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独自研究のすすめ

 

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自然界に善悪はない

写真は夾竹桃(キョウチクトウ)。

私は広島に来るまで見たことも聞いたこともなかったが、広島ではどこにでも生えている。

「広島市の花」なのだ。

東京で見かけなかったのは、毒性が強いせいかもしれない。枝を串焼きの串に使っただけで死亡した事例があるほどで、wikipediaによると

花、葉、枝、根、果実すべての部分と、周辺の土壌にも毒性がある。生木を燃やした煙も有毒であり、毒成分は強心配糖体のオレアンドリンなど(#薬用も参照)。腐葉土にしても1年間は毒性が残るため、腐葉土にする際にも注意を要する。‥‥

なぜそれほど毒性の強いものが「広島市の花」なのか。
市のウェブサイトにはこうある。

原爆により75年間草木も生えないといわれた焦土にいち早く咲いた花で、当時復興に懸命の努力をしていた市民に希望と力を与えてくれました。

放射能汚染にも負けずに咲き誇るその強さと、毒性の高さは関係があるのだろう。自然界には善も悪もないということを思い出させてくれるよい話だと思う。

人間が作った「正しさ」

そう、自然界には善も悪もない。人間社会も自然界の一部なのであるから、やはり、善も悪もないはずである。それなのに、善と悪があり、正義と不正義があるような気がする理由は簡単で、人間がそれを作っているからである。

「正しさ」は、約7万年前に生まれた(多分)。人間が「社会」の中で生きるようになったとき、その社会を統制するために「正しさ」を作ったのだ。

「正しさ」を作ったといえばいかにも不遜な感じだが、カタツムリは殻がなければ生きられないのと同じで1本当にそうかと思って調べてみた。wikipediaにはこうある。「殻と体は別物ではなく、殻は体の器官の一つであり、中に内臓がある。よって、カタツムリが殻から出たらナメクジになるということはなく、殻が大きく破損したり、無理に取ったりした場合には死んでしまう。他の巻貝も同じである。」人間は社会を作らなければ生きられない。人間がそのような生物として存在している以上、社会に奉仕する「正しさ」にも存在意義はあり、それをほどほどに使って社会を整えることは、自然界の法則を侵すことではないだろう。

とはいえ「正しさ」が人間が(脳内で)作り出した便宜であることは、よくよく認識する必要がある。

もし宇宙に「正しさ」というものがあるとすれば、それを司るものは神である。

人間が、架空の「正しさ」を信じ、自ら神であるようにふるまえば、人間は宇宙(自然界)にとって有害な存在となり、やがて淘汰されていくだろう。

学問と「正しさ」

近代以前の世界で「正しさ」を作る最大の権威は宗教であり伝統であったが、近代以降は「学問」がそれを担うようになった。

学問が用いる手法は、近代以前の宗教と比べると、科学的であったり、(議論を重視するという意味で)民主的であったりする。しかし、「正しさを作る」という機能においては、宗教と一ミリも違わない。一ミリもだ。

「いや、少なくとも自然科学は、真実を探究しているのであって、「正しさを作る」などということはしていない」という方がいるだろう(いてほしい)。

半分賛成、半分反対である。

真実というものはある。生物のこれこれの形質がゲノムによって決まっているとか、ゲノム配列がこれこれだとかいうことは真実に属することであろうし、その他自然科学が扱っているほとんどの物事は、真実か真実でないかを問うているといえる。

しかし、自然科学は、それで満足するだろうか。

自然に関する真実の解明は、ほとんどの場合、技術開発につながっており、社会を「よく」したり、疾患や自然災害に「よりよく」対処するために用いられる。

もっとも顕著な例の一つは医学である。

医学は病気を治したり防いだり苦痛を緩和したりするための学問で、医学研究で得られた知見はすべてその目的のために役立てられることになっている。

そこにある「正しさ」は強烈である。「病は治るべきである」「病は防ぐべきである」、もっというと、「人は死ぬべきではない」。このような「正しさ」に仕える立場にあって、純粋に真実を探究するのは、ほぼ不可能だと私は思う。

自然科学は、科学的手法による真実の探究を手段として用いることで、真実とは別種の「正しさ」を作っている。「正しさ」への関与は人文科学に決して劣らないし、影響力の大きさ、そしてしばしばその自覚が皆無である点で、「正しさ構築度」はいっそう高いといえる。

・・・

私が研究者になったのは、自分がどんな世界に暮らしているのかを知りたかったからだと思う。そういう漠然とした気持ちだけがあって、何学部に入ったらいいのかとか、何を研究したらいいのかとかは全然分からなかったが、とりあえず大学に入り、研究者になった。

「世界とは何か(どんなところか)」というのは、真実を問う問いである。いろいろな切り口がありそうだし、みんなが納得する一義的な答えは決してでないであろうが、観察と吟味の積み重ねで、真実に近づくことはできる。そういう問いである。

私は学問とは「世界とは何か」という問いに取り組むことだと信じており、どの学問分野も最終的にはその問いに取り組んでいるのだと思っていた。

実際はそうじゃない、ということは入ってみて分かった。

学問の基本的な仕事は、それぞれの領域に関する「正しさ」を作り、それを責任を持って社会に提供することである。

より質の高い「正しさ」、より(人間の)役に立つ「正しさ」を目指す過程では、真実に触れ、目を瞬かせる瞬間があると思う。しかし、それは、大学に所属する研究者の本業ではない。職務に忠実な彼はすぐに我に返り、何事もなかったように、世間が求める仕事に戻るはずである。

一流の研究者とは

研究者がそのような仕事に従事する場合、人間界の「正しさ」がごく限られた意味しか持たないことを自然に理解していることが理想といえる。

社会内存在である前に宇宙内存在として生き、抑制的に「正しさ」に関わることができる人なら、その行動の全体で、「正しさ」を透過した向こう側の真実を表現できるに違いない。

自然科学の研究者であれば、この点は、一流の学者と二流以下の学者を分ける分水嶺として何となく認められているのではないかと思う。

その人柄を透かしてみたときに、学界しか見えてこない人は三流、人間の社会までしか見えてこない人もせいぜい二流、宇宙が透けて見える人が一流だ。

人間社会に対して真に透徹した目線を向ける人が、社会科学ではなく、自然科学の中からときどき出てくるように思えるのは、きちんと宇宙の中に立っている人が自然科学者には一定数いるからなのだろう。

アカデミアには難しい

人間が、架空の「正しさ」を信じ、自ら神であるようにふるまえば、人間は宇宙(自然界)にとって有害な存在となり、やがて淘汰されていくだろう。

「やがて」と書いたが、人間はもう長い間、その架空の世界で生きており、「正しさ」と真実の乖離は甚だしくなっているように思える。

宇宙(自然界)の観点から見たとき、学問に開かれている大いなる可能性は、宇宙の側に軸足を移し、人間が長年かけて作ってきた「正しさ」を解きほぐす作業に正面から取り組むことだろう。

その学問は、宗教とも旧学問とも異なり、人間を人間が思う災厄から救い出すことを約束するものではなく、人間社会における成功を約束するものでもない。人間に、人間自身を含むこの宇宙と折り合いをつけて、品よく生きる方法を教えるものとなるだろう。

しかし、そのような学問を、現在の学問制度の中で営むことができるかといえば、それは多分難しい。

近代以降の学問は、「より多くを知り(=より多くの「正しさ」を作出し)、自由で民主的で豊かな社会を構築する」という、識字化した人類が抱いた大いなる夢を体現する存在であり、この夢があってこそ、現在のアカデミアの隆盛(肥大ともいう)がある。

アカデミアが自ら率先して宇宙の側に立ち、自らが構築してきた「正しさ」を解体すること、それは例えていえば、18世紀、科学革命の衝撃に見まわれた宗教界が、自ら率先して神の不在を証明する作業に乗り出すようなものといえる。

アカデミアという権威がなくなること、そしてアカデミアが担ってきた「正しさ」の不在が露になることは、「大いなる夢」を内面化するアカデミアにとってだけでなく、虚構の「正しさ」に拠って立つ社会にとっても大変不都合なことである。

「社会の負託を受けて」学問をするアカデミアに、「自ら率先して正しさの不在を証明する」仕事を期待するのは現実的ではないだろう。

幸い(?)、アカデミアは真実を追究する存在であるという誤解が容易に解けることもないだろうし。

独自研究とは何か

そういうわけで、お勧めするのが、独自研究である。

独自研究とは何か。wikipediaに定義がある(一部抜粋)。

独自研究 (original research) とは、信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを指すウィキペディア用語です。ここに含まれるのは、未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈などです。

なお、wikiによる「信頼できる媒体」の説明は、つぎのようなものである(一部抜粋)。

一般的に、最も信頼できる資料は、査読制度のある定期刊行物、大学の出版部によって出版されている書籍や学術誌、主流の新聞、著名な出版社によって出版されている雑誌や学術誌です。常識的な判断として、事実の確認、法的問題の確認、文章の推敲などに多くの人が関わっていればいるほど、公表された内容は信頼できます。

Wikipediaが独自研究を排除するのは合理的である。現在の学術制度において信頼性を担保されている情報を提供するのが百科事典の役割だから。

しかし、もし、研究者が、現在の学術制度において評価されることを目指して研究を行い、査読者が歓迎し、主流の新聞や著名な出版社が喜んで出版しそうな研究を行うことを自らの使命としたらどうだろう。

学問は、既存の「正しさ」をなぞり、架空の城をいっそう煌びやかに飾り立てるだけの存在となるだろう。

「もし」と書いてはみたが、これは現実である。研究は行う前から評価が入り、査読論文の本数は研究者としての評価に大きな影響を与える。ほとんどの大学は、現在の学術制度で評価されることが確実な研究を行い、着実に成果を上げ続ける研究者を、理想と考えているだろう。

これを、学問が堕落した結果だと思う人がいるだろうが、そうではないと私は思う。制度としての学問は、最初から、「正しさ」を要求する人間社会に向けて「正しさ」を提供する仕組みとして存在し、その役割を果たし続けているだけなのだ。

大量に生産された「正しさ」のせいで、いっそう真実に近づき難くなっているということはあるにせよ。

再びそういうわけで、独自研究である。

変な言葉だ。

発表前の段階ではすべての研究はoriginalであるはずなのだから(wikiの定義でもそうなる)。

しかし、学問という制度の中では、通常行われる研究はoriginalではない。そのことを示すために、この言葉を選んでいる。

研究としてモノになりそうか、学術コミュニティが認めてくれそうか、先生が評価してくれそうか。世の中に受けそうか、これで食べていけそうか。

そういった社会内計算と無関係のところで、自分の興味だけを頼りに謎に取り組む。

制度としての学問が大いに発達した現代だからこそ、このようなやり方でなければ、真実に近づくことができなくなっている。

「逆説」といいたくなるけど、おそらくそうではない。
単純に、学問とは本来そういうものなのだ。

これは「学問のすすめ」ではありません

念のために言っておくと、人間界の「正しさ」を透過し、真実に近づくために、学問が必要だというわけでは決してない。

「正しさ」に真っ先に(進んで?)騙されるものは知性であり、中途半端な学問は、大抵の場合は「逆効果」となるはずである。

しかし、研究者マインドをもって生まれてきた人間にとって、今ほど面白い状況はなかなかないし、これほどやりがいのある研究課題はないだろう。

何しろ、学問が長年かけて積み重ねてきた「正しさ」が作り物であったことが半ば露わになり、真実がうっすら透けて見えてきているのだから。

架空の世界に住み続けて「正しさ」を練り上げ、世を嘆いて(そうなりますよね?)生きていくのか、それとも、敢然と「正しさ」を解きほぐし、宇宙(自然界)の側に主軸を置いて、真実を見据えて生きていくのか。

どちらが楽しいかははっきりしていると思う。

以上、世間で言われていることや、学問が教えることに違和感を持ち、「本当のことを知る方法はないのかなー」と思っている人に届いたらいいと思って、書きました。

  • 1
    本当にそうかと思って調べてみた。wikipediaにはこうある。「殻と体は別物ではなく、殻は体の器官の一つであり、中に内臓がある。よって、カタツムリが殻から出たらナメクジになるということはなく、殻が大きく破損したり、無理に取ったりした場合には死んでしまう。他の巻貝も同じである。」
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「権威主義」を使いこなそう(2・政治編)

責任の所在が曖昧ーー政治主導より行政主導で

直系家族システムの権威主義が面白いのは、正しさは「決まっている」。しかし「何が正しいかは誰にもわからない」という点です。

人類学システムの中には、直系家族以外にも、権威主義的な親子関係を特徴とするものがあります。中国やロシアの外婚性共同体家族、中東や中央アジアに多い内婚性共同体家族です。直系家族では、結婚後も家に残るのは一人の子どもだけですが、共同体家族ではすべての子どもたちが妻子ごと一つ屋根の下にとどまります。家長である父親は、いくつもの家族を束ね、その頂点に君臨する。リーダーの権威はこのシステムが最大です。

このようなシステムでは「正しさ」の所在は明白です。中国やロシアでは、絶大な権力をもって君臨する父親が「正しさ」の源であり、現在の政治体制の中では共産党のトップ(ロシアではプーチン個人?)がそれに当たります。内婚性共同体家族では、システム全体を統率しているのは「慣習」である、という面があり、父親の権威はやや形式的ですが、慣習はイスラム法という形で明確になっています。指導者は、共産党の綱領、イスラム法の解釈を通じて「正しさ」を判断(決定)し、人々をこれに従わせるわけです。

直系家族では「親にも子にも「正しさ」をめぐって論争する自由はない」と先ほど書きました。

親の権威は、祖父から受け継ぎ、いずれ自動的に長男に移る、一時的なものにすぎない。現在は家長であるといっても、「何が正しいか」を、自分一人の権限で決める立場にはないのです。

それでも、この「縦型の」システムの下では、下位の者は上位の者に従うのが習いですから、上位の者は「何が正しいか」を示さなければなりません。権限もないしよくわからないけど、示さなければならないのです。

さあ、どうしましょう。あなただったらどうしますか?

そうそう、そうです。「周りを見回す」のです。

今、日本の「上の方」で、コロナ対策を決めている人たちも、多分同じだと思います。さりげなく周りを見回し、顔を見合わせ、「こんな感じかな?」「この辺りが無難じゃないか」という感じで、空気を作る。で、それに沿うような形で、それぞれ(まるで自分の意見のように)「人流」とか「ワクチン」とか言っているわけです。

だからもちろん、責任の所在は曖昧です。

でも、これは仕方ないと思います。

この社会で出世するということは、そのような行動様式を誰よりもよく身につけているということですから、その人たちに「責任あるリーダー」のふるまいを期待するのは現実的ではありません。一方、「我こそはリーダーである」という顔で登場してくる人たちは、大抵、こうした日本社会のシステムの意味もよく理解しておらず、他のシステムのリーダーのような資質を身につけているわけでもなく、ただ闇雲に「決断」すればいいと思っているだけですから、そんな人たちに権力を振るわせるのは危なっかしいことこの上ない。

ロックダウンのような強い措置を実施する習慣がないのは、この社会には、そのような措置を責任を持って判断できるリーダーシップが存在しないからです。「歴史的な知恵」といってもいい。私はそれでいいと思います。

強いリーダーシップに期待すべきでないならどうしたらいいか、ですが、日本の人たちが一番力を発揮するのは「組織(≒家)のためにみんなで頑張る」ときですから、基本的には、統治の責任をいろいろな組織が分け持つというのが一番うまくいくのではないでしょうか。「政治主導」よりは「行政主導」で、政治は調整役・監査役に徹する。民間の組織に預けられるものは預ける(「官」の領域にあるものを民間に受け持たせるということです。新自由主義的なことを言っているのではありません)。ワクチン接種だって、職域接種を始めたら急激に進んだではないですか。

いろいろな組織が分け持つというやり方は、もちろん、必ず「縦割りの弊害」を生みます。「弊害」を減らすために、政治が調整の努力をすることは必要ですが、そのために、行政の権限を政治に移譲するというのは、よいやり方ではない。というか、はっきりいえば「最悪」だと思います(この後に及んでまだ「行政改革」などと言っている政治家を決して信用してはいけません)。

それは、日本において、統治の経験がもっとも豊富で、実績があり、効率的に機能しうることが歴史的に見て明らかな集団から権限を奪い、「選挙によって選ばれた政治的リーダー」などという、日本ではかつて一度も有効に機能したことがないものにそれを与える、ということにほかならないわけですから。

統治を担う本体がなくなってしまう、その有効性が損なわれてしまうということに比べたら、「縦割りの弊害」なんて些細なことではないでしょうか。「縦割りの弊害」をなくすための「政治主導」などというのは、正しく「throw the baby out with the bathwater (お風呂の水と一緒に赤ちゃんを流してしまう)」だと私は思います。

「縦割りの弊害」は、別に、行政官たちが無能だから(あるいは「悪いやつだから」)起きているわけではありません。人類学的に定められた宿痾、というのはやや大げさで、単なる「くせ」なのです。そのことを自覚し、気づいたら「あ、またやっちゃった」「またやってるよ」と、みんなで笑い合って修正する、ということをしていけば、それでよいのではないでしょうか。

過ちを認められないーー「カイゼン」しよう!

日本は第二次世界大戦に負け、大変深い心の傷を負いました。戦争に負けたことがない国というのは滅多にありませんが、これほど痛手を負った国民も少ないのではないか、と私は見ています。

権威主義とは、国家(≒親)が正しいことを前提とするシステムです。そうでなければ権威は成り立ちません。だから「誤り」や「失敗」はあってはならない。ただ、ここまでは、共同体家族の場合も同じです。

直系家族の痛手が共同体家族よりも大きいのは、おそらく、直系家族の権威は先祖代々から受け継がれた「万世一系」のものであり、代えが効かないからです。

中国やロシアのシステムは、リーダーが絶大な権力を持ちますが、その権力は自動的に誰かに継承されるものではありません。死没などによりリーダーがいなくなると組織は途端にバラバラになり、権力争いが始まる。非常に不安定な構造です(だからリーダーたちは可能な限り長く権力者であり続けようとするのです)。しかし、だからこそ、「敗戦」というような国家的危機を迎えた時は、体制を変えてしまうことができます。負けたのは国そのものではなく、前の政権だ、ということにして、片付けてしまえるのです。

直系家族ではそうはいきません。この点、ドイツ(直系家族です)は「ナチスドイツ」に責任を押し付けることで何とか乗り切りましたが、日本はそれはできなかった。天皇家は直系家族システムの頂点、日本社会の永続性の象徴ですから、責任を押し付けて切り捨てるなどということは考えられませんし、東条や近衛では役不足です。それが「国民総懺悔」、原爆の被害すら「過ちは繰り返しません」と言って自分たちの咎とする、そのような態度を生んだのだと思います。

ちょっと話が脱線したかもしれませんが、そういうわけで、このシステムの社会では、「リーダーの過ちを認める」ということは非常に難しい。リーダー自身にとってそうだというだけではありません。リーダーの背後に「権威」を認める全ての人々にとって、その過ちを指摘し糺すということは、不穏で、不快なことなのです。

これも「くせ」なので、分かったからには「気をつける」ということは必要です。アメリカ人やイギリス人の真似をして(彼らも「すぐに」は認めないことがありますが、時間が立てば、かなり深刻なことでも、割合フランクに認めているように見えます)、過去の過ちを認め、修正していくということを、あまり深刻にならずに、みんなで励まし合ってやっていくのはよいと思います。

一方で、違うやり方もあるかもしれません。もし、この社会が、過去の間違いを認識することもできず、路線変更もできない社会だとしたら、それは、非常に大きな問題です。でも、実際にはやってますよね。やってるんじゃないでしょうか。

例えば、トヨタなどの製造業で有名な「カイゼン」。これは、今のやり方が完全ではないということを大前提とすることで、日常的に問題点を修正していく、非常に優れた方法といえます。「過ちがない」などということはあり得ないのですから、現在の「不完全」を「失敗」として糾弾し、責任を問い、見せしめ的にリーダーを交代させる、なんてことをしなくたっていい。よりよいやり方が見つかったら、現場から随時「カイゼン」していけばいいのです。これは、政治でも同じことではないでしょうか。

責任を問うことよりも、現実がよくなることの方が大事です。それは、日本のような、責任の所在がはっきりしない社会において、とくに言えることだと思います。

このところ、気になるのは、政治家がリーダーを気取り、「この路線で行きます!」と強く宣言しすぎる傾向が見られることです。「無駄に強い宣言」と「過ちを認められないクセ」が組み合わさると、最初に決めた方向性の変更というのが、本当にできなくなってしまいますから。

日本に相応しい、ちゃんと機能するリーダーとはどういうものか。人々ときちんとコミュニケーションが取れて、全体の調整ができて、つねに「カイゼン」を促しながら、よりよい方向に道をつけていけるのはどういう人か。思い描いてみるときだと思います。

日本の偉大な政治家として、私の心に浮かぶのは、伊藤博文と、大平正芳の二人です。たまたま本を読んだからという話もありますが・・

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「権威主義」を使いこなそう (1)

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はじめに

みなさん、新型コロナウィルス対策ワクチンを打ちましたか? 私のことは秘密です。どっちにしてもいろいろめんどくさいので。

新型コロナウィルス対応をめぐって、日本の政治、専門家集団、マスコミ、職場の在り方・・要するに「日本社会」そのものについて、疑問や不満をもっておられる方は多いと思います。

ただ、ずっと日本社会のことを研究してきた立場からすると、これって「いつものこと」です。室町時代の途中からこんな感じになり始めて、ずっと続いているらしいのです。なので、多くの方が「なぜ日本はこうなのか」と思っている、その部分については、少なくとも向こうしばらくは、変わることはないと思います。

一個人としては、その「変わらない部分」については、この社会の「くせ」あるいは弱点として受け止めてしまった方が、心穏やかでいられると思います。

ただ、社会全体としてどうするべきかは、問題です。疑問や不満の対象となるのは、主に、欧米と違っていて、(その部分だけを見ると)欧米の方が優れていると感じられる部分なので、明治以来の日本はずっと、それを「変えよう」「直そう」としてきたと思います。今もそうでしょう。

「変えよう」といって変わるならいい。でも、変わらないとしたら、どうでしょう。「変えよう」「直そう」と言い続けることで、私たちは、自分たち自身に、「まだまだだめだ」「遅れてる」という劣等感を植えつけてきました。しかも、いくら言い続けても、実際には「変わらない」。ということは、その部分に起因する現実の問題は、一つも解決されないわけです。

「変えよう」という前向きな言葉も、こうなるとほとんど「呪い」です。こんな馬鹿げたことは、早くやめた方がいい。むしろ、「変わらない部分」については、「そういうもの」という理解を社会全体で共有し、問題を軽くするための具体的な対策を工夫する方が、ずっと建設的だと思います。背が低いなら台に乗ればいいし、目が悪いなら眼鏡をかければいい。背が低いことも目が悪いことも、恥じることではないのですから。

日本の「くせ」は、農村の家族から

新型コロナウィルス対応に関連して感じられるいろいろな問題点、「誰が決めているのかよくわからない」「対策の効果を検証しているように見えない」「同じやり方に拘泥している」「マスコミの報道が偏っている」「同調圧力が強い」といったことは、すべて、日本社会の権威主義的な性格から来ています。

「ああやっぱり。日本は権威主義的で、嫌な社会だよね!」と思った方がいるかもしれませんが、「権威主義的である」=「よくない」というのは単なる思い込みです。直ちに「嫌だ!」という反応をされた方は、「近代的な(=西欧流の)自由主義=正義」という刷り込みが強すぎる可能性があります。つい先ごろまで私もそうでしたので、気持ちは非常によく分かりますが、今はとりあえず、その考えはどっかの棚にしまって、続きをお読みください。

*エマニュエル・トッドの「人類学システム」*

以下でお伝えする私の考えは、エマニュエル・トッドという人の研究成果をもとにしています。彼は、近代化以降の各社会のイデオロギー体系(政治・経済・行動様式のすべてに関わる基本的な価値体系)は、それぞれの社会の近代化以前の家族システムをほぼそのままに反映していることを明らかにしました。まず、共産主義圏の地図が「外婚性共同体家族」というシステムの地図と一致することに気づき、そこから各地域のイデオロギーシステムと家族システムの重なり合いを検証したのです。結果は驚くべきものでした。

近代化以前の社会とは農村中心の社会で、家族のつながりが中心にある社会です。近代化によって、農業中心の社会は、商工業を中心とした社会に変化しますから、中心となる生活圏も農村から都市に移ります。かつては農村で親族と近接して住んでいた人々も多くは都市に移り住み、狭いアパートなんかで核家族を営むようになるわけです。このとき、一見すると、古い家族システムは崩壊したように見えます。しかし、トッドの研究によれば、家族を司っていたシステムは、近代国家の統合原理として生き続ける。近代化によって、システムが機能する場所は家族から国家に変わるけれども、社会全体の統合のシステムには変化がないのだというのです。

家族のシステムだと思われていたものは、実際には、人類の社会的統合の原理であった。ということから、このシステムのことを、トッドは「人類学システム」と呼ぶようになりました。

権威主義って何?

日本の人類学システムは、直系家族システムです。トッドは最初、この家族を「権威主義家族」と呼んでいましたが、「権威主義」だと「悪!」と決めつけてしまう人が出てくるので、より中立的な名称に変更したのでしょう。

人類学システムの定義において、トッドは「自由」と「権威」を対立概念として用いています。

何についての「自由」、何についての「権威」なのか?

トッドは、常識の延長線上にある自然な言葉遣いを好み、用語の定義を嫌います。そのため、自由や権威についても明確な説明はないのですが、私の理解では、ここで問題となっているのは「正しさ」です。

核家族システムでは、子どもは成長したら直ちに独立し、親子は別世帯となります。直系家族のように「子どもが家を継ぐ」ということはないわけです。大人になるまで面倒を見ることは親の責任ですが、「○○家の後継ぎに相応しい価値観を身に付けさせること」は不要です。このシステムでは、親子の関係は対等な友人の関係に近く、親子(とくに子ども)はそれぞれ価値判断において「自由」です。

一方、直系家族の場合、親は祖先から受け継いだ「家」を子どもの世代に伝えるという重い責任を負っています。親は子どもにきちんとしたしつけ、よい教育を与えようとします。そうすることで、「何が正しいか」「どうふるまうべきか」を子どもに教え込む。

では、親に「正しさ」を決める権限があるのか、というと、そうもいえません。このシステムでは、何が正しいかを決めているのは、親というよりは祖先であり、歴史であるからです。

子どもとの関係では親に決定権がありますが、親の背後により大きな権威が控えている。このシステムでは、親にも子にも、「正しさ」をめぐって論争する自由は与えられていないのです。

権威主義は何のため?

この文章では、権威主義システムに由来する問題点を中心に見ていくわけですが、その前に、このシステムには良い面もたくさんあることを確認しておきたいと思います。

しっかり子どもをしつけ、よい教育を与える。これは日本国民の全体的な民度の高さにつながっていますし、受け継がれた価値観に従うという態度は、安定した社会秩序の基盤です。伝統文化の継承、例えば日本には個性的な日本酒を醸す小さな酒蔵がたくさんありますが、これなどは明らかに、「細々と長く伝統を受け継ぐ」直系家族システムの産物です。フランスにも小さなワイナリーがたくさんあるけど、とお思いの方がいるかもしれませんが、フランスという国は、核家族の地域と直系家族の地域に分かれていて、有名なワインの産地はどこも直系家族なのです。

どういう事情で、このようなシステムが発達してきたのでしょうか?大きな要因は、土地が希少になり、耕作地を子孫に受け継ぐ必要が生じたこと、加えて、家族を中心とする社会的絆を安定させ、縦型の規律を整えることが、軍事力の強化にもつながったことにあると考えられています。

日本では縄文時代の終わり頃から農耕が始まったとされていますが、農耕が始まっても、人口が少なく、土地があり余っているうちは、親から子への継承のメカニズムはとくに必要ではありません。子どもは自活できるようになったらさっさと親の家を出て、他の土地を開拓すればいいわけですから。

しかし、やがて、人口が増え、開拓するべきよい土地がなくなるときがやって来ます。親が持っている土地が「守るべきもの」となる瞬間です。親の土地がよほどたくさんあるなら、分割して子どもに分け与えることもできますが、そうやって分けていくと、一人の持ち分はどんどん小さくなり、効率的な生産ができなくなります。それよりは、誰か一人をリーダーと決めて土地を継承させ、そのリーダーの下で、協力して農業を営んでいくことが合理的です。

では、そのリーダー、どうやって決めましょうか?

「子どもたちの中で一番優れた者」に受け継ぐのがよいかもしれませんが、それが「争いの元」であることはお分かりだと思います。成人した子どもたちのそれぞれに、それぞれの思惑を持った親世代が味方して戦い、殺し合いになったりしたら、元も子もありません1実際、直系家族システムが生成する直前、鎌倉時代の終わり頃には、相続争いがたくさん起きるようになっていたそうです。 近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207–208頁参照

それを防ぐために「相続するのは長男」と決めてしまったわけです。直系家族システムにもバリエーションがあって、男女を問わずに長子に相続させるところや、末の娘に相続させるところなどもあるそうですが、日本で長男の相続が主流になったのは、システムが生成した当時の時代背景(武士の時代ですね)において、高い軍事力の保持が家族システムに期待される機能の一つであったためと考えられます。

直系家族システムの権威主義は、親族内部での争いを防ぎ、土地を安定的に子孫に受け継いでいくために生まれました。そうすることで、システムに属する人々は、安定的に食物を生産することができ、(統率力を高めて)外敵から身を守ることもできる。要するに、生き延びていく可能性を高めるものだったのです。

この仕組みは、今の時代に同じように必要とはいえません。なので、無理して、頑張って、維持することはないと思います。しかし、この社会は何百年にも渡ってこのやり方で生き延びてきたので、いくら変えたくても、一朝一夕には変わらない。その点は覚悟しなければなりません。

「ま、仕方ないな」と私は思うので、以下では、どうやって「問題点」に対処していくかを考えたいと思います。

  • 1
    実際、直系家族システムが生成する直前、鎌倉時代の終わり頃には、相続争いがたくさん起きるようになっていたそうです。 近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(岩波新書、2016年)207–208頁参照