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イエメンQ&A

ガザとイエメンー「フーシ派」は何と闘っているのかー」の内容を元にザックリ目に解説します。「本当か?」とお思いの方はぜひ同記事をご参照ください。

目次

Q イエメンのフーシ派はなぜハマスと連帯を掲げたり、紅海で船舶を拿捕したり、アメリカ・イギリスと戦ったりしているのですか?

フーシ派、というよりイエメンの人々は、ハマス、というよりパレスチナの人々に対し、同じ敵と戦う同志という意識を持っているからです。

イエメンは2014年からサウジアラビアと戦争状態にありました。2017年からはサウジ軍によって国境を全面的に封鎖され、「世界最悪の人道危機」と呼ばれる状況に陥りました。

イエメンに対するサウジアラビアの攻撃がアメリカの全面的な支援と支持を受けて行われた一方的な(正当性のない)攻撃であった点を含め、イエメンが置かれた状況は、2008年以来のガザの状況とよく似たものでした。

一方で、イエメンの場合、状況はわずかながら改善の方向に向かっていました。

ウクライナ戦争で忙しくなったバイデン政権がサウジへの軍事的支援を減少させたことで、サウジはイエメンとの和平を模索せざるを得なくなったからです。

2023年1月にはサウジとイエメンの直接交渉が始まり、年内には合意締結か、といわれるようになった頃、ガザ危機が始まったのです。

イエメンの人々は当事者です。ガザ危機が始まったとき、彼らは、これまで自分たちに向けられていた理不尽な力の矛先が、アメリカの差配によって、今度はガザに向けられたのだということをはっきり理解したと思います。

イエメン人とパレスチナ人は、同じアラブのムスリムです。どちらも、アメリカを初めとする「国際社会」の恣意的な行動によって、長い苦しみを味わってきました。その同胞に対して、同じ敵が、(彼らから見れば)邪悪な攻撃を仕掛けている。

となれば、若いイエメンの人々(年齢中央値19歳です)が、パレスチナとの連帯を掲げ、敵方(アメリカ、イギリス、イスラエル)の駆逐を誓うのは、ごく自然なことだと私は思います。

なお、日本ではまったく報道されませんが、「フーシ派」(西側に近いメディアが勝手にこう呼んでいるだけであり、正式名称は「アンサール・アッラー」です)の今回の行動は、イエメン国民から熱烈な支持を受けています。

アンサール・アッラー(フーシ派)の行動は、アメリカに代表される西側世界やイスラエルが行使する理不尽な力から、パレスチナ人の権利を守り、イエメンの自由と独立を守り抜くというイエメン国民の意思に支えられたものです。決して「反政府組織による暴挙」といった性格のものではありません。

民間人エリアへの無差別攻撃を含む戦闘行為、全面的な国境封鎖による物資の不足等により、多数の人々が死傷し、飢餓や感染症による生命の危険に晒され、劣悪な環境での暮らしを強いられている状況を指します。

国連開発計画(UNDP)の2021年12月の報告書によると、2015年から2021年12月末までの死者数は約37万7000人。死亡原因の約4割が戦闘関連、残りの約6割は飢餓や感染症によるものだそうです

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2023年の時点で、国内避難民は約450万人、人口の約7割に当たる約2160万人が極度の貧困状態に置かれています。

このような事態は、2015年3月にサウジアラビアがイエメンへの攻撃を開始し、イエメンが戦場となったことによって発生しました(私は勝手に「第二次サウジ・イエメン戦争」と呼んでいます)。

なお、サウジによる国境封鎖は現在(2024年3月)も続いています。

Q 「世界最悪の人道危機」の原因は内戦だと思っていました。違うのですか?

いわゆる「国際社会」は「人道危機」の原因を内戦と言い張っていますが、事実は異なります。「内戦」と呼ばれているものの実態は、サウジアラビア VS イエメンの戦争です。

イエメンでは2014年に本物の民主化革命が始まり、2015年2月にアンサール・アッラー(フーシ派)が新政権の樹立を宣言しました(西側に近い国のメディアでは「クーデター」としか言われませんが、イエメン国民の大多数はこの政権を支持しています)。

サウジの攻撃はこの革命を阻止するためのものです。したがって、サウジ側から見れば干渉戦争、イエメンから見れば革命防衛戦争ということになるでしょう。

戦争に至る経緯を確認しましょう。

1️⃣アメリカ・サウジと蜜月にあり、外国資本頼みの経済運営を続けたサーレハ政権(任期1978-2012)の下、攘夷(反米・反イスラエル)を訴えるアンサール・アッラー(フーシ派)の運動が勃興

2️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)を脅威に感じたサーレハは、彼らの拠点があるイエメン北部にサウジアラビア軍と合同で大規模軍事攻撃(イエメン焦土作戦・2009)を展開。国民の心は政府から離れ、アンサール・アッラーの支持拡大。

3️⃣イエメンに反米・反サウジ政権が誕生することを嫌った外国勢力は、アラブの春」(2012)を利用してサーレハに退任を迫り、従来通りの「売国」政策を引き継ぐ傀儡政権を樹立(ハーディ暫定政権)

4️⃣IMF/世界銀行経由の融資を使い果たした暫定政権は2014年1月に公務員の給与支払いを停止。追加融資を得るために緊縮策(イエメン国民の命綱である燃料補助金の削減)の条件を呑んで同7月にガソリン・軽油の大幅値上げ

5️⃣怒ったイエメン国民は暫定政権の退陣を求めて立ち上がる(2014年7月〜)革命の開始

6️⃣アンサール・アッラー(フーシ派)は2014年9月に首都サナアを掌握。暫定政府は辞意を表明し(2015年1月)、アンサール・アッラーが新政権樹立を宣言(2015年2月)

7️⃣2015年2月、暫定政府は辞意の撤回を宣言してサウジアラビアに逃亡。サウジの庇護下で亡命傀儡政府を樹立

8️⃣その直後、サウジはイエメンへの激しい空爆を開始(2015年3月)。第二次サウジ・イエメン戦争が始まり「世界最悪の人道危機」へ

西側に近い国のメディアが第二次サウジ・イエメン戦争を「内戦」と呼ぶのは、アメリカやサウジが代表する「国際社会」は、亡命傀儡政権こそが正統なイエメン政府であるという立場を崩していないからです。

しかし、傀儡のハーディ暫定政権は、もともと、イエメン国内には全く支持基盤を持たない「国際社会だけが支持するイエメン政府」でした。

そのやり口に怒ったイエメン国民が革命を起こして暫定政府を辞任させ、新たな政権を樹立した今、亡命したハーディ暫定政権を「正統イエメン政府」とするのは無理筋というほかありません。

そういうわけですので、この戦争は、決して、「正統なイエメン政府軍 VS 反政府軍」の内戦ではありません。「革命によって新政権を樹立したイエメン VS それが気に入らないサウジ(とアメリカ)」の戦争です。そして、この戦争におけるサウジ軍の攻撃こそが、「世界最悪の人道危機」を引き起こしたのです。

詳しくはこちらをご覧ください

Q フーシ派ってテロ組織ですよね。フーシ派が正統な新政権の担い手だなんて、ちょっと信じられないのですが・・

アンサール・アッラー(フーシ派)は、イエメン北部のイスラム教ザイド派地域から出た真面目な政治運動です。ザイド派を再興し、反米・反イスラエルに立つ新しいイエメンを作ろうとする運動で、暴力を厭わないところを含めて、「尊王攘夷」を謳って台頭した幕末の志士のようなものと考えればよいと思います。

彼らは、サーレハ政権(ハーディの前の大統領。親米・親サウジではあったが傀儡ではなかった)の時代から政府との武力衝突を繰り返していました。今の日本では、暴力で政権を取るなんてことは考えられないので、「そんな粗暴な勢力が正統な政府なんて・・」と思う気持ちはわかります。

しかし、初代内閣総理大臣を務め、昭和の千円札にまでなった伊藤博文だって、幕末には何人も人を斬り、英国公使館に火をつけたりしていたのです。

革命に暴力は付き物です。その上、アメリカ・サウジなどの大国が日常的に介入してくるのですから、相当高度な軍事力を駆使できなければ、革命はおろか国の独立すら維持できない。それが彼らの置かれた状況です。アンサール・アッラー(フーシ派)が高度に武装しているからといって、野蛮なテロ組織と見るのは的外れだと私は思います。

アンサール・アッラーのメンバー
長州奇兵隊(wiki)

新政権は、昨年の段階で全人口の70-80%の居住地域を支配下に収めたといわれていましたが、ガザ危機に対する新政権の決然とした行動は、国民からの幅広く熱烈な支持を集めているようです。イエメンには南部に自立を志向する分離派が存在しますので、彼らとの内戦が継続する可能性はありますが、新政権の基盤が根本的に揺らぐことはないように思えます。

なお、アンサール・アッラー(フーシ派)が「国際テロ組織」とされるのは、敵対しているアメリカが勝手に「国際テロ組織」に指定しているからであって、それ以上の意味はありません。 

Q サウジアラビアやアメリカはなぜそこまでしてイエメンの革命を阻止したいのですか?

民主化革命が波及してくると困るからです。

サウジアラビアや湾岸諸国は近代化(ここでは識字率上昇を指標とします)においてイエメンに先行していますが、本格的な民主化革命を経験していません。

イエメンでの革命が波及して彼らの政体(世襲による君主制)の打倒につながることを避けたいというのが、サウジや湾岸諸国がイエメンに介入したい根本的な理由です。

この点は、実はアメリカも同様です。アメリカは、西アジアの君主制国家と親密な関係を保つことで、石油などの天然資源開発やその利権の差配による利益を大いに得てきました。産油国との関係は、石油決済におけるドル使用の確保などを通じ、ドル覇権を支える重要な要素にもなっています。

西アジアで続々と革命が起こり、真に国民の利益を代表する政権が誕生した場合、新たな政府は、アメリカの利益や為政者の保身よりも、国民の利益を重視するようになるでしょう。

イラン革命(1979)後のイランがそうしたように、天然資源の国有化を目指し、軍事力を強化し、経済・外交における自立を確保しようとするでしょう。

とりわけ、西アジア最大の産油国であるサウジアラビアの忠誠が失われることは、アメリカにとって最大の脅威の一つであり、絶対に避けなければならない事態なのです。

すでにお気づきかと思いますが、アメリカがイランを徹底的に貶め、敵視しているのもそのためです。

イランがアメリカに嫌われるのは、決して、イランが「人権無視で非民主的な専制主義国家だから」ではありません。真の理由はその正反対で、イランが本物の民主化革命を成功させ、経済・外交政策において自立し、国民の利益のための国家運営を始めたからなのです。

1974年7月にニクソン大統領の命を受けて、ウイリアム・サイモン財務長官がサウジアラビアを訪問、「米国はサウジアラビアから石油を購入するとともに、サウジアラビアに対して軍事援助を行う。その見返りとしてサウジアラビアは石油収入を米国債に還流させ、米国の歳出をファイナンスする」仕組みを提案した。サウジアラビアのファイサル国王は、自らの米国債購入が間接的に米国によるイスラエル支援に向かうことを恐れ、米国債購入については極秘扱いすることを要請したという。サウジアラビアの要請に応じ、米財務省は通常の競争入札によらず、購入実績が開示されない特別な形式によってサウジアラビアが米国債を購入できるように便宜を図ったのである(いわゆるワシントン・リヤド密約)。今日まで続いている国際的な原油取引におけるドル建て決済の慣習はワシントン・リヤド密約に基づくものと考えられ、戦後のブレトンウッズ体制崩壊後もドルが基軸通貨としての地位を維持できたことの一因にこの密約があったとも言える。

長谷川克之「サウジアラビア通貨政策の現在・過去・未来」(2023)(太字は辰井)

Q イエメンの宗教はイランと同じシーア派で、フーシ派の背後にいるのはイランだと聞いたことがあります。そうなのですか?

アンサール・アッラー(フーシ派)とイランが良好な関係にあることは事実ですが、アンサール・アッラー(フーシ派)がイランの手先とか子分ということはありません

両者は意思決定主体として独立しており、経済力や発展度合いの相違はあるにせよ、基本的に対等な関係性を保っていると見られます。

また、イエメンとイランが良好な関係にあるのは、現下の国際情勢において、両者が共通の志を持ち、共通の利害を有するからであり、宗教は関係がありません

「関係がない」といいながら、一応確認をしておきますが、宗教においても、両者は「同じシーア派」というわけではありません。

イエメンのザイド派は、たしかに、大きな括りではシーア派に属します。イランの国教である12イマーム派も、大きな括りではシーア派です。

しかし、この「シーア派」という括りが曲者で‥‥何ていうのでしょうか、キリスト教における「プロテスタント」と同じようなもので、シーア派に属するとされる諸宗派は、「主流派(スンナ派)に対するアンチ」という立ち位置を共有するだけなのです。

ザイド派の成立は12イマーム派よりも早く、12イマーム派の影響下に成立したわけではないですし、ザイド派が12イマーム派に影響を与えたという事実もないようです。

そういうわけで、ザイド派と12イマーム派は、ほとんど共通点のない(相互に)独立した宗派といってよいと思います。

詳しくはこちらをご覧ください

Q ガザやイエメンをめぐる情勢が何かもっと大きな動きにつながることはありえますか?

近年起きている大きな事件は、すべて、アメリカを中心とする世界から、ユーラシア大陸の旧帝国地域(西アジア、中国、ロシア‥)を中核とする多元的な世界へ、という大きな動きの一部を形成していると私は見ています。

崩壊の過程にあるアメリカ帝国の「最後の悪あがき」が、ウクライナ戦争であり、ガザ危機です。アメリカには、もっと穏やかに衰退し、普通の国になるという選択肢も(理論的には)あったはずですが、もう無理だと思います。アメリカ帝国は、数年のうちに自滅していくでしょう。

その後、世界は、そして西アジアはどうなっていくのか、と考えたとき、ガザ・イエメン情勢が持つ意味が浮かび上がってきます。

西アジアの近未来を想像してみましょう。

  • アメリカの退場で不和の種は激減
  • 「国民国家」という仕組みの(地域への)不適合が顕在化し、紛争・混乱を経てアラブ統一国家の樹立に向かう可能性
  • イスラム諸国とイスラエルの関係が大問題に。中国等の仲介による和平or戦争を経て、新たな秩序の構築へ

民主化革命を成功させ、パレスチナ人のために敢然と戦うイエメンは、「アメリカ後」の世界で特別に重要な国(地域)となり、世界を動かしていく可能性があります。なぜか。

アラブ諸国の中で、軍事・外交・経済政策の面で、アメリカの影響力を完全に排除できている(自主独立を保持している)国は、じつは、革命後のイエメンしかありません。

治安・軍事面でアメリカに依存してきた国々の政府(多くは世襲の君主制です)が、本物の民主化革命に怯え、自国民との関係を構築し直さなければならないのに対し、政府と国民が一丸となって、サウジ、アメリカを駆逐し、イスラエルと戦ってきたイエメンは、貧しくても悠然としていられるでしょう。

パレスチナの大義のために、国家として正々堂々と戦ったイエメンは、アラブの人々の間で尊敬を受け、国際社会においても、名誉ある地位を得るでしょう。

国際社会からの支援を得て復興を遂げた後、イエメンは、アラブ圏の中心となり、発展途上にあるアフリカの国々の先頭に立って、次の世界を率いていくのではないでしょうか。

アメリカは倒れ、西側は弱体化し、中国やロシアが力技で新たな世界秩序の基礎を作った後、大々的に再編された西アジア・アフリカが新しい形の世界の進歩をもたらしていく

ガザ危機に接した各国の行動とイエメンの大活躍は、そのような明るい未来を見事に映し出している。私はそう感じています。

人口動態も私が明るい展望を抱く根拠の一つです
「アメリカが倒れ・・」のくだりが唐突に感じられた方はこちらの連載をご覧ください。

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ガザとイエメン
– 「フーシ派」は何と闘っているのか-

目次

1 革命のイエメン

イエメンはいま革命の只中にある。誰もそんなことを言う人はいないが、そうなのだ。CIAが仕組んだ「カラー革命」なんかとは違う、フランス革命と明治維新を足して2で割ったような本物の市民革命だ。

イエメンは西アジアの中でもっとも近代化が遅れた国で、20-24歳の男性の識字率が50%を超えたのは1980年である(↓)。彼らは、日本の150年前、フランスの250年前くらいの時期を迎えているわけなので、いまが市民革命の真っ只中というのは、人類史の過程として全く正常といえる。

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

世間では、イエメンはいま「世界最悪の人道危機」に陥っていて、その原因は内戦であるとされている。私の調査によれば、それは真実ではない。真実はこうだ。

イエメンに攻撃を加え、国境封鎖までして、「人道危機」を引き起こしているのは、イエメンの革命を阻止したい外国の勢力である。イエメンで起きているのは、革命のイエメンに対して外国(サウジ、アメリカほか「国際社会」)が仕掛けた干渉戦争なのである。

しかし、いったいなぜ、近代化において先行しているはずの諸外国は、そんなにまでしてイエメンの民主化を妨害しなければならないのであろうか。

イエメン情勢に深く関わる勢力は、サウジ、アメリカ、IMF/世界銀行。私にとっては「基軸通貨ドル」の総復習のような事例だった。

2 イエメンの旧体制(アンシャン・レジーム)

(1)イエメンの近代化

イエメン革命の中心地は北部、首都サナア周辺の山岳地帯である。この地域は、859年以来、ザイド派イマーム(宗教指導者)が王として統治していた。

Northern Yemen (Photo by aisha59, available at Flickr.)

しかし「歴史」でも書いたように、イマーム=国王が安定した中央集権を実現していたわけではないという点は重要である。イエメン北部には部族単位の地域共同体があって、その長が大きな力を持っている。国王は、彼らの協力を取り付けなければ、決して国をまとめることはできなかったのだ。

オスマン帝国の支配を受けた時代にも、北部地域はオスマン帝国への抵抗を続けた。ということは、その時期も、イマーム=国王がいて、部族長が治める地域共同体があるという国の基本構造が失われることはなかったということである。

イエメン史の中心にはいつもこの北部地域の部族社会がある。この地域を中心に、市民革命に至る近代化の歴史を描くと、その過程は以下のようにまとめることができる。

1️⃣イエメン王国の成立(1918):オスマン帝国からのザイド派イマーム王国の独立

2️⃣イエメン・アラブ共和国の誕生と確立(1962-68):イエメン革命(1962)によって共和国が成立。内戦を経てザイド派イマーム王朝が終焉を迎え、共和政体が確立

3️⃣強権的リーダーによる近代化(1968-2012):共和国の確立後も政権交代は主にクーデター、強権的なリーダーの力で近代化が進められた。ハムディ政権(1974-1978)の後に長期政権を確立したのがアリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh 1978-2012)。

このサーレハの時代こそが、現在の革命にとっての旧体制(アンシャン・レジーム)である。

(2)サーレハ政権末期

サーレハは毀誉褒貶(というか毀と貶)の激しい人物だが、アメリカやサウジの意向で政権を追われた人物であるから、その全てを真に受けることはできない。彼の任期全体についての概観は現在の私の手には負えないので、政権末期の状況を中心に、要点を確認しよう。

2004年アメリカ国防総省でのサーレハ(wiki)

①サーレハと石油

1940年頃には石油生産を始めていたサウジなどと異なり、イエメンが産油国となったのは1980年代に入ってからである(おそらく1985年頃)。

サーレハ大統領は、長年続いた内戦からの国家再建のために石油・ガス開発に取り組み、石油開発を成功させて、経済を活性化させた。

そこまではよかったのだが、サーレハは、分裂含みのこの国をまとめていくにあたって、地域や勢力間の利害調整を行い、共通の基盤を形成するという根気のいる仕事に取り組む代わりに、北部の部族長やら、南部の分離派勢力、対立する議員を、石油利権で懐柔するという安直な方法に頼った。

国の経済についても、持続的な発展の基盤の上に、近代国家としての仕組みを成り立たせるのではなく、公務員の給与から施設の整備まで、すべてを石油収入に依存した。

サーレハは、石油利権や、1980年代に急増した外国からの開発資金をほしいままに分配することで、自らの権力を固めつつ、イエメンを石油(と外国からの資金)なしには成り立たない、不安定な国家に仕立てていった。

この記事を大いに参考にしました

②サーレハとアメリカ:湾岸戦争の経験

サーレハ政権は、就任当初から、外国からの開発資金を積極的に受け入れる政策を取った。石油開発もおそらくアメリカなどの資金であろう(調べていません)。

ただ、その頃のサーレハが「親米」であったかどうかはよくわからない。サーレハは湾岸戦争の際に中立の姿勢を保った(要するにアメリカ側に付かなかった)ことで知られている。このことから推察するに、当初のサーレハは、ごく普通に、国家建設や政権の安定に必要な限度で外国からの資金を受け入れるが、だからといって外国の言いなりにはならない、という気分でいたのではないだろうか。

しかし「是々非々」の常識は「国際社会」には通用しなかった。湾岸戦争でアメリカ率いる多国籍軍側につかなかったことで、イエメンは、アメリカをはじめとする「国際社会」や周辺のアラブ諸国から総スカンを喰らい、外国からの資金は激減、深刻な経済的困窮に陥ったのだ。

このときの経験が、おそらく、サーレハと、のちに革命を率いることになる若者たちの行く先を分けることになる。サーレハの方は、アメリカをはじめとする「国際社会」や湾岸諸国の資金なしに政権を維持するのが不可能であることを悟り、親米・親サウジの現実路線を選択した。他方、若者たちは、アメリカ、サウジの横暴に怒りを募らせ、これに迎合してイエメンの外国依存度をいっそう高めようとするサーレハ政権にも怒りを向けたのだ。

湾岸戦争後の経済的困窮の中、イエメン各地で頻発するようになった反米・反サウジの抗議運動は、政府への抗議運動と重なり、不安な政情の下に、革命の下地を形成していくのである。

③IMF/世界銀行への依存度の増大

イエメンは1990年に南北統一を果たしているが、サーレハ政権への南イエメン側の不信感は収まらず、1994年には内戦が勃発している。内戦はすぐに(2か月)終わったが、経済的困窮の度は増した。 

こうした中、サーレハ政権は、IMF/世銀からの多額の融資と構造調整プログラムの受け入れを決める。多額の開発資金という「毒饅頭」の受け入れは、サーレハの当座の権力基盤を強化し、同時に、GDP成長率を急激に押し上げた。

しかし、「ワシントン・コンセンサス」に忠実なプログラムー公務員数の削減、増税、補助金の削減、金融・資本自由化等ーが、イエメン経済の安定的な成長を阻み、経済の土台を不安定化するものであったことは疑いない。

開発資金の流入による目先の利益を求め、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)への依存度を高めるサーレハ政権に、安定した生活基盤を求めるイエメン国民そして「憂国の志士たち」の不信感はいよいよ強まったはずである。

IMF/世界銀行のやり方の問題点についてはこちらをご覧ください。

この(記事の)先の理解のキーになるポイント3点を予め解説しておきます。必要を感じたら戻ってお読み下さい。

公務員:発展途上の国家としては当然のことだが、イエメンでは公務員の存在が極めて大きい。教師、医師、ソーシャルワーカー、建設労働者、各種技術者、警察官などのあらゆる仕事を公務員が担っており、彼らの雇用が維持され、給与がきちんと支払われるということが、イエメン社会にとって決定的な重要性を持っている。IMF/世界銀行の「民営化」方針によって公務員の数が削減されたり、その他の事情で給与の支払いが停止すれば、直ちに社会の緊張・不安が発生する。そういう構造の社会である。

燃料補助金:イエメンが石油によって上げる利益が国民に還元される主なルートは燃料補助金。補助金による安価なガソリン・軽油が多くの国民の生活を支えている(燃料補助金の恩恵を受けていたのは貧困ラインよりも上の人々だったとされている)。

社会福祉基金(the Social Welfare Fund):おそらく1995年以降の支援の過程で世界銀行が創設した基金で、イエメンにおける唯一の社会福祉プログラムだった。資金も全面的に世界銀行が拠出しており、石油が払底してからは燃料補助金(の一部?)もこの基金から支払われていた(公務員の給与もこの基金から出ていたという話もある)。設立当初(1996年)の10万人だった支援対象者は、2000年には100万人を超えていた。社会福祉を必要とする貧困世帯はイエメンの場合、国民の半数近くに及んでいる。つまり、IMF/世界銀行は、社会福祉基金への資金提供(→燃料補助金の維持と貧困世帯への支援)を通じて、イエメンの人々の生殺与奪の権を握る存在となっていたのだ。

④払底する石油

こうした中、外国からの援助(+出稼ぎ)以外の唯一の資金源であり、政治的安定の要でもあった石油の産出に翳りが見え始める。

1980年代にようやく石油産出国となったイエメンの石油生産高は、1990年代後半には早くも減少に転じるのである。

石油が底をついたことで、サーレハの求心力はあからさまに弱まり、権力失墜の過程が始まる。同時に、経済には暗雲が漂い、IMF/世界銀行への依存度はいっそう強まる。

「革命前夜」のイエメンである。

3 革命の端緒:イエメン焦土作戦

(1)アンサール・アッラー(フーシ派)の勃興

世間では一般に「フーシ派」と呼ばれるアンサール・アッラーが勃興したのもこの頃のことである。幕末の日本で「尊王攘夷」が盛り上がったのと全く同様に、北イエメンでは、ザイド派の再興を図り、反米・反イスラエルの機運を高めようとする運動が盛り上がった。ザイド派のウラマーを父に持つフセイン・バドルッディーン・フーシ(1959-2004)が1990年頃に立ち上げた青年信仰運動。それがアンサール・アッラーの起源である。

アンサール・アッラーは基本的に生真面目な若者たちの集まりであったと私は思うが、政権側から見て、アンサール・アッラーの勃興が「脅威」と感じられたことは疑いない。

イエメン史を通じて基幹的な政治的影響力を手放したことのない北部ザイド派地域から出た運動であること、サーレハの提供する各種利権に懐柔された部族長たちの不甲斐なさに不満を抱く若者たちの運動であること、加えて、イエメンは出生率が低下を始めたばかりの時期、つまり、若年人口極大化(ユースバルジ)の時期に当たっていたこと(↓)。

サーレハ政権にとっての脅威は、政権と蜜月の関係にあるサウジやアメリカにとっての脅威でもある。2004年にフセイン・バドルッディーン・フーシがイエメン当局に殺害されて以降、反対勢力には「フーシ派」と呼ばれるようになったアンサール・アッラーは、こうして、明確に、国際社会の「敵」と位置付けられるようになった。

これは2020年のピラミッドですが、35年分ずらして見ると、ユースバルジ(若年人口の団塊)が一層顕著であることがわかります。

(2)イエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 2009)

これもほとんどどこにも書いていないのだが、アンサール・アッラーが率いる現在の革命の端緒といえるのは、2009年にサーレハが実施したイエメン焦土作戦(Operation Scorched Earth 8月-2010年2月)である。

イエメン北部サーダ(Saada)で発生した政府への抗議運動を口実に、イエメン政府とサウジアラビアは北部ザイド派地域に対する合同軍事作戦を展開した。

イエメン軍の地上部隊は北部に散らばるアンサール・アッラーの拠点を、サウジ空軍は部族勢力の居住地域を執拗な空爆で攻撃。数ヶ月に渡る作戦で、北部住民を中心に8000人以上のイエメン人が死亡、50000人以上が強制退去させられたという。

サーレハがサウジと組んで行ったこの作戦は、当然のことながら、イエメン中の人々を激怒させた。貧しく若い国民にとって「敵」に近いのはどちらかといえばサーレハやサウジであって、アンサール・アッラーではない。イエメン政府でありながら、サウジと組んでの「焦土作戦」とは何事か。

こうして、人々の心は政府から離れた。長年サーレハを支えてきた部族勢力、ザイド派、そして南部の分離派運動の担い手までもが、サーレハの非道なやり方に怒り、アンサール・アッラーとの連帯を示し、反政府で団結した。

この作戦を機に、イエメン全土で、政府側と反政府側が散発的に交戦する内戦状態が始まった。北イエメンではアンサール・アッラーとサーレハ政府が、南イエメンでは分離派とAQAP(アラビア半島のアルカーイダ)が、1年近くに渡って戦闘を繰り広げた。

(3)「焦土作戦」の背景:世銀レポート

イエメン焦土作戦は、アンサール・アッラーの反政府運動を鎮圧するための軍事行動と説明されるのが一般的であるが、その真実性はかなり疑わしい。

この時期、イエメン政府とサウジアラビア、そしてIMF/世界銀行(≒ アメリカ)には、イエメン北部を「焦土」にしたい明確な理由があったからだ。

イエメンにおける石油の将来が暗いことを知った世界銀行は、新たな投資・開発の対象として、イエメンの鉱物資源とその開発状況に関する調査を行った。

世界銀行「イエメン 鉱物開発部門の調査報告(2009年6月)」(Yemen Mineral Sector Review, June 2009)の中で、執筆者は、イエメンがサバア王国(潤沢な金の産出で知られていたらしい)の地であることに触れ、「イエメン西部がそれらの金の産出源であることが明らかになっているにもかかわらず、近代以降、金の採掘がほとんど行われていないのは驚くべきことのように思われる」と述べる。

その同じレポートの中で、世界銀行は、イエメンの鉱物部門が投資先として非常に有望であることを示しつつ、投資および開発にとって脅威となりうる要素として以下の2点を挙げているのだ。

・イエメン北部の反乱は投資家の国に対する印象を悪化させる。
・部族の土地では資源へのアクセスが困難である可能性がある。

このレポートが公表された2ヶ月後、イエメン政府とサウジアラビアは「焦土作戦」を実施した。

彼らが、1️⃣鉱物資源へのアクセスを容易にし、2️⃣アンサール・アッラーを叩く、という一石二鳥を狙っていたのだとしたら、作戦は1️⃣については失敗、2️⃣については逆効果に終わったことになる。

甚大な被害を出したにも関わらず、政府は勝利を宣言することはできなかった(1️⃣は失敗)。それどころか、全国民を敵に回し、革命の導火線に火をともすことになったのだ。

4 前哨戦:イエメン尊厳革命(2011)

(1)イエメンに到達した「アラブの春」

https://en.wikipedia.org/wiki/Yemeni_Revolution#/media/File:Yemen_protest.jpg

2010年12月にチュニジア、2011年1月にエジプトに到達した「アラブの春」の波を受け、イエメンでも学生を中心とするデモが始まった。

学生の要求は当初は失業、経済、汚職に関するものだったというが、要求はエスカレートし、彼らはやがてサーレハ大統領の辞任を要求するようになった。

サーレハはいつも通りの強硬な対応を取り、軍の鎮圧によって2000人以上の市民が死亡、数百人以上が負傷した。

決定的な転機として知られるのは「変革広場(Change Square)の虐殺」である。サーレハは、学生たちがサナアの大モスクから金曜礼拝を終えて出てきたところを軍に実弾と毒ガス弾で狙い撃ちさせ、90人の学生のうち52人を死亡させたという(生存者の約4割は脳障害等の傷害を負った)。

この事件の後、軍のトップであり長年イエメンのナンバー2と目されてきたアリー・ムフセン・アブダッラー(Ali Mohsen Abdullah)が公式にサーレハ政権からの離反を表明し、サーレハの辞任は避けられない情勢となった。

・ ・ ・

というのが、一般に言われている筋書きなのだが、どうでしょう。私はこれをその通りに受け止めることができない。

学生がデモを始めたところまでは、自発的な動きかもしれない。しかし、その後、彼らがサーレハの辞任を要求するようになるまでの間に、外国勢力(アメリカが中心)の介入があったのではないだろうか。

2011年のデモについては、イギリスの監督による映画「気乗りのしない革命家」があって、学生たちがツイッターによるエジプトから指示を受けながらデモを実行する様子が映されているという(私は見ていない)。

さらに、このデモで負傷した息子を抱き抱える女性を撮影した写真が、2012年の世界報道写真大賞に選ばれている。

その上、「尊厳革命(the Yemen Revolutionary of Dignity)なんていう立派な名前を付けられて。

どう見ても怪しい、と私は思う。

(2)サーレハの辞任

約10ヶ月の抗議運動の後、2011年11月にサーレハ大統領は正式に辞任するのだが、これを「民衆の勝利」と評価してよいのかはわからない。

なぜかというと、サーレハが辞任を約束したのは、2011年6月に大統領官邸のモスクで謎の爆弾事件が起き、身体の40%の火傷、頭部負傷、内臓出血で死にかけて運ばれたサウジアラビアの病院で、当時のオバマ政権の国土安全保障・テロ対策大統領補佐官で後にCIA長官となったジョン・ブレナンと面会した後のことだからだ。

尊厳革命でサーレハをめぐる情勢が悪化して以来、サウジアラビアをはじめとするGCC(the Gulf Co-operation Council:湾岸協力理事会)諸国は、サーレハに対する早期退陣を説得していた。

サーレハは、GCCが仲介する権力の平和的移行のための協定への署名を繰り返し拒否していたが、爆破事件の2週間後、オバマ大統領からの書簡を携えてサーレハ大統領と面会したブレナンは、GCCが仲介する合意に署名し辞任するよう要求したという(以上アルジャジーラ)。

結局、サーレハは、サウジの事実上の国営メディアであるアル=アラビーヤが生中継する中、リヤドのアル・ヤママ宮殿で合意に調印(2011年11月23日)。身柄の保証や訴追免除等を条件とした権力の移譲に合意した(GCCイニシアチブ)。

https://www.cbc.ca/news/world/yemen-president-agrees-to-step-down-1.990428

(3)「国際的に承認された」新政府:傀儡政権の誕生

サーレハの後、代行を経て大統領に就任したのは、アブド・ラッボ・マンスール・ハーディである。

2013年のハーディ(これも場所はアメリカの国防総省)

彼は南イエメンの出身だが、同じく南部出身の副大統領(アル・サーレム・アル=ビード)が1994年の内戦で敗北した後、その後任として副大統領になった。以来、一貫して、サーレハの片腕であった人物である。

ハーディは、IMF/世界銀行への依存度を高める政策においても、サウジと組んでのイエメン焦土作戦の実施においても、サーレハの共犯者であった。したがって当然、抗議運動に参加したイエメンの民衆は彼の大統領就任を歓迎しなかった。

サーレハを辞任に追い込み、ハーディに跡を継がせるというこの一連のプロセスの筋書きを書いたのは国連所属の外交官でイエメン特使(2011-15)を務めたジャマル・ベノマール(Jamal Benomar)だとされている(本人が2021年のニューズウィーク誌に書いているという)。

それにしても、「尊厳革命」と(西側に)持て囃された反政府運動の末に辞任した大統領の跡を、長年連れ添った副大統領に継がせる、というのは一体どういう筋書きなのか。

「決まっている」と私は思う。

サーレハ政権末期、サウジやアメリカに代表される「国際社会」とサーレハ政権の利害は一致していた。「現実路線」を選択したサーレハは、外国からの資金を積極的に受け入れ、構造調整プログラムも大人しく実施したし、IMF/世界銀行(≒ アメリカ)やサウジ、UAEが推進したい鉱山開発のためには、自国民を犠牲にすることすら厭わなかった。

しかし、その「焦土作戦」は、予想外の反発ーアンサール・アッラー以外の勢力も一丸となって反対するというーを生み、事実上、サーレハの下で開発を進めることは不可能な状況に陥った。

そこで、アメリカ、サウジなどの「国際社会」は、すべての責任をサーレハに押し付け、何もかも承知しているハーディを後釜に据えた。

はっきりさせておこう。

ハーディの大統領就任によって、イエメン政府は本物の傀儡政権になった。曲がりなりにもイエメン共和国の正当な大統領であったサーレハと異なり、ハーディ、そして2022年4月にその後を継いだアリーミー(大統領職は廃止され、大統領指導評議会議長)が率いる「国際的に承認された」イエメン政府は、もはや、イエメン国内にはまったく支持基盤を持っていない。「国際社会」だけが支持する政権なのである。

5 革命本番へ(2014年7月〜)

(1)引き金を引いたIMF/世界銀行

本物の革命のスタートは2014年7月。イエメン社会にはすでにそのエネルギーが満ちていた。しかし、2014年に7月に革命が始まるよう仕向けたのはIMF/世界銀行である。

世界銀行を経由したイエメン政府への融資は、ハーディの着任以降急増していた。しかし、2014年1月、政府は融資に対する基本手数料の支払いができなくなり、(おそらく融資が中断されて)政府は資金難に陥った。公務員に対する給与の支払いは停止され(1月〜)、社会福祉基金の資金もなくなった(代替するセーフティーネットは存在しなかった)。他になすすべもなく、政府はIMFに手数料支払いのための援助を求めた。

2014年5月、IMFとイエメン政府は、政府が要請した5億6000万ドルの融資について協議した。IMFはイエメン政府に燃料補助金を削減し、燃料価格を引き上げて歳入を確保するよう要請した(債務の返済に充てるため)。ハーディは、融資の条件として2014年10月から段階的に燃料補助金の削減を行うことを約束したが、IMFは納得せず、より早期に燃料補助金の削減を行うよう圧力をかけた。

この時点で、IMF/世界銀行は、燃料補助金がイエメン社会にとって極めてクリティカルな事項であること、セーフティーネットの構築なしに燃料補助金の削減=燃料価格の引き上げを行えば、イエメンに大きな社会不安が発生することを十分に承知していた(世界銀行のプロジェクト評価文書に記載がある)。それにもかかわらず、IMFは、今すぐ、思い切った燃料補助金削減=燃料価格の引き上げを行うよう、ハーディに迫ったのである。

(2)「名なし」の抗議運動が勃発

2014年7月、いまだ公務員の給与が支払われない中、政府は燃料価格の引き上げを行った(ガソリン価格60%、軽油価格95%値上げ)。燃料価格の高騰でパンの輸送費は一晩で20%上昇、人口の60%を占める農業従事者は農機具を動かす燃料を賄えなくなり失業が蔓延、商品は不足し、市場は閑散とした。

案の定、2011年を超える規模の抗議運動がイエメン政府を襲った。首都サナアにおける学生主導の運動であった2011年の「尊厳革命」と異なり、今度は各種労働者、部族勢力、貧困層、学生など、あらゆる人々が、イエメン全土で立ち上がった。

それにもかかわらず、2014年に始まった抗議運動には「尊厳革命」のような名前がついていない。理由は明らかだと思われる。「国際社会」(アメリカ、サウジほか)にとって、彼ら自身の傀儡政権に対する抗議運動は(少なくとも建前上は)不都合なものである。美しい名前など付けて称賛している場合ではない。

しかし、将来、イエメンが自律的な秩序を回復した暁には、こちらの運動こそが、長く困難な革命の始まりを告げた事件として記憶されることになるだろう。

8月22日サナア アンサール・アッラーの支持者が傀儡政権の辞任を求めるデモの最中に祈りを捧げる様子(Reuter

(3)革命政権の樹立

抗議運動の中心にいたアンサール・アッラーは、2014年9月、首都サナアを掌握した。

ハーディの政府は一切抵抗せず(怪しいですね・・)、国連の仲介でアンサール・アッラーとの間で協定を結び(the Peace and National Partnarship Agreement)を結んでサナアを共同統治するという体裁を確保した。しかし、軍事力を伴う実際の統治権がアンサール・アッラーに移ったことは「誰の目にも明らかだった」。

アンサール・アッラーは2015年1月下旬に大統領府・官邸と主要軍事施設、メディアを掌握。ハーディ大統領と首相は辞任を表明し、2月6日、アンサール・アッラーが新政権の樹立を宣言した。

(4)「内戦」名下の干渉戦争ー第二次サウジ-イエメン戦争

これを受けて、2015年3月、サウジ率いる有志連合軍(the SLC:Saudi-Led Coalition)は(なんと!)イエメンへの空爆を開始する。第二次サウジーイエメン戦争の始まりである。この戦争を「第二次サウジーイエメン戦争」と呼ぶ人を私は今のところ見たことがないが、どう見てもそれが実情なので、そう呼ぶことにする。

サウジによるイエメンへの攻撃は、イエメンで起きている革命に対する純然たる干渉戦争である。それなのになぜ、世間はこれを「内戦」と呼ぶのかといえば、「国際社会」が、予め、これを「内戦」に見せかけるためのお膳立てをしておいたからである。

傀儡政権のハーディは、2015年1月に辞任を表明した後、2月末になってこれを撤回する意向を表明し、自分たちこそが正統なイエメン政府であると改めて主張した。直後に(3月)彼はサウジに逃亡し、サウジに庇護される形でリヤドに亡命政府を置いたのだ。

これによって、本当は「サウジ VS サナア政府(アンサール・アッラー) 率いるイエメン」(サウジ・イエメン戦争)である戦争の構図は、「国際的に承認されたイエメン亡命政府 VS サナア政府」の戦い(内戦)に書き換えられた。以後、サウジがイエメンに対して行う蛮行は、すべて「内戦」への介入(「正規の政府軍への支援」)と位置付けられることになったのである。

確認しておきたい。「国際的に承認された」政府のイエメン国内の支持基盤はゼロである。したがって、ハーディ傀儡政権 VS アンサール・アッラーの戦いはいかなる意味でも「内戦」ではない。実態は純粋なサウジ(ないし「国際社会」) VS イエメン の戦争なのだ。

(5)無差別爆撃と国境封鎖ー「史上最大の人道危機」へ

2015年3月、サウジはイエメンの空爆を始めた(Operation Decisive Storm:決意の嵐作戦)。彼らの攻撃は最初から無差別爆撃で、民間人の居住地域が破壊され、多くの犠牲者が出た。

サウジ連合軍は、当初から、国連の承認を取り付けて、ある程度の国境封鎖も行なっていたようだが、2017年11月4日、サウジアラビアの空港を狙ったイエメン国内からの弾道ミサイル発射が確認されると(サウジは「迎撃した」と発表)、国境封鎖の範囲をイエメン全土に拡大した。

国連はすぐに、サウジ連合軍による無差別爆撃と国境封鎖が、イエメンにどれほど破滅的な影響を及ぼすかに気付き、注意を喚起した。

国連の専門家パネルは、サウジが意図的にイエメンへの人道援助物資の搬入を妨害していることを指摘し、何百万の市民を飢餓に陥らせるおそれのある措置の合理性に疑問を呈していたし、国連の人道問題担当長官も、国境封鎖が続けば、何百万人が飢餓によって死亡し、世界が数十年来経験したことのないレベルの人道危機が発生すると指摘した

指摘はそのまま現実となった。2021年12月の国連開発計画の報告書によれば、2015年から2021年12月末までの死者は37万7000人に達する見込みであり、死因の4割は爆撃などの戦闘関連、残り6割は飢餓や感染症であるという。そして、これを書いている2024年2月、国境封鎖はまだ解除されていない。

こういうことである。

イエメンにおける「世界最悪の人道危機」は、内戦の激化によってひとりでにもたらされたものでは決してない。

サウジは、最初から、民間人の犠牲を全く厭わず、イエメンの国土を破壊することを意図して攻撃を開始し、それを全面的に支持・支援したアメリカは、犠牲が増え続ける中でも、軍事的支援の手を緩めることはなかった。

国連もまた(アメリカが支援している以上当然ではあるが)、サウジの攻撃を止めるための有効な手立てを講じることはなかった。

でも、なぜ?

サウジの方から行こう。

6 アンサール・アッラーとサウジの和平交渉

(1)サウジはなぜ戦争を起こしたのか

「決意の嵐作戦」を指揮したのは、ムハンマド・ビン・サルマーン王太子(当時国防大臣)とされている。サルマーンは、数日でサナアを奪還できるという見通しで作戦を始め、泥沼にはまった。

若きプリンス、ムハンマドはなぜイエメンに介入したかったのだろうか。

2つの理由があったと考えられる。1つはサウジ(というか湾岸諸国)固有のもので、もう一つはアメリカとの関係に関わるものだ。

サウジは1957年に男性識字率50%の時期を迎えているが、民主化革命を経験していない。

幕末日本に例えると、ムハンマドは徳川慶喜である。1985年生まれの彼は、民主化 ≒ 近代化の流れが不可避であることも、アメリカ頼みの国家経営が盤石でないことも理解しているであろう。とはいえ、せっかく王子に生まれ、王太子の地位を手に入れたのだから、その地位を生かして活躍したい。革命で倒される役回りなどまっぴらごめんだ。

そういうわけで、隣国イエメンで本格的な革命が始まった時、ムハンマドはまず、それを潰さなければならなかった。「遅れた」国であるはずのイエメンの革命は、サウジに波及し、彼の地位を危うくする可能性が大であるからだ。

加えて、イエメンへの介入は、アメリカとの軍事的・経済的な相互依存(ないし共存共栄)の関係を強化し、サウジの政権基盤の当面の安定にもつながるはずだった。

2009年以来、「国際社会」は、サウジやUAEを表に立てたイエメンでの鉱山開発に並々ならぬ意欲を示しており、イエメンが自立し、コントロールが効かなくなることをおそれている。サウジとアメリカの利害は完全に一致しているのだ。

アメリカの全面的な支持と支援が約束されている以上、イエメンでの勝利は容易であり、確実だ、とムハンマドは思ったであろう。革命勢力を潰し、傀儡政権を維持できれば、イエメンはサウジの属国同然となる。その華々しい成果は、サウジ王室への国民の支持をつなぎ止め、民主化への流れを抑えるのに役立つはずだ。

そう考えたムハンマドは、電撃的勝利を夢見て「決意の嵐」を吹かせたが、アンサール・アッラーはしぶとかった。そこで、ムハンマドは、イランに責任を転嫁し(「背後で支援している」と攻め立て)、国境を封鎖しあらゆる物資の供給をストップするという非情な手段まで動員した。それでも、サウジ連合軍はアンサール・アッラーの勢力拡大を抑えることができず、イエメン全人口の70-80%の居住地域がアンサール・アッラーの支配下に入る事態となった。

ここまで来ると、サウジとアメリカの利害は分かれる。アメリカにとってイエメンそのものは取り立てて重要な国ではない。イエメンの開発がうまくいかないなら他に行けばよいだけだ(他国が取りにくれば別)。しかし、サウジにとっては、イエメンは国境を接する隣国だ。激しい憎悪を掻き立てて、そのままにしておくわけにはいかない。

(2)単独・直接の和平交渉へ

バイデン政権が始まり(2021年)アメリカからの武器供与や後方支援が縮小すると、サウジは出口を探し始める。

停戦に向けた動きはいろいろあったようだが、大きく報道されたものとしては、国連の仲介による2022年4月の停戦合意があった。しかし、この合意は結局は機能しないまま終わった。

より重要なのは、2023年1月に、国連やその他の関与なしに、アンサール・アッラーとサウジの直接交渉が開始されたことである。

こちらを参照しました。

2022年12月、アンサール・アッラーは会談したオマーンの代表団にイエメン北部全域に設置されたミサイル発射基地の地図を見せ、彼らがサウジアラビア域内、具体的にはリヤド国際空港をいつでも攻撃できる態勢にあることを伝えるとともに、サウジ当局への伝達を依頼。オマーン代表団はアンサール・アッラーが攻撃可能な標的を示した地図を見せてサウジを説得し、サウジは直接交渉に臨むことを決める。

2023年1月の交渉の席では、アンサール・アッラーは同様の情報をサウジに直接伝えた上、サウジがイエメンの封鎖を解除しないなら、サウジの空港が封鎖されることになると述べたという。サウジは和平の必要を認め、封鎖の解除・公務員への給与支払を条件に含めた和平の実現に前向きな姿勢を示した。

2023年1月 サナア サウジ連合軍の国境封鎖に対する抗議デモ
スローガンは「Blockade is War!(国境封鎖は戦争だ)」

https://twitter.com/syribelle/status/1611468741128212501?s=21&t=nkoK3iQUHJ20Ik_BJLG4oQ (デモの動画が見れます)

この直後、西アジア情勢に大きな動きがあった。サウジとイランの外交関係正常化である(2023年3月・仲介は中国)。当時の私には考えが及ばなかったが、今思えば、サウジをイランとの関係改善に向かわせた要因の一つは、イエメンであったかもしれない。

アンサール・アッラーを裏で操っているのがイランだというのは嘘である。しかし、両者が良好な関係にあることは事実なので、サウジが、イランを間にはさんで、イエメンと安定した関係を構築することを考えたということは十分にありうる。

ともかく、サウジとイランの関係正常化は大事件だった。これを契機に、サウジとイエメン、サウジとシリアの関係が改善に向かう可能性があったし、立役者であった中国はパレスチナーイスラエルの和平の仲介にも積極的な意向を示していた。

ひょっとして、西アジアについに平和が訪れるのか、という明るい展望が開けたそのとき、ガザ危機が起きたのだ。

5 ガザとイエメン

(1)ガザ危機とアメリカ

ガザ危機へのアメリカの関与は、基本的に、サウジによる「決意の嵐」作戦への関与と類似のものだと私は思う。

つまり、サウジにはサウジ固有の動機があり、イスラエルにはイスラエル固有の動機がある。アメリカはそれを後押しするだけだ。

しかし、アメリカという覇権国家の全面的な支持と支援は、イスラエルやサウジといった普通の国家が本来なら成し得ないことを可能にしてしまう。加えて、アメリカは、自らの許可を得てから実行するよう含めておくことで、実行のタイミングをほぼ完全にコントロールできるのだ。

サウジがイエメンに「決意の嵐」を吹かせ、イスラエルが(念願の!)パレスチナ人の駆逐に乗り出したのは、アメリカがゴーサインを出したからである。彼らの攻撃の規模とタイミングを決めたのはやはりアメリカだと私は思う。

では、なぜ、アメリカはこのタイミングで、イスラエルに「Go!」のサインを出したのか。

第二次サウジ・イエメン戦争と同様、背景として資源の問題があったことは間違いないと思うが(イエメンは鉱物(金とか)、ガザはガス田)、タイミングを決めたのは、もしかしたら、西アジアの和平の動きであったかもしれない。

軍事的支援によって西アジアの「友好国」との関係をつなぎ止めているアメリカは、そのプレゼンス(というか支配力)の維持のため、地域の軍事的緊張をつねに一定以上に高めておくよう腐心している。平和になって、居場所がなくなっては困るのだ。

そのための火種なら、ガザに用意されている。いつ、どんなときでも使えるように。

(2)イエメンの決意

こうして(多分)起きたガザ危機に、イエメンの人々が即座に強い反応を示したのは当然といえる。

2014年以来サウジの無差別爆撃を受け続け、2017年からはほぼ完全に国境を封鎖されたイエメンの状況は、長年狭い場所に押し込められてイスラエルからの度重なる攻撃を受け、2008年からは国境封鎖の強化で基本物資もロクに手に入らなくなっていたガザとうり二つだった。

10年前にイエメンを襲い、アンラール・アッラーが長く激しい戦いを経てようやく撃退しようとしている「決意の嵐」が、同じ敵(アメリカ)の手によって、今度は、同じアラブ・イスラム地域の仲間であり、同じ苦境を戦ってきた同志であるガザのパレスチナ人に襲い掛かり、彼らを殲滅しようとすらしている。年齢中央値19歳、革命の只中にあるイエメンが行動しないはずがない。

彼らにとって、紅海におけるアメリカ・イギリスとの戦いは、もちろん、パレスチナの解放のための戦いであり、イエメンの自由と独立のための戦いである。しかし、それだけではない。

欧米諸国が西アジアの歴史の中で果たしてきた邪悪な役割を知らない人は(西アジアには)いない。しかし、第二次大戦後、覇権国アメリカと結ぶことで利益を得てきた諸国は、それを殊更には言い立てないようにしてきたし、いま現在、アメリカが行なっている各種策謀も見ないことにしている。

アメリカに敵視され、蹂躙されている国の人々には、現在の世界においてアメリカが果たしている邪悪な役割が、これ以上ないほど鮮明に見えているだろう。

同時に、アメリカに従属することで利益を得てきた国々の狡さ、醜さ、不甲斐なさも、正すべき不正と見えているに違いない。

彼らにとって、アメリカ・イギリス・イスラエルとの戦いは、決して、パレスチナやイエメンだけのための戦いではあり得ない。世界をアメリカから解放し、道理の通った新しい世界を作るための戦いなのだ。

おわりに

これを書いている2024年2月下旬、アンサール・アッラーとアメリカ・イギリス・イスラエルの戦いはますます本格化している。

しかし、アンサール・アッラーはまったく怯んでいないし、彼らの決然とした行動により、サナア政府へのイエメン国民の支持は拡大しているという

パレスチナとの連帯を示すデモ(2024年2月23日)https://www.ansarollah.com/archives/657639

こちらでデモの動画が見られます。

われわれは、神を礼賛するーーわれわれに、イスラエルやアメリカと直接対峙するという偉大なる祝福、偉大なる名誉を与えて下さったことに。

Abdul-Malik al-Houthi(出典

攻撃をエスカレートさせる道を選んだアメリカは、すぐに後悔することになるだろう

Hussein al-Ezzi(出典

強がりと見る向きもあろうが、私はそうは思わない。2014年以来の過酷な状況に耐え、革命を実現させた彼らが、あと数年の戦いを持ちこたえられない理由がないからだ。

1、2年がまんすればアメリカは勝手に潰れる(要するに彼らが勝つ)。今回の戦争では、大義は明らかにアンサール・アッラーの側にある。「アメリカ後」の世界を担う次代の「国際社会」は、彼らの政府を正統と認め、惜しみない支援を与えるだろう。

当面の苦境を乗り切り、人口を増やしたイエメンは、数十年後、世界の中心に返り咲いているのかもしれない。

(おわり)

カテゴリー
世界を学ぶ

イエメンの大まかな歴史

目次

はじめに

イエメン情勢について学んでいると、南北の対立とか、そのときどきの為政者と部族勢力の対立といった要素が繰り返し出てきて「なんか複雑でよくわからない」という印象を持ちやすい。

しかし、背景を知ればそれほど複雑な話でもないので、大まかな流れを追いつつ、要点を説明していきたい。

下の図表のうち、1990年頃から後(革命期)は次回に回し、この記事ではそれ以前の部分を扱う。

○ イエメン国の歴史(図表) 

 

1 古代からイスラム化まで

サバア王国、ヒムヤル王朝などの古代王朝が栄えた後、7世紀(ムハンマド存命中)にイスラム化。紅海沿岸の平野部がスンナ派、北部の高地一帯がザイド派の地盤として確立していく。

前回書いたように、ザイド派という「非主流」は、ウマイヤ朝、アッバース朝などの中央のイスラム王朝に対抗して生まれたものである。

したがって、イスラム化の後、「平野部がスンナ派、北部がザイド派」で固まったという記述の要点は、ウマイヤ朝やアッバース朝の成立でスンナ派が普及していくアラビア半島の中に、それとは異質の「ザイド派地域」が誕生したという点にある。

ザイド派地域が生まれたことのイエメン史における重要性はいくら強調しても足りない気がする。

何がそんなに重要かというと、ザイド派地域の成立は、ここにイエメンという独立国家の形成を可能にする核が誕生したことを意味するからである。

この後の歴史を通じて、ザイド派の地域は、アラブ地域を席巻するウマイヤ朝、アッバース朝、そしてオスマン朝という正統イスラム王朝に馴染まない、独自のアイデンティティを持つ共同体であり続ける。

だからこそ、イエメンは、1918年という比較的早い時期に独立国家を再建することができたのだし(イエメン王国(1918-))、サウジに呑み込まれることもなかった。

そういうわけで、イエメン史においては、つねにこの北部ザイド派地域が強い存在感を発揮していく。

そして、イエメンの場合、南北対立の根っこにあるのも、北部の存在感の強さに他ならない(→それ以上に複雑なものではない)ように思える。より大きな枠組み(オスマン帝国とか)の中にいる分にはよいのだが、イエメンとして統一国家を形成しようとすると、どうしても、態度がデカく圧の強い北部が支配的となり、それに対して南が反発するという構図が生まれてしまうのだ。

2 ザイド派王朝の成立(859年)

ムハンマドの死後、ウマイヤ朝、アッバース朝の領域に入るが、9世紀、北部にザイド派の王朝が誕生。 

ザイド派のイマーム、ヤヒヤ・アリ・ハーディ(Al-Hadi ila’l-Hagg Yahya)(859―911)が王朝を創設。これが1970年まで継続するザイド派イマーム王朝である。

一般的な地図を見るとこの地域はウマイヤ朝、アッバース朝の版図内であるが、おそらく、その間も、地域勢力として維持されていたということなのだろう。

○ イエメンの権力構造 ー 部族勢力とは何か?

ここで、イエメン史の理解に欠かせないキーワード「部族勢力」について説明しておこう。

ザイド派イマーム王国が誕生し、一応イマームが王として君臨することにはなったが、これによって、ザイド派イマームを中心とする安定した中央集権体制が確立したというわけでは全くない

むしろ、一定の自律性を保った部族単位の地域共同体があって、イマーム=国王はそのリーダーたちをどうにか手懐けて国をまとめる、という感じであったようだ。「部族勢力」とか「部族長」という言葉は、この人たち(およびその共同体)のことを指している。

この「部族勢力」「部族長」は、日本史でいう大名(↓)に近いものと考えると分かりやすい(と思う)。血縁・地縁に基づく共同体の長であり、長い歴史を通じて形を変えながら、そのときどきの為政者の下で、つねに影響力を発揮してきた勢力、という感じだ。

大名とは、本来私田の一種である名田の所有者をいい、名田の大小によって大名・小名に区別された。すでに平安末期からその名がみえ、鎌倉時代には、大きな所領をもち多数の家子・郎党を従えた有力な武士を大名と称した。南北朝から室町時代にかけて、守護が領国を拡大して大名領を形成したところから守護大名と呼ばれたが、守護にかわって新しく台頭し、在地土豪の掌握を通じて一円地行化しを推進した戦国時代の大名は戦国大名とよばれた。こうして形成された大名は、江戸時代に入って近世大名となり、大名領を完成、幕府を頂点とする幕藩体制を完成した。‥‥

日本大百科全書(ニッポニカ)[藤野保]

この部族勢力の政治力・軍事力はなかなかのもので、彼らはつねにイエメン史の動きに大きな影響を与えている。

イエメン内戦でエジプトのナセル大統領を「ベトナム」の泥沼に引きずり込んだのも彼らなら、国王支持から共和制に鞍替えして連立政権に参画し、内戦を終わらせたのも彼らである。そして、いま現在、革命を率いている「フーシ派」も、部族勢力の若者たちなのだ。

https://www.theguardian.com/travel/2009/may/23/yemen-travel-middle-east

3 ポルトガルのアデン支配

1538年にオスマン帝国がポルトガルを攻撃する拠点としてアデン(↓)を一時占領したが、アデンの人々はオスマン人を撃退。敵方のポルトガルを招き入れ、アデンはこの後しばらくの間ポルトガルの海洋貿易ネットワークの拠点として大いに栄えた。

https://www.aljazeera.com/news/2019/9/20/who-are-south-yemens-separatists

4 オスマン帝国の支配ー南北対立の原点

1551年、オスマン帝国が再びやってきてアデンを占領。イエメン全土の支配を狙うが、ザイド派の地盤である北イエメンの人々は抵抗を継続。オスマン帝国に抵抗する北イエメンと帰順した南イエメンの間に亀裂が生じ、緊張関係が顕在化する。

オスマン帝国が侵入し、北部ザイド派地域(北イエメン)以外の人々はオスマン帝国に帰順したが、スンナ派のオスマン帝国を侮蔑し自らの王朝を維持していた北イエメンの人々は決して抵抗を止めなかった。

https://europa-japan.com/states/ottoman-empire/entry1788.html

その結果、国は二分され、発展も阻害され、1880年代後半に大英帝国がやってきた頃には、「寂れた伝説の港湾都市の周囲にある弱体で分裂した国家」に成り下がっていたという。

しかし、自立した国家としてのアイデンティティが保たれたことで、北イエメンは早期に独立国家を形成していくのである。

5 イギリスの支配下に入る南イエメン

◉1839年、イギリスがインド貿易の中継地としてアデン湾を占領。南イエメンは保護領としてイギリスの支配下に入った。

◉1869年のスエズ運河開通やペルシャ湾岸の原油発見でアデンの経済的・軍事的重要性が高まり、1937年にはアデンがイギリスの直轄植民地に格上げ。第二次大戦後にはアデン植民地と保護領を併合して南アラビア連邦を結成させた。事実上のイギリス支配は1967年まで継続。

◉独立した南イエメンはマルクス・レーニン主義の国家(南イエメン人民共和国)となり、1970年にはイエメン人民民主共和国に改称した。

現代のアデン

6 北イエメンの独立:イエメン王国(1918年)

北イエメンでは、オスマン帝国のWW1敗戦が決まった1918年10月30日にザイド派王朝のムタワッキライト王国(通称イエメン王国)が独立を宣言。

ザイド派のイマームで国王のアル=ムワッタキル=ヤヒヤ=ムハンマド=ハミードゥッディーンがムタワッキライト王国(Hashemite Mutawakkilite Kingdom)の独立を宣言。西アジア初の独立アラブ国家の成立となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤヒヤー・ムハンマド・ハミードゥッディーン#/media/ファイル:Yahya_Muhammad_Hamid_ed-Din.jpg

この国王ヤヒヤは、外国からの干渉を怖れ、極端に孤立主義的な国家運営を行ったことで知られている。ヤヒヤ自身イエメンを出たことはなく、サナア高地を出て紅海を見たことすらないと言われる

ヤヒヤ・ムハンマド・ハミードゥッディーン

その結果、第一次世界大戦後、世界中が近代化を進めていく中で、イエメンだけは発展から取り残され、「前近代」状態が維持された。

そんなヤヒヤだが、1940年代後半には、統治技術や軍事戦略の勉強のために士官学校の学生を海外留学に送り出している(名誉ある40人(the Famous Forty))。行き先はイラク、アメリカ、エジプト。

タイムマシーンで運ばれたかのように前近代から現代に送り込まれた彼らは、世界の現実を見て大きな衝撃を受ける。彼らは、当時の西アジアを席巻していた(エジプト・ナセル大統領が主導した)アラブ民族主義の洗礼を受け、のちのイエメン革命を率いることになるのだ。

https://pt.slideshare.net/MahfujAlam16/crisis-in-yemen-presentationppt

○サウジ・イエメン戦争(1933-1934)

アラビア半島南部では、1918年にイエメン王国が独立した頃(1918年)からサウード家が勢力を拡大、いくつかの領域を統合してサウジアラビア王国を成立させた(1932)。こうした動きに伴い、サウジとイエメンの間でも国境画定をめぐる紛争が起き、ごく短期間の戦闘を経て、サウジが勝利。イエメンはサウジにジーザーン(Jizan)、ナジュラーン(Najran)、アスィール(Asir)等(↓地図の黄色部分)の正式領有を許すことになった。

この戦争は、国王ヤヒヤ、そして国民(とくに北部部族勢力)の双方に大きな影響を与えた。

まず、国王ヤヒヤは、部族勢力があっけなくサウジ軍との戦闘に敗れたのを見て強い危機感を覚え、正式な軍隊の創設、そして国家体制や軍の近代化に動いた(「名誉ある40人」もその一環であろう)。

他方、国民とりわけ北部の部族勢力は、国境エリアの山岳地帯(ヤヒヤや部族勢力の先祖の地であるようだ)をサウジに譲り渡してしまったヤヒヤに不信感を抱いた。

自分たちこそがイエメンの伝統の担い手であると自負する彼らは、数十年ののちに国王を見限る。一部の者(エリートの青年たちだ)は革命を率い、その他の者は、しばらく逡巡した後、共和国政府を支持・参画していくのである。

 

7 イエメン革命:イエメン・アラブ共和国の誕生(1962)

・青年将校の連合軍が蜂起。王宮を襲撃し、王制(イマーム制)の終焉とイエメン・アラブ共和国の誕生を宣言。アブドッラー・アッ・サラール(Abdullah al-Sallal)が大統領に就任。

・国王ムハンマド・アル=バドルは生き残り、彼の下に結集した国王派と共和国派(新政府)との内戦が始まる。

エジプトは新政府を支援しエジプト軍を派遣。これを脅威と見たサウジアラビアは王党派を支援した。

・イエメン内戦は、エジプトのナセルに「私のベトナム」と言わせる長く困難な闘いとなり、第3次中東戦争後にエジプトが撤退した直後の1968年には国王派のクーデターが成功。アッ・サラールの革命政府は倒れ、一時的に王政復古が実現。

・しかし、クーデター後、共和国の第2代大統領に就任したイリアーニは(経緯は不明)、国王側を支持していた部族勢力と共和派の融和を基礎とする新たな連立政権の構築に成功。内戦を終結させ、共和国の基盤を固める。

・国王アル=バドルは敗北を認め「イエメンを救うため」と演説して亡命(1970年)。869年以来のザイド派イマーム王朝が終了した。

北イエメンは、1962年9月26日の革命で、王制が倒れ、共和国に生まれ変わる。民主化革命には違いないが、男性識字率50%超え(1980年)よりもだいぶ前なので、エリートの革命と考えた方がよいだろう。

革命時の国王はヤヒヤを初代と数えると3代目。父でありヤヒヤの息子である2代目が亡くなり3代目のアル=バドルが国王・イマームに就任した直後の出来事だった。 

内戦期のアル=バドル

革命を率いて新政府を樹立した将校たちの多くは「名誉ある40人」などの海外帰国組で、ナセルのアラブ民族主義の影響を強く受けていた。ナセル側も、新生イエメンを重要なパートナーと見て、共和国軍(新政府)を大いに支援した。しかし、この時期はまだ国王に付いていた北部の部族勢力は不屈で、ナセルは、北部の部族勢力の軍事力と、それを支持するサウジのオイルマネーによって「ベトナム」的泥沼に引きずり込まれることになる。

しかし、1967年、第3次中東戦争であっけなくイスラエルに敗北したエジプトは(6日戦争といわれる)、イエメンからの撤退を余儀なくされる。

エジプトの撤退で共和国軍(革命軍)は弱体となり、短期間の王政復古を招いたが、その間に、イリアーニは、ナセル流のアラブ民族主義や社会主義を捨てイスラムに立脚した政府を作ると約束し、1️⃣サウジアラビアにアル=バドルへの資金援助を停止させ、2️⃣北部の部族勢力の支持を取り付けることに成功。

こうして、6年間続いた内戦はついに終了し、イエメンは近代化への道を歩み始めたのである。

なお、ナセル大統領は南イエメンの反英闘争も支援している。南イエメンは反植民地武装組織「イエメンの赤い狼(the Red Wolves in Yemen)が率いた闘争の結果、1967年に独立を勝ち取った(南イエメン人民共和国。1970年にイエメン民主人民共和国に名称変更)。

8 強権的な指導者の下での近代化:サーレハ政権の成立(1978-2012)

その後、北イエメンは、イリアーニ政権(1968-1974)、無血クーデターで政権を掌握したハムディ政権(1974-1977)の下で一定の近代化を果たす。

しかし、ハムディは1977年に暗殺され、その後継者も1年後にブリーフケース爆弾で暗殺。その3日後には南イエメンの大統領も暗殺された。

その混乱の中から、1978年にイエメン・アラブ共和国大統領に就任したのが、「のちにイエメン史上もっとも悪名高い政治家となる」アリー・アブドッラー・サーレハ(Ali Abudullah Saleh)である。 

来日して小泉首相に短剣を贈るサーレハ(2005)http://www.asahi.com/special/07-08/reuters/TKY200711140296.html

サーレハについては、まだあまり詳しいことは書けない。私がイエメンについて調べるときの情報ソースの一人はJoziah Thayerというフリーランスの研究者で、歴史についてもこの人の「History of Yemen Part1」という記事を大いに参考にした(サーレハについての「もっとも悪名高い」の下りもこの記事からです)。

ところが、「Part1」の彼の記述はサーレハ就任のところで終わっていて、続きの「Part2」はまだ出ていないのである。

サーレハは、次回扱う現代史の主要登場人物の一人でもあるので、その部分に関しては信頼できる情報がある(次回書く)。しかし初期のことは何を信じていいか分からないので、「Part2」が出たら補充することを前提に、その他の文献から得た情報で骨格だけを埋めておく(サーレハについてはwikiがかなり詳しい)。

・サーレハ政権は事実上の一党独裁

・南イエメンが(崩壊の過程に入ったソ連からの支援が途絶えて)困難に陥ったことから協議が進み、1990年に南北イエメン統合が実現。国号はイエメン共和国。サーレハはその初代大統領に就任。副大統領は南イエメンのアル=ベイド。

・1993年に総選挙が行われ(投票率95%!)連立内閣が成立したが、政策の不一致から内戦に突入(1994年5月-7月)。

・事実上、北イエメン VS 南イエメンの戦いであった内戦は、スカッドミサイルの飛び交う激しい戦闘の末、北側が勝利。

・その後も国民直接投票による大統領選挙や憲法改正国民投票、第一回地方議員選挙など、いろいろありつつサーレハ政権が継続するが、「内戦終結後も都市部では政治家の暗殺やデモ隊と警察の衝突、地方においても部族間抗争や外国人の誘拐が頻発しており、内政はいまだ不安定」(日本大百科全書 ニッポニカ)という状態が続いた。

おわりに

しかし、こうやってまとめてみると、サーレハ政権の時代は、まったくもって、「幕末から明治ー昭和初期の日本」という雰囲気である。

それもそのはず、この時期のイエメンは、識字率の上昇を基礎とする近代化の真っ最中なのだ。

その意味で、近代化の正常な過程をたどっていたといえなくもないイエメン。彼らは引き続き正常な軌道の上を進み、正真正銘の民主化革命を実現していく。ところが現在、イエメンは「史上最悪の人道危機」の渦中にあるという。いったい、何がどうして、どうなってしまったのだろうか。

(次回に続きます)

イエメンの人口動態についてはこちらをご覧ください。
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イエメンのなりたちと宗教
(付/シーア派とは何か)

先日までの私と同じく「イエメンについての知識はゼロだが言われてみると興味はある」という方に向けて、イエメンを知るために「多分、この辺が重要じゃないか?」と思うところを見繕ってお送りします。

1 イエメンの場所:人類史のど真ん中

まずは地図でイエメンの場所を確認していただきたい(↑)。「世界の果て」という感じがしてしまうのは単なる無知で(私です)、ここは人類史のど真ん中である。

紅海の入り口のところの海峡(バブ・エル・マンデブ海峡という)の現在の幅は約30km。ドーバー海峡と変わらないので人によっては泳げる距離だが、この海峡の幅は、現生人類がアフリカを出たとされる約70000年前には約11kmであったという。そして、イエメンからオマーンにかけての海岸沿いには約70000年前頃から人類が住んでいた痕跡がある(いずれもwiki。出典は不明)。

そういうわけで、有力な仮説は、アフリカを出た人類が最初に到達した土地はイエメンであるとする(↓)。当時湿潤な気候であったアラビア半島は約24000年前に乾燥化が始まり、約15000年前に砂漠となったとされるが、この地域にはつねに人間が住み続けたと考えてよいだろう。

現生人類の母系のミトコンドリアDNAハプログループ(wiki

*7万年前という時期の重要性についてはこちらをご覧ださい。https://www.emmanueltoddstudy.com/before-civilization2/

2 イエメンの中核は北部 

歴史を通じて豊かに栄えたのは北部。現在の首都サナアを含む一帯だ。

サナアは世界最古の都市の一つとされており、おそらくラクダによる隊商貿易が始まった頃から貿易の拠点だった。アラビア半島で史料に残る最古の国家とされるサバア王国(紀元前800-紀元後275)が興ったのもこのエリアである(首都はMarib)。

230年頃の勢力図(wiki)

サナアを含む北西部は、標高の高い高原地帯で、アラビア半島で最も気候に恵まれた地方だという(吉田雄介・日本大百科全書ニッポニカ)。「夏は涼しく、年降水量は400-1000ミリメートルに達し、森林が多く農業に適する」のだ。

古代ギリシャ・ローマの人々はイエメンを「幸福のアラビア(Arabia Felix)」と呼んだ。豊かな香料のためだといわれるが、その源は豊かで住みやすいこの土地にある。

歴史の長いこの地域では、港湾都市アデンも栄えたし、今では廃れてしまったモカ(コーヒーの積地)も有名だ。しかし、今も昔も、イエメンという国家の核を形成しているのは北部である。

北部・北西部・山岳地帯・高原地帯・・ ところで、イエメンに関する文章を読んでいると(書き手によって)「北西部」「北部」「山岳地帯」「高地」「高原地帯」などの様々な語が出てくる。おそらく、すべてはこの地域一帯を指していると思われる。下の地図を見てもらうとわかるが、北部の中央から東はすべて砂漠(ルブアルハリ砂漠)なので、「北部」と「北西部」は事実上イコールだし、山でもあり高原でもある標高2300m(サナア)の土地を山岳地帯というか高原地帯というかは難しい問題である。私もいちいち迷うので、以下、この文章では「北部」と「高地」で(なるべく)統一する。 

3 イエメンのイスラム教

(1)イスラム化第一世代

イエメンは、イスラム圏としての歴史も非常に古い。ムハンマドがメッカ郊外の洞窟で大天使ガブリエルの啓示を受けたとされるのは610年、イスラム共同体(ウンマ)を結成し、アラビア半島内で勢力を拡大していくのはメディナへの移住(ヒジュラ・622年)以降であるが、イエメンは、この622年からムハンマドが亡くなる632年までの間にイスラム化された地域に含まれている。

このカーキ色の部分が632年までにイスラム化された地域(ビジュアルマップ大図鑑世界史(東京書籍))

「イエメン」という地域の呼称も、メッカ、メディナへの巡礼と関わりがあるようだ(ムハンマドは625年にイスラム教徒は一生に一度メッカに巡礼する義務がある旨の啓示を受けている)。

イエメンはアラビア語「yamin(右側)」に由来するとされている。私が読んだ文献は、メッカ・メディナに対して「右」と解釈していたが(何から見て「右」かについて、もっともらしい説明として「太陽が昇る方向に向かって右」というのがある)、巡礼のルートにはオマーンからアラビア海沿岸を通ってイエメンに入るルートもあったらしいので、その海路から見てイエメンが「右」という解釈もありそうに思える。

(2)イエメンの核、ザイド派

以来、イエメンは一貫してイスラム圏である。主流に当たるスンナ派が人数では多いが、重要なのはザイド派の存在だ(人口の三分の一程度といわれる)。

ザイド派の地盤は首都サナアを含む北部の高地一帯。先ほど、この地域がイエメンの中核であると書いたが、それは主としてザイド派の存在によるものといえる。いわゆるフーシ派(正式名称はアンサール・アッラー)もザイド派の組織である。

この地域は、長らく、ザイド派のイマームを王とする王国を営んでいた。この「長らく」は半端ではなく、建国が859年、滅亡は1968年である。この間、オスマン帝国など他国の支配下に置かれることはあったが(次回)、ザイド派の人々が従属的な地位を甘んじてを受け入れることは決してなく、彼らはつねに反乱を企て、抵抗を続けて、1918年にはいち早くイエメン王国として独立を成し遂げた。

歴史的に、諸外国に対する抵抗の核であり、イエメンとしての強い誇りとアイデンティティを持ち続けているのが、この北部ザイド派地域なのである。

(3)ザイド派とは何か

①ザイド派はイランのシーア派の子分ではない

ではそのザイド派とは一体何か。

ザイド派は「シーア派の分派」とされることが多い。誤りとはいえないが、非常に誤解を招きやすい表現だ。

一般人の常識では、シーア派はイランの国教として認識されているため、「シーア派の分派」というと、イランのシーア派の子分のように聞こえてしまう。しかし、事実はそうではない。

イランの国教であるシーア派は、シーア派の中の12イマーム派である。12イマーム派の枠組が成立したのは10世紀中頃とされる。しかし、ザイド派はそれよりも早く、8-9世紀頃には成立しているのである。

したがって、当然のことながら、ザイド派は12イマーム派が作り上げた様々な教義を共有していない。実際、ザイド派は、教義の点ではスンナ派に近いと言われている。

②なぜ「シーア派」か

そもそも、ザイド派はなぜ「シーア派の分派」とされているのか。

一般に、シーア派は、「ムハンマドの後継者たるイスラム共同体指導者はアリー(第4代カリフ・ムハンマドのイトコかつ娘婿)の子孫でなければならない」とする立場をとる宗派と定義されている。

イエメンのザイド派は、アリーの子孫であるザイドに忠誠を誓い、アリーの子孫からイマームを輩出するということに(少なくとも建前上は)なっているので、「シーア派」に分類されるのだ。

ところで、シーア派が「アリーの子孫」を奉じるのは、基本的には、アリーがムハンマドの血統だからである。それなら「ムハンマドの子孫」といった方がわかりやすいと思うのだが‥‥

しかし、調べてみると、シーア派が「アリーの子孫」という言い方にこだわることには理由があった。そして、そこにこそ、「シーア派とは何か」を理解する鍵が隠されていたのだ。

説明しよう。

③シーア派とは何か

◼️アリーとムアーウィアの後継者争い

アリーは、ムハンマドの死後その後継者として選出された初代カリフ(アブ=バクル)から数えて4代目のカリフである。下に記載した5人のカリフはみなムハンマドと同じクライシュ族の出身であるが、同じ家の出身はアリーだけである。

アリーは、ウスマーン(3代カリフ)が暗殺された後、次のカリフに選出されたが、アリーのカリフ就任に反対する勢力(ムハンマドの妻アーイシャやウマイヤ家のムアーウィア)もあり、内戦に発展した。

争いは最終的にアリーと自らもカリフを名乗ったムアーウィアの一騎打ちとなったが、勝負は決まらず、指名された裁定者がアリーとムアーウィアのどちらが「正しいカリフ」かを判定することになった。ところが、この判定方法自体に反対する一派が現れ(ハワーリジュ派)、彼らはアリーとムアーウィア双方の暗殺を試みた。その結果、アリーだけが死んでしまったのである。

生き残ったムアーウィアは単独のカリフとなり、人々もこれに従ったが、彼の死後、再び後継者争いが起こった。

ムアーウィアは生前に息子の一人ヤズィードを次期カリフに指名していたが、人々は必ずしもこれに納得していなかった。

そもそも、ムアーウィアが単独で第5代カリフに就任することになったのは、単に、アリーが暗殺に遭って死んでしまったからである。ムアーウィアは、アリーと戦って勝ったわけでもなければ、裁定者に「正しいカリフ」と認められたわけでもない。アリーに対してムアーウィアの血統を「正統」とする根拠は何もないのである。

したがって、もともとアリーを支持していた人々から見れば、ムアーウィアがカリフになったところまでは仕方がないとしても、以後のカリフをムアーウィアの子孫(ウマイヤ家)から出すのは筋が通らない。

そこで、アリー支持派を中心に、アリーの息子フセインをカリフに推挙する動きが巻き起こり、再び、内戦が必至の情勢となった。

◼️フセインとヤズィードの争い:カルバラーの悲劇(680年10月10日)

しかし、フセイン勝利の芽は、戦いが始まる前に摘み取られてしまう。フセインとその一族は、支持派の招きを受けてメディナからクーファに向かう途中のカルバラーの地で、ヤズィードが派遣した軍に包囲され、惨殺されてしまうのだ。

この事件が、今もシーア派の間で語り継がれる「カルバラーの悲劇」である。

地図はこちらのサイトからお借りしました。この前後の歴史についても大変詳しいです。

◼️ウマイヤ朝+スンニー派の確立

この事件の後、第6代カリフにはヤズィード、第7代にはその息子が就任。その後もいろいろとあったものの、しばらくはムアーウィアに始まるウマイヤ朝の時代が続く(661-750)。

そしてウマイヤ朝においては(シーア派との対立を経て)正統イスラム教としてのスンナ派が成立し、以後、中心的なイスラム王朝の奉じる立場して確立していく。

しかし、ヤズィード、ウマイヤ朝、そして歴代スンナ派王朝は、カルバラーの悲劇のために、由緒正しいムハンマドの一族を殺害することでカリフの地位を簒奪した者という、消すことのできない汚名を着ることになったのだ。

◼️「抵抗」の象徴としての「アリーの子孫」

そういうわけで、以後、ウマイヤ朝や歴代スンナ派王朝に反発し、ときに反旗を翻すムスリムは、こぞって「アリーの子孫」を奉じることになった。

「アリーの子孫」ということによって、ムハンマドの血統であることを主張し、同時に、アリーの子フセインが虐殺された悲劇の記憶を喚起し、主流派の不正性をアピールすることができるからだ。

「シーア」とは「党派」の意味であり、アリーとムアーウィアが争っていた時代にできた「シーア・アリー」(アリー派)の語が省略されて定着した言葉だという。したがって、主流に対して反発し、「アリーの子孫」を奉じる人々は、定義上、みな「シーア」(シーア派)に分類されることになる。

しかし、「アリーの子孫」という観念の共有は、彼らが何か共通の思想信条を持っていることを意味しない。シーア派が共有しているのは、おそらく、本流や主流に対する「抵抗」の立ち位置のみなのである。

(4)イエメン北部はなぜザイド派の地となったのか

イエメンは、由緒正しい第一世代のイスラム圏であり、メッカやメディナにも近い。そのイエメンがでは、なぜ「抵抗」のシーア派(ザイド派)の拠点となったのであろうか。

次のように考えることはできるだろう。

ザイド派の成立は8-9世紀。ウマイヤ朝からアッバース朝にかけての時期である(↓)。

ムハンマドの生前、宗教上の聖地はメッカであり、政治の中心はメディナにあった。イエメンの都市サナアは、メッカに近い主要都市として繁栄していたことだろう。

しかし、ムアーウィアがカリフとなると(ウマイヤ朝開始)、首都はダマスカスに移され、アッバース朝も、現在のイラクの領域(クーファやバグダード)に首都を置いた。政治の中心が北に移動することで、イスラム世界の重心がイエメンから遠ざかっていったのだ。

イスラム第一世代のイエメンの人々が、ときのイスラム王朝のやり方に不満を抱いたとき、彼らの運動はごく自然に「アリーの子孫」を奉じるという形を取ったはずである。

ちょうどそのとき、そこにザイド・ブン・アリーがいた。あるいは、その記憶があったのだ。

ザイド派は、イスラム世界で数限りなく起こったであろう反主流派運動の最初期のものの一つである。その多くが時と共に消滅したのに対し、イエメンのザイド派は1000年以上の時を生き抜いた。

そして、このザイド派が担う誇り高い抵抗のメンタリティが、イエメンの近・現代史において大きな役割を果たしていくことになるのである。

今日のまとめ

  • イエメンの歴史は古い。
  • イエメン国家の中核は北部のザイド派地域であり、フーシ派(アンサール・アッラー)拠点もここである。
  • イエメンは預言者ムハンマドの時代にイスラム圏となったイスラム化第一世代である。
  • シーア派の共通項は「反主流」「抵抗」の立ち位置であり、必ずしも思想信条を共有するわけではない。
  • ザイド派はシーア派の分派とされるが、イランのシーア派とは無関係である。
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イエメンを知ろう(付/イエメンの人口動態)

 

はじめに

現在、ガザ危機を終わらせるための行動をもっとも激しくかつ直接的に展開しているのはイエメンの人々である。

イエメンの人々は、10・7の直後からイスラエルに対するミサイル・ドローン攻撃を開始し、紅海を通行するイスラエル関連船舶を拿捕し、今ではアメリカ・イギリスと戦っている

イエメンは西アジアのアラブ諸国の中では圧倒的に「遅れた」国だ。例えば、トルコの男性識字化(20-24歳の50%)は1932年、シリアは1946年だが、イエメンは1980年。女性に至っては2006年である。 

イスラム諸国の近代化(トッド/クルバージュ『文明の接近』(藤原書店、2008年)31頁より)

しかしその「遅れ」のために、イエメンはいま現在、最も若く活力のある時期を迎えているのである。

*イエメンの年齢中央値は19歳(2024年)。イラクやパレスチナと並んで最も若い一群だ(wikiの表を並べ替えてご覧ください)。 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_countries_by_median_age

19世紀後半から20世紀初頭の日本人のような血気盛んな若者たちの前に、同じアラブの人々を襲うガザ危機があったら、「そりゃあ、やるよなー」と、私はまず思った。

それで興味を持ったのだが、軽い気持ちで調査を始めてみると、イエメンが現在置かれている状況はかなり非道なものだった。

しかし、さらに奥地に入り、調査を進めてみると、何か輝かしいものも見えてきたのである。

「これ、本物の民主化革命じゃないか‥‥」

そう。イエメンは今、フランス革命も真っ青(?)の本物の革命の只中にあったのだ。

「人道危機」の原因は内戦ではない

現在のイエメンは「世界最悪の人道危機」の当事国としてよく知られている。一般的な説明では、「危機」の原因は「2015年に始まった内戦」とされている。 

NHK「キャッチ!世界のトップニュース」
NHK「キャッチ!世界のトップニュース」

この説明は、根本的な原因はイエメンにある、という印象を与える(ための)説明といえる。イエメンという国はそもそも国家の体をなしていない破綻国家であり、反政府勢力が蔓延り、悪者のイランにつけ入る隙を与えている。だから、それらを撃退し、秩序を回復するために、外国が介入しているのだ、と。

ガザ危機が「イスラエル VS イスラム過激派ハマス」の構図で描かれ、前者の介入にも一定の理がある、とされているのと全く同じである。

しかし、調査してみて分かった。この説明は意図的に流布されている「ウソ」である。

イエメンという国に問題がないというわけではない。北部と南部は当初から分裂していたし、1963-70年には北イエメンの内部でも内戦があった。南北イエメンは1990年に統一されたが、1994年には南北の間で内戦が起き、その後も政治の安定には程遠い状態が続いた。

しかし、2015年からの内戦は、その延長線上に起きたものではない。後で詳しく説明するが、イエメンのもともとの政情不安定と「世界最悪の人道危機」は、基本的には関係がないのである。

人口動態から見るイエメン

私は勝手に、イエメンという国は、この先の激動において大きな役割を担っていく可能性がある、と感じている(根拠はない)。

イエメンの人口動態に関するデータをいくつかご覧いただこう。

男性識字率50%越の時期は1980年、女性は2006年だが、その前の1995年にすでに出生率の低下が始まっている。近代化の過程をくぐり抜けている真っ最中である(上記の図を参照)。

年齢中央値は19歳、人口ピラミッドは下のような感じで、とにかく若い。 

https://www.worldometers.info/demographics/yemen-demographics/#
https://en.wikipedia.org/wiki/Demographics_of_Yemen#/media/File:Yemen_single_age_population_pyramid_2020.png

そして現在の人口は約3500万人。日本の場合、1870年代の人口が3500万人くらいだった。その時期の年齢中央値のデータはないが1940年が22歳なので、1870年代に20歳前後だったとしてもおかしくないだろう。当時の日本と同様、イエメンもまだ出生率は下がり切っていないので、この先国情が安定すれば、人口は大きく増えていくと見込まれる。

乳幼児死亡率はまだまだ高い(2022年で42,245人(/1000人)*)。とくに「世界最悪の人道危機」が始まった2015年頃からは足踏み状態が続いているが、長期の傾向は明らかに低下に向かっている。近代化は着実に進んでいるのだ。

https://data.worldbank.org/indicator/SP.DYN.IMRT.IN?end=2021&locations=1W-YE&start=1963&view=chart

次回の予告(おわりに)

そういうわけで、イエメンは現在、近代化を始めた当初(約150年前)の日本と同じような時期を迎えている。

民主化革命のさ中にあるその国は、(アメリカが支援する)サウジアラビアの攻撃によって大変な目に遭いながら(詳しくは次回以降)、80年前の日本よりもはるかに積極的かつ断固した姿勢で、アメリカと対決しようとしている。

次の地図をご覧いただきたい。西アジアではイランを除くすべての国に米軍基地があり、多数の兵士を駐留させている。しかし、イエメンには一つもないのである。 

どうしてこんなことが可能になったのだろうか?

*ちなみに日本は約54000人、基地は数え方がよく分からないが大きめの単位で数えると約15。人員・基地のそれぞれ約半数は沖縄。
https://www.usfj.mil/About-USFJ/
https://en.wikipedia.org/wiki/United_States_Forces_Japan#/media/File:Military_facilities_of_the_United_States_in_Japan,_2016.gif

興味、ありますよね?

「イエメンを知ろう!」ということで、今回を含めて数回をイエメン特集とさせていただきます。

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民主化の果て
ーリビアの場合ー

 

以下は、ムスタファ・フェトゥーリ「リビアはカダフィとともに消えた:「解放」されたリビア人はなぜ占領下にあると感じているのか」の翻訳です。

エジプトの西隣、地中海沿岸にあるリビア。文化圏としては西アジア(中東)の一部です。近現代史の骨格だけを拾うと、以下の通り。

  • 16世紀以降オスマン帝国の版図
  • 1911年 イタリアの侵攻を受ける。イタリアとオスマン帝国の戦争(伊土戦争)を経てイタリア植民地
  • 各地域で激しい抵抗運動が続くが1932年に完全平定。イタリア領リビア
  • イタリアのWW2敗戦で英仏の共同統治領となった後、国連決議により独立(1951年)。リビア連合王国となり、東部地域の君主であったムハンマド・イドリースが国王(イドリース1世)に就任
  • イドリース国王の下、国際石油資本による開発を受け入れたリビアは産油国として一定の経済成長を遂げるが、多くの国民は貧しいまま。エジプト・ナセル大統領が主導する汎アラブ主義の影響もあり、王政および親欧米政策への不満高まる
  • 1969年 青年将校によるクーデター(リビア革命)。イドリース国王は退位し、カダフィを指導者とするリビア・アラブ共和国が成立。
  • カダフィ政権下の事象は真偽が不明なことが多く調査できていないので省略。ともかくカダフィ政権は英米と敵対し、テロ支援国家に指定されたり、命を狙われたりする。1992-1999は国連の経済制裁 
  • イラク戦争(2003年)後、カダフィの姿勢が軟化したとされ、テロ支援国家指定解除。2006年アメリカとの国交正常化
  • 2011年「アラブの春」の一部として起きた反政府運動の後、内戦に突入。欧米(米英仏)の軍事介入を経て、反政府勢力が政権を樹立。カダフィは射殺されて死亡。国名「リビア」に

この記事は、リビア国民の視点から、2011年以後、西側諸国の主導によって行われた「民主化」とは何だったのかを問うものです。

リビア国民の多くは今、「民主化」とは、結局、西側の言いなりになる政権が樹立され、リビアの国土と資源が体よく利用されただけであり、新たな形態の植民地支配にほかならないと考えているようです。

リビア国民の経験は、おそらく、イラク国民の経験とほぼ重なります。そして、同様の事態に陥ることを避けるために必死の抵抗を続け、ついに勝利しつつあるのがシリアだと思います。

ところで、1945年以後、つまり、アメリカが君臨する世界における「民主化」成功事例の第1号は、日本です。短い記事ですが、彼らの経験は、日本に住むわれわれが、現代の世界を理解し、20世紀以降の自分たちの歴史を振り返り、「アメリカ後」の世界を展望するのに役立つと思い、紹介させていただきます。

(前書き終わり・以下本編)

リビアはカダフィとともに消えた:「解放」されたリビア人はなぜ占領下にあると感じているのか(Mustafa Fetouri)

12年前、リビアに到来し、ムアンマル・カダフィの政権を終わらせた「アラブの春」は、リビアをカオスに陥れ、国家は部族や地域によって分断された。カダフィ本人は、西側の支援を受けた民間の軍事組織によって殺害された。

https://www.azernews.az/region/212351.html

https://www.cbsnews.com/news/clinton-on-qaddafi-we-came-we-saw-he-died/

https://www.youtube.com/watch?v=6DXDU48RHLU

NATOによる軍事侵攻

2011年2月、リビア東部で発生したカダフィ政権への小規模かつ限定的な市民運動は、やがて西側が支援する政権転覆の試みに変貌し、NATOは「民間人保護」の名目でリビアに軍事介入を行なった。

アメリカ、イギリス、フランスの主導によって採択された国連安保理決議1973が、リビアに対する武力行使の道を開いた。軍事侵攻は、西側諸国がカダフィを政権から追放したいというだけの理由で行われたものであり、それ自体、あからさまな安保理決議違反だった。これ以降に何が起きたかはよく知られている通りである。

混乱の中、リビアの人々は、民主主義と繁栄、自由はすぐそこだと聞かされていた。ところが、彼らはまもなく気づくことになる。カダフィはいなくなった。しかし、ある意味で、カダフィと共に、リビアそのものが失われてしまったのだと。

何年経っても、リビアは停滞したままで、自由も安定も勝ち得ていない。主権に関わる事項のほとんどは他国によって決定され、外国の手先となった武装勢力が国を支配している。

「占領下」のリビア

現在、ほとんどのリビア人は、リビアは独立を失い、新たな形態の占領状態にあると感じている。政治家は外国の意見を聞かなければ何も決められない。そして、10数年前にリビアを混沌に陥れた同じ国々が、現在もリビアの発展を妨害しているのだ。

国家主権、そして自律的な内政・外交政策は、カダフィ政権の中核だった。石油資源に恵まれた北アフリカ国家の指導者として君臨した40年間、カダフィはこの2つをリビア人の国民的アイデンティティに組み込むことに成功した。その結果、リビア国民は、あらゆる外国からの干渉を警戒し、西側、とりわけイタリア、アメリカ、イギリス、フランスから来るすべてを疑ってかかるようになった。この4カ国がリビアの歴史上果たした邪悪な役割は深く記憶に刻まれている。いずれも、リビアの主権を侵害した責任が問われている。

西側主導の政権交代と内戦が起きた2011年以前、リビアは毎年4つの祝日を祝っていた。それぞれの祝日は、リビアが誇る歴史の転換点を祝い、若い世代に独立した主権国家であることの重要性を思い出させるものだった。各祝日の行事には、外国の要人、時には国家元首も参列し、その重要性を印象付けていた。

誇り高いかつてのリビア

例えば、3月28日はリビア東部のトブルクの戦略軍事基地を占領していたイギリス軍の追放記念日である。1970年3月、革命によって政権を掌握して6ヶ月のカダフィは、すべての外国軍に国外退去を命じた。その年の6月11日には、アメリカ軍がトリポリ郊外の巨大軍事基地から撤退した。ウィールス空軍基地は、ピーク時約50㎢の敷地にアメリカ国外で最大の軍病院や大型映画館(シネコン)、ボーリング場、高校を備え(リビア人は立ち入り禁止!)、その規模と提供されるサービスから「リトル・アメリカ」と呼ばれた。約15,000人の軍人とその家族が暮らし、空軍のパイロットは近隣のアルウィティア(リビア砂漠付近)にある5ヶ所の射撃訓練場も利用していた。ウィールスは現在ミティアガ空港となっている。

10月7日は、1970年に20,000人に及んだイタリア人入植者を追放した記念日である。彼らは1911年9月に始まったイタリアのリビア占領の際にやってきた民間人で、一時期は主要商品の貿易や修理サービス、小規模工場等のほぼ全てが彼らの所有ないし支配下にあった。リビア東部では、イタリア人入植者がもっとも肥沃な土地を所有し、リビア人は安い労働力として使われた。リビア人労働者への対価は多くは(賃金ではなく)食料や住居であり、手工業の工房で働くリビア人技術者に与えられた賃金もごくわずかだった。

外国勢力の排除は、銀行部門と石油部門でも行われた。1969年のカダフィ革命以前、銀行部門はイタリア人とイギリス人が独占していたが、1970年12月、同年に成立した法律153号によってすべての銀行が国有化された。石油部門も同様である。国内のすべての石油会社をアラビア語の名称に変える措置が取られた後、1973年に成立した新石油法によって石油の探査・生産・輸出のほぼ全てが国営となった。

カダフィ政権は、リビアを侵略した列強、とくにイタリアの植民地支配と戦った歴史をリビア人の誇りとして刻むことに使命感を抱いていた。イタリアは、1911-43の間に、レジスタンスの指導者オマール・ムフタール(1931年に拘束され絞首刑)を含む50万人近いリビア人を殺害している。

実際、何年にもわたる圧力と交渉の末、リビアは他のどの国もなし得なかったことを成し遂げたといえる。リビアは、イタリアに植民地時代の暴虐を謝罪させ、賠償金を支払わせたのだ。2008年、リビア政府とイタリア政府は、植民地支配に起因する問題の解決と反植民地主義を宣言する友好・協力・パートナーシップ協定に調印した。同協定では、イタリア側が、リビアへの賠償として、道路、病院、鉄道網の整備やリビア人学生への奨学金、盗まれた工芸品の返還といった開発協力プロジェクトの形で、25年間に渡り5億ドルを支払うことが取り決められた。

誇りを失った新生リビア

トリポリ在住のある歴史学者(匿名を希望)は次のように指摘する。新生リビアは、歴史を祝おうとしないどころか、思い出そうともしない。「遠い歴史も、最近の歴史も」。彼は言う。歴史とは、国家が経験した過去を若い者に教え、老いた者には思い出させることで、時間をかけて「国の性格(国柄)の不可欠な一部」となっていくものだ。

彼の同僚であるミラド(彼も報復への懸念から姓の公表を恐れている)もこれに賛同し、次のように付け加えた。「カダフィ時代の最大の遺産の一つは、国家の過去の事蹟を讃えることで、リビア国民に誇りを持たせたことだと思う」。

2011年10月以後、リビアでは国家的な記念式典や祝賀行事は一度も行われていない。それどころか、リビアの政治は、選挙や経済を含む全てが、外国政府かその手先である勢力によって牛耳られているのだ。

現在、リビアには外国の軍人、傭兵、武装集団が20,000人以上在住し、権勢を争う様々な地域勢力を支援している。この状況は多くのリビア国民にとって「信じがたいこと」だと、トリポリ大学のアリ・マフムードは言う。「何十年も前に外国軍を追放したリビアに、再び外国軍が駐留するなんてことが、いったいなぜ起きたのだろうか?」

リビア国民の大多数は、ミスラータ、ベンガジ、アル・ワティア、トリポリ南西部その他の地域のリビア軍基地に外国軍が駐留している事態を、外国による占領の一種とみなし、快く思っていない。

隠微な「占領」

普通のリビア国民は、リビアは「軍事的にも政治的にも」間接的な占領状態にあると見ている。こう指摘するのは、ベンガジ在住の弁護士、サミア・アル・フサイン(仮名)である。2021年に予定されていた選挙は、無期限に延期された。アメリカおよびイギリスの大使が、サイフ・アルイスラム・カダフィームアンマルの息子であるーが最有力候補である状況での選挙の実施を嫌ったからだ。

カダフィ・ジュニアは、リビア国内で広く支持を集めている。彼は大統領選への出馬禁止措置を受けていたが、裁判所は2021年にこれを解除した。予定通り2021年に大統領選挙が行われていれば、間違いなくカダフィが勝利したはずである。それを避けるため、前イギリス大使キャロリン・ハーンダルとアメリカ大使リチャード・ノーランドは、カダフィの候補者指名に公式に反対した。

国民の怒りに直面した議会は、外務省とは異なり*、選挙についてのコメントを理由にハーンダルを「ペルソナ・ノン・グラータ」に指定せざるを得なかった。しかし、任期が終了した昨年10月まで、彼女が国を出ることはなかった。これもまたリビアが占領状態に置かれていることを示す証拠の一つといえる。ノーランドに至っては、リビア外務省から非難を受けることすらなかった。なぜか。アメリカ大使だからだ。

アル・フサインは政治的には反カダフィだが、それでも、最近明るみに出た今年8月の前外務大臣ナジュラ・アルマングーシュとイスラエルの外務大臣の会談(@ローマ)について、以下のように指摘する。「リビアにとってイスラエルとの関係正常化にどんな利益があるというのでしょうか。外部からの命令なしに、リビアの高官がシオニスト国家の代表と会うはずがありません」。アル・フサインによれば、リビアは国家の歴史上一貫してパレスチナ人を支援してきたことに「大変な誇りを持っている」。1948年の第一次パレスチナ戦争では何百人ものリビア人が志願してパレスチナのために戦った。アル・フサイン自身もまた、ガザ戦争に対するリビアの反応は、パレスチナ国家の樹立を神聖な大義と認める国家として「期待に答えるものではない」と感じている。政府はガザへの支援のために5000万ドルを拠出したが、ほとんどのリビア国民は、リビアはガザのためにもっと多くをなすべだと考えている。

カダフィの地盤であるバニ・ワリドで法律を学んでいるムスバ・アドカリは、リビアの指導者たちは外国から命令を受け、国民の意思に反する行動をとっていると考えている。アドカリは、2022年12月にリビア人アブ・アギラ・マスードが33年前のパンナム機爆破事件に関与した容疑で拘束されアメリカで裁判にかけられた件を挙げ、次のように述べた。「アメリカの命令で行われたことだと思う。そうでなければ、あんなことが起きるはずはない。」「これが占領でないというなら、占領とはいったい何なのだろうか?」

(本編終わり) 

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世界を学ぶ 戦時下日記

ユーラシア大陸の中心で起きていること
ー戦時下日記(6)

西アジア中国を震源地として、本当に重要なことが起きていると思うのでまとめておく。

*以前、イランのハメネイ師が「ここは西アジアだ。中東などではない」と言っているのを聞いて「なるほど」と思ったので、西アジアを採用する(「中東」とか「極東」はヨーロッパを基準点とする言い方である)。

1 西アジアー和解に次ぐ和解

【予備知識】西アジアにおけるアメリカ

・アメリカは、冷戦終結後もロシア・中国・イランを敵視し、これらの国と良好な関係を保つ国々(イラク、北朝鮮、シリア、リビア、イエメン、ソマリア)で、政権転覆等を目的とした代理戦争を展開してきた(主な手段は武力攻撃と経済制裁)。

・アメリカの西アジアにおける最重要同盟国はサウジアラビア。サウジは長年イランシリアと対立して西アジア・アラブ世界で両者を孤立させ、アメリカの利益に貢献してきた。

・西アジアでの紛争状態の継続は、アメリカの利益(石油資源確保、武器輸出拡大、影響力保持)に合致した。

・もっとも破壊的な影響を受けたのはシリア

ーアメリカはアサド政権に「専制主義」のレッテルを貼り打倒を目指している(事実は異なる。アサド政権のシリアは世俗国家であり、近隣の王制国家と比べはるかに民主的)。

ーアメリカは2011年の反政府運動(「アラブの春」の一部)を契機に勃発した内戦で反政府側を強力に支援してきた。西アジア諸国ではサウジ、トルコ、カタールが反政府側。

ーアメリカは2015年から正式にシリアに駐留を開始。現在も一部を占領し、経済制裁も続けている。

ーISISとの戦いというのは口実に過ぎず、①中国、ロシアとの経済的関係(シリアはこれらの国に石油を売り武器を買っている。アメリカはこれらの国に石油を売ってほしくなく、また自国の武器を買ってほしい)、②イランとの政治的友好関係(アメリカは2010年に「イランとの関係を解消すればその見返りとして経済制裁を中止する」とシリアに提案して断られている)、③政権転覆(アメリカはアサド政権を倒しアメリカに従順な政権に変えたい)が主な目的と見られている。 

(1)サウジアラビアとイランの和解

・そういうわけで、サウジを中核とするイラン・シリア包囲網の構築がアメリカの西アジア政策の肝であったが、3月以降、この包囲網が一挙に瓦解をはじめ、西アジアに平和が訪れようとしているようなのである。

・3月10日、サウジとイランは外交関係正常化(7年ぶり)で合意した。共同声明は3カ国の連名でもう1国は中国。3カ国は北京で4日間に渡って協議を行ったとのこと。中国政府が仲介役を果たしたのである。

・アメリカは「イランが履行義務を果たすかが問題」とか言っていたようだが、履行に向けた動きは着々と進んでいることが窺える。

・4月6日にはサウジとイランの外務大臣が北京で会談して大使館の再開に向けた合意を締結。サウジの国王はイラン大統領をサウジに公式に招待し、大統領もこれに応じたという。

この記事を大いに参考にしました

(2)サウジーシリア関係にも和平が波及!

・3月末、サウジとシリアが外交関係の正常化に合意したことが伝えられ、4月18日にシリアでサウジ外相とアサド大統領が会談した。

・サウジは5月に開催されるアラブ連盟の首脳会議にアサド大統領を招待する方針とのこと。

アラブ連盟からの排除(ヨーロッパの国がEUから除名されたようなものだろう)というのが、アメリカの意向に基づく「シリアの孤立」の象徴のようなものだったので、これは本当に大きな動きなのだ。

シリアの外務大臣は4月1日はカイロを公式訪問している(4月12日にはサウジ。いずれも12年ぶりとのこと)。サウジ、エジプトというアラブ連盟の二大大国がシリアを歓迎していることが窺える動き。

・この動きの前提には、シリア内戦でアサド政権側がすでに勝利を決定的にしていて、周辺国がアサド政権の正統性を認めているという事実があるらしい。実際、サウジとの関係正常化に先立つ今年2月に、レバノンチュニジアアラブ列国議会同盟に属する各国の議員たちが相次いでシリアを訪問していた。

・そうした事実を前提に、仲介役を果たしたのはロシアであるらしい。

今年3月のモスクワでの会談の様子https://www.france24.com/en/middle-east/20230315-assad-meets-putin-in-moscow-as-syrians-mark-12-years-since-anti-regime-uprising
今年3月のモスクワでのアサド・プーチン会談の様子
https://www.france24.com/en/middle-east/20230315-assad-meets-putin-in-moscow-as-syrians-mark-12-years-since-anti-regime-uprising

・3月20日-21日には非常に印象的な習近平のモスクワ訪問があったが、そのときにこうしたことも話し合われていたに違いない。

・ちなみに中国はイスラエル-パレスチナ和平の仲介にも積極的な意向を示している(さすが共同体家族だ)。

*ところでシリア情勢とくにアサド政権について日本語で出回っている情報は「専門家」とか「現地で取材したジャーナリスト」のものを含めてほとんど嘘ばっかりだと思います。私はまず元外交官の国枝昌樹さんが書いたこの本(↓)を読んで「世間で言われていることは全然間違ってるっぽい」ということを知り、以後は情報を海外の非主流メディアに求めています。

国枝昌樹『シリア アサド政権の40年史』(2012年、平凡社)
この記事ではこのスレッドを大いに参考にしました。

*内戦前のシリアの美しい街並みを紹介したこちらの記事もとてもおすすめです(写真しか見ていません)。

https://www.theatlantic.com/membership/archive/2018/04/remembering-syria-before-the-war/558716/

(3)イエメンも?

イエメン内戦にも波及効果が期待できるという。

・イエメン内戦は、一般に「暫定政府軍」とシーア派の武装組織「フーシ派」の戦いとされている。前者の背後にはサウジがいて、かなり積極的に関与しているという。

・一方、世間では、フーシ派の背後にはイランがいるとされているが、アメリカが主張するほどイランが積極的に関わっているわけではないらしく、まだよくは分からないのだが、実態はサウジ=アメリカが扇動する戦争ということなのかもしれない。

・いずれにしても、サウジとイランの関係が改善するなら、イエメン内戦の終結は十分に期待できるのだ。

・4月14日から16日に行われた捕虜の交換は、両者の間で対話と妥協が成立しつつあることをうかがわせる。

・4月8日にはサウジの代表団停戦協議のためにイエメンを訪問し、次回の協議は4月21日に行われるという。

サウジはイエメン南部の港における輸入品の封鎖措置を解除することを発表、イランはフーシ派への武器送付を停止し、フーシ派にサウジへの攻撃を止めるよう圧力をかけることに合意したと報道されている。

サウジはイランがイエメンから手を引くなら、サウジはイラクとシリアから手を引くと約束したともされており、これが実行されるなら、本当に、シリアにもイエメンにも同時に平和が訪れるということになるだろう。

フーシ派のリーダーと握手するサウジ代表団

(4)アメリカだけが嬉しくない

アメリカは、イランおよびシリアとの和平に向けたサウジアラビアの動きを「不意打ち」と非難しCIA長官ウィリアム・バーンズをサウジに送り込んでいる。

https://www.businessinsider.com/cia-director-visited-saudi-mend-tattered-relations-mbs-report-2022-5

・しかし、サウジはもうずいぶん前から明確に「中立」の姿勢を打ち出し始めている。

・2021年には上海協力機構に対話パートナーとして加盟(今年の3月にサウジ議会も承認)、BRICSへの参加を目指していることも伝えられている。

・ウクライナ紛争では対ロシア制裁への参加を拒否した上、ロシア産原油の輸入量を2倍に増やし、対ロ制裁の効果を高めるためのアメリカからの石油増産要請すら拒絶している(大幅に減産した)。

・「中立」とは、この文脈では、アメリカの一極支配ではなく中国やロシアが推し進める多極化した国際秩序を支持するということなので、サウジは明確にアメリカに反旗を翻しているのだ。

2 ルーラは動く(中国訪問)

もう一つ、重要だと思うのは、ブラジル大統領ルーラの中国訪問である。

ルーラは3月下旬に中国訪問の予定を直前にキャンセルし(「本人の病気」が理由)、「むむ、怪しい‥(アメリカに懐柔されたのか?)」などと思っていたが、4月12日-15日に訪中が実現。

私の疑念を大いに払拭するハイテンションで、多極的世界に向けた意欲を語っていた(そして中国の人々に大喜びされていた)。

中国でのルーラの発言はすごい。

ウクライナ情勢については「アメリカは戦争をけしかけるのを止めて、停戦協議を始めるべきだ」。

*この発言についてアメリカは不快感を示し、ロシアは賞賛している。

*なおブラジルは、今年3月にロシアが国連安全保障理事会にノルド・ストリームの爆破について調査するよう求めた際、ロシア、中国とともに決議案に賛成している。

おまけに、ドルの覇権にはっきり疑問を呈する発言もしているのだ。

私は毎晩考えます。いったいなぜ全ての国が貿易をドルベースで行わなければならないのかと。なぜ私たちは自国の通貨で取引をすることができないのでしょうか。金本位制の後、ドルを基軸通貨にすると誰が決めたのでしょうか?

https://www.france24.com/en/americas/20230414-brazil-s-lula-criticises-us-dollar-and-imf-during-china-visit

中国とブラジルは3月に両国間の貿易を中国元ブラジル・レアルで行うことで既に合意していた(同様の動きは中国、ロシアの周辺のあちこちで出てきている)。ルーラはこれがドルの支配から抜け出すための動きであることを非常に明確に語ったわけである。

今まで中南米では、アメリカに抵抗し、なかでもドルの覇権に抵抗する動きを見せた為政者は、必ずアメリカの手によって倒されてきた(と分析する記事を読んだことがある)。

ルーラ自身も前回の大統領の任期中に汚職の罪をでっち上げられて投獄されているのだ(CIAの関与があったとされている)。

ルーラにせよ、サウジにせよ、彼らの行動をアメリカがどのように受け止めるかは熟知しているはずである。

それにもかかわらず、これほどあからさまに動くということは、彼らが「潮目は変わった」と見ていることを示していると思われる。

彼らは、「現在のこの世界では、もはやアメリカに従順に従う必要はない。いや、むしろ従うべきではない」と考えているのだ。

西アジア中南米、そしてアフリカがはっきりとアメリカ(ないし西側)一極支配体制から離脱する動きを見せている。

アメリカおよび西側は、もはや信頼に値するリーダーとはみなされていない。それだけで、すでに、アメリカ(および西側)の覇権は終わっているといえると思う。

中国側は歓迎式典で(アメリカが支援していた)ブラジルの軍事政権時代の
抵抗運動を象徴する曲を演奏してルーラを驚かせたという

3 おわりに

ウクライナは膠着状態(勝ち目はない)、西アジアにおける影響力を中国、ロシアに奪われ、グローバル・サウスがドル覇権体制から離脱する‥‥となると、アメリカは台湾問題で賭けに出るしかない、という感じがいよいよ強まる。

日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドは、ギリギリまでアメリカに従って動き、最後の最後に引導を渡す、というような役回りであろうか(このツイートの動画が面白かったです。是非↓)。

ちゃんと考えている人がいるといいなあ。

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イランの民主化
(翻訳記事付)

目次


主要メディアを通して見るイランは、イスラム原理主義で女性を抑圧する前近代的な国家である。しかし、トッドは事あるごとに、中東で最も自由主義的で近代化が進んだ国はイランであると指摘している。

「本当のことを知りたいなー」と思っていたら、ほどよい記事が見つかった。

まずトッドによるイラン情報の骨子を確認し、それから記事をご紹介しよう。

イランの家族システム

イランの家族システムは基本的には内婚制共同体家族なのだが、アラブ世界とは違いがあるという。

 同じイスラム圏でも、イラン・トルコとアラブ世界には大きな違いがあります。その違いは、家族構造の違いとしても現れています。

 トルコ西部は、かなり核家族的な地域です。それ以外の部分は内婚制共同体家族の地域ですが、それでも内婚率はそれほど高くありません。また、イラン中央部では世帯人数が少なく、核家族の痕跡が確認できます。イラン北部のカスピ海沿岸部には、女性の地位が相対的に高い地域があります。‥‥

 ですから、女性たちの被るヴェールという見た目ばかりに気を取られてはいけません、同じイスラム圏でも、シーア派のイランは、父権性がより弱く、女性の地位がより高く、より核家族的で、より個人主義的なのです。この点を西洋は見ようとしません。ここが見えていないから、サウジアラビアに同調し、イランに対抗するというような、人類学的にはまったく不自然なことになってしまうのです。

『問題は英国ではない、EUなのだ−21世紀の新・国家論』(文春新書 2016年)136-138頁

人口動態

イランが中東で「最も」自由主義的で近代的であるということは、実際上は「トルコより」自由主義的で近代的であるということを意味する。

2020年のデータではトルコの出生率は2.04人、イランは2.14人で、両者はあまり変わらない。というかトルコの方が低い(出生率と近代化の関係についてはこちらをご覧ください)。

しかし、トルコの出生率が人口の再生産ラインである2.1を初めて下回ったのが2016年であったのに対し、イランは2000年であった。

人口動態から見た近代化は、イランの方がかなり先行していたのである。 

『文明の接近』158頁

トッドによると、トルコにおける出生率の足踏みをもたらしたのは、トルコ国内の人類学的多様性である。イラン全土の人口動態が比較的同質的であるのに対し、トルコ国内にははっきりした分裂があって、別の国かというほど性格の異なる地域があるのだ。

トルコでは、クルディスタンの出生率は、2001年から2003年にかけて、未だに女性一人当り子供4.2に達していた。それに対して、イスタンブールとトルコ中央部という先進地域では、出生率は1.8なのである。これほど著しい人口学的・社会文化的亀裂を持った国を、一個の国民国家、「一にして不可分の」トルコ共和国、と言うことができるだろうか。

『文明の接近』165頁

政治的近代性

私たちが何となく持っているトルコ、イランのイメージは、トルコは非宗教化された近代民主主義国家だが、イランは宗教的で権威主義的な国だ、というものだろう。

しかしながら、出生率の全国的ならびに地方ごとの指標は、イランはより近代的で、より同質的で、より個人主義的であることを明瞭に示唆している。しかし実は、われわれがこれまで見ようとしなかった政治的な指標も、同じことを訴えていたのである。

『文明の接近』166-167頁

イランの方がより近代的であることを示す政治的指標とは何か、
というと‥

トルコの政体は、民族主義的傾向の軍事クーデタから生まれたものであり、いささかでも逸脱の兆しがあれば厳重に対処する用意のある軍の監視下に、いまでも生き続けている。トルコの非宗教性は、個々人の自由な選択という観念と同一視することはできない。イランでは政体は、フランス、イングランド、アメリカ合衆国と同様に、本物の革命から生まれたのであり、ここでは自律的な要因としての軍は存在しない。

トッドはまた、政治的意思決定の多元性にも言及している。

この国には軍が二つある。一つは正規軍、もう一つは革命から生まれた革命防衛隊である。この二重化が実際上は政治の自律性を保障している。選挙はたしかに絶対的に自由とは言いがたい。どんな者でも立候補することができるわけではないのだから。しかしイラン・イスラーム共和国では、いつでも投票が行なわれ、多数派の交替も頻繁に起こる。不完全な民主主義ではあろうが、将来大いに見込みのある民主主義なのだ。それというのも、この民主主義は、上から下された計画の表現ではなく、住民の総体の、異議申し立てを好み政治的多元主義を好む気質の表現だからである。

167頁

ふーん、そうですか。でも‥‥

「じゃあ、ヒジャブをめぐる最近の騒ぎは何なの?」
「女性を抑圧する権威主義体制なんでしょ?」

と言いたくなりますよね?

紹介記事要旨

そこでお読みいただきたいのが下の記事である。箇条書きで要旨を付けておく。私としては「まあ、そうだろうな」と思えることばかりで、ニュースを見る度に感じていたモヤモヤが払拭された。

  • イランでは数年前から「ヒジャブなし」が普通になっていた。
  • ヒジャブを義務付ける法律は存在するが、執行は厳格ではなかった。
  • 「ヒジャブなし」が問題になるのはエルシャド(指導巡回(日本では道徳警察といわれる))がいた場合だけで、エルシャドの動員は治安が不安定な状況に限定されていた。
  • 抗議行動につながった国民の不満は、ヒジャブ法ではなく、エルシャドによる指導の行き過ぎに対するものだった。
  • イランの政治的意思決定は多元的で、ヒジャブに対する態度も一枚岩ではない。
  • 最高権力者ハメネイやイラン革命防衛隊などの国家革命機関はヒジャブ問題が外国勢力に利用されていることを懸念し、聖職者に妥協を求めている。
  • ヒジャブ法は残しつつ法執行の緩和(死文化)で対応することが見込まれるが、ヒジャブ問題を利用した国家弱体化の試みは容赦なく処罰されるだろう。

イラン:To veil or not to veil
(ベールを付けるべきか、取るべきか)
Sharmine Narwani 2022.12.09

11月の2週間の訪問中、あらゆる年代の女性たちはヒジャブを付けずに自由に街を歩いていた。私たちが知らないだけで、彼らは何年もずっとそうしていたのである。

https://thecradle.co/Article/Columns/19259

9月に始まったイランでの爆発的な抗議行動は、イスラム共和国の「ヒジャブ法」を特に対象としたものではなく、いわゆる道徳警察ーガシュト・エルシャド(単にエルシャド、あるいは「指導巡回」とも)が、不品行な服装とみなされた一般のイラン人女性に対して行った虐待と行き過ぎについてのものだった。

国民の不満の引き金となったのは、広く報道されたMahsa Aminiの死(Ershadに逮捕され拘留中に死亡した)であった。

イラン警察当局が公開したビデオ映像にはアミニが自然に倒れる様子が写っていたおり、公式の検死結果の通り「殴打」によるものというより個人的な健康歴によるもののように見えた。しかし、イランの人々は、一連の不当な取扱のストレスが引き金となったと主張した。

抗議デモは暴動に発展し、民間人と治安部隊の両方から死者が出た。双方が銃で撃ち合ったのか、外部の扇動者が関与したのかは、この論考のテーマではない。

この論考が扱うのは、こうした出来事がイランをどこに向かわせるのか、ヒジャブに対する国民の感情にイランの統治機関がどのように対応するのかという問いである。

非常に分散的なイランの意思決定

イランは、西側の主流メディアでよく描かれるような「漫画のような独裁国家」では決してない。最高指導者アリー・ハメネイ師が戦略的な事柄に関する最終的な権限を持っているが、彼が国内の批判を受けるような形でその特権を行使することはめったにない。

ハメネイは西側諸国とのイラン核協議に反対していたが、当時のハサン・ロウハニ政権が経済関係を正常化しイランの(当時の)孤立を解消したいという願いから協議に関する交渉を進めることを全面的に認めていた。

イランにおいてハメネイほど激しく、西側諸国は決して絶対に信用してはならない、イランの最大の力は経済的な自給自足と西側諸国が支配するグローバルネットワークからの完全な独立性にあると公言して憚らない人物はいないであろう。それにもかかわらず、ハメネイは、ロウハニ政権が彼の深い信念に反する政策を追及するのを平然と見過ごしたのである。

最高指導者のこうした行動は、今日のイランの意思決定プロセスが非常に拡散的であるという現実を物語っている。この国に単一の権威は存在しない。意思決定は協働的に、あるいはイランメディアや議会で繰り広げられる熱を帯びたそしてしばしば非常にオープンな論争によって、そうでなければ密室で行われる。

今日のイランには主要な権力中枢が三つある。第一は、最高指導者と陸軍、警察、イスラム革命防衛隊(IRGC)、数百万人の強力なボランティア部隊であるバシジ隊などの国家革命機関各種。

第二は、イラン政府と選挙で選ばれた大統領、その内閣、国の省庁、議会から成る国家機関。

第三は、ゴム(Qom)にあるホウゼ(神学校)。イランの宗教の中枢で、イスラム共和国の宗教解釈、行動、振る舞いに影響を与える数千人のシーア派の学者、権威、インフルエンサーから影構成されている。

3つの権力中枢はどれも様々な形で国の政策に影響を与えるが、それぞれの影響力も時によって浮き沈みがある。各中枢の中には支持者、諸機関、メディア、経済的利害、影響力のある人物の広大なネットワークが広がっており、他の民主主義社会と同様に、自分たちの意見が反映され実行に移されるよう競い合っている。

したがって、ヒジャブのような複雑で象徴性の高い案件について一人の人間や意思決定機関が何らかの指令を発することができると一瞬でも想像するなら、それはイスラム共和国の政治体制の複雑さ、諸矛盾、多様性について全く無知であるということを意味する。

現地の様子

11月下旬の2週間にわたるテヘラン訪問の際、私はコロナによる渡航制限のせいで2020年にストップする以前の多くの訪問の時と大きな違いがあることに気づいた。

2020年にイランの首都を訪れたときには、レストランでヒジャブをかぶらずに座っているイラン人女性を時折見かけることがあるという程度だったのが、今回、女性たちは街なか、ショッピングモール、空港、伝統的なバザール、大学、公園など、山の手も下町も関係なくあらゆる場所で、伝統的なヘッド・カバーを付けずに歩いていたのである。

下に掲載するのは、私が市内のさまざまな場所で撮影した写真である。

イランのヒジャブをめぐる議論でもっとも重要なのは、この「ヘッドカバーなし」のトレンドが9月の抗議行動とともに始まったわけではないということである。この決定的な事情は、西側メディアではまったく触れられていない。

イラン人女性の多くが、すでにヘッドスカーフを脱いでおり、何年も前から上の写真のような光景が普通になっていた。パンデミックのせいで社会的規範が緩和されたのだろうか?誰に聞いてもはっきりした答えは返ってこない。「ただこれが普通になっただけ」と口々に言うだけだ。

今日のイランでは、年齢を問わず、ヒジャブなしの女性、ヘッドスカーフをした女性、より伝統的な床まである長いチャードルを身につけた女性が同じ通りを一緒に歩いている。みな自分の好きなように、他人のことは気にせずに。

非常に興味深い展開といえる。なぜなら、イランではヒジャブの着用は法律で義務付けられているからだ。しかしエルシャドがひょっこり姿を現さない限り、誰もこの法律を強引に執行しようとすることはないのである。

これは重要な点である。なぜなら、エルシャドはいつでもどこにでもいるというわけではないからだ。エルシャドは2006年から業務を開始したが、イラン当局は彼らを特定の時期にしか動員していないように見える。ゴムが倫理的な案件をめぐって落ち着かない状態になっているときや、保守派が改革派と争っているとき、国境で地政学的な緊張が起きているときなどである。

ともかく、エルシャドはイランの街角にいつも存在するわけではなく、普通は国内のどこかで政治的に何かが起きているときにのみ登場するのである。

当局者はヒジャブ問題を議論している

それにも関わらず、3カ月に及ぶ抗議行動とその後の暴動を経て、ヒジャブをめぐる議論はイスラム共和国で影響力を争う3つの権力中枢の間で山場を迎えているようだ。

私の個人的な経験では、イスラム革命防衛隊のようなイランの治安部門(ハメネイの下で活動している)はヒジャブの問題そのものについて戦闘的な姿勢を示すことは決してない。彼らは外国からの侵入、破壊工作、反テロ作戦、戦争に集中しており、日常生活や人々の立居ふるまいには関心を持っていない。

ヒジャブはイスラム共和国の「シンボル」である。そしてシンボルは、西アジアなどで戦われた無数のハイブリッド戦争を見れば明らかなように、外部の扇動者たちが最初に狙う安直なターゲットである。

抗議の象徴として国旗の色を変えたり、国家に代わる短い歌を作ったり、女性たちにヘッドスカーフを脱いでビデオに撮るよう勧めたり。いずれにせよ、これらはハイブリッド戦争の手っ取り早い手段なのである。

2018年1月、治安当局者や「保守派(principalist)」などの限定的な読者を対象とした出版物のインタビューで、シリアとイランにおけるこうした手段の使用について質問を受け、私は以下のように答えた。

象徴的なスローガン、横断幕、プラカードは、西側スタイルの「カラー革命」の定番です。イランでは2009年の選挙期間中に行われた「グリーン」運動のときに、こうしたツールが威力を発揮していました。運動のメッセージや目標を幅広い聴衆に対して一瞬で伝えることができる視覚的ツールの使用は、マーケティングの基本といえます。これまでも選挙のときには用いられていましたが、今では地政学レベルの情報戦においても効果的に活用されるようになっています。

シリアで植民地時代の緑色の旗が使われたのは、より多くのシリア人を即座に「反対派」チームに引き込む手段でした。基本的に、政府に対して不満を持っている人なら誰でも、その不満が政治、経済、社会、宗教のどれに関わるものであろうと、この新しい旗を掲げた抗議運動に参加したいという気持ちにさせられました。シリアの活動家たちは金曜の抗議行動に名前を付けることで、大衆の動員に成功しました。彼らは言葉の力を使って抗議の方向性を作り上げ、徐々にイスラム化の方向に進めていったのです。

スローガンや看板は、国民の中の強い主義主張のない層の関心を引いて反政府的な立場に立たせるプロパガンダの簡単なトリックです。人々の自己同一化を可能にするツールは政権転覆作戦の不可欠な構成要素となっています。新たなシンボルを作るために、既存の国家的シンボルを否定する必要があるというわけです。

イランではヒジャブを付けない若い女性の画像が抗議のシンボルとして瞬く間にSNS上に広がりました。皮肉なことですが、ヒジャブは1979年のイスラム革命にとってのシンボル、その政治的・宗教的な意味を一瞬で示すことができる看板でもあります。そのため、外国が支援するプロパガンダ攻撃においては、ヒジャブはほとんど常に、否定とあざけりの対象となるのです。

このインタビューはヒジャブをしていない私の写真とともに掲載された。数週間後、私は、イスラム革命防衛隊のクドス部隊と密接な関係にあるとされるイランのトップアナリストからメールを受け取った。彼はインタビューのスクリーンショットを送ってきて、これは私が書いたものかと尋ね、驚いたことに、私の見解に全面的に賛成だと述べた。

なお、これ以外にも、イスラム革命防衛隊が関係する出版物「Javan」から、雑誌の特集号にシリアに関する私の記事の翻訳とインタビューを載せたいと依頼を受けたことがあるが、このときも、彼らはヒジャブなしの私の写真を掲載した。

ヒジャブと国家

一言でいえば、イランの治安部門にとってヒジャブは優先事項ではない。彼らはほかにもっと重要な懸案を抱えている。しかし、ゴムの内外の神学者にとってはヒジャブは枢要なテーマである。

そして、おそらく、ヒジャブをつけることを選び、それによって迫害されることー1936年、当時の君主レザー・シャー・パーレビがイスラム教の伝統的な頭巾を禁止したときの彼女たちの祖母のようにーを望まない何百万のイラン人女性にとっても、同様に重要である。

ヒジャブが禁止されたことで、多くの女性が何年も家に閉じこもり、あるいは夜間や馬車に身を隠してしか外出しなかった。警察を避けるためである。警察は必要であれば力づくでベールを剥ぎ取った。当時は年配のキリスト教徒やユダヤ教徒の女性たちにとっても、ヘッドスカーフの禁止に従うのは難しかったのだ

マリアム・シネーは書いている。皮肉なことに、これを出版した(サウジ政府が関係する)会社(Iran International)は、最近ではイランの反政府主義者のプロパガンダを24時間365日実施している。

これらの問題はともかく、イランの治安部門の指導者たちは、今日、聖職者たちにかつてないほど強い異議を申し立てている。
「私たちが敬意を抱くヒジャブが、国家安全保障の領域に入りつつある。外国に支援された政権転覆計画がヒジャブをその武器として利用しているのだ。」
これは、近時の状況に鑑みても、聖職者が賛成できる立場ではない。

イラン当局が脅威を取り除くために、エルシャドの停止や解散、その代替としてのイスラムの節度に関する(男女を問わない)全国的な教育プログラムの導入を含む様々な選択肢を検討しているとされるのは、おそらくこうした懸念のためであろう。

前イラン大統領マフムード・アフマディネジャド政権の下で設立されたエルシャドは、何週間も前から街頭から姿を消している。イランの3つの権力中枢は、国民の間に残る緊張を鎮め社会的不満に対処する方法を熱心に議論している。

興味深いことに、この展開はペルシャ湾を挟んだ宿敵サウジアラビアの状況とどこか似ている。サウジでは2016年の勅令で「ムタワ」(サウジの宗教警察)のかつては無制限であった権限と特権が剥奪された。それ以来、サウジの成文法に変化はないにもかかわらず、女性が公の場でベールを脱ぎ、伝統的な黒いアバヤを纏わず通常の衣服でいるのを見ることはいっそう普通になった。

ゴムや他の機関がヒジャブ法の廃止に同意することはないだろう。元々、論争の原因は一部の者による過剰な法執行にあったのだ。イランのヒジャブ法は、どの国の法典にもある多くの死文化した法律と同じような運命をたどることになるのかもしれない。

しかし、ヒジャブに関する態度の緩和が期待されるとしても、それは、敬虔さの象徴であるヒジャブを利用して国家を弱体化させる試みに対する容赦のない取り締まりを伴うものとなるだろう。