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世界を学ぶ

イエメンのなりたちと宗教
(付/シーア派とは何か)

先日までの私と同じく「イエメンについての知識はゼロだが言われてみると興味はある」という方に向けて、イエメンを知るために「多分、この辺が重要じゃないか?」と思うところを見繕ってお送りします。

1 イエメンの場所:人類史のど真ん中

まずは地図でイエメンの場所を確認していただきたい(↑)。「世界の果て」という感じがしてしまうのは単なる無知で(私です)、ここは人類史のど真ん中である。

紅海の入り口のところの海峡(バブ・エル・マンデブ海峡という)の現在の幅は約30km。ドーバー海峡と変わらないので人によっては泳げる距離だが、この海峡の幅は、現生人類がアフリカを出たとされる約70000年前には約11kmであったという。そして、イエメンからオマーンにかけての海岸沿いには約70000年前頃から人類が住んでいた痕跡がある(いずれもwiki。出典は不明)。

そういうわけで、有力な仮説は、アフリカを出た人類が最初に到達した土地はイエメンであるとする(↓)。当時湿潤な気候であったアラビア半島は約24000年前に乾燥化が始まり、約15000年前に砂漠となったとされるが、この地域にはつねに人間が住み続けたと考えてよいだろう。

現生人類の母系のミトコンドリアDNAハプログループ(wiki

*7万年前という時期の重要性についてはこちらをご覧ださい。https://www.emmanueltoddstudy.com/before-civilization2/

2 イエメンの中核は北部 

歴史を通じて豊かに栄えたのは北部。現在の首都サナアを含む一帯だ。

サナアは世界最古の都市の一つとされており、おそらくラクダによる隊商貿易が始まった頃から貿易の拠点だった。アラビア半島で史料に残る最古の国家とされるサバア王国(紀元前800-紀元後275)が興ったのもこのエリアである(首都はMarib)。

230年頃の勢力図(wiki)

サナアを含む北西部は、標高の高い高原地帯で、アラビア半島で最も気候に恵まれた地方だという(吉田雄介・日本大百科全書ニッポニカ)。「夏は涼しく、年降水量は400-1000ミリメートルに達し、森林が多く農業に適する」のだ。

古代ギリシャ・ローマの人々はイエメンを「幸福のアラビア(Arabia Felix)」と呼んだ。豊かな香料のためだといわれるが、その源は豊かで住みやすいこの土地にある。

歴史の長いこの地域では、港湾都市アデンも栄えたし、今では廃れてしまったモカ(コーヒーの積地)も有名だ。しかし、今も昔も、イエメンという国家の核を形成しているのは北部である。

北部・北西部・山岳地帯・高原地帯・・ ところで、イエメンに関する文章を読んでいると(書き手によって)「北西部」「北部」「山岳地帯」「高地」「高原地帯」などの様々な語が出てくる。おそらく、すべてはこの地域一帯を指していると思われる。下の地図を見てもらうとわかるが、北部の中央から東はすべて砂漠(ルブアルハリ砂漠)なので、「北部」と「北西部」は事実上イコールだし、山でもあり高原でもある標高2300m(サナア)の土地を山岳地帯というか高原地帯というかは難しい問題である。私もいちいち迷うので、以下、この文章では「北部」と「高地」で(なるべく)統一する。 

3 イエメンのイスラム教

(1)イスラム化第一世代

イエメンは、イスラム圏としての歴史も非常に古い。ムハンマドがメッカ郊外の洞窟で大天使ガブリエルの啓示を受けたとされるのは610年、イスラム共同体(ウンマ)を結成し、アラビア半島内で勢力を拡大していくのはメディナへの移住(ヒジュラ・622年)以降であるが、イエメンは、この622年からムハンマドが亡くなる632年までの間にイスラム化された地域に含まれている。

このカーキ色の部分が632年までにイスラム化された地域(ビジュアルマップ大図鑑世界史(東京書籍))

「イエメン」という地域の呼称も、メッカ、メディナへの巡礼と関わりがあるようだ(ムハンマドは625年にイスラム教徒は一生に一度メッカに巡礼する義務がある旨の啓示を受けている)。

イエメンはアラビア語「yamin(右側)」に由来するとされている。私が読んだ文献は、メッカ・メディナに対して「右」と解釈していたが(何から見て「右」かについて、もっともらしい説明として「太陽が昇る方向に向かって右」というのがある)、巡礼のルートにはオマーンからアラビア海沿岸を通ってイエメンに入るルートもあったらしいので、その海路から見てイエメンが「右」という解釈もありそうに思える。

(2)イエメンの核、ザイド派

以来、イエメンは一貫してイスラム圏である。主流に当たるスンナ派が人数では多いが、重要なのはザイド派の存在だ(人口の三分の一程度といわれる)。

ザイド派の地盤は首都サナアを含む北部の高地一帯。先ほど、この地域がイエメンの中核であると書いたが、それは主としてザイド派の存在によるものといえる。いわゆるフーシ派(正式名称はアンサール・アッラー)もザイド派の組織である。

この地域は、長らく、ザイド派のイマームを王とする王国を営んでいた。この「長らく」は半端ではなく、建国が859年、滅亡は1968年である。この間、オスマン帝国など他国の支配下に置かれることはあったが(次回)、ザイド派の人々が従属的な地位を甘んじてを受け入れることは決してなく、彼らはつねに反乱を企て、抵抗を続けて、1918年にはいち早くイエメン王国として独立を成し遂げた。

歴史的に、諸外国に対する抵抗の核であり、イエメンとしての強い誇りとアイデンティティを持ち続けているのが、この北部ザイド派地域なのである。

(3)ザイド派とは何か

①ザイド派はイランのシーア派の子分ではない

ではそのザイド派とは一体何か。

ザイド派は「シーア派の分派」とされることが多い。誤りとはいえないが、非常に誤解を招きやすい表現だ。

一般人の常識では、シーア派はイランの国教として認識されているため、「シーア派の分派」というと、イランのシーア派の子分のように聞こえてしまう。しかし、事実はそうではない。

イランの国教であるシーア派は、シーア派の中の12イマーム派である。12イマーム派の枠組が成立したのは10世紀中頃とされる。しかし、ザイド派はそれよりも早く、8-9世紀頃には成立しているのである。

したがって、当然のことながら、ザイド派は12イマーム派が作り上げた様々な教義を共有していない。実際、ザイド派は、教義の点ではスンナ派に近いと言われている。

②なぜ「シーア派」か

そもそも、ザイド派はなぜ「シーア派の分派」とされているのか。

一般に、シーア派は、「ムハンマドの後継者たるイスラム共同体指導者はアリー(第4代カリフ・ムハンマドのイトコかつ娘婿)の子孫でなければならない」とする立場をとる宗派と定義されている。

イエメンのザイド派は、アリーの子孫であるザイドに忠誠を誓い、アリーの子孫からイマームを輩出するということに(少なくとも建前上は)なっているので、「シーア派」に分類されるのだ。

ところで、シーア派が「アリーの子孫」を奉じるのは、基本的には、アリーがムハンマドの血統だからである。それなら「ムハンマドの子孫」といった方がわかりやすいと思うのだが‥‥

しかし、調べてみると、シーア派が「アリーの子孫」という言い方にこだわることには理由があった。そして、そこにこそ、「シーア派とは何か」を理解する鍵が隠されていたのだ。

説明しよう。

③シーア派とは何か

◼️アリーとムアーウィアの後継者争い

アリーは、ムハンマドの死後その後継者として選出された初代カリフ(アブ=バクル)から数えて4代目のカリフである。下に記載した5人のカリフはみなムハンマドと同じクライシュ族の出身であるが、同じ家の出身はアリーだけである。

アリーは、ウスマーン(3代カリフ)が暗殺された後、次のカリフに選出されたが、アリーのカリフ就任に反対する勢力(ムハンマドの妻アーイシャやウマイヤ家のムアーウィア)もあり、内戦に発展した。

争いは最終的にアリーと自らもカリフを名乗ったムアーウィアの一騎打ちとなったが、勝負は決まらず、指名された裁定者がアリーとムアーウィアのどちらが「正しいカリフ」かを判定することになった。ところが、この判定方法自体に反対する一派が現れ(ハワーリジュ派)、彼らはアリーとムアーウィア双方の暗殺を試みた。その結果、アリーだけが死んでしまったのである。

生き残ったムアーウィアは単独のカリフとなり、人々もこれに従ったが、彼の死後、再び後継者争いが起こった。

ムアーウィアは生前に息子の一人ヤズィードを次期カリフに指名していたが、人々は必ずしもこれに納得していなかった。

そもそも、ムアーウィアが単独で第5代カリフに就任することになったのは、単に、アリーが暗殺に遭って死んでしまったからである。ムアーウィアは、アリーと戦って勝ったわけでもなければ、裁定者に「正しいカリフ」と認められたわけでもない。アリーに対してムアーウィアの血統を「正統」とする根拠は何もないのである。

したがって、もともとアリーを支持していた人々から見れば、ムアーウィアがカリフになったところまでは仕方がないとしても、以後のカリフをムアーウィアの子孫(ウマイヤ家)から出すのは筋が通らない。

そこで、アリー支持派を中心に、アリーの息子フセインをカリフに推挙する動きが巻き起こり、再び、内戦が必至の情勢となった。

◼️フセインとヤズィードの争い:カルバラーの悲劇(680年10月10日)

しかし、フセイン勝利の芽は、戦いが始まる前に摘み取られてしまう。フセインとその一族は、支持派の招きを受けてメディナからクーファに向かう途中のカルバラーの地で、ヤズィードが派遣した軍に包囲され、惨殺されてしまうのだ。

この事件が、今もシーア派の間で語り継がれる「カルバラーの悲劇」である。

地図はこちらのサイトからお借りしました。この前後の歴史についても大変詳しいです。

◼️ウマイヤ朝+スンニー派の確立

この事件の後、第6代カリフにはヤズィード、第7代にはその息子が就任。その後もいろいろとあったものの、しばらくはムアーウィアに始まるウマイヤ朝の時代が続く(661-750)。

そしてウマイヤ朝においては(シーア派との対立を経て)正統イスラム教としてのスンナ派が成立し、以後、中心的なイスラム王朝の奉じる立場して確立していく。

しかし、ヤズィード、ウマイヤ朝、そして歴代スンナ派王朝は、カルバラーの悲劇のために、由緒正しいムハンマドの一族を殺害することでカリフの地位を簒奪した者という、消すことのできない汚名を着ることになったのだ。

◼️「抵抗」の象徴としての「アリーの子孫」

そういうわけで、以後、ウマイヤ朝や歴代スンナ派王朝に反発し、ときに反旗を翻すムスリムは、こぞって「アリーの子孫」を奉じることになった。

「アリーの子孫」ということによって、ムハンマドの血統であることを主張し、同時に、アリーの子フセインが虐殺された悲劇の記憶を喚起し、主流派の不正性をアピールすることができるからだ。

「シーア」とは「党派」の意味であり、アリーとムアーウィアが争っていた時代にできた「シーア・アリー」(アリー派)の語が省略されて定着した言葉だという。したがって、主流に対して反発し、「アリーの子孫」を奉じる人々は、定義上、みな「シーア」(シーア派)に分類されることになる。

しかし、「アリーの子孫」という観念の共有は、彼らが何か共通の思想信条を持っていることを意味しない。シーア派が共有しているのは、おそらく、本流や主流に対する「抵抗」の立ち位置のみなのである。

(4)イエメン北部はなぜザイド派の地となったのか

イエメンは、由緒正しい第一世代のイスラム圏であり、メッカやメディナにも近い。そのイエメンがでは、なぜ「抵抗」のシーア派(ザイド派)の拠点となったのであろうか。

次のように考えることはできるだろう。

ザイド派の成立は8-9世紀。ウマイヤ朝からアッバース朝にかけての時期である(↓)。

ムハンマドの生前、宗教上の聖地はメッカであり、政治の中心はメディナにあった。イエメンの都市サナアは、メッカに近い主要都市として繁栄していたことだろう。

しかし、ムアーウィアがカリフとなると(ウマイヤ朝開始)、首都はダマスカスに移され、アッバース朝も、現在のイラクの領域(クーファやバグダード)に首都を置いた。政治の中心が北に移動することで、イスラム世界の重心がイエメンから遠ざかっていったのだ。

イスラム第一世代のイエメンの人々が、ときのイスラム王朝のやり方に不満を抱いたとき、彼らの運動はごく自然に「アリーの子孫」を奉じるという形を取ったはずである。

ちょうどそのとき、そこにザイド・ブン・アリーがいた。あるいは、その記憶があったのだ。

ザイド派は、イスラム世界で数限りなく起こったであろう反主流派運動の最初期のものの一つである。その多くが時と共に消滅したのに対し、イエメンのザイド派は1000年以上の時を生き抜いた。

そして、このザイド派が担う誇り高い抵抗のメンタリティが、イエメンの近・現代史において大きな役割を果たしていくことになるのである。

今日のまとめ

  • イエメンの歴史は古い。
  • イエメン国家の中核は北部のザイド派地域であり、フーシ派(アンサール・アッラー)拠点もここである。
  • イエメンは預言者ムハンマドの時代にイスラム圏となったイスラム化第一世代である。
  • シーア派の共通項は「反主流」「抵抗」の立ち位置であり、必ずしも思想信条を共有するわけではない。
  • ザイド派はシーア派の分派とされるが、イランのシーア派とは無関係である。