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社会のしくみ

イギリスのすべて ③革命とその後

目次

革命期のアイルランド

(1)イギリスとスコットランド

イギリスがアイルランドを制圧していったん落ち着きを見せたアイルランド情勢は、17世紀中盤に次なる高揚期を迎える。

アイルランドが、ブリテン島におけるイギリス、スコットランド双方の「地殻変動+民主化革命」期の煽りを受けたこの時期。連合王国の統合のためにアイルランドが果たした役割を理解するためには、スコットランドおよびイギリスの状況に目を向けておく必要がある。

ここでは、それぞれに「地殻変動+民主化革命」期を迎えていたイギリスとスコットランドが、ぶつかり、妥協し、連合王国として統合されていくまでの過程をざっくり説明しよう。

①スコットランドのこだわり:長老派教会

独立王国であることに誇りを持つ直系家族のスコットランドは、イギリスとは異なり、どの時点においても、「国王を倒したい」という願望を持つことはなかった。

この時期の彼らにとって、もっとも重要な課題は、宗教改革によって作り上げた自分たちの信仰を守ることであり、国王やその他の政治勢力との関係性は、この一点によって左右されていく。

イギリスとの関係で、彼らの信仰におけるアイデンティティは、何より、長老派の教会制度に置かれることになった。

②チャールズ1世との対立:主教戦争に勝利!

ピューリタン革命で倒される運命のチャールズ1世(ジェームズ1世の息子)とスコットランドが対立することになったのは、カトリックに傾倒気味だったチャールズが、国教会の共通祈祷書(1559年版:聖職者の式服着用を奨励するなどややカトリックに寄せたもの)をスコットランドの教会にも強要したためである。

スコットランドは、カトリックを毛嫌いしているわけではないし、国王に恨みがあるわけでもない。しかし、彼らのアイデンティティである長老制教会を否定されることには我慢ができなかった。

スコットランド各地で民衆の暴動が起こる。暴動はついには国王軍との間の戦争に発展(主教戦争 1639-1640)。そして、スコットランドはなんと(?)これに勝利する。

国王に勝利して、長老派教会を守り抜いたスコットランドは勢いに乗り、イングランドの内戦に積極的に関わっていくのだ。

共通祈祷書に反対する民衆の反乱の様子(wiki

③ピューリタン革命の開始(1642-)

一方、敗北したチャールズ2世は、今度はイギリス国内のピューリタン(改革派プロテスタントの総称として用います)の突き上げに遭う。

スコットランドへの賠償の支払いのために国王がやむなく召集した議会(いわゆる長期議会 1640年11月-)で、国王派と対立する議会派(革命側です)は、星室庁(国王大権に基づく裁判所)の廃止、枢密顧問官の更迭、大主教の弾劾、国王の忠臣を大逆罪で処刑するなどの「革命」的な急進策を次々と実現。ピューリタン革命のはじまりだ。

近頃、ピューリタン革命は単なる内戦でありいわゆる「革命」ではなかったという言説に接することが少なくないが、やはり、革命というにふさわしい事態ではあったらしい。近藤和彦さんの話を聞こう。

情況をこのように急展開させたのは、スコットランド進駐軍の圧力、これと通じた長老派議員、紙の戦い、ロンドン群衆であった。群衆は議会や宮廷を包囲して要求を叫び、ピム議員は院外の圧力を背景に急進策を実現していった。ほとんど150年後のフランス革命における、言論とサンキュロットの蜂起を背景にした革命派議員を想わせる事態である。

近藤和彦『イギリス史10講』125頁

このとき、スコットランドは、イングランドの議会派と同盟を結んで、国王派と戦っていた。

スコットランドが議会派の側についたのは、議会派が長老派教会の存続を保証し、イギリスでのさらなる(教会制度の)改革を約束したからである。

スコットランドは、自らの影響力を強め、あわよくばブリテン諸島を「長老派教会化」することまで狙っていた。

④議会派との決裂→国王派への回帰→敗北→王政復古

識字率上昇期にあるイギリス・スコットランドの革命連合軍は強かった。

‥‥後半の重要な戦いに勝ち続けたのは議会軍だった。スコットランド貴族の子サー・トマス・フェアファクス大将(1612-71)とケインブリッジ選出議員オリヴァ・クロムウェル中将(1599-1658)の指揮する「ニューモデル軍」の士気、規律、兵站がまさったのである。経済・金融の中心ロンドン市〔シティ・オブ・ロンドン〕を掌握していたのも決定的だった。

近藤・127頁

そういうわけで、議会派は国王軍に勝利。しかし、往生際の悪い国王が再び挙兵したために起きた第二次内戦(1648年:これも議会派が勝利)の後、スコットランドの反対にもかかわらず、チャールズ1世が処刑されるに及んで、スコットランドと議会派は決裂する。

スコットランドは、チャールズ2世(1世の息子)を国王として迎え入れ、戴冠式を執り行うのだ(1651年1月)。

共和国の指導者となったオリバー・クロムウェルは、このスコットランドの動きを共和国への反逆と見て、スコットランドに進軍。

スコットランドは戦いに負けてイングランド共和国に吸収され、独自の教会、議会、法制度とすべてを失うことになるのだが、クロムウェルが死去すると共和国はあっけなく崩れ、王政復古でスコットランドの独立は回復(チャールズ2世が復権)(1660年)。

しかし、王政復古とともに国教会の教会制度(長老制ではなく司教制)が復活したため、スコットランド国民の不満は高まった

スコットランド国民の多くは、正規の教会を無視して、屋外で集会を開いて彼らの信仰を実践したが、国王(チャールズ2世と次のジェームズ2世)はこの集会への参加を禁じ、迫害した。スコットランドは「the Killing Time殺戮時代)」(概ね1679-1688)と呼ばれる陰惨な時代を迎え、宗教弾圧、処刑、反乱とその鎮圧のための戦いによって多くの人命が失われる。

ウィリアムとメアリを新国王に担いだクーデターがイングランドで起きたとき、スコットランドが直ちにこれに乗ったのはそのためである。

⑤名誉革命(1688-89)

ジェームズ2世は、「カトリックと絶対王政の復活を目指した時代錯誤な専制主義者」で、「だから名誉革命で倒された」というのが古典的な筋書きだが、話はそれほど単純ではないようだ。

ジェームズ2世がカトリックの復権を目指したことはたしかである。しかし、当時のイギリスが実施していたカトリック差別は明らかに不当なものだったし、プロテスタントが圧倒的な勢力を誇っていたイギリスで、ジェームズ2世が求めたのはさしあたり「カトリックへの寛容」にすぎないのだから、これを「時代錯誤」と評価することはできない。

ジェームズ2世が、絶対君主政に憧れていたことも事実のようだが、当時はヨーロッパ最大の大国フランスがルイ14世の下で繁栄を謳歌していた時代なのだから、後進国の王としてそれを目指すのが不合理とはいえない。

しかし、もちろん、ジェームズ2世が、ブリテン諸島の「近代」からはじき出されたことには理由があった。

ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子である彼は、宗教うんぬんとはほぼ関係なく、長老派とピューリタンを許すことができなかったのだ。

地殻変動+民主化革命期のブリテン島で、長老派はスコットランド国民のアイデンティティであり、ピューリタン(非国教徒)はイギリスが目指すべきさらなる宗教的・政治的自由の象徴だった。このどちらとも相容れない以上、ブリテン島の将来にジェームズの居場所はない。

ジェームズ2世が、イギリス、スコットランドの両方で王位を追われることになるのは、必然的なことだったと思われる。

⑥名誉革命体制:不安定な統合

しかし、本来、長老派のスコットランドとイングランドのピューリタンは、決して一枚岩ではない

スコットランドの方は、長老派教会さえ存続できればよいのであって、国王にもカトリックにも恨みはない。ひたすら自由を求めて分裂し、政治的にも過激化しがちなピューリタンとの相性は決してよくないのだ。

長老派を主流とするスコットランドと、活性化するピューリタンを抱え込んでいたイングランドが、名誉革命を機に一つにまとまることができたのは、双方がともにジェームズ2世に嫌われ、対立していたからにすぎない。

単に「敵の敵は味方」の論理で糾合しただけのイギリスとスコットランドに、永続的な統合をもたらすには、ジェームズ2世にかわる永続的な「敵」が必要だった。

その役目を務めたものこそ、カトリックであり、アイルランド。もっといえば、「カトリックのアイルランド」だったのだ。

(2)アイルランド

①アイルランドを視界に入れる

ここでは、イングランド、スコットランドがそれぞれ地殻変動(+民主化革命)を起こし、一応の統合を成し遂げるまでの間、人身御供となる運命のアイルランドがどんな経験をしたのかを見ていきたい。

一般に、イギリス革命(ピューリタン革命と名誉革命)は、アメリカ独立戦争(独立革命)やフランス革命、ロシア革命と比べて暴力の程度が低く、人身被害も小さかったと捉えられている。

しかし、それは端的に誤りである。イギリス革命の暴力性が低かったといえるのは、単にアイルランドを視界から外しているからである。アイルランドの被害を計算に入れるなら、イギリス革命は、他の諸革命にまったく引けを取らない、立派な暴力革命なのだ。

②17世紀前半のアイルランド

17世紀中盤、アイルランドの(潜在的)緊張は高まっていた。16世紀後半に「カトリック化」していたアイルランドに、イギリスの植民事業によって大量のプロテスタントが送り込まれたからである。

ただし、暴発に向かうエネルギーの大きさにおいて、カトリックのアイルランドと、イギリス・スコットランドのプロテスタントが対等でなかったことは抑えておく必要がある。イギリス・スコットランドは急速な大衆識字化の真っ最中であったのに対し、アイルランドの方では、まだその過程は始まってもいなかったからだ。

アイルランドが置かれていた緊張状態は、その意味では、受動的なものだった。そんなとき、対岸のブリテン島で、革命が始まるのだ。

③ピューリタン革命とアイルランド

イギリス、スコットランドの双方で、民衆が活性化する。イギリスのピューリタンは「反国王=反カトリック」、スコットランドは長老派(プロテスタント)で行きがかり上「反ジェームズ」だ。

ブリテン島出身のプロテスタントとの関係で、受動的緊張状態にあるアイルランドにとって、この動きは脅威以外の何物でもない。

というところで、アイルランドのカトリックは、先手必勝とばかりに、反乱を起こすのだ(the Irish Rebellion of 1641)。

1641年冬ー42年始め、‥‥ロンドンに届いたのは、アイルランドにおけるカトリック反乱の報である。ピューリタン入植者は復讐的なテロル/ポグロムを威嚇していたが、危機感をもったカトリック住民が予防的に反撃して数千人を殺した。この宗派的対抗テロルが「信仰正しき者数十万人の大虐殺」と報道され、パニックを背景に、ウェストミンスタの議会は鎮圧軍の指揮権を獲得した。

近藤和彦『イギリス史10講』126頁

アイルランドのカトリックによるプロテスタントの虐殺はあった。しかし、歴史の年表に特筆されているのが、アイルランドにおける「虐殺」の事実ではなく、イギリスにおける「大虐殺報道」であることには注意が必要である(近藤和彦『イギリス史10講』114頁の年表)。

基層に溜まるマグマの量の少なさゆえに、アイルランド・カトリックの反乱が、想定される反撃よりも大きくなることは決してない。他方、大量のマグマが沸騰中のブリテン島では、アイルランドの事件は、事実の何倍も何十倍も大きく、誇張して伝えられ、壮大な反作用を生み出していく。

「女性や子供を手にかけている」として残虐性をアピールする当時のプロパガンダ

イギリスのピューリタンは、アイルランドの「先制攻撃」に過剰に反応しーーというより、半ば口実にしてーー反乱鎮圧の名目で軍の統帥権を奪い、国王を倒し、共和国を建設する(ピューリタン革命:共和国成立は1649年)。実権を握ったクロムウェルは、その足で、颯爽とアイルランドの征服(カトリック殲滅)に向かうのである。

被支配者側の先制攻撃を口実とした、支配側による殲滅戦。大変既視感のあるこの戦いが、近代の幕開けを告げる戦いであったことは趣深い。

近代とは何かを知る鍵となるこの戦争は、一般にはほとんど知られていないと思うので、実際の戦いの概要を少し詳しめにご紹介したい。

  • 1649年8月、クロムウェル自身が指揮官として上陸
  • 1649年9月 ドロヘダの戦い(Siege of Drogheda)(「ドロヘダの虐殺」とも)カトリック同盟側駐留軍約3000人とカトリックの聖職者および民間人700-800人が殺害された。
  • 1649年10月 ウェクスフォードの戦い(Siege of Wexford)(「ウェクスフォードの略奪(Sack)」とも)議会軍は降伏交渉の継続中に町を襲い、約2000人の兵士と1500人の民間人を殺害。略奪後、町の大部分に火が放たれた。
  • 以上の2つの事件は、イギリス軍の残虐さを示す事件としてアイルランドの人々の記憶に深く刻まれている。
  • 初期の戦いにおける無慈悲なやり方のために、カトリック同盟側が降伏交渉に応じる可能性が失われ、抵抗が激化・長期化したことが指摘されている。
  • 戦争末期、議会軍は、食糧庫の破壊、銃後で支援していると見られる民間人の強制移住、(勝手に指定した)「戦闘禁止地域(free-fire zone)」で発見された者はすべて敵と見なして生命・財産を奪うといった戦略を取り、民間人に多大な犠牲を出した。
  • 1651-52年(ゴールウェイ陥落が52年)にはほぼ決着するも、ゲリラ戦が続き、イングランド議会が反乱鎮圧を宣言した1653年9月27日をもって終了とされる(その後も散発的な抵抗は長く続いた模様)。
  • 軍医として従軍したWilliam Pettyの試算によると、戦闘、飢餓、疫病等によるアイルランド側の死者は1641年以降で618000人(人口の約40%)。うち40万人はカトリックで16万7000人が戦闘ないし飢餓、残りは疾患で死亡したとする。
  • 現代の歴史家は上の数字には修正が必要と考えているようだが、少なくとも20万以上が死亡したことは確実とされる。
  • 1641年の反乱に関与した者、王党派の指導者、カトリックの聖職者が全員処刑されたほか、約50000人のアイルランド人(戦争犯罪人とされた者を含む)が年季奉公労働者(indentured labourers)(「白人奴隷」とも呼ばれる)として北米や西インド諸島の植民地に移送された。

通常、ピューリタン革命(イングランド内戦)の死者数に、アイルランド同盟戦争(クロムウェルの征服戦争含む)の死者は含まれていない。

アイルランドのアニメ映画「ウルフウォーカー」に出てくるLord Protector(クロムウェルがモデル)。クロムウェルの征服時、狼の絶滅を図ったのも史実のようです

⑤戦後処理:アイルランド近代の基礎

征服後のクロムウェルが行った処分は、イギリスの近代アイルランド政策の基礎となった、といえる。

  • 1️⃣カトリックの体系的差別
  • 2️⃣カトリックからの土地の没収

という骨格は、クロムウェルの死後まもなく王政復古がなり(1660年)、名誉革命を経てイギリスが近代国家に生まれ変わった後も、ジェームズ2世の治世における一時期を除き、基本的に維持されることになったからである。

1️⃣については後に回し、ここでは主にクロムウェル政権下で行われた土地処分を見ておきたい。

  • イングランド議会は、1652年8月にアイルランド処分に関する法律(Act for the Settlement of Ireland 1652)を制定
  • 上述の死刑対象者(1641年反乱の指導者、王党派の指導者、カトリック聖職者)の土地はすべて没収、それ以外の軍の指導者の土地も大部分が没収された
  • 「共和国の利益に常に忠実だった者」以外(要するにプロテスタントの議会派以外→全カトリック)は戦争不参加でもすべて反徒とみなされ、所有する土地の4分の3を没収された
  • 当局には、(死刑対象者以外で)土地の没収処分を受けた者に共和国政府の指定する代替地を与える権限が付与された
  • 実際に代替地に指定されたのはコナハト地方(↓緑の部分)。要するに、カトリックをすべてシャノン川以西のコナハトに閉じ込め、それ以外をプロテスタントの入植地とする政策だ(1653年の法律でカトリックはすべてここに強制移住させられることになった)
  • 以上により、カトリックの保有地の比率は、60%から8%に低下した
  • この比率は、王政復古で20%に上昇(カトリックの王党派が補償を受けたため)したが、名誉革命後には再び10%に低下した

⑥名誉革命戦争ーウィリアマイト戦争

カトリックのジェームズ2世を廃してプロテスタントのウィリアム3世・メアリ2世を王位につけたクーデター事件が「名誉革命」と呼ばれるのは、イギリス(イングランド)では(ほぼ)無血革命だったからである。

しかし、ウィリアム3世とジェームズ2世は、アイルランドの地ではしっかり剣を交えている(ウィリアマイト戦争 1689-1691)。

しかも、その戦争では、ジェームズ2世側で参戦した兵士約15000人、民間人を含めると約10万ともいわれる生命が犠牲となっているのである(wiki)。

アイルランドの近代

ここまで見てきたように、イギリスの近代は、アイルランドの多大な犠牲の上に成立した。

では、イギリスが安定した国家体制を確立し、経済的飛躍を遂げた後には、イギリスとアイルランドの関係は正常化したのかというと、決してそうではなかった、というのが重要な点だと思う。

実際のところ、私たちがお手本としてきた近代イギリスは、その覇権の終盤まで、一貫して、アイルランド差別・排除政策を、体制の中に組み込んでいたのである。

①名誉革命体制

名誉革命は、政治面では制限君主制を確立し、宗教面では、厳格な国教会体制(ピューリタン革命以前)とも、過激なピューリタン体制(革命政権)とも異なる、寛容なプロテスタント体制を確立した事件として知られる。

議会が、権利の章典(1688)とともに、寛容法(1689)を制定したことは、教科書にも書かれているほどだ。

教科書の記載を続けると、1707にはイングランドとスコットランドは合同して大ブリテン王国(Great Britain)となり、ウォルポール(在任1721-42)が首相となる頃には責任内閣制が形成される。その間には、イングランド銀行の創設(1694)、国債制度の整備もあり、近代国家イギリスは、この時期、覇権への道をまっしぐらに進んでいる。

しかし、そもそも、名誉革命が、宗教上の寛容を実現したというのは事実ではない。寛容法は、非国教徒のプロテスタントには信仰の自由(独自の信仰集会の開催など)を認めたが、カトリックはその対象外だったのだ。

それもそのはずで、イギリスは、教科書記載の(覇権への)道のりを歩んでいるその裏で、アイルランド統治においては、クロムウェルの征服で強化されたカトリック差別政策を基本的に踏襲した「刑罰法」(英語では単にPenal Laws)体系を整備していくのである。

近代国家イギリスの確立と同時に、アイルランド・カトリック差別の体系化が進行したという事実は、示唆的だと思う。

アメリカにおいて、排除された先住民と黒人奴隷の存在こそが、「われら人民(We the people)」の統合を可能にしたように、イギリスでは、おそらく、差別され否定された「カトリックのアイルランド」の存在こそが、グレート・ブリテン王国の統合を可能にし、選挙権すら与えられなかった多くのイギリス人(スコットランド人含む)に「帝国の臣民」としての意識を付与したのである。

②アイルランドのアパルトヘイト体制

刑罰法の下でのアイルランド統治は、一種のアパルトヘイト体制といえる。「プロテスタントの優位(Protestant Ascendancy)」と呼ばれるこの体制の下では、アイルランド国民は以下の3種に分類される。

  • プロテスタント(国教徒)支配層
  • プロテスタント(非国教徒):具体的にはピューリタン(イングランド出身)と長老派(スコットランド出身)。刑罰法の下で一定の差別を受ける。(両者の間にも差異があったかもしれないが詳細は(私には)不明)
  • カトリック:最下層 刑罰法の下で基本的人権を否定され全面的な差別を受ける。

刑罰法の下でカトリックがどのような扱いを受けていたのか。まずは井野瀬久美恵先生に概要をご説明いただこう。

1695年から施行されたこれら一連の法律は、カトリックを、陸海軍や法曹界、商業上の活動などから締め出し、彼らの選挙権を与えず、行政上の公職に就くことも許さず、土地の購入も禁じた。カトリックの地主には均等相続が強制され、彼らの保有する農地がどんどん細分化される一方、プロテスタントの地主には、イングランド同様、長子一括相続によって土地保有の温存が図られた。けっきょく、アイルランドの大半の土地が没収され、プロテスタントのイングランド人入植者に分配される。カトリックのアイルランド人を全面的に否定することによって、連合王国は、プロテスタントという自らのアイデンティティを構築していった

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫 2017年)103-104頁

私の調査では、差別は以下の項目に及ぶ。

  • 公民権(公職就任権、公職選挙権・被選挙権)の否定
  • 銃器の所持、軍務、5ポンド以上の馬の所持の禁止
  • プロテスタント(国教徒?)との婚姻禁止
  • 教育の制限(カトリックの学校設立・運営の禁止、カトリックが若年者に教育を行うことは学校でも家でも禁止、国外で教育を受けることも禁止)
  • 大学進学の禁止
  • 土地の購入・保有の制限
  • 遺産(土地)相続に関する特別ルールの適用

全て網羅したものではないが、おおよそ上記のような差別を受けたので、大前提として、アイルランドの民衆の社会的上昇はあり得なかった

その上で、農業で生計を立てていく以外にない彼らにとって、実際上、もっとも深刻であったのは、土地相続の問題である。

イギリス法(コモン・ロー)の基本は、男子優先の長子相続制である。アイルランドでもプロテスタント(国教徒?)はこれに従うので、地主の土地は(分割されることなく)そのままの形で子孫に継承される。

しかし、アイルランドのカトリックには、すべての子供の間での均等相続が強要された。元は自作農が中心であったアイルランドの農民は、改宗するか、さもなければ、土地の細分化に甘んじて(事実上土地を失い)、小作人となるしかなかったのである。

一連の差別は、18世紀末(1770年代以降)の「カトリック救済法」と呼ばれる一連の立法により、法的には緩和に向かった。最終的に、カトリックの公職就任権が認められたのは1829年、ダブリン大学(トリニティ・カレッジ)での学位取得に関する制限が取り除かれたのは1873年である(脱宗教化の頃だ)。

それでも、イギリスの植民地として、アイルランド人が虐げられる状況は変わらなかった。最終的に、アイルランドの人々が「二級市民」を脱するには、イギリスと戦い、独立を勝ち取る以外になかったのである。

③グレート・ブリテン王国への編入(1801)

ここで、アイルランドの法的な位置付けを整理しておこう。

1541年以降、アイルランドは、イギリスの王を国王とする「アイルランド王国」として存在していた。

1707年には、イギリスと(本物の独立王国だった)スコットランドが合併し、グレート・ブリテン王国(Kingdom of Great Britain)を形成したが、アイルランドはこの動きには無関係で、「アイルランド王国」のままだった。

それが、1801年になって、おもむろに、アイルランドはグレート・ブリテン王国に編入されるのだ(Kingdom of Great Britain and Ireland)。

これはいったいどういうことなのか。

連合王国の一員になったというと聞こえはよいのだが、この措置は、インド大反乱にショックを受けたイギリスが、インドを帝国に編入して直接統治下に置いたのと同質のものといえる。

併合により、アイルランド議会(1782年に立法権の独立を獲得していた)は閉鎖され、アイルランド選出議員は代わりに連合王国議会に議席を得た。では、連合王国の政府がアイルランド統治の責任を担うのかといえばそうではなく、引き続き、アイルランド総督が担ったのだ。

連合王国への編入は、1798年に起きた大規模な反乱(ユナイテッド・アイリッシュメンの反乱)を鎮圧した直後のことであり、その目的は、直接統治による支配の安定化、そして、対仏戦争のための兵力の確保にあったと見られている。

④ジャガイモ飢饉

兵力確保の準備としてイギリスが行った国勢調査のおかげで、1801年以降のアイルランドの人口は正確に記録されている。

人口の推移を見ると、連合王国への編入が、アイルランドに何をもたらしたか(あるいは「もたらさなかったか」)が如実にわかる。

1806年の人口は約560万人
1841年には、約817万人のピークに達するが、
1851年には約655万人に落ち込む。
1901年には約446万人と、ピーク時の約817万人から60年間で半減。

以後、第二次世界大戦の終了まで、アイルランドの人口はほぼ減少の一途をたどり、現在に至るまで、1841年の人口を回復できていないのである(2023年で約530万人)。

1841年までの人口増と1851年の人口減の原因は同じ。ジャガイモである。

イギリス本国に対する食糧供給地として、生産した穀物(小麦等)をすべてイギリスに送っていたアイルランドでは、ヨーロッパの他地域に先駆けて、18世紀にはジャガイモを食べていた。

19世紀前半の数十年は、フランスとの戦争のために海外からイギリスへの食糧供給が滞った時期で、この時期にアイルランド農業は大いに発展を遂げた。ついでにジャガイモもたくさん採れて、人口が増えたのだ。

ところが、1845年、46年と連続でジャガイモが不作に陥る。それで人口が激減したのである。

飢饉と栄養失調に発疹チフスや赤痢といった疫病の発生、街にあふれる物乞いの群れ。政府が雇用対策として行った公共事業では、日当めあてに道路工事の作業に集まった人たちが、飢えのために次々と亡くなった。埋葬費が貯まるまで死体は埋められず、腐敗するにまかされたため、疫病被害はさらに拡大した。飢饉が収束し始めるのは1851年頃だが、同年の国勢調査では、10年間に162万人の人口減少が確認されている。

井野瀬・99-100頁

地獄絵図である。
でもジャガイモの不作なら仕方ない。
そう思われるでしょうか。

実は、大飢饉の時代、凶作だったのはじゃがいもだけであり、イギリスに輸出された穀物で、当時のアイルランドの人口の2倍を養えたと算定されている。また、イギリス市場の需要の変化に呼応して耕地から放牧地への転換が進行中だったことから、畜産物の生産も増大傾向にあった。飢饉は人災ーー。しかも、放牧地確保のため、借地料を払えなくなった人たちは即刻、強制的に土地を追われた。だが、アイルランドには、彼らを吸収する産業などなかったのである。

井野瀬久美恵『大英帝国という経験』108頁
ダブリンにある飢饉追悼碑

⑤問題を輸出する「帝国」

以後、アイルランドからの人口流出は加速する。それ以前からあったブリテン島や北米への移民がこれを機に激増し、その流れが止まらなくなるのである。

しかし、イギリスはこれを止めようとはしなかった。実はこの時期、イギリスの農村でも人口圧が高まり、まずは都市へ、次いで海外へ、という流れによる人口流出が急増していたが、イギリスはこれも意に介さなかった。

移民という安全弁がなければ、1840-50年代のイギリスとアイルランドの社会がどうなっていたか、想像することさえ難しい

エイザ・ブリッグズ『改良の時代 1783-1867』(1959)(井野瀬・120頁から孫引き)

そう。イギリスにとって、移民は、つねに「イギリス社会にとって好ましくない人たちを排除する手段」(井野瀬・121頁)であり、問題解決の方法だったからである。

イギリスは、1660年代以降は北米に、アメリカが独立した後はオーストラリアに囚人を送った。

社会不安による窃盗の横行、人口過剰による食糧不足、抑圧された人々による反乱。近代イギリスは、こうした問題を政治的に解決する代わりに、一貫して「輸出」することで対処した。「イギリスは断じて帝国ではない」と私が考える所以である。

⑥アイルランドのその後と北アイルランド紛争

アイルランドは、独立戦争、内戦を経て、1922年にアイルランド自由国(完全な独立国ではなくイギリス連邦内の自治領(Dominion))として独立。1949年には、イギリス連邦を離脱した。

独立によって、アイルランドのカトリックがみな解放されたかというと、そうではない。北アイルランドが分離したからだ。

アイルランドが自由国として独立した1922年、北アイルランドは自由国から離脱し、グレート・ブリテン王国の自治領の地位を得た。

前回書いたように、北アイルランド(アルスター)の人口構成は、他の地域と違っていた。「イギリス化」のための大規模な植民事業が行われた結果、支配層(地主階級)だけでなく、庶民の間でも、イギリス出身者(プロテスタント)の割合が高くなっていたのだ。

だからこそ、彼らはアイルランド自由国から離脱することを選んだ。それはよくわかる。問題なのは、しかし、北アイルランドにも、アイリッシュのアイデンティティを持つカトリックが多数住んでいる、ということなのだ。

有権者の多数を占めるイギリス系プロテスタント(ユニオニスト)は権力を独占し、プロテスタントの支配を維持するべく、政治的・経済的にカトリック住民を差別する政策を取り続けた

‥‥北アイルランドは1921年に自治国家として成立した。しかし、その社会は、多数とはいえ3分の2、あるいは地域によっては少数派であるプロテスタントのユニオニスト(イギリスとの連合派)がカトリックを強権的に支配する構造であった。それを支えたのが、

(1)普通警察や武装警察に加えて、独立戦争中に編成された特別警察(なかでもBスペシャルとよばれたパートタイムの武装警察がもっとも凶暴であった)と容疑者を無期限に拘留するインターンメント(予防拘禁)などによる治安体制

(2)比例代表制の廃止、複数選挙権制(普通選挙権に加えて、資産家に認める企業家特権などー公民権運動が始まると廃止)やゲリマンダー(特定政党が有利になる不自然な選挙区割)などによる各地方議会のプロテスタント独占

であった。それによってカトリックの失業率がプロテスタントのつねに2倍以上という職業差別など、従来からあったカトリック差別の社会構造がいっそう極端に固定されてしまった。その基盤にはカトリック住民とプロテスタント住民の宗派対立意識があるが、それがいっそう拡大、固定されたのである。

日本大百科全書(ニッポニカ)「北アイルランド紛争」[堀越智] より一部抜粋

つまり、アイルランドが独立し、イギリスのくびきから(ほぼ)解放された後も、北アイルランドには「プロテスタントの優位」に基づく「アイルランド版アパルトヘイト」が残った(そしてイギリスはこれを放置した)、ということである。

北アイルランド紛争とは、基本的に、この「アパルトヘイト」をめぐる闘争なのだ。

そういうわけなので、北アイルランド紛争は、決して、「北アイルランドにおける宗教対立」の問題などではない。

北アイルランド紛争は、単純に、イギリスのアイルランド支配(アパルトヘイト政策)の問題であり、自らが引き起こしたその問題を「自治」に任せて放置したゆえの問題なのだ。

The front page of the Irish Independent, 31st January, 1972. (血の日曜日事件の新聞記事)

おわりに

いかがでしょうか。

私は、知っているようで知らないことが多く、調査の間、いちいち「ええっ!」とか「きゃー」とか、ジェットコースターに乗っているような気分でした。

フランスと戦って島国となってもまだ権威の軸を持たなかったイギリスは、アイルランドに敵役を押し付けてグレート・ブリテン王国を築き、大量のアイルランド人の血の上に近代化を達成し、アイルランド・カトリックの隔離と差別を国家統合の基礎として、世界に冠たる植民地「帝国」を築きました。

そのイギリスは、現在、後継者たるアメリカ「帝国」の崩壊を前に、ウクライナを表に立てて対ロシア戦争を仕掛け、イスラエルによるガザ・レバノン侵攻を猛烈に支援し、反イスラエル闘争を固い決心の下に遂行するイエメンと戦争をしているわけですが、この顛末は、いかなる意味でも、偶然とはいえない、と私は思います。

いま世界で起きていることは、イギリス・アメリカに率いられて私たちが歩いてきた近代の道のりの、かなり必然に近い帰結であるに違いないのです。

・  ・  ・

「でも、ねえ‥‥」

ため息をついたところで、話は本編の方に戻ります。

しかし、彼らだって、決して、好きで「抗争と掠奪」に明け暮れているわけではないはずです。そのことは、150年間、西欧人になろうと努力し続けた私たちが一番よく知っている。私たちがなんか知らないけどつい長いものに巻かれて周囲と同じように行動してしまうように、彼らは彼らで、なんか知らないけど、自由を叫び、争い、奪ってしまうのです。

「トッド後」の近代史3ー③

どうして、核家族が先頭を走ると、世界はこんなふうになってしまうのか。元の道に戻って、探究を続けましょう。

主な参考文献

  • 近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)
  • 木畑洋一・秋田茂編『近代イギリスの歴史』(ミネルヴァ書房、2011年)
  • 川北稔・木畑洋一編『イギリスの歴史』(有斐閣アルマ、2000年)
  • 井野瀬久美恵『大英帝国という経験』(講談社学術文庫、2017年)
  • 山本正『図説 アイルランドの歴史』(河出書房新社、2017年)
  • 佐藤賢一『英仏百年戦争』(集英社新書、2003年)
  • エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 上』(文藝春秋、2022年)
  • エマニュエル・トッド『家族システムの起源Ⅰ ユーラシア 下』(藤原書店、2016年)
  • エマニュエル・トッド『新ヨーロッパ大全Ⅱ』(藤原書店、1993年)

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イエメンQ&A

ガザとイエメンー「フーシ派」は何と闘っているのかー」の内容を元にザックリ目に解説します。「本当か?」とお思いの方はぜひ同記事をご参照ください。

目次

Q イエメンのフーシ派はなぜハマスと連帯を掲げたり、紅海で船舶を拿捕したり、アメリカ・イギリスと戦ったりしているのですか?

フーシ派、というよりイエメンの人々は、ハマス、というよりパレスチナの人々に対し、同じ敵と戦う同志という意識を持っているからです。

イエメンは2014年からサウジアラビアと戦争状態にありました。2017年からはサウジ軍によって国境を全面的に封鎖され、「世界最悪の人道危機」と呼ばれる状況に陥りました。

イエメンに対するサウジアラビアの攻撃がアメリカの全面的な支援と支持を受けて行われた一方的な(正当性のない)攻撃であった点を含め、イエメンが置かれた状況は、2008年以来のガザの状況とよく似たものでした。

一方で、イエメンの場合、状況はわずかながら改善の方向に向かっていました。

ウクライナ戦争で忙しくなったバイデン政権がサウジへの軍事的支援を減少させたことで、サウジはイエメンとの和平を模索せざるを得なくなったからです。

2023年1月にはサウジとイエメンの直接交渉が始まり、年内には合意締結か、といわれるようになった頃、ガザ危機が始まったのです。

イエメンの人々は当事者です。ガザ危機が始まったとき、彼らは、これまで自分たちに向けられていた理不尽な力の矛先が、アメリカの差配によって、今度はガザに向けられたのだということをはっきり理解したと思います。

イエメン人とパレスチナ人は、同じアラブのムスリムです。どちらも、アメリカを初めとする「国際社会」の恣意的な行動によって、長い苦しみを味わってきました。その同胞に対して、同じ敵が、(彼らから見れば)邪悪な攻撃を仕掛けている。

となれば、若いイエメンの人々(年齢中央値19歳です)が、パレスチナとの連帯を掲げ、敵方(アメリカ、イギリス、イスラエル)の駆逐を誓うのは、ごく自然なことだと私は思います。

なお、日本ではまったく報道されませんが、「フーシ派」(西側に近いメディアが勝手にこう呼んでいるだけであり、正式名称は「アンサール・アッラー」です)の今回の行動は、イエメン国民から熱烈な支持を受けています。

アンサール・アッラー(フーシ派)の行動は、アメリカに代表される西側世界やイスラエルが行使する理不尽な力から、パレスチナ人の権利を守り、イエメンの自由と独立を守り抜くというイエメン国民の意思に支えられたものです。決して「反政府組織による暴挙」といった性格のものではありません。

民間人エリアへの無差別攻撃を含む戦闘行為、全面的な国境封鎖による物資の不足等により、多数の人々が死傷し、飢餓や感染症による生命の危険に晒され、劣悪な環境での暮らしを強いられている状況を指します。

国連開発計画(UNDP)の2021年12月の報告書によると、2015年から2021年12月末までの死者数は約37万7000人。死亡原因の約4割が戦闘関連、残りの約6割は飢餓や感染症によるものだそうです

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2023年の時点で、国内避難民は約450万人、人口の約7割に当たる約2160万人が極度の貧困状態に置かれています。

このような事態は、2015年3月にサウジアラビアがイエメンへの攻撃を開始し、イエメンが戦場となったことによって発生しました(私は勝手に「第二次サウジ・イエメン戦争」と呼んでいます)。

なお、サウジによる国境封鎖は現在(2024年3月)も続いています。

Q 「世界最悪の人道危機」の原因は内戦だと思っていました。違うのですか?

いわゆる「国際社会」は「人道危機」の原因を内戦と言い張っていますが、事実は異なります。「内戦」と呼ばれているものの実態は、サウジアラビア VS イエメンの戦争です。

イエメンでは2014年に本物の民主化革命が始まり、2015年2月にアンサール・アッラー(フーシ派)が新政権の樹立を宣言しました(西側に近い国のメディアでは「クーデター」としか言われませんが、イエメン国民の大多数はこの政権を支持しています)。

サウジの攻撃はこの革命を阻止するためのものです。したがって、サウジ側から見れば干渉戦争、イエメンから見れば革命防衛戦争ということになるでしょう。

戦争に至る経緯を確認しましょう。

1️⃣アメリカ・サウジと蜜月にあり、外国資本頼みの経済運営を続けたサーレハ政権(任期1978-2012)の下、攘夷(反米・反イスラエル)を訴えるアンサール・アッラー(フーシ派)の運動が勃興

2️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)を脅威に感じたサーレハは、彼らの拠点があるイエメン北部にサウジアラビア軍と合同で大規模軍事攻撃(イエメン焦土作戦・2009)を展開。国民の心は政府から離れ、アンサール・アッラーの支持拡大。

3️⃣イエメンに反米・反サウジ政権が誕生することを嫌った外国勢力は、アラブの春」(2012)を利用してサーレハに退任を迫り、従来通りの「売国」政策を引き継ぐ傀儡政権を樹立(ハーディ暫定政権)

4️⃣IMF/世界銀行経由の融資を使い果たした暫定政権は2014年1月に公務員の給与支払いを停止。追加融資を得るために緊縮策(イエメン国民の命綱である燃料補助金の削減)の条件を呑んで同7月にガソリン・軽油の大幅値上げ

5️⃣怒ったイエメン国民は暫定政権の退陣を求めて立ち上がる(2014年7月〜)革命の開始

6️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)は2014年9月に首都サナアを掌握。暫定政府は辞意を表明し(2015年1月)、アンサール・アッラーが新政権樹立を宣言(2015年2月)

7️⃣2015年2月、暫定政府は辞意の撤回を宣言してサウジアラビアに逃亡。サウジの庇護下で亡命傀儡政府を樹立

8️⃣その直後、サウジはイエメンへの激しい空爆を開始(2015年3月)。第二次サウジ・イエメン戦争が始まり「世界最悪の人道危機」へ

西側に近い国のメディアが第二次サウジ・イエメン戦争を「内戦」と呼ぶのは、アメリカやサウジが代表する「国際社会」は、亡命傀儡政権こそが正統なイエメン政府であるという立場を崩していないからです。

しかし、傀儡のハーディ暫定政権は、もともと、イエメン国内には全く支持基盤を持たない「国際社会だけが支持するイエメン政府」でした。

そのやり口に怒ったイエメン国民が革命を起こして暫定政府を辞任させ、新たな政権を樹立した今、亡命したハーディ暫定政権を「正統イエメン政府」とするのは無理筋というほかありません。

そういうわけですので、この戦争は、決して、「正統なイエメン政府軍 VS 反政府軍」の内戦ではありません。「革命によって新政権を樹立したイエメン VS それが気に入らないサウジ(とアメリカ)」の戦争です。そして、この戦争におけるサウジ軍の攻撃こそが、「世界最悪の人道危機」を引き起こしたのです。

詳しくはこちらをご覧ください

Q フーシ派ってテロ組織ですよね。フーシ派が正統な新政権の担い手だなんて、ちょっと信じられないのですが・・

アンサール・アッラー(フーシ派)は、イエメン北部のイスラム教ザイド派地域から出た真面目な政治運動です。ザイド派を再興し、反米・反イスラエルに立つ新しいイエメンを作ろうとする運動で、暴力を厭わないところを含めて、「尊王攘夷」を謳って台頭した幕末の志士のようなものと考えればよいと思います。

彼らは、サーレハ政権(ハーディの前の大統領。親米・親サウジではあったが傀儡ではなかった)の時代から政府との武力衝突を繰り返していました。今の日本では、暴力で政権を取るなんてことは考えられないので、「そんな粗暴な勢力が正統な政府なんて・・」と思う気持ちはわかります。

しかし、初代内閣総理大臣を務め、昭和の千円札にまでなった伊藤博文だって、幕末には何人も人を斬り、英国公使館に火をつけたりしていたのです。

革命に暴力は付き物です。その上、アメリカ・サウジなどの大国が日常的に介入してくるのですから、相当高度な軍事力を駆使できなければ、革命はおろか国の独立すら維持できない。それが彼らの置かれた状況です。アンサール・アッラー(フーシ派)が高度に武装しているからといって、野蛮なテロ組織と見るのは的外れだと私は思います。

アンサール・アッラーのメンバー
長州奇兵隊(wiki)

新政権は、昨年の段階で全人口の70-80%の居住地域を支配下に収めたといわれていましたが、ガザ危機に対する新政権の決然とした行動は、国民からの幅広く熱烈な支持を集めているようです。イエメンには南部に自立を志向する分離派が存在しますので、彼らとの内戦が継続する可能性はありますが、新政権の基盤が根本的に揺らぐことはないように思えます。

なお、アンサール・アッラー(フーシ派)が「国際テロ組織」とされるのは、敵対しているアメリカが勝手に「国際テロ組織」に指定しているからであって、それ以上の意味はありません。 

Q サウジアラビアやアメリカはなぜそこまでしてイエメンの革命を阻止したいのですか?

民主化革命が波及してくると困るからです。

サウジアラビアや湾岸諸国は近代化(ここでは識字率上昇を指標とします)においてイエメンに先行していますが、本格的な民主化革命を経験していません。

イエメンでの革命が波及して彼らの政体(世襲による君主制)の打倒につながることを避けたいというのが、サウジや湾岸諸国がイエメンに介入したい根本的な理由です。

この点は、実はアメリカも同様です。アメリカは、西アジアの君主制国家と親密な関係を保つことで、石油などの天然資源開発やその利権の差配による利益を大いに得てきました。産油国との関係は、石油決済におけるドル使用の確保などを通じ、ドル覇権を支える重要な要素にもなっています。

西アジアで続々と革命が起こり、真に国民の利益を代表する政権が誕生した場合、新たな政府は、アメリカの利益や為政者の保身よりも、国民の利益を重視するようになるでしょう。

イラン革命(1979)後のイランがそうしたように、天然資源の国有化を目指し、軍事力を強化し、経済・外交における自立を確保しようとするでしょう。

とりわけ、西アジア最大の産油国であるサウジアラビアの忠誠が失われることは、アメリカにとって最大の脅威の一つであり、絶対に避けなければならない事態なのです。

すでにお気づきかと思いますが、アメリカがイランを徹底的に貶め、敵視しているのもそのためです。

イランがアメリカに嫌われるのは、決して、イランが「人権無視で非民主的な専制主義国家だから」ではありません。真の理由はその正反対で、イランが本物の民主化革命を成功させ、経済・外交政策において自立し、国民の利益のための国家運営を始めたからなのです。

1974年7月にニクソン大統領の命を受けて、ウイリアム・サイモン財務長官がサウジアラビアを訪問、「米国はサウジアラビアから石油を購入するとともに、サウジアラビアに対して軍事援助を行う。その見返りとしてサウジアラビアは石油収入を米国債に還流させ、米国の歳出をファイナンスする」仕組みを提案した。サウジアラビアのファイサル国王は、自らの米国債購入が間接的に米国によるイスラエル支援に向かうことを恐れ、米国債購入については極秘扱いすることを要請したという。サウジアラビアの要請に応じ、米財務省は通常の競争入札によらず、購入実績が開示されない特別な形式によってサウジアラビアが米国債を購入できるように便宜を図ったのである(いわゆるワシントン・リヤド密約)。今日まで続いている国際的な原油取引におけるドル建て決済の慣習はワシントン・リヤド密約に基づくものと考えられ、戦後のブレトンウッズ体制崩壊後もドルが基軸通貨としての地位を維持できたことの一因にこの密約があったとも言える。

長谷川克之「サウジアラビア通貨政策の現在・過去・未来」(2023)(太字は辰井)

Q イエメンの宗教はイランと同じシーア派で、フーシ派の背後にいるのはイランだと聞いたことがあります。そうなのですか?

アンサール・アッラー(フーシ派)とイランが良好な関係にあることは事実ですが、アンサール・アッラー(フーシ派)がイランの手先とか子分ということはありません

両者は意思決定主体として独立しており、経済力や発展度合いの相違はあるにせよ、基本的に対等な関係性を保っていると見られます。

また、イエメンとイランが良好な関係にあるのは、現下の国際情勢において、両者が共通の志を持ち、共通の利害を有するからであり、宗教は関係がありません

「関係がない」といいながら、一応確認をしておきますが、宗教においても、両者は「同じシーア派」というわけではありません。

イエメンのザイド派は、たしかに、大きな括りではシーア派に属します。イランの国教である12イマーム派も、大きな括りではシーア派です。

しかし、この「シーア派」という括りが曲者で‥‥何ていうのでしょうか、キリスト教における「プロテスタント」と同じようなもので、シーア派に属するとされる諸宗派は、「主流派(スンナ派)に対するアンチ」という立ち位置を共有するだけなのです。

ザイド派の成立は12イマーム派よりも早く、12イマーム派の影響下に成立したわけではないですし、ザイド派が12イマーム派に影響を与えたという事実もないようです。

そういうわけで、ザイド派と12イマーム派は、ほとんど共通点のない(相互に)独立した宗派といってよいと思います。

詳しくはこちらをご覧ください

Q ガザやイエメンをめぐる情勢が何かもっと大きな動きにつながることはありえますか?

近年起きている大きな事件は、すべて、アメリカを中心とする世界から、ユーラシア大陸の旧帝国地域(西アジア、中国、ロシア‥)を中核とする多元的な世界へ、という大きな動きの一部を形成していると私は見ています。

崩壊の過程にあるアメリカ帝国の「最後の悪あがき」が、ウクライナ戦争であり、ガザ危機です。アメリカには、もっと穏やかに衰退し、普通の国になるという選択肢も(理論的には)あったはずですが、もう無理だと思います。アメリカ帝国は、数年のうちに自滅していくでしょう。

その後、世界は、そして西アジアはどうなっていくのか、と考えたとき、ガザ・イエメン情勢が持つ意味が浮かび上がってきます。

西アジアの近未来を想像してみましょう。

  • アメリカの退場で不和の種は激減
  • 「国民国家」という仕組みの(地域への)不適合が顕在化し、紛争・混乱を経てアラブ統一国家の樹立に向かう可能性
  • イスラム諸国とイスラエルの関係が大問題に。中国等の仲介による和平or戦争を経て、新たな秩序の構築へ

民主化革命を成功させ、パレスチナ人のために敢然と戦うイエメンは、「アメリカ後」の世界で特別に重要な国(地域)となり、世界を動かしていく可能性があります。なぜか。

アラブ諸国の中で、軍事・外交・経済政策の面で、アメリカの影響力を完全に排除できている(自主独立を保持している)国は、じつは、革命後のイエメンしかありません。

治安・軍事面でアメリカに依存してきた国々の政府(多くは世襲の君主制です)が、本物の民主化革命に怯え、自国民との関係を構築し直さなければならないのに対し、政府と国民が一丸となって、サウジ、アメリカを駆逐し、イスラエルと戦ってきたイエメンは、貧しくても悠然としていられるでしょう。

パレスチナの大義のために、国家として正々堂々と戦ったイエメンは、アラブの人々の間で尊敬を受け、国際社会においても、名誉ある地位を得るでしょう。

国際社会からの支援を得て復興を遂げた後、イエメンは、アラブ圏の中心となり、発展途上にあるアフリカの国々の先頭に立って、次の世界を率いていくのではないでしょうか。

アメリカは倒れ、西側は弱体化し、中国やロシアが力技で新たな世界秩序の基礎を作った後、大々的に再編された西アジア・アフリカが新しい形の世界の進歩をもたらしていく

ガザ危機に接した各国の行動とイエメンの大活躍は、そのような明るい未来を見事に映し出している。私はそう感じています。

人口動態も私が明るい展望を抱く根拠の一つです
「アメリカが倒れ・・」のくだりが唐突に感じられた方はこちらの連載をご覧ください。

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ガザとイエメン
– 「フーシ派」は何と闘っているのか-

目次

1 革命のイエメン

イエメンはいま革命の只中にある。誰もそんなことを言う人はいないが、そうなのだ。CIAが仕組んだ「カラー革命」なんかとは違う、フランス革命と明治維新を足して2で割ったような本物の市民革命だ。

イエメンは西アジアの中でもっとも近代化が遅れた国で、20-24歳の男性の識字率が50%を超えたのは1980年である(↓)。彼らは、日本の150年前、フランスの250年前くらいの時期を迎えているわけなので、いまが市民革命の真っ只中というのは、人類史の過程として全く正常といえる。

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

世間では、イエメンはいま「世界最悪の人道危機」に陥っていて、その原因は内戦であるとされている。私の調査によれば、それは真実ではない。真実はこうだ。

イエメンに攻撃を加え、国境封鎖までして、「人道危機」を引き起こしているのは、イエメンの革命を阻止したい外国の勢力である。イエメンで起きているのは、革命のイエメンに対して外国(サウジ、アメリカほか「国際社会」)が仕掛けた干渉戦争なのである。

しかし、いったいなぜ、近代化において先行しているはずの諸外国は、そんなにまでしてイエメンの民主化を妨害しなければならないのであろうか。

イエメン情勢に深く関わる勢力は、サウジ、アメリカ、IMF/世界銀行。私にとっては「基軸通貨ドル」の総復習のような事例だった。

2 イエメンの旧体制(アンシャン・レジーム)

(1)イエメンの近代化

イエメン革命の中心地は北部、首都サナア周辺の山岳地帯である。この地域は、859年以来、ザイド派イマーム(宗教指導者)が王として統治していた。

Northern Yemen (Photo by aisha59, available at Flickr.)

しかし「歴史」でも書いたように、イマーム=国王が安定した中央集権を実現していたわけではないという点は重要である。イエメン北部には部族単位の地域共同体があって、その長が大きな力を持っている。国王は、彼らの協力を取り付けなければ、決して国をまとめることはできなかったのだ。

オスマン帝国の支配を受けた時代にも、北部地域はオスマン帝国への抵抗を続けた。ということは、その時期も、イマーム=国王がいて、部族長が治める地域共同体があるという国の基本構造が失われることはなかったということである。

イエメン史の中心にはいつもこの北部地域の部族社会がある。この地域を中心に、市民革命に至る近代化の歴史を描くと、その過程は以下のようにまとめることができる。

1️⃣イエメン王国の成立(1918):オスマン帝国からのザイド派イマーム王国の独立

2️⃣イエメン・アラブ共和国の誕生と確立(1962-68):イエメン革命(1962)によって共和国が成立。内戦を経てザイド派イマーム王朝が終焉を迎え、共和政体が確立

3️⃣強権的リーダーによる近代化(1968-2012):共和国の確立後も政権交代は主にクーデター、強権的なリーダーの力で近代化が進められた。ハムディ政権(1974-1978)の後に長期政権を確立したのがアリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh 1978-2012)。

このサーレハの時代こそが、現在の革命にとっての旧体制(アンシャン・レジーム)である。

(2)サーレハ政権末期

サーレハは毀誉褒貶(というか毀と貶)の激しい人物だが、アメリカやサウジの意向で政権を追われた人物であるから、その全てを真に受けることはできない。彼の任期全体についての概観は現在の私の手には負えないので、政権末期の状況を中心に、要点を確認しよう。

2004年アメリカ国防総省でのサーレハ(wiki)

①サーレハと石油

1940年頃には石油生産を始めていたサウジなどと異なり、イエメンが産油国となったのは1980年代に入ってからである(おそらく1985年頃)。

サーレハ大統領は、長年続いた内戦からの国家再建のために石油・ガス開発に取り組み、石油開発を成功させて、経済を活性化させた。

そこまではよかったのだが、サーレハは、分裂含みのこの国をまとめていくにあたって、地域や勢力間の利害調整を行い、共通の基盤を形成するという根気のいる仕事に取り組む代わりに、北部の部族長やら、南部の分離派勢力、対立する議員を、石油利権で懐柔するという安直な方法に頼った。

国の経済についても、持続的な発展の基盤の上に、近代国家としての仕組みを成り立たせるのではなく、公務員の給与から施設の整備まで、すべてを石油収入に依存した。

サーレハは、石油利権や、1980年代に急増した外国からの開発資金をほしいままに分配することで、自らの権力を固めつつ、イエメンを石油(と外国からの資金)なしには成り立たない、不安定な国家に仕立てていった。

この記事を大いに参考にしました

②サーレハとアメリカ:湾岸戦争の経験

サーレハ政権は、就任当初から、外国からの開発資金を積極的に受け入れる政策を取った。石油開発もおそらくアメリカなどの資金であろう(調べていません)。

ただ、その頃のサーレハが「親米」であったかどうかはよくわからない。サーレハは湾岸戦争の際に中立の姿勢を保った(要するにアメリカ側に付かなかった)ことで知られている。このことから推察するに、当初のサーレハは、ごく普通に、国家建設や政権の安定に必要な限度で外国からの資金を受け入れるが、だからといって外国の言いなりにはならない、という気分でいたのではないだろうか。

しかし「是々非々」の常識は「国際社会」には通用しなかった。湾岸戦争でアメリカ率いる多国籍軍側につかなかったことで、イエメンは、アメリカをはじめとする「国際社会」や周辺のアラブ諸国から総スカンを喰らい、外国からの資金は激減、深刻な経済的困窮に陥ったのだ。

このときの経験が、おそらく、サーレハと、のちに革命を率いることになる若者たちの行く先を分けることになる。サーレハの方は、アメリカをはじめとする「国際社会」や湾岸諸国の資金なしに政権を維持するのが不可能であることを悟り、親米・親サウジの現実路線を選択した。他方、若者たちは、アメリカ、サウジの横暴に怒りを募らせ、これに迎合してイエメンの外国依存度をいっそう高めようとするサーレハ政権にも怒りを向けたのだ。

湾岸戦争後の経済的困窮の中、イエメン各地で頻発するようになった反米・反サウジの抗議運動は、政府への抗議運動と重なり、不安な政情の下に、革命の下地を形成していくのである。

③IMF/世界銀行への依存度の増大

イエメンは1990年に南北統一を果たしているが、サーレハ政権への南イエメン側の不信感は収まらず、1994年には内戦が勃発している。内戦はすぐに(2か月)終わったが、経済的困窮の度は増した。 

こうした中、サーレハ政権は、IMF/世銀からの多額の融資と構造調整プログラムの受け入れを決める。多額の開発資金という「毒饅頭」の受け入れは、サーレハの当座の権力基盤を強化し、同時に、GDP成長率を急激に押し上げた。

しかし、「ワシントン・コンセンサス」に忠実なプログラムー公務員数の削減、増税、補助金の削減、金融・資本自由化等ーが、イエメン経済の安定的な成長を阻み、経済の土台を不安定化するものであったことは疑いない。

開発資金の流入による目先の利益を求め、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)への依存度を高めるサーレハ政権に、安定した生活基盤を求めるイエメン国民そして「憂国の志士たち」の不信感はいよいよ強まったはずである。

IMF/世界銀行のやり方の問題点についてはこちらをご覧ください。

この(記事の)先の理解のキーになるポイント3点を予め解説しておきます。必要を感じたら戻ってお読み下さい。

公務員:発展途上の国家としては当然のことだが、イエメンでは公務員の存在が極めて大きい。教師、医師、ソーシャルワーカー、建設労働者、各種技術者、警察官などのあらゆる仕事を公務員が担っており、彼らの雇用が維持され、給与がきちんと支払われるということが、イエメン社会にとって決定的な重要性を持っている。IMF/世界銀行の「民営化」方針によって公務員の数が削減されたり、その他の事情で給与の支払いが停止すれば、直ちに社会の緊張・不安が発生する。そういう構造の社会である。

燃料補助金:イエメンが石油によって上げる利益が国民に還元される主なルートは燃料補助金。補助金による安価なガソリン・軽油が多くの国民の生活を支えている(燃料補助金の恩恵を受けていたのは貧困ラインよりも上の人々だったとされている)。

社会福祉基金(the Social Welfare Fund):おそらく1995年以降の支援の過程で世界銀行が創設した基金で、イエメンにおける唯一の社会福祉プログラムだった。資金も全面的に世界銀行が拠出しており、石油が払底してからは燃料補助金(の一部?)もこの基金から支払われていた(公務員の給与もこの基金から出ていたという話もある)。設立当初(1996年)の10万人だった支援対象者は、2000年には100万人を超えていた。社会福祉を必要とする貧困世帯はイエメンの場合、国民の半数近くに及んでいる。つまり、IMF/世界銀行は、社会福祉基金への資金提供(→燃料補助金の維持と貧困世帯への支援)を通じて、イエメンの人々の生殺与奪の権を握る存在となっていたのだ。

④払底する石油

こうした中、外国からの援助(+出稼ぎ)以外の唯一の資金源であり、政治的安定の要でもあった石油の産出に翳りが見え始める。

1980年代にようやく石油産出国となったイエメンの石油生産高は、1990年代後半には早くも減少に転じるのである。

石油が底をついたことで、サーレハの求心力はあからさまに弱まり、権力失墜の過程が始まる。同時に、経済には暗雲が漂い、IMF/世界銀行への依存度はいっそう強まる。

「革命前夜」のイエメンである。

3 革命の端緒:イエメン焦土作戦

(1)アンサール・アッラー(フーシ派)の勃興

世間では一般に「フーシ派」と呼ばれるアンサール・アッラーが勃興したのもこの頃のことである。幕末の日本で「尊王攘夷」が盛り上がったのと全く同様に、北イエメンでは、ザイド派の再興を図り、反米・反イスラエルの機運を高めようとする運動が盛り上がった。ザイド派のウラマーを父に持つフセイン・バドルッディーン・フーシ(1959-2004)が1990年頃に立ち上げた青年信仰運動。それがアンサール・アッラーの起源である。

アンサール・アッラーは基本的に生真面目な若者たちの集まりであったと私は思うが、政権側から見て、アンサール・アッラーの勃興が「脅威」と感じられたことは疑いない。

イエメン史を通じて基幹的な政治的影響力を手放したことのない北部ザイド派地域から出た運動であること、サーレハの提供する各種利権に懐柔された部族長たちの不甲斐なさに不満を抱く若者たちの運動であること、加えて、イエメンは出生率が低下を始めたばかりの時期、つまり、若年人口極大化(ユースバルジ)の時期に当たっていたこと(↓)。

サーレハ政権にとっての脅威は、政権と蜜月の関係にあるサウジやアメリカにとっての脅威でもある。2004年にフセイン・バドルッディーン・フーシがイエメン当局に殺害されて以降、反対勢力には「フーシ派」と呼ばれるようになったアンサール・アッラーは、こうして、明確に、国際社会の「敵」と位置付けられるようになった。

これは2020年のピラミッドですが、35年分ずらして見ると、ユースバルジ(若年人口の団塊)が一層顕著であることがわかります。

(2)イエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 2009)

これもほとんどどこにも書いていないのだが、アンサール・アッラーが率いる現在の革命の端緒といえるのは、2009年にサーレハが実施したイエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 8月-2010年2月)である。

イエメン北部サーダ(Saada)で発生した政府への抗議運動を口実に、イエメン政府とサウジアラビアは北部ザイド派地域に対する合同軍事作戦を展開した。

イエメン軍の地上部隊は北部に散らばるアンサール・アッラーの拠点を、サウジ空軍は部族勢力の居住地域を執拗な空爆で攻撃。数ヶ月に渡る作戦で、北部住民を中心に8000人以上のイエメン人が死亡、50000人以上が強制退去させられたという。

サーレハがサウジと組んで行ったこの作戦は、当然のことながら、イエメン中の人々を激怒させた。貧しく若い国民にとって「敵」に近いのはどちらかといえばサーレハやサウジであって、アンサール・アッラーではない。イエメン政府でありながら、サウジと組んでの「焦土作戦」とは何事か。

こうして、人々の心は政府から離れた。長年サーレハを支えてきた部族勢力、ザイド派、そして南部の分離派運動の担い手までもが、サーレハの非道なやり方に怒り、アンサール・アッラーとの連帯を示し、反政府で団結した。

この作戦を機に、イエメン全土で、政府側と反政府側が散発的に交戦する内戦状態が始まった。北イエメンではアンサール・アッラーとサーレハ政府が、南イエメンでは分離派とAQAP(アラビア半島のアルカーイダ)が、1年近くに渡って戦闘を繰り広げた。

(3)「焦土作戦」の背景:世銀レポート

イエメン焦土作戦は、アンサール・アッラーの反政府運動を鎮圧するための軍事行動と説明されるのが一般的であるが、その真実性はかなり疑わしい。

この時期、イエメン政府とサウジアラビア、そしてIMF/世界銀行(≒ アメリカ)には、イエメン北部を「焦土」にしたい明確な理由があったからだ。

イエメンにおける石油の将来が暗いことを知った世界銀行は、新たな投資・開発の対象として、イエメンの鉱物資源とその開発状況に関する調査を行った。

世界銀行「イエメン 鉱物開発部門の調査報告(2009年6月)」(Yemen Mineral Sector Review, June 2009)の中で、執筆者は、イエメンがサバア王国(潤沢な金の産出で知られていたらしい)の地であることに触れ、「イエメン西部がそれらの金の産出源であることが明らかになっているにもかかわらず、近代以降、金の採掘がほとんど行われていないのは驚くべきことのように思われる」と述べる。

その同じレポートの中で、世界銀行は、イエメンの鉱物部門が投資先として非常に有望であることを示しつつ、投資および開発にとって脅威となりうる要素として以下の2点を挙げているのだ。

・イエメン北部の反乱は投資家の国に対する印象を悪化させる。
・部族の土地では資源へのアクセスが困難である可能性がある。

このレポートが公表された2ヶ月後、イエメン政府とサウジアラビアは「焦土作戦」を実施した。

彼らが、1️⃣鉱物資源へのアクセスを容易にし、2️⃣アンサール・アッラーを叩く、という一石二鳥を狙っていたのだとしたら、作戦は1️⃣については失敗、2️⃣については逆効果に終わったことになる。

甚大な被害を出したにも関わらず、政府は勝利を宣言することはできなかった(1️⃣は失敗)。それどころか、全国民を敵に回し、革命の導火線に火をともすことになったのだ。

4 前哨戦:イエメン尊厳革命(2011)

(1)イエメンに到達した「アラブの春」

https://en.wikipedia.org/wiki/Yemeni_Revolution#/media/File:Yemen_protest.jpg

2010年12月にチュニジア、2011年1月にエジプトに到達した「アラブの春」の波を受け、イエメンでも学生を中心とするデモが始まった。

学生の要求は当初は失業、経済、汚職に関するものだったというが、要求はエスカレートし、彼らはやがてサーレハ大統領の辞任を要求するようになった。

サーレハはいつも通りの強硬な対応を取り、軍の鎮圧によって2000人以上の市民が死亡、数百人以上が負傷した。

決定的な転機として知られるのは「変革広場(Change Square)の虐殺」である。サーレハは、学生たちがサナアの大モスクから金曜礼拝を終えて出てきたところを軍に実弾と毒ガス弾で狙い撃ちさせ、90人の学生のうち52人を死亡させたという(生存者の約4割は脳障害等の傷害を負った)。

この事件の後、軍のトップであり長年イエメンのナンバー2と目されてきたアリー・ムフセン・アブダッラー(Ali Mohsen Abdullah)が公式にサーレハ政権からの離反を表明し、サーレハの辞任は避けられない情勢となった。

・ ・ ・

というのが、一般に言われている筋書きなのだが、どうでしょう。私はこれをその通りに受け止めることができない。

学生がデモを始めたところまでは、自発的な動きかもしれない。しかし、その後、彼らがサーレハの辞任を要求するようになるまでの間に、外国勢力(アメリカが中心)の介入があったのではないだろうか。

2011年のデモについては、イギリスの監督による映画「気乗りのしない革命家」があって、学生たちがツイッターによるエジプトから指示を受けながらデモを実行する様子が映されているという(私は見ていない)。

さらに、このデモで負傷した息子を抱き抱える女性を撮影した写真が、2012年の世界報道写真大賞に選ばれている。

その上、「尊厳革命(the Yemen Revolutionary of Dignity)なんていう立派な名前を付けられて。

どう見ても怪しい、と私は思う。

(2)サーレハの辞任

約10ヶ月の抗議運動の後、2011年11月にサーレハ大統領は正式に辞任するのだが、これを「民衆の勝利」と評価してよいのかはわからない。

なぜかというと、サーレハが辞任を約束したのは、2011年6月に大統領官邸のモスクで謎の爆弾事件が起き、身体の40%の火傷、頭部負傷、内臓出血で死にかけて運ばれたサウジアラビアの病院で、当時のオバマ政権の国土安全保障・テロ対策大統領補佐官で後にCIA長官となったジョン・ブレナンと面会した後のことだからだ。

尊厳革命でサーレハをめぐる情勢が悪化して以来、サウジアラビアをはじめとするGCC(the Gulf Co-operation Council:湾岸協力理事会)諸国は、サーレハに対する早期退陣を説得していた。

サーレハは、GCCが仲介する権力の平和的移行のための協定への署名を繰り返し拒否していたが、爆破事件の2週間後、オバマ大統領からの書簡を携えてサーレハ大統領と面会したブレナンは、GCCが仲介する合意に署名し辞任するよう要求したという(以上アルジャジーラ)。

結局、サーレハは、サウジの事実上の国営メディアであるアル=アラビーヤが生中継する中、リヤドのアル・ヤママ宮殿で合意に調印(2011年11月23日)。身柄の保証や訴追免除等を条件とした権力の移譲に合意した(GCCイニシアチブ)。

https://www.cbc.ca/news/world/yemen-president-agrees-to-step-down-1.990428

(3)「国際的に承認された」新政府:傀儡政権の誕生

サーレハの後、代行を経て大統領に就任したのは、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディである。

2013年のハーディ(これも場所はアメリカの国防総省)

彼は南イエメンの出身だが、同じく南部出身の副大統領(アル・サーレム・アル=ビード)が1994年の内戦で敗北した後、その後任として副大統領になった。以来、一貫して、サーレハの片腕であった人物である。

ハーディは、IMF/世界銀行への依存度を高める政策においても、サウジと組んでのイエメン焦土作戦の実施においても、サーレハの共犯者であった。したがって当然、抗議運動に参加したイエメンの民衆は彼の大統領就任を歓迎しなかった。

サーレハを辞任に追い込み、ハーディに跡を継がせるというこの一連のプロセスの筋書きを書いたのは国連所属の外交官でイエメン特使(2011-15)を務めたジャマル・ベノマール(Jamal Benomar)だとされている(本人が2021年のニューズウィーク誌に書いているという)。

それにしても、「尊厳革命」と(西側に)持て囃された反政府運動の末に辞任した大統領の跡を、長年連れ添った副大統領に継がせる、というのは一体どういう筋書きなのか。

「決まっている」と私は思う。

サーレハ政権末期、サウジやアメリカに代表される「国際社会」とサーレハ政権の利害は一致していた。「現実路線」を選択したサーレハは、外国からの資金を積極的に受け入れ、構造調整プログラムも大人しく実施したし、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)やサウジ、UAEが推進したい鉱山開発のためには、自国民を犠牲にすることすら厭わなかった。

しかし、その「焦土作戦」は、予想外の反発ーアンサール・アッラー以外の勢力も一丸となって反対するというーを生み、事実上、サーレハの下で開発を進めることは不可能な状況に陥った。

そこで、アメリカ、サウジなどの「国際社会」は、すべての責任をサーレハに押し付け、何もかも承知しているハーディを後釜に据えた。

はっきりさせておこう。

ハーディの大統領就任によって、イエメン政府は本物の傀儡政権になった。曲がりなりにもイエメン共和国の正当な大統領であったサーレハと異なり、ハーディ、そして2022年4月にその後を継いだアリーミー(大統領職は廃止され、大統領指導評議会議長)が率いる「国際的に承認された」イエメン政府は、もはや、イエメン国内にはまったく支持基盤を持っていない。「国際社会」だけが支持する政権なのである。

5 革命本番へ(2014年7月〜)

(1)引き金を引いたIMF/世界銀行

本物の革命のスタートは2014年7月。イエメン社会にはすでにそのエネルギーが満ちていた。しかし、2014年に7月に革命が始まるよう仕向けたのはIMF/世界銀行である。

世界銀行を経由したイエメン政府への融資は、ハーディの着任以降急増していた。しかし、2014年1月、政府は融資に対する基本手数料の支払いができなくなり、(おそらく融資が中断されて)政府は資金難に陥った。公務員に対する給与の支払いは停止され(1月〜)、社会福祉基金の資金もなくなった(代替するセーフティーネットは存在しなかった)。他になすすべもなく、政府はIMFに手数料支払いのための援助を求めた。

2014年5月、IMFとイエメン政府は、政府が要請した5億6000万ドルの融資について協議した。IMFはイエメン政府に燃料補助金を削減し、燃料価格を引き上げて歳入を確保するよう要請した(債務の返済に充てるため)。ハーディは、融資の条件として2014年10月から段階的に燃料補助金の削減を行うことを約束したが、IMFは納得せず、より早期に燃料補助金の削減を行うよう圧力をかけた。

この時点で、IMF/世界銀行は、燃料補助金がイエメン社会にとって極めてクリティカルな事項であること、セーフティーネットの構築なしに燃料補助金の削減=燃料価格の引き上げを行えば、イエメンに大きな社会不安が発生することを十分に承知していた(世界銀行のプロジェクト評価文書に記載がある)。それにもかかわらず、IMFは、今すぐ、思い切った燃料補助金削減=燃料価格の引き上げを行うよう、ハーディに迫ったのである。

(2)「名なし」の抗議運動が勃発

2014年7月、いまだ公務員の給与が支払われない中、政府は燃料価格の引き上げを行った(ガソリン価格60%、軽油価格95%値上げ)。燃料価格の高騰でパンの輸送費は一晩で20%上昇、人口の60%を占める農業従事者は農機具を動かす燃料を賄えなくなり失業が蔓延、商品は不足し、市場は閑散とした。

案の定、2011年を超える規模の抗議運動がイエメン政府を襲った。首都サナアにおける学生主導の運動であった2011年の「尊厳革命」と異なり、今度は各種労働者、部族勢力、貧困層、学生など、あらゆる人々が、イエメン全土で立ち上がった。

それにもかかわらず、2014年に始まった抗議運動には「尊厳革命」のような名前がついていない。理由は明らかだと思われる。「国際社会」(アメリカ、サウジほか)にとって、彼ら自身の傀儡政権に対する抗議運動は(少なくとも建前上は)不都合なものである。美しい名前など付けて称賛している場合ではない。

しかし、将来、イエメンが自律的な秩序を回復した暁には、こちらの運動こそが、長く困難な革命の始まりを告げた事件として記憶されることになるだろう。

8月22日サナア アンサール・アッラーの支持者が傀儡政権の辞任を求めるデモの最中に祈りを捧げる様子(Reuter

(3)革命政権の樹立

抗議運動の中心にいたアンサール・アッラーは、2014年9月、首都サナアを掌握した。

ハーディの政府は一切抵抗せず(怪しいですね・・)、国連の仲介でアンサール・アッラーとの間で協定を結び(the Peace and National Partnarship Agreement)を結んでサナアを共同統治するという体裁を確保した。しかし、軍事力を伴う実際の統治権がアンサール・アッラーに移ったことは「誰の目にも明らかだった」。

アンサール・アッラーは2015年1月下旬に大統領府・官邸と主要軍事施設、メディアを掌握。ハーディ大統領と首相は辞任を表明し、2月6日、アンサール・アッラーが新政権の樹立を宣言した。

(4)「内戦」名下の干渉戦争ー第二次サウジ-イエメン戦争

これを受けて、2015年3月、サウジ率いる有志連合軍(the SLC:Saudi-Led Coalition)は(なんと!)イエメンへの空爆を開始する。第二次サウジーイエメン戦争の始まりである。この戦争を「第二次サウジーイエメン戦争」と呼ぶ人を私は今のところ見たことがないが、どう見てもそれが実情なので、そう呼ぶことにする。

サウジによるイエメンへの攻撃は、イエメンで起きている革命に対する純然たる干渉戦争である。それなのになぜ、世間はこれを「内戦」と呼ぶのかといえば、「国際社会」が、予め、これを「内戦」に見せかけるためのお膳立てをしておいたからである。

傀儡政権のハーディは、2015年1月に辞任を表明した後、2月末になってこれを撤回する意向を表明し、自分たちこそが正統なイエメン政府であると改めて主張した。直後に(3月)彼はサウジに逃亡し、サウジに庇護される形でリヤドに亡命政府を置いたのだ。

これによって、本当は「サウジ VS サナア政府(アンサール・アッラー) 率いるイエメン」(サウジ・イエメン戦争)である戦争の構図は、「国際的に承認されたイエメン亡命政府 VS サナア政府」の戦い(内戦)に書き換えられた。以後、サウジがイエメンに対して行う蛮行は、すべて「内戦」への介入(「正規の政府軍への支援」)と位置付けられることになったのである。

確認しておきたい。「国際的に承認された」政府のイエメン国内の支持基盤はゼロである。したがって、ハーディ傀儡政権 VS アンサール・アッラーの戦いはいかなる意味でも「内戦」ではない。実態は純粋なサウジ(ないし「国際社会」) VS イエメン の戦争なのだ。

(5)無差別爆撃と国境封鎖ー「史上最大の人道危機」へ

2015年3月、サウジはイエメンの空爆を始めた(Operation Decisive Storm:決意の嵐作戦)。彼らの攻撃は最初から無差別爆撃で、民間人の居住地域が破壊され、多くの犠牲者が出た。

サウジ連合軍は、当初から、国連の承認を取り付けて、ある程度の国境封鎖も行なっていたようだが、2017年11月4日、サウジアラビアの空港を狙ったイエメン国内からの弾道ミサイル発射が確認されると(サウジは「迎撃した」と発表)、国境封鎖の範囲をイエメン全土に拡大した。

国連はすぐに、サウジ連合軍による無差別爆撃と国境封鎖が、イエメンにどれほど破滅的な影響を及ぼすかに気付き、注意を喚起した。

国連の専門家パネルは、サウジが意図的にイエメンへの人道援助物資の搬入を妨害していることを指摘し、何百万の市民を飢餓に陥らせるおそれのある措置の合理性に疑問を呈していたし、国連の人道問題担当長官も、国境封鎖が続けば、何百万人が飢餓によって死亡し、世界が数十年来経験したことのないレベルの人道危機が発生すると指摘した

指摘はそのまま現実となった。2021年12月の国連開発計画の報告書によれば、2015年から2021年12月末までの死者は37万7000人に達する見込みであり、死因の4割は爆撃などの戦闘関連、残り6割は飢餓や感染症であるという。そして、これを書いている2024年2月、国境封鎖はまだ解除されていない。

こういうことである。

イエメンにおける「世界最悪の人道危機」は、内戦の激化によってひとりでにもたらされたものでは決してない。

サウジは、最初から、民間人の犠牲を全く厭わず、イエメンの国土を破壊することを意図して攻撃を開始し、それを全面的に支持・支援したアメリカは、犠牲が増え続ける中でも、軍事的支援の手を緩めることはなかった。

国連もまた(アメリカが支援している以上当然ではあるが)、サウジの攻撃を止めるための有効な手立てを講じることはなかった。

でも、なぜ?

サウジの方から行こう。

6 アンサール・アッラーとサウジの和平交渉

(1)サウジはなぜ戦争を起こしたのか

「決意の嵐作戦」を指揮したのは、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子(当時国防大臣)とされている。サルマーンは、数日でサナアを奪還できるという見通しで作戦を始め、泥沼にはまった。

若きプリンス、ムハンマドはなぜイエメンに介入したかったのだろうか。

2つの理由があったと考えられる。1つはサウジ(というか湾岸諸国)固有のもので、もう一つはアメリカとの関係に関わるものだ。

サウジは1957年に男性識字率50%の時期を迎えているが、民主化革命を経験していない。

幕末日本に例えると、ムハンマドは徳川慶喜である。1985年生まれの彼は、民主化 ≒ 近代化の流れが不可避であることも、アメリカ頼みの国家経営が盤石でないことも理解しているであろう。とはいえ、せっかく王子に生まれ、王太子の地位を手に入れたのだから、その地位を生かして活躍したい。革命で倒される役回りなどまっぴらごめんだ。

そういうわけで、隣国イエメンで本格的な革命が始まった時、ムハンマドはまず、それを潰さなければならなかった。「遅れた」国であるはずのイエメンの革命は、サウジに波及し、彼の地位を危うくする可能性が大であるからだ。

加えて、イエメンへの介入は、アメリカとの軍事的・経済的な相互依存(ないし共存共栄)の関係を強化し、サウジの政権基盤の当面の安定にもつながるはずだった。

2009年以来、「国際社会」は、サウジやUAEを表に立てたイエメンでの鉱山開発に並々ならぬ意欲を示しており、イエメンが自立し、コントロールが効かなくなることをおそれている。サウジとアメリカの利害は完全に一致しているのだ。

アメリカの全面的な支持と支援が約束されている以上、イエメンでの勝利は容易であり、確実だ、とムハンマドは思ったであろう。革命勢力を潰し、傀儡政権を維持できれば、イエメンはサウジの属国同然となる。その華々しい成果は、サウジ王室への国民の支持をつなぎ止め、民主化への流れを抑えるのに役立つはずだ。

そう考えたムハンマドは、電撃的勝利を夢見て「決意の嵐」を吹かせたが、アンサール・アッラーはしぶとかった。そこで、ムハンマドは、イランに責任を転嫁し(「背後で支援している」と攻め立て)、国境を封鎖しあらゆる物資の供給をストップするという非情な手段まで動員した。それでも、サウジ連合軍はアンサール・アッラーの勢力拡大を抑えることができず、イエメン全人口の70-80%の居住地域がアンサール・アッラーの支配下に入る事態となった。

ここまで来ると、サウジとアメリカの利害は分かれる。アメリカにとってイエメンそのものは取り立てて重要な国ではない。イエメンの開発がうまくいかないなら他に行けばよいだけだ(他国が取りにくれば別)。しかし、サウジにとっては、イエメンは国境を接する隣国だ。激しい憎悪を掻き立てて、そのままにしておくわけにはいかない。

(2)単独・直接の和平交渉へ

バイデン政権が始まり(2021年)アメリカからの武器供与や後方支援が縮小すると、サウジは出口を探し始める。

停戦に向けた動きはいろいろあったようだが、大きく報道されたものとしては、国連の仲介による2022年4月の停戦合意があった。しかし、この合意は結局は機能しないまま終わった。

より重要なのは、2023年1月に、国連やその他の関与なしに、アンサール・アッラーとサウジの直接交渉が開始されたことである。

こちらを参照しました。

2022年12月、アンサール・アッラーは会談したオマーンの代表団にイエメン北部全域に設置されたミサイル発射基地の地図を見せ、彼らがサウジアラビア域内、具体的にはリヤド国際空港をいつでも攻撃できる態勢にあることを伝えるとともに、サウジ当局への伝達を依頼。オマーン代表団はアンサール・アッラーが攻撃可能な標的を示した地図を見せてサウジを説得し、サウジは直接交渉に臨むことを決める。

2023年1月の交渉の席では、アンサール・アッラーは同様の情報をサウジに直接伝えた上、サウジがイエメンの封鎖を解除しないなら、サウジの空港が封鎖されることになると述べたという。サウジは和平の必要を認め、封鎖の解除・公務員への給与支払を条件に含めた和平の実現に前向きな姿勢を示した。

2023年1月 サナア サウジ連合軍の国境封鎖に対する抗議デモ
スローガンは「Blockade is War!(国境封鎖は戦争だ)」

https://twitter.com/syribelle/status/1611468741128212501?s=21&t=nkoK3iQUHJ20Ik_BJLG4oQ (デモの動画が見れます)

この直後、西アジア情勢に大きな動きがあった。サウジとイランの外交関係正常化である(2023年3月・仲介は中国)。当時の私には考えが及ばなかったが、今思えば、サウジをイランとの関係改善に向かわせた要因の一つは、イエメンであったかもしれない。

アンサール・アッラーを裏で操っているのがイランだというのは嘘である。しかし、両者が良好な関係にあることは事実なので、サウジが、イランを間にはさんで、イエメンと安定した関係を構築することを考えたということは十分にありうる。

ともかく、サウジとイランの関係正常化は大事件だった。これを契機に、サウジとイエメン、サウジとシリアの関係が改善に向かう可能性があったし、立役者であった中国はパレスチナーイスラエルの和平の仲介にも積極的な意向を示していた。

ひょっとして、西アジアについに平和が訪れるのか、という明るい展望が開けたそのとき、ガザ危機が起きたのだ。

5 ガザとイエメン

(1)ガザ危機とアメリカ

ガザ危機へのアメリカの関与は、基本的に、サウジによる「決意の嵐」作戦への関与と類似のものだと私は思う。

つまり、サウジにはサウジ固有の動機があり、イスラエルにはイスラエル固有の動機がある。アメリカはそれを後押しするだけだ。

しかし、アメリカという覇権国家の全面的な支持と支援は、イスラエルやサウジといった普通の国家が本来なら成し得ないことを可能にしてしまう。加えて、アメリカは、自らの許可を得てから実行するよう含めておくことで、実行のタイミングをほぼ完全にコントロールできるのだ。

サウジがイエメンに「決意の嵐」を吹かせ、イスラエルが(念願の!)パレスチナ人の駆逐に乗り出したのは、アメリカがゴーサインを出したからである。彼らの攻撃の規模とタイミングを決めたのはやはりアメリカだと私は思う。

では、なぜ、アメリカはこのタイミングで、イスラエルに「Go!」のサインを出したのか。

第二次サウジ・イエメン戦争と同様、背景として資源の問題があったことは間違いないと思うが(イエメンは鉱物(金とか)、ガザはガス田)、タイミングを決めたのは、もしかしたら、西アジアの和平の動きであったかもしれない。

軍事的支援によって西アジアの「友好国」との関係をつなぎ止めているアメリカは、そのプレゼンス(というか支配力)の維持のため、地域の軍事的緊張をつねに一定以上に高めておくよう腐心している。平和になって、居場所がなくなっては困るのだ。

そのための火種なら、ガザに用意されている。いつ、どんなときでも使えるように。

(2)イエメンの決意

こうして(多分)起きたガザ危機に、イエメンの人々が即座に強い反応を示したのは当然といえる。

2014年以来サウジの無差別爆撃を受け続け、2017年からはほぼ完全に国境を封鎖されたイエメンの状況は、長年狭い場所に押し込められてイスラエルからの度重なる攻撃を受け、2008年からは国境封鎖の強化で基本物資もロクに手に入らなくなっていたガザとうり二つだった。

10年前にイエメンを襲い、アンラール・アッラーが長く激しい戦いを経てようやく撃退しようとしている「決意の嵐」が、同じ敵(アメリカ)の手によって、今度は、同じアラブ・イスラム地域の仲間であり、同じ苦境を戦ってきた同志であるガザのパレスチナ人に襲い掛かり、彼らを殲滅しようとすらしている。年齢中央値19歳、革命の只中にあるイエメンが行動しないはずがない。

彼らにとって、紅海におけるアメリカ・イギリスとの戦いは、もちろん、パレスチナの解放のための戦いであり、イエメンの自由と独立のための戦いである。しかし、それだけではない。

欧米諸国が西アジアの歴史の中で果たしてきた邪悪な役割を知らない人は(西アジアには)いない。しかし、第二次大戦後、覇権国アメリカと結ぶことで利益を得てきた諸国は、それを殊更には言い立てないようにしてきたし、いま現在、アメリカが行なっている各種策謀も見ないことにしている。

アメリカに敵視され、蹂躙されている国の人々には、現在の世界においてアメリカが果たしている邪悪な役割が、これ以上ないほど鮮明に見えているだろう。

同時に、アメリカに従属することで利益を得てきた国々の狡さ、醜さ、不甲斐なさも、正すべき不正と見えているに違いない。

彼らにとって、アメリカ・イギリス・イスラエルとの戦いは、決して、パレスチナやイエメンだけのための戦いではあり得ない。世界をアメリカから解放し、道理の通った新しい世界を作るための戦いなのだ。

おわりに

これを書いている2024年2月下旬、アンサール・アッラーとアメリカ・イギリス・イスラエルの戦いはますます本格化している。

しかし、アンサール・アッラーはまったく怯んでいないし、彼らの決然とした行動により、サナア政府へのイエメン国民の支持は拡大しているという

パレスチナとの連帯を示すデモ(2024年2月23日)https://www.ansarollah.com/archives/657639

こちらでデモの動画が見られます。

われわれは、神を礼賛するーーわれわれに、イスラエルやアメリカと直接対峙するという偉大なる祝福、偉大なる名誉を与えて下さったことに。

Abdul-Malik al-Houthi(出典

攻撃をエスカレートさせる道を選んだアメリカは、すぐに後悔することになるだろう

Hussein al-Ezzi(出典

強がりと見る向きもあろうが、私はそうは思わない。2014年以来の過酷な状況に耐え、革命を実現させた彼らが、あと数年の戦いを持ちこたえられない理由がないからだ。

1、2年がまんすればアメリカは勝手に潰れる(要するに彼らが勝つ)。今回の戦争では、大義は明らかにアンサール・アッラーの側にある。「アメリカ後」の世界を担う次代の「国際社会」は、彼らの政府を正統と認め、惜しみない支援を与えるだろう。

当面の苦境を乗り切り、人口を増やしたイエメンは、数十年後、世界の中心に返り咲いているのかもしれない。

(おわり)

カテゴリー
基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ④ ドル覇権の現在

目次

はじめに

ドル覇権は今、崩壊の道を歩んでいる。毎分、毎秒、崩壊に近づいている。多分そうだと私は思っている。

過去にも、ポンド覇権の崩壊、覇権国の交代、バブルがはじけたとか、大不況とか、そういった事象が発生したことはある。しかし、ドル覇権の崩壊は、少なくともある程度の長いスパンで測定する限り、そうした事象とは比較にならない、重大な事件になると思う。

まず、類例のないほど巨大化した金融システムがクラッシュすることで、経済が大混乱することが予想されるが、それだけではない。

ドル覇権の崩壊は、短く見積もって200年、長く見積もれば400年近く続いた西洋中心の秩序が崩れ、おそらくは多極化した、別種の世界の誕生を祝う事件となる。

それは、自然現象にたとえれば、超新星爆発とか(?)、そのくらいには、珍しい事象といえる。

せっかく、この稀有な現場に居合わせるのなら、よく見て、感じて、存分に味わいたい。・・そう思いませんか?

この連載は(①-④)、何より自分自身が事情を知りたくて書いたのだが、同時代を生きる人たちが、変化をおそれず、これからの激動を「ワクワク」気味に迎えるためのガイドにもなっていると思う。

ぜひ、知っておいていただきたいことは、2つ。

まず第一に、「不正な秩序」に堕してしまったこのシステムの崩壊は、世界中のほぼ全ての人々にとって、ある種の隷属状態からの解放であること。

一方で、第二に、このシステムの誕生から崩壊に至る一連の過程を駆動したのは、決して「巨悪の策謀」などではなく、結構つまらない・・経済力を通じて世界の中心に立った一群の人々が、ひたすら目先の自己利益だけを考え、おかねをその道具として利用した。周囲は周囲で、ちょっとおかしいと思いつつ、なすすべもなく巻き込まれていった。そんなふうにしてもたらされたものらしい、ということ。

難儀なことはいろいろ起きると思う。でも、覚えておいていただきたい。新しい何かが生まれ出るためには、古い何かが壊れ、滅びてゆかなければならない。それだけのことなのだ。

今回が最終回。ここまでの流れを整理した上で、現在起きていることについて若干の分析と感想を述べ、まとめとさせていただきたい。

ここまでの流れ

【ドル覇権の成立】

  • アメリカはWW2に参戦し念願の通貨覇権を手に入れた。
  • 基軸通貨特権(通貨発行特権)を得て調子に乗ったアメリカはドルをバラまきすぎて通貨システム(金=ドル本位制・固定相場制)を崩壊させた。
  • ところがなんと、金兌換義務を放棄したことで、通貨発行特権は量的制限のない「スーパー通貨発行特権」にバージョンアップしていた。
  • アメリカの支出は増加の一途をたどり、巨額の経常赤字が常態化、ドルの信用は低下した。

【ドル覇権に組み込まれる西側諸国】

  • 世界経済が混乱に陥るのをおそれた西側諸国(ヨーロッパ主要国と日本。以下同じ)は、アメリカの経常赤字のファイナンス(補填)に協力するとともに、率先してドル安定化のための協調体制を築き、「ドル覇権」の一角を担うようになった。

【おかねの増えすぎと金融化】

  • アメリカの「バラまき」や後始末のための為替介入によって世界に流通するおかねの総量は増えに増え、低成長期に入った西側諸国にスタグフレーション(物価高+不況)をもたらしたが、西側諸国は「おかねをぐるぐる回す」(金融)ことでこれに対処した。
  • 経済における金融部門の極大化でおかねの総量はさらに増え、①国内における著しい経済格差(格差社会)、②気まぐれな投資を通じた途上国の搾取(成長阻害)と環境破壊をもたらした。
  • ②によりグローバル・サウス+BRICSのドル覇権(+IMF)への反感は高まり、信頼は低下した。

【グローバル・サウス+BRICSの反感】

  • 気まぐれな投資による債務危機IMFの構造調整プログラムによって緊縮を強いられ、社会・経済を混乱させられたグローバル・サウス+BRICS諸国の間では、ドル覇権への反感が高まった。
  • アメリカによる恣意的な経済制裁の多用も、ドル覇権への反感を増幅した。

【ドル覇権を守るための戦争】

  • アメリカ経済が金融に活路を見出したことで、アメリカにとってドル覇権の確保が死活的に重要になった。
  • 以後、アメリカは、ドル覇権を「利用して」ではなく、ドル覇権を「守るため」戦争を行うようになった。

【グローバル・サウス VS ドル覇権】

  • 2008年の金融危機後、西側諸国の結束は強化され、ウクライナ戦争を通じて「グローバル・サウス VS ドル覇権(西側諸国)」の対立が顕在化した。

ガザ危機ー深まる対立

ウクライナ戦争について、西側が「反ロシア」で直ちに結束したのに対し、グローバル・サウスが比較的冷めた見方をしていたことはご存じだろう。「なんで?」と思った人もいるかもしれない。

NHKなんかでは最近急に発生した現象のように扱われているが、この対立の根は深い。「冷めていた」のは、彼らが根本的に、アメリカと西側諸国をそれほど信用していないことの表れなのだから。

西側に属するわれわれは、習慣的に、アメリカは原則として善の側に立っていると考える。われわれは、アメリカと対立している国ならばいとも簡単に「悪」と決めつけ、アメリカが行なっていると見れば、明らかに不当な行為でも目を瞑る。それが習い性になっている。

しかし、グローバル・サウスの国々はそうではない。西側の眼鏡をつけていない彼らにとって、ロシアは善でも悪でもない普通の国だ。他方、アメリカについては、われわれが見ないふりをしてきた数々の行為ーNATOによるユーゴスラビア空爆、イラク戦争、シリアへの不当な介入、CIAによる「民主化革命」の扇動など多数ーを、彼らはしっかりと見て、記憶に留めている。

ウクライナ戦争が勃発したとき、われわれの多くは西側メディアのいうことを鵜呑みにしたが、彼らは違っていただろう。

それでも、ウクライナ戦争では、西側が一方的にロシアを非難する態度を取ったことが、グローバル・サウスのはっきりとした反感を呼び起こすことはなかった。それは、単純に、近年のウクライナで何が起きていたのかを知っている国が少なかったからだ。

しかし、パレスチナとイスラエルの問題は違う。イスラム教国を筆頭に、グローバル・サウスの国々は、近年のイスラエルがパレスチナの人々に何をしてきたかを知っている。パレスチナ自治区にイスラエル人を入植させてパレスチナ人を迫害したり、自治区に対して爆撃や軍事侵攻を繰り返してきたことを知っている。

▷特定非営利法人 パレスチナ 子どものキャンペーン さんのサイト。とてもよくまとまっていて勉強になります。
https://ccp-ngo.jp/palestine/palestine-information/

西側諸国以外の国々はハマスをテロ組織と見てはいないようです。

彼らは、いま、イスラエルがガザや西岸の自治区で行っていることを、9・11や東日本大震災のときにわれわれがそうしたように、息を呑み、涙を流して見つめているのだ。

今回のガザ危機で、ハマスの非難なんてどうでもいいことにこだわり、戦闘の一時停止・休戦要求でお茶を濁し、一致して即時停戦を求めることすらできない西側諸国を見て、彼らは心底幻滅しているだろう。

同時に、彼らの中に「疑念」としてあったもののいくつかは、確信に変わっているかもしれない。アメリカが、自由と民主主義のためではなく、覇権の維持のために行動していること。それを支持する西側諸国が、覇権に連なる優越的な立場の維持のために汲々としていること。

そして、その目的に資する限り、非西側諸国の人間が何人死のうが、プロパガンダとレトリックの限りを尽くして正当化されること。

彼らの目に、G7の席上で微笑む首脳たちは「新・悪の枢軸」に見えているに違いない。

「最後のG7」(2021)https://www.reddit.com/r/ModernPropaganda/comments/nysner/the_last_g7weibo_artist_lao_ah_tang/?rdt=34701

2003年と2023年の間

(1)2つの変化

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。いや、この連載を通じて、すでに「グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは当然」という地点に達してはいた。しかし、それにしても、このところの展開はあまりに急なのだ。

‥‥アメリカは世界なしではやって行けなくなっている。その貿易収支の赤字は、本書の刊行以来さらに増大した。外国から流入する資金フローへの依存もさらに深刻化している。アメリカがじたばたと足掻き、ユーラシアの真ん中で象徴的戦争活動を演出しているのは、世界の資金の流れの中心としての地位を維持するためなのである。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 訳)『帝国以後』(藤原書店、2003年)2頁

トッドが『帝国以後』の日本語版序文でこう書いたのは2003年、イラク戦争の最中のことだった(原著は2002年発行)。

2003年と2023年。この両時点で、変わらないのは、アメリカが「世界の資金の流れの中心としての地位を維持するため」に、「じたばたと足掻いている」という点である。

しかし、大きく変わった点が2つある。

1つは、アメリカの戦争活動が、トッドのいう「演劇的小規模軍事行動主義」に止まらなくなっている点である。2000年代初頭のアメリカは、イラクに侵攻し、イランや北朝鮮を挑発して満足していた。

最近のアメリカは大胆だ。ウクライナ戦争(仕込みは遅くとも2014年に始まっている)、中国に対する執拗な挑発、ガザ危機への対応。どれを取っても、世界を大戦争に巻き込みかねないものばかりである。

そして、もう一つの変化は、これに対する西側諸国の態度である。2003年、ドイツとフランスは米英の提案によるイラクへの武力行使(開戦)に明確に反対の意思を示していた

しかし、2022-23年の西側諸国は、アメリカを諌めるどころか、ほとんど躊躇する様子も見せず、がっちり一枚岩の対応をとっているのである。

いったい、何が起きたのだろうか。

(2)金融危機とシェール革命ー凶暴化するアメリカ

おそらく、アメリカを軍事的冒険主義に駆り立て、ドル覇権に対するヨーロッパや日本の忠誠を強化させた理由の一つは、2008年の金融危機である。ドル覇権の終わりを眼前にしたアメリカは、直ちに取り繕ったけれども、覇権を少しでも長持ちさせるためのさらなる行動を誓い、西側諸国は忠誠を尽くすべく腹を決めた。ありうる話だと思う。

もう一つの副次的な理由は、2008-10年ごろのシェール革命ではないか、と私はにらんでいる。

ちょうど金融危機の直後、シェール層(岩石の一種)からのガス・石油抽出技術の実用化によって、アメリカは、突如石油とガスの一大産出国となっている。

原油の輸入量
原油の生産量
天然ガスの生産量

イラク戦争の頃のアメリカは、イラクを含む西アジアの石油をめぐりEUとライバル関係にあった。EUには、自分たちのエネルギー資源の確保のためにアメリカと対立する理由があったし、アメリカの方にも、各地の情勢に介入する際に、一定の抑制を要する理由があったのだ。

しかし、石油産出国の「ビッグスリー」(アメリカ、ロシア、サウジアラビア)の一角となったアメリカに、もはや、怖いものは何もない。

アメリカにとって、エネルギーはつねに「友好国や同盟国」の忠誠をつなぎ止める手段だった。

「ビッグスリー」となったアメリカは、「しめしめ」とばかりに、危機に瀕するドル覇権の維持に絶対不可欠な西側諸国の忠誠を、アメリカのエネルギー(への依存)によって勝ち取ることを企図した、というのが私の推理である。

ウクライナ、ガザでの粗暴で大胆なふるまいは、エネルギー網の切断によってヨーロッパとロシアの絆を断ち切り、ユーラシア大陸のエネルギーをできる限り支配下に置くことで、西側諸国の忠誠心を永続させようと狙ったもの、と考えると、「なるほど・・」(ため息)と思えるのである。

(3)ドル覇権の終焉が早まった

しかし、実際には、アメリカのあまりに粗暴で理不尽なふるまい、そして、それでもなお西側諸国が忠誠を尽くす様子は、ドル覇権に対する世界の信用を決定的に損ねる結果となるだろう。

以前、どこかに「ドル覇権はもうすぐ終わる(5年後か数十年後かはわからない)」という趣旨のことを書いた記憶があるが、アメリカの凶暴化によって、その時期はずいぶん早まった、と感じる。

しかし、この連載をお読みいただいた方には、それが起こるべくして起こることであり、世界にとって決してわるいことではない、と感じていただけるのではないだろうか。

おわりに

この記事(①-④)と、同タイトルの連載は、これで完結である。「そうだったのか・・」と思ってくれた方がいたらとても嬉しいし、そうでない方にも、何らかの刺激を楽しんでもらえたら、とても嬉しい。

「あの・・」

あ、はい。

「事情は大体分かりました。でも、それで、私たちはどうしたらいいんでしょうか?」

・・ご質問、感謝します。

いま、例えば、アメリカの凶暴化を止めるために、ドル覇権の崩壊を遅らせるために、グローバル・サウス+BRICSと西側世界との和解のために、何か具体的にできることがあるかというと、ない、と私は思う。

アメリカはアメリカで事情があって凶暴化しているのだし、1980年に戻って縮小均衡からやり直すということもできないし、グローバル・サウス+BRICSの西側世界に対する当然の不信感に対して取り繕う言葉も、私には見あたらない。

でも、これだけのことを知れば、自分自身の生き方は変わるのではないだろうか。

おかねについて、仕事について、世間で「普通」とか「正しい」とされている物の見方や考え方について。

「なんかちょっと、変じゃない?」と思っていたことのすべてが、もしかして、増えすぎたおかねに押し流されて、仕方なくそうなっていることだとしたら。

その上、そのおかしな世界の基礎を作ったドル覇権は、もうすぐ終わるのだとしたら。

「なーんだ」

石ころでも蹴とばしたら、いろいろな謎の重荷を置いて、足の向くまま、スタスタ歩き出したくなるのではないだろうか。

何かできること。
あるとしたら、それだと思います。

主な参考文献はこちら(写真はケインズ)
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社会のしくみ

ナチズムが生まれる場所

はじめに

現在の世界には「ネオナチ」という日本語では甘っちょろく感じられるほどの本物のナチズムが繁茂している場所が(私の知る限り)2箇所ある。一つはイスラエル、もう一つはウクライナ西部だ。

*以下「ナチズム」は民族などの属性に基づいて特定の対象を激しく差別・迫害することを指します。

両者はどちらも原初的核家族である。アメリカやイギリス(原初的核家族または絶対核家族)が黙認している点も共通。

「むむ‥何かある」とにらんで考察を進めた結果、壮大な(?)仮説を得たのでご紹介させていただく。

仮説

ナチズムがもっとも発生しやすい場所は、共同体家族地域に対峙する原初的核家族地域である。

(1)世界に残る原初的核家族地域

説明しよう。

原初的核家族とは、ざっくりいうと、国家以前の原初的人類(移動生活の狩猟採集民とか遊牧民とか)の家族のあり方である。

人間は群れで生活する生物なので、基本仕様として集団を作る能力は持っているのだが、多数の集団を束ね、国家を作る段になると、基本仕様だけでは足りなくなる。そのときに家族システムが進化するのだ。

直系家族、共同体家族が備えている「権威」。それは、世代と世代を縦の線でつなぐことで生まれるものだが、この「権威」の軸が、国家のまとまり(凝集力)、秩序(規律)を成り立たせる基礎となる。

 *権威の機能については、この記事この記事をご覧ください。

いまは、全世界のすべての土地に国境が引かれ、いずれかの国に属することになっている。しかし、歴史的には、文明の中心地で国が生まれ、帝国に発展し、周辺の国家形成を促したりした後も、国家に属しているのかいないのかよく分からない土地がそこここに広がりまたは点在していた。そういう時代が長かったのだと思う。

そういう地域は、19世紀以降(なのか?)、どこかの国に領土として編入されたり、20世紀後半になると独立国となったりしたが、家族システムは原初的核家族のままであるケースが少なくない。国の成り立ちは特殊だがイスラエルはそうだし、ウクライナ(東部以外)もそうである。東南アジアの多くの国もそうだ。

そういう国は、国でありながら、自然な国家のまとまりを生む「権威」の軸を持っていない。放っておかれれば国家など形成しなかったはずの人たちで、メンタリティは原初的人類のままなのだ。

(2)原初的人類とは?

原初的人類のままであるとはどういうことか。これはもちろん私の考えだけど、こういうことだと思う。

「家族のためには戦えるが、国家のためには戦えない」

つまり、国民としてのアイデンティティが希薄なのである。

戦争を前提にした書き方をしたけれど、このメンタリティは国家運営全般に当てはまる。言い方を変えてみよう。

「家族には尽くせるが、国家には尽くせない」

しかし、主権国家を基本単位とする現代の世界では、彼らも国家として成り立ってゆかなければならない。国民としてのアイデンティティを確立し、一つにまとまっていかなければならない。

凝集力の核を持たない人々が、一つにまとまらなければならなくなったとき、通常発生するものは差別である。

何か特定の対象(A)を排除すれば、残りの人たちは「私たちは〔Aではないという点で〕同じ」という一体感を得られるからだ。

*例えば、原初的核家族の国家、アメリカの成立には先住民・黒人差別が大きな役割を果たしていることが指摘されている

では、その原初的核家族地域の隣に、非常に強力な共同体家族の国家があったらどうだろう。

国民としてのアイデンティティが希薄な人々が、単に一つにまとまるだけでなく、強烈な国家的アイデンティティを誇る帝国と渡り合っていかなければならないとしたら、どうだろう。

その状況で発生するのがナチズムだ、というのが私の仮説である。

統合の軸を持たない彼らは、任意の対象をそれはそれはもう激しく嫌悪し排除することによって、自分たちをギューっと絞り上げ、凝集力を高めようとする。そうすることで、共同体家族に匹敵する強固なかたまりとなり、国家のために戦う力を得ようとするのである。

検証1ーイスラエルとウクライナ

イスラエルは、アラブ諸国に囲まれ、パレスチナと対峙している。アラブ諸国は文句なしの共同体家族であり、長く帝国の支配下にあったパレスチナ人もそうだろう。

原初的核家族であり、国家としての伝統も持たないイスラエルの民は、共同体家族のパレスチナやアラブ諸国と伍していくために必要な強力な国家意識を形成・保持するために、ナチズムー差別の対象はパレスチナ人・アラブ系住民ーを制度化することになっているのではないだろうか。

ウクライナが対峙しているのはもちろんロシアだ。ソ連が崩壊し、棚ぼた的に独立してはみたものの、ウクライナもまた原初的核家族であり、国家の伝統を持っていない。

東部にはロシア系住民がいてロシアとうまくやっていたけれど、西部はあまりうまくまとまれず、経済的にも苦しいままだった。

何とかしたい。ロシアの一部としてではなく、ウクライナとして、自分たちの国を立派に成り立たせ、名誉ある地位を得たい。

と、そういう状況で、ナチズムが生まれてしまったのではないだろうか。

検証2ーナチ型虐殺事例

原初的核家族と共同体家族の接点でナチズム的事態が発生した事例は他にもある。

例えば、カンボジア・ポルポト政権下でのクメールルージュによる民族浄化(被害者は150-200万人とか(wikiです))。クメールルージュは中国共産党の支援を受けた共産党政権であり、原初的核家族が共産主義国家を目指した(共同体家族と同等の凝集力を得ようとした)ことで発生した事態であったかもしれない。

 *虐殺の規模の大きさは、移行期危機と関係すると思われる。

インドネシア大虐殺では、主たる虐殺対象は共産党関係者だった(被害者は少なくとも50万-。200万以上という説もあるとか(倉沢愛子『インドネシア大虐殺』(中公新書、2020年))。

インドネシアでは共産党は合法で4大政党の一つとして大きな勢力を持っていた。インドネシアは大半が原初的核家族なのだが、一部に共同体家族の地域がある。共産党の隆盛はそのことと関係があるかもしれない。そして、彼らと対峙し、勝利するために、原初的核家族は、ナチズムに基づく虐殺を行うことになったのかもしれない。

検証3ードイツと日本

ナチズムの本場といえばドイツ。直系家族の地である。ナチズムについては、移行期危機脱キリスト教化が重なって起きた悲劇であると基本的に理解していたが、今回、共同体家族との対峙という側面もあるのかも、と考えるようになった。

ナチズムは、反ユダヤ主義として捉えられるのが一般的だが、少し調べてみると、第一次大戦の敗戦以後、ナチ運動が一貫して敵視していたのはむしろマルクス主義者だった。

1940年代初頭にドイツ支配下のヨーロッパで行われたことを考えると、ヴァイマル共和国最後の数年間、ナチの暴力の主な標的がユダヤ人ではなく共産党員と社会民主党員だったことは奇妙に思われるかもしれない。ユダヤ人はもちろんSA〔突撃隊〕に目をつけられたし、NSDAP〔国家社会主義ドイツ労働者党〕が攻撃的な人種差別を行う反ユダヤの党であることに疑いを抱く者はいなかっただろう。しかし、この時期のユダヤ人への攻撃は、ほとんどあとからの思いつきで、左翼の支持者を攻撃する際、目についたものに攻撃の矛先が向かっただけのように思われる。

リチャード・ベッセル著 大山晶訳『ナチスの戦争 1918-1949』(中公新書、2015年)41-42頁

これはナチスを支持したドイツ国民についても同じで、1930年代前半の段階では、NSDAPに投票した人々が明確に支持していたのは反マルクス主義の主張であって、反ユダヤについては「黙認」していたという感じだったという。

ヒトラーが闘争により勝ち取らなければならないと考えていたドイツ民族の「生存圏」は「第一にロシアとその周辺国家」だった(坂井栄八郎『ドイツ史10講』195頁)。

当時のドイツは、共産主義ロシアと対峙するために、ユダヤ人迫害を必要としたのかもしれない。

原初的核家族とは異なり、直系家族には権威の軸がある。しかし、それは本来は都市国家や領邦国家向けのものであり、国民国家を支えるにもやや弱く、帝国となれば「到底無理」という体のものなのだ。

その直系家族が大帝国建設という壮大な夢を見て共同体家族ロシアに対峙したとき、本来持ち得ないレベルの凝集力を得るために、ナチズムが発生してしまう、というのは、ありそうなことのように思われる。

同じことは日本についても言える。私は日本にナチズムが跋扈した時代があるとは考えていないが、民族浄化的な虐殺ということでは、関東大震災(1923年)のときの朝鮮人虐殺があり、日中戦争の南京事件(1937年)がある。

関東大震災のときには社会主義者も多く殺害されており、ロシア革命(1917年)の影響による共産主義拡大への警戒感が一つの要素として存在したことは間違いない。南京の虐殺は、簡単に勝てると思って仕掛けた戦争で中国側の思わぬ強靭さに接した後で起きた事件である。

おわりに

私が刑法学をやめ、今やっている方向の研究に乗り出した理由の一つに、ふと「自分が生きていて、社会科学の研究などしているときに、日本がまた大虐殺とかすることになったら嫌だなあ」と思った、ということがある。

その懸念は、高齢化と人口減少が続く以上はありそうにない、ということで一旦は収まったが、そうこうするうちに、ウクライナ危機が発生し、ウクライナ東部のロシア系住民に対してなされていたことを知り、イスラエルで起きていることを知った。

とくにイスラエルのことは全然よく知らないが、どちらも移行期危機とはいえないのではないかと思う。

いまは「○○になったら嫌だなあ」というようなことは基本的に考えない(考えても仕方ないので)。しかし、それがどういう現象なのかは理解したかった。

私の場合、理解するということは、その対象物を「憎まないで済む」ことを含む。感情的にならず、冷静に、ほどほどに暖かい目で観察できる、ということだ。

前回はアメリカについてそれができて、よかったな、と自分では思っていた。

この「ナチズムが生まれる場所」は「アメリカ II」の副産物なのだが、ナチズムすら憎まないで済むなんて、結構すごい達成ではなかろうか。