カテゴリー
社会のしくみ

イギリスのすべて ③革命とその後

目次

革命期のアイルランド

(1)イギリスとスコットランド

イギリスがアイルランドを制圧していったん落ち着きを見せたアイルランド情勢は、17世紀中盤に次なる高揚期を迎える。

アイルランドが、ブリテン島におけるイギリス、スコットランド双方の「地殻変動+民主化革命」期の煽りを受けたこの時期。連合王国の統合のためにアイルランドが果たした役割を理解するためには、スコットランドおよびイギリスの状況に目を向けておく必要がある。

ここでは、それぞれに「地殻変動+民主化革命」期を迎えていたイギリスとスコットランドが、ぶつかり、妥協し、連合王国として統合されていくまでの過程をざっくり説明しよう。

①スコットランドのこだわり:長老派教会

独立王国であることに誇りを持つ直系家族のスコットランドは、イギリスとは異なり、どの時点においても、「国王を倒したい」という願望を持つことはなかった。

この時期の彼らにとって、もっとも重要な課題は、宗教改革によって作り上げた自分たちの信仰を守ることであり、国王やその他の政治勢力との関係性は、この一点によって左右されていく。

イギリスとの関係で、彼らの信仰におけるアイデンティティは、何より、長老派の教会制度に置かれることになった。

②チャールズ1世との対立:主教戦争に勝利!

ピューリタン革命で倒される運命のチャールズ1世(ジェームズ1世の息子)とスコットランドが対立することになったのは、カトリックに傾倒気味だったチャールズが、国教会の共通祈祷書(1559年版:聖職者の式服着用を奨励するなどややカトリックに寄せたもの)をスコットランドの教会にも強要したためである。

スコットランドは、カトリックを毛嫌いしているわけではないし、国王に恨みがあるわけでもない。しかし、彼らのアイデンティティである長老制教会を否定されることには我慢ができなかった。

スコットランド各地で民衆の暴動が起こる。暴動はついには国王軍との間の戦争に発展(主教戦争 1639-1640)。そして、スコットランドはなんと(?)これに勝利する。

国王に勝利して、長老派教会を守り抜いたスコットランドは勢いに乗り、イングランドの内戦に積極的に関わっていくのだ。

共通祈祷書に反対する民衆の反乱の様子(wiki

③ピューリタン革命の開始(1642-)

一方、敗北したチャールズ2世は、今度はイギリス国内のピューリタン(改革派プロテスタントの総称として用います)の突き上げに遭う。

スコットランドへの賠償の支払いのために国王がやむなく召集した議会(いわゆる長期議会 1640年11月-)で、国王派と対立する議会派(革命側です)は、星室庁(国王大権に基づく裁判所)の廃止、枢密顧問官の更迭、大主教の弾劾、国王の忠臣を大逆罪で処刑するなどの「革命」的な急進策を次々と実現。ピューリタン革命のはじまりだ。

近頃、ピューリタン革命は単なる内戦でありいわゆる「革命」ではなかったという言説に接することが少なくないが、やはり、革命というにふさわしい事態ではあったらしい。近藤和彦さんの話を聞こう。

情況をこのように急展開させたのは、スコットランド進駐軍の圧力、これと通じた長老派議員、紙の戦い、ロンドン群衆であった。群衆は議会や宮廷を包囲して要求を叫び、ピム議員は院外の圧力を背景に急進策を実現していった。ほとんど150年後のフランス革命における、言論とサンキュロットの蜂起を背景にした革命派議員を想わせる事態である。

近藤和彦『イギリス史10講』125頁

このとき、スコットランドは、イングランドの議会派と同盟を結んで、国王派と戦っていた。

スコットランドが議会派の側についたのは、議会派が長老派教会の存続を保証し、イギリスでのさらなる(教会制度の)改革を約束したからである。

スコットランドは、自らの影響力を強め、あわよくばブリテン諸島を「長老派教会化」することまで狙っていた。

④議会派との決裂→国王派への回帰→敗北→王政復古

識字率上昇期にあるイギリス・スコットランドの革命連合軍は強かった。

‥‥後半の重要な戦いに勝ち続けたのは議会軍だった。スコットランド貴族の子サー・トマス・フェアファクス大将(1612-71)とケインブリッジ選出議員オリヴァ・クロムウェル中将(1599-1658)の指揮する「ニューモデル軍」の士気、規律、兵站がまさったのである。経済・金融の中心ロンドン市〔シティ・オブ・ロンドン〕を掌握していたのも決定的だった。

近藤・127頁

そういうわけで、議会派は国王軍に勝利。しかし、往生際の悪い国王が再び挙兵したために起きた第二次内戦(1648年:これも議会派が勝利)の後、スコットランドの反対にもかかわらず、チャールズ1世が処刑されるに及んで、スコットランドと議会派は決裂する。

スコットランドは、チャールズ2世(1世の息子)を国王として迎え入れ、戴冠式を執り行うのだ(1651年1月)。

共和国の指導者となったオリバー・クロムウェルは、このスコットランドの動きを共和国への反逆と見て、スコットランドに進軍。

スコットランドは戦いに負けてイングランド共和国に吸収され、独自の教会、議会、法制度とすべてを失うことになるのだが、クロムウェルが死去すると共和国はあっけなく崩れ、王政復古でスコットランドの独立は回復(チャールズ2世が復権)(1660年)。

しかし、王政復古とともに国教会の教会制度(長老制ではなく司教制)が復活したため、スコットランド国民の不満は高まった

スコットランド国民の多くは、正規の教会を無視して、屋外で集会を開いて彼らの信仰を実践したが、国王(チャールズ2世と次のジェームズ2世)はこの集会への参加を禁じ、迫害した。スコットランドは「the Killing Time殺戮時代)」(概ね1679-1688)と呼ばれる陰惨な時代を迎え、宗教弾圧、処刑、反乱とその鎮圧のための戦いによって多くの人命が失われる。

ウィリアムとメアリを新国王に担いだクーデターがイングランドで起きたとき、スコットランドが直ちにこれに乗ったのはそのためである。

⑤名誉革命(1688-89)

ジェームズ2世は、「カトリックと絶対王政の復活を目指した時代錯誤な専制主義者」で、「だから名誉革命で倒された」というのが古典的な筋書きだが、話はそれほど単純ではないようだ。

ジェームズ2世がカトリックの復権を目指したことはたしかである。しかし、当時のイギリスが実施していたカトリック差別は明らかに不当なものだったし、プロテスタントが圧倒的な勢力を誇っていたイギリスで、ジェームズ2世が求めたのはさしあたり「カトリックへの寛容」にすぎないのだから、これを「時代錯誤」と評価することはできない。

ジェームズ2世が、絶対君主政に憧れていたことも事実のようだが、当時はヨーロッパ最大の大国フランスがルイ14世の下で繁栄を謳歌していた時代なのだから、後進国の王としてそれを目指すのが不合理とはいえない。

しかし、もちろん、ジェームズ2世が、ブリテン諸島の「近代」からはじき出されたことには理由があった。

ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子である彼は、宗教うんぬんとはほぼ関係なく、長老派とピューリタンを許すことができなかったのだ。

地殻変動+民主化革命期のブリテン島で、長老派はスコットランド国民のアイデンティティであり、ピューリタン(非国教徒)はイギリスが目指すべきさらなる宗教的・政治的自由の象徴だった。このどちらとも相容れない以上、ブリテン島の将来にジェームズの居場所はない。

ジェームズ2世が、イギリス、スコットランドの両方で王位を追われることになるのは、必然的なことだったと思われる。

⑥名誉革命体制:不安定な統合

しかし、本来、長老派のスコットランドとイングランドのピューリタンは、決して一枚岩ではない

スコットランドの方は、長老派教会さえ存続できればよいのであって、国王にもカトリックにも恨みはない。ひたすら自由を求めて分裂し、政治的にも過激化しがちなピューリタンとの相性は決してよくないのだ。

長老派を主流とするスコットランドと、活性化するピューリタンを抱え込んでいたイングランドが、名誉革命を機に一つにまとまることができたのは、双方がともにジェームズ2世に嫌われ、対立していたからにすぎない。

単に「敵の敵は味方」の論理で糾合しただけのイギリスとスコットランドに、永続的な統合をもたらすには、ジェームズ2世にかわる永続的な「敵」が必要だった。

その役目を務めたものこそ、カトリックであり、アイルランド。もっといえば、「カトリックのアイルランド」だったのだ。

(2)アイルランド

①アイルランドを視界に入れる

ここでは、イングランド、スコットランドがそれぞれ地殻変動(+民主化革命)を起こし、一応の統合を成し遂げるまでの間、人身御供となる運命のアイルランドがどんな経験をしたのかを見ていきたい。

一般に、イギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)は、アメリカ独立戦争(独立革命)やフランス革命、ロシア革命と比べて暴力の程度が低く、人身被害も小さかったと捉えられている。

しかし、それは端的に誤りである。イギリス革命の暴力性が低かったといえるのは、単にアイルランドを視界から外しているからである。アイルランドの被害を計算に入れるなら、イギリス革命は、他の諸革命にまったく引けを取らない、立派な暴力革命なのだ。

②17世紀前半のアイルランド

17世紀中盤、アイルランドの(潜在的)緊張は高まっていた。16世紀後半に「カトリック化」していたアイルランドに、イギリスの植民事業によって大量のプロテスタントが送り込まれたからである。

ただし、暴発に向かうエネルギーの大きさにおいて、カトリックのアイルランドと、イギリス・スコットランドのプロテスタントが対等でなかったことは抑えておく必要がある。イギリス・スコットランドは急速な大衆識字化の真っ最中であったのに対し、アイルランドの方では、まだその過程は始まってもいなかったからだ。

アイルランドが置かれていた緊張状態は、その意味では、受動的なものだった。そんなとき、対岸のブリテン島で、革命が始まるのだ。

③ピューリタン革命とアイルランド

イギリス、スコットランドの双方で、民衆が活性化する。イギリスのピューリタンは「反国王=反カトリック」、スコットランドは長老派(プロテスタント)で行きがかり上「反ジェームズ」だ。

ブリテン島出身のプロテスタントとの関係で、受動的緊張状態にあるアイルランドにとって、この動きは脅威以外の何物でもない。

というところで、アイルランドのカトリックは、先手必勝とばかりに、反乱を起こすのだ(the Irish Rebellion of 1641)。

1641年冬ー42年始め、‥‥ロンドンに届いたのは、アイルランドにおけるカトリック反乱の報である。ピューリタン入植者は復讐的なテロル/ポグロムを威嚇していたが、危機感をもったカトリック住民が予防的に反撃して数千人を殺した。この宗派的対抗テロルが「信仰正しき者数十万人の大虐殺」と報道され、パニックを背景に、ウェストミンスタの議会は鎮圧軍の指揮権を獲得した。

近藤和彦『イギリス史10講』126頁

アイルランドのカトリックによるプロテスタントの虐殺はあった。しかし、歴史の年表に特筆されているのが、アイルランドにおける「虐殺」の事実ではなく、イギリスにおける「大虐殺報道」であることには注意が必要である(近藤和彦『イギリス史10講』114頁の年表)。

基層に溜まるマグマの量の少なさゆえに、アイルランド・カトリックの反乱が、想定される反撃よりも大きくなることは決してない。他方、大量のマグマが沸騰中のブリテン島では、アイルランドの事件は、事実の何倍も何十倍も大きく、誇張して伝えられ、壮大な反作用を生み出していく。

「女性や子供を手にかけている」として残虐性をアピールする当時のプロパガンダ

イギリスのピューリタンは、アイルランドの「先制攻撃」に過剰に反応しーーというより、半ば口実にしてーー反乱鎮圧の名目で軍の統帥権を奪い、国王を倒し、共和国を建設する(ピューリタン革命:共和国成立は1649年)。実権を握ったクロムウェルは、その足で、颯爽とアイルランドの征服(カトリック殲滅)に向かうのである。

被支配者側の先制攻撃を口実とした、支配側による殲滅戦。大変既視感のあるこの戦いが、近代の幕開けを告げる戦いであったことは趣深い。

近代とは何かを知る鍵となるこの戦争は、一般にはほとんど知られていないと思うので、実際の戦いの概要を少し詳しめにご紹介したい。

  • 1649年8月、クロムウェル自身が指揮官として上陸
  • 1649年9月 ドロヘダの戦い(Siege of Drogheda)(「ドロヘダの虐殺」とも)カトリック同盟側駐留軍約3000人とカトリックの聖職者および民間人700-800人が殺害された。
  • 1649年10月 ウェクスフォードの戦い(Siege of Wexford)(「ウェクスフォードの略奪(Sack)」とも)議会軍は降伏交渉の継続中に町を襲い、約2000人の兵士と1500人の民間人を殺害。略奪後、町の大部分に火が放たれた。
  • 以上の2つの事件は、イギリス軍の残虐さを示す事件としてアイルランドの人々の記憶に深く刻まれている。
  • 初期の戦いにおける無慈悲なやり方のために、カトリック同盟側が降伏交渉に応じる可能性が失われ、抵抗が激化・長期化したことが指摘されている。
  • 戦争末期、議会軍は、食糧庫の破壊、銃後で支援していると見られる民間人の強制移住、(勝手に指定した)「戦闘禁止地域(free-fire zone)」で発見された者はすべて敵と見なして生命・財産を奪うといった戦略を取り、民間人に多大な犠牲を出した。
  • 1651-52年(ゴールウェイ陥落が52年)にはほぼ決着するも、ゲリラ戦が続き、イングランド議会が反乱鎮圧を宣言した1653年9月27日をもって終了とされる(その後も散発的な抵抗は長く続いた模様)。
  • 軍医として従軍したWilliam Pettyの試算によると、戦闘、飢餓、疫病等によるアイルランド側の死者は1641年以降で618000人(人口の約40%)。うち40万人はカトリックで16万7000人が戦闘ないし飢餓、残りは疾患で死亡したとする。
  • 現代の歴史家は上の数字には修正が必要と考えているようだが、少なくとも20万以上が死亡したことは確実とされる。
  • 1641年の反乱に関与した者、王党派の指導者、カトリックの聖職者が全員処刑されたほか、約50000人のアイルランド人(戦争犯罪人とされた者を含む)が年季奉公労働者(indentured labourers)(「白人奴隷」とも呼ばれる)として北米や西インド諸島の植民地に移送された。

通常、ピューリタン革命(イングランド内戦)の死者数に、アイルランド同盟戦争(クロムウェルの征服戦争含む)の死者は含まれていない。

アイルランドのアニメ映画「ウルフウォーカー」に出てくるLord Protector(クロムウェルがモデル)。クロムウェルの征服時、狼の絶滅を図ったのも史実のようです

⑤戦後処理:アイルランド近代の基礎

征服後のクロムウェルが行った処分は、イギリスの近代アイルランド政策の基礎となった、といえる。

  • 1️⃣カトリックの体系的差別
  • 2️⃣カトリックからの土地の没収

という骨格は、クロムウェルの死後まもなく王政復古がなり(1660年)、名誉革命を経てイギリスが近代国家に生まれ変わった後も、ジェームズ2世の治世における一時期を除き、基本的に維持されることになったからである。

1️⃣については後に回し、ここでは主にクロムウェル政権下で行われた土地処分を見ておきたい。

  • イングランド議会は、1652年8月にアイルランド処分に関する法律(Act for the Settlement of Ireland 1652)を制定
  • 上述の死刑対象者(1641年反乱の指導者、王党派の指導者、カトリック聖職者)の土地はすべて没収、それ以外の軍の指導者の土地も大部分が没収された
  • 「共和国の利益に常に忠実だった者」以外(要するにプロテスタントの議会派以外→全カトリック)は戦争不参加でもすべて反徒とみなされ、所有する土地の4分の3を没収された
  • 当局には、(死刑対象者以外で)土地の没収処分を受けた者に共和国政府の指定する代替地を与える権限が付与された
  • 実際に代替地に指定されたのはコナハト地方(↓緑の部分)。要するに、カトリックをすべてシャノン川以西のコナハトに閉じ込め、それ以外をプロテスタントの入植地とする政策だ(1653年の法律でカトリックはすべてここに強制移住させられることになった)
  • 以上により、カトリックの保有地の比率は、60%から8%に低下した
  • この比率は、王政復古で20%に上昇(カトリックの王党派が補償を受けたため)したが、名誉革命後には再び10%に低下した

⑥名誉革命戦争ーウィリアマイト戦争

カトリックのジェームズ2世を廃してプロテスタントのウィリアム3世・メアリ2世を王位につけたクーデター事件が「名誉革命」と呼ばれるのは、イギリス(イングランド)では(ほぼ)無血革命だったからである。

しかし、ウィリアム3世とジェームズ2世は、アイルランドの地ではしっかり剣を交えている(ウィリアマイト戦争 1689-1691)。

しかも、その戦争では、ジェームズ2世側で参戦した兵士約15000人、民間人を含めると約10万ともいわれる生命が犠牲となっているのである(wiki)。

アイルランドの近代

ここまで見てきたように、イギリスの近代は、アイルランドの多大な犠牲の上に成立した。

では、イギリスが安定した国家体制を確立し、経済的飛躍を遂げた後には、イギリスとアイルランドの関係は正常化したのかというと、決してそうではなかった、というのが重要な点だと思う。

実際のところ、私たちがお手本としてきた近代イギリスは、その覇権の終盤まで、一貫して、アイルランド差別・排除政策を、体制の中に組み込んでいたのである。

①名誉革命体制

名誉革命は、政治面では制限君主制を確立し、宗教面では、厳格な国教会体制(ピューリタン革命以前)とも、過激なピューリタン体制(革命政権)とも異なる、寛容なプロテスタント体制を確立した事件として知られる。

議会が、権利の章典(1688)とともに、寛容法(1689)を制定したことは、教科書にも書かれているほどだ。

教科書の記載を続けると、1707にはイングランドとスコットランドは合同して大ブリテン王国(Great Britain)となり、ウォルポール(在任1721-42)が首相となる頃には責任内閣制が形成される。その間には、イングランド銀行の創設(1694)、国債制度の整備もあり、近代国家イギリスは、この時期、覇権への道をまっしぐらに進んでいる。

しかし、そもそも、名誉革命が、宗教上の寛容を実現したというのは事実ではない。寛容法は、非国教徒のプロテスタントには信仰の自由(独自の信仰集会の開催など)を認めたが、カトリックはその対象外だったのだ。

それもそのはずで、イギリスは、教科書記載の(覇権への)道のりを歩んでいるその裏で、アイルランド統治においては、クロムウェルの征服で強化されたカトリック差別政策を基本的に踏襲した「刑罰法」(英語では単にPenal Laws)体系を整備していくのである。

近代国家イギリスの確立と同時に、アイルランド・カトリック差別の体系化が進行したという事実は、示唆的だと思う。

アメリカにおいて、排除された先住民と黒人奴隷の存在こそが、「われら人民(We the people)」の統合を可能にしたように、イギリスでは、おそらく、差別され否定された「カトリックのアイルランド」の存在こそが、グレート・ブリテン王国の統合を可能にし、選挙権すら与えられなかった多くのイギリス人(スコットランド人含む)に「帝国の臣民」としての意識を付与したのである。

②アイルランドのアパルトヘイト体制

刑罰法の下でのアイルランド統治は、一種のアパルトヘイト体制といえる。「プロテスタントの優位(Protestant Ascendancy)」と呼ばれるこの体制の下では、アイルランド国民は以下の3種に分類される。

  • プロテスタント(国教徒)支配層
  • プロテスタント(非国教徒):具体的にはピューリタン(イングランド出身)と長老派(スコットランド出身)。刑罰法の下で一定の差別を受ける。(両者の間にも差異があったかもしれないが詳細は(私には)不明)
  • カトリック:最下層 刑罰法の下で基本的人権を否定され全面的な差別を受ける。

刑罰法の下でカトリックがどのような扱いを受けていたのか。まずは井野瀬久美恵先生に概要をご説明いただこう。

1695年から施行されたこれら一連の法律は、カトリックを、陸海軍や法曹界、商業上の活動などから締め出し、彼らの選挙権を与えず、行政上の公職に就くことも許さず、土地の購入も禁じた。カトリックの地主には均等相続が強制され、彼らの保有する農地がどんどん細分化される一方、プロテスタントの地主には、イングランド同様、長子一括相続によって土地保有の温存が図られた。けっきょく、アイルランドの大半の土地が没収され、プロテスタントのイングランド人入植者に分配される。カトリックのアイルランド人を全面的に否定することによって、連合王国は、プロテスタントという自らのアイデンティティを構築していった

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫 2017年)103-104頁

私の調査では、差別は以下の項目に及ぶ。

  • 公民権(公職就任権、公職選挙権・被選挙権)の否定
  • 銃器の所持、軍務、5ポンド以上の馬の所持の禁止
  • プロテスタント(国教徒?)との婚姻禁止
  • 教育の制限(カトリックの学校設立・運営の禁止、カトリックが若年者に教育を行うことは学校でも家でも禁止、国外で教育を受けることも禁止)
  • 大学進学の禁止
  • 土地の購入・保有の制限
  • 遺産(土地)相続に関する特別ルールの適用

全て網羅したものではないが、おおよそ上記のような差別を受けたので、大前提として、アイルランドの民衆の社会的上昇はあり得なかった

その上で、農業で生計を立てていく以外にない彼らにとって、実際上、もっとも深刻であったのは、土地相続の問題である。

イギリス法(コモン・ロー)の基本は、男子優先の長子相続制である。アイルランドでもプロテスタント(国教徒?)はこれに従うので、地主の土地は(分割されることなく)そのままの形で子孫に継承される。

しかし、アイルランドのカトリックには、すべての子供の間での均等相続が強要された。元は自作農が中心であったアイルランドの農民は、改宗するか、さもなければ、土地の細分化に甘んじて(事実上土地を失い)、小作人となるしかなかったのである。

一連の差別は、18世紀末(1770年代以降)の「カトリック救済法」と呼ばれる一連の立法により、法的には緩和に向かった。最終的に、カトリックの公職就任権が認められたのは1829年、ダブリン大学(トリニティ・カレッジ)での学位取得に関する制限が取り除かれたのは1873年である(脱宗教化の頃だ)。

それでも、イギリスの植民地として、アイルランド人が虐げられる状況は変わらなかった。最終的に、アイルランドの人々が「二級市民」を脱するには、イギリスと戦い、独立を勝ち取る以外になかったのである。

③グレート・ブリテン王国への編入(1801)

ここで、アイルランドの法的な位置付けを整理しておこう。

1541年以降、アイルランドは、イギリスの王を国王とする「アイルランド王国」として存在していた。

1707年には、イギリスと(本物の独立王国だった)スコットランドが合併し、グレート・ブリテン王国(Kingdom of Great Britain)を形成したが、アイルランドはこの動きには無関係で、「アイルランド王国」のままだった。

それが、1801年になって、おもむろに、アイルランドはグレート・ブリテン王国に編入されるのだ(Kingdom of Great Britain and Ireland)。

これはいったいどういうことなのか。

連合王国の一員になったというと聞こえはよいのだが、この措置は、インド大反乱にショックを受けたイギリスが、インドを帝国に編入して直接統治下に置いたのと同質のものといえる。

併合により、アイルランド議会(1782年に立法権の独立を獲得していた)は閉鎖され、アイルランド選出議員は代わりに連合王国議会に議席を得た。では、連合王国の政府がアイルランド統治の責任を担うのかといえばそうではなく、引き続き、アイルランド総督が担ったのだ。

連合王国への編入は、1798年に起きた大規模な反乱(ユナイテッド・アイリッシュメンの反乱)を鎮圧した直後のことであり、その目的は、直接統治による支配の安定化、そして、対仏戦争のための兵力の確保にあったと見られている。

④ジャガイモ飢饉

兵力確保の準備としてイギリスが行った国勢調査のおかげで、1801年以降のアイルランドの人口は正確に記録されている。

人口の推移を見ると、連合王国への編入が、アイルランドに何をもたらしたか(あるいは「もたらさなかったか」)が如実にわかる。

1806年の人口は約560万人
1841年には、約817万人のピークに達するが、
1851年には約655万人に落ち込む。
1901年には約446万人と、ピーク時の約817万人から60年間で半減。

以後、第二次世界大戦の終了まで、アイルランドの人口はほぼ減少の一途をたどり、現在に至るまで、1841年の人口を回復できていないのである(2023年で約530万人)。

1841年までの人口増と1851年の人口減の原因は同じ。ジャガイモである。

イギリス本国に対する食糧供給地として、生産した穀物(小麦等)をすべてイギリスに送っていたアイルランドでは、ヨーロッパの他地域に先駆けて、18世紀にはジャガイモを食べていた。

19世紀前半の数十年は、フランスとの戦争のために海外からイギリスへの食糧供給が滞った時期で、この時期にアイルランド農業は大いに発展を遂げた。ついでにジャガイモもたくさん採れて、人口が増えたのだ。

ところが、1845年、46年と連続でジャガイモが不作に陥る。それで人口が激減したのである。

飢饉と栄養失調に発疹チフスや赤痢といった疫病の発生、街にあふれる物乞いの群れ。政府が雇用対策として行った公共事業では、日当めあてに道路工事の作業に集まった人たちが、飢えのために次々と亡くなった。埋葬費が貯まるまで死体は埋められず、腐敗するにまかされたため、疫病被害はさらに拡大した。飢饉が収束し始めるのは1851年頃だが、同年の国勢調査では、10年間に162万人の人口減少が確認されている。

井野瀬・99-100頁

地獄絵図である。
でもジャガイモの不作なら仕方ない。
そう思われるでしょうか。

実は、大飢饉の時代、凶作だったのはじゃがいもだけであり、イギリスに輸出された穀物で、当時のアイルランドの人口の2倍を養えたと算定されている。また、イギリス市場の需要の変化に呼応して耕地から放牧地への転換が進行中だったことから、畜産物の生産も増大傾向にあった。飢饉は人災ーー。しかも、放牧地確保のため、借地料を払えなくなった人たちは即刻、強制的に土地を追われた。だが、アイルランドには、彼らを吸収する産業などなかったのである。

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』108頁
ダブリンにある飢饉追悼碑

⑤問題を輸出する「帝国」

以後、アイルランドからの人口流出は加速する。それ以前からあったブリテン島や北米への移民がこれを機に激増し、その流れが止まらなくなるのである。

しかし、イギリスはこれを止めようとはしなかった。実はこの時期、イギリスの農村でも人口圧が高まり、まずは都市へ、次いで海外へ、という流れによる人口流出が急増していたが、イギリスはこれも意に介さなかった。

移民という安全弁がなければ、1840-50年代のイギリスとアイルランドの社会がどうなっていたか、想像することさえ難しい

エイザ・ブリッグズ『改良の時代 1783-1867』(1959)(井野瀬・120頁から孫引き)

そう。イギリスにとって、移民は、つねに「イギリス社会にとって好ましくない人たちを排除する手段」(井野瀬・121頁)であり、問題解決の方法だったからである。

イギリスは、1660年代以降は北米に、アメリカが独立した後はオーストラリアに囚人を送った。

社会不安による窃盗の横行、人口過剰による食糧不足、抑圧された人々による反乱。近代イギリスは、こうした問題を政治的に解決する代わりに、一貫して「輸出」することで対処した。「イギリスは断じて帝国ではない」と私が考える所以である。

⑥アイルランドのその後と北アイルランド紛争

アイルランドは、独立戦争、内戦を経て、1922年にアイルランド自由国(完全な独立国ではなくイギリス連邦内の自治領(Dominion))として独立。1949年には、イギリス連邦を離脱した。

独立によって、アイルランドのカトリックがみな解放されたかというと、そうではない。北アイルランドが分離したからだ。

アイルランドが自由国として独立した1922年、北アイルランドは自由国から離脱し、グレート・ブリテン王国の自治領の地位を得た。

前回書いたように、北アイルランド(アルスター)の人口構成は、他の地域と違っていた。「イギリス化」のための大規模な植民事業が行われた結果、支配層(地主階級)だけでなく、庶民の間でも、イギリス出身者(プロテスタント)の割合が高くなっていたのだ。

だからこそ、彼らはアイルランド自由国から離脱することを選んだ。それはよくわかる。問題なのは、しかし、北アイルランドにも、アイリッシュのアイデンティティを持つカトリックが多数住んでいる、ということなのだ。

有権者の多数を占めるイギリス系プロテスタント(ユニオニスト)は権力を独占し、プロテスタントの支配を維持するべく、政治的・経済的にカトリック住民を差別する政策を取り続けた

‥‥北アイルランドは1921年に自治国家として成立した。しかし、その社会は、多数とはいえ3分の2、あるいは地域によっては少数派であるプロテスタントのユニオニスト(イギリスとの連合派)がカトリックを強権的に支配する構造であった。それを支えたのが、

(1)普通警察や武装警察に加えて、独立戦争中に編成された特別警察(なかでもBスペシャルとよばれたパートタイムの武装警察がもっとも凶暴であった)と容疑者を無期限に拘留するインターンメント(予防拘禁)などによる治安体制

(2)比例代表制の廃止、複数選挙権制(普通選挙権に加えて、資産家に認める企業家特権などー公民権運動が始まると廃止)やゲリマンダー(特定政党が有利になる不自然な選挙区割)などによる各地方議会のプロテスタント独占

であった。それによってカトリックの失業率がプロテスタントのつねに2倍以上という職業差別など、従来からあったカトリック差別の社会構造がいっそう極端に固定されてしまった。その基盤にはカトリック住民とプロテスタント住民の宗派対立意識があるが、それがいっそう拡大、固定されたのである。

日本大百科全書(ニッポニカ)「北アイルランド紛争」[堀越智] より一部抜粋

つまり、アイルランドが独立し、イギリスのくびきから(ほぼ)解放された後も、北アイルランドには「プロテスタントの優位」に基づく「アイルランド版アパルトヘイト」が残った(そしてイギリスはこれを放置した)、ということである。

北アイルランド紛争とは、基本的に、この「アパルトヘイト」をめぐる闘争なのだ。

そういうわけなので、北アイルランド紛争は、決して、「北アイルランドにおける宗教対立」の問題などではない。

北アイルランド紛争は、単純に、イギリスのアイルランド支配(アパルトヘイト政策)の問題であり、自らが引き起こしたその問題を「自治」に任せて放置したゆえの問題なのだ。

The front page of the Irish Independent, 31st January, 1972. (血の日曜日事件の新聞記事)

おわりに

いかがでしょうか。

私は、知っているようで知らないことが多く、調査の間、いちいち「ええっ!」とか「きゃー」とか、ジェットコースターに乗っているような気分でした。

フランスと戦って島国となってもまだ権威の軸を持たなかったイギリスは、アイルランドに敵役を押し付けてグレート・ブリテン王国を築き、大量のアイルランド人の血の上に近代化を達成し、アイルランド・カトリックの隔離と差別を国家統合の基礎として、世界に冠たる植民地「帝国」を築きました。

そのイギリスは、現在、後継者たるアメリカ「帝国」の崩壊を前に、ウクライナを表に立てて対ロシア戦争を仕掛け、イスラエルによるガザ・レバノン侵攻を猛烈に支援し、反イスラエル闘争を固い決心の下に遂行するイエメンと戦争をしているわけですが、この顛末は、いかなる意味でも、偶然とはいえない、と私は思います。

いま世界で起きていることは、イギリス・アメリカに率いられて私たちが歩いてきた近代の道のりの、かなり必然に近い帰結であるに違いないのです。

・  ・  ・

「でも、ねえ‥‥」

ため息をついたところで、話は本編の方に戻ります。

しかし、彼らだって、決して、好きで「抗争と掠奪」に明け暮れているわけではないはずです。そのことは、150年間、西欧人になろうと努力し続けた私たちが一番よく知っている。私たちがなんか知らないけどつい長いものに巻かれて周囲と同じように行動してしまうように、彼らは彼らで、なんか知らないけど、自由を叫び、争い、奪ってしまうのです。

「トッド後」の近代史3ー③

どうして、核家族が先頭を走ると、世界はこんなふうになってしまうのか。元の道に戻って、探究を続けましょう。

主な参考文献

  • 近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)
  • 木畑洋一・秋田茂編『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年)
  • 川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ、2000年)
  • 井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫、2017年)
  • 山本正『図説 アイルランドの歴史』(河出書房新社、2017年)
  • 佐藤賢一『英仏百年戦争』(集英社新書、2003年)
  • エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上』(文藝春秋、2022年)
  • エマニュエル・トッド『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア 下』(藤原書店、2016年)
  • エマニュエル・トッド『新ヨーロッパ大全Ⅱ』(藤原書店、1993年)

カテゴリー
社会のしくみ

イギリスのすべて ②イギリスとアイルランド

目次

はじめにーイギリス史の根本問題

「トッド後」の視点でイギリス国家史を見る場合、根本的な問題は、「イギリスには、結局、権威の軸が生まれなかった」ということである。

ヨーロッパの国家の多くは、原初的核家族であった時代に建国しているが、建国後には家族システムの進化が起こり、部分的にであっても、直系家族の地域が生まれている。中には、イタリアやポルトガルのように、ローマないしイスラムの遺産として共同体家族を備えている国もある。

フランス、ドイツ、ついでに日本の場合、歴史の基本構造はこうである。

外部から権威を借り受けて建国:ヨーロッパの場合はローマ帝国の遺産であるキリスト教(一神教の教えと教会制度)、日本は中国の影響(中華帝国皇帝と並び立つ者としての天皇の権威)のおかげで建国を成し遂げる。

直系家族が生成:直系家族の生成とともに国内に自前の権威が生成してくると、しばし、借り物の権威と地物の権威の綱引きが続く。

地物の権威が勝利し、その国の国柄にあった国家が完成:ドイツと日本の場合は直系家族の国家が、フランスの場合は国内の直系家族と平等主義核家族の間の争いを経て平等主義核家族の国家が成立。

イギリスの場合はどうか。

イギリスも、建国に際してキリスト教の権威を借り受けている点は同じである(5️⃣6️⃣)。

フランス、ドイツ、日本では、この後、国内で(内発的に)直系家族が生成したが、イギリスの場合、直系家族の権威もまた、国の外から、「征服」を通じてもたらされた(ノルマン・コンクエスト6️⃣)。

フランス貴族のノルマン人が持ち込んだ萌芽的な直系家族はイギリスには定着せず、上からの押しつけに対する反動で、自由(権威なし)にこだわる頑なな核家族(絶対核家族)を生成する。

結局、最後まで、イギリス国内に権威の軸が生まれることはなかったのだ。

したがって、家族システムから見る限り、イギリスはアメリカとまったく同じ。同じメンタリティである。

ところが、アメリカとは異なり、イギリスには、建国から数えれば1000年、テューダー朝の成立から数えても500年の歴史がある。

そう。ここがいちばんの謎なのだ。

いったい、彼らは、この500年間、どうやって権威の軸もなしに、王国をまとめ、連合王国に発展させ、イギリス「帝国」を築き上げ、そして‥‥ 成熟したヨーロッパの大国として一定の存在感を維持するなどという偉業を成し遂げてきたのだろうか。

イギリスの地殻変動ー民主化革命と一体化

家族システムが未発達の時代に「借り物の権威」によって建国した国は、国の内部で家族システムの進化が起き、かつ、識字化による(一定の)民度の上昇を見たとき、システム改変のための地殻変動期を迎える、というのが私の依拠する仮説である。

日本の場合には、南北朝の動乱(1336-1392)と応仁の乱(1467-1477)の辺り、ドイツの場合には宗教改革(1517-)から三十年戦争(1618-1648)の辺りがそれに当たると私は見ているが、イギリスの場合はどうだろう。

イギリスにおける絶対核家族の生成時期を、トッドは1550-1650年の100年間に求めている(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上・318頁)。

イギリスにおけるこの100年間は、イギリスで識字率が急上昇し、成人男性の50%を超えていく時期でもある。つまり、イギリスの場合、家族システムの生成に伴う地殻変動の時期と、近代化(識字率上昇による民主化)の時期が、ほぼ同時にやってくるのだ。

多くの国が二度経験した激動を、彼らはいっぺんに経験する。宗教改革と近代化革命が連続してあるいはほぼ一体化した形で発生するのもそのためだ。

しかしともかく、彼らはこの100年の地殻変動と革命を通じて、近代イギリスの基礎を確立することになる。

イギリスの宗教改革ー国教会とは何か

Hans Holbein the Younger – Portrait of Henry VIII 1537

絶対核家族が生成しても、識字率が上がっても、それでもイギリスに権威の軸は存在しない。この点を頭に入れておくとよくわかるのが、イギリスの宗教改革である。

国教会を設立するのはヘンリー8世だが、当時のイギリス国家の課題を理解するため、バラ戦争に勝ち抜いて王位に就いた先代ヘンリー7世から話を始めよう。

テューダー朝の創始者、ヘンリー7世(在位1485-1509)の時代には、王権の基礎固めこそが最重要課題だった。それには、国内での権力基盤の強化のほかに、国際的承認を得て王朝の権威を高め、ヨーロッパの一君主としての地位を確立することが欠かせない。ヘンリー7世は外交に奔走し、近隣の国々との友好関係の樹立に努めた。

次のヘンリー8世(在位1509-1547)の時代になると、目標が一段階上がる。自らを「ヨーロッパの隅に位置する王国の小さな君主」と述べた彼は、その「小さな君主」を脱し、大国の君主と並び立つことを目指した(木畑洋一・秋田茂『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年)西川杉子]32頁)。

大国と同盟を組んで喜んでいる場合ではない。ローマ教皇や諸外国から自立して、世界の中心に立たなければ。

ヘンリー8世は、イギリスの宗教改革を「上訴禁止法」の制定(1533年)からスタートした。この法律は、国内の「契約や婚姻などをめぐる係争、訴訟」について、ローマ教皇やその他の国外の法廷に上訴することを禁じる法律で、直接的な目的は、ヘンリー8世の最初の妻キャサリンとの離婚および愛人アン・ブーリンとの再婚について、ローマ教皇の介入(による妨害)を防ぐことにあった。

しかし、離婚問題がなかったとしても、やがて地殻変動期を迎え、絶対核家族に相応しい国家の建設に向かうイギリスにとって、ローマ教会からの独立は、いずれは達成しなければならない課題であったはずだ。

その〔上訴禁止のー辰井注〕根拠として、イングランドを「至上の長にして国王」によって統治された「インパイア」とする法文には、イングランドにおける聖俗両面にわたる最高の主権は国王にあることを承認させ、ローマ教皇や神聖ローマ帝国皇帝といった国外の権威を拒絶する強固な意志が表れている。つまりこの議会制定法は、ローマ教皇を地上における「神の代理人」とする超国家的なキリスト教共同体からの、主権国家イングランドの独立宣言とみなすことができるだろう。翌年には改めて、国王を「イングランド教会の地上における唯一最高の長」とする議会制定法、すなわち「国王至上法」が成立し、イングランドの教会のローマ教皇からの独立が確定した。

木畑洋一・秋田茂『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年) 33頁[西川杉子]

しかし、イギリスには問題があった。

イギリスらしい国家に生まれ変わるため、「借り物の権威」は脱ぎ捨てなければならない。しかし、フランスやドイツと異なり、イギリスには、その代わりとなるはずの「自前の権威」は育っていないのだ。

イギリスの宗教改革では、国王を首長とするとするイギリス国教会という制度が作られ、約500年の長きにわたって生き続けることになった。

イギリス国教会の組織構造や典礼は基本的にローマ教会と同じで、その実態は「名称と責任者を変更しただけのローマ・カトリック教会」である。

「自由のみ」(権威なし・平等なし)の絶対核家族が成立し、それに合わせた国家体制の変革が完了してもなお、権威的な教会制度が生き残ったのはなぜか。

答えははっきりしていると思う。ローマ・カトリック教会が構築してくれた縦型のヒエラルキーに基づく行政機構、そしてそれを支える「疑似権威」なしに、国家は立ち行かなかったからだ。

テューダー朝とステュアート朝のイギリスについて、トッドは次のように指摘している。

‥‥テューダー朝とステュアート朝の国家は「強い国家」であった。「強い国家」の社会保障システムが、絶対核家族の機能を下支えしていたのだ。ただし、その国家には官僚機構が欠けていた。ヨーロッパでいち早く機能した国家ではあったが、実際には大概、議会を通して中央集権的に国法を発布するだけに甘んじ、それらの法を各地域に強制する手段は持っていなかった。救貧法が教区ごとに具体化されたのは、地元のほぼ自主的な意志を基礎にしてのことだったのであり、その管理運営に当たったのも地域の上層農民であった。

302-303頁

トッドは「地域の上層農民」のみに言及しているが、救貧法の運用にあたって教区教会が大きな役割を果たしたことは疑いない(こちらに関連する記述がある)。実際、教区の司祭は、住民の洗礼、結婚、埋葬を記録する、一種の行政官でもあったのだ(近藤・101頁)。

直系家族が定着したドイツやスコットランドでは、システムの再編にあたって、ローマ・カトリック教会に由来する行政秩序(教会組織)をいったん放逐し、新たな(自前の)秩序に置き換える必要があった。

反対に、直系家族が定着せず、生成もしなかったイギリスは、近代国家に生まれ変わるその時にも、ローマ・カトリック教会由来の権威構造にしがみつくしかなかったのだ。

絶対核家族の100年

国教会の樹立によって、イギリスはローマ・カトリック教会からの独立を果たしたが、これは「彼ららしい国づくり」の第一歩にすぎない。

絶対核家族(自由のみ)生成中のイギリス、宗教的情熱と社会参加への欲求が渾然一体となったマグマが煮えたぎる基層の上で、権威主義的な教会制度とそれに支えられた政体を、そのままの形で維持することができるはずはないのだ。

というわけで、以後の100年間、イギリスは本物の革命期を迎え、2つの事項を成し遂げる。

  • 1️⃣近代的な政治・宗教体制の確立(立憲君主制・プロテスタントの信仰の自由(寛容))
  • 2️⃣グレートブリテン島の統一(Kingdom of Great Britainの樹立 イングランドとスコットランドの合併)

しかし、この2つの事業は、いずれも、絶対核家族のイギリスには決して容易ではなかったはずのものである。順番に確認していこう。

(1)政治・宗教の近代化

いわゆるピューリタン革命(1642-1660)で、革命勢力は、チャールズ2世を処刑して共和政を樹立し、国教会を廃止する。

君主制および(主教制の)国教会制度は、王政復古(1660)により復活するが、名誉革命(1688)に際して、国王は「権利の宣言」を承認することで議会の権限および王権の制限を認め(立憲君主制)、国教徒以外のプロテスタントの信仰の自由も認められた(寛容法)。

この時点で、穏健な君主制寛容な教会制度が成立。やがて君主は「君臨すれども統治せず」となって議会主権が確立し、脱宗教化とともに宗教は問題でなくなって一件落着(近代化の完了)、というのが教科書的な筋書きである。

イギリスは、国王と国教会という「疑似権威」の存在感を低下させることで近代国家を作ったわけだが、ここに謎が潜んでいることはすでにお気づきと思う。

既存の権威を否定するのはよいが、イギリスに、新たな権威は生まれていない。その状況で、どうやって、新たな行政機構を構築し、また、近代国家に生まれ変わるための求心力を得たのだろうか。

(2)グレート・ブリテン島の統一

現在のイギリスの正式名称は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという4つの国(country)が同じ一人の王の下に統合された連合王国という建付である。

この基礎となったのが、1707年のブリテン島統一Kingdom of Great Britainの成立(イギリスとスコットランドの合併))だ。

私は、イギリスがブリテン島を統一できたこと自体は、「謎」とは思っていない。

イギリス、ウェールズ、スコットランド(の主要部分)は、いずれもローマ帝国の属州であった地域であり、ローマ由来の土地制度、ローマ・カトリック教会由来の教会制度(=行政機構)を共有している。

ローマの遺産を足がかりに成立させた国家で、新たな秩序体系の基盤となりうる「地物の権威」も発生していないのならば、これらの地域が一つにまとまるのは、ごく自然なことなのだ。

©️Shogakukan

ただし、難所はあったと思う。それが、(とくにこの時期の)スコットランドだ。

前回書いたように、この時期か、あるいは少し前に、スコットランドの西部には、直系家族が生成していた。

しかも、スコットランドは、やはりイギリスと同時期(か少し早め)に、識字率急上昇の時期を迎えている。

イギリスの「地殻変動+民主化革命」期は、同時に、スコットランドの「地殻変動+民主化革命」期でもあったのだ

ブリテン島の中央部で、異なる家族システムに立つ若者たちの自己主張が衝突する。この時期、宗教的・政治的に独自の存在感を放っていたスコットランドの統合は、イギリスにとって、決して簡単ではなかったはずなのだ。

・  ・  ・

「これらの謎を解く鍵は、アイルランドにある。」というのが、私の提示する仮説である。

全体像を把握するため、少し遡って、イギリスとアイルランドの関係を確認していこう。

イギリスのアイルランド支配

(1)中世

①ローマ教皇の勅書が発端に(1154年)

イギリスのアイルランド支配の発端は、1154年にローマ教皇がイングランド王にアイルランド領有を認めたことにある(教皇勅書)。しかし、このとき、アイルランドに対して野心を持っていたのは、イギリスではなく、ローマ教皇であったようだ。

この時期は、ヨーロッパにおけるローマ=カトリック教会の権威が最高潮に達しようとしていた時期である。

ローマ教会の影響はアイルランドにも及び、12世紀前半にはちょうどアイルランドが教皇の許可の下で教会組織を整備したところだったのだが、その教会改革が完成した直後に、教皇はイングランド王にアイルランド領有を認める勅書を出したのだ。 

明確な理由は不明のようだが、この改革を通じてアイルランドの教会が独自の発展を遂げている事実を知り、ローマ=カトリック教会の支配を強めるためにイングランド王の助けを借りようとした、というのが考えられる筋書きの一つである。

しかし、ヘンリー2世の方は、この件には関心を持たなかったようで、彼は教皇からの勅書を放置した。20年後に、彼は自ら兵を率いてアイルランドに赴くが、それは、ヘンリーの政敵がアイルランドに拠点を築いていたからであって、教皇とはまったく関係がない。

②適当なアイルランド支配

ただし、この時期のイギリス国王はやる気がなかった(百年戦争やバラ戦争でそれどころではなかった)。イギリス国王は名目上アイルランド太守(Lord of Ireland)を兼ね、イギリスからの植民もそれなりに行われた。しかし、‥

イングランドからの渡来勢力がアイルランド全島を支配下に置くことはついになかった。追い込まれたゲール氏族勢力も、しだいにアングロ=ノルマンの軍事技術を習得、スコットランドから流入してきた傭兵集団をかかえて軍閥化し、徐々に奪われた土地を奪回していった。中世末期には、アングロ=ノルマンの子孫で自らのイングランド系であることを自覚する領主が支配する地域(「イングリッシュ・アイルランド」)‥ゲール氏有力氏族ーアングロ=ノルマンの子孫でありながらほとんどゲール化していた領主も含むーが支配する地域(ゲーリック・アイルランド」の面積は、ほぼ半々になっていた。なお、前者が優勢だったのはレンスタとマンスタ、後者が優勢だったのはアルスタとコナハトである。

川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ、2000年)40頁[山本正]

1450年の時点で、イギリス系の領主が支配した土地は、アイルランド島のせいぜい半分(↑)。

そのイギリス系領主たちも王権から自立した勢力となっており、王権による支配が及んだのは「The Pale」と呼ばれるわずかなエリアだけだった。しかも、国王はその支配を総督(イギリスの大貴族が務めた)に丸投げしていたので、イギリス国王の支配は及んでいないようなものだったのだ。

(2)テューダー朝(1485-1603)

①アイルランドはなぜカトリックになったか

イギリスがアイルランド支配に本腰を入れて取り組むのは、ヘンリー8世(テューダー朝2代目)以降である。

国内における集権化の推進と並行して、イギリスはアイルランド支配の実質化に向けて改革を進める。これに、元々の支配層や、元々の支配層の下で暮らしていた人々が反発し、16世紀のアイルランドは「反乱の世紀」といった趣になっていくのだ。

しかし、イギリスとアイルランドは、なぜ、そんなに激しくぶつからなければならなかったのだろうか。

その答えは、一般的には、宗教の違いに求められているように思う。こんな感じで(↓)。

全ヨーロッパでプロテスタント(宗教改革勢力)VS カトリック(対抗宗教改革勢力)の抗争が過熱する中、宗教改革の只中にあり、国教会体制を堅持しなければならないイギリスは、国内のカトリック勢力に対しても強行路線を取らざるを得なくなる。アイルランドがカトリックの地盤であり、対抗宗教改革側に肩入れする以上、アイルランドがイギリスの「敵」となり、制圧の対象となっていくのは、やむを得ないことだった。

しかし、アイルランドは、本当に、最初から「カトリック」(対抗宗教改革勢力としての)だったのだろうか。調べてみると、この点には、大いに疑問の余地がある。

アイルランドは5世紀以来のキリスト教地域で、独自のケルト教会を発達させていたことで知られる。12世紀の教会改革で司教区が整備され、修道院も独自のものから大陸由来の新たな修道院(シトー会)に代えられていたが、彼らが抱いていた信仰が、宗教改革以前の素朴なカトリックであったことは疑いない。

しかし、素朴なカトリックと「対抗宗教改革勢力としてのカトリック」は異なる。イギリスが踏み込んでくる前のアイルランドに、宗教改革の影響は及んでおらず、彼らが「対抗宗教改革勢力」となる機縁はなかった。

彼らがヨーロッパの対抗宗教改革勢力と結託し「プロテスタントの敵」に育っていくのは、16世紀後半なのだ(↓)。

1540年代にアルスター地方ティローンのオニール族のもとを訪れたイエズス会士はまったく冷淡な対応しか得られなかったという。こうした地域で対抗宗教改革派が地歩を築くようになるのは、統治改革に対する既存勢力の抵抗が激化する世紀後半になってからであった。カトリックの対抗宗教改革が、こうした改革抵抗勢力に、王権=プロテスタントに対する反抗の正当性を付与したのである。

山本正『図説 アイルランドの歴史』(河出書房新社、2017年)40-41頁

なるほど‥
つまり、こういうことだな?

アイルランドがカトリックであるのは、イギリスがアイルランドを同化・統合できなかったことの結果であり、その原因ではない、と。

イギリスは、アイルランドを同化・統合するのに失敗し、その結果、アイルランドは強固なカトリックに育っていった。

近代化の開始からその覇権が終盤に差しかかるまでの約300年間、イギリスの支配下で、カトリックのアイルランドは制圧され、差別され、とんでもない冷遇を受けていくのだが、忘れないようにしよう。

アイルランドを「カトリック=敵」に仕立て上げたのはイギリスである。その上で、イギリスは、アイルランドを差別・排除し続けて、連合王国の統合の礎としたのである。

②アイルランド王国の樹立:キルデア伯の反乱

1541年、イギリスでは「イギリス王をアイルランドの王と定める法律」が制定された。

わかりにくいが、要するに、以下の2点を定める法律だ。

  • 1️⃣アイルランドを王国にする
  • 2️⃣イギリス王がアイルランド王を兼ねる

イギリスは、それまでイギリス王を宗主(Lord)とする一種の植民地でしかなかったアイルランドを、「アイルランド王国」に格上げしたのである。

王国への「格上げ」の契機となったのは、イギリス王権による支配の強化に反発するゲール系旧支配層の反乱だった(キルデア伯の反乱:Kildare Rebellion 1534)。

反乱の鎮圧後、アイルランドを「王国」に格上げしたのは、一つには、アイルランドとイギリスをともに一人の国王を頂く同君王国とすることで、ゲール系を含むアイルランドを、敵ではなく、仲間として受容することを企図したからである。

したがって、もし、彼らの企図が成功し、真に仲間として受容・統合できていたなら、アイルランドは「カトリック」に転じることもなく、現代に至るまで、グレートブリテン連合王国の一員であり続けていただろう。

しかし、イギリスはその試みに失敗する。彼らの「改革」は、地域を混乱させ、不信感を招き、反乱を誘発。結局は、軍事侵攻という方法で、アイルランドを制圧するしかなくなってしまうのだ。

キルデア伯の側について戦ったのはこんな感じの人たちだったそうです(wiki)

③デズモンド伯の反乱と九年戦争

旧領主層による反乱のうちの最後かつ最大級の2つを(主に被害に着目して)紹介しよう。

【反乱の背景】

キルデア伯家の取り潰しの後、イギリスから派遣された歴代総督の下で行われた改革の基本は、「降伏と再授封(surrender and regrand)」。要するに、領主に領土を差し出させ、国王への服従を誓った者には改めて封土として授与する。これによって、独立勢力であった領主たちを、王の直臣に変身させるという政策だった。

もう一つの重要政策は彼らの武装解除である。自立した政治勢力であった彼らは、それぞれ兵力(私兵団)を有する軍閥だった。彼らの兵力を奪うため、新設の地方長官職に兵力と警察権(法と秩序の維持)を集中させ、領主らには(私兵の保持を禁止した上で)その補助者の役目を与える策が取られた。

ゲール系の領主たちは、こうした施策に頭から反対したわけではなく、か強固なゲール系の地盤であったアルスター地方やコナハト地方でも、有力氏族が「降伏と再授封」の申し出に応じ、地域の伯に任じられる例は少なくなかったという。

しかし、こうした改革が挫折し、結局は「反乱→鎮圧」つまり「征服」に終わったのは、改革によって既得権や名誉ある地位を奪われることになる層への配慮が乏しかったことに加え、歴代総督の改革方針が場当たり的で守備一貫せず、改革に応じた領主たちとの間にさえ、信頼関係を築くことができなかったためである

そんなイギリスの「改革」が、アイルランド社会をいかに動揺させ、イギリスがそれをいかに粗暴なやり方で抑えつけようとしたかは、反乱の鎮圧のために用いられた暴力の激しさと、その死者数でわかる。

1570年のアイルランド

【デズモンド伯の反乱】

一つ目はデズモンド伯の反乱(1579-83)。アイルランド南西部のマンスター地方で起きた反乱だ。

反乱鎮圧のために派遣されたイギリス軍は反乱軍を虐殺し、わざと、武器を持たない市民や女性、子供を攻撃し(恐怖に陥れるための意図的な作戦)、一帯の畑を焼き払った

スマーウィック(Smerwick)の戦い(1580)で虐殺された約600人を悼むモニュメント(1980年)

三年間に渡る焦土作戦の影響で約30000人が餓死(1581年11月-翌4月の推計)。戦争終結後も継続した飢餓・疫病によって、1589年までにマンスターの人口の約3分の1が死亡したと推定されている(wiki)。

【九年戦争(ティロン伯の反乱)】

続いて、今度は北部アルスター地方の反乱(ティロン伯の反乱)から始まり、アイルランド全土に拡大した九年戦争(1594-1603)では、10万人のアイルランド人が死亡した(wiki 兵士と民間人の合計。民間人のほとんどは飢餓によるものとされる)。

④征服完了と植民事業

デズモンド伯の反乱、九年戦争の鎮圧によって、イギリスは、アイルランドの征服を完了した。反乱に関与した領主の領土はすべて接収され、国王の直接支配下に置かれたからだ(↓)。

濃いサーモンの部分が1450年までのイギリス系支配部分、薄いサーモンが1603年です。九年戦争終了時(1603年)までに全土がイギリスの支配下に入っていることがわかります。(緑のストライプ部分の話は後で出てきます。なお、ストライプ部分の説明に「Catholic Land Ownership by the Act of 1552」とありますが「1652」の誤りです(the Act for the Settlement of Ireland))

国王は、接収した土地を、ブリテン島からの植民事業にあてた(↓左の地図の方が正確らしいが右の図の方が興味深いので併せてご覧ください(wiki))。

いわゆる北アイルランド問題もまた、この時期の植民事業が遠因を作ったといえる。

現在、9県のうちの6県がイギリス(連合王国)に、3県がアイルランド共和国に属しているアルスター地方は、元々は、強固なゲール系の地盤だった。だからこそ、イギリスは「イギリス化」を推し進めるべく、この地域で大規模な植民事業を実施した(アルスター植民)。

ピンクの部分が北アイルランド(連合王国の一部)、緑の部分がアイルランド共和国

アルスターには、まずは「植民請負人(Undertakers)」として選抜された者(主に資力のある中産階級)が土地の分与を受け、地主として入植し、のちに彼らの土地で働く農民(借地農)が入植した。アルスターに特異的なのは、この、借地農の入植者の存在である。

アルスター以外の地域の人口は、ごく少数の支配層(=イギリス系(国教徒))と圧倒的多数の被支配層(=アイルランド系(カトリック))によって構成されていた。支配層の地主と被支配層の借地農の間にはもちろん分断があったが、被支配層の庶民は同じアイルランド系のカトリックだったのである。

これに対し、アルスターには、ブリテン島(とくにスコットランド)から大量の借地農が入植したため、被支配層の中に、イギリス系(国教徒・非国教徒のプロテスタント)とアイルランド系(カトリック)が混じり合うことになる。この庶民の間の分断が、(のちの)激しい紛争の土壌となるのである。

ゲール系貴族の亡命---伯の逃亡(Flight of the Earls:1607)

九年戦争の終結からゲール系貴族の領土接収までには実は少し時間が空いている。九年戦争の終了は1603年3月30日(降伏)、ちょうどその直前の24日にエリザベス1世が死亡していた(エリザベスの死を、国王軍はまもなく知ったが、反乱軍のゲール系貴族らはまだ知らない)。国王の死という非常事態、国王軍の司令官を務めていた貴族(マウントジョイ卿)はすぐにでもロンドンに駆けつけたかった。そのために、とりあえず比較的寛容な条件を提示して、早期の降伏を促したのだ。

しかし、この「とりあえずの寛容策」はその場限りの効果しかもたらさない。結局、イギリス王室とゲール系貴族の間に融和は得られず、双方の疑心暗鬼が続き、4年後、貴族らの反乱を疑った国王は彼らをロンドンに召喚。貴族たちはロンドンに行く代わりに大陸ヨーロッパに亡命する(1607年:亡命の理由については諸説あるようだ。この筋書きは英語版wiki)。これが「伯の逃亡」(伯爵の逃亡とも)と呼ばれる事件で、実際に領土が接収されたのはこの後のことだった。

この「伯の逃亡」と翌年のオドハティの反乱(ゲール系の族長オドハティは九年戦争で一貫して王権側に立っていたにもかかわらず伯の逃亡後に不当な扱いを受けるようになったことに耐えられず蜂起)を機に、ジェイムズ1世の姿勢が硬化。大規模な植民事業(アルスター植民)によるアイルランドのイギリス化が目指されることになる。

といったことから、「伯の逃亡」は、ゲール系の旧秩序の終焉と完全なイギリス植民地時代の始まりを告げるアイルランド史上の最重要事件の一つと捉えられているようです。

⑤アメリカ植民へ

16世紀後半に活躍した有名人(イギリス人)に、ウォルター・ローリー(1554-1618)という人がいる。

こんな絵が描かれるほどの有名人。
The Boyhood of Raleigh(ローリーの少年時代)By John Everett Millais(1870)

彼は、デズモンド伯の反乱を鎮圧した功績によりマンスター地方の土地を与えられ、故郷(デヴォン)の人々を植民させる試みを行った。

エリザベス1世の寵臣として出世を果たしたローリーは、女王に北米植民を進言し、女王の勅許を得て、自ら出資者となって今度は北米にデヴォンの人々を入植させる計画を実行する(1586年)。

彼が開拓した地につけた名前が、ヴァージニア。

アイルランドの統合に失敗し、統合をあきらめ、植民地支配の対象としたイギリス。イギリスは、その延長線上で、そのメンタリティのまま、世界に進出していった。

「イギリスのすべて」を知るために、アイルランドがいかに重要か、ご納得いただけるだろうか。

‥‥イギリス帝国の起源と海外への膨張の契機は、ブリテン島の西に隣接するアイルランド・アルスター地域(現在の北アイルランド)に対する、イングランドとスコットランドからの入植・定住が本格化した17世紀前半に求めるのが妥当だろう。天候不順、不作、食糧不足などによる「17世紀の全般的危機」の不況下で、新たな活路と土地を求めて、アイリッシュ海によってブリテン島と隔てられたアルスターには、1641年までに約3万人がスコットランドから入植した。彼らスコットランド人入植者たちは、中世末期以来、現地において支配的な地位を占めていたイングランドからの入植者との共存をめざした。彼ら入植者の間では、現地のカトリック勢力に対抗して「ブリティッシュ」(the British)という共通の意識とアイデンティティが育まれた。

こうしたブリテン島からアイルランドを経由した西方への勢力拡張は、大西洋世界のアメリカ大陸、西インド諸島への進出につながった。‥‥ アイルランド島への植民活動は、のちの大西洋をまたいだ海外進出の先駆けとなり、アイルランドはブリテン島から海外に出ていく諸活動の実験場になったのである。

秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書、2012年)24頁

(次回に続きます)

 新大陸でのイギリスについては、こちらをご覧ください
カテゴリー
社会のしくみ

イギリスのすべて① 前史と家族システム

目次

はじめに

この記事は、エマニュエル・トッド入門講座で連載中の「トッド後の近代史」のスピンオフである。事情を説明させていただこう。

同連載をやってみて分かったのは、近代以降のイギリスの行動は基本的に現代のアメリカと同じであるということだった。

イギリスとアメリカは(大体)同じ家族システムだ。だから、彼らの行動が似たり寄ったりでもおかしくはない。とはいえ、やはり少し釈然としない。

アメリカの歴史が250年として、イギリスは1000年の歴史を持つ「歴史と伝統の国」である。大陸との長い交流もあるし、ローマ帝国の遺産も、ノルマン貴族から受け継いだ直系家族の伝統もある。それで、何となくうまくやってきたんだと、トッドも言っていたではないか。

「いまさら、実はアメリカと同じでしたなんていわれても、ねえ‥‥」

‥‥とは思ったが、だからといってすぐに「イギリスのすべて」に取り組もうなどと考えたわけではなかった。先にやりたいこともあるし、イギリス史なんか始めたら、大変なことになるのは目に見えている。

それでも書かずにすまなくなったのは、重大な秘密を発見してしまったからである。

ちょっと、地図をご覧ください。

世界史の窓」からお借りしました

地球の片隅に、ブリテン諸島(ブリテン島とアイルランド島)がある。イギリスはかつてブリテン諸島全土を「連合王国」の領土として支配していたが、アイルランド島の大部分は現在は別の国(アイルランド共和国)になっている。

おかしいと思いませんか。かつて帝国(British Empire)といわれる広大な領土を支配したイギリス。しかし、そのイギリスは、実際には、このちっぽけな島を(真に)一つに統合することすらできなかったのだ。

「そんな国は、「帝国」の名に値しないよなあ‥‥」

そう思って、イギリスとアイルランドの歴史を調べ始めた。私は、イギリスがアイルランドにしてきたことを何となくは知っていたが、改めて調べてみると、その「ひどさ」加減は、私の想定をはるかに超えていた。

それで、気がついたのだ。

そう気がついて、改めてイギリス史を眺めると、あの事件にこの事件、私にとって何となく謎だったことのすべてが、きれいに理解できてしまったのである。

現代のこの世界の基礎を作ったのは間違いなくイギリスである。議会制民主主義や産業革命の祖として大いに美化されているその国は、本当はどういう成り立ちの国だったのか。

ぜひぜひ、共有させてください。

アメリカの統合およびデモクラシーにとっての先住民・黒人奴隷の意味については、こちらをご覧ください。

前史

イギリスのすべてを理解するには、ブリテン諸島の最初の方の歴史を知っていることが割と大切である。

最初の方の歴史のあり方が、各国の地域的区分、家族システムの配置、宗教の浸透などの基本的条件を決めているからだ。

しかし、この最初の方こそはあまり知られていない部分だと思うので、紀元前10000年から概略を追っていきたい。

1️⃣ブリテン諸島の形成(紀元前9000-8000)

氷期の終了(約1万年前)による海水面の上昇でブリテン諸島が形成される(それ以前はスカンジナビアと連続する半島だった)。

この頃から住んでいた先住の人々をのちのギリシャ人・ローマ人がケルト人と呼んだ(ケルトイ・ケルタエ・ガリなど)。

彼らの家族システムはもちろん原初的核家族である。

2️⃣ローマの侵攻(紀元前後)

紀元前55年に一度カエサルが攻め込んできた後、紀元43年に本格的な侵攻が始まる。

下の地図の白っぽい部分(スコットランド南部、イングランド、ウェールズ)が属州としてローマ帝国の統治下に入った。一応409年にローマ軍団の撤退とともに属州時代が終わったとされる(詳細は不明らしい)が、それ以前の4世紀頃からローマ帝国の支配力は薄らいでいた模様。

なお、この時期はゲルマン人の流入以前なので、ローマ属州(ブリタニア)に暮らしていたのは先住の人々(「ケルト人」)である。

https://www.atpress.ne.jp/news/244875

属州の支配を通じて、ローマ帝国の家族システムがブリテン島にもたらされた可能性はある。しかし、住民であったケルト人はゲルマン人に駆逐されたので(5️⃣)、その影響が残っているとは考えられない(後述)。

ハドリアヌスの長城

3️⃣ゲルマン人の流入(5世紀)

ゲルマン民族大移動で、ブリテン諸島にはアングロ・サクソン人(アングル族、サクソン族、ジュート族などの総称)がやってきて、先住ケルト人の民族・文化を駆逐した。

いうまでもないかもしれないが、アングロ・サクソン人の家族システムも、原初的核家族だ。

4️⃣キリスト教の浸透(5-6世紀)

ブリテン諸島でキリスト教の布教が始まるのはローマが撤退した後。ブリテン島より、アイルランド島への浸透の方が早かった。

Gallarus Oratory(初期キリスト教の礼拝堂)

アイルランドには5世紀にまずパラディウス、その後継者として後に聖人となるパトリックがやってきて本格的に布教した。

イングランドには597年にアウグスティヌスが50名の伝道団を率いてやってきて、当時ケント王国の都であったカンタベリーに教会を築いた(聖アウグスティヌスは初代カンタベリー大司教である)。

5️⃣キリスト教の権威を借りた国家統一:エドガー王の戴冠(973年)

7つの部族国家(七王国)にわかれていたアングロ・サクソン諸部族は、歴代のウェセックス王国の王によって次第に統一されていった。

特に功労者というわけではないようだが、情勢に恵まれ、イングランド統一を完成させることになったのがエドガー王(在位959-975)だ。

エドガー(Detail of miniature from the New Minster Charter, 966)

エドガー王は、バースで行われた戴冠式(973年)で、聖別の儀式として、カンタベリー大司教による塗油の礼を受けている。

フランクの王クローヴィスがキリスト教の権威を借りて統一国家を形成し(481年)、分裂後の東フランクではオットー1世がローマ皇帝の戴冠を受けて神聖ローマ帝国を始め(962年)、西フランク(フランス)ではユーグ・カペーがやはり塗油の儀式とともに戴冠してフランスを誕生させたように(987年)、エドガーもキリスト教の権威を借り受けることでイングランド統一を完成させたのだ。

クローヴィスやカペー朝についてはこちらをご覧ください

6️⃣ヨーロッパのイングランド王国へ:ノルマン・コンクエスト(1066年)

しかし、このウェセックス王朝は安定しない。息子(エゼルレッド2世)の代には再びノルマン人(の中のデーン人)の襲来を受けて、デンマーク王の血統を王位に招き入れ(カヌート王:1016-35)、ウェセックス家の血統に復帰しても(エドワード証聖王1042-66)、その死後には王位継承をめぐって争いが起きる(エドワードの父方のウェセックス家 VS 母方のノルマンディ公一族)。

結局、この最後の王位継承争いを武力で制したノルマンディー公のギヨームが、イングランド国王ウィリアム1世となり、現在に連なるイングランド王国が誕生するのである。

ところで、このノルマンディー公ギヨームなる人物は一体誰かというと、フランスのノルマンディー地方を治める貴族である。

彼はフランス生まれのフランス育ち、フランス語を話すフランス人で、有力なフランス貴族なのだ。

この人がギヨーム(ウィリアム1世)(バイユーのタペストリーより)

ノルマン・コンクエストについては、日本における大化の改新みたいなものと考えると、その重要性がわかりやすい。

大化の改新では、古くからの有力氏族である蘇我氏が倒され、律令制に代表される新たな国家体制への道が開かれた。

ノルマン・コンクエストでは、アングロ・サクソンの王が倒され、フランス貴族のノルマン人が王位につくことで、イギリスは、当時の先進地域であった大陸文化に接近。ヨーロッパの一角を占める国となったのだ。

以後、イギリスの国王は、このノルマン朝を起点として1世、2世と数える慣行である(近藤・43頁)

先日のチャールズ3世に至るまで、戴冠式も、ウィリアム1世のときのやり方を基本的に踏襲している。

ノルマン朝の成立こそが、新生イングランド王国の誕生といえるゆえんである。

7️⃣ノルマン・コンクエスト後のブリテン諸島地図

以下はノルマン・コンクエストの地図である。

ウィリアム率いるノルマン軍は、フランスのノルマンディーからやってきて、オックスフォードの辺りを拠点として進軍し、最終的には緑色の部分を除く全てのエリアを支配下に収める。

ノルマンディーとイングランドが同じ支配者を戴く一方で、この時点では、スコットランド、ウェールズの一部、アイルランドには支配は及んでいない。

なお、ノルマン・コンクエストの時点で、すでにフランス貴族の間では直系家族の生成が始まっていた(後述)。萌芽的な段階の直系家族の混入が、イギリスの家族システムをどのように変えていくのかは、後でじっくり検討しよう。

こちらからお借りしました

8️⃣百年戦争で島国に(1339-1453)

トッドはイギリスについて「島国だから」ということをよく言う。国民意識の強さなどについては、日本になぞらえたりすることもよくある。

しかし、住民のほぼ全員が原初的核家族であり、内在的な権威が発生していない段階では、島だからといって国家意識が強化されることはないと思われる。まったくの狩猟採集民にとっては、島も大陸も同じことではないだろうか。

この時代、まだほぼ狩猟採集民(のメンタリティ)であったイギリス人に、「島国」の意識を与える契機となったのは、百年戦争(1339-1453)である。

話の出発点はやはりノルマン・コンクエスト。すでに述べたように、イギリス王となったウィリアム1世は有力なフランス貴族だった。

ギヨームは、イングランドの国王ウィリアムとなった後も、フランス語を話し、イングランドに特別な用事(「反乱の鎮圧」だ)がない限りフランスで生活した。彼らは、イングランド国王である前に、フランス貴族だったのだ。

有力なフランス貴族であるとはどういうことか。それは、彼らが、フランス国王を含むフランス諸侯たちと勢力を争う立場にあったということ、そして、その勢力争いこそが、彼らの主要な関心事であったということである。

国王にフランス貴族を戴いたおかげで、イギリスは、フランスの戦国時代に巻き込まれていく。

当時、フランス国王(カペー朝)の権力基盤は弱体で、直接の支配権が及んでいたのはパリ周辺のごく狭い領域だけだった(↓上図の青い部分)。カペー朝は勢力の拡大に努めるが、それでも、全土の支配には遠く及ばなかった。

他方、イングランド国王(プランタジネット朝)の方は、相続や婚姻を通じて、一時は「アンジュー帝国」と呼ばれるほどの広大の領域を我が物とした(ヘンリー2世の時代(1154ー89)↓下図の赤系の部分)。

歴代フランス国王とイングランド国王は、フランス貴族同士として、どこかで雌雄を決しなければならない。そういう状況だったのだ。

百年戦争には「第一次百年戦争」ともいわれる前史がある。ヘンリー2世の生前に始まった「アンジュー帝国」の相続をめぐる争いで、ヘンリー2世本人、その息子たち、「帝国」の領地を狙うフランス国王を中心に、すったもんだがあって、イングランド王国のプランタジネット家は、南アキテーヌ(ガスコーニュ伯領↑南西の端っこ)以外のフランスの領土をほぼ全て奪われることになった(パリ条約(1259))。

この後、フランスでの栄華を諦めきれないプランタジネット家のイングランド王が、フランスの王位継承権を主張したことで起きたのが、本体の百年戦争だ。

仔細はすべて省略するが、いろいろあった末、最終的に勝利したのはフランス国王である。その結果、イングランド国王(敗戦時はヘンリー6世)は、フランス貴族の地位を追われ、「イングランド王国の王」を本業としていくしかなくなるのである。

この百年戦争こそが、統一国家としてのイギリス、そしてフランスを作った、というのが歴史学者の間の通説である。

イングランドのアンジュ朝〔プランタジネット朝〕とフランス(カペー朝、ヴァロア朝)、また各領邦、フランドル、ブルゴーニュ、スコットランド、スペイン、そして教皇庁などが合従連衡し、からみあっていた。城戸毅は「シャム双生児」のように、もつれあいからみあった複数の政体を「いわば一刀両断に切り離す外科的大手術の働きをしたのが百年戦争だった」という。双生児よりも、五つ子、六つ子がからみあう紛争といったほうがイメージしやすいかもしれない。何人かの子はまもなく政体としての生命を失い、やがてイングランドでもフランスでも、政治社会は近世的でナショナルな秩序へと移行するのである。

近藤・62-63頁

純然たる原初的核家族のイギリス、そして一部に直系家族が育まれていたものの、平等主義核家族をアイデンティティの中核としていくフランスは、双子のきょうだいとの激しい争いと別れを経験することで初めて、国家と国民意識を形成することができたのである。

9️⃣バラ戦争:テューダー朝の成立(1485)

百年戦争後の王位継承がうまくいくかどうかは、この時期のイギリス王室における直系家族の確立度合いを測るリトマス試験紙のようなものである。

百年戦争に敗北したときの国王はヘンリー6世。彼は健康上の問題を抱えていたが(遺伝性の精神疾患。断続的に発病したらしい)、ちょうど1453年に生まれた王太子がいた。

戦乱の世が終わり、今こそ、国をしっかり建て直すべきときである。幸いにも、王と王妃の間には男子が生まれ、その血統に問題はない。国王が錯乱するなら摂政でも立てて、王太子が成人するまで待てばよいではないか。

もし、イングランドの王侯貴族の間に本物の直系家族システムが成立していたなら、彼らは必ずそう考えるはずである。

しかし、実際には、イングランド王族の間ではそれまでも王位継承争いが絶えなかったし、今回も、血統でも実力でも引けを取らないと考える勢力が黙っていなかった。

ともに、百年戦争を始めたエドワード3世の血を引く、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の人々は、王位をめぐって、30年もの間、戦闘を繰り広げたのだ(バラ戦争 1455-1485)。

王位をめぐって当然のように武力闘争が始まり、30年も争って、双方ヘトヘトにならなければ王朝が定まらなかったということほど、彼らの「直系家族」の実態を示すものはない、と私は思う。

後でまとめて検討するが、ノルマン・コンクエスト(1066年)で持ち込まれた直系家族の萌芽は、400年を経ても、定着し、安定した秩序の形成に貢献したわけではなかったのだ。 

ヘンリー7世
テューダー・ローズ

30年の間、王位が両家を行き来した後、最後の戦いを制したのは、ランカスター家のヘンリー・テューダー(ヘンリー7世)。

ヘンリー7世は、王位を安定させるべく、敵方のヨーク家から妃を取り(エリザベス・オブ・ヨーク)、ランカスターの赤いバラとヨークの白いバラを組み合わせたテューダー・ローズを家紋に採用したことで知られる。

彼はまた、戴冠後もしばらくは続いた王位僭称者による反乱を粛々と処理し、争いの種を除去することに努めた。

イギリスは、このテューダー朝の下で、近代国家の確立に向かう歩みを開始する。しかし、紅白のバラを掲げ、敵を皆殺しにしても、それで権威の軸が発生するわけではなく、この時期に至ってもまだ、イギリスは原初的核家族のままなのだ。

「権威なし」「平等なし」のままで、近代に立ち向かうイギリス。ここからが、本編の対象である(次回)。

ブリテン諸島の家族システム

百年戦争で大陸から切り離されたテューダー朝のイギリスは、ヨーロッパの中のイギリスとしてデビューを果たすとともに、ブリテン諸島内部での活動も活発化させる。スコットランドやアイルランドとの接点が大きくなるのも、ここからである。

イギリスの近代を隈なく理解するため、イギリスを含むブリテン諸島各地の家族システムを確認しておこう。

(1)イギリス(イングランド)

世界中のすべての地域と同じく、ブリテン諸島の家族システムも原初的核家族から出発する。

①ローマ属州時代の痕跡はゼロ

ブリテン島は紀元前後から400年程度に渡りローマ帝国の属州となるが、イギリスの家族システムにこの時代の痕跡は残っていない

トッドは2つの点に言及している。

・帝国時代のローマ(とくに西部)は版図となったヨーロッパの未分化性の影響で家族システムを退化させ(=父系制的・共同体家族的な色彩を失い)、ある種の核家族(平等主義核家族)となっていた(この点についてはこちら)。

・属州時代にブリテン島に居住していた「ケルト人」は、アングロ・サクソン人の侵略の際に駆逐されていること(3️⃣)。

そういうわけで、イギリスの家族システムには、ローマに由来する父系制・共同体性はもちろん、平等主義的な色彩すら、少しも残っていないということになる。

②ノルマン貴族への反動→絶対核家族へ

他方、ノルマン人が支配者となったことは(6️⃣)、イギリスの家族システムに本質的な変化をもたらした。

トッドによると、ヨーロッパにおける直系家族の発祥は、北フランスの貴族階級(↓)。ノルマンディーを領有するフランス貴族のノルマン人はそのど真ん中の人たちだ。

フランク王国の歴史をたどるなら、長子相続という概念の出現の年代を、現実的正確さをもって決定すること‥‥ができる。メロヴィング朝からカロリング朝へと時代が変わっても、留意することができるのは、フランク人の相続と親族のシステムの連続性にほかならない。‥ クローヴィスの子孫にとっても、シャルルマーニュの子孫にとっても、王国を分割するというのが規範に適ったことである。長子への遺産相続の規則が出現し、盛行するするようになるのは、10世紀末になってからにすぎない。‥‥ 西フランクにおいては、男子長子相続の出現は、新たな王朝、カペー朝の出現、そしてとりわけ、フランス王国の安定的形態の出現に対応している。‥‥ ユーグ・カペー〔フランス・カペー朝の創始者〕の国王選出ならびにそのあとを継いだ彼の子孫の王位継承の仕方が、フランスにおける長子相続原則の定着の画期をなしたと考えても、単純化しすぎたことにはなるまい。

さてそこで、長子相続はヨーロッパの社会的再編の歯車になって行く。カロリング帝国の崩壊とともに、全般的な階層序列的社会形成が進行した。宗主としての支配と封臣としての従属という概念は、上から下へと連なる従属関係、貴族社会の縦型で不平等主義的な形式化を確立していくのである。

下 597頁

したがって、「イングランドでは、長子相続原則の起源がノルマン人、すなわちフランス人であるとすることにはほとんど問題がない」(下 606頁)。

しかし、彼らがイングランドの支配者になって、イングランドに直系家族が根付いたかといえば、そうではない。

パリ周辺のフランスと同様、イングランドでは、早くから大規模農業経営が発達していた(ローマの遺産である)。

こうした地域、こうした農地制度の中に、直系家族は定着することができなかった。直系家族には機能上の正当化の根拠がなかったからである。‥‥土地を耕す労働者‥‥の小さな家と庭は、その相続に関して、不分割の規則が確立されるほどの十分な争奪の的となるには、小さすぎたのである。

家族システムの起源I 下 615頁

そういうわけで、ノルマン貴族(彼らがイギリスの貴族になる)が持ち込んだ長子相続の慣習は、土地持ちの富農(独立自営農民だ)の間にのみ広がる。しかし、彼らはやがて消滅する運命だ。

貴族以外のイギリス人は、逆に、上から押し付けられた直系家族的観念に反発し、「権威なし・平等なし(自由・非平等)」の絶対核家族システムを生み出していくのだ。

イギリスにおける絶対核家族の生成を、トッドは「遺言の自由」が確立される過程に見出している。

‥‥中世の終わり頃には、家族というものが己の法的自由を回復しようと努力していたことが感知される。ヘンリー8世(在位1509-1547年)から、遺言の自由が肯定されるようになる。1540年には‥‥[封土の]三分の二とそれ以外の土地全部を自由に処分することが可能となる。革命下にあって、‥‥[封土の観念は]明らかに時代遅れのものとなり、長期議会は1645年に遺言の完全な自由を確立する。1645年はクロムウェルが国王軍を粉砕するために新型軍(New Model Army)を創設した年である。したがって、遺言の自由は、比較的近年の歴史の産物なのである。

下 619頁

なお、法的に遺言の自由が確立しても、社会の上層階級は、限嗣相続(entails:相続方法を限定する制度)を慣行として確立し、長子相続の規則を存続させていた。トッドはつぎのようにいう。

パリ盆地のフランスの特徴をなす民衆と貴族の家族形態の対立が、より目立たない形で、イングランドにも見出されるわけである。この二つのケースには、分離的反動の観念が関与的である。

イングランドの核家族における個人主義的急進性は、まさしく世代を分離することに固執するが、ここに、貴族が担ってきた直系家族の観念に対する反動を認めることは、法外に大胆すぎることとは思われない。

下 620頁

ともかく、このようにして、イングランドには絶対核家族が誕生する。その生成期は、トッドの見立てによれば、1550-1650年の100年間である(『我々はどこから来て、今どこにいるのか』上・318頁)。

③王侯貴族の直系家族ー内実は?

ところで、トッドは、「貴族の長子相続制は、イングランドにおいては少なくとも19世紀末まで生き延びたことを忘れてはならない」として、イングランド社会の上層部(王侯貴族)の家族システムが直系家族であることを示唆する。

国王が分割相続を履行していては国はすぐにバラバラになってしまう。現にそうなっていない以上、彼らの間で、土地の不分割(一括相続)が規範となっていることには、疑問の余地はないといえる。

しかし、それは本当に、われわれの知る「直系家族」と同じものなのだろうか。

ノルマン・コンクエスト後のイギリス王室の歴史を見ても、王位(や当初は領土)の継承が安定しているようにはとても見えない。

ウィリアム1世の後、ノルマンディー公領とイングランド王国は別々に相続される(長子のロベール2世がノルマンディー、次男のウィリアム2世がイングランド王国)。ウィリアム2世の死後はその弟のヘンリー1世が跡を継ぎ、王位継承を主張するロベール2世(フランス王)との争いを制してノルマンディーも手にいれる。

ヘンリーが亡くなると王位継承をめぐって内戦となり、ノルマン朝は終焉。内戦を勝ち抜いたマティルダ(ヘンリー1世の娘で神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の妃。ハインリヒと死別後フランス・アンジュー伯(プランタジネット家)と再婚)の息子、ヘンリ2世がプランタジネット朝(アンジュー朝ともいう)を開く。

ヘンリー2世は、そういうわけで、イングランド王国とアンジュー伯領と自身の妃が持ってきたアキテーヌ公領を継承するが、妃と不仲になったせいで妃や息子たちに反乱を起こされ、フランス王の介入もあってフランスの領土を失う。

もうこの辺でいいかなと思うが、ヘンリー2世の死後もリチャード1世(在位1189-1199)と弟のジョン(在位1199-1216)が争い、その争いに乗じてフランス王がノルマンディーを奪い、などいろいろあって、シェイクスピアの世界に突入。百年戦争(1337-1443)からバラ戦争に続くのだ。

百年戦争の後のバラ戦争を経てテューダー朝が始まった後の歴代国王の動きも不審である。

ヘンリー8世は、ローマ・カトリック教会から自立してイギリス国教会を開くが、跡を継いだ息子のエドワード6世が未婚のまま早逝したのでメアリ(ヘンリー8世の娘でエドワード6世の異母姉)が継ぐ。そこまではよいとしても、彼女はバリバリのカトリックで、国教会体制を大混乱に陥れるのだ。

これ以上は書かないが(本編で部分的に扱う)、この後も、王位継承そのものはそれなりのルールに従ってなされるものの、王位継承者(つまり歴代国王)の間の信仰は一貫しない。プロテスタント(国教徒)だったり、一応国王なので国教徒として振る舞うものの、本心はカトリックだったり。そして、彼らの信仰および宗教政策に対する疑心暗鬼が、この時期の波乱を増幅する大きな要素となっていくのだ。

「こんなの直系家族じゃない!」

そう思いますよね?

直系家族の縦型のつながりは、土地の分割を防ぐためだけのものではない。家系の永続のため、親は家督を継ぐ長子に、土地とともに、家長であるに相応しい資質を与えようと努める。読み書きや武術、必要な教育を授けるとともに、家訓やら、家長の務めやらの規範を教え込み、代々に蓄積した知恵を確実に伝えて、後代の繁栄を期するのだ。そしてもちろん、次子以下に、長子と協力して一家の繁栄に努めるべく含ませることも忘れてはならない。

それなのに、彼らときたら‥‥

彼らは、王の直系の子供を確実に得るための方策を取ろうともせず(養子も取りません)、王位を兄弟姉妹の間で受け継いだり、遠縁の親戚筋に移行させたりする。そしてもちろん、家系をまもるための教育は行き届いていない。そんなことだから、争いも絶えないし、歴代の王の価値観だってバラバラだ。王室は、安定の礎どころか、混乱の発火点なのである。

結局、こういうことではないだろうか。

ウィリアム1世率いるノルマン貴族は、確かに、イングランドに直系家族を持ち込んだ(1066年)。しかし、それはカペー朝(987-1328)のごく初期、生まれたばかりの萌芽的なものだった。

その萌芽は、大陸では、ドイツやフランス南西部に定着して庶民まで行き渡り、確固たる直系家族システムに成長していった。

しかし、イングランドでは、その「萌芽」にすぎない直系家族が、「暴力的に、しかも時期尚早で導入された結果、それは挫折することになり、その挫折が絶対核家族の発明へとつながっていく」(家族システムの起源・下 601頁)。

そして、貴族の間に一応保持された直系家族の方も、萌芽的な形態のまま推移したか、あるいは、土地の価値観に従って、どちらかといえば退化に向かった。

いずれにせよ、それは、ドイツやスウェーデン、日本に見られる、完成された、規律正しい直系家族とは似て非なるものと思われる。

(2)ウェールズ

トッドは、ウェールズを『新ヨーロッパ大全』(I 64頁)では直系家族に分類していたが、『家族システムの起源 I』(下 546頁)で修正している。

下の地図は、複合世帯(夫婦とその子供たちのセット以上のものを含む世帯)の割合が相対的に高い地域を表した地図である。ブリテン諸島では、スコットランド北部からウェールズ、コーンウォールに至るブリテン島の西側周縁部、アイルランドの周縁部にその地域がある。

 

新ヨーロッパ大全I 54頁

当初のトッドは、このデータによって「直系家族」と判定したのだが、家族システムの変遷に関する研究を経て修正され、ウェールズ核家族(絶対核家族以前の原初的核家族に近い形態)と判断するに至った。彼の言を引用しておこう。

当時まだル・プレイの聖三位一体の虜となっていた私は『新ヨーロッパ大全』の中で、それは直系家族の痕跡であると断言したが、それは誤りであり、そのように断言すべきではない。一時的同居の概念と末子による家の受け継ぎの概念を援用するなら、これはやや漠然とした核家族システムであって、発展サイクルのいくつかの局面の中でいくつかの複合世帯が出現することになるのだ、と考えることができるのである。ウェールズの家族はそのように考える必要がある‥(略)‥。

下 546頁

(3)スコットランド

ところで、ウェールズに関する上記引用の「‥(略)‥」の部分には、次のように書かれている。 

が、西スコットランドの家族はおそらくこのように考えてはいけない。

下 546頁

スコットランドについては、納得のいく(十分に質の高い)データがないらしい。それを認めた上で、トッドは、スコットランド西部を直系家族に分類している。

スコットランドの文化の「スタイル」は宗教の領域においてイングランドの文化より権威的であり、より教育にこだわるところから、まさに潜在的な直系家族を喚起している。

下 546頁

宗教改革の時点では、すでに明確に直系家族の「スタイル」が現れているので、スコットランドの場合も、イギリスと同じ頃(1550-1650)か、もしかするとそれより少し先行して直系家族の生成時期を迎えていたのではないかと思う。

(4)アイルランド

現在のアイルランド島については、その半分程度が直系家族であるということで問題はない。

しかし、『家族システムの起源 I』は、これに非常に重要な情報を追加している。アイルランドの半分程度が直系家族であるというのは事実だが、アイルランドに直系家族が出現したのはごく最近(19世紀後半)のことなのだ。

それ以前の家族システムは、私が「原初的核家族」と呼んでいるものそのものである。

大飢饉以前の1837年前後には、この直系家族はまだ存在していなかった。土地の再分割が規則となっており、地域によって微妙な差異があり、たいていの場合は息子を優遇するが、娘を優遇する場合もあった。世帯の単純性、末子の役割、核家族を取り囲む親族関係の重要性といった、標準的な古代的(アルカイック)システムのあらゆる特徴が、当時のイギリス議会の報告書の中に言及されていた。

下 540頁

加えて、近年の直系家族にも、典型的な形態とは異なる特徴がいろいろ確認されているらしい。長男の特権的地位がそれほど明確でないとか、母親の影響力が強いとか、直系家族としては世代間の同居率が低いとか。

トッドの見立てによると、これらの非典型的要素の存在は、アイルランドの直系家族がごく新しいものであることと関連する。また、同居率の低さは、独身者が多く、結婚が遅いことの結果と見られる。

(5)まとめ

以上をまとめるとこうなる。

1️⃣1066年以前、ブリテン諸島全土は、未分化な家族システム(原初的核家族)で覆われていた。

2️⃣1066年にフランス貴族のノルマン人がやってきて萌芽的な直系家族をイングランドに持ち込み、オックスフォード周辺を拠点に「上からの押し付け」を行う構図となった。直系家族は根付かず、反動として絶対核家族を生んだ。

3️⃣絶対核家族は、イングランドの支配的な家族システムとなり、辺境地域に残る原初的核家族と併せて、核家族ブリテン諸島を支配した。

4️⃣例外的に3箇所の直系家族(的)領域がある。

  1. イングランドおよび連合王国の王侯貴族にはノルマン貴族由来の直系家族が残る。ただし萌芽的ないし退化したバージョンで、社会に規律を与える力は弱い。
  2. 11世紀から16世紀の間のどこかで、スコットランド西部に直系家族が生成している。詳細は不明だが、本物の直系家族と見られる。
  3. 19世紀後半の危機の中で、アイルランドに一種の直系家族が成立している。複合世帯の増加はおそらく危機的状況への対処であり、新しいものであるため、家族内の権威関係には典型的な直系家族とは異なる点がある。

(次回に続きます)