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イエメンQ&A

ガザとイエメンー「フーシ派」は何と闘っているのかー」の内容を元にザックリ目に解説します。「本当か?」とお思いの方はぜひ同記事をご参照ください。

目次

Q イエメンのフーシ派はなぜハマスと連帯を掲げたり、紅海で船舶を拿捕したり、アメリカ・イギリスと戦ったりしているのですか?

フーシ派、というよりイエメンの人々は、ハマス、というよりパレスチナの人々に対し、同じ敵と戦う同志という意識を持っているからです。

イエメンは2014年からサウジアラビアと戦争状態にありました。2017年からはサウジ軍によって国境を全面的に封鎖され、「世界最悪の人道危機」と呼ばれる状況に陥りました。

イエメンに対するサウジアラビアの攻撃がアメリカの全面的な支援と支持を受けて行われた一方的な(正当性のない)攻撃であった点を含め、イエメンが置かれた状況は、2008年以来のガザの状況とよく似たものでした。

一方で、イエメンの場合、状況はわずかながら改善の方向に向かっていました。

ウクライナ戦争で忙しくなったバイデン政権がサウジへの軍事的支援を減少させたことで、サウジはイエメンとの和平を模索せざるを得なくなったからです。

2023年1月にはサウジとイエメンの直接交渉が始まり、年内には合意締結か、といわれるようになった頃、ガザ危機が始まったのです。

イエメンの人々は当事者です。ガザ危機が始まったとき、彼らは、これまで自分たちに向けられていた理不尽な力の矛先が、アメリカの差配によって、今度はガザに向けられたのだということをはっきり理解したと思います。

イエメン人とパレスチナ人は、同じアラブのムスリムです。どちらも、アメリカを初めとする「国際社会」の恣意的な行動によって、長い苦しみを味わってきました。その同胞に対して、同じ敵が、(彼らから見れば)邪悪な攻撃を仕掛けている。

となれば、若いイエメンの人々(年齢中央値19歳です)が、パレスチナとの連帯を掲げ、敵方(アメリカ、イギリス、イスラエル)の駆逐を誓うのは、ごく自然なことだと私は思います。

なお、日本ではまったく報道されませんが、「フーシ派」(西側に近いメディアが勝手にこう呼んでいるだけであり、正式名称は「アンサール・アッラー」です)の今回の行動は、イエメン国民から熱烈な支持を受けています。

アンサール・アッラー(フーシ派)の行動は、アメリカに代表される西側世界やイスラエルが行使する理不尽な力から、パレスチナ人の権利を守り、イエメンの自由と独立を守り抜くというイエメン国民の意思に支えられたものです。決して「反政府組織による暴挙」といった性格のものではありません。

民間人エリアへの無差別攻撃を含む戦闘行為、全面的な国境封鎖による物資の不足等により、多数の人々が死傷し、飢餓や感染症による生命の危険に晒され、劣悪な環境での暮らしを強いられている状況を指します。

国連開発計画(UNDP)の2021年12月の報告書によると、2015年から2021年12月末までの死者数は約37万7000人。死亡原因の約4割が戦闘関連、残りの約6割は飢餓や感染症によるものだそうです

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2023年の時点で、国内避難民は約450万人、人口の約7割に当たる約2160万人が極度の貧困状態に置かれています。

このような事態は、2015年3月にサウジアラビアがイエメンへの攻撃を開始し、イエメンが戦場となったことによって発生しました(私は勝手に「第二次サウジ・イエメン戦争」と呼んでいます)。

なお、サウジによる国境封鎖は現在(2024年3月)も続いています。

Q 「世界最悪の人道危機」の原因は内戦だと思っていました。違うのですか?

いわゆる「国際社会」は「人道危機」の原因を内戦と言い張っていますが、事実は異なります。「内戦」と呼ばれているものの実態は、サウジアラビア VS イエメンの戦争です。

イエメンでは2014年に本物の民主化革命が始まり、2015年2月にアンサール・アッラー(フーシ派)が新政権の樹立を宣言しました(西側に近い国のメディアでは「クーデター」としか言われませんが、イエメン国民の大多数はこの政権を支持しています)。

サウジの攻撃はこの革命を阻止するためのものです。したがって、サウジ側から見れば干渉戦争、イエメンから見れば革命防衛戦争ということになるでしょう。

戦争に至る経緯を確認しましょう。

1️⃣アメリカ・サウジと蜜月にあり、外国資本頼みの経済運営を続けたサーレハ政権(任期1978-2012)の下、攘夷(反米・反イスラエル)を訴えるアンサール・アッラー(フーシ派)の運動が勃興

2️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)を脅威に感じたサーレハは、彼らの拠点があるイエメン北部にサウジアラビア軍と合同で大規模軍事攻撃(イエメン焦土作戦・2009)を展開。国民の心は政府から離れ、アンサール・アッラーの支持拡大。

3️⃣イエメンに反米・反サウジ政権が誕生することを嫌った外国勢力は、アラブの春」(2012)を利用してサーレハに退任を迫り、従来通りの「売国」政策を引き継ぐ傀儡政権を樹立(ハーディ暫定政権)

4️⃣IMF/世界銀行経由の融資を使い果たした暫定政権は2014年1月に公務員の給与支払いを停止。追加融資を得るために緊縮策(イエメン国民の命綱である燃料補助金の削減)の条件を呑んで同7月にガソリン・軽油の大幅値上げ

5️⃣怒ったイエメン国民は暫定政権の退陣を求めて立ち上がる(2014年7月〜)革命の開始

6️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)は2014年9月に首都サナアを掌握。暫定政府は辞意を表明し(2015年1月)、アンサール・アッラーが新政権樹立を宣言(2015年2月)

7️⃣2015年2月、暫定政府は辞意の撤回を宣言してサウジアラビアに逃亡。サウジの庇護下で亡命傀儡政府を樹立

8️⃣その直後、サウジはイエメンへの激しい空爆を開始(2015年3月)。第二次サウジ・イエメン戦争が始まり「世界最悪の人道危機」へ

西側に近い国のメディアが第二次サウジ・イエメン戦争を「内戦」と呼ぶのは、アメリカやサウジが代表する「国際社会」は、亡命傀儡政権こそが正統なイエメン政府であるという立場を崩していないからです。

しかし、傀儡のハーディ暫定政権は、もともと、イエメン国内には全く支持基盤を持たない「国際社会だけが支持するイエメン政府」でした。

そのやり口に怒ったイエメン国民が革命を起こして暫定政府を辞任させ、新たな政権を樹立した今、亡命したハーディ暫定政権を「正統イエメン政府」とするのは無理筋というほかありません。

そういうわけですので、この戦争は、決して、「正統なイエメン政府軍 VS 反政府軍」の内戦ではありません。「革命によって新政権を樹立したイエメン VS それが気に入らないサウジ(とアメリカ)」の戦争です。そして、この戦争におけるサウジ軍の攻撃こそが、「世界最悪の人道危機」を引き起こしたのです。

詳しくはこちらをご覧ください

Q フーシ派ってテロ組織ですよね。フーシ派が正統な新政権の担い手だなんて、ちょっと信じられないのですが・・

アンサール・アッラー(フーシ派)は、イエメン北部のイスラム教ザイド派地域から出た真面目な政治運動です。ザイド派を再興し、反米・反イスラエルに立つ新しいイエメンを作ろうとする運動で、暴力を厭わないところを含めて、「尊王攘夷」を謳って台頭した幕末の志士のようなものと考えればよいと思います。

彼らは、サーレハ政権(ハーディの前の大統領。親米・親サウジではあったが傀儡ではなかった)の時代から政府との武力衝突を繰り返していました。今の日本では、暴力で政権を取るなんてことは考えられないので、「そんな粗暴な勢力が正統な政府なんて・・」と思う気持ちはわかります。

しかし、初代内閣総理大臣を務め、昭和の千円札にまでなった伊藤博文だって、幕末には何人も人を斬り、英国公使館に火をつけたりしていたのです。

革命に暴力は付き物です。その上、アメリカ・サウジなどの大国が日常的に介入してくるのですから、相当高度な軍事力を駆使できなければ、革命はおろか国の独立すら維持できない。それが彼らの置かれた状況です。アンサール・アッラー(フーシ派)が高度に武装しているからといって、野蛮なテロ組織と見るのは的外れだと私は思います。

アンサール・アッラーのメンバー
長州奇兵隊(wiki)

新政権は、昨年の段階で全人口の70-80%の居住地域を支配下に収めたといわれていましたが、ガザ危機に対する新政権の決然とした行動は、国民からの幅広く熱烈な支持を集めているようです。イエメンには南部に自立を志向する分離派が存在しますので、彼らとの内戦が継続する可能性はありますが、新政権の基盤が根本的に揺らぐことはないように思えます。

なお、アンサール・アッラー(フーシ派)が「国際テロ組織」とされるのは、敵対しているアメリカが勝手に「国際テロ組織」に指定しているからであって、それ以上の意味はありません。 

Q サウジアラビアやアメリカはなぜそこまでしてイエメンの革命を阻止したいのですか?

民主化革命が波及してくると困るからです。

サウジアラビアや湾岸諸国は近代化(ここでは識字率上昇を指標とします)においてイエメンに先行していますが、本格的な民主化革命を経験していません。

イエメンでの革命が波及して彼らの政体(世襲による君主制)の打倒につながることを避けたいというのが、サウジや湾岸諸国がイエメンに介入したい根本的な理由です。

この点は、実はアメリカも同様です。アメリカは、西アジアの君主制国家と親密な関係を保つことで、石油などの天然資源開発やその利権の差配による利益を大いに得てきました。産油国との関係は、石油決済におけるドル使用の確保などを通じ、ドル覇権を支える重要な要素にもなっています。

西アジアで続々と革命が起こり、真に国民の利益を代表する政権が誕生した場合、新たな政府は、アメリカの利益や為政者の保身よりも、国民の利益を重視するようになるでしょう。

イラン革命(1979)後のイランがそうしたように、天然資源の国有化を目指し、軍事力を強化し、経済・外交における自立を確保しようとするでしょう。

とりわけ、西アジア最大の産油国であるサウジアラビアの忠誠が失われることは、アメリカにとって最大の脅威の一つであり、絶対に避けなければならない事態なのです。

すでにお気づきかと思いますが、アメリカがイランを徹底的に貶め、敵視しているのもそのためです。

イランがアメリカに嫌われるのは、決して、イランが「人権無視で非民主的な専制主義国家だから」ではありません。真の理由はその正反対で、イランが本物の民主化革命を成功させ、経済・外交政策において自立し、国民の利益のための国家運営を始めたからなのです。

1974年7月にニクソン大統領の命を受けて、ウイリアム・サイモン財務長官がサウジアラビアを訪問、「米国はサウジアラビアから石油を購入するとともに、サウジアラビアに対して軍事援助を行う。その見返りとしてサウジアラビアは石油収入を米国債に還流させ、米国の歳出をファイナンスする」仕組みを提案した。サウジアラビアのファイサル国王は、自らの米国債購入が間接的に米国によるイスラエル支援に向かうことを恐れ、米国債購入については極秘扱いすることを要請したという。サウジアラビアの要請に応じ、米財務省は通常の競争入札によらず、購入実績が開示されない特別な形式によってサウジアラビアが米国債を購入できるように便宜を図ったのである(いわゆるワシントン・リヤド密約)。今日まで続いている国際的な原油取引におけるドル建て決済の慣習はワシントン・リヤド密約に基づくものと考えられ、戦後のブレトンウッズ体制崩壊後もドルが基軸通貨としての地位を維持できたことの一因にこの密約があったとも言える。

長谷川克之「サウジアラビア通貨政策の現在・過去・未来」(2023)(太字は辰井)

Q イエメンの宗教はイランと同じシーア派で、フーシ派の背後にいるのはイランだと聞いたことがあります。そうなのですか?

アンサール・アッラー(フーシ派)とイランが良好な関係にあることは事実ですが、アンサール・アッラー(フーシ派)がイランの手先とか子分ということはありません

両者は意思決定主体として独立しており、経済力や発展度合いの相違はあるにせよ、基本的に対等な関係性を保っていると見られます。

また、イエメンとイランが良好な関係にあるのは、現下の国際情勢において、両者が共通の志を持ち、共通の利害を有するからであり、宗教は関係がありません

「関係がない」といいながら、一応確認をしておきますが、宗教においても、両者は「同じシーア派」というわけではありません。

イエメンのザイド派は、たしかに、大きな括りではシーア派に属します。イランの国教である12イマーム派も、大きな括りではシーア派です。

しかし、この「シーア派」という括りが曲者で‥‥何ていうのでしょうか、キリスト教における「プロテスタント」と同じようなもので、シーア派に属するとされる諸宗派は、「主流派(スンナ派)に対するアンチ」という立ち位置を共有するだけなのです。

ザイド派の成立は12イマーム派よりも早く、12イマーム派の影響下に成立したわけではないですし、ザイド派が12イマーム派に影響を与えたという事実もないようです。

そういうわけで、ザイド派と12イマーム派は、ほとんど共通点のない(相互に)独立した宗派といってよいと思います。

詳しくはこちらをご覧ください

Q ガザやイエメンをめぐる情勢が何かもっと大きな動きにつながることはありえますか?

近年起きている大きな事件は、すべて、アメリカを中心とする世界から、ユーラシア大陸の旧帝国地域(西アジア、中国、ロシア‥)を中核とする多元的な世界へ、という大きな動きの一部を形成していると私は見ています。

崩壊の過程にあるアメリカ帝国の「最後の悪あがき」が、ウクライナ戦争であり、ガザ危機です。アメリカには、もっと穏やかに衰退し、普通の国になるという選択肢も(理論的には)あったはずですが、もう無理だと思います。アメリカ帝国は、数年のうちに自滅していくでしょう。

その後、世界は、そして西アジアはどうなっていくのか、と考えたとき、ガザ・イエメン情勢が持つ意味が浮かび上がってきます。

西アジアの近未来を想像してみましょう。

  • アメリカの退場で不和の種は激減
  • 「国民国家」という仕組みの(地域への)不適合が顕在化し、紛争・混乱を経てアラブ統一国家の樹立に向かう可能性
  • イスラム諸国とイスラエルの関係が大問題に。中国等の仲介による和平or戦争を経て、新たな秩序の構築へ

民主化革命を成功させ、パレスチナ人のために敢然と戦うイエメンは、「アメリカ後」の世界で特別に重要な国(地域)となり、世界を動かしていく可能性があります。なぜか。

アラブ諸国の中で、軍事・外交・経済政策の面で、アメリカの影響力を完全に排除できている(自主独立を保持している)国は、じつは、革命後のイエメンしかありません。

治安・軍事面でアメリカに依存してきた国々の政府(多くは世襲の君主制です)が、本物の民主化革命に怯え、自国民との関係を構築し直さなければならないのに対し、政府と国民が一丸となって、サウジ、アメリカを駆逐し、イスラエルと戦ってきたイエメンは、貧しくても悠然としていられるでしょう。

パレスチナの大義のために、国家として正々堂々と戦ったイエメンは、アラブの人々の間で尊敬を受け、国際社会においても、名誉ある地位を得るでしょう。

国際社会からの支援を得て復興を遂げた後、イエメンは、アラブ圏の中心となり、発展途上にあるアフリカの国々の先頭に立って、次の世界を率いていくのではないでしょうか。

アメリカは倒れ、西側は弱体化し、中国やロシアが力技で新たな世界秩序の基礎を作った後、大々的に再編された西アジア・アフリカが新しい形の世界の進歩をもたらしていく

ガザ危機に接した各国の行動とイエメンの大活躍は、そのような明るい未来を見事に映し出している。私はそう感じています。

人口動態も私が明るい展望を抱く根拠の一つです
「アメリカが倒れ・・」のくだりが唐突に感じられた方はこちらの連載をご覧ください。

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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ④ ドル覇権の現在

目次

はじめに

ドル覇権は今、崩壊の道を歩んでいる。毎分、毎秒、崩壊に近づいている。多分そうだと私は思っている。

過去にも、ポンド覇権の崩壊、覇権国の交代、バブルがはじけたとか、大不況とか、そういった事象が発生したことはある。しかし、ドル覇権の崩壊は、少なくともある程度の長いスパンで測定する限り、そうした事象とは比較にならない、重大な事件になると思う。

まず、類例のないほど巨大化した金融システムがクラッシュすることで、経済が大混乱することが予想されるが、それだけではない。

ドル覇権の崩壊は、短く見積もって200年、長く見積もれば400年近く続いた西洋中心の秩序が崩れ、おそらくは多極化した、別種の世界の誕生を祝う事件となる。

それは、自然現象にたとえれば、超新星爆発とか(?)、そのくらいには、珍しい事象といえる。

せっかく、この稀有な現場に居合わせるのなら、よく見て、感じて、存分に味わいたい。・・そう思いませんか?

この連載は(①-④)、何より自分自身が事情を知りたくて書いたのだが、同時代を生きる人たちが、変化をおそれず、これからの激動を「ワクワク」気味に迎えるためのガイドにもなっていると思う。

ぜひ、知っておいていただきたいことは、2つ。

まず第一に、「不正な秩序」に堕してしまったこのシステムの崩壊は、世界中のほぼ全ての人々にとって、ある種の隷属状態からの解放であること。

一方で、第二に、このシステムの誕生から崩壊に至る一連の過程を駆動したのは、決して「巨悪の策謀」などではなく、結構つまらない・・経済力を通じて世界の中心に立った一群の人々が、ひたすら目先の自己利益だけを考え、おかねをその道具として利用した。周囲は周囲で、ちょっとおかしいと思いつつ、なすすべもなく巻き込まれていった。そんなふうにしてもたらされたものらしい、ということ。

難儀なことはいろいろ起きると思う。でも、覚えておいていただきたい。新しい何かが生まれ出るためには、古い何かが壊れ、滅びてゆかなければならない。それだけのことなのだ。

今回が最終回。ここまでの流れを整理した上で、現在起きていることについて若干の分析と感想を述べ、まとめとさせていただきたい。

ここまでの流れ

【ドル覇権の成立】

  • アメリカはWW2に参戦し念願の通貨覇権を手に入れた。
  • 基軸通貨特権(通貨発行特権)を得て調子に乗ったアメリカはドルをバラまきすぎて通貨システム(金=ドル本位制・固定相場制)を崩壊させた。
  • ところがなんと、金兌換義務を放棄したことで、通貨発行特権は量的制限のない「スーパー通貨発行特権」にバージョンアップしていた。
  • アメリカの支出は増加の一途をたどり、巨額の経常赤字が常態化、ドルの信用は低下した。

【ドル覇権に組み込まれる西側諸国】

  • 世界経済が混乱に陥るのをおそれた西側諸国(ヨーロッパ主要国と日本。以下同じ)は、アメリカの経常赤字のファイナンス(補填)に協力するとともに、率先してドル安定化のための協調体制を築き、「ドル覇権」の一角を担うようになった。

【おかねの増えすぎと金融化】

  • アメリカの「バラまき」や後始末のための為替介入によって世界に流通するおかねの総量は増えに増え、低成長期に入った西側諸国にスタグフレーション(物価高+不況)をもたらしたが、西側諸国は「おかねをぐるぐる回す」(金融)ことでこれに対処した。
  • 経済における金融部門の極大化でおかねの総量はさらに増え、①国内における著しい経済格差(格差社会)、②気まぐれな投資を通じた途上国の搾取(成長阻害)と環境破壊をもたらした。
  • ②によりグローバル・サウス+BRICSのドル覇権(+IMF)への反感は高まり、信頼は低下した。

【グローバル・サウス+BRICSの反感】

  • 気まぐれな投資による債務危機IMFの構造調整プログラムによって緊縮を強いられ、社会・経済を混乱させられたグローバル・サウス+BRICS諸国の間では、ドル覇権への反感が高まった。
  • アメリカによる恣意的な経済制裁の多用も、ドル覇権への反感を増幅した。

【ドル覇権を守るための戦争】

  • アメリカ経済が金融に活路を見出したことで、アメリカにとってドル覇権の確保が死活的に重要になった。
  • 以後、アメリカは、ドル覇権を「利用して」ではなく、ドル覇権を「守るため」戦争を行うようになった。

【グローバル・サウス VS ドル覇権】

  • 2008年の金融危機後、西側諸国の結束は強化され、ウクライナ戦争を通じて「グローバル・サウス VS ドル覇権(西側諸国)」の対立が顕在化した。

ガザ危機ー深まる対立

ウクライナ戦争について、西側が「反ロシア」で直ちに結束したのに対し、グローバル・サウスが比較的冷めた見方をしていたことはご存じだろう。「なんで?」と思った人もいるかもしれない。

NHKなんかでは最近急に発生した現象のように扱われているが、この対立の根は深い。「冷めていた」のは、彼らが根本的に、アメリカと西側諸国をそれほど信用していないことの表れなのだから。

西側に属するわれわれは、習慣的に、アメリカは原則として善の側に立っていると考える。われわれは、アメリカと対立している国ならばいとも簡単に「悪」と決めつけ、アメリカが行なっていると見れば、明らかに不当な行為でも目を瞑る。それが習い性になっている。

しかし、グローバル・サウスの国々はそうではない。西側の眼鏡をつけていない彼らにとって、ロシアは善でも悪でもない普通の国だ。他方、アメリカについては、われわれが見ないふりをしてきた数々の行為ーNATOによるユーゴスラビア空爆、イラク戦争、シリアへの不当な介入、CIAによる「民主化革命」の扇動など多数ーを、彼らはしっかりと見て、記憶に留めている。

ウクライナ戦争が勃発したとき、われわれの多くは西側メディアのいうことを鵜呑みにしたが、彼らは違っていただろう。

それでも、ウクライナ戦争では、西側が一方的にロシアを非難する態度を取ったことが、グローバル・サウスのはっきりとした反感を呼び起こすことはなかった。それは、単純に、近年のウクライナで何が起きていたのかを知っている国が少なかったからだ。

しかし、パレスチナとイスラエルの問題は違う。イスラム教国を筆頭に、グローバル・サウスの国々は、近年のイスラエルがパレスチナの人々に何をしてきたかを知っている。パレスチナ自治区にイスラエル人を入植させてパレスチナ人を迫害したり、自治区に対して爆撃や軍事侵攻を繰り返してきたことを知っている。

▷特定非営利法人 パレスチナ 子どものキャンペーン さんのサイト。とてもよくまとまっていて勉強になります。
https://ccp-ngo.jp/palestine/palestine-information/

西側諸国以外の国々はハマスをテロ組織と見てはいないようです。

彼らは、いま、イスラエルがガザや西岸の自治区で行っていることを、9・11や東日本大震災のときにわれわれがそうしたように、息を呑み、涙を流して見つめているのだ。

今回のガザ危機で、ハマスの非難なんてどうでもいいことにこだわり、戦闘の一時停止・休戦要求でお茶を濁し、一致して即時停戦を求めることすらできない西側諸国を見て、彼らは心底幻滅しているだろう。

同時に、彼らの中に「疑念」としてあったもののいくつかは、確信に変わっているかもしれない。アメリカが、自由と民主主義のためではなく、覇権の維持のために行動していること。それを支持する西側諸国が、覇権に連なる優越的な立場の維持のために汲々としていること。

そして、その目的に資する限り、非西側諸国の人間が何人死のうが、プロパガンダとレトリックの限りを尽くして正当化されること。

彼らの目に、G7の席上で微笑む首脳たちは「新・悪の枢軸」に見えているに違いない。

「最後のG7」(2021)https://www.reddit.com/r/ModernPropaganda/comments/nysner/the_last_g7weibo_artist_lao_ah_tang/?rdt=34701

2003年と2023年の間

(1)2つの変化

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。いや、この連載を通じて、すでに「グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは当然」という地点に達してはいた。しかし、それにしても、このところの展開はあまりに急なのだ。

‥‥アメリカは世界なしではやって行けなくなっている。その貿易収支の赤字は、本書の刊行以来さらに増大した。外国から流入する資金フローへの依存もさらに深刻化している。アメリカがじたばたと足掻き、ユーラシアの真ん中で象徴的戦争活動を演出しているのは、世界の資金の流れの中心としての地位を維持するためなのである。

エマニュエル・トッド(石崎晴己 訳)『帝国以後』(藤原書店、2003年)2頁

トッドが『帝国以後』の日本語版序文でこう書いたのは2003年、イラク戦争の最中のことだった(原著は2002年発行)。

2003年と2023年。この両時点で、変わらないのは、アメリカが「世界の資金の流れの中心としての地位を維持するため」に、「じたばたと足掻いている」という点である。

しかし、大きく変わった点が2つある。

1つは、アメリカの戦争活動が、トッドのいう「演劇的小規模軍事行動主義」に止まらなくなっている点である。2000年代初頭のアメリカは、イラクに侵攻し、イランや北朝鮮を挑発して満足していた。

最近のアメリカは大胆だ。ウクライナ戦争(仕込みは遅くとも2014年に始まっている)、中国に対する執拗な挑発、ガザ危機への対応。どれを取っても、世界を大戦争に巻き込みかねないものばかりである。

そして、もう一つの変化は、これに対する西側諸国の態度である。2003年、ドイツとフランスは米英の提案によるイラクへの武力行使(開戦)に明確に反対の意思を示していた

しかし、2022-23年の西側諸国は、アメリカを諌めるどころか、ほとんど躊躇する様子も見せず、がっちり一枚岩の対応をとっているのである。

いったい、何が起きたのだろうか。

(2)金融危機とシェール革命ー凶暴化するアメリカ

おそらく、アメリカを軍事的冒険主義に駆り立て、ドル覇権に対するヨーロッパや日本の忠誠を強化させた理由の一つは、2008年の金融危機である。ドル覇権の終わりを眼前にしたアメリカは、直ちに取り繕ったけれども、覇権を少しでも長持ちさせるためのさらなる行動を誓い、西側諸国は忠誠を尽くすべく腹を決めた。ありうる話だと思う。

もう一つの副次的な理由は、2008-10年ごろのシェール革命ではないか、と私はにらんでいる。

ちょうど金融危機の直後、シェール層(岩石の一種)からのガス・石油抽出技術の実用化によって、アメリカは、突如石油とガスの一大産出国となっている。

原油の輸入量
原油の生産量
天然ガスの生産量

イラク戦争の頃のアメリカは、イラクを含む西アジアの石油をめぐりEUとライバル関係にあった。EUには、自分たちのエネルギー資源の確保のためにアメリカと対立する理由があったし、アメリカの方にも、各地の情勢に介入する際に、一定の抑制を要する理由があったのだ。

しかし、石油産出国の「ビッグスリー」(アメリカ、ロシア、サウジアラビア)の一角となったアメリカに、もはや、怖いものは何もない。

アメリカにとって、エネルギーはつねに「友好国や同盟国」の忠誠をつなぎ止める手段だった。

「ビッグスリー」となったアメリカは、「しめしめ」とばかりに、危機に瀕するドル覇権の維持に絶対不可欠な西側諸国の忠誠を、アメリカのエネルギー(への依存)によって勝ち取ることを企図した、というのが私の推理である。

ウクライナ、ガザでの粗暴で大胆なふるまいは、エネルギー網の切断によってヨーロッパとロシアの絆を断ち切り、ユーラシア大陸のエネルギーをできる限り支配下に置くことで、西側諸国の忠誠心を永続させようと狙ったもの、と考えると、「なるほど・・」(ため息)と思えるのである。

(3)ドル覇権の終焉が早まった

しかし、実際には、アメリカのあまりに粗暴で理不尽なふるまい、そして、それでもなお西側諸国が忠誠を尽くす様子は、ドル覇権に対する世界の信用を決定的に損ねる結果となるだろう。

以前、どこかに「ドル覇権はもうすぐ終わる(5年後か数十年後かはわからない)」という趣旨のことを書いた記憶があるが、アメリカの凶暴化によって、その時期はずいぶん早まった、と感じる。

しかし、この連載をお読みいただいた方には、それが起こるべくして起こることであり、世界にとって決してわるいことではない、と感じていただけるのではないだろうか。

おわりに

この記事(①-④)と、同タイトルの連載は、これで完結である。「そうだったのか・・」と思ってくれた方がいたらとても嬉しいし、そうでない方にも、何らかの刺激を楽しんでもらえたら、とても嬉しい。

「あの・・」

あ、はい。

「事情は大体分かりました。でも、それで、私たちはどうしたらいいんでしょうか?」

・・ご質問、感謝します。

いま、例えば、アメリカの凶暴化を止めるために、ドル覇権の崩壊を遅らせるために、グローバル・サウス+BRICSと西側世界との和解のために、何か具体的にできることがあるかというと、ない、と私は思う。

アメリカはアメリカで事情があって凶暴化しているのだし、1980年に戻って縮小均衡からやり直すということもできないし、グローバル・サウス+BRICSの西側世界に対する当然の不信感に対して取り繕う言葉も、私には見あたらない。

でも、これだけのことを知れば、自分自身の生き方は変わるのではないだろうか。

おかねについて、仕事について、世間で「普通」とか「正しい」とされている物の見方や考え方について。

「なんかちょっと、変じゃない?」と思っていたことのすべてが、もしかして、増えすぎたおかねに押し流されて、仕方なくそうなっていることだとしたら。

その上、そのおかしな世界の基礎を作ったドル覇権は、もうすぐ終わるのだとしたら。

「なーんだ」

石ころでも蹴とばしたら、いろいろな謎の重荷を置いて、足の向くまま、スタスタ歩き出したくなるのではないだろうか。

何かできること。
あるとしたら、それだと思います。

主な参考文献はこちら(写真はケインズ)
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ③グローバル・サウス+BRICS

 

目次

はじめに:なぜドル覇権と距離を置くのか

南米、東南アジア、アフリカなどを含むグローバル・サウス。そして、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカを中核とするBRICS(以下まとめて「グローバル・サウス」と呼ぶ)。 

これらの国々は、なぜドル覇権から距離を取り、独自の立場で存在感を高めようとしているのか。

それが今回のテーマである。

債務危機の構造

実際のところ、答えは非常に単純である。彼らは、アメリカに、そして、ドル覇権を擁護する西側諸国に、食い物にされ、成長を阻まれたと感じているのだ。

ラテンアメリカを筆頭に、アジア(タイ、インドネシア、韓国など)、ロシアはいずれも1980−90年代に債務危機を経験し、その後数年から十数年にわたって経済的苦境に陥った。

「危機」の構造は概ね共通している。

①発展途上の彼らは、成長率低下と「増えすぎたおかね」を持て余し金融に活路を見出した先進国に目を付けられ、民間資本から気まぐれに大量の資金を貸し付けられた後、気まぐれな「高金利」や気まぐれな資金の引き上げに遭い、債務危機に陥った。

②危機に陥った彼らに手を差し伸べるフリをして近づいたIMF(国際通貨基金)は、彼らの真の経済成長よりも、西側諸国の貸し手の利益と投資市場としての保全を重視し、デフォルト(債務不履行)を防ぐための大規模融資を行った上で、融資条件として構造調整プログラムを義務付けた。

  1. 緊縮政策(財政支出(国民・国内事業者向け補助金など)の削減と金融引締め(通貨供給量減)による収支の改善)
  2. 貿易の自由化
  3. 金融・資本の自由化
  4. 公的部門の民営化
  5. 規制緩和

③「ワシントン・コンセンサス」と呼ばれるこの政策パッケージは、それを受け入れたほぼ全ての国で、社会・経済の混乱に拍車をかけ、外国資本への依存度を高めた。

*その他、2000年代に通貨・金融危機を経験したアルゼンチン、トルコ、ラトビア、ウクライナといった国々もIMFの不適切な勧告によって苦難に陥り、世界銀行の支援を受けた多くの国々も、「ワシントン・コンセンサス」型の構造改革を実行するよう「助言」された結果、同様の問題を経験しているという。

驚くべきことだと思うが、上記の国々が安定的な成長軌道に乗ったのは、IMFと手を切り、当時の経験を反面教師とした独自の経済政策が取れるようになってからのことなのである。

IMF(国際通貨基金)の真実

(1)IMFの仕事

「えっ、でもIMFってちゃんとした国際機関でしょ?」と思った方のために、この機関の成り立ちを説明しよう。

IMF(International Monetary Fund 国際通貨基金)は、1944年のブレトン・ウッズ会議で締結された協定に基づいて作られた国際機関である。

あまり(一般には)知られていないことだと思うが、実は、協定そのものは、ドルを基軸通貨とする「一極」体制ではなく、すべての通貨を平等に扱う多角的な通貨システムを想定していたという(山本栄治『国際通貨システム』82-86頁)。IMFはそのシステムの下で、固定相場の安定維持および通貨政策に関する標準的なルールの設定を促すための機構として設置された。

しかし、現実は協定のシナリオから大きく外れた。そのため、IMFは当初から限定的な機能しか持ち得なかったが、(1971-73を経て) 固定相場制が放棄されたことで、IMFはいよいよやることがなくなった。

そんなIMFに新たな活躍の機会を提供したのが、1970年代末から相次いだ債務危機である。このとき、IMFは、危機に陥った新興国・途上国に融資を行った。加えて、融資条件(コンディショナリティ)として「ワシントン・コンセンサス」型の構造調整プログラムを実施させ、以後、この一連の仕事が、IMFの主要な役割となった。

*現在のIMFの概要は財務省の説明が分かりやすい。

直裁にいえば、IMFは、融資を与える債権者としての地位を利用して、新興国・途上国の経済を、先進国(とくに米英)の「金融に特化した新自由主義経済」と親和性が高いシステムに作り変えることを、主な仕事とするようになったのである。

*「金融に特化した新自由主義」と親和性が高いということは、有り体にいえば、「草刈場として利用しやすい」という意味だ。

ただし、これは私の考えだが、この一連の推移(①協定に反するドル一極体制の成立、②アメリカの都合による固定相場制の放棄、③新自由主義推進機関としてのIMF)は、決して、偶然の結果ではないと思われる。

IMFの設立の根拠であるブレトン・ウッズ協定は、WW2後の通貨システムに関するアメリカとイギリス(イギリス案はケインズが作った)の激しいバトルの末に成立したものである。当時の力関係を反映し、協定はアメリカ案をより多く取り入れたものとなったが、アメリカ案そのものではなかった。この段階では、アメリカも、一定の妥協を示していたのである。

しかし、すでに述べたように、ブレトン・ウッズ協定の想定した通貨システムは実現せず、現実は「ドル一極体制」に落ち着いた。

たぶん、アメリカは、もともと、意に沿わない協定に従うつもりなどなかったのではないかと思う。アメリカは、協定の成立には協力したが、その実現には力を入れなかった。そうして、望み通りの通貨システムを手に入れ、IMFを自らの手足として、各国経済をアメリカの利益に合致するように作り変えていったのだ。

(2)IMFの意思決定

なぜ、アメリカに、IMFを手足として利用するなどということができたのか。秘密はIMFの意思決定システムの中に隠されている。

IMFは「自由・無差別・多角主義」に基づく国際機関ということになっており、意思決定は加盟国の合議と投票による。

通常の議決は過半数、重要事項は事項によって70%ないし85%の超多数決である。

しかし、IMFの投票権は、一国一票ではない。出資金の分担額(出資割当額:クオータ)が多いほど多く割り当てられるのだ。

割当額の1位は一貫してアメリカで、概ね17%前後。ほかに15%以上のシェアを持つ国はないので、85%事項に関してはアメリカ1国だけが事実上の拒否権を持つ格好である。

現在(2018年改定後)は2位は日本で約4.6%。旧G5諸国の合計が37.9%なので、G5が揃えばもちろん、アメリカ+3カ国で70%事項は問題なくクリアできる。

通常の過半数の議決についても、西側諸国だけで優に50%を確保しているので、非西側諸国のすべてが結束しても、西側諸国の一致した意向に反する議決を行うことはできない。

そして、この割当額の変更は85%の超多数決事項なのである。

IMFの意思決定システムは、公平中立な国際組織のシステムとしては異常である。しかし「公平中立ではない」と考えれば納得できる。

IMFは、もともと、アメリカの意向に沿って行動する「国際機関」として設計されている。IMFによる支援が、支援対象国よりも、アメリカ(と西側諸国)の利益を主に考慮しているように見えるのは、単純にその結果なのである。

IMF Headquarters, Washington, DC.

「危機」の具体例

(1)ラテンアメリカの場合

具体例の代表的なものをいくつか見ていこう。

債務危機をいち早く経験したのはラテンアメリカだ。合衆国の「裏庭」として、早くから資本流入と金融・資本自由化が進んでいたからである。

〈前提としての金融・資本自由化〉

WW2の後、アメリカはラテンアメリカ諸国の共産主義化を恐れて、親米右派政権(しばしば軍事政権)を支援した。

*チリのピノチェト政権のようにCIAがクーデターを支援したケースもある。

アメリカが「親共産主義」とみなす政権が一般に、農業の振興や輸入代替工業の発展を重視し、輸入に依存しない経済の下での国民生活の向上を目指したのに対し、アメリカが支援した親米右派政権は、アメリカの意向に沿って、外国資本に依存した輸出志向の工業化を目指した。

*有り体にいうと、外資の下で安い賃金で国民を働かせて外国に売れる製品を作り、儲けたドルでアメリカ製品を買う(余剰農産物と軍需品)という仕組み。

*そしてアメリカはどこの国に援助(通常は融資)をするときにも、アメリカ製品の購入と資本自由化(海外資本の受け入れ)を条件として課した。

アメリカの支援を受けたラテンアメリカ諸国では、1970年代までに、貿易自由化に加え、金融・資本自由化が実現していたのである。

〈スタグフレーション・マネーの流入〉

変動相場制に移行し、基軸通貨国アメリカからますます大量のドルが供給された1970年代、「低成長+おかねの増えすぎ」によるスタグフレーションに苦しんでいた先進国は、増えすぎたおかねの使い道を探した。

金融に活路を見出した彼らが、有望な投資先として目をつけたのが(当時の)発展途上国だ。

スタグフレーションのために先進資本主義国の生産資本の蓄積が停滞した結果として、74-84年累計で1793億ドルにおよぶ「過剰貨幣資本」が国際金融市場に間歇的に放出されて「過剰貸付資本」が形成され、この「スタグフレーション・マネー」が「オイル・マネー」とともに発展途上国累積債務の実体を形成した

森田桐郎「ラテン・アメリカにおける「開発」と債務」石見徹・伊藤元重編『国際資本移動と累積債務』(東京大学出版会、1990年)203頁

1970年代後半、余剰ドルを手にした先進国に押し付けられる形で借入を増やしたラテンアメリカの国々を待ち受けていたのは、1980年代のアメリカのドル高・高金利政策である。借入はドル建であるから、金利も返済額も大幅に上がる。これに、世界的な不況による輸出収入の減少、石油価格の上昇が重なって、彼らは続々と債務返済不能に陥っていったのである。

〈IMF融資と融資条件〉

債務危機に陥ったラテンアメリカに、IMFは大規模な融資を提供した。融資条件としての「ワシントン・コンセンサス」はこの時期に確立されたものだというが、ラテンアメリカの場合、2-5はすでに実現していたので、もっぱら1の緊縮政策が厳しく求められることになった。

過剰貸付を受け、外部的な要因によってその支払いが困難になり、経済的に苦境に陥った国に必要なものは何か、考えてみてほしい。まずは、債務の減免か(最低でも)猶予、そして、経済を元の軌道に戻すための財政支出こそが、必要なものではないだろうか。

IMFはラテンアメリカに多額のドルを貸し付けたが、債務には一切手を付けず、コストカットによる収支の改善だけを義務付けた。これでは、融資の目的が、もっぱら債権者の利益の確保(貸付により利子の支払いを可能にし、国家財政の破綻による貸し倒れを防ぐ)にあったと言われても仕方がないだろう。

1980年代のラテンアメリカは、IMFの「救済」によってデフォルト(債務不履行)こそ免れたものの、その経済は改善せず、借金返済(利子の支払)のために新たな借金を強いられる「債務のわな」(debt trap)状態に陥った。

結果、ラテンアメリカは、この「失われた10年」ののち、再び「危機」を迎えることになる(メキシコ通貨危機アルゼンチン通貨危機、ブラジル通貨危機等)。

*後者の「危機」はアジア通貨危機と同じ構造なので、説明は事項に譲ろう。

(2)アジアの場合

先進国が「目を付けた」投資先には、もちろん、アジアの国々(タイ、インドネシア、韓国など)が含まれていた。

〈投資マネーの流入・タイの金融危機〉

アメリカやIMF(ほぼ同義だ)の影響で1990年代に資本自由化を推進したこれらの国々は、特に91年の日本におけるバブル崩壊以後、日本を含む先進国から多額の民間資本が流入した。

*日本に投資先がなくなったから。なお、資本とは「おかね」という意味です。

20世紀後半の投資マネーは短期に確実な利益を出すことを求めている。彼らは気まぐれにやってきて、「危うい」と見るや、さっさと消えていくのだ。

*19世紀との大きな違いである。ポンド覇権時代の対外投資は公共事業等に対する長期投資が中心だった(日本もイギリスの資金で鉄道を建設したりした)。

1997年、タイの経済指標の悪化(経常収支赤字など)を嫌った投機筋がバーツ(タイの通貨)を売り、バーツの価値が大幅に下落(2-3ヶ月で半分)。タイの銀行・企業の財務状況は悪化し、タイは金融危機と不況に陥った。

〈資金引上げによる危機の伝播〉

タイの金融危機は、インドネシア、マレーシア、韓国といった比較的良好な経済状況を保っていた国にも波及した。「アジアは危ない」と見た投資家が、資金を引き上げたからだ。

こうして、投機筋の売りによるタイの通貨下落が引き金となって、「アジア通貨危機」と呼ばれる経済危機に発展したのである。

〈IMF融資と構造改革〉

IMFはマレーシアを除く3カ国に融資を行い、融資条件として、「ワシントン・コンセンサス」的構造調整プログラムを実施した。

ここでも、とくに、経済運営が順調だったインドネシア、韓国の2国について、どんな対策が必要だったかを考えてみよう。

彼らの「危機」は、短期資本の引き上げによる資金繰りの悪化がもたらしたものだった。したがって、短期的には、資金不足を補うための融資に加え、一時的に悪化した経済状況を乗り切るための財政支出と金融緩和が必要であり、かつ、それで十分だったと思われる。そして、長期的には、むしろ、外部の資金に過度に依存しない経済システムの構築が必要だったはずだ。

ところが、IMFは、緊縮政策(財政支出の削減・金融引締め)に加え、金融機関の整理統合、国営企業の民営化、財閥解体、金融・資本規制の撤廃、労働市場の自由化といった広範な構造改革の実施を義務付けた。

単なる一時的な資金不足に構造改革で対応したことで、社会は混乱し、景気後退も深刻化したのである。

IMFのしたことは、一時的な資金不足に乗じて、有望な経済圏をドル運用の好適地に作り替えること以外の何物でもなかった。そう言わなければならないと思う。

ところで、タイ、インドネシア、韓国は、いずれも、2008年の金融危機を比較的うまく乗り切った国として知られている。彼らは、金融を緩和し、財政支出を拡大して、危機を乗り超えた。そう、彼らが採用したのは、IMFと正反対の経済政策だったのだ。

IMFを反面教師とした国こそが、金融危機によく耐えた。IMFの経済政策の問題性をこれほどよく示す事例もないだろう。

◾️アジア危機への日本の対応◾️

1980年代に本格化したIMFや世界銀行の新自由主義・市場原理主義的な融資条件(ワシントン・コンセンサス)に対し、日本政府がかなり明確に批判的な立場を取っていたことは特筆しておきたい。

1991年10月のIMF・世銀総会で、当時の三重野日銀総裁は、「真の経済開発のためには,・・民間部門を育成し,起業家精神の醸成や生産性の 改善に努めることが不可欠であります。同時に,政府が市場メカニズムを補完し,市場メカニ ズムが有効に機能するような環境の整備を図ることが重要」と指摘し、アジア諸国はその成功例であると述べていた。

アジア危機が起きた1997年の総会では、日本政府はアジア版IMFとなる「アジア通貨基金(AMF)」の設立を(非公式に)提案し(アメリカと中国の反対で頓挫)、1998年の総会で、宮澤喜一蔵相は、急激な資本引き上げによる外貨不足から生じた危機に対して過度の構造改革を義務付けたIMFのやり方を批判した。

少なくともこの時期まで、日本政府は、新自由主義への警戒感やIMF=アメリカに対して物を言う姿勢を持ち続けていたのだ。

*ここからはあまり根拠のない憶測だが、私の感じでは、日本政府が、これからの日本は、「ドル覇権を支える役人の地位を堅持し、金融で経済を「成長している風」に見せていくしかない」と本当に腹を括ったのは、2008年の金融危機の後、2012年に自民党が政権に復帰したとき(第二次安倍政権)だったのではないかと思う。安倍元首相が何をどのくらい理解していたのかは見当がつかないが、2013年以後10年間日銀総裁を務めた黒田東彦さんは全て承知の上だっただろうと思うし(批判しているわけではない。この時期に一役人として他にできることがあったとも思えないし)、後任で現職の植田和男さんも全て承知の上だと思う(これも批判しているわけではない。むしろ、任期中に大変な危機に見舞われる可能性が高いこの時期に日銀総裁を引き受けるなんて立派な人に違いないと思っている)。

(3)ロシア

後任のプーチンに大統領エンブレムを付けるエリツィン(1999)

ソ連崩壊後のロシアへの「支援」も悪名高い。

エリツィン大統領の下、長年の共産主義を捨て市場経済に移行しようとしていたロシアで、IMFは、短期間で一挙に市場経済化を進める「ショック療法」を強力に推進した。

価格が自由化されるとハイパー・インフレーションが発生し、その抑制のために厳しい緊縮政策が適用された。緊縮により、インフレは収まったが、生産部門は壊滅、国民総生産も半減し、外国資本への依存が進んだ。

*自由化・民営化で、元国有企業の多くが外国資本に不当な安値で買い叩かれている。

一旦は緩和された緊縮政策は、景気後退に歯止めがかかると見えた途端に再開され(1996-97)、金融引締めにより金利が上昇、IMFのプログラムに沿って大量発行した国債を内外の金融機関がこぞって購入した。

こうした一連のIMF療法の結果、この時点で、ロシアは外国資本への依存度が極めて高い経済になっていた。

ちょうどそのとき、アジア危機の余波が訪れた。新興国市場全般を「危険」とみなした投資家は、ロシアからも資本を引き上げ、ロシアの外貨準備は急速に減少した。資本流出は止まらず、ロシアは事実上のデフォルト(債務不履行)に陥った(1998年)。

*ロシア危機では(デフォルトで)アメリカ、イギリス、日本などの投資家が大損した。逃げきれば損はしないが、逃げきれずにデフォルトとなると大損害が発生する。だからIMFは「緊縮」を求めるのだ。

しかし、この危機による外国資本の引き上げとルーブル安(デフォルトと同時に通貨切下げも行った)は、長期的には、ロシア経済にプラスとなった。外国依存が絶たれ、国内の輸入代替生産が増加したからだ。

ロシアは2004年までにIMFへの返済を完了し、経済政策の自由を回復。経済はようやく安定した成長軌道に乗ったのだ。

*エリツィンは1999年末に退任、2000年からプーチン政権になっている。

世界経済のネタ帳」より

おわりに:「不正な秩序」再び

本文の中で、IMFの「ワシントン・コンセンサス」的プログラムは、「それを受け入れたほぼ全ての国で、社会・経済の混乱に拍車をかけ」た、と書いた。その実情を、専門家に証言していただこう。

IMFのプログラムでは、必ずといっていいほど財政支出削減を伴う緊縮政策が求められ、そのために公企業の民営化やリストラのみならず、公的支出を大幅に削減される。途上国・新興国に対する・・「構造改革」の規模は、当該国としては非常に大規模で、通常先進国で考えられるような穏和なものではなく、それと比較にならないほど短期間に急激な財政支出削減が求められる。このため、IMFプログラムを実施すれば、しばしば当該国政府の政権は交代する結果となる。2008年秋以降、アイスランド、ハンガリー、ラトビア、ルーマニアなどではいずれも国民の不満が高まり、政権が崩壊ないし交代した。アジア危機時にインドネシアでスハルト政権が崩壊したのもIMFプログラム実施がきっかけであった。

大田英明『IMF(国際通貨基金) 使命と誤算』(中公新書、2009年)ⅲ頁

途上国・新興国は多くの場合、ドル建てで提供された資本の気まぐれな引上げに遭うなどした結果、ドル不足で債務危機に陥る。

ここで、彼らがデフォルト(債務不履行)に陥ったとしよう。国の経済的信用は破綻する。しかし、大きな損失を被るのは彼らではない。資本を投下した先進国の側(機関投資家など)である。

だからこそ、彼らはデフォルトを許されない。IMFは、融資を提供してデフォルトを回避させ、緊縮政策を強いる。結果、国民の生活は困窮し、決して少なくない頻度で、政権の崩壊・交代にまで至るのだ。

「借りたものは返す。それが常識でしょう、奥さん?」。

そう言って、財産の最後の一片まで奪って去っていく。
あの高利貸しの声が聞こえてくるようではないか。

しかも、現在のアメリカは、工業生産力で世界の頂点に立ち、貿易黒字を誇ったあのアメリカではない。

膨大な経常赤字を出し続け、世界最大の債務国となったにもかかわらず、一切の緊縮策を拒み、他国にありとあらゆる圧力をかけて浪費を続けている、そのアメリカなのだ。

グローバル・サウスの国々が離反を誓うのは、当然ではなかろうか。

「不正な秩序」について書いています(この記事の予告編にもなっていました)
現在もまったく同じ問題が。配信もあるようです。
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ②ヨーロッパと日本

 

 

目次

はじめに:なぜドル覇権を支えるのか?

前回述べたように、ドル覇権は、実質的に、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係を基礎とするシステムである。

ヨーロッパと日本は、最近、以前にも増して従順にアメリカに付き従うようになっているが、その根底にあるのも、ドル覇権に対するある種の連帯責任なのである。

いったいなぜそんなことになったのか。今回は、「最近」に至る一歩手前、20世紀末までの経緯を確認しよう。

復興援助の記憶 ー「善なるアメリカ」

ヨーロッパと日本が、1971-3年以後の「ドル覇権」を容認した背景に「第二次世界大戦直後から復興までの恩義」があったことは疑いない。

終戦時、戦場となったヨーロッパと日本は(勝ち負けに関わらず)ボロボロで、おかねもなければ生産設備もなかったが、アメリカだけは無傷だった。

*戦争特需(軍需品受注額は1830億ドルと言われる)もあり、終戦時には世界中の(貨幣用)金の3分の2がアメリカに集まっていた。

そのため、ヨーロッパと日本は、復興資金のほぼ全てを、アメリカから受け取ることになったのだ。

アメリカは、1947年の緊急援助、48年から52年のマーシャル・プラン(116億ドルの贈与・18億ドルの借款)を含む総額330億ドル相当の援助をヨーロッパに提供した。日本にも、ガリオア・エロア基金として15億ドルの贈与・5億ドルの借款を与えた。

さらに、アメリカは(WW1後とは異なり)、製品の輸入も積極的に行い、ヨーロッパの復興に貢献した。1947年、アメリカは101億ドルの貿易黒字を計上していたが(ヨーロッパの貿易赤字がほぼ同額(90億ドル))、1952年には26億ドルに減少している。アメリカは貿易を通じて、ヨーロッパにドルを供給していたのである。

もちろん、アメリカは、単なる善意で支援を行ったわけではない。アメリカは、イギリス帝国に残された特権を最後の一片まで剥ぎ取るべく手を尽くしたし、敗戦国(ドイツと日本)をとくに手厚く支援したのは、彼らを衛星国に仕立てて、アメリカの繁栄に尽くさせるためだったと考えられる。

それでも、アメリカの支えがあってはじめて、飢えから救われ、復興を成し遂げた人々にとって、アメリカは「善きもの」以外のなにものでもなかった。その印象は、戦後の西側世界の人々のアメリカ観を深く規定したはずである。

爆撃で破壊されたドイツの町(Altenkirchen)を走るアメリカ軍(1945年3月)
再建中のベルリン。ビルの壁にはマーシャルプラン援助のポスター(1948年6月)

金=ドル本位制崩壊 ー 共犯関係の成立

(1)ドル過剰ー支出が止まらないアメリカ

ヨーロッパ・日本の復興が軌道に乗った後も、アメリカの「赤字」を通じたドル供給は続いた。

*アメリカの主な赤字の源は、軍事支出と企業買収(ヨーロッパの優良企業の乗っ取り・買収)だったとされる。文献には「アメリカの国際収支は1950年から赤字に転じた」、額については「58年が29億ドル、59年で22億ドルの赤字」(上川孝夫・矢後和彦編『国際金融史』(有斐閣、2007年)117頁[牧野裕執筆部分])とあり(同様にこの時期のアメリカの「国際収支」が赤字だったとするものに、石見徹『国際通貨・金融システムの歴史』(有斐閣、1995年))、ここでの記載はそれらに依拠している。

しかし、国際収支は「経常収支+資本移転等収支+誤差脱漏=金融収支」という等式で示されるものなので(こちらも)「「国際収支全体で黒字や赤字がある」という言い方は不適切である」ということであり( 奥田宏・代田純・櫻井公人『深く学べる国際金融』(法律文化社、2020年)2頁[星野智樹執筆部分]等)、私はそのように理解した。そこで「じゃあ「国際収支の赤字」は「経常収支の赤字」のことかな」と思って調べると、その時期のアメリカの経常収支は赤字ではないようなのである(谷口明丈・須藤功編『現代アメリカ経済史』(有斐閣、2017年)500頁掲載の表を参照)。専門家が揃って「赤字だった」と言っているのだから赤字だったのだと思うのだが、何が赤字だったのか分からなくて困っており(貿易赤字ではない)、もし知っている方がいたら教えてほしい。

その背景には、大量の金を独占していたアメリカに「支出過剰」などあり得ないという当時の「常識」があったのだが、実感として、アメリカの支出は明らかに過剰だった。

そのため、ヨーロッパや日本では、戦後の「ドル不足」を脱した途端、「ドル過剰」が問題視されるようになったのである。

(2)金=ドル本位制の崩壊

「過剰ドル」を蓄積した国々はドルに不信感を抱き、保有するドルの金兌換を進めた。その結果、アメリカの金保有量は1958年から減少局面に入る。

最初のゴールド・ラッシュ(金価格の上昇を予想した金投機→ドル不信の現れ)が1960年に起こり、ヨーロッパを中心に金=ドル本位制を支えるための努力が始まったが(金プールの設立(1961年)や各種国際通貨協力、国際決済専用通貨の創出(IMFの特別引出権(SDR))など)、その間も、アメリカの収支は一向に改善しなかった。

ベトナム戦争の戦況悪化(テト攻勢)(1968年)が最後の一撃となり、ドルへの信認は極端に悪化。金の流出に拍車がかかり、いろいろとあった末、1971年8月15日、アメリカは、金=ドル交換の停止を宣言(ニクソン・ショックといわれる)。金=ドル本位制は崩壊したのである。

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FNL(南ベトナム解放民族戦線)に一時占拠されたサイゴンのアメリカ大使館(wiki)

G5ー共犯関係の成立

金=ドル本位制崩壊で、ドルの信用は失墜したが、基軸通貨の地位は維持された。他に代わりになりうるものがなかったからである。

復興を終えようやく豊かさを楽しもうかという段階に入ったヨーロッパ・日本にとって、今、ここで、世界経済の基盤が崩れるなどということは、決してあってはならないことだった。

今、やるべきことは、ドルを支え、世界経済を安定させることである。ということで、金=ドル本位制・固定相場制の崩壊で乱高下するドルを、西側諸国は協調して買い支えた。

*やや詳しい説明はこちら

主要国首脳会議(サミット)の第1回が開催され、G5(主要5カ国財務大臣・中央銀行総裁会議)が組織されたのは1975年にことである。

ヨーロッパ・日本は、国際通貨システムの安定を求め、率先して、ドル覇権を支える立場に立った。こうして、アメリカとヨーロッパ・日本の間に共犯関係が成立し、ヨーロッパ(イギリス以外↓)と日本は、やがて思いもかけない深みに引きずり込まれていくことになるのである。

初めてサミットが開催されたフランス・ランブイエ城

ユーロダラー:イギリスの役割

1980年代、アメリカはレーガノミクスの下で金融肥大化への道をひた走る(詳しくはこちら)。しかし、経済の「金融化」(+金融のバクチ化)の責任は、アメリカだけにあるわけではない。

ここまで「ドル金融市場」という言葉を使ってきたが、この世界最大の金融投資市場の生みの親は、実はアメリカではない。イギリスなのだ。

WW2の後、イギリス政府の為替管理によってポンド取引を規制されたイギリスのマーチャント・バンカーは、アメリカの金融界が広範な国際金融ネットワークを構築する前に、ドルを用いた国際金融業務を開始した。

*直接のきっかけは1957年のポンド危機だったという(第三国間の貿易決済へのポンド利用が禁止された)。

1950年代末のロンドンに成立したドル金融市場は「ユーロダラー市場」と呼ばれ、1960年代にはニューヨークを凌ぐ主要な国際金融市場となった。

ユーロダラー市場には、アメリカの金融当局による規制が及ばず、イギリス政府もこれを規制しようとしなかった。

イギリス当局は・・ユーロダラーの発達を抑止しようと思えばそれができたはずである。しかし当局がそのような挙に出なかったのは、疑いもなくロンドンをユーロダラーの中心市場に発展させることの利益を理解していたからであった。

著名な金融評論家Einzigの言葉(上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』(有斐閣、2007年)303頁[鈴木俊夫執筆部分]

1960年代にアメリカが(ドル防衛策として)国内の金融規制を強化すると、アメリカの金融機関もこぞってユーロダラー市場に出店した(もちろんヨーロッパ、日本の金融機関も)。シティは再び国際金融の表舞台に立つとともに、シティのユーロダラー市場こそが、アメリカの金融機関による国際金融業務の核を構築することになったのだ。

アメリカ金融界は規制に縛られた内部ドル市場の国際化の道を放棄し、外部ドル市場であるユーロ・ダラー市場を核にした「統合ドル市場」としての国際的信用制度を構築する道を選んだのである。

山本栄治『国際通貨システム』(岩波書店、1997年)97頁

*正式の統計は存在しないが、取引規模は、1985年には1668兆ドル、2016年には13833兆ドルに達したと推計されている(wiki英語版)。

以後、アメリカとイギリスは、競って金融自由化を推し進め、世界をグローバリゼーションと格差の渦に巻き込んでいく(↓)。

トップ1%の取り分。アメリカとイギリスの1980年から2000年の変化がとくに大きいことに注目。(Todd, Lineages of Modernity, p225)

増え続けるドルを「カジノ・チップ」に見立てた経済の金融化・カジノ化について、イギリスの果たした役割は大きい。そして、おそらく、イギリスが仲介者となることで、アメリカ発の動きは、ヨーロッパ、次いで世界に、容易に拡大していくことになったのである。

*アメリカの金融自由化についてはこちら。これに倣ったイギリスの「金融ビッグバン」は1986年。 

銀行革命はアメリカでスタートしたが、それだけで終わらなかった。証券会社が国内で行なって利益のあがった業務は、すぐにまずロンドンで、次いで海外の別の場所でも行われた。また証券会社が〔アメリカ〕国内で行うことを許されなかった業務もロンドンのシティで自由に行われ、その後他国でも行われることになった。利益を求めてやまない米銀が、国内の金融サービス市場における米銀間ならびに新規参入者との間の競争圧力を容易に回避できるルートとして、シティが果たした役割は物語の重要な部分である。‥‥ もしロンドンが玄関先に「ようこそ」という看板を掲げてドアを開放していなかったら、国際ビジネスを拡張するために、米銀はいったいどこに行っただろう。

スーザン・ストレンジ『マッド・マネー』(岩波現代文庫、2009年)80-81頁
President Reagan meeting with Prime Minister Margaret Thatcher of the United Kingdom in the Oval Office.

日本ープラザ合意からバブル崩壊まで

(1)1980-90年:抵抗のラストチャンス

その後、ヨーロッパや日本に「ドル覇権」に異を唱えるチャンスはなかったのであろうか。

あったとすれば、1980-90年代がそのときだったかもしれない。次の引用をお読みいただきたい。

仮定だが、1980年代から1990年代に日本と大陸ヨーロッパがアメリカに対して何千億ドルもの債権を築き上げたとき、1920年代に債権者アメリカがイギリス等のWW1同盟国に対して取ったのと同じ態度をとっていたらどうなったであろうか。日本とヨーロッパは、アメリカに、主要企業から美術館の所蔵品まで、すべてを不当に安い価格で投げ売りするよう迫っていただろう。それこそは、アメリカがイギリスに求めたことだった。

‥‥しかし、日本も(フランスを除く)ヨーロッパも、この債権者カードを使わなかった。日本はまるで債務国であるかのように振る舞い、1984年と1986年にはアメリカの要求に応じて金利引下げを行なった。アメリカの大統領選挙と議会選挙に貢献するためだ。その結果、日本経済は過剰債務に陥り、金融バブルが弾けて、ついには経済の重要部門をアメリカ人に売り渡す羽目になった。アメリカ自身、日本にとって債務者であったのに。

Michael Hudson, Super Imperialism, 30-31頁

*金利引下げの意味についてはこちら(9段落目)。
*「ドル過剰」時代、他のヨーロッパ諸国がドル防衛策に協力したのに対し、フランス・ドゴール大統領は「金こそが本位通貨」という立場を譲らず、アメリカに対し繰り返し(フランスが持つ)ドルの金兌換を求めた。時期は違うが多分このことを言っているのだと思う。
*バブル期に日本企業はアメリカ企業をバンバン買収したように思われているが、よく見ると大した買い物はしていない。ゴールドマンサックスなどの主要銀行を買ったわけでもないし、ウォルト・ディズニー、IBM、ボーイング、GMやフォードを買ったわけでもないのだ。

(2)80年代の開幕:巨大赤字とドル高・高金利

1980年代に起きたことを概観しよう。

レーガノミクスの下、アメリカは巨大な経常赤字を継続させ、世界最大の債務国に転落(1985年)。前回書いたように、巨額の赤字はヨーロッパと日本の対米投資によって補填された。

*なお、この時期の対米投資がもっとも多かったのは、大幅な対米黒字を記録していた日本やドイツではなく、わずかな黒字しか持たないイギリス(5年間で1745億ドル)である。イギリスはユーロダラー市場として浮上したシティに流れ込む資金に支えられて巨額の対米投資を行っていたのだ。経済の金融化をもたらしたのは「低成長の経済に注ぎ込まれた構造的過剰資金(おかねの増えすぎ)」であるが、具体的には、ユーロダラー市場を中心とするドル金融市場がアメリカの巨額赤字を補填(ファイナンス)する過程で、先進国の証券市場が統合され、金融・資本規制が(米英の主導で)緩和され、金融のグローバリゼーションが進行していったようだ。

1970年代末からの(スタグフレーション対策としての)強力な通貨引締め政策(高金利政策)の影響で、非常な高金利・ドル高となったが、レーガン政権はこれを放置した

*「ビナイン・ネグレクト(優雅なる黙認)」方針は、新自由主義的思想(小さな政府・規制緩和・民営化・・)の表現でもあったが、高金利・ドル高による海外からの資金流入が好都合だったという一面もあったと思われる。

しかし、ドル高で自動車産業などの競争力は非常に低下したので、アメリカ国民の不満は高まり、黒字国(日本やドイツ)に対する制裁や保護主義を求める動きが活発化した。

アメリカ政府は、国民の不満を逸らすため、アメリカの貿易赤字の責任を日本になすりつけ(これはほぼ言いがかり↓)、日本は通商上の各種要請事項の大半を受け容れた。

*自動車輸出の自主規制、アメリカ産の部品・完成車の輸入の拡大(数値目標)など(外務省の整理が一覧性があって便利)。

*当時の対日貿易赤字拡大の主な原因は、レーガノミクスによる消費刺激策にあり、「日本のせい」というのが言いがかりであることは一般に認められている。国内産業の競争力低下を放置して消費のみを刺激したため、そのほとんどが輸入品に向かったのだ(佐々木隆雄『アメリカの通商政策』(岩波新書、1997年)128頁等)。実際、アメリカの貿易赤字は、対日赤字が減少した後も、相手国を(中国に)変えて延々と続いた。

一方、世界を見回すと、ヨーロッパも不況でドル高・高金利はその原因の一つと考えられていた(本当かどうか私にはわからない)。アメリカから融資を受けていた途上国は金利負担が大きくなりすぎて困っていたし(→次回③)、日本は対米貿易黒字が大きくなりすぎて困っていた。

1980年代の中頃、世界中で、アメリカのドル高・高金利に対し「何とかしろ」というムードが高まっていた。

日本車を打ち壊すアメリカの人たち

(3)プラザ合意:後始末に奔走するG5

金融政策担当者が変わった二期目のレーガン政権は(1985年-)「ドル高是正やむなし」の姿勢に変わり、ヨーロッパ(とくにドイツ)とのドル売り協調介入などを始めていた。

この動きを捉え、「私とも一緒にやりましょう」とアメリカに持ちかけたのが日本だ。

*日本は「対米輸出減・輸入拡大」というアメリカの要求に基本的に応じていたが、ドル高が収まり貿易摩擦が和らげばそれに越したことはない。持ちかけたのは当時大蔵大臣だった竹下登。

日米間の交渉は独・英・仏を巻き込むG5の国際協調に拡大。G5は会議を開催し、共同声明で「ドルはもう少し安い方がよいと思うので、ドル買い協調介入を行います」と宣言した。これがプラザ合意である(1985年9月)。

*実際の声明はもっと婉曲的で「ある程度のドル安(+その他の通貨高)に向けてG5各国が密接に協調する用意がある」。

裏で交わされていた詳細な合意の内容は以下の通り。

  • 目標は10%から12%のドル下方修正(1ドル240円→218-214円)
  • 6週間程度・180億ドル目途の協調介入
  • 介入資金の負担は米・日がそれぞれ30%、独25%、仏10%、英5%

*なお、日本は同時に、国内市場の一層の開放規制緩和金融緩和(低金利)金融・資本市場の自由化消費者金融・住宅金融拡大による民間消費・投資の増大を通じた内需拡大の努力なども約束させられた(ドイツも似たような約束をさせられた)。

G5全体にある程度言えることだが、ここでは日本の資金負担の大きさに注目しよう。

日本は、1970年代と同様、アメリカの失敗の後始末のために力を尽くした。それも、日本が自ら申し出て、気の進まないアメリカを宥めすかして、実現に漕ぎつけたのである。

https://marketbusinessnews.com/plaza-accord-definition-meaning/

(4)利下げ要求に屈し、バブルに向かう日本

これを機にドルは暴落した。そこまで下がるとは誰も思っていなかったようなのだが、実際には大暴落し、みんな(とくにアメリカ)に衝撃を与えた。70年代末からのドル高が「ドルの強さ(=信認)」とは無関係の投機的バブルに過ぎなかったことがあからさまになったからだ。

*ドルは協調介入を待たずに下落を始め、予定より少ない102億程度の介入で目標値に達した。下落は続き、日独のドル買い介入にもかかわらず、86年7月には1ドル150円まで下がった。87年2月にはG7が再び協調介入する用意があることを宣言して市場のドル売りを牽制したが(ルーブル合意)、5週間後には再び下落が始まった。

実は、1980年代前半のドル高を支えていたのは、海外民間資本の対米投資とりわけ「ジャパン・マネー」と呼ばれた日本の機関投資家(とくに生保、証券会社の投資信託など)だったという。そして、彼らは、ドルの暴落で大損をして、急速にアメリカへの投資意欲を失った。

*生命保険7社は86年6月の決算で1兆7000億円の為替差損を計上したという。

そうなると、困るのはアメリカである。日本からの投資は、アメリカの赤字ファイナンスに欠かせないものでもあるからだ。

ドル安の状況下で日本の投資マネーを呼び込むには、アメリカの金利を為替差損を補うにあまりあるレベルにまで上げるしかない。しかしアメリカは金利を上げたくなかった。利上げ(=通貨供給量減)は回復基調にあった景気に水を差す可能性が高かったからだ。

そこでアメリカが何をしたかというと、日本(とドイツ)に圧力をかけ、利下げを要求したのである。

*アメリカが金利を上げなくても(あるいは下げても)日独が十分に(アメリカ以上に)金利を下げれば金利差により日独の投資マネーはアメリカに誘導される。

*利下げは日独にとってはいわゆる「金融緩和」(市場に流通するおかねを増やす)政策なので、アメリカとしては、投資マネーの誘導と、両国での内需拡大による対米貿易黒字の減少の両方を狙った形である。

日本(とくに日銀)は(少しは)抵抗した。しかし、結局、1986年1月から87年2月にかけて、5回の利下げ(公定歩合引下げ)を行ったのだ。

5回のうち最初の2回については、日本の景気対策として意味があったと解釈することが不可能ではない。プラザ合意後の急激なドル高の影響で、日本経済は景気後退局面に入っていたからだ。

しかし、86年11月以降の3回に関しては、日本にとっては有害無益であったことが明らかである。日本経済は1986年中頃からは「内需主導型の景気拡大」局面に入ったとされており、そこでさらに利下げ(金融緩和)を行えば、景気の過熱を招くおそれが強かったからである。

それでも日銀が3回の利下げに応じたのは、「国際協調」。つまり、その時々の事情(選挙など)に応じたアメリカの強い要請か、アメリカの機嫌を取りたい日本政府の要請に押されてのことである。

一連の利下げが日本国内でどう受け止められていたのか。3回目の利下げ直後の日本経済新聞、朝日新聞の記事から引用しよう。

日銀が利下げをためらってきた理由の1つとしては、カネ余りの中でそれが経済の一部をさらに投機化させるという心配があげられていた。だが、その原因は「余ったカネ」に見合うだけの国内の投資先が不足しているところにある。金融政策内部だけでの解決はもともと無理だったとみるべきだろう

日本経済新聞(1986年11月1日)

日銀が利下げをためらってきたのは、このため〔貯蓄で生活する人への配慮〕ばかりではない。通貨供給量の伸びが大きく、だぶついたカネが有利な運用先を求め、動いている。地価の高騰は東京の都心や高級住宅地から周辺部や地方の主要都市に広がり出した。日銀は、土地転がしのための融資を抑えるよう呼び掛けているが、金融機関の側も社会的責任を自覚してもらいたい。また住宅づくりを促す税制上の優遇措置が投機をあおっている面もあるので、土地譲渡の利益への課税強化なども必要だろう

朝日新聞(1986年11月1日)

(5)バブルが弾けて

1980年代、巨額の対米黒字を抱えた日本は、アメリカの顔色を窺いつつ、「国際協調」の枠内で、国際社会における地位を高めようと努力した。プラザ合意を積極的に主導したのもそのためだったといえる。

1980年代末になると、経済成長によって自信を付けた日本は、アメリカに「物申す」姿勢を見せはじめる(↓)。この時期の景気拡大は、高度成長期以来の高い設備投資の伸びに牽引された、実体のあるものだった。当時、日本人が感じた自負心には、相応の根拠があったのだ。 

*盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』の出版は1989年。

しかし、度重なる利下げと(アメリカの要請による)金融・資本自由化の進展は、実体経済の成長をバブルに変えてしまった。

バブルがはじけ、低成長が10年も続いた後には、「物申す」気概も実力もなくなり、日本は「ドル覇権」を支える末端の役人のようなポジションに追いやられていたのである。

*ただし、私の理解では、アメリカは覇権を取るためにWW2を戦ったわけなので、もし仮に日本が順調に力を付けてアメリカに対抗する姿勢を示していたとしたら、適当な理由を付けて軍事的または経済的に攻撃され、結局は屈服を強いられていたに違いないと思う。

ヨーロッパ・日本の立ち位置

「ドル覇権」における(当時から現在に至る)旧G5の立ち位置は、以下のようにまとめることができる。

イギリスは首謀者だから仕方がない。しかし、残りの3国は悲しい。

フランス、ドイツ、日本は、以後、ドル覇権を支える役人として、アメリカの側に立って行動していく。それによって、次第に、発展途上国や新興国に対する「加害者」としての性格を強めていくのである。

(続く)

(2)変動相場制下の為替介入 ー 後始末をするG5」の部分が、本記事と深く関わります。
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基軸通貨ドル

基軸通貨ドル:私たちはどんな世界に暮らしてきたのか ①ドル覇権とは何か

はじめに

この記事は「基軸通貨ドルー私たちはどんな世界に暮らしてきたのかー」というタイトルで始めた連載の最終回である。

数年前から「どうも西側世界の鏡は歪んでいるようだ」と感じて探究を続け、「かなり分かった」と思ったところでウクライナ戦争が起きた。

ウクライナ戦争をめぐる西側世界の動きは「なぜ?」の連続で、これを理解して、同じように「知りたい」と思っている人たちと共有するには、まだ何かが欠けていると感じた。

*ウクライナ戦争ではピンと来なかった人たちも、ガザ危機で同じ疑問を持ったのではないでしょうか。

その最後のピースがこれ。
「基軸通貨ドル」である。

私と同じように「なぜ?」と思うような方は、おかねの話に詳しくない方が多いと思う。でも、素直に現実を見てみれば、現代では、おかねは、事実上、食物であり、資源であり、武器である。生物としての人類の争いが、おかねをめぐる争いという形をとるのは、たぶん、当たり前のことなのだ。

おかねをめぐってどんどんおかしな方向に進んでいく世界の物語。
どうぞお楽しみください。

ドル覇権とは何か:途方もない特権を持つアメリカ

アメリカに覇権が移ったのは第二次世界大戦の後だが(こちらをどうぞ)、基軸通貨ドルの下での通貨システムが現在の形で定まったのは、1971-73年を経た後のことである。

ここではその体制のことを「ドル覇権」と呼ぼう。

この体制の特徴は、基軸通貨国アメリカが持つ途方もない特権にある。4点にまとめよう。

*以下の記述が誇張でないことは日本大百科全書(ニッポニカ)の「通貨発行特権」の項(中條誠一)をお読みいただければ分かると思う(最後の一文が虚しくて好きです→「本来はこうした特権をもつ基軸通貨国は、節度ある経済運営を行い通貨価値の安定を確保するという義務を負っている」)。

①基軸通貨であるドルを作りたいだけ作ることができる

基軸通貨を作ることができるというのは、基軸通貨国の基本的な特権である。

*国際取引のほとんどは基軸通貨で行われるため、他国は輸出で基軸通貨を稼ぐか(通常は基軸通貨国の金融機関から)借りるかしなければ取引に参加できないが、基軸通貨国だけは、自国で通貨を作り、それを使って取引を行うことができる。

しかし、アメリカが持っている特権は、ただ「作ることができる」というだけではない。アメリカは、基軸通貨ドルを「作りたいだけ」作ることができるのだ。

かつてのポンドは金本位制の下にあった。そして、1971年8月15日以前のドルも、金=ドル本位制の下にあった。

*金=ドル本位制とは、ドルは金を裏付けとし(ドルと金を固定相場で結び、アメリカはドルの金兌換を保証する)、ドル以外の通貨はドルまたは金に対して相場を固定する通貨システム。実際には金を基準に選んだ国は一つもなく皆ドルを基準としたので、各国通貨の対外的価値はドル(を媒介として金)が支える格好になった。

金本位制の下では、基軸通貨国は、他国の中央銀行が「金に変えてくれ」と求めてきた場合、それに応じる義務を負う(基軸通貨の金兌換義務)。

つまり、かつてのイギリスおよび(1971年以前の)アメリカが持っていた「通貨発行特権」には、「金兌換義務を果たすことができる限度で」という制限が付いていたのである。

*金の保有量に合わせるのがもっとも安全だが、基軸通貨の信用が保たれていれば無闇に金兌換を求められることはないので「他国から信頼される経済運営」が条件ともいえる。

ところが、1971年8月、ドルを作り(そして使い)すぎて、金のストックがなくなりかけたとき、アメリカは、金兌換義務を放棄した(経緯はこちら)。

金兌換義務の放棄で、ドルの信用はもちろん低下した。しかし、ドルが基軸通貨の地位を追われることにはならなかった。

その結果、アメリカは、歴史上初めて、無制限の基軸通貨発行特権というものを手に入れたのである。

②赤字を出せば出した分だけ、他国から好条件の融資を受けることができる

アメリカの経常赤字が大変なことになっているのはご存じであろう。

世界経済のネタ帳 より

アメリカの経常収支は1970年代末から赤字になり始め、赤字は拡大の一途をたどった。にもかかわらず、決して国家財政が破綻することはなかった。

なぜかというと、アメリカが金兌換義務を放棄した結果として、ドル覇権システムの中に、「アメリカの出す赤字は(ほぼ)自動的にアメリカに対する融資となって戻ってくる」という仕組みが組み込まれたからである。

どういうことか。

アメリカの赤字とは他国の黒字である。1970-80年代であれば日本やドイツ、それ以降であれば産油国や中国が対米黒字でドルを蓄積した。

この国々が稼いだドルを資産として保有したいと考えたとき、かつてであれば、金に交換して安全資産として保有するという方法があった。しかし、ドルが金と切り離されたとき、タンス預金(紙幣を手元に置いておく)以外の方法は(実質的に)一つしかなかった。

ドル金融市場における投資(国債、株式、預金など)である。

ドル金融市場における投資は、投資国から見れば資産だが、アメリカから見れば債務すなわち「借金」である。

つまり、アメリカは、赤字を出せば出すほど、その分のおかねを他国が貸してくれるという、不思議な構造の中にいるのである。

もちろん、債権国は、建前上は、債務を引き上げることもできるし、厳しく取り立てることもできる。しかし、それをやって、アメリカの財政が本当に破綻したらどうなる?

彼らが持っている資産は、すべてパーになってしまうのではないか?

というわけで、日本を含む西側先進国はいつのまにやら一蓮托生。アメリカに倒れられては困るので、積極的かつ必死に支えざるを得ない、という状況が、1970年代にはでき上がっていたのである。

詳しくはこちらをご覧ください

③借りたおかねを信用の源として他国に融資をし、支配的な影響力を及ぼすことができる

基軸通貨の金融機関にはおかねが集まる(「世界の銀行」)。アメリカの場合、経常赤字の多くが自国の金融機関に戻ってくるのだから、その金額は膨大だ。

金融機関にとって、預金は信用の源である。預金が多ければ多いほど信用は高まり、その分だけ多くの貸付ができるようになる。

そういうわけで、アメリカは、金兌換義務を放棄することによって、多額の経常赤字を出し、多額の債務を抱えつつ、同時に、多額の対外貸付を行い、債権者として強い影響力を及ぼすことができるという不思議な地位を手に入れたのである。

アメリカの(とくに民間の)対外融資はしばしば相手国に債務危機を生じさせたが、アメリカはIMF(国際通貨基金)を手足として利用して、債権を確実に回収させた。詳しくは後述するが、アメリカにとって、通貨覇権を、債権確保の手段でもあったのだ。

④経済制裁を通じて「世界の警察」としてふるまうことができる

基軸通貨国でなくても経済制裁を実施することはできる。しかし、基軸通貨国が行う場合の効果は圧倒的だ。

アメリカから金融制裁(資産凍結、金融システムからの締め出し等)を受けるということは、事実上、一切の国際取引(貿易や資本取引)からの排除を意味していた。ドルが基軸通貨である以上、国際決済のほとんどはドル建てで行われるのだから。

この地位を利用して、アメリカは、キューバ、イラン、北朝鮮、シリアなど、恣意的に選んだ国々を国際取引のネットワークから排除し、「悪」のイメージを押し付けるとともに、その経済発展を妨げてきた。

この点は、後述の(投資による)「途上国の搾取」の問題と並んで、いわゆるグローバル・サウスがドル覇権に反感を抱く理由の一つとなっている。

*ちなみに下はアメリカの対キューバ制裁の解除を求める国連決議(2023年11月3日)の結果。アメリカとイスラエルだけが反対。31回連続で採択されているという。

ドル覇権の社会・経済的帰結:格差、搾取、終わらない戦争 

(1)根本は「おかねの増えすぎ」

基軸通貨国が上記のような特権を持っている以上、世界に流通するおかねの量が劇的に増えるのは当然だ(↓)。

どうにもバカバカしいことだが、以後、この「おかねの増えすぎ」こそが、世界の顕著な特徴を形づくっていくことになるのである。

ドル覇権下のおかねの量(https://www.bullionvault.com/gold-news/all_the_money_in_the_world_102720093
2008年以降はGDPを超えているという(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO23437180U7A111C1MM8000/

(2)増えすぎたおかねの活用ー金融部門の極大化

おかねは、市場を作り出し、産業(財やサービスの生産)を活性化し、社会のすみずみに物資を送り届ける機能を持つが、それ自体は富ではない。

1970年代、出生率の低下とともに経済成長が頭打ちとなった先進国に送り込まれた大量のおかねは、スタグフレーション(不況+物価の持続的上昇)と呼ばれる現象をもたらした。

有効活用されなかったおかねは、ただ市場にあふれて自らの価値を下げ、物価のみを押し上げたのだ。

*おかねの価値が下がると、同じものを買うのにより多くのお金が必要になり、物価が上がります。

苦境を経た先進国は、1980年代、増えすぎたおかねの新たな活用先を見出す。それが、金融である。

先進国は競って金融自由化を推し進め、ありとあらゆる金融手法を実用化した。「おかねがおかねを生む」錬金術に目を眩ませた人々は、増えたものが(富ではなく)ただのおかねであることを忘れ、「永遠の経済発展」が可能になったと信じた。

そして、この「金融部門の極大化」は、世界の通貨供給量の増加にさらに拍車をかけたのである。

詳しくはこちらをご覧ください。

(3)格差社会に「付加価値」経済

増えすぎたおかねは、先進国では、金融にアクセスできる一部の者とそれ以外の者の間の極端な経済的格差を生み出した(とくに極端なのは米英)。

実体経済(収益・賃金・消費)は拡大せず、一般の人々の可処分所得は増えないが、どこかに大量のおかねがあり、それを手にする人間がいる。

そのような社会では、一般の人々の富はむしろ減っていく。大量のおかねが流通しているせいで、土地や住宅をはじめとする生活必需品の価格は下がらない(むしろ上がる)からだ。

それをよく示しているのが下のグラフである(↓)。アメリカにおける賃料と世帯収入(いずれも平均)の上昇率の推移を表している。

1985年以降、収入は大して上がっていないのに賃料はどんどん上がっている。株価が上がろうが、平均的な世帯の暮らしは苦しくなる一方なのだ。 

アメリカにおける賃料と世帯収入
https://x.com/WinfieldSmart/status/1701227710100484477?s=20

もう一つ、重要なことがある。

おかねが増え、増えたおかねが一部の者の手に握られると、その一部の者の水準に引き寄せられて、普通の人がごく普通に暮らしていくためのコストが上がる。

この変化は、普通の人のなりわい(日々の仕事)にも跳ね返るのだ。

人々は、普通の人の普通の需要を満たすだけでは食べていけなくなって、超富裕層のインバウンド需要を呼びこんだり、やたらと高級な米とかシャインマスカットとかを作るよう強いられる。

人間界では若者や社会人が日々心をすり減らし、自然界では環境や天然資源への負荷が高まり続ける(↓)。それは、この「付加価値経済」が、あらゆる人に、あらゆる領域で、「無意味なフロンティア開拓」を迫っているせいなのである。 

おかねの量と比例している気が・・

(4)途上国の搾取、環境破壊

ドルは基軸通貨であるから、増やしたドルを手にした人々は、世界中の富を買い漁ることが可能であったと思われる。

例えば土地。 

https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4678b772cd0d698ff49b83e4ad53b13b3fe4cdaa六辻彰二さんの記事(2018年3月10日)より)

しかし、土地以外の財は、継続的に富をもたらすことがない。そこで、より好まれたのが、投資である。

低成長時代に入った先進国は、途上国が持つ「伸びしろ」を、有望な投資先とみなした。そこまではポンド覇権下のイギリスと同じだが、この時代(現代)の投資家の目的はあくまで自己利益(それも短期的な)なので、強引に貸し付けては気まぐれに引き上げるようなまねをして、途上国経済に深刻なダメージを与えた。

途上国においてもっとも手っ取り早くおかねを稼ぐ方法は天然資源の開発である。先進国からの資金の多くは資源開発=環境破壊のために用いられ、途上国は膨れ上がる債務の返済のために天然資源を売った。

例えば、南米アマゾンの破壊ではブラジルの歴代政府が批判されることが多いが、開発を促したのは先進国のおかねなのである。

先進国から途上国への投資の問題は、「ドル覇権 VS グローバル・サウス」の対立の核心なので、後で(③)詳しく扱うことにしよう。

世界全体の森林破壊は1980-90年代にピークを迎えている(https://ourworldindata.org/deforestation

(5)戦争

アメリカの対外赤字の源泉の一つは軍事支出である。WW2後のアメリカは共産主義封じ込めのためにあらゆる国に軍事支援を行い、自らも戦闘を行った。アメリカを金=ドル本位制の放棄に追い込んだ直接的な要因は、ベトナム戦争における多額の軍事支出である。

朝鮮戦争やベトナム戦争以外にも、アメリカは、CIAなどの諜報機関を通じたきわめて多数の秘密作戦や、単独ないし多国籍軍を主導する形での多数の戦争を実行している。

アメリカがこれだけの軍事費(表に出ている分だけでこの額↓)を支出できるのは、もちろん、上述の「特権」のゆえである。

しかし、話はこれで終わらない。ここからがより重要なのだ。

アメリカはかつて、ドル覇権に基づく経済的な「特権」を利用して戦争を戦っていた。冷戦の終結で戦争が必要なくなったとき、アメリカは、自国経済が「ドル覇権」なしに成り立たなくなっていることに気づいた。そこで、アメリカは、今度はドル覇権に基づく経済的な「特権」を守るために、再度軍備を増強し、終わりなき戦争を戦いはじめた、というのである。

もちろん、これは一つの仮説にすぎない。しかし、2000年以降の軍事支出の増大(↓)、冷戦終結後もなぜか終わらない戦争、金融危機(2008)の後の再度の軍事的活性化(ウクライナでの各種工作を含む)という事実は、「基軸通貨特権を守るための戦争」という仮説に、非常によく合致している。

https://data.worldbank.org/indicator/MS.MIL.XPND.CD?end=2022&locations=US&start=1960&view=chart

次回に向けて

第二次世界大戦直後、基軸通貨ドルを誕生させ、その信用を支えたのは、アメリカの経済的実力だった。しかし、ドル覇権(1971-3以後)は違う。

ドル覇権は、アメリカの経済力・経済的信用の低下によって生み出されたシステムである。現在、ドルの信用を支えているのは、アメリカというより、実質的には、アメリカと西側諸国(ヨーロッパと日本)の協力関係なのである。

西側諸国は、ドル覇権の一部を構成している。何がどうしてこうなったのか。それが次回のテーマである。

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ポンドの沈下/ドルの浮上
-アメリカはどうやって大英帝国の力を削いだか-

はじめに

第一次世界大戦を契機に、安定したポンド覇権(国際金本位制)は終わりを告げる。

ポンドの地位が低下する一方、アメリカ・ドルの地位は上がる。ポンドとドルのダブル基軸通貨体制になるのだが、ドルは基軸通貨国としての責務を担うことはしない。

こうした不安定な体制の結果生じた金融秩序の混乱が、かなり直接的に、第二次世界大戦の勃発につながっていくのだ。

もちろん、ポンドの沈下は、自然現象のように起きたわけではない。それをもたらしたのは、アメリカの、おそらくさほど意図的ではないものの、とても「アメリカらしい」行動である。

イギリスとアメリカ

第一次世界大戦とその戦後処理、戦間期、そして第二次世界大戦と戦後の秩序回復に至る歴史は、一面では、イギリスからアメリカへの覇権交代の歴史である。

イギリスとアメリカは実際にはライバル関係にあるのだが、それぞれの行動は、その過去に由来する微妙な関係性に支配されている、という感じがする。

イギリスを由緒正しい本家、放蕩の後に出世した家出息子をアメリカとしよう。

イギリスはアメリカに対し「そうはいっても息子」という思いを捨てられない。本家イギリスの大国としての地位を守るために、アメリカは最後には力を貸してくれるはずだと信じている。

*そして、一度や二度、裏切られても、その思いは揺らがない。

一方、アメリカにはイギリスの大国意識こそが煩わしい。あんたが大国でいられるかどうかなんて知ったことか。

どうしてもと頭を下げれば支援はしてやろう。だがやり方は俺が決める。大国になったなら大国らしくしろ? 大きなお世話だ。

こうしたそれぞれの姿勢は、第二次世界大戦とその戦後処理に至るまで継続していくのだが、今回は第一次世界大戦とその戦後の話である。

第一次世界大戦におけるアメリカの立ち位置

第一次世界大戦(1914-1918)(以下WW1とする場合がある)は、大局的に見ると、ヨーロッパの覇権をめぐって戦われたイギリスとドイツの戦争である。勢力拡大を狙うドイツをイギリス、フランスで抑え込んだ格好だ。

WW1の対立の構図は、同盟国 VS 協商国(連合国)である。

同盟国(中央同盟国 central powers)の中心はドイツとオーストリア、一方の協商国(連合国)(entente or allied powers)には、当初のイギリス、フランス、ロシアに加え、ポルトガル、日本、イタリアが名を連ねた。

*英仏露のいわゆる三国協商はtriple entente。「協商国」の語はここから来ているが、日本語で英仏の側を協商国とも連合国ともいうように、英語でもentente powersともallied powers(またはallies)ともいうようだ。

あれ、アメリカは?

私は今回調べるまで全く知らなかったが、
ここが大事なところなのである。

アメリカは1917年4月にドイツに宣戦布告し、大戦に参戦する。

アメリカ兵が本格的に前線に配備されたのは1918年になってからだが(訓練に時間がかかったとか)、それでも、戦争末期には140万人のアメリカ兵が西部戦線で戦い、同戦線での戦死者は11万6000人にのぼっている(木村靖一『第一次世界大戦』(ちくま新書 2014年)178頁)。

 *大戦全体の国別統計はこちら

フランスに運ばれるアメリカの兵士たち

連合国にとって直接的に何よりも大きな支援は、アメリカの資力と工業力にあった。イギリスの輸入量に占める合衆国の比率は、1914年では26%、17年に43%、18年になるとほぼ半分の49%にもなっている。また連合国への総額112億ドルにもなる借款がなければ、戦争の継続は難しかったと指摘されている。

木村・前出178頁

というわけで、アメリカの力、とりわけ経済力がなければ、連合国の勝利はなかったというのが一般的な評価である。ところが、アメリカはallied powersの一員ではないというのだ。

じゃあ、何なのか。

第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約では、いわゆる連合国は ”allied and associated powers” と記されている。

同盟を結んだ国々(allied powers)と、それ以外の、いわば提携関係にあった国々(associated powers)とが、概念上区別されているのである。

*この両者を日本語でどのように訳し分けるのかわからない。wiki日本語版では、「同盟国と連合国」としていて、ゼロから訳してよいなら妥当な訳だと思うが、日本語ではドイツ側を「同盟国」イギリス側を「連合国」と呼ぶのが一般的なので、その訳し分けはちょっとややこしすぎると感じる。イギリス側参加国を「連合国」と呼ぶ慣例に従った上でいうと、実態は、連合国の中に、同盟による連合国と、事実上の協力関係による連合国がある、という感じだと思う。

そして、この区別に誰よりもこだわったのがアメリカだった(両者の区別を含めてブリタニカのサイトが参考になる)。

実際のところ、アメリカは、イギリスやフランスとの同盟関係を否定することによって、第一次世界大戦の「真の勝者」になったのである。

「戦債問題」の真実

大戦中、アメリカはヨーロッパ各国に多額の物資や資金を提供した。その額は、連合国全体で71億ドルに及んでいる。資金援助は大戦後も続き、1921年には120億ドルに達していた。

*71億ドルのうち37億ドルがイギリス、20億ドルがフランスである。120億ドルの内訳は45億ドルがイギリス、42億ドルがフランスで、復興資金としてフランスに投下された金額の大きさが窺われる。

この多額の「戦債」が、WW1の戦後処理における最大の問題であったことはよく知られている。

*しかし正直にいうと私は知らなかった。賠償金のことは知っていたが戦債のことはよく知らなかった。

勝利した連合国は、アメリカに対する債務の支払いに苦しみ、敗北したドイツは戦勝国への賠償金の支払いに苦しんだ。

多額の対米戦債と賠償金こそが、WW1後のイギリスおよび大陸ヨーロッパの経済を停滞させた直接の原因であり、第二次世界大戦の遠因でもあった。

と、ここまでのことは、世界史の教科書にも書いてあるし、大抵の金融史の本にも書いてある。しかし、ほとんどどの文献にも書かれていないことがある。

同じ戦争を味方同士として戦った同盟国の間で融通された物資や資金のすべてを「債務」として扱い、その返済を(利子付きで!)義務付けるというやり方は、当時としては普通ではなかった、ということである。

アメリカがalllied powersの一員であることを拒絶した最大の理由は、これらの戦債の処理において「俺のやり方」を貫くためだったと考えられる。

戦債処理における「アメリカ流」とは、物資・資金提供が持つ政治的な意味を捨象し、民間の債務とまったく同様に、ビジネスの問題として処理することだった。

出世した放蕩息子のアメリカは、「俺は別に同盟国じゃないし」「ただ助けてやっただけだし」ということでそれまでのやり方を無視し、多額の債務をテコに、イギリスを王者の地位から追い落としたのである。

*この時点でどこまで意図的であったのかはわかりません。

新兵器:国家間債務

アメリカが示した「俺流」の新しさを、2つの側面から説明しよう。

①政治的文脈の無視

一つは、軍事支援の政治的文脈を無視して、ビジネスに徹したことである。

それ以前の戦争は、一国(大抵はイギリス)が同盟国の軍事費を賄うのが通常で、融資ではなく月々の助成金のような形で支払っていたという。

*この方式は、同盟国の忠誠を担保する目的も果たすことができた(相手がいうことを聞かなくなったら即座に支払いを停止するのだ)。

アメリカ独立戦争(1775-1783)の際にはフランスがアメリカに多額の支援を行ったが、そのほとんどはやはり純粋に助成ないし贈与として供されている。

フランスはアメリカに提供した援助(7億ドル相当の軍事援助と200万ドルの資金)の代償を要求することはなかったし、融資の形で提供された600万ドルを厳しく取り立てることもなかった。

*というか、(1789年の革命を経て)生まれたばかりのフランス共和国はおかねに困っていたので同じく生まれたばかりのアメリカ合衆国に再三返済を要請したが、まったく耳を傾けてもらえなかった。要するに返してもらえなかったのだ。

WW1でも、英仏は、連合国側での参戦を条件に、ギリシャに「返済の心配は無用」という形の軍需品の供給を約束している。

同じくWW1で、イギリスはロシア、イタリア、フランス等に約70億ドルの資金を提供しているが、もとより回収の目処はなく、回収するつもりもなかったと思われる。

戦費の返済を求めない慣習は、「戦争とは政治的目的を達成するための手段である」という常識によるものである。

ギリシャはギリシャのために戦うのではなく、連合国のために戦うのである。資金は政治的目的を同じくするものの間で融通し合うのが当然ではないか。

しかし、アメリカはこの常識に異議を唱えた。

実際には、当初は「返済の心配は無用」という姿勢を見せていたというが、戦争終結後、アメリカ政府は態度を変える。

「借りたものは返す。それが常識でしょう、奥さん?」と言いつのる高利貸しのように、アメリカは各国からの債務調整の申し入れをキッパリと断り、提供した軍需品や資金のすべてを帳簿に書き込んで、連合国とりわけイギリスに対して、債務の返済を強要した。

*実際、この時期のアメリカは(イギリス人に)「シャイロックおじさん」と呼ばれていたそうである。

「同盟国ではない」ということを論拠に、支払いの猶予すら認めず、直ちに元本と利子の支払いを始めるよう要求したのである。

戦間期を覆う不況の中で、アメリカが実際に回収することができた金額はごくわずかだった。

しかし、多額の債務を背負わせたことが、イギリス経済の回復を阻害し、ポンドの沈下/ドルの浮上に大いに役立ったことは間違いない。というか、これによって、アメリカは「WW1 の真の勝者」となったのだ。

②国家間の債権ー債務関係

WW1後の戦債処理のもう一つの新しさは、国家と国家の間に債権者ー債務者の関係性を持ち込んだことにある。

当時も政府が外国から借金をすること自体は珍しいことではなかった。しかし、債権者は民間の個人投資家であるのが通常だった。鉄道事業などを対象としたイギリスの資本輸出(証券投資)はその典型だ。

*日本政府も鉄道建設や秩禄奉還者への就業資本供与(!)など、さまざまな事業についてロンドンの金融市場で発行した外債で調達している(日本銀行「戦前における外資導入について」)。日露戦争の戦費をロンドンとニューヨークの金融市場で発行した外債によって調達したことも有名だ。詳しくはこちら(渡辺利夫「高橋是清の日露戦争」)

この写真をどこから見つけてきたのか忘れてしまいました。思い出したら加筆します。

しかし、連合国がWW1の戦費を民間投資で賄うことができたかといえば、できなかったであろう。収益性が見込めないからである。

*イギリスはある程度は民間からの借金もしている。

WW1は当時の先進国同士の戦争である。「新興国が大活躍を始める」といった大きな希望を伴わない潰し合いのための戦争で、どちらが勝つとしても、その費用は基本的にはヨーロッパの破壊に用いられるのだ。

資金は必要だが、収益性は期待できない。それが、一般に戦費が同盟国間の補助金方式で融通されていた理由であり、連合国が民間のアメリカ人ではなく、アメリカ政府の援助を仰ぐことになった理由である。

計算づくだったとは思わないが、結果から見ると、「アメリカはこの状況を見事に利用した」ということになるだろう。

民間投資家なら決して資本を投下しない案件に「政治的同盟者」の顔で資金を提供し、すべてが終わった後、「投資家」の顔に変身する。

そうすることで、アメリカは、他国に対して、返済不可能な債務についての債権者であるという政治的にきわめて優越的な地位を(史上初めて)獲得したのである。

彼らは知った。
国家間債務は武器になる」と。

とはいえ、相手が自国を草刈場として見ていることが明らかなときに、返済困難な債務を背負い込もうとする国は少ないだろう(指導者がグルである場合は別である)。

しかし、(表向き)公益的な主体から、政治的ないし人道的支援として提供されるとしたらどうだろう。経済的に苦境にある国が、その申し出を断ることは決してないだろう。

アメリカはWW1の経験を通じて、ここまでのことを「知恵」として学んだかもしれない。

次回以降の話だが、このスキームは後に、途上国に対して支配的影響力を及ぼす手段として用いられていくことになるのである。

1914-1939の金融・経済事情

そういうわけで、WW1の戦債問題がかなり直接的に作用した結果、ポンドは沈下し、ドルが浮上した。

しかし、放蕩息子のアメリカは、「別に親父の跡なんか継ぐ気はないし」「まだまだ自分のことで精一杯だし」ということで、その責任を果たそうとはしない。その結果、金融を震源地として世界経済は混乱の一途を辿り、WW2を迎えるのである。

この間の出来事は再度の戦争を招いた大きな過ちとして記憶され、WW2後の秩序形成の際、「反面教師」として参照されることになる。戦債問題を含めて、箇条書きで整理し、次回以降に備えよう。

①国際金本位制崩壊

世界大戦が勃発してパニックに陥った各国は、金保有量と通貨量を連動させる金本位制の「ゲームのルール」を無視して金の抱え込みに走り、国際金本位制は崩壊した。

ケインズの伝記に、彼が1919年に「田舎暮らしの退屈を紛らわすため」に外国為替の投機を始めた旨の記載があり、金本位制の崩壊後まもなく為替変動を利用した投機が始まっていたことがわかる。ケインズは母親宛の手紙に次のように書いている。

「現在のシステムの長期的な継続が許されるとは思えません。特殊な知識と経験が少しあるだけで、お金が造作なく(かついかなる意味においても不当に)流れ込んでくるのですから」。

ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ 1883-1946  経済学者、思想家、ステーツマン』(日本経済新聞出版、2023)上・350頁

②ポンドの地位が低下し、ドルが急浮上

イギリスが純債務国に転落した一方、アメリカは純債務国から巨額の純債権国となっていち早く金本位制に復帰。ドルの地位が急浮上した。

*アメリカは1914年6月末時点では(大戦前)22億ドルの純債務国だったのが1919年末には64億ドルの純債権国に。イギリスについては数字がないが大戦前は少なくとも「トントン」であったのが大幅な純債務国に転落したようである。(以上につき、上川ほか・39-44頁[平岡賢司])

③多額の戦債または賠償金によりヨーロッパ各国が困窮に陥る

・イギリス、フランスを始めとする連合国はアメリカに対して約71億ドルの債務を負った(うち約37億ドルがイギリス、20億ドルがフランス)(いずれも休戦時)。

・ドイツは1320億マルク(約66億ドル)の賠償金を課された。

・復讐心に燃えるフランスはともかくイギリスはドイツへの過大な賠償金請求がヨーロッパの安定を損なうことを理解していた。

・それでも多額の賠償金を求めざるを得なかったのは、アメリカが戦時中の資金提供を債務として回収する立場を取ったことが理由である。

*連合国の対米債務と賠償金の額が概ね一致していることに注目していただきたい。

④基軸通貨がポンドとドルの2つに分裂

・貿易その他の国際取引に関してニューヨーク金融市場が急成長を遂げ、ロンドン金融市場と肩を並べるようになった。

*ただし、第三国間の貿易金融を中心に、全体としてはまだポンドに優位性があったとされる。

・基軸通貨と国際金融市場の分裂で、ロンドン、ニューヨークに加えベルリン、パリなどの主要国の金融市場を激しく移動する「ホット・マネー」が発生。システムの不安定化が進んだ。

⑤再建金本位制の下でドルの存在感が上昇

・アメリカに続いてイギリスが金本位制に復帰(1925)。再建金本位制の時代が始まる。

・なぜイギリスの復帰=再建金本位制なのかについては、山本栄治先生にご説明いただく。

再建国際金本位制は2極通貨体制だといっても、ポンドを中心に構成された国際通貨システムであり、ドルはそれを補完する役割を果たしていた。アメリカは巨額の資本輸出を行ったので、ドルは契約通貨や投資通貨の機能を獲得したが、その国際的信用制度はまだ世界システムに発展しておらず、ドルはグローバルな基軸通貨の地位を獲得してはいなかったのである。

他方、イギリスは資本輸出能力を低下させたことによって契約通貨や投資通貨の機能をドルと分割しなければならなかったが、その国際的信用制度はまだ世界システムであり続けていた。‥‥ここにイギリスが金本位制復帰しなければ国際金本位制が再建されたとは言えなかった理由があ(る。)

山本栄治『国際通貨システム』45-46頁

・イギリスの金本位制への復帰は(主観的には)世界の基軸通貨・金融センターの地位を回復するためであったが、早すぎる復帰それも過大評価された(WW1以前の)旧平価での復帰はイギリス経済に悪影響をもたらした。

*通貨の価値が過大評価されると、国内では外国製品の価格が下がるため需要が国内製品から外国製品にシフトし、国外では自国商品の値段が上がるので買われにくくなる。国際収支は悪化し、自国の産業にも大打撃。

・1927年にはポンド危機が発生。危機はニューヨーク連邦準備銀行の主導によって打開され、国際金本位制の維持がロンドン(イングランド銀行)ではなくニューヨークの政策に依存するようになったことを印象付けた。

⑥金融恐慌で金本位制瓦解。

・1929年ニューヨーク株式市場大暴落。国際金融恐慌に発展し、イギリスの金本位制離脱(31年)により再建金本位制は崩壊。

・金融恐慌は、企業活動の停滞、大量失業、世界貿易の縮小を招き、世界的規模の大不況をもたらした。

⑥不況下で、為替戦争(通貨切り下げ競争)・貿易戦争(ブロック化、関税障壁の導入)が激化危機は解消しないまま、第二次世界大戦

・各国は為替の切り下げや保護主義的措置(貿易障壁の導入)を駆使して、自国の景気回復を図った。

*為替を切り下げる(自国通貨の価値を下げる)と、国内では外国製品の値段が上がるため需要が外国商品から国内商品にシフトし、外国では自国商品の値段が下がるので買われやすくなり、国際収支が改善する。ちなみに1933年の時点で為替相場の切下げ率が最大だったのは日本で1929年(金本位制時代)の金平価と比べて57%の下落。

・どうにかこの状況を改善する(つまり、不況から脱出し、かつ相場の安定を図る)ため、1933年にロンドン経済会議が開催されたが、アメリカ(ルーズヴェルト大統領)の非協力的な姿勢により、会議は何も達成せずに終わる。

・この時期のアメリカの姿勢については、次のような評価が一般的。

1930年代の大不況期に基軸国が国際経済の安定に寄与する可能性があったとすれば、自由主義的な通商政策や拡張的マクロ経済政策によって商品輸入を拡大するか、もしくは資本輸出を再開して、他の諸国の国際収支上の困難を緩和させること」であり、「その可能性を持っていたのはアメリカしかなかった。ところがアメリカは、‥‥国際通貨システムの安定よりも自国の景気回復を優先させる行動をとった。

石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』86頁

・その結果、世界経済は、ポンド・ブロック、ドル・ブロック、金ブロック、ドイツ広域経済圏、円ブロックに分裂。互いにブロック内の関税を下げブロック外の国に高関税を課する「保護主義=近隣窮乏化」政策を展開して恐慌を深化・長期化させ、第二次世界大戦に突入。

*金ブロックは金本位制を堅持する国々。中核はフランス、スイス、ベルギー、オランダ、イタリア、ルクセンブルク

保護主義アレルギーについて

この時期に、各国が通貨切り下げや関税障壁により自国経済のみを保護する「保護主義」的政策を取ったことが、恐慌を長引かせ、戦争の要因になったことは事実である。

欧米各国の「保護主義」アレルギーはここから来ているのだが、しかし、この時期の経験が、あらゆる状況の下で自由貿易主義を正当化し、保護主義を不当とするものでないことは明らかだと思う。 

イギリスは1651年以来の航海法によって自国の海運と貿易を保護していた(イギリスがオランダを抜いて海運と貿易の覇者となり、通貨覇権を担うに至ったのはこのためといってよい)。これが廃止されるのは、1849年である。

フランス、ドイツ、アメリカも、19世紀のいわゆる産業革命の最中には高関税によって自国の産業育成を図っていた。日本だってそうだ。これらの国が経済発展を達成できたのは、保護政策によって十分な体力を付けていたからなのだ。

1930年代の大恐慌時の「保護主義」が不毛であったのは、それが自国産業の成長や貿易拡大のためのものでなく、単に他国の足を引っ張るためのものだったからである。

「このような為替戦争や貿易戦争は、貿易相手国を犠牲にして自国の景気回復を図ろうとする近隣窮乏化政策であり、また輸出を増大させることよりも輸入を減少させることによって国際収支の改善を図ろうとするものであった。その結果、国際貿易は物価の大幅な下落の影響も加わって急減した。」(山本栄治『国際通貨システム』61頁)

自国経済の健全な発展のために、一定の保護が必要になる場面は間違いなく存在する。それを無視して、自由貿易主義を言い募ることで、世界がどんな悪影響を被ったかは、次回以降に見ていくことになると思う。

まとめ

  • ポンド低落の要因は、いわゆる戦債問題(多額の対米債務)である。
  • 戦債問題」は、アメリカが戦争のための物資・資金援助を民間債務と同様に扱ったことによって発生した新たな現象である。
  • このときアメリカが開発した「政治的・人道的支援の顔をした返済困難な国家間債務」という武器は、爾後、他国に支配的な影響力を及ぼすために利用されていく。
  • 基軸通貨が分裂する不安定な体制の下、NY発の金融恐慌が世界規模の大不況に発展する。
  • 唯一の実力者であるアメリカを含む各国が保護主義=近隣窮乏化策(経済戦争)を展開して不況を深化・長期化させ、第二次世界大戦に突入。

主な参考文献

  • 山本栄治『国際通貨システム』岩波書店 1997
  • 上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』有斐閣 2007
  • 石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』有斐閣 1995
  • 加藤栄一「賠償・戦債問題」宇野弘蔵監修『講座 帝国主義の研究 2 世界経済』青木書店 1975
  • ロバート・スキデルスキー(村井章子訳)『ジョン・メイナード・ケインズ1883-1946 上』日本経済新聞出版 2023
  • Michael Hudson, Super Imperialism, Second Edition, Pluto Press 2003
カテゴリー
基軸通貨ドル

基軸通貨の誕生
-ポンドの場合-

はじめに

自分がこれまでどんな世界に暮らしてきたのかを知るためには、ドルが基軸通貨であるということの意味をよくよく理解する必要があるらしい、という認識に至り、覚悟を決めて勉強した。

するとあら不思議(?)、第一次世界大戦のあたりからウクライナ危機まで、何となくよくわからないと感じていた歴史の流れが全部わかっちゃったのだ。

金融秩序の変遷などという項目は、普通の世界史教科書の項目には入っていないし、社会科学各分野の専門家はもちろん、国際政治の専門家ですらみんなが知っているというわけではないだろう。しかし‥‥

国際政治経済において権力は、安全保障を管理できる人びとの手にある。また、生産による富の創造を統制している人びとによっても握られている。しかし、これまで述べてきたような安全保障構造と生産構造と並んで、そのどちらとも重要性はいささかも劣らないものとして、金融構造は重要な位置を占めている。

スーザン・ストレンジ(西川潤・佐藤元彦訳)『国家と市場』(ちくま学芸文庫、2020年)205頁(原著は1988年)

戦争や外交(安全保障)、物質的豊かさ(生産)が歴史が始まって以来の関心事であるのに対し、金融秩序における覇権という現象は、それ自体、19世紀の終わり頃になって初めて現れたものである。

ジョン・ロックもルソーもそれを論じていないし、アダム・スミスだってマルクスだって論じていない。

しかし、イギリスを中心とするヨーロッパからアメリカへ、核家族から核家族へ覇権が移行し強化されていく過程は、通貨覇権という現象とともにあった。

*英語ではmonetary hegemonyというのが一般的なようです。

今回勉強するまで私はまったく知らなかったが、19世紀末から現代、とりわけ1940年代から現代の特異な在り方は、かなりの部分、通貨覇権という現象と関わりがあるようなのだ。

基軸通貨ドルー私たちはどんな世界に暮らしてきたのか」というタイトルで始めるこの連載は、第二次世界大戦頃から現在までのドルの覇権がテーマである。

ただ、通貨覇権の基本構造を知り、ドル覇権の特性を知るために、先代の基軸通貨であるポンドのことを知る必要があるので、その限度で歴史を遡る。

というわけで、今回のテーマはポンド。
通貨覇権の誕生である。

基軸通貨とは何か

まず、基軸通貨とは何か。いろいろ調べてみたが「基軸通貨」という言葉に明確な定義はないらしい。

一般的には、国際取引の決済などに主に用いられ、国際金融や決済(為替)システムの要となっている通貨のことを基軸通貨と呼ぶようだ。

この連載でもその意味で用いる。

*「為替」という言葉はわかりにくくてなるべく使いたくないのだが、使わないのも不自然なのでカッコがきで使うことにする。また外国為替市場(外国通貨を売買する市場)については一般的な用語なのでそのまま使う。これらの言葉のわかりにくさについては、こちら(↓)をご覧ください。

ポンドが基軸通貨になるまで

(1)イギリスは世界貿易の中心地だった

近代化後の世界に初めて生まれた基軸通貨がポンドである。

*もって回った言い方をするのは、世界のグローバル化の先駆けであるモンゴル帝国の時代に銀本位制の通貨が基軸通貨として通用していたように思われるからである(そのうち書きます)。

イギリスの地に基軸通貨が誕生した理由は明快で、イギリスが世界貿易の中心地となっていたからである。

世界貿易で先行したのはオランダ。しかしイギリスは18世紀には毛織物貿易や海運でオランダをしのぎ、19世紀には産業革命による「世界の工場」化と交通・通信革命の効果として、多角的な貿易機構の中心地としての地位を確たるものとした、というのが教科書的な説明である。

*「多角的」はこれまで私の語彙にはなかったが、この領域で非常によく使われる形容詞(multilateralの訳と思われる)なのでこの先もちょいちょい使うかもしれない。この文脈では「二者間に限定されない多方面の」というような意味だが、経済のブロック化へのアンチとして使われることも多い。

インドはわがために綿花を作り、オーストラリアはわがために羊毛を剪り、ブラジルはわがために香り高き珈琲をつくる。……世界はわが農園、イギリスは世界の工場(workshop of the world)

と、こんなことを言った人がいたというが、その言葉の通り、繊維産業を主力とするイギリスの経済発展には、自国製品の輸出だけでなく、原料の輸入が不可欠だった。そして、もちろん、イギリスはお茶やコーヒー、砂糖などの輸入品を大量に購入し、物質的な豊かさを堪能した。

大事なことは、イギリス経済の豊かさは当初から輸出と輸入の両方によって成り立っていたということである。

輸出ばかりしていたわけでも輸入ばかりしていたわけでもなく、双方から成り立つ貿易システムの全体がイギリスの繁栄に不可欠だった。

だからこそ、イギリスは世界貿易の要となったのだ。

*なお、イギリスは悪名高い大西洋三角貿易(奴隷貿易)の拠点でもあったが19世紀には下火になっている。

(2)基軸通貨ポンド

世界貿易の中心地が世界金融の中心地となるのは道理といえる。

ロンドンではマーチャントバンカーと呼ばれる人々が先駆けとなり、ロンドン宛貿易手形の引受(短期の信用供与→要するに決済のための一時的なおかねの融通)サービスが普及した。

*マーチャント・バンカーとは、ロスチャイルド商会、ベアリング商会、モルガン商会などの(元は個人の)国際金融業者。世界大百科事典によると「19世紀初頭、ナポレオン戦争の終結とイギリス産業革命の進展を背景に、ロンドンが国際金融の中心となろうとするころ、有力な貿易商人であるヨーロッパ大陸(とくにドイツ)の富豪たちが来住し、その資力と名声をもとに上記の金融業務を開始したことに起源を持つ。」

*貿易手形の引受とは? これは現代の貿易手形のサンプル(↓)。貿易においては輸出業者が海外の輸入業者から支払いを受ける必要があるが、その決済業務を輸出業者・輸入業者それぞれの取引銀行が代行する。下は輸出業者(Export Handel NV)が取引銀行(Commerzbank AG)に(本来は輸入業者が支払うはずの)代金の支払いを依頼する書類(為替手形)。Commerzbank AGはこの為替手形を買い取ってDrawee(支払人)としてExport Handel NVに対する支払を引受け(=一時的に貸し付け(信用供与))、代金を輸入業者の銀行を通じて回収する。このケースでは輸入業者の信用状を発行しているのもCommerzbank AGなので、同銀行が輸入業者の取引銀行を兼ねていることが分かる(話が早いですね)。

このサービスが便利なので、世界の貿易業者は、イギリスとの貿易はもちろん、それ以外の国との貿易でも、ロンドンの銀行宛の貿易手形による決済を行うようになった。手形はもちろんポンド建てである。

世界中の人々がポンドを使って取引をする。
基軸通貨ポンドの誕生である。

第一次世界大戦よりも前のポンド紙幣ってこんな感じらしい。
https://www.bankofengland.co.uk/banknotes/withdrawn-banknotes

(3)「世界の銀行」

世界中の貿易業者が、決済をロンドン宛の貿易手形で行うようになるということは、主に次の2つのことを意味する。

一つは、すべての決済がポンドで行われるようになること(すでに書いた)。

もう一つは、貿易に従事したり、国際決済を必要とする世界中の人々がみんな、ロンドンの銀行に預金口座を持つようになるということである。

*日本国内で企業や個人事業主が手形・小切手の決済を行うときは(事業用の決済口座である)当座預金口座を用いるのが普通だが、これと同様に、国際決済が必要な企業や個人事業主は、当座預金口座に相当するものをロンドンに持つことになったのだ。

要するに、世界中からおかねが集まるのだ(この場合、支払いのための一時的な預金(短期資金))。

世界中からおかねがロンドンの金融機関に集まると、ロンドンの金融機関の信用は高まる。こうした場合、金融機関のやることは一つ。

貸付である。

おかねとは何か」で書いたが、貸付とは、信用に元手におかねを作り出すことにほかならない。

その意味するところの大きさについて、スーザン・ストレンジさんに補足していただこう(雰囲気を読んでいただければOKです)。

信用をつくり出す権力とは、他の人びとに今日消費を行い、明日その分の埋めあわせをする可能性を与えたり、否定したりする権力を意味する。この権力はまた、他の人びとに購買力を与え、それによって生産物にとっての市場を生み出す力を意味している。また、信用はそれを通じて与えられる通貨の管理を行い、他の通貨によって与えられている信用の交換レートに影響を及ぼす権力をも意味している。

ストレンジ・前出205頁

このとき、イギリスは文字通り、「世界の銀行」として、世界に通用するおかねを作り出し、人びとに消費の可能性を与えまたは否定し、市場を生み出し、通貨の管理を行い、他国通貨との交換レートに影響を及ぼす権力を手にしたのである。

通貨覇権の誕生

(1)気づいたら覇権国

ところで、ポンドが基軸通貨となり、イギリスが「世界の銀行」の地位に着いたのは、何というか、ただのなりゆきである。

イギリスとしては、狙って取りにいったわけではないし、こういうものを欲しいと漠然と思っていたということですらないだろう。

しかし、現実に世界の金融秩序がイギリスを中心に回り始めた以上、イギリスが相応の役割を果たさなければ、世界経済に支障が生じてしまう。

世界にはいつのまにか金融覇権ないし通貨覇権というべき巨大な権力が生まれていた。イギリスは気づいたときにはその地位にあり、重い責任を担っていたのである。

同時代に生き、事態の大きさに気づいたバジョットという人はつぎのように書いている。

現在ではロンドンは諸外国に対する手形交換所であるから、ロンドンは諸外国に対して新しい責任を有している。どういうところであろうとも、多数の人々がそこで支払をしなければならないならば、これらの人々はそこに資金を保有しなければならない。ロンドンにおける外国資金の大量的預金は、今や世界商業にとって欠くべからざるものになる。

W. バジョット『ロンバード街』(岩波書店、1941年)45頁(原著は1873年)(山本・14-15頁からの孫引きです)
Norman Hirst によるバジョットの肖像画

(2)通貨覇権国の責務

このとき、イギリスがいつの間にか負担していた責務とは何か。以下の3つが挙げられると思う。

  ①ポンドの供給
  ②ポンドの信用維持
  ③各国通貨との交換レート(為替レート)の安定

①ポンドの供給

まずはポンドの供給だ。ポンドが世界の基軸通貨である以上、世界経済の発展のためには、世界にポンドが潤沢に出回る必要がある。

この点は、私が勉強していて「ほほう。なるほど」と感じた点で、通貨覇権国の財政を理解するために重要なポイントだと思う。

イギリスの銀行は貸付を行うことによってポンドをつくることができるが、そのポンドが世界に流通するルートはつぎの2つしかない(無償で配ってもよいのだが彼らはそういうことはしないので)。

 ①イギリス国民が海外の製品・サービスを買う
 ②イギリス国民が海外に投資する

後で見るように、イギリスの貿易収支はつねに赤字であり、通貨覇権国となってからは海外投資(資本輸出)が生命線となっていく。「赤字なのに投資で儲けて補うなんて・・(ずるい?)」と感じる人も多いだろう(私だ)。

しかし、現に世界はポンドを必要としており、世界にポンドを供給できるのはイギリスだけなのだ。

おそらく、通貨覇権国である限り、貿易赤字を投資による収益が補うような収支構造になっていくのは(ある程度)必然的であり、そのこと自体は問題ではないのである。

また、産業競争力の低下についても同じことがいえる。

通貨覇権国は、当初はその圧倒的な競争力によって覇権を得るのだが、その力はやがて低下し、せいぜい数ある先進国の中の一つという感じになっていく。

イギリス、アメリカに共通するこの現象も、やはり(ある程度)必然的であり、それ自体は問題とはいえない。

彼らが積極的に海外との貿易や海外投資を行えば、諸外国も相応に成長を遂げていくはずであり、それはむしろ望ましいことなのだから。

②ポンドの信用維持
③為替(通貨交換)レートの安定

一方で、彼らの貿易収支や投資行動、経済的パフォーマンスがどんな状態であっても構わないというわけではもちろんない。

いまや、ポンドを支えている彼らの信用は、基軸通貨を通じて世界の金融秩序を支えている。イギリスの経済的信用が失われるような事態になれば、基軸通貨の信用や為替レートの安定性は損なわれ、直ちに世界経済に波及してしまうのだ。

したがって、問題は、おそらく、赤字の程度であり、投資の質であり、また投資による利潤と実体経済とのバランスである。

要するに、それらがポンドの信用を脅かすことがなく、世界経済の健全な発展に資するような内実を持つものかどうかが問題なのだ。

(3)通貨覇権国の特権

責務の方を先に書いたが、彼らの責任は、彼らがそれだけの特権を持っていることの裏返しでもある。

世界の銀行であるということは、世界中からおかねが集まってきて、その信用を元手におかねを作り、世界中の事業に投資することができるということである。

自分で働かなくても、投資による利子・配当によって利益を得ていくことができるというのだから、これが大変な特権であることは疑いない。

実際、資本輸出(投資)による利子・配当収入は、国内産業の競争力が低下した後のイギリス経済を長く支えていくことになったのだ。

ポンド覇権下の金融システム

私たちの主な関心事であるドル覇権についてみると、いま現在、ドルの信用はかなり危うい。そして、だいぶ前から、通貨交換レート(為替レート)が日々上がったり下がったりするのは日常茶飯事だ(だからFXで儲けたりできる)。

*FXはforeign exchangeの略で、この文脈では外国為替証拠金取引のことを指す。

ポンドが覇権にあった時代はどうだったのであろうか。

(1)通貨交換レート(為替レート)は安定していた

ポンドの時代は、国際金本位制(1880-1914)の時代と同視される。

国際金本位制といっても、国際機関で話し合って制度化したというわけではなく、基軸通貨であるポンドが金本位制を採用していたので、他の国々もそれに合わせて金本位制を採用した結果、そのような体制ができあがったというだけであるが、とにかくこの時代のことをそう呼ぶ。

*ポンドとの交換レートが安定すれば、貿易や投資を呼び込みやすいというのが主な理由で、1870年代末までにヨーロッパの主要国すべてが金本位制に移行した(日本は1897年)。

通貨交換レート(為替レート)についていうと、みんなが金本位制を取っているということは、実際上、固定相場制が採用されているのと同じである。

*例えば、イギリスが金1オンス=4ポンドを平価(交換比率)とし、アメリカが金1オンス20ドルを平価としていた場合、ポンドのドルに対する交換レートが1ポンド=5ドルに固定されているのと同じことになる。

もちろん、みんなで話し合って決めたわけではないので、各国が自分の判断で金に対する平価(交換比率)を変更することは可能であったし、金本位制の「ゲームのルール」を守らないことも可能であった。

*金本位制の「ゲームのルール」: 保有する金の量に合わせて自国通貨の供給量を調整すること。この言葉を普及させたケインズは、(通貨量に対して?)「大量の金を獲得することもなく、また喪失することもなく管理すること」という言い方をしたという。

しかし、この期間においては、イギリスはもちろん、他にもそうしたことを(少なくとも大々的に)行う国はなく、みんなが国際金本位制=固定相場制の維持に協力していたようだ。

なぜ各国が金本位制を採用し、またそのルールを遵守していたのかといえば、通貨交換レート(為替レート)の安定は各国にとっての利益であったからである。

イギリスの後を追う国々にとっては、産業の発展のために、イギリスから機械や鉄道を買い、資本を輸入する(投資してもらう)ことが必要だった。

貿易の中心地であり世界の銀行であるイギリスにとっては、多くの国にイギリスを中心とする多角的貿易機構および決済機構に参加してもらい、物とおかねの自由な移動を確保することが何より望ましかった。

現代では忘れがちな単純な真実だが、日常的に物とおかねをやりとりする間柄である以上、通貨の交換レートは安定していた方がいい。本当なら、同じおかねを使いたいくらいだ。

商品やサービスの価値と無関係の事情で損をしたり得をしたり。そんなことがしょっちゅう起こるようでは、安心して生産に取り組み、商売を行うことなんかできなくなってしまうではないか。

 *今はまさにそういう世界ですが‥‥

そういうわけで、現在の先進国が世界貿易と資本移動を通じた経済発展の只中にあった当時、ポンドの覇権の下で、通貨交換レート(為替レート)は安定していたのである。

(2)イギリス経済は堅調で、ポンドの信用はゆるがなかった

ポンドの信用を支えているのは、イギリス経済の信用である。

すでに述べたように、外国製品の輸入や投資によって世界にポンドを供給するのは通貨覇権国イギリスの責務であって、多少の赤字や、貿易赤字を投資収入で埋め合わせるような構造は問題ではない。

問題は、おそらく、赤字の程度であり、投資の質であり、また投資による利潤と実体経済とのバランスである。

ということで、1880-1914のイギリス経済について、この点を確認しておこう。

拡大する貿易赤字を投資収益が埋める

国際金本位制が確立した頃、貿易立国としてのイギリスはすでに盛りを過ぎていた。

次の表をご覧いただきたい(面倒な方は見なくても構いません)。 

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11172226&contentNo=1(富田ほか)

輸出入の双方に積極的だったイギリスの貿易収支は最初から赤字(輸入超過)なのだが、経常収支は一貫して黒字である。

当初、貿易赤字を埋めていたのは、貿易にまつわるサービス収支(海運や保険)だった。 

*このサービス収支の黒字はまさにイギリスが世界貿易の要であったことによるものだ。

貿易赤字は一貫して拡大傾向だが、とくに1870年代の後半からが顕著であり、理由としては、工業でイギリスを追い上げていたアメリカ、ドイツ、フランスが自国の産業保護のために輸入品に高い関税をかけたことでこれらの国への輸出が停滞したこと、交通・運輸と食品加工技術の発達で安い農畜産物が大量流入したことなどが挙げられている。

しかしそれ以降も経常収支は黒字で、黒字幅はむしろ大きくなっている。数字を見れば一目瞭然。サービス収支とともにこの時期の国際収支を支えたのは投資収益なのである。

イギリスの資本輸出

「投資によって収益を得る」というとそれだけで悪い人が暴利を貪るような印象をお持ちの方もいると思うが(私ですが)、この時期の投資はまだ比較的健全だった(現在も健全な投資はある)。

終わり頃になると個別企業への株式投資という形態が普及してくるが、それ以前はもっぱら鉄道などの公共事業への長期投資である(↓下の図を参照)。

株式や通貨の短期的な売買を繰り返して利益を得るようなタイプの投資とは質的に異なっていたのだ。

*具体的なやり方はこんな感じ
①イギリスの銀行が外国政府や鉄道会社からの請負で債券(国債や鉄道債)を発行する(銀行は手数料などの収入を得る)。
②イギリスの投資家がそれを買う。
③投資家は債券を長く保有し、利子や配当によって利益を得る。

https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11172226&contentNo=1 
労作!ありがたい(富田ほか)

実体経済と投資のバランス

量的に見ても、当時の資本輸出(海外投資)は外国為替市場のごく一部にすぎなかった。

当時の外国為替市場で行われていた通貨の売買は、ほとんどが商品の貿易に伴うもので、資本輸出額は商品貿易額の10分の1程度に過ぎなかったという(山本・22頁)。

イギリスは貿易赤字の補填を資本輸出に頼っていたが、取引の規模においては商品の売買(貿易)が圧倒的で、海外投資のせいで為替市場が混乱するというような状況ではおよそなかったのである。

(おまけ)現在の外国為替市場

ちなみに、現在の外国為替市場がどんなことになっているかご存じであろうか。

現在の外国為替市場で行われる通貨の売買のうち、貿易やサービスの輸出入、直接投資などの実需に伴う売買は全体の約1割程度にとどまっているという(↓)。

外国為替取引には、輸出入などの実需取引から派生する取引と、国家間における金融資産の売買や投機的な売買などの資本取引から派生する取引がある。2018年末時点では、資本取引に派生する取引が全体の約9割を占める。

みずほ証券×一橋大学 ファイナンス用語集

*なお、資本取引であっても直接投資(経営への実質的関与を伴うもの)は実需側にカウントするようだが、この時期のイギリスの資本輸出は主に(上述のような)国債や鉄道債の購入という形態だったようなので、多くは「資本取引に派生する取引」の側だと思われる。

直接投資と間接投資の区別については、ブリタニカの説明がわかりやすかったので一部引用させていただく(以下「直接投資」)。

経営参加を目的として株式を購入したり、現地の既存企業を買収したり、新たに工場を建設したりする投資をさす。一方、値上がり益や利子・配当所得を目指した証券の購入が間接投資である。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版 2016

2007年の調査だが、実際の数字を入れたつぎのような説明もある。

世界の主要な外国為替市場における取引総額は2007年の調査によると1日あたり約3兆2,100億ドルに達しているが、同年の世界の貿易総額(輸出ベース)は約13兆8,208億ドルであるから、貿易にともなって必要になる外為取引だけなら4~5日分で済むということになる。

金井ほか・221頁

貿易以外の「実需」(サービスや直接投資)は2~3日分だそうなので、全部合わせても約1週間。

つまり、世界中で日々行われている外為取引の圧倒的大部分は、必ずしも実際に外貨が必要なわけではないのに行われているということなのである。

金井ほか・221頁

しかも、全体の9割にあたるとされる「資本取引に派生する取引」のほとんどは、ヘッジファンドなどによる投機的な短期投資だという。要するに、現在の為替相場(通貨交換相場)を動かしているのは、実体経済というより、投機的参加者の思惑なのである。

*こちらのサイトに引用されている池田雄之輔『円安シナリオの落とし穴』(日経プレミアシリーズ、2013)からの情報です。 

「すごい」と思ってイメージ図を作ってみた。左がポンド覇権の下での外国為替市場、右がドル覇権の現在だ(資本輸出の比率は適当です)。

スーザン・ストレンジの言葉の通り、通貨覇権国は、自国通貨(基軸通貨)を管理し、他の通貨との交換レートにも影響を及ぼす。

イギリスが管理をしていたのは紛れもなく世界の商取引のための市場であった。しかし、現在、アメリカが管理している市場は、ほとんど賭博場である。

世界貿易のための市場がカジノに変わるまでに何があり、この世界がどう変化したのか。

それを追っていくのが次回からのテーマということになるのかもしれない。

まとめ

  • 世界貿易の中心地イギリスに発達した国際決済サービス(ポンド建て)を通じ、ポンドが基軸通貨の地位を獲得した。
  • イギリスは、世界中から集まるおかねに基づく信用により「世界の銀行」の地位を得た。
  • イギリスが得た主な特権は(信用を元手とした)資本輸出による利子・配当収入だった。
  • 国際金本位制の下、外国為替相場(通貨交換相場)は安定し、世界経済の発展に役立った。
  • 当時の外国為替取引の大部分は貿易に伴うもので、資本輸出はその10分の1程度にとどまっていた。
  • その資本輸出も長期投資が中心堅実なものであり、相場を撹乱する要因となることはなかった。

主な参考文献

  • 山本栄治『国際通貨システム』岩波書店 1997
  • 上川孝夫・矢後和彦『国際金融史』有斐閣 2007
  • 金井雄一・中西聡・福沢直樹『世界経済の歴史』名古屋大学出版会 2010
  • 石見徹『国際通貨・金融システムの歴史 1870-1990』有斐閣 1995
  • 西村陽造・佐久間浩司『新・国際金融のしくみ』有斐閣 2020
  • 奥田宏司・代田純・櫻井公人『深く学べる国際金融』法律文化社 2020
  • 秋田茂『イギリス帝国の歴史』中公新書 2012
  • ミシェル・ボー『増補新版 資本主義の世界史』藤原書店 2015
  • 富田俊基・篠原照明・永戸一彦・山本美樹子「19世紀イギリスの資本輸出」大蔵省財政金融研究所「ファイナンシャル・レビュー」March-1987

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社会のしくみ

「弱肉強食」の真実

目次

はじめに

「アメリカ II」の中で、家族システムにおける「権威」が果たす機能の第一は秩序維持であると書いた

権威には秩序維持機能があるという想定の下、「権威が確立していないとどう困るか」についてはこう書いている。

限られた領域に大勢の人間が暮らしている場合、少なくとも最小限の秩序維持機能は絶対に必要といえる。それがなければ、弱肉強食、血で血を洗う抗争の世界となってしまうから。

このとき私が想定していた「弱肉強食」の世界とは、殺人やら喧嘩闘争が頻発する世界、要するに、無秩序が支配する世界だった。

しかし、その後、いわゆる未開社会(=原初的核家族)の事例をいろいろ読んでいて、「あれ?」と思うようになった。

そこはたしかに「弱肉強食」の世界ではあった。しかし無秩序かといえば無秩序ではない。何というか、秩序そのものが「弱肉強食」の原理に従っているのだ。

原初的核家族がもたらす「不正な秩序」

「権威の不在→無秩序」という想定は、秩序には「正しさ」が含まれることを暗黙の前提としている。

だからこそ、私は権威(「正しさ」の基盤である)が確立していない社会では、秩序の維持は困難であろうと考えたのだ。

広辞苑で「秩序」を引くと、最初の説明はこうである。

①物事の条理。物事の正しい順序・筋道。次第。

これでいくと、「秩序」とは何かしら「正しい」ものであり、権威がなければ秩序は築けないということになりそうである。

他方、Oxford Dictionary of Englishで ”order” を引くと、その大元の意味はつぎのように説明されている。

1 the arrangement or disposition of people or things in relation to each other according to a particular sequence, pattern, or method:  

こちらの説明では、人間や物事同士の関係が何らかの順序、パターン、方法にしたがって配置・整理されていれば「order」といえるのであって、それが「正しい」ことは必要ではない。

言われてみればその通り。

日本人(広辞苑や私)の思い込みとは違って、たしかに、「正しさ」(したがって権威の裏付け)がなくても、秩序の維持は可能だ。

強い者が有利な立場を得て、弱い者がいろいろと我慢を強いられる。その弱肉強食の状態をそのまま固定してしまえばよいのである。その状態は「不正」ではあるが、無秩序ではない。

実際、いろいろ見てみると、権威の確立していない社会がもたらしがちなのは、無秩序というよりは「不正な秩序」のようなのである。

「不正な秩序」が生まれるとき

農耕を始め、定住し、人口が増え、土地が不足し、利害関係の調整が必要となったような場合、共同体は、何らかの形で権威を組み入れた家族システムを発展させ、「正しい秩序」を可能にするのが普通だろう。

しかし、この世界では、原初的核家族を営む人々のもとに、ふいに外部から文明が現れ、複雑な利害調整が必要な状況に追い込まれるということもありうる。例えば、未開社会に西欧の人々が踏み込んできて、奴隷貿易を持ちかけてくるとか。

*奴隷貿易に関しては西欧の側の「不正」ぶりも興味深いが、ここでは未開社会の側に着目する。

突然巨大な権益を投げ込まれた未開社会は、一時の無秩序を経て、秩序形成に向かう。しかし、社会の基層をなすシステムの中に、複雑な事象を「正しく」処理するのに必要な「権威」は確立されていない。

そういうときに何が起こるか。デヴィッド・グレーバー『負債論―貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016年)が紹介する事例を見てみよう。

大西洋奴隷貿易と西アフリカ

大西洋奴隷貿易は15世紀に始まり19世紀まで続いた。17世紀後半までには、ヨーロッパの6つの帝国(イギリス、デンマーク、オランダ、フランス、スペイン、ポルトガル)による三角貿易の仕組みが確立し、現地の社会を揺るがせることになる。

wiki掲載の図に加筆(https://ja.wikipedia.org/wiki/大西洋奴隷貿易

①ヨーロッパの工業製品(布、雑貨、武器など)がアフリカへ
②アフリカの奴隷がアメリカへ
③アメリカの一次産品(銀、砂糖、綿花、タバコなど)がヨーロッパへ
 

ヨーロッパの各種製品や武器の流入が西アフリカ社会に大きな影響を与えたことは、この時期以降に諸王国が興隆した事実にみてとれる。オヨ王国やアシャンティ王国、ダホメ王国(現在のベナン共和国の場所)などである。

ダホメ王国の王と女官たち 

西アフリカでの奴隷の調達は、最初のうちは、純粋な暴力が中心だった(戦争の捕虜とか、適当に拉致して連れ去るとか)。アフリカの商人がヨーロッパの商人から信用取引で商品を購入する際に、信用の担保として人質を提供し、その人質が債務不履行によって奴隷として売られていくというパターンも多かったという(債務不履行を待たずに連れ去られてしまうケースもあった)。

しかし、奴隷貿易はやがて、アフリカの権力者や有力商人にとっても、富と権力の源として「なくてはならないもの」に成長する。すると、彼らは、組織的かつ合法的に、地域の住民を奴隷に変えて、ヨーロッパの商人に売り払う仕組みを作り上げていくのである。

奴隷調達のための「不正な秩序」

ダホメやアシャンティといった王国では、統治者は、犯罪に対する刑罰として、本人の奴隷化や「本人の死刑+家族の奴隷化」を定めたり、とてつもなく高額の罰金を課して支払えない場合に本人と家族を奴隷にする、といった方法で奴隷を調達したという。

王国といえるほど発達していない地域では、長老や有力な商人が同様の司法体系を整備し、罪を犯した者を(比較的軽微な罪であっても)奴隷として売り飛ばした。訴えた者は一定の代金を得る仕組みであったので、長老などの協力を得て、無実の罪がでっち上げられることも少なくなかったという。

後者のケースで(国の行政組織に代わって)大きな役割を果たしたのは、商人のリーダーたちが作る秘密結社であった。この秘密結社(エクペ(Ekpe)という)は、神秘的な教義を伝授したり、大掛かりな仮装パーティーを主催することで知られていたが、その裏で、極秘の任務を遂行していた。債務の取り立てである。彼らは債務を支払えない者に対して、(組織的な)取引拒否から、罰金、差し押さえ、逮捕、処刑に至る各種制裁を実行する権限を有していた。

南ナイジェリアのekpeのコスチューム(詳細は不明)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Egbo_Secret_Society,_Mgbe,_Etuam,_Egbo,_South_Nigeria_Wellcome_M0005360.jpg

秘密結社エクペの会員であることは名誉と風格の証とされ、誰もが会員になることを望んだ。果たして、エクペには、等級別に異なる入会金を支払いさえすれば、誰でも加入することができたのだ。

入会金は高額だったが、金を用意できればメンバーになれる。そこで、多くの人々が、商人に借金をして高額の入会金を払い、エクペに加入した。彼らはまた、仮装パーティーで使用する道具や衣装を作るためにも、商人から金を借りた。

こんなのを作ったのかもしれません。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:British_Museum_Room_25_Mask_Ekoi_people_17022019_5015.jpg

エクペに憧れ、借金をして入会し、やはり借金をして衣装を作った人々。彼らがこの借金を返せなかったらどうなるか。

彼らはいまやエクペの一員であるため、債務者であると同時に、自ら債務取り立ての任務も負っている。彼らは、自分の家族や従僕を人質として差し出す代わりに、エクペの一員であるという地位を利用して近隣の村を襲い、子どもや大人、財物、家畜などあらゆるものを強奪して、それを代わりに差し出すことで許しを得ようとした。

*この場合、襲われた人々は、何の正当な理由もないのに、奴隷として売られていくことになる。

責任を他人に押し付けるこの作戦は成功することもあったが、しないこともあったという。後者の場合、結局は、自分の子ども、家族、従僕、最後には自分自身まで差し出すよう強いられ、手枷足枷をはめられて、奴隷として売られていったのである。

エクペのメンバーになりたくて、商人から金を借りたばっかりに、一族郎党が殺され、あるいは奴隷として売り払われていく。そんな仕組みが確立されて、長期間保持されていたのだ。

「人肉債務」の物語

こうした奴隷調達システムが現地の人々の心性にどんな影響を与えていたかを示すものとして、ティブ族の信じる「人肉債務」の話がある。

ティブ族(Tiv)は1750年ごろ(ちょうど奴隷貿易が活発であったころだ)からナイジェリアのべヌエ川流域に居住する部族で、20世紀中頃に人類学者による調査が行われている。

あきらかに、ティブ族には権威の形成にかんして大きな問題があった。

グレーバー『負債論』227頁

ティブ族の間には、公式の政治機構は存在せず、人々は平等主義的で、あらゆる形式の主従関係について懐疑的だったという。それぞれの村落は、一人の長老(=カリスマ性のある実力者)が絶対的な権力をふるうことによって、その秩序を維持していた。典型的な原初的核家族の世界である。

ティブ族の人々の間では、人肉を食べることで特別なカリスマを得る妖術師=殺人鬼の存在が信じられていた。人々は、政治的な指導者になるような有力者はみなこの妖術師なのではないかという疑惑に取り憑かれていたという。

妖術師は結社を組織していて、結社は、つねに新しい成員を求めている。成員を獲得する方法は、だまして人肉を食べさせることである。妖術師は、候補者を食事に招き、こっそり人肉(妖術師が妖術師自身の家族を殺し、その肉を混ぜるとされている)を食べさせる。

うっかり人肉を食べてしまった者は、結社と「人肉負債」の契約を結んだことになり、自らの肉を提供するよう言われる。それを逃れる唯一の方法は、自らの家族をかわりに差し出すことである。彼は、妖術師の指図通りに、兄弟、姉妹、こどもたちを一人一人殺していかなければならないのだ。

「人肉負債」は、はてしなくつづく。債権者はいくどもやってくる。‥‥すべての係累を失い、家族が全滅するまで「人肉負債」から逃れられない。かくして、債務者は、みずからおもむいて横たわり、屠殺され、そこで負債からついに解き放たれるのである。

グレーバー・226頁

このストーリーが何を示唆しているかは明らかだろう。先ほどの秘密結社の影響力がティブ族の地域にまで及んでいたのかどうかは(本を読んだ範囲では)はっきりしない。

*グレーバーは「〔彼らが〕なぜそんな強迫観念に脅かされていたのかというと、2、300マイル離れたところの住人たちの身にそれが文字通り起こっていたからである」としか述べていない。

しかし、私は、ティブ族の有力者の中にも秘密結社のメンバーになったり、周辺地域の秘密結社と関わりがある者がいたのではないかと想像する。

ティブ族の人々は、隣人である有力者の手引きによって、いつ何時、債務不履行、あるいは押し付けられた負債によって、自分やその家族が奴隷として売り払われてもおかしくないという秩序の下で暮らしていた。

そうした事態が現実化することへの恐怖が、妖術師による「人肉負債」の物語を生んだのではないだろうか。

巨大な権益を得た原初的核家族の一般理論

奴隷貿易にまつわるこうした「不正な秩序」の発生は、西アフリカに特異な事例というわけでは決してなく、むしろ、西欧の商業文明と接した未開社会では通常のことだったという。

支配者が(でっち上げを含む)犯罪や債務を理由に臣民を従属させ、奴隷として外国人に売り払って富を築く。「弱肉強食」の自然的事実をそのまま糊で固めたような社会制度は、奴隷貿易の対象となった各地域に確立し、100〜数百年にもわたって営まれていた。

*グレーバーの本では、東南アジアの山間部やバリ島の事例が紹介されている。

権威が確立されていない社会では、強さと正しさは同義である。巨大な権益を手にした強者はそれを正当な自分の取り分であると信じ、弱者の側もそれを信じる。おそらくはそんな単純な仕組みによって、「不正な秩序」は確立され、維持されていくのだと思われる。

原初的核家族のもとに巨大な既得権が発生したとき、必ずといってよいほど「不正な秩序」が形成されるという事実は、この世界を隈なく理解したいと願うわれわれにとって、非常に示唆に富んでいる。

何しろ、現在の世界の秩序は、二度の世界大戦でヨーロッパ列強が凋落した結果、さほど強く望んだわけでもないのに、いつの間にか巨大な権益を手中にしていた原初的核家族を中心に形成されてきたものなのだから。

おわりに

私がグレーバーの本を手に取ったのは、一つには、アメリカの金融覇権とはいったい何なのかを理解するためだった。

なぜ(日本を含む)西側諸国はこれほどまでにアメリカに従属することとなり、なぜグローバルサウスはドルの支配から逃れようとしているのかを、何となくではなく、はっきりと理解するためだった。

グレーバーを読み、さらに調査を進めて分かったことは、現在の金融秩序はかなりデタラメだということである。デタラメで、めちゃくちゃで、まあ、特にアメリカ、それから(ある程度)その同盟国である西側諸国に都合のよい仕組みである。

ただ、じゃあ、アメリカは巨大な悪の帝国で、緻密な計画に基づき周到に準備してこの仕組みを作り上げてきたのか、といえば、そういうわけでもなく、どちらかというと、あまり深く考えず、短期的に見た自己利益を最大にするべく、そのつどそのつど行き当たりばったりで策を講じてきたら、壮大な「不正な秩序」が確立されていた、という感じなのだ。

そのやり方は、まさしく突然巨大な権益を手に入れた原初的核家族のものであり、もう笑うしかない。しかし、被害者の側面もありつつ、グローバルサウスと呼ばれる地域との関係では明らかに受益者側であるわれわれは、やはり、その仕組みをしっかりと理解して、世界と、それからとくに若い人たちと、認識を共有する必要があると思う。

もうすぐシリーズが始まります。
お楽しみに。

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世界を学ぶ 戦時下日記

ユーラシア大陸の中心で起きていること
ー戦時下日記(6)

西アジア中国を震源地として、本当に重要なことが起きていると思うのでまとめておく。

*以前、イランのハメネイ師が「ここは西アジアだ。中東などではない」と言っているのを聞いて「なるほど」と思ったので、西アジアを採用する(「中東」とか「極東」はヨーロッパを基準点とする言い方である)。

1 西アジアー和解に次ぐ和解

【予備知識】西アジアにおけるアメリカ

・アメリカは、冷戦終結後もロシア・中国・イランを敵視し、これらの国と良好な関係を保つ国々(イラク、北朝鮮、シリア、リビア、イエメン、ソマリア)で、政権転覆等を目的とした代理戦争を展開してきた(主な手段は武力攻撃と経済制裁)。

・アメリカの西アジアにおける最重要同盟国はサウジアラビア。サウジは長年イランシリアと対立して西アジア・アラブ世界で両者を孤立させ、アメリカの利益に貢献してきた。

・西アジアでの紛争状態の継続は、アメリカの利益(石油資源確保、武器輸出拡大、影響力保持)に合致した。

・もっとも破壊的な影響を受けたのはシリア

ーアメリカはアサド政権に「専制主義」のレッテルを貼り打倒を目指している(事実は異なる。アサド政権のシリアは世俗国家であり、近隣の王制国家と比べはるかに民主的)。

ーアメリカは2011年の反政府運動(「アラブの春」の一部)を契機に勃発した内戦で反政府側を強力に支援してきた。西アジア諸国ではサウジ、トルコ、カタールが反政府側。

ーアメリカは2015年から正式にシリアに駐留を開始。現在も一部を占領し、経済制裁も続けている。

ーISISとの戦いというのは口実に過ぎず、①中国、ロシアとの経済的関係(シリアはこれらの国に石油を売り武器を買っている。アメリカはこれらの国に石油を売ってほしくなく、また自国の武器を買ってほしい)、②イランとの政治的友好関係(アメリカは2010年に「イランとの関係を解消すればその見返りとして経済制裁を中止する」とシリアに提案して断られている)、③政権転覆(アメリカはアサド政権を倒しアメリカに従順な政権に変えたい)が主な目的と見られている。 

(1)サウジアラビアとイランの和解

・そういうわけで、サウジを中核とするイラン・シリア包囲網の構築がアメリカの西アジア政策の肝であったが、3月以降、この包囲網が一挙に瓦解をはじめ、西アジアに平和が訪れようとしているようなのである。

・3月10日、サウジとイランは外交関係正常化(7年ぶり)で合意した。共同声明は3カ国の連名でもう1国は中国。3カ国は北京で4日間に渡って協議を行ったとのこと。中国政府が仲介役を果たしたのである。

・アメリカは「イランが履行義務を果たすかが問題」とか言っていたようだが、履行に向けた動きは着々と進んでいることが窺える。

・4月6日にはサウジとイランの外務大臣が北京で会談して大使館の再開に向けた合意を締結。サウジの国王はイラン大統領をサウジに公式に招待し、大統領もこれに応じたという。

この記事を大いに参考にしました

(2)サウジーシリア関係にも和平が波及!

・3月末、サウジとシリアが外交関係の正常化に合意したことが伝えられ、4月18日にシリアでサウジ外相とアサド大統領が会談した。

・サウジは5月に開催されるアラブ連盟の首脳会議にアサド大統領を招待する方針とのこと。

アラブ連盟からの排除(ヨーロッパの国がEUから除名されたようなものだろう)というのが、アメリカの意向に基づく「シリアの孤立」の象徴のようなものだったので、これは本当に大きな動きなのだ。

シリアの外務大臣は4月1日はカイロを公式訪問している(4月12日にはサウジ。いずれも12年ぶりとのこと)。サウジ、エジプトというアラブ連盟の二大大国がシリアを歓迎していることが窺える動き。

・この動きの前提には、シリア内戦でアサド政権側がすでに勝利を決定的にしていて、周辺国がアサド政権の正統性を認めているという事実があるらしい。実際、サウジとの関係正常化に先立つ今年2月に、レバノンチュニジアアラブ列国議会同盟に属する各国の議員たちが相次いでシリアを訪問していた。

・そうした事実を前提に、仲介役を果たしたのはロシアであるらしい。

今年3月のモスクワでの会談の様子https://www.france24.com/en/middle-east/20230315-assad-meets-putin-in-moscow-as-syrians-mark-12-years-since-anti-regime-uprising
今年3月のモスクワでのアサド・プーチン会談の様子
https://www.france24.com/en/middle-east/20230315-assad-meets-putin-in-moscow-as-syrians-mark-12-years-since-anti-regime-uprising

・3月20日-21日には非常に印象的な習近平のモスクワ訪問があったが、そのときにこうしたことも話し合われていたに違いない。

・ちなみに中国はイスラエル-パレスチナ和平の仲介にも積極的な意向を示している(さすが共同体家族だ)。

*ところでシリア情勢とくにアサド政権について日本語で出回っている情報は「専門家」とか「現地で取材したジャーナリスト」のものを含めてほとんど嘘ばっかりだと思います。私はまず元外交官の国枝昌樹さんが書いたこの本(↓)を読んで「世間で言われていることは全然間違ってるっぽい」ということを知り、以後は情報を海外の非主流メディアに求めています。

国枝昌樹『シリア アサド政権の40年史』(2012年、平凡社)
この記事ではこのスレッドを大いに参考にしました。

*内戦前のシリアの美しい街並みを紹介したこちらの記事もとてもおすすめです(写真しか見ていません)。

https://www.theatlantic.com/membership/archive/2018/04/remembering-syria-before-the-war/558716/

(3)イエメンも?

イエメン内戦にも波及効果が期待できるという。

・イエメン内戦は、一般に「暫定政府軍」とシーア派の武装組織「フーシ派」の戦いとされている。前者の背後にはサウジがいて、かなり積極的に関与しているという。

・一方、世間では、フーシ派の背後にはイランがいるとされているが、アメリカが主張するほどイランが積極的に関わっているわけではないらしく、まだよくは分からないのだが、実態はサウジ=アメリカが扇動する戦争ということなのかもしれない。

・いずれにしても、サウジとイランの関係が改善するなら、イエメン内戦の終結は十分に期待できるのだ。

・4月14日から16日に行われた捕虜の交換は、両者の間で対話と妥協が成立しつつあることをうかがわせる。

・4月8日にはサウジの代表団停戦協議のためにイエメンを訪問し、次回の協議は4月21日に行われるという。

サウジはイエメン南部の港における輸入品の封鎖措置を解除することを発表、イランはフーシ派への武器送付を停止し、フーシ派にサウジへの攻撃を止めるよう圧力をかけることに合意したと報道されている。

サウジはイランがイエメンから手を引くなら、サウジはイラクとシリアから手を引くと約束したともされており、これが実行されるなら、本当に、シリアにもイエメンにも同時に平和が訪れるということになるだろう。

フーシ派のリーダーと握手するサウジ代表団

(4)アメリカだけが嬉しくない

アメリカは、イランおよびシリアとの和平に向けたサウジアラビアの動きを「不意打ち」と非難しCIA長官ウィリアム・バーンズをサウジに送り込んでいる。

https://www.businessinsider.com/cia-director-visited-saudi-mend-tattered-relations-mbs-report-2022-5

・しかし、サウジはもうずいぶん前から明確に「中立」の姿勢を打ち出し始めている。

・2021年には上海協力機構に対話パートナーとして加盟(今年の3月にサウジ議会も承認)、BRICSへの参加を目指していることも伝えられている。

・ウクライナ紛争では対ロシア制裁への参加を拒否した上、ロシア産原油の輸入量を2倍に増やし、対ロ制裁の効果を高めるためのアメリカからの石油増産要請すら拒絶している(大幅に減産した)。

・「中立」とは、この文脈では、アメリカの一極支配ではなく中国やロシアが推し進める多極化した国際秩序を支持するということなので、サウジは明確にアメリカに反旗を翻しているのだ。

2 ルーラは動く(中国訪問)

もう一つ、重要だと思うのは、ブラジル大統領ルーラの中国訪問である。

ルーラは3月下旬に中国訪問の予定を直前にキャンセルし(「本人の病気」が理由)、「むむ、怪しい‥(アメリカに懐柔されたのか?)」などと思っていたが、4月12日-15日に訪中が実現。

私の疑念を大いに払拭するハイテンションで、多極的世界に向けた意欲を語っていた(そして中国の人々に大喜びされていた)。

中国でのルーラの発言はすごい。

ウクライナ情勢については「アメリカは戦争をけしかけるのを止めて、停戦協議を始めるべきだ」。

*この発言についてアメリカは不快感を示し、ロシアは賞賛している。

*なおブラジルは、今年3月にロシアが国連安全保障理事会にノルド・ストリームの爆破について調査するよう求めた際、ロシア、中国とともに決議案に賛成している。

おまけに、ドルの覇権にはっきり疑問を呈する発言もしているのだ。

私は毎晩考えます。いったいなぜ全ての国が貿易をドルベースで行わなければならないのかと。なぜ私たちは自国の通貨で取引をすることができないのでしょうか。金本位制の後、ドルを基軸通貨にすると誰が決めたのでしょうか?

https://www.france24.com/en/americas/20230414-brazil-s-lula-criticises-us-dollar-and-imf-during-china-visit

中国とブラジルは3月に両国間の貿易を中国元ブラジル・レアルで行うことで既に合意していた(同様の動きは中国、ロシアの周辺のあちこちで出てきている)。ルーラはこれがドルの支配から抜け出すための動きであることを非常に明確に語ったわけである。

今まで中南米では、アメリカに抵抗し、なかでもドルの覇権に抵抗する動きを見せた為政者は、必ずアメリカの手によって倒されてきた(と分析する記事を読んだことがある)。

ルーラ自身も前回の大統領の任期中に汚職の罪をでっち上げられて投獄されているのだ(CIAの関与があったとされている)。

ルーラにせよ、サウジにせよ、彼らの行動をアメリカがどのように受け止めるかは熟知しているはずである。

それにもかかわらず、これほどあからさまに動くということは、彼らが「潮目は変わった」と見ていることを示していると思われる。

彼らは、「現在のこの世界では、もはやアメリカに従順に従う必要はない。いや、むしろ従うべきではない」と考えているのだ。

西アジア中南米、そしてアフリカがはっきりとアメリカ(ないし西側)一極支配体制から離脱する動きを見せている。

アメリカおよび西側は、もはや信頼に値するリーダーとはみなされていない。それだけで、すでに、アメリカ(および西側)の覇権は終わっているといえると思う。

中国側は歓迎式典で(アメリカが支援していた)ブラジルの軍事政権時代の
抵抗運動を象徴する曲を演奏してルーラを驚かせたという

3 おわりに

ウクライナは膠着状態(勝ち目はない)、西アジアにおける影響力を中国、ロシアに奪われ、グローバル・サウスがドル覇権体制から離脱する‥‥となると、アメリカは台湾問題で賭けに出るしかない、という感じがいよいよ強まる。

日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドは、ギリギリまでアメリカに従って動き、最後の最後に引導を渡す、というような役回りであろうか(このツイートの動画が面白かったです。是非↓)。

ちゃんと考えている人がいるといいなあ。

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世界を学ぶ 戦時下日記

(翻訳)ドルの覇権とその終わり
-アメリカはなぜ中国との戦争に向かっているのか-

*以下はこのスレッドの翻訳です。ちょうど知りたかったときに知りたかったことが書いてあってとてもありがたかったので日本語にしました。皆さんのお役にも立てば幸いです。

アメリカが今後数年以内の中国との戦争に向けて突き進んでいることが日に日に明らかになってきています。

しかし、その理由を理解するためには、まず、アメリカが今日のような世界的な金融大国になった経緯を理解する必要があるでしょう。🧵

第2次世界大戦で世界が荒廃していたとき、アメリカは、全く無傷で、しかも世界に残されていた全産業生産能力の半分を手にして闊歩していました。

しかし、問題がありました。荒廃した同盟国は、復興のために輸出されるアメリカ製品に対して支払いを行う手立てをほとんど持っていなかったのです。

この問題に対処するため、アメリカはIMFと世界銀行を設立し、一方的な拒否権を通じて、古い植民地勢力圏、とりわけ大英帝国の解体に乗り出し、ヨーロッパの再軍事化を防ぐと同時に、アメリカ製品の輸出への道を開きました。 

この2つの機関をテコに、アメリカに途方もなく大きい権限を集中させるグローバル金融の枠組が創出され、アメリカは多国間主義を装って世界の債権者としての地位を固め、世界の基軸通貨としてのドルの地位を確立しました。 

その後、世界各地で勃発する国家主権をめぐる闘争を暴力的に抑え込むための巨額の軍事支出によって、アメリカの財政赤字が増加を始め、海外市場におけるアメリカ資本拡大の障害と見られるようになりました。

 

 

 

貿易赤字が膨らんだ結果、金(ゴールド)がヨーロッパに逆流し始めると、アメリカはドルと金のリンクを断ち切りました(1971年)。ドルが暴落すれば、黒字国の輸出産業が壊滅的な打撃を受けるため、当時はどの国もアメリカの財政上のハッタリを暴こうとはしませんでした。

 

これにより、日本、ドイツ、イギリスのような共同帝国主義の従属国には一つの選択肢しかなくなりました。余剰のドルをアメリカに還流して米国債(アメリカという事業体に対して債務の実行を迫るいかなる手段も持たない無益な非公式借用書です)を買うことです。

 

なぜ、これらの債権国は、余剰ドルを使って、フォードやGMといったアメリカの大企業を買収したり、郵政公社や社会保障制度を解体したりしなかったのでしょうか。彼らとアメリカの関係は対等ではなく、アメリカが支配的地位を利用して自らに都合のよい条件を押し付けたからです。

 

これにより、世界の基軸通貨としてのドルの地位はさらに強固になり、アメリカは財政赤字や貿易赤字を出してもさしあたり何の悪影響も被らないという途方もない特権を獲得した上、戦争を続けることも容易になりました。金(ゴールド)の裏付けなしの支出が可能になったからです。

結果、ドルのリサイクルは、国内産業に投資するより資本を輸出した方が多くの収益が得られるという事態を生み、産業資本は金融資本に取って代わられました。金融資本は残っていた製造業から貪欲に資産を奪い賃料を搾り取ることで増殖していきました。

ドルのリサイクルは今度はFRBの低金利政策の維持を可能にし、米国の投資家に巨額の借金のインセンティブを与えました。彼らは、信用における独占的な地位を利用して、借りた資金を、資本を切実に必要としている途上国に貸し付けました。

西側の資本は、容易に債務不履行に陥る仕組みの高利融資として途上国に提供され、各国は「ワシントン・コンセンサス」(労働者に敵対的な緊縮策)の実施を余儀なくされました。その結果、途上国の政府は自国の労働者階級との歪んだ階級闘争を余儀なくされました。

複雑で不透明なメカニズムに見えるかもしれませんが、こうして強要された経済再編の究極のゴールは非常に単純です。それは、天然資源と労働力を周辺から中核へ、公正価格をはるかに下回る価格で永続的に吸い上げることにほかなりません。

 

 

 

 

このような周辺から中核への膨大な富の移転は部分的には不平等取引の利益/損失総額として記録されます。これは、アメリカの金融支配による為替レートの抑制によって周辺から搾取された価値の客観的な指標です。

 

ドルの覇権によって、金融階級は貿易収支や財政赤字を均衡させる義務から解放され、代わりに公共産業の民営化、不動産の独占、株式市場といった非生産的なレントシーキングに資金を注ぎ込むことができるようになりました。

 

そういうわけで、過去数十年にわたる米国の経済成長は、外国の中央銀行からの直接的な資金提供によるものだったのです。

しかし、これらのすべては中国とどう関係するのでしょうか。中国は何をしていて、アメリカの金融界は何をそれほど脅威と考えているのでしょうか。

 

1980年代、アメリカや西欧諸国の多くが、自国の労働者の力を奪いまた発展途上国の安価で豊富な労働力を利用するための手段として脱工業化したとき、中国は世界最大のそして最も安価な部類の労働力供給源でした。

ソ連の失敗が政治・経済両分野の急激で無計画な自由化をもたらしたのに対し、中国は中国共産党の支配と重要部門の国有企業による管理を強力に維持しながら、西側資本への管理された開放の道を歩みました。

 

 

その結果、ソ連が一時西側の金融植民地化となり、経済の解体・不当な買い叩きにあって生活水準の急落を経験したのに対し、中国は、巨大な生産基盤を築き上げ、生活水準を飛躍的に上昇させました。

 

しかし、国内産業を海外の安価な労働力に置き換える過程で、アメリカは自らの経済的覇権の手段を弱体化させるという過ちを犯しました。ドル覇権体制の安定性は、それが唯一の選択肢であるということに依存しています。ところが、アメリカはオルタナティヴの誕生に資金を提供してしまったのです。

 

中国の生産力と世界との経済的統合が高まるにつれ、中国の途上国への融資能力も高まりました。しかし、IMFや世界銀行の融資とは異なり、中国の貸し付けは公共事業として扱われ、ほぼ完全に国家の管理下に置かれます。

 

 

 

中国の国有銀行による政府間融資では、利益を生み出すことは要件とされません。また、中国の金融機関から融資を受けようとする国が構造調整を強いられることもなく、債務の再交渉や取り消しが行われることも珍しくないのです。

 

 

 

 

中国の台頭により、ソ連崩壊後初めて、外国資本への完全な従属か/残酷な孤立・攻撃かの二者択一を必要としない、途上国の真の発展への道筋ができたのです。

 

 

もし発展途上国が西側諸国を回避して基本レベルの自給自足経済を築き、必要な商品を自国通貨で他国と自由に取引することができれば、少数の裕福な帝国中心部と広大な搾取される周辺部という世界の二項対立は解消されるでしょう。

 

これが、中国の台頭がアメリカにとって存亡の危機である理由です。中国が軍事的に世界を支配し、イデオロギーを輸出し、すべての競争を排除することを目指しているためではありません。アメリカがそれらの全てを目指していて、かつ、中国がアメリカの金融独占に対する初めての目に見えるオルタナティブであるためなのです。

 

 

中国の孤立を狙う米国主導のキャンペーンはもう何年も前から続けられています。10年以上前に中国主導のオルタナティブの明確な兆候が現れたからですが、最近集中的に起きた歴史的な変化によって、戦争に向けたタイムラインが圧縮され始めています。

 

第一に、中国は2016年に購買力平価で調整したGDPでアメリカを抜いて最大の経済大国となっており、生のGDPでも10年以内にアメリカを抜くことが予想されます。付け加えれば、経済の過度の金融化により、アメリカのGDPは現時点ですでに不当に大きく算出されています。

 

 

第二に、中国とロシアの関係が日増しに接近しています。かつて超大国であったロシアは今では抜け殻と軽く見られる傾向がありますが、ウクライナにおけるNATOとの代理戦争における生産性の高さは、ロシア経済の真の力が著しく過小評価されていることを示しています。

 

第三に、中国の軍事力は急速にアメリカと拮抗する状況に近づいています。特に、アメリカ主導の攻撃を撃退する際に発揮されるであろう中国の防衛上の優位性は著しく、アメリカに太平洋全域への海軍力拡大を企図させる要因となっています。

第四に、BRICS、the SCO(上海協力機構)、the BRI(一帯一路)は、自ら決めたやり方での工業化および公共インフラへの投資ーつまり、緊縮財政を強いることも依存を助長することもないーに焦点を当てた組織であり、いずれも途上国の間で加速度的に関心を集めています。

 

 

 

 

そして何より決定的なのは、BRICS諸国が米ドルに代わる貿易通貨としてバスケット通貨を導入し、新規加盟国もこの方式に参加できる道を開き始めていることです。より公平な新しい世界通貨システムへの移行は、一直線に進むものではないでしょうが。

 

 

 

 

中国を孤立させようとするアメリカの計画を十二分に理解している中国共産党は、10年以上前からアメリカ経済からの切り離しという壮大なプロセスを着実に進めてきましたが、近時アメリカによる喧嘩腰の貿易関税と制裁が始まって以来、切り離しの努力は加速しています。

 

 

 

 

オルタナティブの優勢によるドル覇権の終了は、アメリカが国内そしてアメリカ帝国を支える800近くの海外軍事基地に赤字支出ができるという途方もない特権を持つ時代の終わりを意味します。その影響は前例がないほど甚大なものとなるでしょう。

 

皮肉なことに、世界は、1944年のブレトンウッズでジョン・メイナード・ケインズが一国の支配を受けない超国家的通貨システムとして提唱したバンコール・システムに回帰してきたようです。それに代わってドルが勝利を収めたことで、80年に渡るドルの覇権がもたらされたのですが。

 

アメリカは今、中国がルールに基づく国際秩序を乱し、西側の価値観を裏切っていると非難しています。しかしそこでは「ルール」とは発展途上国からの搾取の永続であり、「価値」とは人間の幸福を犠牲にした私的利益の追求だということが省略されています。

アメリカが中国の台頭に歯止めをかけるチャンスは、急速に失われつつあります。

しかし、これは本当に米国が中国との軍事的対決のための土台を築いていることを意味するのでしょうか。そして、もしこの対決が避けられないとしたら、アメリカはどのように進めようとしているのでしょうか?

*Part2, Part3と続くようですが、当面続きを翻訳する予定はありません。