定時の360円から約260円に上がっている)。ゴールド不足とドルの過大評価に悩んでいたアメリカは、金本位制を止めたことで、ゴールドなしにドルを刷れるようになり、また実力に応じたドルの切り下げにも成功したのである。
 

(3)秘密作戦

もう一つは、CIAなどの諜報機関を通じた秘密作戦である。

秘密の工作活動は第二次世界大戦期から行われていたが、朝鮮戦争の後、財政引き締めの観点から通常兵器の大幅削減が目指された際に、改めてその使用が拡大されたという(通常兵器の穴を埋めたもう一つは核兵器)。

*アメリカの正規軍の実力が(軍備の割に)大したことないというのはある程度定説なので、有効性の観点から選択された可能性もあるかもしれません。なお、アメリカ軍の「弱さ」について、トッドはつぎのように指摘しています(国家規模の戦争における犠牲的精神のなさは「権威の不在」の明らかな徴標だと私は思います)。

「イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるリデル・ハートが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的優位を考慮すれば、効率性に劣るものだった。ある程度の犠牲精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された。‥‥」(『帝国以後』121-122頁)

主としてCIAの主導の下で、アメリカ合衆国は、数百にのぼる秘密裏の不法介入を行なっているが、それが行われた地域以外ではほとんど注目されないままに終わっているのである。これらの秘密活動は、通常の統計調査の網の中には入ってこないところで行われている。専門的に言うならば、国防総省は「秘密工作活動」と「不法工作活動」を区別している。前者の場合には、活動のスポンサーが誰であるのかが隠され、そのスポンサーに関して「まことしやかに否認する」ことが許されているのに対し、後者の場合には、活動の存在自体が隠蔽される。しかし、実際には、この区別は普通は曖昧で、こうした行動とその実行者は、それがいかに犯罪的な行為で、その実態がいかに徹底的に明らかにされようとも、全く責任を問われないのである。

ジョン・W・ダワー(田中利幸 訳)『アメリカ 暴力の世紀  第二次世界大戦以後の戦争とテロ』(岩波書店、2017年)56頁

CIAの活動については、日本の一般の人々にはあまりにも知られていないと思うので、もう一箇所、引用をさせていただく。

1987年、CIAに幻滅した十数人の元CIA職員が自分たちの組織を作り、次のような声明を出した。

「アメリカ合衆国と戦争状態にない諸国、合衆国に対して十分な物理的損傷を与えるような能力を有していない諸国、あるいは「共産主義」か「資本主義」かという問題で、合衆国に対して悪意を全くもっていないか強い関心をもっていない国々、そのような諸国の数百万人にのぼる人たちが、アメリカの秘密工作活動で、殺傷されたりテロ行為の犠牲にされたりしている」

これらの元CIA職員は、詳細な情報を提供していないが、「第二次世界大戦以後、アメリカの秘密工作活動の結果死亡した数は、少なくとも600万人にのぼっている」と結論づけている。

同・58頁

https://theintercept.com/2015/11/12/edward-snowden-explains-how-to-reclaim-your-privacy/

思い出していただこう。謎の金融支配力、決して責任を問われることのない秘密作戦遂行能力、この恐るべき権力を握っている主体は、原初的核家族である。

そして「中等教育の普及+少数のエリート」という絶妙な配置の時代はまもなく終わる。国民全体の利益のために「大きな政府」を担うことのできる本物のエリートはいなくなり、高等教育による国民の階層化と私益を追求する(にせ物の)エリートの時代がやってくる。

彼らの手にそれらの権力が渡ったら何が起こるであろうか。
多分、それが、いまのアメリカで起きていることである。

巨大な政府を持つアメリカは、冷戦を経て、
①謎の金融支配力、②CIA等による秘密作戦の自在な遂行能力
という恐るべき権力を手に入れた。

最後の政権交代ーニクソン政権の誕生

https://www.theguardian.com/us-news/2020/nov/12/from-the-archive-1968-president-elect-nixon-planning-for-a-smooth-transition-of-power

「長いニューディール」とも言われる民主党時代(1933-69)にも、一度だけ共和党への政権交代が実現したことがあった。1953-61のアイゼンハワー大統領の時代である。

トルーマンの不人気と朝鮮戦争の泥沼化を背景とした政権交代で、「長い民主党時代の小休止」(中野・191頁)とも評されるこの時代、政権は「宗教戦争のごとき民主党の理念外交に警鐘を鳴らし、また伝統的な財政均衡論の立場から無節操な軍事費の増大を批判」(中野・191-192頁)して、通常兵器の大幅削減を目指すなどしたというが、冷戦の継続、福祉国家という基本路線に変化はなかった。

「長いニューディール」の終焉をもたらす本当の意味の政権交代が起きたのは、ニクソン共和党政権(1969−1974)誕生のときである。

「政権交代」を「民意に応じて政治の大きな方向性が変わること」と定義しよう。そうすると、ニクソン政権の誕生は、アメリカ史における最後の政権交代だったのではないかと思う。

ニクソンは誰の心を掴んで当選したのか、彼の演説を聞くとそれが分かる(共和党候補者指名大会での演説 中野・215頁)。

〔今や〕都市は煙と炎に包まれ、夜にはサイレンが鳴り響く。遠く海外の戦場で死にゆくアメリカ人、国内で違いに憎しみ合い、戦い、殺し合うアメリカ人達。数百万人のアメリカ人が怒りに震えているのがわかる。‥‥それはもう一つの声‥‥阿鼻叫喚の喧騒の中での静かな声だ。それは大多数のアメリカ人、忘れ去られたアメリカ人----デモで雄叫びをあげるような人ではない----の声である。

1968年、それは正に「高等教育の頭打ちが見えて」きて「理想主義への反発が生まれ」たそのときである。反発したのはもちろん、高等教育に達することが見込めなくなった非エリートの労働者たち。

ニクソンが狙い撃ちにしたのは、(自由貿易による)国内産業崩壊の影響をじかに被り、高等教育組が推進した人種差別撤廃政策で黒人に社会的・経済的地位を奪われる恐怖を覚え、理想主義に背を向けたサイレント・マジョリティ、白人非エリート層だったのだ。

このとき、彼らの票は、ニクソン共和党に32州での勝利を与え、本物の政権交代を実現させた。

ニクソンは、対外関係においては、ベトナムから兵力を撤収し、大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーとともに、現実主義の名の下で、中国やソ連との関係を改善し、戦略兵器を削減する「帝国」のダウンサイジングを行った。この現実主義は、主に財政上の必要によるものであったというが、非エリート層の意向にも合致しただろう。

では、社会・経済政策はどうであったか。

ニクソン政権は、福祉国家から新自由主義という極端な変化のちょうど移行期にあたる政権であり、その政策には両方の側面が見られるという(例えば黒人解放のためのバス通学、アファーマティブ・アクションなどは主にニクソン政権期の政策だ)。

しかし、経済政策という点でいえば、ニクソン政権は、確かに、新自由主義への最初の一歩を踏み出した政権だったといえる。

すでに述べたように、政権は、冷戦期の貿易収支の悪化に、金本位制の廃止等の金融政策で対応した。

労働者階級の生活の向上には、国内産業の育成こそが必要だったのに、政権は「小さな政府」「自助の精神」を称揚して彼らを放置し、金融という「魔法」によって資本家の利益を確保する方向に舵を切ったのである(この辺りの政治家の「裏切り」についてはこちらもご参照ください)。

にもかかわらず、労働者階級の不満は、ニクソン政権には向かわず、大学生たちのベトナム反戦運動や黒人解放運動に向かった。このとき、黒人への反感も醸成されたのだ。

高等教育組に反感を抱く白人非エリート層の支持によって実現したニクソン共和党政権は、民意によって政策の方向性が転換した「最後の政権交代」だった。

「大きな政府」のその後

ニクソン共和党への転換が「最後の政権交代」ではなかったか、というのは、これ以後、とくに1981年のレーガン政権以降、アメリカはほぼ「誰が政権をとっても同じ」という状況に陥っているからである。

こんなのが作られてSNSで人気になるほど「みんな同じ」感があるのだ。 
https://ifunny.co/picture/reagan-nerd-cool-dumb-classic-reagan-reagan-reagan-ah-eloquent-5INvk8Ed9

レーガン時代に確立した新自由主義・新保守主義(ネオコン)の路線が、その後の政権で揺らいだことはなかった。

90年以前であれば「親ソ」それ以降は「権威主義」とみなした国々への終わることのない軍事介入(CIAの秘密作戦はレーガン期に再度強化されている)。

ところで、トッドは、軍事予算をめぐり、1990年代のアメリカに興味深い転換があったことを指摘している。

ソ連が崩壊した1990年から1995年からの5年間のアメリカには、軍備の縮小による対外収支均衡に取り組んだ形跡が見られるという。

*軍事予算は1990年から1998年の間に28%(3850億ドル→2800億ドル)、現役の兵力も200万人(1990年)から140万人(2000年)に減少。
*1990年台前半の政府予算の上昇率の低下は、このグラフにも見て取れる。

しかし、1996年から2000年の間に、この傾向は逆転していく。再び軍備の増強が始まり、貿易収支の赤字が爆発的に増大する。なぜか。

どれほど巨額な貿易収支の赤字も金融収入で埋め合わせることができるというドルの魔力は、ドルの信用に依存している。

つまり、ドルが全世界に信用による強制レートと弁済手段としての強制通用力を持つのでなければ、何の意味もないのである。

『帝国以後』132頁

第二次大戦後、アメリカは、唯一無傷で生き残った(しかもなお成長期にある)大国としての圧倒的な経済的優位に基づいてドルの覇権を築いた。

その経済力が失われた今、どうやってその覇権を維持していけばよいだろう。

1999年前後に、アメリカの政治的エスタブリッシュメントは、帝国型の経済、つまり依存的経済という仮説を立てた場合、軍事潜在力が現実に不足しているということを自覚した。

同・127頁

軍事力の再増強は、アメリカ合衆国の経済的脆さが増大しつつあるという自覚から派生するのである。 

同・126頁

国内産業の育成による貿易収支の健全化を諦め、金融支配力=ドルの覇権によって生きていくことを決めた大国。

金融支配力=ドルの覇権の維持のために、「自由と民主主義のリーダー」としての軍事力の誇示や対外介入を続ける大国。

これがアメリカの現在の姿である。

レーガン以降、アメリカは誰が政権を取っても変わらず新自由主義・ネオコン路線を突き進んでいる。

1995-2000年頃以後、アメリカの軍事行動は金融支配力(ドルの覇権)維持を目的とするものとなっている

二項対立の終わり

原初的核家族は、基本的に、行政機構を適正に維持する能力を欠いている。それにもかかわらず、アメリカは、南北戦争、二度の世界大戦、そして冷戦を通じて、巨大な政府を持つ国家となってしまった。

アメリカの現状は、「権威」なき国家の巨大な政府が、「暫定権威」の支配に屈することとなった結果と見ることができると思われる。

現在アメリカを支配する暫定権威。それは、連邦裁判所ではなく、軍ですらなく、おそらく、金融資本とCIAなのだ。

そのような事態を招いた原因は、根本的には、原初的核家族の国家としてはありえないほど、政府が大きくなってしまった点にある。

フィリピンの入管施設のようなメンタリティの人たちが、この巨大な政府を担っていると考えてみてほしい。統率の効かない政府において、最終的に幅を利かせるようになったのが金融資本とCIAだったというのは「なるほどねー‥」という感じではないだろうか。

ただ、そうは言っても、アメリカは、「大きな政府」となる以前には、憲法と二項対立によって国家を保っていた国だ。党派対立、選挙、議会。政治の力はどこに行ってしまったのであろうか。

1969年にはわずかながら残っていた二項対立(政権交代)の力が、その後ほぼ完全に失われた理由は、アメリカI、IIと続けて読んできていただいた方には見当が付くと思う。

高等教育の拡大による社会の階層化は、アメリカでとくに激しい格差と分断を生んだ。

おそらく、アメリカ社会では、「上下の対立」、というより「上による下の支配」の比重が大きくなりすぎて、左右の(イデオロギー上の)対立に意味がなくなってしまったのだ。

トッドは、高等教育の拡大による社会の階層化に「平等の破壊」を通じてデモクラシーを破壊させる機能を認めた。

私は、同じことを「権威」の観点から述べている。高等教育による社会の階層化は、「国家をまとめる」役目を果たしていた二項対立の機能を無化した。

「大きな政府」は一部の人間の利益のために暴走するしかなくなってしまったのである。

アメリカは、
 原初的核家族にはありえないほどの政府の巨大化
 ②「上下」の分断による「左右」二項対立の無化
により、金融資本とCIAが暫定権威として幅を利かせる国家となった

おわりに

人種差別撤廃に向けた運動が白人の平等を揺り動かしたという悲しい事実を解明してしまったトッドは、次のように述べ、彼らの英雄的な努力に目を向けるよう促した。

‥‥このときアメリカのデモクラシーはその人種的な母体から逃れようと努めた。われわれは彼らの試みの英雄的側面を感じ取る必要がある。アメリカ史の文脈においては、これがまさしく天を衝こうという試みであったことを理解する必要がある。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』下・76頁、英語版 227頁

私も同じことをさせてもらいたい。
トッドだったら、こんな風に語るだろうか。

祖国を離れて新大陸に渡った彼らは、理想の国家を目指してアメリカを建国した。見事に成長を果たした後は、「偉大な社会」を求め、世界に冠たる帝国たることを目指した。われわれは、その英雄的側面を感じ取る必要がある。原初的核家族の彼らにとって、これがまさしく天を衝こうという試みであったことを理解する必要がある。

偽トッド語録

狩猟採集民のメンタリティを持ちながら帝国の建設を目指すという正に英雄的な試みの末、完全な寡頭制に陥ってしまったアメリカ。陰謀とかではなく、非常に合理的な過程を踏んで、(もちろん「ある程度」ですが)なるべくしてなった結末だと私は思う。

原初的核家族のアメリカで、巨大化してしまった政府が秩序を取り戻すことはありそうにないし、国民が一丸となって政府を倒すというようなこともありそうにない。

おそらく、比較的近年のうちに、ドルの覇権は崩壊し、金融資本とCIAの帝国は消滅するだろう。

その過程では、アメリカや日本はもちろん、世界中が相当な苦境を経験するだろうと予想はするけれど、それでも、私の気分は明るい(アメリカ I を書いた後とはずいぶん違うのだ)。

だって、それは、金(マネー)がすべてで、自分の領分を守るためには世界の半分を敵に回さなければいけないみたいな、このヘンテコな世界が終わるときなのだ。これが希望でなくていったい何だろう。

私たちがどう生きるかでこの先の世界は変わる。‥‥というのは、まあ、いつの時代も真実だが、それが、この超、ド、激変期に当たっているなんて、楽しい、としか言いようがないではないか。

ねえ、皆さん?

今日のまとめ

  • 建国当初のアメリカは、小さな政府しか持たず「裁判所と党派対立」でなんとかやりくりする国家だった。
  • アメリカは、南北戦争による「再統一」を経て中央集権国家に生まれ変わり、大戦後には巨大な政府を持つようになっていたが、家族システムは原初的核家族のままだった。
  • 巨大な政府を持つアメリカは、冷戦を経て、
    ①謎の金融支配力、②CIA等による秘密作戦の自在な遂行能力
    という恐るべき権力を手に入れた。
  • アメリカは、
    原初的核家族にはありえないほどの政府の巨大化 
    「上下」の分断による「左右」二項対立の無化
    により、金融資本とCIAが暫定権威として幅を利かせる国家となった。
カテゴリー
社会のしくみ

アメリカ II (2)
ー国家をまとめる5つの方法ー

 

はじめに

アメリカは、家族システムの「権威」が供給する諸機能を持たないにもかかわらず、国家を誕生させ、成長し、歴史上稀有な繁栄を見せた。

いったい、どういうやり方で、国家に必須の機能を補い、国を成り立たせてきたのだろうか。

アメリカの習慣的な行動の中には、「たぶん、これだな」と思わせるものがいくつかある。まず、それらのツールをまとめておこう。

アメリカの「権威」代替ツール

(1)合衆国憲法

建国時、原初的核家族だったゲルマン諸民族はキリスト教を「借り物」の権威として役立てた。

アメリカの場合はどうだろう。ピルグリム・ファーザーズの神話化といったもっともらしい事実があるものの、私は、キリスト教の信仰がアメリカの建国に本質的な役割を果たしたとは考えていない。

ピューリタンの情熱は「プレ近代化」局面にあった人々が「自分たちにふさわしい信仰」を求めた結果であり、彼らはすでに文字を読み、合理的に考える習慣を持ち始めていた。

そのような人々にとって、宗教そのものが真に「権威」の代わりになりうるとは思えないのだ。

権威に代わるものがあったとすれば、それは、合衆国憲法ではなかったかと思われる。

宗教と学問」で書いた通り、西欧は脱宗教化の過程で、学術・イデオロギーの繚乱の時期を迎えた。それは、一神教の神を希求する心の形が、(一時的に)世俗の事物に転用された結果であった。

自由、人権、人民主権、三権分立。こうした輝かしい概念は、言ってみれば、一神教の神の後継者なのだ。

独立宣言、合衆国憲法。誰にでも読める言葉で書かれたそれらの文書は、脱宗教化バージョンの「聖書」として、国家統合の象徴となった。

第一世界大戦での世界デビュー以来、アメリカが何かにつけて「自由と民主主義」などの理念に言及するのは、それがアメリカという国家のアイデンティティそのものとして機能しているからなのだろう。

(2)二項対立

二項対立は、絶対核家族のイギリス、原初的核家族のアメリカが「正しさ」を定立する際の基本的なスタイルであるが、これも権威の軸を代替する機能を果たしているように思われる。

*当事者二者が争う裁判制度や二大政党が争う政治制度を想定しています。 

イギリスの場合、薄いながらも縦型の軸が存在している。おそらく、その薄っすらした軸を中心に、構成員(集団と書いたが近代国家の成立以後は主に個人)が二つに分かれて争うことで、中心に向かう凝集力と似た力を生み、権威の軸を強化しているのだ。  

*比較対象(直系家族)↓

「権威」ありの直系家族の場合 

アメリカの場合には、中心に軸があるとすれば、憲法(的理念)であろう。後で見るように、アメリカでは、建国後まもなく自然に党派対立が発生し、以後の政治の基本システムとなったが、憲法を中心に、二者が対立し、政権を実際に行ったり来たりさせることでバランスを取り、権威の軸に似たものを生み出し、国の統合を保つ仕組みと考えられる。

しかし、「なんとなく」ではあるが、このやり方で安定を保てるのは、国の規模が比較的小さい場合に限られるのではないか、という気がする。

近年のアメリカは、二大政党はあり、政権交代もあるけれど、政治・経済・外交の基本路線は変わらないという状況に陥っている。

なぜそうなったのかは後で検討するが、二項対立という核家族の基本ツールが使えなくなっていることと、アメリカの不調とは関係があると思われる。

(3)戦争

アメリカの歴史には目立った党派対立がなく、あるいは政権交代が起こらない時期が間欠的に発生しているが、それは大抵大きな戦争の(戦中)戦後期である。

*1812年戦争(米英戦争・第二次独立戦争ともいう)後の「好感情の時代」、南北戦争から再建期の共和党時代、第二次大戦前後の民主党時代

このことは、戦争がアメリカにおけるもう一つの国家統合ツールとして機能していることを推測させる。

そう、アメリカ史は何より戦争と征服の歴史である。まずイギリスと戦って独立し、北米大陸を征服(普通は「開拓」といいますが)すると、中南米、太平洋島嶼部を勢力圏として固め、アジアにも進出。

第一次世界大戦への参戦でいよいよ世界をリードしようと試み、第二次大戦でついに並ぶもののない大国となったが、なお共産主義の封じ込めに躍起になって冷戦を始めてしまう。

冷戦期には朝鮮戦争やベトナム戦争などの目に見える軍事介入とともにCIAによる対外工作(クーデターなど)を多用。ソ連崩壊でついに名実ともに「唯一の超大国」となったが、それでも各種戦争や軍事介入、対外工作をやめられず、現在に至る。

という感じである。

*第二次大戦後にCIA等によって行われた秘密作戦の数は500以上とされている。
さしあたりこちらを参照。

この地図を見てほしい。2020年現在、アメリカは現在世界各地に800に及ぶ軍事基地を展開しているのだ。

http://www.overseasbases.net

これを見ていて私の頭をよぎったものがあった。

実を言うと、アメリカ以前にも、「原初的核家族の大帝国」という語義矛盾のような事態が実現したことが(おそらく一度だけ)ある。

アレクサンドロスの帝国である。

アレクサンドロス(前356-323)の頃のマケドニアの家族システムについて確かな情報を得ることはできないが、ギリシャの周縁という地理的・文化的な位置を考えると、原初的核家族と仮定してそれほど的外れではないと思う。

*トッドは古典期のギリシャについて一時的父方同居を伴う核家族(私の用語では原初的核家族の一種)という仮説を立てている。

アレクサンドロスは征服に征服を重ねて大帝国を築き上げ、行く先々に都市「アレクサンドリア」(ペルシャ語・アラビア語ではイスカンダル)を建設するが、帝国は彼の死後間もなく分裂し、マケドニアはやがてローマの属州となる。

これが彼が各地に建設したアレクサンドリアである。
まるで米軍基地みたいではないか。

発達した家族システムを持たない不安定な「帝国」でも、君臨する王が異民族を征服し領土を拡張し続けているうちは求心力を保てる。しかし、征服を止め、覇権戦争をやめると、バラバラに崩壊し、国家として成り立たなくなってしまうのだ。

「戦い続けているうちは倒れない」。国家維持のこの方式を「アレクサンドロス方式」と呼ぼう。

アメリカも、アレクサンドロスと同様に、この方式を(もちろん意図せずに)採用しているのではないだろうか。

(4)暫定権威

以上に加え、はっきりした権威の軸が存在しないアメリカ社会には、つねに「混乱期におけるヤクザ方式」の暫定権威も働いているように思われる。

「混乱期ヤクザ方式」とは、そのときどきでもっとも規律のある機関が存在感を高め、権力を掌握するというシステムだが、建国当時のアメリカでそのヤ‥‥いや、暫定権威の地位に着いたのは、連邦裁判所である。

アメリカにおける連邦司法の権限と影響力の大きさは、合衆国憲法に書き込まれた「計画通り」のものではない。

違憲立法審査権なども、連邦最高裁が自らの判決を通じて、既成事実として確立させていったものなのだ。

国として動き出せば、さまざまな場面で「正しさ」が求められるが、「権威」なき合衆国にはその機能がなかった。そこで、憲法の権威を背負う連邦裁判所に、その任が回ってきたのであろう。

こうして、初期のアメリカ政治における基本体制は、「暫定権威としての連邦裁判所(backed by 憲法)+党派対立」と合い成った。

なお、アメリカの政治学者の中に、これとほぼ同じことを述べている人がいる。スティーヴン・スコウロネクという人である(以下、貴堂嘉之『南北戦争の時代』(岩波新書、2019年)112頁以下参照)。

彼によると、建国当時のアメリカの特徴は、常備軍や中央の課税権限を拒否して政府権力を分散させている点、すなわち「国家不在(statelessness)」にある。

そして、「国家不在」状況において、政府としての一体性を保持する役割を果たしたのは、連邦裁判所と政党であり、当時のアメリカは「裁判所と政党からなる国家」であった、というのである。

*原典は Stephen Skowronek, Building a New American State: The Expansion of National Administrative Capacities, 1877-1920, Cambridge University Press, 1982(私は読んでいません)

アメリカが「国家不在」となったのはアメリカの家族システムが「権威不在」だったからであり、要するに、彼は私と全く同じことを言っているのである。

だから何だという話ではあるが、私がそうそう奇妙キテレツな見解を述べているわけではないと安心していただけるかと思ってご紹介した次第である。

二項対立が今ひとつ機能しなくなっているのと同様に、連邦司法の方も、政治に絡め取られ、往時の輝きを失っているように見える。

では、その代わりに誰が暫定権威を担うようになったのか、ということが、おそらく現在のアメリカを理解する鍵の一つである。

(5)排外主義

トッドはアメリカの人種主義に「平等」を支える機能を認めたが、人種主義を含む排外主義には「権威」に代替する機能があることも見逃せない。

権威の重要な機能の一つは、「自然な一体感」つまり凝集力である。前回述べたように、これは秩序の基盤であると同時に、外敵からの防衛(国防)の際に力を発揮する。

家族システムに「権威」を持たない人々が、凝集力を高めなければならない状況に追い込まれたとき、発生するのが排外主義だ。

何らかの対象を強く排斥することによって、その反動によって、凝集力を生むのである。

アメリカの場合、まず、先住民と黒人奴隷を排除することで、建国を成し遂げた。

領土拡張の歴史は先住民排除の歴史でもあり、1830年にはインディアン強制移住法が成立している。

先住民排除(というか虐殺)の動きは、南北戦争の後、より国家らしい国家に生まれ変わる「新たな建国」の時期(後で説明します)に、さらなる高まりを見せた。

西部では1860年から1890年までの間に、伝統的なエリート層のまったくいない社会が開花していったが、それに伴っていたのは、大平原のインディアン25万人の殲滅、人種感情が最高潮に達する状況の中で発生した殺戮であった。

下・23頁

20世紀初頭、アメリカが「国際警察」を名乗って「帝国」への道を歩み始めた時期(これも後で)は、投票要件の厳格化による黒人からの実質的な投票権剥奪や、「ジム・クロウ法」と呼ばれる公共の場での物理的な人種隔離の法制化など、新たな形での黒人差別制度が生まれた時期と重なる。

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけ、大きな政府を持つ中央集権国家に生まれ変わっていった時期には、まず排外主義の高まり(1920〜 第二次KKK、厳格で差別主義的な移民政策)があり、日系人差別が激化した(1940〜 強制収容、原子爆弾によるジェノサイドも?)。

*第二次世界大戦後の黒人差別についてはこちらをご覧ください。

権威か平等かー排外主義の扱い
 
本文でも書いたが、トッドは排外主義を活用したアメリカのデモクラシーを一貫して「平等」の観点から分析している。国家の統合について考えるときに、日本人である私が「権威」に着目し、フランス人であるトッドが「平等」に着目するのは、日本という国家の統合の軸は「権威」であり、フランス統合の軸は「平等」だからだと思われる。

共同体家族が統べる「帝国」を、国家統合のお手本と考えてみよう。彼らの家族システムは「権威=平等」の組み合わせである。このうち、平等が未発達で「権威」だけを持っているのが日本、ローマ帝国で一度は成立した「権威=平等」のうち権威が衰退し、平等だけが残ったのがフランスなのだ。

だから「平等」に国家をまとめる力があるのは分かるし、「平等」の観点から国家の統合を論じることが可能であるのも分かる。アメリカの場合、権威も平等も持っていないから、どちらから論じても議論が成り立つということも分かる。

分かるが、直系家族(権威)→共同体家族(権威+平等)というのが国家形成を促す通常の進化の過程であることを考えると、トッドのアプローチが倒錯していることは否めないと思う。

アメリカ史 第二の基層ー教育と時代精神

(1)教育の進展

日本やヨーロッパと異なり、アメリカは最基層(家族システム)の変化を経験していないので、「時代精神」は教育の層に見事に規定されている。

アメリカ史総論としてまとめておこう。
まずは教育の進展状況である。

初等教育については最初から高い。

中等教育(高校)の充実で世界に先駆け、その後の発展の基礎を築いた。 

*こうして改めて初等・中等教育のデータを眺めていると、イギリスから渡ってきたプロテスタントの人々が、聖書を読み、子供たちに基本的な教育を与えようと地域で努力したことがアメリカの発展の基礎だったんだなあとしみじみと感じます。

高等教育については、まずトッドの本から。

『我々はどこから来て、今どこにいるのか』英語版(Lineages of Modernity) 208頁

1960年以前については次のグラフで感じが分かる(パーセンテージではなく数)。

https://nces.ed.gov/pubs93/93442.pdf

(2)アメリカ史の時代精神

教育の進展状況と「時代精神」の対応関係は、つぎのように整理できる。
(次回の準備として政府の大きさも入れた。)

 

並列はほぼ同じものの言い換え、「/」は二つの傾向の併存

みんなが読み書きできる状況が開拓精神(自由主義)を生み、中等教育の普及が「よりよい社会を目指そう」という進歩主義(理想主義)につながり、高等教育の頭打ちが見えてくると理想主義への反発が生まれ、さらに階層化が進むと開き直って新自由主義に突っ走るのだ。 

(3)教育と「大きな政府」

教育の普及度合いは「大きな政府」の制御能力にも関わりがあることを付言しておく。

「権威」を持たないアメリカで、「大きな政府」がもっともよく機能したのは20世紀前半。中等教育が社会全体に広く拡大する一方、高等教育受益者はごく少数に止まっていた時期である。

高等教育受益者が希少である時期(15%以下を「エリート段階」とするモデルがよく知られている)、彼らは本物のエリートとして機能する。5%とか15%の知識層がその力を発揮していくには、社会に関わり、社会全体のために奉仕するしかないからだ。 

20世紀前半のアメリカは、中等教育の普及による理想主義・進歩主義と、その実現のために奉仕するエリートの両方を備えていた。「大きな政府」機能させるのに最適の条件を持っていたのである。

やがて、20%、30%と拡大していくと、高等教育受益者はエリートとしてのメンタリティを持たなくなり、その力をただ自分たちの利益のために使っていくようになる。社会は高等教育受益者とそれ以外の二つに分かれ、全体に対して責任を担う者はいなくなる。

20世紀後半以降のアメリカが、実際には極めて大きな政府を持っているにもかかわらず、小さな政府を志向する(→「お前たちの面倒を見る気はない」という意味だ)という奇妙な事態に立ち至ったのは、おそらくこのためである。

(次回に続く)

今日のまとめ

  • アメリカにおける権威の代替物は、①合衆国憲法、②二項対立、③暫定権威、④戦争、⑤排外主義 である。
  • 合衆国憲法の理念は一神教の神の後継者であり、ゲルマン民族が建国時に利用したキリスト教(借り物の権威)の近代版である。
  • 建国当初は連邦裁判所が暫定権威を担い、「連邦裁判所+党派対立」がアメリカ政治の基本体制となった。
  • アメリカの時代精神は教育の進展状況に規定されている。
  • アメリカの「大きな政府」は、「中等教育の普及+少数の高等教育受益者(エリート)」の局面で最もよく機能した。
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社会のしくみ

アメリカ II(1)
ー権威なき帝国の謎ー

目的

アメリカがグローバリズムに走って著しい格差と分断を生み出した機序については、私は基本的にはトッドの説明に納得している。しかし分からないこともある。

新自由主義の弊害はかなり早くから認識されていた。その上、2008年には世界金融危機も起きたし、2012年には大規模な抗議運動「Occupy Wall Street(ウォールストリートを占拠せよ)」も起きた。

格差が生まれてしまったことは仕方がないとして、アメリカはなぜこのときに至ってもブレーキをかけられなかったのだろうか(大統領はオバマだった)。

また、経済格差が顕在化した1980年から現在という時期は、アメリカがCIAなどの諜報機関による代理戦争、代理テロ、その他、ありとあらゆる手法による世界秩序の撹乱に熱中しはじめた時期と一致している。

 *私はウクライナ戦争もこの一部と捉えています。

不平等の下意識が拡大したからってなぜそんな秘密作戦にのめり込まなければならないのか。

私は「よい人間がよい社会を作り、悪い人間が悪い社会を作る」という考えを採用していない。アメリカが何かうまくいっていないように見えるのは、彼らが悪いからでも愚かだからでもなく、システムと状況の相互作用によるものなのであるはずなのだ。

その機序を解明しよう、というのがこの文章の目的である。

仮説:原初的核家族の帝国

トッドの分析を読んで、私はアメリカは絶対核家族というより原初的核家族なのではないかと考えるようになった。アメリカ II はその方向で行かせてもらう。

*絶対核家族だとしても「直系家族の痕跡を喪失した絶対核家族」なので大して変わりはない。

現在のアメリカの混迷は、アメリカが大きくなりすぎたことによる、というのが私の基本的な仮説である。

原初的核家族とは、狩猟採集社会における部族(tribe)のシステムである。本来は国家の形成すら困難な狩猟採集民が、なぜか並ぶもののない超大国として世界を率いることになってしまった、というのが現在のアメリカなのである。

問題が起きない方がおかしいといえるが、
どういう問題なのかは特定される必要がある。

アメリカの大きさ

1776年の独立宣言から数えて約250年、1788年の合衆国憲法誕生発効からだと235年という短期間の間に、アメリカは、人口、領土、そして中央政府の規模という点で、驚くべき膨張を遂げている。

まずはその様子を確認しておこう。

(1)人口

人口はまずこんな感じ。ずっと増え続けているが、とくに19世紀後半からの伸びが著しい。

*1860年頃にイギリスを抜いていると思います。

しかしその割に、人口密度は19世紀の間はあまり上がっていない。領土が大幅に拡張したためである。

ちなみに、日本の人口密度は2010年がピークでその後低下を始めているが、アメリカは当分増え続ける見込みである

(2)領土

建国の基礎となった13州はこれだけである(濃いピンクの部分)。これだけでもかなりの広さではあるが。

その後少しずつ領土を拡張し、1803年にフランスからルイジアナを購入してこれだけ大きくなった(濃いオレンジ、水色、濃い緑)。

そして、1840年代にテキサス、オレゴン、カリフォルニア、ニューメキシコを含む広大な領土を獲得し、ほぼ現在のアメリカ、大西洋岸から太平洋岸に至る大陸国家アメリカになるのである(濃いオレンジ、水色、濃い緑)。

https://maps.lib.utexas.edu/maps/histus.html

(3)連邦政府の規模

詳しくは次回に見るけれど、中央政府にあたる連邦政府の機能は18世紀後半から強化され始め、その後は基本的に拡大の一途をたどる。

アメリカといえば「小さな政府」というイメージがあるが、20世紀以降のアメリカには当てはまらない。

連邦予算の推移を見ると、とりあえず「膨張しているな」ということは分かると思う(青が歳入、赤が歳出)。 

https://stats.areppim.com/stats/stats_usxbudget_history.htm

未開社会と国家はどう違う?
ー「権威」の機能

アメリカ帝国の驚異とは「これだけ大きな国家を原初的核家族が運営している」ということに尽きる。

国家規模の拡大は、歴史的には、家族システムの進化とともに起こるものだった。メソポタミアにおける国家成立の背景には原初的核家族から直系家族への進化があったし、ハンムラビ王がメソポタミアを統一し、秦の始皇帝が中国を統一する背景には、直系家族から共同体家族への進化があった。

それなのに、アメリカは、どういう運命のいたずらか、原初的核家族のままで大国を率いることになってしまったのである。

さて、しかし、原初的核家族であることのいったい何が問題なのであろうか。未開社会と比較して、国家における「権威」の機能をおさらいしておこう。

(1)未開社会

約7万年前から、人類は何らかの倫理観念を持ち、集団の紐帯として役立てていた。その小さな部族的集団(親族が基本)の中では、人間たちはそうそう争うことはなく、大体同じようなことを考えて生きていたのではないかと思われる。

*ときどきニュースなどで「人間の脳には共感を司る部位があることが解明された」「利他性を司る部位が・・」とかいう話があるのはおそらくその関連で、人間の身体(脳を含む)は基本的に毎日接する相手や考え方を「正しい」と前提し、助け合って生きていく仕組みになっているように思う。

こういった集団にも、「長老の発言権が大きい」などの緩やかな権威は存在するであろう。しかし、その種の権威には持続性がなく、国家の軸にはまだ弱い。

狩猟採集民は移動生活が基本なので、移動できる広いスペースがある限り、他の集団との「正しさ」(倫理)の違いが深刻な問題を生じることはない。彼らは素朴に自分たちの考えを正しいものと信じて生きていくことができるのだ。

何らかの事情で他の集団と争いとなった場合、相手集団は単純に「敵」である。戦うか、離れるか。基本的にはその二択で対応するだろう。

*なお、国家の成立に関する社会科学や哲学の議論は「個人」を主体として観念することが多いが(近代化に向かう時期の核家族エリアで始まったからだ)、近代国家が生まれる以前の人類は例外なく集団を基本単位として暮らしていた。国家も「個人と個人」の関係性ではなく「集団と集団」の関係性から生まれたはずなのだ。ということで、少し違和感を感じる人が多いと思うが、集団を基本単位として議論を進める。

↓権威の機能についてはこの記事でも(ほとんど同じ話を‥‥)書いているのでよろしければどうぞ。

(2)国家

定住が始まり、人口が増え、土地が希少になったときが、国家成立のタイミングである。

部族的集団同士の間で「正しさ」のすり合わせた必要になるタイミングと、土地を子孫に受け継ぐことが必要になるタイミングが一致するというのがミソで、土地の継承のために生まれる直系家族の権威の軸が、共有物としての「正しさ」=「法」の基礎を提供する。

未開社会の部族民と(直系家族以上の)国民の根本的な違いは、「正しさ」の基準が自分の内側にあるか外側にあるかであると考えられる。

未開社会の人々が自分たちの考えを素朴に「正しい」と信じるのに対し、「権威」の軸を持つようになると、人々は「正しさ」とは自分の外側にあるものだと感じるようになるのである。

日本には「権威」の軸があるので、その作用は日本人には理解しやすいであろう。私たちの多くは、誰もいない所でも「お天道様が見ているから」行動を律しなければならないという感覚を持っていると思う。これこそが、家族システムの中に「権威」があるということの意味であり、効果なのだ。

権威の軸を持つ社会では、各集団(に属する人間たち)はその軸を「正しさの源」と見て(具体的な中身が分からなくても)それに従おうとする。

それによって生まれる「凝集力」。これが国のまとまりの源である。

これが出来てしまえばシメたもので、あとはこの軸に、行政組織とか、いろいろ付け足していけば、立派な国家ができあがる。この軸を持ってさえいれば、国家を維持することは、大して難しいことではないのである。

(3)国家における権威の機能

①秩序維持

国家において「権威」が果たしている役割は非常に根源的で総合的なものだが、「ないとどういう風に困るか」を理解していただくため、その機能を3つに分けて説明してみたい。

第一は、秩序維持機能である。

権威が確立した社会では(おそらく特に直系家族の場合)、人々は自ら行動を律する傾向を持つようになるし、法を定立することも、警察、司法制度を機能させることも容易になる。

限られた領域に大勢の人間が暮らしている場合、少なくとも最小限の秩序維持機能は絶対に必要といえる。それがなければ、弱肉強食、血で血を洗う抗争の世界となってしまうから。

そのため、限られた領域に人間がひしめいているにもかかわらず、権威が確立していない場合(原初的核家族はこれにあたる)、何が起きるかというと、たいてい、最も強い規律と実力を持つ組織が「権威」を代替することになる。

日本でも、戦後の混乱期などには、ヤクザ組織が地域を治めているケースがあった(と思う)。シチリアのマフィアなどもそういう機能を果たしていただろう。

また、急に国家としてやっていかなければならなくなった国では、とりあえず軍が国の中枢を担うことが多い。他に有効に機能する権威がないからだ。軍事政権は「悪」の代名詞みたいに言われるが、ヤクザだってマフィアだって軍だって、ないよりはあった方がましなのだ。

これも新興国にありがちなもう少し穏当なケースとしては、裁判所(司法機関)が実質的に一番強い権力を持っている場合がある。比較的安定した社会では、信頼感と規律の高さで司法機関が優越するのかもしれない。

大事なことなのでもう一度言う。

広大な領域に少ない数の人間が暮らしているだけなら「権威」が存在する必要はない。自由、自律、すばらしいことである。

しかし、限られた領域に大勢の人間が暮らすときには、権威は絶対に必要である。だからこそ、それがない場所では、自動的に「暫定権威」が生まれてくるのである。

②行政の適正

国家に権威が不可欠である理由のもう一つは、権威があってはじめて行政機能の維持が可能になるためである。

行政とは公共サービスである。したがって、自分の利益よりも「みんなの利益」を優先できるメンタリティが普及していないと、国の行政機能を適正に維持するのは難しい。それを可能にするのは、「権威」の存在なのだ。

フィリピンの入管施設の(日本から見ると)デタラメぶりに驚いた日本人は多いと思う。しかし、「公務の廉潔性」というのは原初的核家族にはよく分からない概念であろう。

*フィリピンは原初的核家族(『家族システムの起源 I 上』336頁以下)。

権威の軸(この文脈では「正しさの基準」)を持たない人々にとって、入所者から金をもらって優遇してやることは単に「win-win」である。自分が得をして、相手も得をする。それだけだ。

したがって、今後もその種の腐敗がなくなることはおそらくないし、当地の一般の人たちは別段問題とも思っていないはずである。

そういうわけなので、アメリカ建国期の「小さな政府」は、原初的核家族には適した仕組みであったといえる。しかし、上に見たように、現在のアメリカ政府は巨大なのだ。

③自然な一体感

上の図を見てもらうとわかりやすいと思うが、権威の軸には、社会に自然な一体感を醸成する機能がある。

日本語だと「同じ太陽の下」とか「ひとつ空の下」と表現される感覚がそれに当たり、社会が適正サイズに収まっている場合には、おそらく、それほど抑圧的に働くものではないと思われる。

*今の日本が抑圧的でないと言っているわけではありません。現代の直系家族国家がやや窮屈なのは、多分、規模が大きすぎるせいなのです(そのうち書きます)。

そうして得られる一体感やまとまり感(凝集力)は、秩序のおおもとでもあるし、外敵から身を守る国防力の源泉でもあるだろう。

したがって、それを持たない人々が、一体感やまとまり感を持つ必要に迫られた場合、何らかの代替的手法を編み出していくはずである。それが何かは、次回の主なテーマとなる。


家族システムにおける「権威」とは、国家の成立に不可欠な基本機能を供給してくれるありがたい存在である。

直系家族は権威の軸を持ち、共同体家族はもっと強力なそれを持ち、絶対核家族は持っていないけど、例えばイギリスであれば、ノルマン貴族の末裔である王侯貴族、彼らが作った行政の伝統、ローマに由来する教会組織などの「権威」の痕跡が数多く残された土地を持っている。

ところが、アメリカは、それに類するものを何一つ持たずに、世界に冠たる超大国となってしまった。

これがどれほど奇妙で、「ありえない」と思しき事態か、ご想像いただけたであろうか。

今日のまとめ

  • アメリカの混迷は、狩猟採集民の家族システムのまま、超大国を率いることになったことによる(仮説)。
  • 進化した家族システムを持つ標準的な国家の場合、権威の軸がもたらす凝集力が国家のまとまりの源となっている。
  • 権威は、①秩序維持機能、②行政の適正、③自然な一体感 を国家に供給している。
  • 歴史的には、国家規模の拡大は家族システムの進化を伴う。「権威なき」アメリカの事例はかなり「ありえない」事態である。
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日本史概観 (1)
-建国の秘密-

日本にも秘密がある

10世紀末に直系家族の「権威」が誕生する以前、原初的核家族のヨーロッパが国家を作ることができたのは、ローマ帝国の遺産であるキリスト教の権威を借り受けたためだった。

   *直系家族の「権威」と国家の関係についてはこちらこちらをご覧ください。

日本における直系家族の誕生は13世紀末から14世紀初頭(鎌倉時代後半)とされる1家族システムの起源I 240頁。日本もそれ以前は原初的核家族であったわけだが、その時期にすでに国家が成立していたことは明らかであろう。

ヤマト王権誕生の地と見られる纏向に大型の前方後円墳(箸墓古墳)が築造されたのは3世紀末、その後「5世紀後半から6世紀にかけて、大王を中心としたヤマト政権は、関東地方から九州中部に及ぶ地方豪族を含み込んだ支配体制を形成していった」(山川出版社・詳説日本史B改訂版(2020) 32頁(以下「山川教科書」))。

箸墓古墳 © 地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院

蘇我氏が実権を握り、飛鳥の地で推古天皇が即位したのは592年、中央集権化と律令国家への道を踏み出す大化の改新は646年(改新の詔)、大宝律令が完成するのは701年である。

したがって、日本の建国についても、ヨーロッパのそれと同じ問いを問うてみる必要がある。

当時、「家族システム以前」であり「国家以前」であったはずの日本は、なぜ国家を作ることができたのだろうか。

日本の国家形成と中国

日本にとってのローマ帝国は、いうまでもなく、中国である。

中国では紀元前1100年頃に直系家族システムが定着し、すでに紀元前200-100年頃には共同体家族の帝国が生まれていた。その後もシステムの強化は続き、900-950年頃までに女性の地位の最大限の低下を伴う共同体家族に到達した。

いうまでもないことばかり書いて申し訳ないが、
日本と中国の交流の歴史は古い。

外交的交流としては、漢(前漢)の時代(前202-後8)に倭人の国が定期的に使者を送っていたとか(漢書地理志)、後漢の時代(25-220)に光武帝から印綬を贈られたとか(後漢書東夷伝)、邪馬台国の王(卑弥呼)が魏 (220-265)の皇帝に使いを送り「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡などを贈られた (239年)(魏志倭人伝)といったことが記録に残されている。

金印 漢委奴國王印文(public domain)

4世紀には中国の南北分裂の影響で朝鮮半島にかけて高句麗、百済、新羅が生まれ、日本も加耶諸国(日本書紀では「任那」)を通じて朝鮮半島情勢に大きく関わる。日本はこの時期、朝鮮半島での外交上・軍事上の立場を有利にするため、宋(南朝)に朝貢していたという(5世紀・宋書倭国伝)。

6世紀から7世紀になると、中国は隋(589)、唐(618)が南北統一を果たし、朝鮮半島にも勢力を拡大する気配を見せる。ちょうどこの時期に政権を担った推古天皇(在位593-628)や聖徳太子(在位593-622)は、国の組織を整える作業を行う傍で、中国に遣隋使を派遣し(600年-)、外交関係の構築を図っていた。

3世紀末以降、とりわけ6世紀末以降の日本の国家形成の動きは、中国文明を中心に国際情勢が渦を巻き始める中で、日本列島にも外交・軍事上の主体としての政府が必要となったことによるものと思われる。

天皇ー中国から借りた権威

中国と対等な関係を構築していくためには、日本にも皇帝に対応する何かが必要である。そのとき生み出されたのが「天皇」だった。

村上重良先生の説明をお読みいただこう。

天皇という称号は、中国から取り入れたもので、スメラミコト、スベラギ、スベロギなどと訓(よ)んだ。‥‥中国で皇帝が天皇と称した例は、唐の高宗(在位650-683)があるのみで、中国ではもっぱら宗教上の用語である。日本での用例は、608年(推古天皇16)聖徳太子が隋に送った国書に「西皇帝(もろこしのきみ)」に対して「東天皇(やまとてんのう)」と称したとの『日本書紀』の記述が最初とされる。古代国家の大王がとくに天皇の称号を採用したのは、自己が天の神の子孫であることを強調するとともに、国の最高祭司として自ら祭祀を行い、祭りをすることによって神と一体化するという宗教的性格の強い王であることを表したものであろう。‥‥

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)[村上重良]

「天皇」の称号がその宗教的性格を表すために選択されたという解釈は、家族システムと国家の関係を探究するわれわれには意義深い。

聖徳太子が外交文書で「天皇」を採用した後、国内で「天皇」の称号が用いられるようになったのは、天武天皇の頃だという(山川教科書39頁)。

壬申の乱(672年)で大友皇子を倒して即位した天武は、乱で(豪族を追い落として)勝ち取った強大な権力をもって中央集権的な国家体制の形成を進めた(なお、このとき天武が勝利を祈願した伊勢神宮が国家的祭祀の対象となった)。日本はこの少し前に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しているから(663年)、国力の強化は課題として意識されていたはずである。

日本には天武という力のある王がいて、家族システムは発達していない。この状況で中央集権的な「強い」国家を形成していくために、万世一系の神の権威が必要だったのであろう。フランクの王クローヴィスがキリスト教に改宗し、一神教の権威を身に纏ったのと同じように。

天武天皇を支えたのが伊勢の神であったとしても、天皇の権威を裏付けていたのは伊勢神宮ではないだろう。

大陸の威光に照らされることなしに、日本という国、そして、天皇という存在が生まれることはなかった。神との一体性という物語に彩られたその権威の真の源泉は、中国帝国の皇帝と並び立つ存在であるという事実の方にあったのである。

日本史の基本的対立軸
ー舶来の権威 VS 地物の権威 

そういうわけで、国家としての日本の出発点には、中国の威光に照らされた天皇の権威があった。中国由来の「舶来」の権威は、家族システムの発達を見ていなかった日本が国家を形成するには不可欠なものだった。

しかし、農耕が発達して人口が増え、やがて土地が不足していけば、日本の国土の上でも家族システムの進化が起きる。定石通りであれば、それは直系家族となるだろう。

冒頭で述べたように、日本では13世紀末から直系家族システムが形成されていく。直系家族が生成するということは、社会に縦型の権威の軸が生まれ、自律的な国家形成が可能になるということである。すでに「舶来の権威」のもとで国家が作られている土地で新たに「地物」の権威が発生すると何が起きるか。

自然の成り行きとして、「地物の権威」は自らの権威に拠って立つ国家を作ろうとする。これも自然の成り行きとして、新たな権威は既存の古い権威とぶつかる。直系家族の生成が始まると、「地物」の権威と「舶来」の権威が衝突し、勢力争いが始まるのである。

二つの権威と家族システムに着目すると、日本の歴史は、「舶来の権威」の時代から「地物の権威」の時代、つまり、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程として描くことができる。

家族システムが未完成の間、二つの権威はしばし並存し、綱引きをする。しかし、完成した暁には、国家の仕組みは直系家族の縦型の権威構造にしたがって組み替えられるのである。

予告編

移行過程を時代区分に照らして見ると、「舶来の権威」の時代に当たるのは飛鳥・奈良・平安時代、到達点の「地物の権威」が徳川支配の江戸時代である。

その中間に、天皇と未完成の直系家族の権威が併存し、対立・綱引きする時代(平安末期・鎌倉・室町)があり、優位を確定させた直系家族が直系家族間の覇権争いに天皇の権威を利用する時代(戦国・安土桃山)がある。それを経て、ようやく、直系家族が支配権を確立し、天皇の権威なしにやっていく時代(江戸時代)が来るのだ。 

移行期に当たる平安末期から江戸時代の開始まで‥‥そう、この時代こそ、何がなんだかよく分からない時代ですよね?

藤原家の摂関政治の後が院政で、平氏の時代かと思えば院と源氏がともに平氏を倒し、すぐに頼朝は院と対立し、その後実権を握った北条も院と争い、蒙古襲来で北条の力が落ちると後醍醐天皇が出てきて足利尊氏と一緒に倒幕したのに尊氏は別の天皇を立てて幕府を開き、南北朝の動乱はいろんな勢力を巻き込んで全国に広がって60年も続き、収まったと思ったらまたいろんな家が入り乱れて応仁の乱を戦い、誰が勝ったかよく分からないうちに戦国時代になって、やがて政治の中心は京から江戸に移るのだ。

「だから何?」「これ全部覚えて何かいいことあるの?」と高校生の私は思っただろう(覚えられなかったので受験科目は世界史を選択した)。

移行期にあたる平安末期から江戸時代の開始までは、直系家族が生成していった時代であると同時に、識字率が(たぶん)上昇を続けた「プレ近代化」の時代でもある。男性識字率50%(19世紀後半)とはいかないまでも、文字を読む層が、皇族・貴族・聖職者から武士、商人、農民(+それぞれの上層から中層)へと拡大し、政治的な発言力を持つ層が広がっていく。

識字層の拡大がもたらす成長に家族システムの進化が伴う地殻変動の時代だからこそいろいろな事件が起こるのだが、事件の意味は分かりにくい。

しかし、家族システムの進化が絡んでいることを意識すれば、それだけで、面白いほどよく分かるようになるのである。

というわけで、次回以降、家族システムの進化に焦点を当てて、「舶来の権威」の国家が「地物」直系家族の国家に生まれ変わるまでの過程を追ってまいります。

今日のまとめ

・直系家族の成立以前、原初的核家族の日本は大陸の威光を借りて国家を建設した。

・直系家族の生成が始まると、直系家族の「地物の権威」と大陸由来の「舶来の権威」が衝突した。

・近代以前の日本の歴史は、大陸の威光を借りた原初的核家族の国家から、自前で構築した直系家族の国家に移行する過程である。

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    家族システムの起源I 240頁
カテゴリー
社会のしくみ

国家と宗教
ー一神教と多神教ー

神は権威を支える

国家を統治するために不可欠の道具は「正しさ」である。武力でも一時的な秩序維持は可能だが、長きに渡って共存していくことを前提とするのが国家である以上、いずれその正統性を「正しさ」(=法)に求めなければならないときが来る。

強さとは異なり「正しさ」は自然界に存在しないので、統治に使うには裏付けが必要である。それを担うのが権威だ。

縦型の権威がないところに国家がなく、権威が生まれると同時に国家が誕生するのは、そういうわけである。

そう考えると、国家の誕生と同時に歴史(=文字)が生まれ、宗教が生まれるという事実も驚くには当たらない。

直系家族(国家誕生の第一段階である)の場合、権威の基礎は先祖代々家系が受け継がれてきたという事実にあるので、歴史を書き記し後世に伝えることは欠かせない。

そして、直系家族に限らず、権威を自他に対して納得させるには、彼岸から、神に支えてもらうのが一番なのだ。

直系家族の神

世界で初めて都市国家を生んだシュメールの宗教は多神教である。

この点は、同じ直系家族の日本人には分かりやすい。

直系家族システムを支えるのは縦のラインだが、そのラインは一本ではないし、それぞれの線が一人の先祖だけにつながっているわけでもない。

田中さんには田中さんの先祖がいて、鈴木さんには鈴木さんの先祖がいる。

それぞれの家系に、お父さん、おじいさん、ひいおじいさん、ひいおばあさん(女性が権威を担うこともある)・・と沢山の人々が連なって、権威を構成しているわけなので、神様は一人で済むわけがないのだ。

エマニュエル・トッドは直系家族と一神教のつながりを論じたことがある(『移民の運命』198頁以下)。しかし、これはちょっと無理筋だと私は思う。ルター派の強い神のイメージと浄土真宗の阿弥陀信仰に共通性を見出したりするのだが、ドイツは直系家族の成立以前にキリスト教を受容しているからその範囲内でアレンジしただけと思われるし、浄土真宗が阿弥陀を大事にするからといって日本人の信仰が一神教的であるとは到底いえないだろう。トッドは当初ユダヤ人を直系家族と見ていたので(のちに撤回している)、それに引っ張られた面もありそうだ。

勝手に断言しよう。
直系家族システムの権威を支える宗教体系は多神教だ。

間違いない。

帝国を支える神

中東では、直系家族とともに都市国家が生まれた後、都市国家間の争いが絶えない時代を経て統一国家が生まれ、やがて帝国に発展する。そのとき、社会の基層では、共同体家族システムが形成されていた。

国家統一がなされると何となく一神教が生まれそうな感じもするが、おそらくそうではない。

帝国では、王は何らかの形で神格化され、王にその身を投影する神は最高神とされるであろう。しかし、ほかにもさまざまな神、妃や母に当たる女神や、帝国に服属する地域の神などがいて、皆が揃って最高神を崇める、といった形で現実の王の権威を支えるのが典型的ではないかと思われる。

共同体家族の帝国では、頂点に君臨するのは生身の王であり、その人格こそが権威の源泉である。直系家族にも当てはまることだが、すでに確固たる権威が存在する国家において、宗教に期待されるのは補強の役割にすぎない。世俗の権威を凌駕するような強大な神にいてもらってはむしろ困るのだ。

王が君臨する国家と一神教の相性の悪さは、旧約聖書にも描かれている。

唯一神ヤハウェは、預言者サムエルを通じて、イスラエルの人々に、異教の神々への信仰を捨て、ヤハウェのみに心を定めることを要求する(一神教であるゆえんである)。しかし、ヤハウェの要求はそれにとどまらない。ヤハウェは人々に、世俗の王を求めず、ひたすらヤハウェのみに従うことを求めるのである。

聖書が王の君臨する国家をロクでもないものと考え、ほとんど憎しみすら抱いていることは、世俗の王を求める民に預言者サムエルが伝える次の言葉に現れている。

君達を支配する王の習慣(ならわし)は次のようなものだ。彼は君達の息子をとって、自分の為にその戦車に乗り組ませ、王の軍馬に乗らせ、又王の車の前を走らせる。又彼らを千人の隊長、百人の隊長とし、更にその耕地を耕させ、刈入れの労働に服させ、又武器の製造と戦車の装備にあたらせる。君達の息女(むすめ)達をとって、香料作りとし、料理女とし、又パン焼き女とする。王は君達の畑地と葡萄園と橄欖畑のよきものを取り上げ、それを彼の宦官と役人達に与える。又、君達の下僕(しもべ)、婢女(はしため)、又君達の牛のよきものと驢馬とを取って、自分の為に働かせる。彼は君達の家畜の群の十分の一を取り上げ、君達は遂に彼の奴隷となるであろう。君達はその時自ら選んだ君達の王の前に泣き叫ぶであろう。しかしヤハウェは最早その時君たちに答え給わない。 

『サムエル記』(関根正雄訳)岩波文庫、昭和32年、29頁

それでも人々は、自分たちにもよその国と同じように王が必要であると言って聞かない。そこで、ヤハウェは彼らに王(サウル)を与えるが、サウルはヤハウェの命令に背いたことで王位を奪われ、王国の樹立はつぎのダビデの治世まで持ち越されることになる。

一神教を必要とするのは誰か

直系家族システムの国家には縦に連なる権威の軸が存在し、家々の祖先達を思わせる多神教の神々がそのイメージを補強する。

共同体家族システムの帝国には生身の王が君臨し、下位の神々の上に最高神が君臨する天界のイメージが、王の権威の正統性を強化する。

現実世界に確固とした権威を備えたこれらの国家は、決して、世俗の権威を否定するような強大な神を彼岸に生み出すことはない。

ではいったい誰が一神教の神を必要とするのだろうか。

家族システムと国家の対応関係を知った後では、答えは明らかなように思われる。

原初的核家族である。

親子関係兄弟関係国家形態
原初的核家族不定(イデオロギーなし)不定(イデオロギーなし)なし
直系家族権威不平等都市国家 / 封建制 
共同体家族 権威平等帝国
(表1)家族システムの「進化」と国家

原初的核家族とは、関係性を律する規則を持たない「家族システム以前」の状態(あるいはそれに近い状態)を指し、彼らは内発的に国家を生み出すことはない。

それでも、近隣に都市国家やら帝国やらが林立してその勢力が迫ってくると、自身も国家を組織しなければアイデンティティを保つことができない状況に陥るであろう。しかし、彼らの家族システムは国家形成に必要な権威を欠いている。

窮地に陥った彼らは、天上にその権威を求める。
それが一神教の神である。

世俗の人々を導いてくれる強い神、全知全能で唯一絶対の神の姿を彼岸に描き、その支配を受け入れることで、世俗の権威に代替するのである。

以上が私の仮説である。さて、これが実例で証明できるかどうか。
試してみよう。

例証① ユダヤ教

もともと遊牧民であったため、長く未分化な核家族性を保持していたユダヤの人々が、国家(イスラエル王国)を形成するに至ったのは、紀元前11世紀の終わり頃である。

世界史の教科書によると、シリア・パレスチナ地方では、紀元前13世紀頃の「海の民」の進出によりエジプト、ヒッタイトという大国が勢力を後退させ、それに乗じてアラム人・フェニキア人・ヘブライ人(ユダヤ人)が活動を開始していた。

このうち、アラム人とフェニキア人はそれぞれシリアと地中海沿岸に多くの都市国家を建設していた。アラム文字は楔形文字に代わってオリエント世界の多くの文字の源流となり、フェニキア文字はアルファベットの起源となったということでも知られる。そして、彼らの宗教は多神教である。都市国家、文字、多神教‥‥おそらく、彼らの家族システムは直系家族だ。

一方、原初的核家族のユダヤ人には国家がなかった。しかし「海の民」の一派であるペリシテ人との争い等を通じ、ユダヤの人々は王が統率する国家の成立を待望するようになっていた。

その経緯は、旧約聖書の「サムエル記」(「王国の書」の別名もある)で扱われている。

預言者サムエルの下でヤハウェに忠実であった間、ペリシテ人は撃退され、再度イスラエルを侵すことはなかった。やがてサムエルは年を取り、その息子達を後継に任じたが、彼らは父と違って行いが悪く、およそ頼りにならなかった。

人々はサムエルに訴える。

「御覧下さい。あなたは既にお年を召され、あなたの息子達はあなたの歩まれた道を守りません。さあ、どうかわれわれを審(さば)く為、総ての異国の民と同じようにわれわれに一人の王を与えて下さい。」

『サムエル記』28頁

前々項で引用した「王の習慣(ならわし)」に関するサムエルの言葉は、この訴えに対する回答の中で述べられたものである。しかし、人々はそれを聞こうともせず、こういうのである。

「いや、われわれには王が必要です。私達もそうすれば他の総ての国民と同じようになるでしょう。王は私達を審き、先頭に立って出陣し、われわれの戦いを闘ってくれるでしょう」。

『サムエル記』29頁

エジプトやヒッタイトはもちろん、アラム人にもフェニキア人にもペリシテ人にも王があり国家があるのに、ユダヤの民にはそれがない。しかし、彼らだって人並みに、先頭に立って彼らを率いてくれる王が欲しかったのだ。

家族システムの中に権威を持たない彼らは、そのままでは国家を作れない。そこで、必要に駆られた人々は、その彼岸に、強大な神ヤハウェを頂く一神教を作り上げた。

天上の権威を地上の権威に代替することで、国家の建設を可能にしたのである。

と、このように考えると、かなり辻褄が合うように思われる。

例証② キリスト教

キリスト教については、1世紀以後ローマ帝国の版図内で勢いを増し、コンスタンティヌス帝の下での公認(313年)を経て、テオドシウス帝の下で国教とされるに至った(392年)、その「時期」に着目したい。

共和政末期から帝政の初期にかけて(前1世紀~)、ローマはガリア全土(現在のフランス、ベルギー)とブリタニア(イギリス)を征服、ヒスパニア(スペイン)を吸収し、西ヨーロッパ全体を版図に収め、北アフリカとエジプトも支配下に置いた。

ローマ帝国は絶頂期を迎えたわけだが、西と南に向かう版図の拡大は、水面下で、というか社会の最基層、家族システムの層において、後の解体につながる本質的な変化をもたらしていた。

トッド入門講座の方で扱ったが、当初は父系制で共同体的であったローマの家族システムは、「共和政末期から後期ローマ帝国に至る少なくとも6世紀に渡る期間」に一種の退行を見せ、おそらくは征服した核家族地域(西ヨーロッパとエジプト)の影響で、より核家族的なシステムに変化していったのである。

キリスト教が普及し、迫害、公認を経て、ローマ帝国の国教となって定着する期間(後1世紀~5世紀)は、ちょうどローマが西ヨーロッパを版図に収め、家族システムを退行させていく期間と一致する。

未分化の核家族であるユダヤ人の間で生まれたキリスト教が、この時期に帝国版図内の人々の心を掴んでいったのは、やはり未分化の核家族であった西ヨーロッパの人々にとっては、帝国という現実に順応するのに必要な(意識下の)「権威」を、その一神教が彼らに供給してくれたためかもしれない。

帝国中央部の人々にとっては、(家族システムの退行により)薄らいでいく権威を、その一神教が補充してくれるのが感じられたためかもしれない。

もちろん、それでも帝国の分裂を回避することはできず(395年)、西ローマ帝国の方はまもなく滅亡に至る(476年)。しかし、この地に根付いたキリスト教は、おそらく、多くは未分化の核家族であったゲルマン人に権威を貸し与えることで、その国家形成を促すことになるのである(次回扱う予定です)。

例証③ イスラム教

最後はイスラム教である。

唯一神アッラーへの信仰を説いたムハンマド(570頃-632)が、軍事的・宗教的指導者としてイスラム共同体を成立させ、アラビア半島の大半を支配するに至った頃、アラブ人の家族システムは(内婚制)共同体家族システムであった。

しかし、アラブ人が生粋の共同体家族の民であったかというと、決してそうではない。

メソポタミアから見れば辺境であるアラビア半島で遊牧生活を送っていた彼らは、中央部で共同体家族が確立してからも長い間、未分化の家族システムを保っていた。

彼らの共同体家族は、2-3世紀から5-6世紀の間に受容した、比較的新しいものなのだ(システムの新しさは一般にシステムの弱さを意味します)。

後に中東を席巻した内婚制共同体家族というシステムは、アラブ人が(外婚制)共同体家族を受容したとき、叔父方イトコとの結婚を理想とする「内婚制」を付け加えたことで生み出されたものである(比較的男女平等であったアラブ人が女性の地位を確保するために編み出した工夫ではないかというのがトッドの仮説である)。

元々のシステムから来る彼らのメンタリティは、硬質の共同体家族とはミスマッチであり、修正を加えなければ受け入れることができなかったのである。

国家形成に不向きな「システム以前」の状態にあったアラブ人に、たった数世紀の間に、統一国家、さらにはイスラム帝国を建設させるだけの軍事的・政治的統率力を与えたもの、その一つはもちろん共同体家族の伝播であるが、それを補強したのが一神教の受容ではなかったかと思われる。

ムハンマド以前、アラビア半島には国家も大都市もなかったが、アラブの人々は、隣接するササン朝ペルシアとビザンツ帝国から強い影響を受けていた。各地の有力者はササン朝皇帝の「総督」という称号を受けてそれぞれの地を抑え1(後藤明「巨大文明の継承者」『都市の文明イスラーム(新書 イスラームの世界史①)』講談社現代新書、1993年)57頁)、半島の外れ(シリアなど)にはビザンツ帝国の衛星国家的な小国もあったという2(小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社学術文庫、2016年)27頁)

おそらく、彼らは、ササン朝から共同体家族を受け取り、ビザンツ帝国から一神教を受け取った(キリスト教とユダヤ教は5世紀頃から浸透していた)3(後藤・47-48頁)。一神教の神の権威は、女性の地位の確保のために弱めざるを得なかった共同体家族の父の権威を補い、イスラム帝国の大攻勢を可能にしたのである。

おまけ 韓国のキリスト教

国家を成立させるために必要な権威を代替するのが一神教であると考えると、近代朝鮮(韓国)におけるキリスト教定着の基盤も理解できるような気がする。

朝鮮半島は直系家族が中心と考えられ、もともと国家形成がまったく不得意というわけではない。しかし、共同体家族の帝国が隣接していた朝鮮半島で、直系家族が独立を維持していくことは容易ではなく、朝鮮の王朝はつねに中国の強い影響下にあった。

14世紀以来の朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、中国の弱体化により後ろ盾を失い、日本に併合されて滅亡する。その日本もすぐに敗戦し、権力の空白が生まれる。

韓国でキリスト教が広がったのはまさにこの時期(19世紀末~)、誇り高い韓国の人々が国家の中心となるべき世俗の権威を失った時期である。

異国(日本ですが)の侵略下で、世俗の王に代わる寄る辺となって韓国社会を支えたもの、それが一神教の神であった、という仮説は、それなりに説得力があるような気がするが、いかがでしょうか。

今日のまとめ

  • 国家は「正しさ」(=法)の裏付けとして権威を必要とする。
  • 直系家族の権威を支えるのは、家々かつ代々の祖先たちを思わせる多神教の神々である。
  • 共同体家族の帝国では、王は神格化され、多神教の神々が最高神に服する形で王の強大な権威を支える。
  • 確固たる権威を備えた社会は、世俗の権威を凌駕するような強大な一神教の神を生み出すことはない。
  • 権威を欠く原初的核家族が国家形成の必要に迫られたとき、地上の権威の代替として生み出すのが一神教の神である。




  • 1
    (後藤明「巨大文明の継承者」『都市の文明イスラーム(新書 イスラームの世界史①)』講談社現代新書、1993年)57頁)
  • 2
    (小杉泰『イスラーム帝国のジハード』講談社学術文庫、2016年)27頁)
  • 3
    (後藤・47-48頁)