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イランの民主化
(翻訳記事付)

目次


主要メディアを通して見るイランは、イスラム原理主義で女性を抑圧する前近代的な国家である。しかし、トッドは事あるごとに、中東で最も自由主義的で近代化が進んだ国はイランであると指摘している。

「本当のことを知りたいなー」と思っていたら、ほどよい記事が見つかった。

まずトッドによるイラン情報の骨子を確認し、それから記事をご紹介しよう。

イランの家族システム

イランの家族システムは基本的には内婚制共同体家族なのだが、アラブ世界とは違いがあるという。

 同じイスラム圏でも、イラン・トルコとアラブ世界には大きな違いがあります。その違いは、家族構造の違いとしても現れています。

 トルコ西部は、かなり核家族的な地域です。それ以外の部分は内婚制共同体家族の地域ですが、それでも内婚率はそれほど高くありません。また、イラン中央部では世帯人数が少なく、核家族の痕跡が確認できます。イラン北部のカスピ海沿岸部には、女性の地位が相対的に高い地域があります。‥‥

 ですから、女性たちの被るヴェールという見た目ばかりに気を取られてはいけません、同じイスラム圏でも、シーア派のイランは、父権性がより弱く、女性の地位がより高く、より核家族的で、より個人主義的なのです。この点を西洋は見ようとしません。ここが見えていないから、サウジアラビアに同調し、イランに対抗するというような、人類学的にはまったく不自然なことになってしまうのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ−21世紀の新・国家論』(文春新書 2016年)136-138頁

人口動態

イランが中東で「最も」自由主義的で近代的であるということは、実際上は「トルコより」自由主義的で近代的であるということを意味する。

2020年のデータではトルコの出生率は2.04人、イランは2.14人で、両者はあまり変わらない。というかトルコの方が低い(出生率と近代化の関係についてはこちらをご覧ください)。

しかし、トルコの出生率が人口の再生産ラインである2.1を初めて下回ったのが2016年であったのに対し、イランは2000年であった。

人口動態から見た近代化は、イランの方がかなり先行していたのである。 

『文明の接近』158頁

トッドによると、トルコにおける出生率の足踏みをもたらしたのは、トルコ国内の人類学的多様性である。イラン全土の人口動態が比較的同質的であるのに対し、トルコ国内にははっきりした分裂があって、別の国かというほど性格の異なる地域があるのだ。

トルコでは、クルディスタンの出生率は、2001年から2003年にかけて、未だに女性一人当り子供4.2に達していた。それに対して、イスタンブールとトルコ中央部という先進地域では、出生率は1.8なのである。これほど著しい人口学的・社会文化的亀裂を持った国を、一個の国民国家、「一にして不可分の」トルコ共和国、と言うことができるだろうか。

『文明の接近』165頁

政治的近代性

私たちが何となく持っているトルコ、イランのイメージは、トルコは非宗教化された近代民主主義国家だが、イランは宗教的で権威主義的な国だ、というものだろう。

しかしながら、出生率の全国的ならびに地方ごとの指標は、イランはより近代的で、より同質的で、より個人主義的であることを明瞭に示唆している。しかし実は、われわれがこれまで見ようとしなかった政治的な指標も、同じことを訴えていたのである。

『文明の接近』166-167頁

イランの方がより近代的であることを示す政治的指標とは何か、
というと‥

トルコの政体は、民族主義的傾向の軍事クーデタから生まれたものであり、いささかでも逸脱の兆しがあれば厳重に対処する用意のある軍の監視下に、いまでも生き続けている。トルコの非宗教性は、個々人の自由な選択という観念と同一視することはできない。イランでは政体は、フランス、イングランド、アメリカ合衆国と同様に、本物の革命から生まれたのであり、ここでは自律的な要因としての軍は存在しない。

トッドはまた、政治的意思決定の多元性にも言及している。

この国には軍が二つある。一つは正規軍、もう一つは革命から生まれた革命防衛隊である。この二重化が実際上は政治の自律性を保障している。選挙はたしかに絶対的に自由とは言いがたい。どんな者でも立候補することができるわけではないのだから。しかしイラン・イスラーム共和国では、いつでも投票が行なわれ、多数派の交替も頻繁に起こる。不完全な民主主義ではあろうが、将来大いに見込みのある民主主義なのだ。それというのも、この民主主義は、上から下された計画の表現ではなく、住民の総体の、異議申し立てを好み政治的多元主義を好む気質の表現だからである。

167頁

ふーん、そうですか。でも‥‥

「じゃあ、ヒジャブをめぐる最近の騒ぎは何なの?」
「女性を抑圧する権威主義体制なんでしょ?」

と言いたくなりますよね?

紹介記事要旨

そこでお読みいただきたいのが下の記事である。箇条書きで要旨を付けておく。私としては「まあ、そうだろうな」と思えることばかりで、ニュースを見る度に感じていたモヤモヤが払拭された。

  • イランでは数年前から「ヒジャブなし」が普通になっていた。
  • ヒジャブを義務付ける法律は存在するが、執行は厳格ではなかった。
  • 「ヒジャブなし」が問題になるのはエルシャド(指導巡回(日本では道徳警察といわれる))がいた場合だけで、エルシャドの動員は治安が不安定な状況に限定されていた。
  • 抗議行動につながった国民の不満は、ヒジャブ法ではなく、エルシャドによる指導の行き過ぎに対するものだった。
  • イランの政治的意思決定は多元的で、ヒジャブに対する態度も一枚岩ではない。
  • 最高権力者ハメネイやイラン革命防衛隊などの国家革命機関はヒジャブ問題が外国勢力に利用されていることを懸念し、聖職者に妥協を求めている。
  • ヒジャブ法は残しつつ法執行の緩和(死文化)で対応することが見込まれるが、ヒジャブ問題を利用した国家弱体化の試みは容赦なく処罰されるだろう。

イラン:To veil or not to veil
(ベールを付けるべきか、取るべきか)
Sharmine Narwani 2022.12.09

11月の2週間の訪問中、あらゆる年代の女性たちはヒジャブを付けずに自由に街を歩いていた。私たちが知らないだけで、彼らは何年もずっとそうしていたのである。

https://thecradle.co/Article/Columns/19259

9月に始まったイランでの爆発的な抗議行動は、イスラム共和国の「ヒジャブ法」を特に対象としたものではなく、いわゆる道徳警察ーガシュト・エルシャド(単にエルシャド、あるいは「指導巡回」とも)が、不品行な服装とみなされた一般のイラン人女性に対して行った虐待と行き過ぎについてのものだった。

国民の不満の引き金となったのは、広く報道されたMahsa Aminiの死(Ershadに逮捕され拘留中に死亡した)であった。

イラン警察当局が公開したビデオ映像にはアミニが自然に倒れる様子が写っていたおり、公式の検死結果の通り「殴打」によるものというより個人的な健康歴によるもののように見えた。しかし、イランの人々は、一連の不当な取扱のストレスが引き金となったと主張した。

抗議デモは暴動に発展し、民間人と治安部隊の両方から死者が出た。双方が銃で撃ち合ったのか、外部の扇動者が関与したのかは、この論考のテーマではない。

この論考が扱うのは、こうした出来事がイランをどこに向かわせるのか、ヒジャブに対する国民の感情にイランの統治機関がどのように対応するのかという問いである。

非常に分散的なイランの意思決定

イランは、西側の主流メディアでよく描かれるような「漫画のような独裁国家」では決してない。最高指導者アリー・ハメネイ師が戦略的な事柄に関する最終的な権限を持っているが、彼が国内の批判を受けるような形でその特権を行使することはめったにない。

ハメネイは西側諸国とのイラン核協議に反対していたが、当時のハサン・ロウハニ政権が経済関係を正常化しイランの(当時の)孤立を解消したいという願いから協議に関する交渉を進めることを全面的に認めていた。

イランにおいてハメネイほど激しく、西側諸国は決して絶対に信用してはならない、イランの最大の力は経済的な自給自足と西側諸国が支配するグローバルネットワークからの完全な独立性にあると公言して憚らない人物はいないであろう。それにもかかわらず、ハメネイは、ロウハニ政権が彼の深い信念に反する政策を追及するのを平然と見過ごしたのである。

最高指導者のこうした行動は、今日のイランの意思決定プロセスが非常に拡散的であるという現実を物語っている。この国に単一の権威は存在しない。意思決定は協働的に、あるいはイランメディアや議会で繰り広げられる熱を帯びたそしてしばしば非常にオープンな論争によって、そうでなければ密室で行われる。

今日のイランには主要な権力中枢が三つある。第一は、最高指導者と陸軍、警察、イスラム革命防衛隊(IRGC)、数百万人の強力なボランティア部隊であるバシジ隊などの国家革命機関各種。

第二は、イラン政府と選挙で選ばれた大統領、その内閣、国の省庁、議会から成る国家機関。

第三は、ゴム(Qom)にあるホウゼ(神学校)。イランの宗教の中枢で、イスラム共和国の宗教解釈、行動、振る舞いに影響を与える数千人のシーア派の学者、権威、インフルエンサーから影構成されている。

3つの権力中枢はどれも様々な形で国の政策に影響を与えるが、それぞれの影響力も時によって浮き沈みがある。各中枢の中には支持者、諸機関、メディア、経済的利害、影響力のある人物の広大なネットワークが広がっており、他の民主主義社会と同様に、自分たちの意見が反映され実行に移されるよう競い合っている。

したがって、ヒジャブのような複雑で象徴性の高い案件について一人の人間や意思決定機関が何らかの指令を発することができると一瞬でも想像するなら、それはイスラム共和国の政治体制の複雑さ、諸矛盾、多様性について全く無知であるということを意味する。

現地の様子

11月下旬の2週間にわたるテヘラン訪問の際、私はコロナによる渡航制限のせいで2020年にストップする以前の多くの訪問の時と大きな違いがあることに気づいた。

2020年にイランの首都を訪れたときには、レストランでヒジャブをかぶらずに座っているイラン人女性を時折見かけることがあるという程度だったのが、今回、女性たちは街なか、ショッピングモール、空港、伝統的なバザール、大学、公園など、山の手も下町も関係なくあらゆる場所で、伝統的なヘッド・カバーを付けずに歩いていたのである。

下に掲載するのは、私が市内のさまざまな場所で撮影した写真である。

イランのヒジャブをめぐる議論でもっとも重要なのは、この「ヘッドカバーなし」のトレンドが9月の抗議行動とともに始まったわけではないということである。この決定的な事情は、西側メディアではまったく触れられていない。

イラン人女性の多くが、すでにヘッドスカーフを脱いでおり、何年も前から上の写真のような光景が普通になっていた。パンデミックのせいで社会的規範が緩和されたのだろうか?誰に聞いてもはっきりした答えは返ってこない。「ただこれが普通になっただけ」と口々に言うだけだ。

今日のイランでは、年齢を問わず、ヒジャブなしの女性、ヘッドスカーフをした女性、より伝統的な床まである長いチャードルを身につけた女性が同じ通りを一緒に歩いている。みな自分の好きなように、他人のことは気にせずに。

非常に興味深い展開といえる。なぜなら、イランではヒジャブの着用は法律で義務付けられているからだ。しかしエルシャドがひょっこり姿を現さない限り、誰もこの法律を強引に執行しようとすることはないのである。

これは重要な点である。なぜなら、エルシャドはいつでもどこにでもいるというわけではないからだ。エルシャドは2006年から業務を開始したが、イラン当局は彼らを特定の時期にしか動員していないように見える。ゴムが倫理的な案件をめぐって落ち着かない状態になっているときや、保守派が改革派と争っているとき、国境で地政学的な緊張が起きているときなどである。

ともかく、エルシャドはイランの街角にいつも存在するわけではなく、普通は国内のどこかで政治的に何かが起きているときにのみ登場するのである。

当局者はヒジャブ問題を議論している

それにも関わらず、3カ月に及ぶ抗議行動とその後の暴動を経て、ヒジャブをめぐる議論はイスラム共和国で影響力を争う3つの権力中枢の間で山場を迎えているようだ。

私の個人的な経験では、イスラム革命防衛隊のようなイランの治安部門(ハメネイの下で活動している)はヒジャブの問題そのものについて戦闘的な姿勢を示すことは決してない。彼らは外国からの侵入、破壊工作、反テロ作戦、戦争に集中しており、日常生活や人々の立居ふるまいには関心を持っていない。

ヒジャブはイスラム共和国の「シンボル」である。そしてシンボルは、西アジアなどで戦われた無数のハイブリッド戦争を見れば明らかなように、外部の扇動者たちが最初に狙う安直なターゲットである。

抗議の象徴として国旗の色を変えたり、国家に代わる短い歌を作ったり、女性たちにヘッドスカーフを脱いでビデオに撮るよう勧めたり。いずれにせよ、これらはハイブリッド戦争の手っ取り早い手段なのである。

2018年1月、治安当局者や「保守派(principalist)」などの限定的な読者を対象とした出版物のインタビューで、シリアとイランにおけるこうした手段の使用について質問を受け、私は以下のように答えた。

象徴的なスローガン、横断幕、プラカードは、西側スタイルの「カラー革命」の定番です。イランでは2009年の選挙期間中に行われた「グリーン」運動のときに、こうしたツールが威力を発揮していました。運動のメッセージや目標を幅広い聴衆に対して一瞬で伝えることができる視覚的ツールの使用は、マーケティングの基本といえます。これまでも選挙のときには用いられていましたが、今では地政学レベルの情報戦においても効果的に活用されるようになっています。

シリアで植民地時代の緑色の旗が使われたのは、より多くのシリア人を即座に「反対派」チームに引き込む手段でした。基本的に、政府に対して不満を持っている人なら誰でも、その不満が政治、経済、社会、宗教のどれに関わるものであろうと、この新しい旗を掲げた抗議運動に参加したいという気持ちにさせられました。シリアの活動家たちは金曜の抗議行動に名前を付けることで、大衆の動員に成功しました。彼らは言葉の力を使って抗議の方向性を作り上げ、徐々にイスラム化の方向に進めていったのです。

スローガンや看板は、国民の中の強い主義主張のない層の関心を引いて反政府的な立場に立たせるプロパガンダの簡単なトリックです。人々の自己同一化を可能にするツールは政権転覆作戦の不可欠な構成要素となっています。新たなシンボルを作るために、既存の国家的シンボルを否定する必要があるというわけです。

イランではヒジャブを付けない若い女性の画像が抗議のシンボルとして瞬く間にSNS上に広がりました。皮肉なことですが、ヒジャブは1979年のイスラム革命にとってのシンボル、その政治的・宗教的な意味を一瞬で示すことができる看板でもあります。そのため、外国が支援するプロパガンダ攻撃においては、ヒジャブはほとんど常に、否定とあざけりの対象となるのです。

このインタビューはヒジャブをしていない私の写真とともに掲載された。数週間後、私は、イスラム革命防衛隊のクドス部隊と密接な関係にあるとされるイランのトップアナリストからメールを受け取った。彼はインタビューのスクリーンショットを送ってきて、これは私が書いたものかと尋ね、驚いたことに、私の見解に全面的に賛成だと述べた。

なお、これ以外にも、イスラム革命防衛隊が関係する出版物「Javan」から、雑誌の特集号にシリアに関する私の記事の翻訳とインタビューを載せたいと依頼を受けたことがあるが、このときも、彼らはヒジャブなしの私の写真を掲載した。

ヒジャブと国家

一言でいえば、イランの治安部門にとってヒジャブは優先事項ではない。彼らはほかにもっと重要な懸案を抱えている。しかし、ゴムの内外の神学者にとってはヒジャブは枢要なテーマである。

そして、おそらく、ヒジャブをつけることを選び、それによって迫害されることー1936年、当時の君主レザー・シャー・パーレビがイスラム教の伝統的な頭巾を禁止したときの彼女たちの祖母のようにーを望まない何百万のイラン人女性にとっても、同様に重要である。

ヒジャブが禁止されたことで、多くの女性が何年も家に閉じこもり、あるいは夜間や馬車に身を隠してしか外出しなかった。警察を避けるためである。警察は必要であれば力づくでベールを剥ぎ取った。当時は年配のキリスト教徒やユダヤ教徒の女性たちにとっても、ヘッドスカーフの禁止に従うのは難しかったのだ

マリアム・シネーは書いている。皮肉なことに、これを出版した(サウジ政府が関係する)会社(Iran International)は、最近ではイランの反政府主義者のプロパガンダを24時間365日実施している。

これらの問題はともかく、イランの治安部門の指導者たちは、今日、聖職者たちにかつてないほど強い異議を申し立てている。
「私たちが敬意を抱くヒジャブが、国家安全保障の領域に入りつつある。外国に支援された政権転覆計画がヒジャブをその武器として利用しているのだ。」
これは、近時の状況に鑑みても、聖職者が賛成できる立場ではない。

イラン当局が脅威を取り除くために、エルシャドの停止や解散、その代替としてのイスラムの節度に関する(男女を問わない)全国的な教育プログラムの導入を含む様々な選択肢を検討しているとされるのは、おそらくこうした懸念のためであろう。

前イラン大統領マフムード・アフマディネジャド政権の下で設立されたエルシャドは、何週間も前から街頭から姿を消している。イランの3つの権力中枢は、国民の間に残る緊張を鎮め社会的不満に対処する方法を熱心に議論している。

興味深いことに、この展開はペルシャ湾を挟んだ宿敵サウジアラビアの状況とどこか似ている。サウジでは2016年の勅令で「ムタワ」(サウジの宗教警察)のかつては無制限であった権限と特権が剥奪された。それ以来、サウジの成文法に変化はないにもかかわらず、女性が公の場でベールを脱ぎ、伝統的な黒いアバヤを纏わず通常の衣服でいるのを見ることはいっそう普通になった。

ゴムや他の機関がヒジャブ法の廃止に同意することはないだろう。元々、論争の原因は一部の者による過剰な法執行にあったのだ。イランのヒジャブ法は、どの国の法典にもある多くの死文化した法律と同じような運命をたどることになるのかもしれない。

しかし、ヒジャブに関する態度の緩和が期待されるとしても、それは、敬虔さの象徴であるヒジャブを利用して国家を弱体化させる試みに対する容赦のない取り締まりを伴うものとなるだろう。

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彼らは友人だったー9/11に寄せて(翻訳)

 

 

以下は “Ted Snider, Remembering Our Friends on 9/11″の翻訳です。ウクライナ戦争勃発以後、この人の記事が琴線に触れることが多く、今回もそうだったので訳しました。

https://original.antiwar.com/ted_snider/2022/09/08/remembering-our-friends-on-9-11/

世界の首脳の中で、9/11同時多発テロ(2001年)の後ブッシュ大統領に一番に電話をかけてきたのはウラジミール・プーチンだった。実は彼は2日前の9月9日にもブッシュに電話をかけ、長期に渡って準備されてきた何かがまもなく実行される兆しがあることを知らせ、警告していたのだ。

ツインタワービルが破壊される様子をテレビで見たプーチンはただちにブッシュに連絡し、弔意と同情を示した。エアフォース・ワンに搭乗中だったブッシュにはつながらなかったが、プーチンは迷わずコンドリーザ・ライスに伝言を託した。翌朝、ブッシュと直接話をしたプーチンは「この困難を乗り切るため、団結し協力しよう」と約束した。

プーチンは同情と団結の意思を示しただけではなかった。彼はブッシュが何を決断しようとそれを全面的にサポートすると約束したのだ。プーチンとブッシュはその後40分間語り合った。次の月曜、プーチンは、機密情報の共有、人道支援のための(米の)ロシア上空の通行許可、捜索救難活動への参加、アフガニスタンの北部同盟への軍事的支援の増強を申し出た。そればかりか、彼は、少しの躊躇の後、ロシア軍の上級司令官の反対にもかかわらず、米軍の中央アジアへの派兵を認めると申し出て、アメリカを唖然とさせた。アメリカはキルギスタンとウズベキスタンへの軍事基地の建設を許されたのである。

ロシアは自身の戦争を通じてアフガニスタンについて詳細な知見を得ていたため、その機密情報の共有には非常に大きな価値があった。ロシアの諜報機関は確かな地図をアメリカに提供し、カブールと数多くの山や洞窟を案内した。ロシアの諜報機関は、9/11以前の2000年6月頃までにも、アフガニスタンからのテロリストの脅威に関する情報をアメリカに提供していた。

このとき、プーチンはまだアメリカおよび西側との関係改善に望みを抱いていた。彼はアメリカへの援助と協力がそれを促進することを期待した。プーチンは9/11の悲劇を、アメリカに対し、ロシアをパートナーとする形での国際秩序が可能であることを知らしめる契機と捉えていた。2011年11月のワシントンでのスピーチでプーチンは次のように述べている。「テロとの戦いにおける我々の相互協力を露米関係の単なる一エピソードとして終わらせてはなりません。これを長期のパートナーシップと協力関係のスタートとすることこそが重要なのです。」

しかし、その10年前にアメリカがソ連を罠にはめて敗戦に追い込んだアフガニスタンの地で、アメリカの勝利を助けてくれたロシアは、その返礼として何一つ得ることはなく、NATOは東方拡大を続けた。2004年までに、NATO拡大の「ビックバン」はロシア国境沿いのバルト諸国に達していた。

Philip Shortの著書『プーチン』によると、イギリス版NSA(国家安全保障局)にあたるGCHQの当時の長であったFrancis Richardsは次のように述べていた。「われわれは9/11後のプーチンからの援助に非常に感謝していたが、その感謝をあまり示していなかった。私は受け取るだけでなく与えることもしなければならないと人々を説得することに努めたのだが‥おそらくロシアの人々はNATOの問題を通じて彼らは騙されて利用されたと感じていたと思う。そして、それは事実だったのだ。」

9月11日、中国主席の江沢民は、テレビでテロ攻撃を見つめていた。2時間と経たないうちに、彼はブッシュに電話をし、哀憐と援助の意思を示した。

9/11への中国の反応は、アフガニスタン戦争が混迷を極めていくにつれ、複雑さを増していった。中国はタリバンのテロの脅威が国際社会および中国国内に及ぼす影響を懸念していたが、それと同程度に、長引く駐留で近隣でのアメリカの軍事的存在感が高まることを恐れていた。

中国は国境地域で(中国の)同盟国パキスタンが米軍基地の受け入れと移動ルートの提供を強要されていること、パキスタンに完全なアメリカ寄りの傀儡政権が建設される可能性を懸念していた。

戦争が長引くと、中国はタリバンとアメリカのどちらも全面的に支持しない姿勢を取るようになり、タリバンと外交関係を維持した上、武器を提供することすらあった。

しかし2011年9月のあの最初の数時間、中国のリーダーは直ちにアメリカ大統領に電話をかけて援助を申し出ていた。Andrew Smallの著書『The China-Pakistan Axis』によれば、中国は機密情報の共有と地雷除去装置の提供を申し出た上、北京にFBIのオフィスを設置することまで提案した。アメリカは中国からの援助の申し出のほとんどを拒絶したが、しかし、中国は援助を申し出たのだ。

イランもまた、9/11の後、アメリカの支援者となった一人である。アメリカでのテロ攻撃の後、イランは直ちにアメリカ側に付き、タリバンおよびアルカイダに反対する立場を明らかにした。ロシアや中国と同様にアメリカとの関係改善を望んでいた改革派の大統領セイイェド・モハマド・ハータミーは、この悲劇を彼らのパートナーシップと友情を証明する不幸であるがよい機会と捉えた。

イランは国境地域に逃げ込んできた何百人ものアルカイダおよびタリバンの戦士たちを逮捕した。イランは200人以上のアルカイダおよびタリバンの逃亡者たちの身元を特定して国連に文書を提供し、その多くを彼らの出身国に送り返した。送還させられない者たちの多くに対しては、イラン国内での受け入れを提案した。イランはまたアメリカの捜索要請に応えてアメリカが特定したアルカイダ工作員たちの相当数を逮捕し移送した。

アメリカと同盟国がアフガニスタンを侵攻した際に反タリバン戦闘員の多くを提供した北部同盟を取りまとめ、アメリカとの協力関係に置いたのは概ねイランである。イランはその空軍基地をアメリカに提供し、アメリカが撃ち落とされた米軍機の捜索救助活動を行うことを許した。イランの人々はタリバンとアルカイダの容疑者に関する機密情報も提供した。

イランの外交官たちは2001年10月までにアメリカ政府高官と秘密会合を持ち、タリバンを排除しアフガニスタンに新たな政府を作る計画を練った。2001年11月のボン会議で、イランはイラン専門家や『Losing an Enemy』の著者Trita Parsi によれば、アフガニスタンのポストタリバン政権の樹立に「決定的に重要な役割」を 果たしたという。

ロシアと同じく、イランもその返礼は何一つ得ていない。アメリカが彼らに与えたものは「悪の枢軸」のメンバーの地位だけである。 

ロシア、中国、イランというアメリカにとっての大悪魔(arch enemies)たち3人は皆そろって、9/11の後、友情からの支援の手を差し伸べていた。言葉だけではない。彼らの両手は本物の支援策でいっぱいだった。アメリカが差し伸べられた手を取って、Francis Richards がいうように感謝を表し、受け取るだけでなく与えることもしていたら、今日の世界はもう少しましなところになっていたかもしれない。